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第5話 元婚約者の視察と、動じない私の「塩対応」
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平和とは、脆いものである。
焼きたてのパイの皮のように、少しの衝撃で粉々になってしまう。
その日、私はご機嫌だった。
午前中の業務(返却された本の再配架)は三十分で終わり、あとは窓辺で紅茶を飲みながら、新しい編み物の図案を考えていたからだ。
「……ここをこう編めば、コースターになるかしら」
静寂。
鳥のさえずり。
|クロード様(クマさん)は、今日は公務が忙しいらしく来ていない。
つまり、完全なる自由時間だ。
あと十分でお昼休み。
今日のランチは、ミナさんが持たせてくれた特製サンドイッチだ。
厚切りのベーコンが、パンからはみ出していたのを私は見逃さなかった。
早く食べたい。
そう、時計の針を見つめていた時だった。
バンッ!!
静寂を切り裂く、乱暴なドアの開閉音。
私はビクリとして、編み棒を取り落としそうになった。
「ここか! 噂の『隠された賢者』がいるというのは!」
入ってきたのは、見覚えがありすぎる金髪の青年。
豪奢な軍服に、無駄に長いマント。
元婚約者、カイル王太子殿下である。
そしてその腕には、ピンクブロンドの可愛らしい少女がしがみついていた。
婚約破棄の原因となった、マリエル男爵令嬢だ。
「……はあ」
私は思わず、心底面倒くさそうなため息をついてしまった。
せっかくの食前の高揚感が台無しだ。
カイル様は部屋の中を見渡し、私を見つけると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「なんだ、やはりエリアナか。『賢者』などという噂が流れていたから来てみれば……こんな埃っぽい塔の管理人に落ちぶれていたとはな」
彼はスタスタと歩み寄り、私の机の前で仁王立ちした。
「久しぶりだな。少しはやつれたかと思えば……なんだその顔は」
「いらっしゃいませ、カイル殿下。マリエル様」
私は椅子に座ったまま、営業用の無表情で頭を下げた。
立ち上がってカーテシー?
今は業務中であり、ここは私の城だ。
それに、ヒールを履いていないから足が楽で、立ち上がりたくない。
「当図書室のご利用ですか? 貸出カードはお持ちで?」
「は? ……余を誰だと思っている」
「王太子殿下です。ですが、規則ですので。カードがない場合は、閲覧のみとなります」
「ふざけるな! 余は視察に来たのだ!」
カイル様が机をドンと叩く。
私はサッと書類を避難させた。
汚い手で触らないでほしい。その書類は私が三時間かけて整理したリストなのだから。
「視察、ですか。ご苦労様です」
私は淡々と返した。
カイル様の眉がピクリと跳ねる。
「……貴様、その態度はなんだ。王族に対する不敬だぞ」
「申し訳ありません。ここは静粛を旨とする場所ですので、大きな声はお控えください」
「ぐっ……!」
カイル様は顔を赤くした。
彼は「感情的に反論してくる私」を期待していたのだろう。
以前のように、「殿下、それはなりません」と必死に食い下がる私を。
そしてそれを「黙れ」とねじ伏せることで、優越感に浸りたかったのだ。
残念ながら、今の私にそんなエネルギーはない。
「見てみろ、マリエル。これが、向上心を失った女の末路だ」
カイル様はターゲットを変え、隣の少女に同意を求めた。
「薄暗い部屋で、誰とも会話せず、カビ臭い本に埋もれて一生を終える……。哀れだとは思わぬか?」
「え、あ、はい……そうです、ね?」
マリエル様は曖昧に頷いた。
しかし、彼女の視線はカイル様ではなく、私の背後の本棚に釘付けになっていた。
(……ん?)
彼女は、何かを探るようにキョロキョロしている。
そして、恐る恐る近くの棚に指を這わせた。
「……ない」
彼女が小さく呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
埃が、ない。
そう言ったのだ。
この図書室は、外見こそ古びた塔だが、中は私の《洗浄》魔法によって無菌室レベルに保たれている。
マリエル様は男爵家の出身だ。
おそらく、自分で掃除をした経験があるのだろう。
この規模の部屋で、窓枠のサッシに至るまで塵一つない異常さに気づいてしまったらしい。
彼女は青ざめた顔で私を見た。
私は人差し指を口元に当て、「シーッ」とウィンクした。
彼女は「ひっ」と息を呑み、カイル様の背後に隠れた。
あら、怖がらせてしまったかしら。
「おい、聞いているのかエリアナ!」
カイル様が再び喚く。
マリエル様とアイコンタクトを取っている間に、何か言っていたらしい。
「はい、聞いております。『哀れだ』というお話でしたね」
「そうだ! 今からでも遅くはない。泣いて詫びるなら、王宮の便所掃除婦として雇ってやらんでもないぞ!」
便所掃除。
確かに仕事内容は似たようなものかもしれない。
どちらも汚れを落とす仕事だ。
だが、あちらには「プライバシー」と「定時退社」がない。
「謹んで辞退いたします」
「なっ……なぜだ! 王宮に戻りたいだろう!? 華やかな世界が恋しいはずだ!」
「いいえ。ここは最高ですよ」
私は心からの笑顔を向けた。
演技ではない。
本心からの、慈愛に満ちた聖母のような笑み(のつもり)だ。
「誰にも邪魔されず、好きな時にお茶を飲み、日がな一日座っていられる。……殿下の補佐をしていた頃は、トイレに行く暇さえありませんでしたから」
「う……」
カイル様がたじろいだ。
私の肌艶が良いことにも、気づいているはずだ。
目の下のクマが消え、髪にはツヤがあり、何より殺気立っていた雰囲気が消え失せている。
「貴様……まさか、余の側を離れて……せいせいした、とでも言うつもりか?」
「まさか。そのような恐れ多いこと」
私は時計を見た。
十二時ジャスト。
鳩時計がポッポー、と鳴く。
「おっと、時間です」
「は? 何の時間だ」
私は机の下から「休憩中」の札を取り出し、カウンターにドンと置いた。
「お昼休憩です。労働基準法に基づき、一時間の休憩に入らせていただきます」
「きゅ、休憩だと……!? 余と話している最中に!?」
「殿下といえど、労働者の権利を侵害することは許されません。……お腹が空くと、私、機嫌が悪くなりますので」
私は引き出しからバスケットを取り出した。
ふわりと、ベーコンのいい香りが漂う。
カイル様が呆気にとられている間に、私はサンドイッチを一口頬張った。
サクッ、シャキッ。
レタスの歯ごたえと、ジューシーな脂の旨味。
「ん~~~!」
美味しい。
幸せだ。
口いっぱいに広がる幸福感に、私は頬を緩ませた。
その瞬間、カイル様の何かが切れたようだった。
「ふ、ふざけるなあああ!!」
彼は顔を真っ赤にして叫んだ。
「余は! 貴様を! 断罪しに来たのだぞ!? それをパンなど齧りおって……!」
「モグモグ(美味しいですよ?)」
「勧めるな! ……ええい、もういい! 行くぞマリエル! こんな気狂い女、相手にするだけ時間の無駄だ!」
カイル様はマントを翻し、出口へと向かった。
完全に捨て台詞だ。
最初から最後まで、私のペースで終わってしまったことが悔しいのだろう。
マリエル様は引きずられるように歩き出し、最後に一度だけ振り返った。
そして、私に向かって深々と頭を下げた。
「……お、お騒がせしました……っ」
その目は、「この部屋、どうやって掃除したんですか……?」という畏怖と好奇心に満ちていた。
彼女、意外といい子かもしれない。
バタンッ!
再び、乱暴な音と共に扉が閉まる。
嵐が去った。
「ふぅ……」
私はサンドイッチを飲み込み、お茶で流し込んだ。
「騒々しいお客様でしたね」
でも、勝った。
私の平穏と、ランチタイムを死守したのだ。
私は二つ目のサンドイッチを手に取り、窓の外を見た。
カイル様たちの馬車が、砂煙を上げて去っていくのが見える。
あの様子だと、王城に戻ってから大変だろうな。
彼の執務室は、私が抜けたいま、書類の山で雪崩を起こしているはずだから。
「向上心」だけであの山が片付くなら、苦労はしないのだけれど。
「……さて、午後は少し昼寝でもしましょうか」
私はソファに寝転がり、クッションを抱きしめた。
クマさんが来たら、半分こしてあげよう。
サンドイッチの残りを。
そう思いながらまどろみ始めた私の耳に、遠くから鐘の音が聞こえた。
それは、平穏な日常の終わりを告げる、非常招集の鐘だった。
まさか、サンドイッチの余韻に浸る暇もなく、国の危機に巻き込まれるなんて。
……前言撤回。
平和とは、本当に脆いものだ。
焼きたてのパイの皮のように、少しの衝撃で粉々になってしまう。
その日、私はご機嫌だった。
午前中の業務(返却された本の再配架)は三十分で終わり、あとは窓辺で紅茶を飲みながら、新しい編み物の図案を考えていたからだ。
「……ここをこう編めば、コースターになるかしら」
静寂。
鳥のさえずり。
|クロード様(クマさん)は、今日は公務が忙しいらしく来ていない。
つまり、完全なる自由時間だ。
あと十分でお昼休み。
今日のランチは、ミナさんが持たせてくれた特製サンドイッチだ。
厚切りのベーコンが、パンからはみ出していたのを私は見逃さなかった。
早く食べたい。
そう、時計の針を見つめていた時だった。
バンッ!!
静寂を切り裂く、乱暴なドアの開閉音。
私はビクリとして、編み棒を取り落としそうになった。
「ここか! 噂の『隠された賢者』がいるというのは!」
入ってきたのは、見覚えがありすぎる金髪の青年。
豪奢な軍服に、無駄に長いマント。
元婚約者、カイル王太子殿下である。
そしてその腕には、ピンクブロンドの可愛らしい少女がしがみついていた。
婚約破棄の原因となった、マリエル男爵令嬢だ。
「……はあ」
私は思わず、心底面倒くさそうなため息をついてしまった。
せっかくの食前の高揚感が台無しだ。
カイル様は部屋の中を見渡し、私を見つけると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「なんだ、やはりエリアナか。『賢者』などという噂が流れていたから来てみれば……こんな埃っぽい塔の管理人に落ちぶれていたとはな」
彼はスタスタと歩み寄り、私の机の前で仁王立ちした。
「久しぶりだな。少しはやつれたかと思えば……なんだその顔は」
「いらっしゃいませ、カイル殿下。マリエル様」
私は椅子に座ったまま、営業用の無表情で頭を下げた。
立ち上がってカーテシー?
今は業務中であり、ここは私の城だ。
それに、ヒールを履いていないから足が楽で、立ち上がりたくない。
「当図書室のご利用ですか? 貸出カードはお持ちで?」
「は? ……余を誰だと思っている」
「王太子殿下です。ですが、規則ですので。カードがない場合は、閲覧のみとなります」
「ふざけるな! 余は視察に来たのだ!」
カイル様が机をドンと叩く。
私はサッと書類を避難させた。
汚い手で触らないでほしい。その書類は私が三時間かけて整理したリストなのだから。
「視察、ですか。ご苦労様です」
私は淡々と返した。
カイル様の眉がピクリと跳ねる。
「……貴様、その態度はなんだ。王族に対する不敬だぞ」
「申し訳ありません。ここは静粛を旨とする場所ですので、大きな声はお控えください」
「ぐっ……!」
カイル様は顔を赤くした。
彼は「感情的に反論してくる私」を期待していたのだろう。
以前のように、「殿下、それはなりません」と必死に食い下がる私を。
そしてそれを「黙れ」とねじ伏せることで、優越感に浸りたかったのだ。
残念ながら、今の私にそんなエネルギーはない。
「見てみろ、マリエル。これが、向上心を失った女の末路だ」
カイル様はターゲットを変え、隣の少女に同意を求めた。
「薄暗い部屋で、誰とも会話せず、カビ臭い本に埋もれて一生を終える……。哀れだとは思わぬか?」
「え、あ、はい……そうです、ね?」
マリエル様は曖昧に頷いた。
しかし、彼女の視線はカイル様ではなく、私の背後の本棚に釘付けになっていた。
(……ん?)
彼女は、何かを探るようにキョロキョロしている。
そして、恐る恐る近くの棚に指を這わせた。
「……ない」
彼女が小さく呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
埃が、ない。
そう言ったのだ。
この図書室は、外見こそ古びた塔だが、中は私の《洗浄》魔法によって無菌室レベルに保たれている。
マリエル様は男爵家の出身だ。
おそらく、自分で掃除をした経験があるのだろう。
この規模の部屋で、窓枠のサッシに至るまで塵一つない異常さに気づいてしまったらしい。
彼女は青ざめた顔で私を見た。
私は人差し指を口元に当て、「シーッ」とウィンクした。
彼女は「ひっ」と息を呑み、カイル様の背後に隠れた。
あら、怖がらせてしまったかしら。
「おい、聞いているのかエリアナ!」
カイル様が再び喚く。
マリエル様とアイコンタクトを取っている間に、何か言っていたらしい。
「はい、聞いております。『哀れだ』というお話でしたね」
「そうだ! 今からでも遅くはない。泣いて詫びるなら、王宮の便所掃除婦として雇ってやらんでもないぞ!」
便所掃除。
確かに仕事内容は似たようなものかもしれない。
どちらも汚れを落とす仕事だ。
だが、あちらには「プライバシー」と「定時退社」がない。
「謹んで辞退いたします」
「なっ……なぜだ! 王宮に戻りたいだろう!? 華やかな世界が恋しいはずだ!」
「いいえ。ここは最高ですよ」
私は心からの笑顔を向けた。
演技ではない。
本心からの、慈愛に満ちた聖母のような笑み(のつもり)だ。
「誰にも邪魔されず、好きな時にお茶を飲み、日がな一日座っていられる。……殿下の補佐をしていた頃は、トイレに行く暇さえありませんでしたから」
「う……」
カイル様がたじろいだ。
私の肌艶が良いことにも、気づいているはずだ。
目の下のクマが消え、髪にはツヤがあり、何より殺気立っていた雰囲気が消え失せている。
「貴様……まさか、余の側を離れて……せいせいした、とでも言うつもりか?」
「まさか。そのような恐れ多いこと」
私は時計を見た。
十二時ジャスト。
鳩時計がポッポー、と鳴く。
「おっと、時間です」
「は? 何の時間だ」
私は机の下から「休憩中」の札を取り出し、カウンターにドンと置いた。
「お昼休憩です。労働基準法に基づき、一時間の休憩に入らせていただきます」
「きゅ、休憩だと……!? 余と話している最中に!?」
「殿下といえど、労働者の権利を侵害することは許されません。……お腹が空くと、私、機嫌が悪くなりますので」
私は引き出しからバスケットを取り出した。
ふわりと、ベーコンのいい香りが漂う。
カイル様が呆気にとられている間に、私はサンドイッチを一口頬張った。
サクッ、シャキッ。
レタスの歯ごたえと、ジューシーな脂の旨味。
「ん~~~!」
美味しい。
幸せだ。
口いっぱいに広がる幸福感に、私は頬を緩ませた。
その瞬間、カイル様の何かが切れたようだった。
「ふ、ふざけるなあああ!!」
彼は顔を真っ赤にして叫んだ。
「余は! 貴様を! 断罪しに来たのだぞ!? それをパンなど齧りおって……!」
「モグモグ(美味しいですよ?)」
「勧めるな! ……ええい、もういい! 行くぞマリエル! こんな気狂い女、相手にするだけ時間の無駄だ!」
カイル様はマントを翻し、出口へと向かった。
完全に捨て台詞だ。
最初から最後まで、私のペースで終わってしまったことが悔しいのだろう。
マリエル様は引きずられるように歩き出し、最後に一度だけ振り返った。
そして、私に向かって深々と頭を下げた。
「……お、お騒がせしました……っ」
その目は、「この部屋、どうやって掃除したんですか……?」という畏怖と好奇心に満ちていた。
彼女、意外といい子かもしれない。
バタンッ!
再び、乱暴な音と共に扉が閉まる。
嵐が去った。
「ふぅ……」
私はサンドイッチを飲み込み、お茶で流し込んだ。
「騒々しいお客様でしたね」
でも、勝った。
私の平穏と、ランチタイムを死守したのだ。
私は二つ目のサンドイッチを手に取り、窓の外を見た。
カイル様たちの馬車が、砂煙を上げて去っていくのが見える。
あの様子だと、王城に戻ってから大変だろうな。
彼の執務室は、私が抜けたいま、書類の山で雪崩を起こしているはずだから。
「向上心」だけであの山が片付くなら、苦労はしないのだけれど。
「……さて、午後は少し昼寝でもしましょうか」
私はソファに寝転がり、クッションを抱きしめた。
クマさんが来たら、半分こしてあげよう。
サンドイッチの残りを。
そう思いながらまどろみ始めた私の耳に、遠くから鐘の音が聞こえた。
それは、平穏な日常の終わりを告げる、非常招集の鐘だった。
まさか、サンドイッチの余韻に浸る暇もなく、国の危機に巻き込まれるなんて。
……前言撤回。
平和とは、本当に脆いものだ。
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