水底のアジュガ 上

泡井 月

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ちいさな夕凪

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 目まぐるしい一日だった。頭痛も治らないまま無理に帰宅すると、途中バイト先で拾った美羽には顔色が悪いと叱られたし、人魚ちゃんに掴まれた腕には赤い線が一本ついた。まるでさっきまでロープで縛られていたみたいだ。頭痛が治らなければ怪我も増える。ひどい一日だ。
「おかえりお兄ちゃん」
 視線を下げる。弟だ。名前は鈴成すずなり。小学五年生。最近少しずつ俺に背が届いてきた。お出迎えなんて優しい弟だなあ、と頭を撫でつつ(なお嫌がられた、つらい)、「おー、ただいま。飯食ったか?」と返答した。
「食べた。ていうかお兄ちゃん顔色悪いよ。振られた?」
「告ってもいないけど?」
「お兄ちゃんが告ったかどうかなんて聞いてないけど?」
 テンポのいいストレートパンチの連発である。この弟、兄に対してなんて生意気かつ強気な態度。
「お前なあ。ひどい弟だなまったく」
「お兄ちゃんあれでしょ。思わせぶり散々しといて、結局いい人止まりなんでしょ。美羽姉ちゃんが言ってた。僕知ってるもん」
「美羽ぅ? は、うるせえなあ」
 そんな訳で、弟まで(多少美羽の影響もあるが)この有り様である。もっと成長したら、今の俺よりも語彙が増えて、賢く育って、喧嘩も一言二言で論破してしまうに違いない。で、俺が折れるか、負ける。
「そんなことより、片付かないから早くご飯あっためて食べなよ。僕勉強して寝るから、なんか用あったら絶対ノックして。お母さんたちはもう寝てるから、騒がないでよ」
「へいへい。よくできた弟だな鈴成は。お兄ちゃん嬉しいよ」
「あ、お兄ちゃん。聞きたいことがあるんだけど」
「なんだなんだ、お兄ちゃんになんでも聞いてみなさい」
「お兄ちゃんのそういうとこだるい。ね、ライラさんってどんな人?」

 ──さて、弟の冷た過ぎる一言は一旦忘れるとして、なんと答えようか。俺も弟も馬鹿ではないので、こういうときはお互いに様子を伺う。俺の学校にとんでもなく美人の転入生が来たことと、転入生は噂によると人ではないんじゃないかなんてデマが流れるくらいには美しいことも、弟はもう美羽から聞いているだろうから、別に隠すことはない。五歳のとき、あるいは二歳のとき。それらは、小学五年生の弟は覚えていないから、知らないことと同義だ。俺からもう既に話していることといえば、幼馴染の美羽に昔イマジナリーフレンドみたいなのが居て、それが人魚のような姿をしていたらしい、という聞きかじったていを装ったおとぎ話くらいだ。
「……綺麗な人だよ。あと美羽とすげえ仲良い」
「ふうん」
「学校もまあ、今んとこは大丈夫そうじゃね。他に気になることは?」
「美羽姉ちゃんに従姉なんか居ないよね?」
「そうだな」
「親戚なの?」
「いーや。ホームステイ的な感じだろ」
「昔話してた、人魚の話の人だったりしないの?」
「……お前覚えてたの」
「うん」
 ─じゃあ、しょうがない。しょうがないというか、鈴成が気を使っていたのだろうし、この場合はどちらかというと、しょうがない、というよりは、兄として不甲斐ないと思うべきだった。
 もう一度話そう。
「うし、わかった。鈴成、好きなお菓子とジュース持って集合」
「わかった」
 もう鈴成も子どもじゃないらしい。俺は夕飯をお盆の上に並べながら、二歳の頃の美羽のことを思い出して、鍋の中の味噌汁も、怒りも、ふつふつと煮え滾っていた。
  
「はい、という訳で鈴成くん、何か質問はあるかな?」
「まだ何も話してないです紅成先生」
「とてもよい質問だ! じゃあ早速先生が紙芝居を作ってきたから、その順番で話していこうと思う」
「二歳の頃とか覚えてるんですかー」
「それがなあ」
 覚えてんだよなあ。
 人の記憶というのは、基本的にあやふやになるものだ。生きていくために必要だから、忘却する機能が元々備わっている。胎内記憶をまれに持ったまま育ち大人になる人間も居たりするものだが、基本的に就学前の記憶ほど順を追ってあやふやになるものだ。
「お兄ちゃん」
「ん」
「ライラさんのこととか、ほんとは話したくないんでしょ。あと、怒ってるんでしょ」
 気遣いのプロかお前は。偉いな、と頭を撫でる。
「ほんと賢く育ったよなお前」
「頭撫でないでってば。お兄ちゃんがしんどそうなの、なんかやなの」
「なんか嫌か。そっか。ごめんな。……怒ってるっていうか……なんだ、んー……待って、ごめんな何度も。ちょい考えさせて」
「いいよ。お兄ちゃんの弟になって何年の付き合いだと思ってんの。待ってるよ」
 ああ、つくづく優しさに満ちた弟だ。─とは言っても、今までにこの感情を言語化する想定をしたことなんか一度もないから、この場でパッと浮かぶものでないことは確かだった。鈴成だって賢いから、そのうち俺より適切な言葉を引き出してきて「それだ!」って言わせちゃうんだろうな。悔しい。

 ──あ。そうか。気付いた。なんだそんな、ああ。そうか。そんな、簡単なことか。
 愛憎か。これは。
「……愛憎、だな」
 ─都合がいい感情だけど。俺はそう思ったが、小学生の鈴成にとってはまだ難解な感情だっただろうか。
「むずかしい」
 やはり難しかったらしい。鈴成は眉を顰め、首を傾げた。
「そうだな、難しいな。ごめんな」
「でも、お兄ちゃんがライラお姉さんに魅了されちゃってることは、わかる。それがその、んー、お兄ちゃんの本心じゃなくても、愛の部分なのかなっていうのは、わかんなくもない」
「憎んでるのに愛が共存するなんて、都合いいよな」
「都合の話かなあ」
「例えばさ、俺が、お前のこと家族として愛してるのに実はこういう理由があって憎んでますなんて、もらう側からしたらさ、どっちかにして欲しいだろ」
「それはー、まあ、そうだけどー。でも、言わなかったら知らないでしょ」
「言わなかったら?」
「うん。お兄ちゃんがそれを、憎んでますってことを僕に伝えなかったら、僕は死んでも知らないでしょ。墓場まで持ってくみたいな、そういうのでしょ。聞いたことあるよ」
「……俺はさ、自分で憎しみとか恨みとか抱えてるのを、他人にいつかバレバレだぞって見透かされるのが怖いから、できないんだよ。そういうの」
「お兄ちゃん全部顔に出るもんね。はいグミあげる。おいしいよ」
「そうなんだよなぁむぐ。……んま」
 いつの間にか弟は、話しながら袋の封を切っていたらしい。ぶどう味のグミを口に突っ込まれる。弟も弟で持ってきたジュースを飲んでいた。ちいさな手だと思っていたのに、ジュースはしっかりとコップの中に注がれている。いつの間に、一リットルのペットボトルを上手く持てるようになったのか。弟の急成長に驚く。
「お兄ちゃんも飲む?」
「……飲む。ありがと」
「難しいこと置いといてさ、仲直りは、できないの?」
「仲直りか。したいとは、思わないな」
「なんで?」
「……美羽のこと傷つけといて、綺麗な顔で、や、元々すげえ綺麗だけど。ああなんか、綺麗だって言うのもムカつくな! ムカつくからこれは憎悪な。綺麗だけど、そうじゃなくて。元々持ってるカリスマ性みたいなの。それと、貼り付けた笑顔がうまいとか、なんかそういう世渡り術みたいなやつ。嘘偽りないって態度もうまくて、美羽のことは愛してるからなんて、まるで心から思ってますみたいに言うから、なんかさ。どれが本心なのか、俺も、分かんねえ」
「んーと、でもさ、ライラさんがすごく綺麗な人だっていう事実と、それはそれとしてお兄ちゃんが、ライラさんは美羽姉ちゃんを傷つけた人だから絶対綺麗だって言いたくないって気持ちは、別なんだよね」
「……専属カウンセラーの方?」
「僕カウンセラーになれるかな?」
「心理学勉強したい?」
「ううん。今んとこ興味ない。僕お医者さんになりたい」
「うんうん、そうかそうか。将来設計が明確で偉いな」
「はい、先生。質問です」
「なんですか鈴成くん」
「先生は、ライラさんに復讐したいとか、許さないとか、思って、んーと、行動にしようと思ってますか」
「……思ってるって言ったら、鈴成は止めるだろ」
「うん」
「止めてくれるだろ」
「お兄ちゃんだからちょっとめんどくさいけど、大事な家族だから、僕は止めるよ」
「……ありがと」
「今日のお味噌汁僕が作ったんだよ」
「マジ? すげえじゃん」
「グミおいしかった?」
「おう」
「僕のお小遣いで買ったの。ほんとは買いたい漫画あったんだけど、なんかお兄ちゃん話したそうだったからお菓子買って帰ったら、予想通りだったね」
「お前がいちばん見透かしてんな?」
「へへ」
 鈴成は、「だからね」と鼻を啜った。
「だからね。お兄ちゃん。復讐は、しないでね」
「……分かった」
「うん。もっと大事なものが、いつでもどこでも、お兄ちゃんのそばにあるって覚えてて」
「ありがとう。お前は本当にいい弟、いやいい男だよ。かっこいいぞ」
「うざい」
「つらい! てかさ、こんな話の流れであれだけど、お前ライラのこと好きなん? 一目惚れしちゃったか?」
「あ~もうほんとうざ。もう僕二度とお兄ちゃんにご飯とか作ってあげない。残飯しかあげない。ライラさんは、今美羽姉ちゃんと仲良いのが分かって安心だから、今は好きだよ。それに、僕はまだ会ったことないし、挨拶しないとなって思ってたから」
 鈴成にとっては重ね重ね本当にうざったいようだが、こいつ、本当に賢いな。俺そんなこと教えたっけ。
 鈴成は口を真一文字にしたまま、「お花何色が好きかな」と首を傾げ、「お兄ちゃんスマホ貸して」と言うのでスマホを貸した。
「花束とか送んのかよお前。まああいつ花とか好きそうではあるけど」
 美羽はあんま興味なさそうだな、と空を仰ぐ。幼い頃作ってあげたシロツメクサの花冠、一瞬でどっか落っことしてなくしてたし。
「美羽姉ちゃんのお隣さんのおばあちゃん居るじゃん。あの人ご飯振る舞いそうだから、僕は花かなって。いいでしょ」
「はー。お隣さんのことまで考えてやがるこいつ」
「ふふん」
「鈴成ぃ、あれだぞぉ? あんまなんもかんも上手くできすぎても、やらなくていいことまで任されたりすんぞ?」
「お兄ちゃんじゃないんだからちゃんと断れるよ。そんなことよりソープフラワーだって。花びら一枚一枚が石けんでね、枯れないんだって」
「そんなことより?」
「うん。お兄ちゃんはニキビできると落ち込んで枯れるけど、このお花は枯れないね。『プレゼントにもおすすめです』だって」
「あー、うん。枯れちゃうね。あーね。プレゼント。うん、いいんじゃねえの」
「じゃあこのミニブーケにしよ。五百円で作ってもらえるみたい。僕でも買えるな」
「……お兄ちゃんに手伝えることは?」
「ないよ」
「ないの?」
「ない。……うん、よし。このくまのぬいぐるみもオプションでつけてもらおう。美羽姉ちゃんお花あんまり喜ばなさそうだし。……で、肝心のお花は……やっぱりチューリップだよね」
「……うん、本当に偉いよ、お前は……」
 賢い弟を持って俺は幸せ者だよ。春だもんな。そうだよな。チューリップは色豊富だし、シルエットかわいいし、花言葉もかわいいってここに全部書いてあるし、何より女性が喜びそうだもんな。そうだよな、偉いぞ鈴成、お前はよくやった。俺は兄としてまだ弱いことをまた改めて実感してしまった。つらい。とても。
「お兄ちゃん」
「なに」
 兄として頼られるチャンスか! こんな滅多にないチャンス、この佐藤紅成さとうこうせい、逃す訳にはいかん! ……と思ったのも虚しく、鈴成は「ライラだからライラックって思ったかもしれないけど、ライラックの季節はもうちょっと先だって」と、たった今覚えたらしい知識を披露してくれた。
「……そっかぁ……」
 弟はこんな具合にスポンジのように吸収してどんどん賢くなっていくらしい。兄の俺は、既に完全敗北だ。
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