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【第1章:出会いと執着の兆候】(第1~4話)
第1話「運命の絵」
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透也は、柊蒼一郎(ひいらぎそういちろう)という名を初めて知った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
都内の小さなギャラリー。 平日の昼間、来場者はほとんどいなかった。大学三年生だった透也は、美術雑誌で見つけた新人画家の個展に、一人で足を運んだ。
「柊蒼一郎――光と影の詩人」
そんな謳い文句に惹かれて。
狭いギャラリーに並べられた十数点の作品。どれも素晴らしかった。 でも、透也の足が止まったのは、奥の壁に掛けられた一枚の前だった。
『窓辺の少年』。
窓から差し込む光が、少年の横顔を照らしている。 その表情には言葉にできない憂いがあった。孤独なのか、それとも何かを待っているのか。 光と影が複雑に絡み合い、見る者の心を深く揺さぶる作品だった。
透也は、その絵の前から動けなくなった。
どれくらいそこにいただろう。五分か、十分か、それとも一時間か。 気づいたら、頬に冷たいものが伝っていた。
涙だった。
「っ...」
透也は慌てて袖で顔を拭った。恥ずかしかった。 でも、止められなかった。涙が次々と溢れて、視界が滲む。
美術館でもギャラリーでも、透也が絵を見て泣いたのは、あれが初めてだった。
なぜ泣いたのか。
それは、この絵が透也の心の奥底に触れたから。 言葉にできない孤独を、この少年が代弁してくれたから。
そして―― この絵を描いた人の魂が、透也に語りかけてきたから。
「いつか、この人に会いたい」
ギャラリーを出る時、透也はそう思った。 でも、それは叶わない夢だと諦めていた。新進気鋭の画家と、ただの美大生。接点などあるはずがない。
四年の月日が流れた。 透也は大学を卒業し、美術教師になった。
そして、春。 新しい季節、新しい始まり。
「よし、頑張るぞ」
春の朝の空気は清々しく、透也は新しいスーツの襟を正しながら、私立高校の門をくぐった。 二十四歳。美術教師として初めての赴任。 緊張で手のひらが少し湿っているのを感じながら、透也は小さく息を吐いた。
桜の花びらが風に舞っていた。透也の胸には期待と不安が入り混じっていた。
職員室で挨拶を済ませ、一時間目。透也にとって初めての授業。 一年二組の教室に入ると、三十人ほどの生徒たちが一斉に透也を見た。
「おはよう。今日から美術を担当する、篠原透也だ」
透也は黒板に自分の名前を書いた。少し緊張で手が震えたが、気づかれないように素早く書き終える。
「僕も美術が好きだ。大学では油絵を専攻していた」
生徒たちが興味深そうに聞いている。
「美術は、自分を表現する手段だ。上手い下手じゃない。大切なのは、自分が何を感じて、何を伝えたいか。それを一緒に学んでいこう」
透也の言葉に、生徒たちが頷いている。 前の方に座っている一人の男子生徒が、特に真剣な眼差しで透也を見つめていた。整った顔立ちで、どこか聡明な雰囲気を持つ少年だ。
授業が終わり、透也がホッと息をついていると、その生徒が透也のもとへやってきた。
「先生」 「ん?どうした」
透也が振り返ると、少年は少し緊張した様子で言った。
「僕、柊悠斗(ひいらぎゆうと)といいます。先生の授業、すごく面白かったです」
「ありがとう。柊...悠斗か」
透也は生徒名簿を確認した。確かに、柊悠斗という名前がある。
「先生、印象派についてもっと知りたいんです」
悠斗の目が輝いている。透也は嬉しくなった。
「いいな。印象派は僕も好きだ。特に、モネの光の表現は素晴らしい」
「僕も! 僕、モネの『睡蓮』が大好きで」
悠斗が興奮気味に話す。透也は微笑んだ。
「あの作品は、何度見ても新しい発見がある。光の変化を、あれほど繊細に捉えた画家は他にいないだろう」
「そうなんです! だから僕も、何度も画集を見返すんです」
二人は美術の話で盛り上がった。時間を忘れるほど。 やがて悠斗がふと思い出したように言った。
「そういえば、僕の兄も、画家なんです」
透也の目が見開かれた。
「画家? すごいな」 「はい。油絵を描いてます。個展も開いたことがあるんです」
透也の胸が高鳴った。現役の画家。それも、個展を開けるほどの実力者。
「どんな絵を描くんだ?」 「光と影の対比が特徴的で...言葉で説明するのは難しいんですが」
悠斗が少し困った顔をする。
光と影。
その言葉に、透也の脳裏に何かが閃いた。
まさか。 いや、でも。
「あ、そうだ。先生、もしよければ...」
悠斗が透也を見上げる。
「兄の名前、聞いてもいいですか? もしかしたら、先生もご存知かもしれません」
「もちろん」
透也が頷くと、悠斗は少し誇らしげに言った。
「柊蒼一郎って、ご存知ですか?」
その瞬間―― 世界が止まった。
透也の心臓が、大きく跳ねた。
「え...」
声が出ない。呼吸ができない。
柊蒼一郎。
あの日、ギャラリーで出会った画家。 『窓辺の少年』を描いた人。 透也の魂を揺さぶった、あの絵を生み出した人。
「先生...? 大丈夫ですか?」
悠斗が心配そうに覗き込む。透也は慌てて首を横に振った。
「あ、ああ...知ってる。いや、知ってるというか...」
透也の声が上ずる。
四年前の光景が、鮮明に蘇る。 『窓辺の少年』の前で、涙を流した自分。あの日の感動。あの日の衝撃。
「すごい...まさか、柊さんのお弟さんだったなんて」
透也の目が輝いている。悠斗は嬉しそうに笑った。
「先生、兄の作品を見たことがあるんですね」
「ああ。四年前、都内のギャラリーで個展をやってただろう。あれを見に行ったんだ」
「本当ですか!」
悠斗の顔が輝く。
「先生、今度兄に会いませんか?」
透也の息が止まった。
「え...?」
「兄、きっと喜びます。自分の作品を理解してくれる人に会えるの、久しぶりだって言ってましたから」
会える。 柊蒼一郎に、会える。 憧れの画家に。 あの絵を描いた人に。
透也の手が、無意識に震えていた。
「本当に...いいのか?」
「もちろんです。先生なら、兄もきっと歓迎します」
透也の心が、激しく揺れた。会いたい。でも、怖い。
でも。
「...ぜひ、お会いしたい」
気づけば、そう答えていた。
悠斗の顔が輝く。
「じゃあ、今度の土曜日はどうですか? 兄、土日はアトリエにいることが多いので」
「土曜日...」
透也はすぐに頷いた。
「大丈夫だ。ぜひ、お願いしたい」
「分かりました。じゃあ、兄に伝えておきます」
悠斗が嬉しそうに教室を出ていく。
一人残された透也は、窓の外を見つめた。
放課後、透也は職員室で一人、柊蒼一郎のことを考えていた。
四年前のあの日。 『窓辺の少年』の前で流した涙。 あの絵に込められた、言葉にできない感情。
「まさか、会えるなんて...」
透也は小さく呟いた。
でも、その時。 ふと、悠斗が言った言葉を思い出した。 授業が終わった後、悠斗が何気なく言った一言。
「兄はちょっと変わった人で...集中すると周りが見えなくなるんです。でも、一度欲しいと思ったものは、絶対に手に入れる人なんです」
その言葉が、なぜか透也の胸に引っかかった。
「一度欲しいと思ったものは、絶対に手に入れる」
透也は首を横に振った。考えすぎだ。悠斗は、ただ兄の芸術への情熱を語っただけだろう。
窓の外、夕日が校舎を染めていた。 オレンジ色の光が、職員室に差し込む。 柊蒼一郎が描く光は、きっとこんな色なのだろう。 温かくて、でもどこか寂しげで。 人の心の奥底まで照らし出すような、そんな光。
「会いたいな...」
透也の呟きは、誰にも届かない。ただ、夕日に溶けていくだけだった。 透也の胸には、期待と、そして名状しがたい予感が膨らんでいた。
春は、何かが始まる季節だ。 でも、それが幸福なのか、それとも――。
その夜、透也は四年前に買った美術雑誌を引っ張り出した。 柊蒼一郎の特集記事。ページをめくる。
そこには、『窓辺の少年』の写真が載っていた。 あの憂いを帯びた横顔。 光に照らされながらも、どこか孤独を纏っていた少年。
透也は、その絵をじっと見つめた。 そして、気づいた。
少年の瞳が、まるで透也を見つめているような気がした。 警告するように。 何かを伝えようとするように。
「...気のせいだ」
透也は雑誌を閉じた。 でも、胸の奥に残る、冷たい予感は消えなかった。
これは、始まりだった。 美しい檻へと続く、長い道の。
透也は、まだ知らなかった。
都内の小さなギャラリー。 平日の昼間、来場者はほとんどいなかった。大学三年生だった透也は、美術雑誌で見つけた新人画家の個展に、一人で足を運んだ。
「柊蒼一郎――光と影の詩人」
そんな謳い文句に惹かれて。
狭いギャラリーに並べられた十数点の作品。どれも素晴らしかった。 でも、透也の足が止まったのは、奥の壁に掛けられた一枚の前だった。
『窓辺の少年』。
窓から差し込む光が、少年の横顔を照らしている。 その表情には言葉にできない憂いがあった。孤独なのか、それとも何かを待っているのか。 光と影が複雑に絡み合い、見る者の心を深く揺さぶる作品だった。
透也は、その絵の前から動けなくなった。
どれくらいそこにいただろう。五分か、十分か、それとも一時間か。 気づいたら、頬に冷たいものが伝っていた。
涙だった。
「っ...」
透也は慌てて袖で顔を拭った。恥ずかしかった。 でも、止められなかった。涙が次々と溢れて、視界が滲む。
美術館でもギャラリーでも、透也が絵を見て泣いたのは、あれが初めてだった。
なぜ泣いたのか。
それは、この絵が透也の心の奥底に触れたから。 言葉にできない孤独を、この少年が代弁してくれたから。
そして―― この絵を描いた人の魂が、透也に語りかけてきたから。
「いつか、この人に会いたい」
ギャラリーを出る時、透也はそう思った。 でも、それは叶わない夢だと諦めていた。新進気鋭の画家と、ただの美大生。接点などあるはずがない。
四年の月日が流れた。 透也は大学を卒業し、美術教師になった。
そして、春。 新しい季節、新しい始まり。
「よし、頑張るぞ」
春の朝の空気は清々しく、透也は新しいスーツの襟を正しながら、私立高校の門をくぐった。 二十四歳。美術教師として初めての赴任。 緊張で手のひらが少し湿っているのを感じながら、透也は小さく息を吐いた。
桜の花びらが風に舞っていた。透也の胸には期待と不安が入り混じっていた。
職員室で挨拶を済ませ、一時間目。透也にとって初めての授業。 一年二組の教室に入ると、三十人ほどの生徒たちが一斉に透也を見た。
「おはよう。今日から美術を担当する、篠原透也だ」
透也は黒板に自分の名前を書いた。少し緊張で手が震えたが、気づかれないように素早く書き終える。
「僕も美術が好きだ。大学では油絵を専攻していた」
生徒たちが興味深そうに聞いている。
「美術は、自分を表現する手段だ。上手い下手じゃない。大切なのは、自分が何を感じて、何を伝えたいか。それを一緒に学んでいこう」
透也の言葉に、生徒たちが頷いている。 前の方に座っている一人の男子生徒が、特に真剣な眼差しで透也を見つめていた。整った顔立ちで、どこか聡明な雰囲気を持つ少年だ。
授業が終わり、透也がホッと息をついていると、その生徒が透也のもとへやってきた。
「先生」 「ん?どうした」
透也が振り返ると、少年は少し緊張した様子で言った。
「僕、柊悠斗(ひいらぎゆうと)といいます。先生の授業、すごく面白かったです」
「ありがとう。柊...悠斗か」
透也は生徒名簿を確認した。確かに、柊悠斗という名前がある。
「先生、印象派についてもっと知りたいんです」
悠斗の目が輝いている。透也は嬉しくなった。
「いいな。印象派は僕も好きだ。特に、モネの光の表現は素晴らしい」
「僕も! 僕、モネの『睡蓮』が大好きで」
悠斗が興奮気味に話す。透也は微笑んだ。
「あの作品は、何度見ても新しい発見がある。光の変化を、あれほど繊細に捉えた画家は他にいないだろう」
「そうなんです! だから僕も、何度も画集を見返すんです」
二人は美術の話で盛り上がった。時間を忘れるほど。 やがて悠斗がふと思い出したように言った。
「そういえば、僕の兄も、画家なんです」
透也の目が見開かれた。
「画家? すごいな」 「はい。油絵を描いてます。個展も開いたことがあるんです」
透也の胸が高鳴った。現役の画家。それも、個展を開けるほどの実力者。
「どんな絵を描くんだ?」 「光と影の対比が特徴的で...言葉で説明するのは難しいんですが」
悠斗が少し困った顔をする。
光と影。
その言葉に、透也の脳裏に何かが閃いた。
まさか。 いや、でも。
「あ、そうだ。先生、もしよければ...」
悠斗が透也を見上げる。
「兄の名前、聞いてもいいですか? もしかしたら、先生もご存知かもしれません」
「もちろん」
透也が頷くと、悠斗は少し誇らしげに言った。
「柊蒼一郎って、ご存知ですか?」
その瞬間―― 世界が止まった。
透也の心臓が、大きく跳ねた。
「え...」
声が出ない。呼吸ができない。
柊蒼一郎。
あの日、ギャラリーで出会った画家。 『窓辺の少年』を描いた人。 透也の魂を揺さぶった、あの絵を生み出した人。
「先生...? 大丈夫ですか?」
悠斗が心配そうに覗き込む。透也は慌てて首を横に振った。
「あ、ああ...知ってる。いや、知ってるというか...」
透也の声が上ずる。
四年前の光景が、鮮明に蘇る。 『窓辺の少年』の前で、涙を流した自分。あの日の感動。あの日の衝撃。
「すごい...まさか、柊さんのお弟さんだったなんて」
透也の目が輝いている。悠斗は嬉しそうに笑った。
「先生、兄の作品を見たことがあるんですね」
「ああ。四年前、都内のギャラリーで個展をやってただろう。あれを見に行ったんだ」
「本当ですか!」
悠斗の顔が輝く。
「先生、今度兄に会いませんか?」
透也の息が止まった。
「え...?」
「兄、きっと喜びます。自分の作品を理解してくれる人に会えるの、久しぶりだって言ってましたから」
会える。 柊蒼一郎に、会える。 憧れの画家に。 あの絵を描いた人に。
透也の手が、無意識に震えていた。
「本当に...いいのか?」
「もちろんです。先生なら、兄もきっと歓迎します」
透也の心が、激しく揺れた。会いたい。でも、怖い。
でも。
「...ぜひ、お会いしたい」
気づけば、そう答えていた。
悠斗の顔が輝く。
「じゃあ、今度の土曜日はどうですか? 兄、土日はアトリエにいることが多いので」
「土曜日...」
透也はすぐに頷いた。
「大丈夫だ。ぜひ、お願いしたい」
「分かりました。じゃあ、兄に伝えておきます」
悠斗が嬉しそうに教室を出ていく。
一人残された透也は、窓の外を見つめた。
放課後、透也は職員室で一人、柊蒼一郎のことを考えていた。
四年前のあの日。 『窓辺の少年』の前で流した涙。 あの絵に込められた、言葉にできない感情。
「まさか、会えるなんて...」
透也は小さく呟いた。
でも、その時。 ふと、悠斗が言った言葉を思い出した。 授業が終わった後、悠斗が何気なく言った一言。
「兄はちょっと変わった人で...集中すると周りが見えなくなるんです。でも、一度欲しいと思ったものは、絶対に手に入れる人なんです」
その言葉が、なぜか透也の胸に引っかかった。
「一度欲しいと思ったものは、絶対に手に入れる」
透也は首を横に振った。考えすぎだ。悠斗は、ただ兄の芸術への情熱を語っただけだろう。
窓の外、夕日が校舎を染めていた。 オレンジ色の光が、職員室に差し込む。 柊蒼一郎が描く光は、きっとこんな色なのだろう。 温かくて、でもどこか寂しげで。 人の心の奥底まで照らし出すような、そんな光。
「会いたいな...」
透也の呟きは、誰にも届かない。ただ、夕日に溶けていくだけだった。 透也の胸には、期待と、そして名状しがたい予感が膨らんでいた。
春は、何かが始まる季節だ。 でも、それが幸福なのか、それとも――。
その夜、透也は四年前に買った美術雑誌を引っ張り出した。 柊蒼一郎の特集記事。ページをめくる。
そこには、『窓辺の少年』の写真が載っていた。 あの憂いを帯びた横顔。 光に照らされながらも、どこか孤独を纏っていた少年。
透也は、その絵をじっと見つめた。 そして、気づいた。
少年の瞳が、まるで透也を見つめているような気がした。 警告するように。 何かを伝えようとするように。
「...気のせいだ」
透也は雑誌を閉じた。 でも、胸の奥に残る、冷たい予感は消えなかった。
これは、始まりだった。 美しい檻へと続く、長い道の。
透也は、まだ知らなかった。
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