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第8章
判断の基準
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すでに、三か月ほどが経っていた。
王宮診療所の空気は、少しずつ変わり始めていた。
大きな事件があったわけではない。
誰かが劇的な成果を上げたわけでもない。
ただ――
医師と薬師、看護師の間で、
意見を交わすことが、当たり前になっていただけだ。
ある日の午後。
診療所での業務を終え、私は部屋に戻る準備をしていた。
本来なら、この時間は当番の騎士が付き添う。
だが、その日は急な用事が入ったらしく、交代が必要になった。
「本日は、私がご一緒いたします」
そう言ったのは、クロトさんだった。
診療所からの迎えに、クロトさんが来ることはほとんどない。
私は内心の嬉しさを極力顔に出さないようにして、
「ありがとうございます」
そう答え、廊下を歩き始めた。
ちょうどそのとき、背後から低く落ち着いた声がかかる。
「少し、いいか?」
振り返ると、外科医師のエルンスト先生が立っていた。
「ちょうど良かった。クロト殿にも、同席いただきたい」
そう前置きしてから、エルンスト先生は続ける。
「以前、君から聞いた話があるだろう。
日本では、負傷者が多い場合、
優先順位を決めて対応する仕組みがある、と」
私は一瞬考えてから、頷いた。
「トリアージ、のことですか」
「それだ」
エルンスト先生は腕を組む。
「騎士の負傷が一度に重なる場面では、
どうしても現場が混乱する。
誰から診るべきかで、判断が遅れることもある」
クロトさんは口を挟まず、静かに話を聞いていた。
「医療側だけでなく、
運ぶ側――騎士にも、
共通の基準があれば違うのではないかと思ってな」
私は、慎重に言葉を選ぶ。
「日本のトリアージは、
命の価値を比べるものではありません。
限られた時間と手で、
助かる可能性を最大にするための判断です」
「ああ、分かっている」
エルンスト先生の言葉に、クロトさんが静かに応じた。
「その考え方であれば、
騎士団としても共有する意味はあるかと存じます」
少しの沈黙のあと、
クロトさんはエルンスト先生に向き直った。
「この件、
私からヴァルター師団長へ
お伝えしてもよろしいでしょうか」
エルンスト先生は、短く頷く。
「頼めるか」
「お任せください」
クロトさんはそう言って、一礼した。
それから、私の方を見る。
「では、お部屋に戻りましょうか」
そう言って、廊下の方へと視線を移す。
歩き出してしばらくすると、人の気配が途切れた。
王宮の奥へ続く廊下は、夕方でも静かだ。
その静けさが、胸の奥に溜めていたものを浮かび上がらせる。
「……クロトさん」
少し間を置いて、声をかけた。
今でなければ、言えない気がした。
「さっきの話なんですが……」
足を止めずに、言葉を続ける。
「もし、あの考え方が本当に使われるようになったら……
判断するのは、私ではありません」
確認するような言い方だった。
「医師であり、
その場にいる騎士の方たちです」
分かっている。
だからこそ、言葉にしなければならなかった。
「トリアージは、身分ではなく重症度で決めます。
それは、公平で、合理的です」
一拍置く。
「でも……
助かる見込みが低いと判断された時点で、
治療をしない、という選択を迫られるのも……
医師と、騎士の方たちです」
声は低かった。
「私は、考え方を伝えるだけです。
でも、その考え方が、
誰かに“決断をさせる”ことになる」
廊下の床に、視線を落とす。
「それを思うと……」
その先を、言葉にできなかった。
クロトさんも、すぐには答えなかった。
歩調を変えず、少しだけ距離を詰める。
「……はい」
短く、しかし曖昧さのない声だった。
「おっしゃる通りです。
決めるのは、医師と、現場の騎士です」
事実を、事実として置くような言い方だった。
「だからこそ、
その判断を個人の責任にしてはいけないのだと思います」
わずかに間を置いて、続ける。
「背負うものがなくなるわけではありません。
ですが、順序が定まっていれば、
判断は“独断”ではなくなります」
視線は前を向いたまま。
その横顔に、
多くの部下の命を預かる立場の覚悟を、私は感じていた。
「国の方針として、背負うものになります」
その言葉を聞いて、
胸の奥にあった緊張が、わずかに緩んだ。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、私は気づいていた。
自分の世界の常識を持ち込むことで、
誰かに決断を迫り、
背負わせてしまうこと――
それを、私は怖れていたのだと。
________________________________________
国としての判断
王城の会議室は、静かだった。
円卓の上座に王が座り、その左右に重臣たちが並ぶ。
宰相マティアス・フォン・グレイヴは資料に目を落とし、
軍務卿ローデリヒ・シュタインベルクは腕を組んで前を見据えている。
私は、エルンスト先生の少し後ろに控える形で席に着いていた。
この場に、クロトさんの姿はない。
――現場の騎士を、ここで矢面に立たせる必要はない。
ヴァルター師団長の判断だと聞いている。
「では、概要を」
王の短い言葉に、エルンスト先生が頷いた。
多数の負傷者が出た場合の混乱。
判断の遅れによって失われる命。
そして、日本で用いられている“優先順位”の考え方。
説明が終わると、軍務卿ローデリヒが口を開いた。
「現場では、すでに似た判断を迫られています」
低く、落ち着いた声だった。
「身分に配慮しろ、という圧は今もありますが、
同時に、迅速な対応も求められる。
その矛盾を、騎士個人の裁量で処理させているのが現状です」
宰相マティアスが、ゆっくりと頷く。
「制度が追いついていない、ということだな」
「はい」
ローデリヒは即座に答えた。
「順序が定まっていれば、
騎士は判断を“背負わずに”済みます。
これは、軍としては歓迎すべき提案です」
王は、黙って二人の言葉を聞いていた。
「判断を行うのは、医師と現場の騎士です」
エルンスト先生が、静かに補足する。
「桜殿は、この考え方を紹介しただけで、
決断を下す立場にはありません」
その言葉に、胸の奥で小さく息をついた。
「問題は、責任の所在だ」
王が、静かに口を開く。
「治療を行わない、という判断が下された場合、
誰がその結果を引き受けるのか」
答えたのは、ヴァルター師団長だった。
「国が負います」
一切の迷いのない声だった。
「判断は、国の定めた基準に基づくものとし、
個人に責を帰すことはいたしません」
「妥当だな」
軍務卿ローデリヒが即座に言った。
「基準が国のものであれば、
騎士は職務として判断できます。
それがなければ、現場は常に萎縮します」
宰相マティアスが視線を上げ、私を見る。
「桜殿。
あなたは判断者ではありません」
穏やかな声だった。
「考え方を示したに過ぎず、
誰かに決断を押し付ける立場ではない。
その点は、ここではっきりさせておきましょう」
「……はい」
私は深く頭を下げた。
王は、全員をゆっくりと見渡してから言う。
「よい」
その一言で、場の空気が引き締まる。
「では、まずは訓練として行え。
実地で問題点を洗い出し、
修正のうえ、制度として整え、議会にも提出する」
一拍置いて、続けた。
「これは、
命の価値を測るためのものではない」
王の声は、静かだったが、強かった。
「現場を守るための、判断の順序だ」
軍務卿ローデリヒが、深く頷く。
「その言葉を、現場に持ち帰れるのは大きい」
異を唱える者は、誰もいなかった。
________________________________________
会議室を出ると、張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていった。
重臣たちはそれぞれ短い挨拶を交わし、廊下へと散っていく。
私はその流れに少し遅れて、扉の前に立ち止まっていた。
承認は、得られた。
訓練も、行われる。
頭では理解している。
それでも、胸の奥に残った重さが消えなかった。
「……桜」
呼ばれて、顔を上げる。
ヴァルター・アイゼンが、数歩離れた場所に立っていた。
会議中の厳しい表情はなく、
どこか、昔から知っている人の顔に戻っている。
「気にしてるな」
問いではなく、断定だった。
私は、すぐには否定できなかった。
「……少しだけ」
そう答えると、ヴァルターは小さく息をついた。
「まあ、そうだろうな」
人の少ない方へ歩き出し、
数歩進んだところで足を止める。
「さっきの話だ」
こちらを見ずに、前を向いたまま続けた。
「決めるのは、お前じゃない」
短く、はっきりと言う。
「医師と、現場の騎士だ。
それから先は、国の仕事になる」
私は黙って聞いていた。
「お前は、考え方を持ってきただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない」
一拍置いて、少しだけ声音が低くなる。
「その考え方がなければ、
あいつらは今も、
誰に責任があるのか分からないまま、
命を前に立ち尽くしてた」
視線が、ようやくこちらを向いた。
「背負う覚悟があるから、
俺たちはあの席に座ってる」
それは、
特別師団長としての言葉であり、
年長者としての言葉でもあった。
「お前が気に病むところじゃない」
少し間を置いて、続ける。
「……気にするな、とは言わんがな」
口元が、わずかに緩む。
「そういう性分だってことは、
昔から分かってる」
その言葉に、
胸の奥に張りついていたものが、少しだけ剥がれた。
「ただ一つだけ、覚えておけ」
ヴァルターは、静かに言った。
「お前が示した“順序”は、
命を切り捨てるためのもんじゃない。
現場を守るためのもんだ」
「……はい」
そう答えると、
ようやく、深く息ができた。
「それでいい」
ヴァルターは短く言い、
それ以上は何も言わずに歩き出した。
その背中が、廊下の曲がり角の向こうに消えるのを、
私はなんとなく見送った。
その場に立ったまま、しばらく動けずにいる。
言葉は整理できているはずなのに、
胸の奥に残った重さだけが、まだ居場所を失っていた。
「サクラ様」
低く落ち着いた声に、顔を上げる。
いつの間にか、数歩後ろにクロトさんが立っていた。
すでに周囲を確認し、自然に護衛の位置についている。
「……クロトさん」
「会議後の移動は、私が担当いたします」
簡潔で、事務的な報告だった。
けれど、それだけで十分だった。
私は小さく頷き、歩き出す。
クロトさんは、半歩後ろの位置を保ったまま並んだ。
王城の廊下は、相変わらず静かだ。
足音だけが、一定の間隔で響く。
「……少し、顔色が優れないようにお見受けします」
歩調を乱さないまま、クロトさんが言う。
「大丈夫です」
反射的に答えてから、少しだけ言葉を選び直した。
「考えることが、少し多かっただけで」
クロトさんは、それ以上踏み込まなかった。
「承知しました」
短い返答だった。
しばらく、沈黙が続く。
「……あの場で」
私のほうから、ぽつりと口を開く。
「クロトさんがいなかったのは、
ヴァルター師団長の判断ですよね」
「はい」
即答だった。
「サクラ様を、
不要な立場に置かないための配慮です」
その言い方は、
副師団長としての説明だった。
それでも――
胸の奥が、わずかに軽くなるのを感じていた。
部屋の前に着くと、
クロトさんは足を止め、扉を開ける。
「こちらで、よろしいですね」
「はい。
ありがとうございました」
「本日は、どうかお休みください」
公的な言葉だった。
けれど、声音はやわらかい。
「……はい」
扉を閉める前に、私は声をかけた。
「クロトさんも」
そう言うと、
クロトさんは一瞬だけ目を伏せてから、
「はい。
おやすみなさいませ、サクラ様」
と答えた。
扉を閉めてもなお、
廊下に残る気配が、しばらく消えなかった。
王宮診療所の空気は、少しずつ変わり始めていた。
大きな事件があったわけではない。
誰かが劇的な成果を上げたわけでもない。
ただ――
医師と薬師、看護師の間で、
意見を交わすことが、当たり前になっていただけだ。
ある日の午後。
診療所での業務を終え、私は部屋に戻る準備をしていた。
本来なら、この時間は当番の騎士が付き添う。
だが、その日は急な用事が入ったらしく、交代が必要になった。
「本日は、私がご一緒いたします」
そう言ったのは、クロトさんだった。
診療所からの迎えに、クロトさんが来ることはほとんどない。
私は内心の嬉しさを極力顔に出さないようにして、
「ありがとうございます」
そう答え、廊下を歩き始めた。
ちょうどそのとき、背後から低く落ち着いた声がかかる。
「少し、いいか?」
振り返ると、外科医師のエルンスト先生が立っていた。
「ちょうど良かった。クロト殿にも、同席いただきたい」
そう前置きしてから、エルンスト先生は続ける。
「以前、君から聞いた話があるだろう。
日本では、負傷者が多い場合、
優先順位を決めて対応する仕組みがある、と」
私は一瞬考えてから、頷いた。
「トリアージ、のことですか」
「それだ」
エルンスト先生は腕を組む。
「騎士の負傷が一度に重なる場面では、
どうしても現場が混乱する。
誰から診るべきかで、判断が遅れることもある」
クロトさんは口を挟まず、静かに話を聞いていた。
「医療側だけでなく、
運ぶ側――騎士にも、
共通の基準があれば違うのではないかと思ってな」
私は、慎重に言葉を選ぶ。
「日本のトリアージは、
命の価値を比べるものではありません。
限られた時間と手で、
助かる可能性を最大にするための判断です」
「ああ、分かっている」
エルンスト先生の言葉に、クロトさんが静かに応じた。
「その考え方であれば、
騎士団としても共有する意味はあるかと存じます」
少しの沈黙のあと、
クロトさんはエルンスト先生に向き直った。
「この件、
私からヴァルター師団長へ
お伝えしてもよろしいでしょうか」
エルンスト先生は、短く頷く。
「頼めるか」
「お任せください」
クロトさんはそう言って、一礼した。
それから、私の方を見る。
「では、お部屋に戻りましょうか」
そう言って、廊下の方へと視線を移す。
歩き出してしばらくすると、人の気配が途切れた。
王宮の奥へ続く廊下は、夕方でも静かだ。
その静けさが、胸の奥に溜めていたものを浮かび上がらせる。
「……クロトさん」
少し間を置いて、声をかけた。
今でなければ、言えない気がした。
「さっきの話なんですが……」
足を止めずに、言葉を続ける。
「もし、あの考え方が本当に使われるようになったら……
判断するのは、私ではありません」
確認するような言い方だった。
「医師であり、
その場にいる騎士の方たちです」
分かっている。
だからこそ、言葉にしなければならなかった。
「トリアージは、身分ではなく重症度で決めます。
それは、公平で、合理的です」
一拍置く。
「でも……
助かる見込みが低いと判断された時点で、
治療をしない、という選択を迫られるのも……
医師と、騎士の方たちです」
声は低かった。
「私は、考え方を伝えるだけです。
でも、その考え方が、
誰かに“決断をさせる”ことになる」
廊下の床に、視線を落とす。
「それを思うと……」
その先を、言葉にできなかった。
クロトさんも、すぐには答えなかった。
歩調を変えず、少しだけ距離を詰める。
「……はい」
短く、しかし曖昧さのない声だった。
「おっしゃる通りです。
決めるのは、医師と、現場の騎士です」
事実を、事実として置くような言い方だった。
「だからこそ、
その判断を個人の責任にしてはいけないのだと思います」
わずかに間を置いて、続ける。
「背負うものがなくなるわけではありません。
ですが、順序が定まっていれば、
判断は“独断”ではなくなります」
視線は前を向いたまま。
その横顔に、
多くの部下の命を預かる立場の覚悟を、私は感じていた。
「国の方針として、背負うものになります」
その言葉を聞いて、
胸の奥にあった緊張が、わずかに緩んだ。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、私は気づいていた。
自分の世界の常識を持ち込むことで、
誰かに決断を迫り、
背負わせてしまうこと――
それを、私は怖れていたのだと。
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国としての判断
王城の会議室は、静かだった。
円卓の上座に王が座り、その左右に重臣たちが並ぶ。
宰相マティアス・フォン・グレイヴは資料に目を落とし、
軍務卿ローデリヒ・シュタインベルクは腕を組んで前を見据えている。
私は、エルンスト先生の少し後ろに控える形で席に着いていた。
この場に、クロトさんの姿はない。
――現場の騎士を、ここで矢面に立たせる必要はない。
ヴァルター師団長の判断だと聞いている。
「では、概要を」
王の短い言葉に、エルンスト先生が頷いた。
多数の負傷者が出た場合の混乱。
判断の遅れによって失われる命。
そして、日本で用いられている“優先順位”の考え方。
説明が終わると、軍務卿ローデリヒが口を開いた。
「現場では、すでに似た判断を迫られています」
低く、落ち着いた声だった。
「身分に配慮しろ、という圧は今もありますが、
同時に、迅速な対応も求められる。
その矛盾を、騎士個人の裁量で処理させているのが現状です」
宰相マティアスが、ゆっくりと頷く。
「制度が追いついていない、ということだな」
「はい」
ローデリヒは即座に答えた。
「順序が定まっていれば、
騎士は判断を“背負わずに”済みます。
これは、軍としては歓迎すべき提案です」
王は、黙って二人の言葉を聞いていた。
「判断を行うのは、医師と現場の騎士です」
エルンスト先生が、静かに補足する。
「桜殿は、この考え方を紹介しただけで、
決断を下す立場にはありません」
その言葉に、胸の奥で小さく息をついた。
「問題は、責任の所在だ」
王が、静かに口を開く。
「治療を行わない、という判断が下された場合、
誰がその結果を引き受けるのか」
答えたのは、ヴァルター師団長だった。
「国が負います」
一切の迷いのない声だった。
「判断は、国の定めた基準に基づくものとし、
個人に責を帰すことはいたしません」
「妥当だな」
軍務卿ローデリヒが即座に言った。
「基準が国のものであれば、
騎士は職務として判断できます。
それがなければ、現場は常に萎縮します」
宰相マティアスが視線を上げ、私を見る。
「桜殿。
あなたは判断者ではありません」
穏やかな声だった。
「考え方を示したに過ぎず、
誰かに決断を押し付ける立場ではない。
その点は、ここではっきりさせておきましょう」
「……はい」
私は深く頭を下げた。
王は、全員をゆっくりと見渡してから言う。
「よい」
その一言で、場の空気が引き締まる。
「では、まずは訓練として行え。
実地で問題点を洗い出し、
修正のうえ、制度として整え、議会にも提出する」
一拍置いて、続けた。
「これは、
命の価値を測るためのものではない」
王の声は、静かだったが、強かった。
「現場を守るための、判断の順序だ」
軍務卿ローデリヒが、深く頷く。
「その言葉を、現場に持ち帰れるのは大きい」
異を唱える者は、誰もいなかった。
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会議室を出ると、張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていった。
重臣たちはそれぞれ短い挨拶を交わし、廊下へと散っていく。
私はその流れに少し遅れて、扉の前に立ち止まっていた。
承認は、得られた。
訓練も、行われる。
頭では理解している。
それでも、胸の奥に残った重さが消えなかった。
「……桜」
呼ばれて、顔を上げる。
ヴァルター・アイゼンが、数歩離れた場所に立っていた。
会議中の厳しい表情はなく、
どこか、昔から知っている人の顔に戻っている。
「気にしてるな」
問いではなく、断定だった。
私は、すぐには否定できなかった。
「……少しだけ」
そう答えると、ヴァルターは小さく息をついた。
「まあ、そうだろうな」
人の少ない方へ歩き出し、
数歩進んだところで足を止める。
「さっきの話だ」
こちらを見ずに、前を向いたまま続けた。
「決めるのは、お前じゃない」
短く、はっきりと言う。
「医師と、現場の騎士だ。
それから先は、国の仕事になる」
私は黙って聞いていた。
「お前は、考え方を持ってきただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない」
一拍置いて、少しだけ声音が低くなる。
「その考え方がなければ、
あいつらは今も、
誰に責任があるのか分からないまま、
命を前に立ち尽くしてた」
視線が、ようやくこちらを向いた。
「背負う覚悟があるから、
俺たちはあの席に座ってる」
それは、
特別師団長としての言葉であり、
年長者としての言葉でもあった。
「お前が気に病むところじゃない」
少し間を置いて、続ける。
「……気にするな、とは言わんがな」
口元が、わずかに緩む。
「そういう性分だってことは、
昔から分かってる」
その言葉に、
胸の奥に張りついていたものが、少しだけ剥がれた。
「ただ一つだけ、覚えておけ」
ヴァルターは、静かに言った。
「お前が示した“順序”は、
命を切り捨てるためのもんじゃない。
現場を守るためのもんだ」
「……はい」
そう答えると、
ようやく、深く息ができた。
「それでいい」
ヴァルターは短く言い、
それ以上は何も言わずに歩き出した。
その背中が、廊下の曲がり角の向こうに消えるのを、
私はなんとなく見送った。
その場に立ったまま、しばらく動けずにいる。
言葉は整理できているはずなのに、
胸の奥に残った重さだけが、まだ居場所を失っていた。
「サクラ様」
低く落ち着いた声に、顔を上げる。
いつの間にか、数歩後ろにクロトさんが立っていた。
すでに周囲を確認し、自然に護衛の位置についている。
「……クロトさん」
「会議後の移動は、私が担当いたします」
簡潔で、事務的な報告だった。
けれど、それだけで十分だった。
私は小さく頷き、歩き出す。
クロトさんは、半歩後ろの位置を保ったまま並んだ。
王城の廊下は、相変わらず静かだ。
足音だけが、一定の間隔で響く。
「……少し、顔色が優れないようにお見受けします」
歩調を乱さないまま、クロトさんが言う。
「大丈夫です」
反射的に答えてから、少しだけ言葉を選び直した。
「考えることが、少し多かっただけで」
クロトさんは、それ以上踏み込まなかった。
「承知しました」
短い返答だった。
しばらく、沈黙が続く。
「……あの場で」
私のほうから、ぽつりと口を開く。
「クロトさんがいなかったのは、
ヴァルター師団長の判断ですよね」
「はい」
即答だった。
「サクラ様を、
不要な立場に置かないための配慮です」
その言い方は、
副師団長としての説明だった。
それでも――
胸の奥が、わずかに軽くなるのを感じていた。
部屋の前に着くと、
クロトさんは足を止め、扉を開ける。
「こちらで、よろしいですね」
「はい。
ありがとうございました」
「本日は、どうかお休みください」
公的な言葉だった。
けれど、声音はやわらかい。
「……はい」
扉を閉める前に、私は声をかけた。
「クロトさんも」
そう言うと、
クロトさんは一瞬だけ目を伏せてから、
「はい。
おやすみなさいませ、サクラ様」
と答えた。
扉を閉めてもなお、
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田舎の農家に生まれた平民のクレアは、少しだけ聖魔法が使える。あくまでもほんの少し。
だが、その魔法で蝗害を防いだ事から「聖女ではないか」と王都から調査が来ることに。
「私は聖女じゃありません!」と言っても聞いてもらえず…。
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