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ep11『気付かないふりを見つめたら』
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章弥が待ち合わせの喫茶店に行くと、恋人の真紀江が力なく座って待っていた。
大丈夫かいと尋ねながら向かいに座ると、彼女は、ええ、と頷いて、それきり黙り込んでしまった。その姿は傷ついているようにも見えるし、何か考え込んでいるようにも見える。
「朝美さんは大丈夫だった?」
「ええ。あの後は何もなかったから」
先日、真紀江が友人の朝美と遊びに行くのを聞いていた章弥は、仕事終わりに彼女に連絡を取ってみた。もう帰るところで近くにいるということだったので、だったら自分が車で送ると申し出た。真紀江は遠慮したが朝美は賛成し、二人を乗せていくことになった。
先に朝美の家に行って彼女を下ろすと、そこには朝美の昔付き合っていた男が待ち伏せていた。口論になったがなんとか事は収まり、男は帰った。そのあと真紀江を家まで送るはずだったが、友人を心配した彼女はそのまま朝美の家に泊まった。
翌日の連絡で何もなかったことは聞いていたが、やはり心配だった。朝美のこと以上に気がかりだったのは、以前の恋人が家にやってきたという事実を目の当たりにした真紀江の方だ。
真紀江と付き合って半年を迎えようとしているが、まだ以前の恋人を忘れられないと言っていた彼女の心境は、今はどうなっているのだろう。
あれから三日経ち、呼び出してくれたのは嬉しいが、この様子からすると、彼女の中で何かしらの結論が出たのかもしれない。それが章弥にとって吉と出るか、凶と出るか。いずれにせよ、彼女を諦めるつもりはないけれど。
「この前のこと、なんだけど」
「ああ」
どちらかといえば饒舌な彼女が、今は訥々と語り出す。彼女の言葉を急かさないよう、章弥は穏やかな空気を作る。
「あのとき私……前の恋人が家まで来たってわかったとき、朝美は絶対もっと動揺すると思ってたの。一度は両想いになった相手だし、今はもう新しい恋人がいるとはいえ、何かしら思うところがあるだろうって」
彼女の言う通り、今はすっかり吹っ切れたと言っても、元恋人が現れれば何らかの感情は湧いてくるだろう。
「よりが戻るとか思ったわけじゃないの。でも、それでもこう、来てくれて嬉しいとか、逆に何を今更っていう怒りとか、そういう感情が出てくるだろうなって」
温かい紅茶を両手で包みながら、彼女はカップの中を覗き込んでいる。そこに映る自分を見つめているのか、何も見えていないのか。
「でも朝美の……彼を見た瞬間のあの反応……私びっくりしちゃって」
待ち伏せしていた男を見つけた瞬間の第一声は、章弥も聞いていた。それは衝撃というより、うんざりと倦んだように吐き出された声の「うわあ」だった。
「私にはあれが本当に、衝撃的で……」
そこで彼女は呆然とした様子で一旦口を閉ざした。彼はひとくち紅茶を飲むと、少し間をおいて口を開いた。
「僕は君ほど彼女と親しくないから、本心はよくわからないけど。朝美さんは君とは違う感覚の持ち主なんだろうね」
彼女にはきっと信じられなかったのだろう。自分は未だ別れた恋人のことで思い悩んでいるというのに、ああもあっさりとした態度を見て驚愕したのだろう。
「ええ。私も朝美の前向きなところが好きだし、尊敬もしてる。でもまさかあそこまできれいさっぱり興味を失っていたというのが、とてもショックで」
自分とは違う価値観と感情の動きに、彼女が受けた衝撃は相当のものだったらしい。
「朝美を見てたら私……私、何をやってるんだろうって」
「朝美さんと君は違うんだし、感じ方も違って当然だ。焦って無理に彼女のように感じる必要はないよ」
顔をあげてくれた彼女に笑いかけ、章弥は少しだけ前に身体を傾けた。
「僕は君にそんなこと望んではいないし、それに僕の方から君に待つと言ったんだ。君の心にまだ前の恋人の存在があっても、無理に忘れろなんて思わない」
彼女の心にまだ彼がいることを知った上で、それでも彼女と一緒にいたいと思った。その気持ちに嘘はない。
手を伸ばして指先に触れれば、彼女はティーカップから離した手を章弥に重ねた。それに安堵以上に高揚した彼は、指を絡めて更に触れ合う箇所を増やした。彼女の口許も緩んでいる。
「あのね、違うの」
「うん?」
伸ばした手を避けられていたら不安に感じただろう。しかし未だしっかりと繋がっている指先のおかげで、せっかく絡み合った視線を逸らされてもダメージはなかった。
「そうじゃなくて私、なんていうか……実はとっくに……」
何かを言いかけて止めた彼女は、ぱっと手をひっこめた。喪失感が彼の心に広がった。
「私、彼に対してすごく申し訳ないことを……。いや、申し訳ないって思う自分が、酷い人間だなって」
それきりまた黙ってしまったので、彼女を見つめたまま頭の中で思案する。話の途中なのでなんとも言えないが、話の流れがつかめない。凝視されて居心地悪そうに身じろいだ彼女が、再び口を開く。
「この前の朝美の反応を見たことで私、びっくりしたのと同時に、自分が許された気がしたの」
黙って続きを促した。
「私の中にはあんな態度を取ってもいいなんて考えがなかったから。目の前で見せられて、目が覚めた気がしたの」
気まずそうに話してくれるが、彼にはまだ全容が把握できない。表情からそれを読みとったらしく、彼女は一度深く息を吸い込んで呼吸を整える。そうして見据えてきた瞳には、ほのかな決意が見て取れた。
「私、もうとっくにあなたのことしか見えてなかった」
章弥は息をのんだ。彼女の言葉に嘘はない。真正面から見つめられ、そう信じるに他はなかった。まじまじと彼女の瞳を見返していると、羞恥の滲んだ表情は、ゆるゆると俯いていく。
その仕草のあまりの愛らしさに、聞いたばかりの告白に、そして自分から隠れるように逃れた瞳に、どうしようもない愛しさがこみ上げる。
もし彼が精神的に未熟であったなら、この場でおもいきり彼女を抱き締めていただろう。けれど分別のある大人である彼は、彼女が困るであろう行動は極力控えることにした。つまり、ひとまず脳内だけに止めておいて、次の機会に持ち越すのだ。けれど人には限度というものがある。
「よくわからないけど、とりあえず手を握ってもいいかな」
「えっ……は、はい」
彼女はそろりと引っ込めていた手をテーブルに置いた。その手に自らの手を重ねる。
「それで、どういうことか聞いても?」
「えっと」
頬を染めた彼女は、それてしまった話を戻した。
「私、恋人と別れてすぐにあなたと付き合い始めたことに罪悪感があったの。すぐに付き合えてしまう自分がひどい人間に思えから。だからそれを認めたくなくて、昔の恋人を忘れられないふりをしてた」
彼女は指を動かして、自分に重なる彼の指を撫でた。
「あなたは気持ちの整理がつくまで待ってくれると言ったけど、本当はもうあの人のことはどうでも良かったの。彼に振り回されることに疲れていて。でも自分から別れを言い出せなくて、告げられるのを待ってたんだと思う。そんな自分を認めたくなくて、傷ついた自分を演じてた」
章弥は口を挟まず、黙って耳を傾ける。
「あなたとはもう出会っていたし、付き合えるとは思っていなかったけど、あなたはどう見ても彼とは違う人で、こういう誠実な人もいるんだなって思ったら、なんでこんな人と付き合ってるんだろうって感じてて。それでも彼のことを見捨ててはいけないなんて正義のヒーローみたいな自分を気取ってた。そんな自分に酔ってたのかも」
自嘲するようなどこか痛々しい笑みは、清々しさも同時に携えていた。
「朝美の昔の恋人に対しての、あの『もう微塵も興味ない』っていう態度を見て、まさに自分を見ているような気分だった。必死で気付かないようにしてた気持ちを、あんなに素直に表せる彼女を見て気付かされたわ。私の前の恋人に対する感情は、冷たすぎる自分の罪悪感からのものでしかなかった。それを誤魔化す為だけに、私は彼のことを引きずってるふりをしてた。それに気づいたら私ってなんてひどいことしてたんだろうって。もちろん、あなたにも」
彼女の心境とその構造を理解して最初に思ったことは、言い知れぬ高揚感だった。
聞けば聞くほど、彼女の心にはすでに昔の男に対する愛情はなかった。その事実が安らぎと興奮を全身に漲らせる。彼女の心は既に自分のもの。それが何より彼にとって重要なことだった。
彼女は罪悪感に苛まれているというけれど、彼に言わせれば、そんなことで罪悪感を抱くこと自体、彼女の心根が優しい証拠。ひどい人間だなどとんでもない。彼女ほど彼に天国を味わわせてくれる天使などいないのだから。
彼女の憂いは自分がいくらでも晴らしてやれる。自分が傍にいればいくらでも忘れさせてやれる。そもそも真面目過ぎる彼女のそんな感情は、もう彼女には必要ないものだ。
本当は今すぐ彼女を抱き締めたい。この場で唇を奪って腕の中に閉じ込めて、その笑顔も声も自分だけのものにしてしまいたい。けれどそれを打ち明けるのはもう少し先にしよう。でなければきっと彼女は怯えてしまう。怯えたところで逃がすつもりはないけれど。彼女には幸せに笑っていて欲しい。彼女を傷つけたくはない。
彼女と同じように自身の獰猛な部分を隠し、優しい男を演じている章弥は、その狂気とも言える愛情を悟られないように微笑んだ。
「君は少し真面目過ぎると思うよ」
彼女の手を握り、そっと親指で撫でれば、彼女はくすぐったそうに笑った。
「正直でいいんだよ。誰だって相性の悪い人間はいるし、君が気に病むことじゃない。君の心にもう別の男がいるのなら、過去の相手が消えるのは自然なことだ。そこに罪悪感なんて必要ない」
優しい声音でゆっくりと諭すように励ませば、彼女の表情から苦痛の色が抜けていく。心の中の重たいしこりが消えていくのが、顔によく表れていた。
これで彼女はもう自分のもの。前の男を忘れるのを待つと言ったことに嘘はなかったが、こんなに独占欲を満たす歓喜が溢れてくるとは思わなかった。気付かないふりを止めた彼女のように、彼もまた己の感情には正直にならねばなるまい。
晴れやかな表情の彼女を前に、章弥は今後の積極性をどう実行に移そうかと頭を巡らせていた。
大丈夫かいと尋ねながら向かいに座ると、彼女は、ええ、と頷いて、それきり黙り込んでしまった。その姿は傷ついているようにも見えるし、何か考え込んでいるようにも見える。
「朝美さんは大丈夫だった?」
「ええ。あの後は何もなかったから」
先日、真紀江が友人の朝美と遊びに行くのを聞いていた章弥は、仕事終わりに彼女に連絡を取ってみた。もう帰るところで近くにいるということだったので、だったら自分が車で送ると申し出た。真紀江は遠慮したが朝美は賛成し、二人を乗せていくことになった。
先に朝美の家に行って彼女を下ろすと、そこには朝美の昔付き合っていた男が待ち伏せていた。口論になったがなんとか事は収まり、男は帰った。そのあと真紀江を家まで送るはずだったが、友人を心配した彼女はそのまま朝美の家に泊まった。
翌日の連絡で何もなかったことは聞いていたが、やはり心配だった。朝美のこと以上に気がかりだったのは、以前の恋人が家にやってきたという事実を目の当たりにした真紀江の方だ。
真紀江と付き合って半年を迎えようとしているが、まだ以前の恋人を忘れられないと言っていた彼女の心境は、今はどうなっているのだろう。
あれから三日経ち、呼び出してくれたのは嬉しいが、この様子からすると、彼女の中で何かしらの結論が出たのかもしれない。それが章弥にとって吉と出るか、凶と出るか。いずれにせよ、彼女を諦めるつもりはないけれど。
「この前のこと、なんだけど」
「ああ」
どちらかといえば饒舌な彼女が、今は訥々と語り出す。彼女の言葉を急かさないよう、章弥は穏やかな空気を作る。
「あのとき私……前の恋人が家まで来たってわかったとき、朝美は絶対もっと動揺すると思ってたの。一度は両想いになった相手だし、今はもう新しい恋人がいるとはいえ、何かしら思うところがあるだろうって」
彼女の言う通り、今はすっかり吹っ切れたと言っても、元恋人が現れれば何らかの感情は湧いてくるだろう。
「よりが戻るとか思ったわけじゃないの。でも、それでもこう、来てくれて嬉しいとか、逆に何を今更っていう怒りとか、そういう感情が出てくるだろうなって」
温かい紅茶を両手で包みながら、彼女はカップの中を覗き込んでいる。そこに映る自分を見つめているのか、何も見えていないのか。
「でも朝美の……彼を見た瞬間のあの反応……私びっくりしちゃって」
待ち伏せしていた男を見つけた瞬間の第一声は、章弥も聞いていた。それは衝撃というより、うんざりと倦んだように吐き出された声の「うわあ」だった。
「私にはあれが本当に、衝撃的で……」
そこで彼女は呆然とした様子で一旦口を閉ざした。彼はひとくち紅茶を飲むと、少し間をおいて口を開いた。
「僕は君ほど彼女と親しくないから、本心はよくわからないけど。朝美さんは君とは違う感覚の持ち主なんだろうね」
彼女にはきっと信じられなかったのだろう。自分は未だ別れた恋人のことで思い悩んでいるというのに、ああもあっさりとした態度を見て驚愕したのだろう。
「ええ。私も朝美の前向きなところが好きだし、尊敬もしてる。でもまさかあそこまできれいさっぱり興味を失っていたというのが、とてもショックで」
自分とは違う価値観と感情の動きに、彼女が受けた衝撃は相当のものだったらしい。
「朝美を見てたら私……私、何をやってるんだろうって」
「朝美さんと君は違うんだし、感じ方も違って当然だ。焦って無理に彼女のように感じる必要はないよ」
顔をあげてくれた彼女に笑いかけ、章弥は少しだけ前に身体を傾けた。
「僕は君にそんなこと望んではいないし、それに僕の方から君に待つと言ったんだ。君の心にまだ前の恋人の存在があっても、無理に忘れろなんて思わない」
彼女の心にまだ彼がいることを知った上で、それでも彼女と一緒にいたいと思った。その気持ちに嘘はない。
手を伸ばして指先に触れれば、彼女はティーカップから離した手を章弥に重ねた。それに安堵以上に高揚した彼は、指を絡めて更に触れ合う箇所を増やした。彼女の口許も緩んでいる。
「あのね、違うの」
「うん?」
伸ばした手を避けられていたら不安に感じただろう。しかし未だしっかりと繋がっている指先のおかげで、せっかく絡み合った視線を逸らされてもダメージはなかった。
「そうじゃなくて私、なんていうか……実はとっくに……」
何かを言いかけて止めた彼女は、ぱっと手をひっこめた。喪失感が彼の心に広がった。
「私、彼に対してすごく申し訳ないことを……。いや、申し訳ないって思う自分が、酷い人間だなって」
それきりまた黙ってしまったので、彼女を見つめたまま頭の中で思案する。話の途中なのでなんとも言えないが、話の流れがつかめない。凝視されて居心地悪そうに身じろいだ彼女が、再び口を開く。
「この前の朝美の反応を見たことで私、びっくりしたのと同時に、自分が許された気がしたの」
黙って続きを促した。
「私の中にはあんな態度を取ってもいいなんて考えがなかったから。目の前で見せられて、目が覚めた気がしたの」
気まずそうに話してくれるが、彼にはまだ全容が把握できない。表情からそれを読みとったらしく、彼女は一度深く息を吸い込んで呼吸を整える。そうして見据えてきた瞳には、ほのかな決意が見て取れた。
「私、もうとっくにあなたのことしか見えてなかった」
章弥は息をのんだ。彼女の言葉に嘘はない。真正面から見つめられ、そう信じるに他はなかった。まじまじと彼女の瞳を見返していると、羞恥の滲んだ表情は、ゆるゆると俯いていく。
その仕草のあまりの愛らしさに、聞いたばかりの告白に、そして自分から隠れるように逃れた瞳に、どうしようもない愛しさがこみ上げる。
もし彼が精神的に未熟であったなら、この場でおもいきり彼女を抱き締めていただろう。けれど分別のある大人である彼は、彼女が困るであろう行動は極力控えることにした。つまり、ひとまず脳内だけに止めておいて、次の機会に持ち越すのだ。けれど人には限度というものがある。
「よくわからないけど、とりあえず手を握ってもいいかな」
「えっ……は、はい」
彼女はそろりと引っ込めていた手をテーブルに置いた。その手に自らの手を重ねる。
「それで、どういうことか聞いても?」
「えっと」
頬を染めた彼女は、それてしまった話を戻した。
「私、恋人と別れてすぐにあなたと付き合い始めたことに罪悪感があったの。すぐに付き合えてしまう自分がひどい人間に思えから。だからそれを認めたくなくて、昔の恋人を忘れられないふりをしてた」
彼女は指を動かして、自分に重なる彼の指を撫でた。
「あなたは気持ちの整理がつくまで待ってくれると言ったけど、本当はもうあの人のことはどうでも良かったの。彼に振り回されることに疲れていて。でも自分から別れを言い出せなくて、告げられるのを待ってたんだと思う。そんな自分を認めたくなくて、傷ついた自分を演じてた」
章弥は口を挟まず、黙って耳を傾ける。
「あなたとはもう出会っていたし、付き合えるとは思っていなかったけど、あなたはどう見ても彼とは違う人で、こういう誠実な人もいるんだなって思ったら、なんでこんな人と付き合ってるんだろうって感じてて。それでも彼のことを見捨ててはいけないなんて正義のヒーローみたいな自分を気取ってた。そんな自分に酔ってたのかも」
自嘲するようなどこか痛々しい笑みは、清々しさも同時に携えていた。
「朝美の昔の恋人に対しての、あの『もう微塵も興味ない』っていう態度を見て、まさに自分を見ているような気分だった。必死で気付かないようにしてた気持ちを、あんなに素直に表せる彼女を見て気付かされたわ。私の前の恋人に対する感情は、冷たすぎる自分の罪悪感からのものでしかなかった。それを誤魔化す為だけに、私は彼のことを引きずってるふりをしてた。それに気づいたら私ってなんてひどいことしてたんだろうって。もちろん、あなたにも」
彼女の心境とその構造を理解して最初に思ったことは、言い知れぬ高揚感だった。
聞けば聞くほど、彼女の心にはすでに昔の男に対する愛情はなかった。その事実が安らぎと興奮を全身に漲らせる。彼女の心は既に自分のもの。それが何より彼にとって重要なことだった。
彼女は罪悪感に苛まれているというけれど、彼に言わせれば、そんなことで罪悪感を抱くこと自体、彼女の心根が優しい証拠。ひどい人間だなどとんでもない。彼女ほど彼に天国を味わわせてくれる天使などいないのだから。
彼女の憂いは自分がいくらでも晴らしてやれる。自分が傍にいればいくらでも忘れさせてやれる。そもそも真面目過ぎる彼女のそんな感情は、もう彼女には必要ないものだ。
本当は今すぐ彼女を抱き締めたい。この場で唇を奪って腕の中に閉じ込めて、その笑顔も声も自分だけのものにしてしまいたい。けれどそれを打ち明けるのはもう少し先にしよう。でなければきっと彼女は怯えてしまう。怯えたところで逃がすつもりはないけれど。彼女には幸せに笑っていて欲しい。彼女を傷つけたくはない。
彼女と同じように自身の獰猛な部分を隠し、優しい男を演じている章弥は、その狂気とも言える愛情を悟られないように微笑んだ。
「君は少し真面目過ぎると思うよ」
彼女の手を握り、そっと親指で撫でれば、彼女はくすぐったそうに笑った。
「正直でいいんだよ。誰だって相性の悪い人間はいるし、君が気に病むことじゃない。君の心にもう別の男がいるのなら、過去の相手が消えるのは自然なことだ。そこに罪悪感なんて必要ない」
優しい声音でゆっくりと諭すように励ませば、彼女の表情から苦痛の色が抜けていく。心の中の重たいしこりが消えていくのが、顔によく表れていた。
これで彼女はもう自分のもの。前の男を忘れるのを待つと言ったことに嘘はなかったが、こんなに独占欲を満たす歓喜が溢れてくるとは思わなかった。気付かないふりを止めた彼女のように、彼もまた己の感情には正直にならねばなるまい。
晴れやかな表情の彼女を前に、章弥は今後の積極性をどう実行に移そうかと頭を巡らせていた。
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