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第六章『黒の衝撃/ライトニング・ブレイズ』

Int.63:見えざる手、蒼の謀略

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「――――その件なら空軍の方に回せ! 私でどうこうできる問題ではない……。それと、予備の特科も駆り出しておけ! ああそうだ、今すぐにだ!」
 国防陸軍・伊丹駐屯地。中部方面軍の司令部が置かれている駐屯地の一つであるここの庁舎廊下を歩きながら、倉本陸軍少将は傍らの部下に怒鳴りつけ。指示を受け駆け足で去って行くその部下をチラリと横目に見ながら、チッと露骨に舌を打った。
 「全く……」と忌々しげに毒づきながら、倉本は自分の執務室の扉を雑に開ける。木造で観音開きな扉を開いて中に踏み入れば、人の気配なんて無いはずのその部屋の中、しかし一歩踏み入った途端に「やあ」というクールな男の声が倉本の真横から飛んでくる。
「っ!?」
 突然呼びかけられたことに戸惑い、驚き。倉本はその横に広がった巨体で咄嗟にその場から飛び退いた。
「……貴方でしたか、マスター・エイジ」
 が、そこに立っていた男を見知った人物と認めるなり、顔をしかめながらで倉本は警戒を解いた。そんな倉本の右手が、右腰に吊ったフラップ付きの革製ホルスターに伸びている辺り、倉本とて腐っても国防軍の軍人らしい。
「驚かせないで頂きたい。心臓に悪すぎる……」
「あはは、驚かせたなら詫びるよ。鍵が開いていたから、暇だし此処で貴方を待たせて貰っていた」
 呆れ顔の倉本の視る視界の中、扉近くの壁に寄りかかるようにして執務室に立っていた男――マスター・エイジはそのクールな顔立ちの中で珍しく微笑を浮かべると、倉本に扉を閉じるよう視線だけで訴えかける。
 倉本は観音開きの扉を閉め、執務室を閉め切った。そこそこの防音効果があるこの執務室の中ならば、よからぬことを話しても外に聞こえづらい。
「マスター・エイジ、珈琲でも如何ですかな?」
「遠慮しておくよ、そう長い話にはならない」
 言いながら、マスター・エイジは肘辺りまで袖を折った藍色のロングコートの裾を翻しつつ、倉本の執務机の目の前にある応接用のソファに勝手知ったる顔で腰掛けた。黒い革張りのソファがふわっと沈み込み、長身痩躯な彼の身体を柔に受け止める。
「しかし、貴方が此処までいらっしゃるなど、珍しいこともあったものですな」
 倉本もまたマスター・エイジの対面へと腰掛け、背の低いテーブルを挟んで向かい合わせになる。吸いかけの葉巻に火を付けながら、マスター・エイジがどうやって此処まで入ってきたかを一瞬だけ勘ぐったが、やめた。この謎の多すぎる男のことを下手に考えても、徒労に終わるだけだ。
「少し、直接貴方に聞いておきたいコトがありましてね。丁度近くに用もありましたし、折角と思ったというワケですよ」
 ニコニコと柔らかな――しかしその奥に不気味な色をも滲ませた微笑みを見せながら、マスター・エイジもまた羽織るロングコートのポケットより自前の煙草を取り出した。マールボロ・ライト銘柄の煙草をひょいと口に咥え、古びたいぶし銀のジッポーをカチンと鳴らし火を付ける。燻らせる煙草の、チリチリと焦げる先端から流れる白く濁った副流煙が、マスター・エイジの長い深蒼の前髪を微かに揺らす。
「…………瀬那の件、結局のところはどうするので?」
 紫煙を深々と肺に吸い込み、ふぅ、と一息ついた頃。一旦口から離した煙草の灰をテーブルの灰皿にトントン、と落としながら、マスター・エイジは早くも本題へと踏み込んだ。
「それどころではない」と、倉本は苦々しい顔で返す。
「と、いうと?」
「今の戦況があまりに芳しくないこと、貴方とてご存じの筈だ」
 それにマスター・エイジは「ええ」と頷き返し、煙草を咥え直す。
 ――――倉本の言うことは、紛れもない事実だった。
 現在、瀬戸内海絶対防衛線を中心とした対幻魔戦の戦況は決して優勢とは言えない状況だった。史上類を見ない規模の幻魔の攻勢が四国より押し寄せ、絶対防衛線も既に幾度となく喰い破られている。京都士官学校のA-311訓練小隊を初めとした後方戦力の投入で何とか持ちこたえてはいるが、しかしそれにも限界が来ているのが現状だ。
「在日米軍、それに国連軍の支援もどれだけアテになるか分かったものではない。今のところは大半を水際で食い止められているから良いものの、このままではいつ本格的に本州が攻められるか……」
「それどころではない、ということですか」
「そういうことだ」葉巻の灰を落としながら、マスター・エイジの言葉に倉本が頷く。「それに、別の問題もある」
「別の問題……」
「京都士官学校に202特機の一部が合流したと、そう報告を受けている。
 …………死神部隊、≪ライトニング・ブレイズ≫だ。実際に刃を交えた貴方なら、ご存じの筈ですが」
 倉本の言葉で、マスター・エイジはあの夜のことを思い出していた。突如として現れ、そして己と剣を交えたあの謎の黒い≪飛焔≫のことを……。
「あの娘の始末も大事なことです。……ですが、正直に言って今は構っていられないのです。目の前のことに比べれば、綾崎の娘のことなど、あまりに些事としか言いようがない」
「尤もですよ、倉本少将。貴方の仰ることは間違いじゃない」
 顔を苦々しい色に染める倉本の言葉に、マスター・エイジがニコッとした笑顔で返す。
 しかし、その笑顔はあくまで表面上だけのものだった。笑顔を浮かべながら、マスター・エイジはその腹の内でこうも思っている。「寧ろ、これは好都合」だと……。
(倉本少将。貴方の判断は正しい。無能の貴方は、今は目の前のことにだけ構っていて頂ければ構わない)
 短くなった煙草を吹かしながら、マスター・エイジは胸の奥でひとりごちる。瞳の前に掛けたフレームレスの眼鏡越しに、苦い顔で葉巻を吹かす倉本を眺めながら。
(本格的に根回しを進めることにしましょう。貴方が手を下さないのであれば、瀬那の件は私のプランで進めさせて頂きますから)
 全ては、大いなる脱出エグゾダスの為に――――。
(その為の手駒として、瀬那……君が必要だからね)
 マスター・エイジは笑う。深蒼の髪を揺らすクールな顔立ちの中に、清々しい笑顔を浮かべて。その笑顔の奥に、コールタールのような不気味さと、そしてふつふつと煮えたぎる己が野望を湛えながら…………。
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