美術教師の檻――「描き終わるまで帰さない」画家の執着

紺碧のごんぎつね

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【第1章:出会いと執着の兆候】(第1~4話)

第2話「画集の中の真実」

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翌日の放課後、透也が美術準備室で次の授業の資料を整理していると、ノックの音がした。

「先生、いますか?」

聞き覚えのある声。ドアを開けると、悠斗(ゆうと)が立っていた。両手で大きな本を抱えている。

「悠斗か。どうした?」 「これ、兄の作品集です」

悠斗が本を差し出す。透也の手が、ほんの少し震えた。受け取る瞬間、本の重みが手のひらに伝わる。ずっしりとした、画家の魂の重さ。

「いいのか? 貴重なものだろう」 「大丈夫です。先生に見てもらいたくて。兄も、『篠原先生に見せてあげて』って」

透也の心臓が跳ねた。 柊蒼一郎が、自分のことを。

「...ありがとう」

透也は画集を受け取った。表紙には、柊蒼一郎の名前が金色の箔押しで刻まれている。

悠斗が嬉しそうに笑う。

「じゃあ、先生、ゆっくり見てください。僕、部活があるので」 「ああ。ありがとう、悠斗」

悠斗が準備室を出ていく。

一人残された透也は、机の上に画集を置き、そっと表紙を開いた。

最初のページに現れたのは、夕暮れの街を描いた作品だった。 ビルの窓に映る光。路地に伸びる長い影。光と影が複雑に絡み合い、現実と幻想の境界を曖昧にしている。

「すごい...」

透也の口から、自然と言葉が漏れた。

一枚一枚、ページをめくるたびに、新しい世界が広がる。 森の中の光。雨に濡れた石畳。朝焼けに染まる屋根。どの作品にも、柊蒼一郎独特の光の表現があった。

光は、ただ明るいだけじゃない。 柊の描く光には、温度がある。重さがある。そして、何より――感情がある。 喜びの光。悲しみの光。孤独の光。

透也の指先が、無意識にページの上を滑る。まるで、絵の具の質感まで感じ取れそうな気がした。

そして、画集の中盤。 透也の手が、ピタリと止まった。

『窓辺の少年』。

あの日、ギャラリーで見た絵。四年前、まだ大学生だった透也の心を、深く深く揺さぶった作品。

窓から差し込む光が少年の横顔を照らし、その表情には言葉にできない憂いがある。孤独なのか、それとも何かを待っているのか。

あの日と同じように、透也の目に涙が滲んだ。

「っ...」

慌てて目元を拭う。くそ、また泣きそうになってる。 でも、抑えられなかった。この作品に込められた感情が、透也の心に直接響いてくる。 まるで、自分の魂が絵に触れているような感覚。

透也は、この絵を何度も何度も見つめた。 少年の横顔。光に照らされた頬。影に沈む瞳。

その瞳には、何が映っているのだろう。

透也がそう思った瞬間―― 少年の瞳が、まるで透也を見つめているような気がした。

いや、気のせいじゃない。 確かに、この少年は透也を見ている。 警告するように。 何かを伝えようとするように。

透也の背筋に、冷たいものが走った。

「...何を、考えてるんだ」

透也は首を横に振った。絵が人を見るわけがない。疲れているんだ、きっと。

ページをめくり続ける。 海の絵。山の絵。街角の絵。どれも素晴らしかった。

でも、最後のページに差し掛かった時。 透也は息を呑んだ。

そこには、一枚の未完成作品が載っていた。

タイトルは『待ち人』。 椅子に座る人物の後ろ姿。顔は描かれていない。でも、その佇まいには、何かを待つ切なさが滲んでいた。

そして、ページの隅に、手書きのメモがあった。

『いつか、完璧なモデルに出会えたら、この絵を完成させたい――柊蒼一郎』

完璧なモデル。

その言葉が、透也の胸に引っかかった。

画集を閉じる。でも、その重みは透也の手に残っている。 柊蒼一郎の世界。

その創造主に、もうすぐ会える。 土曜日。あと四日後。

その夜、透也は自宅で画集をもう一度開いた。

何度見ても、柊の作品は素晴らしかった。

でも、『窓辺の少年』を見る度に、透也は不思議な感覚に襲われた。 この少年は、何を見ているのだろう。 何を待っているのだろう。 そして、なぜこんなにも孤独な表情をしているのだろう。

透也は、ふと思った。 もしかして、この少年は――

柊蒼一郎自身なのではないか。 画家が、自分自身の孤独を描いた作品なのではないか。

だとしたら。 柊蒼一郎という人物は、どれほど孤独なのだろう。

透也の胸が、少し痛んだ。

携帯が震えた。メッセージ。 悠斗からだった。

『先生、画集見ましたか? 兄が、先生の感想を聞きたいって言ってます』

透也は少し考えて、返信した。

『素晴らしかった。特に『窓辺の少年』は、何度見ても心を打たれる』

すぐに返信が来た。

『兄に伝えます! 兄、きっと喜びます』

そして、数分後。

別の番号から、メッセージが届いた。

『篠原先生、初めまして。柊蒼一郎です。悠斗から連絡先を聞きました』

透也の心臓が跳ねた。 柊蒼一郎から、直接。

『画集を見てくださったと聞きました。ありがとうございます』

透也は震える指で返信した。

『こちらこそ。素晴らしい作品ばかりでした』

すぐに既読がついた。そして返信。

『先生は、『窓辺の少年』が好きだと悠斗から聞きました』 『はい。四年前、初めて見た時から』 『...そうでしたか』

少しの間があって、次のメッセージ。

『あの絵で泣いてくれた人は、先生が初めてです』

透也の顔が真っ赤になった。 悠斗に話したことが、柊に伝わっている。

『お恥ずかしい限りです』 『いえ。嬉しかったです。自分の作品を、そこまで深く理解してくれる人がいると知って』

透也の胸が温かくなった。

『土曜日、楽しみにしています』

柊からの最後のメッセージ。

透也は、何と返信すべきか迷った。

『僕も、楽しみにしています』

送信ボタンを押す。すぐに既読。 でも、返信は来なかった。

透也は携帯を置いて、もう一度画集を開いた。 『窓辺の少年』のページ。

少年の瞳が、じっと透也を見つめている。 その瞳は、憂いを帯びていた。 まるで、何かを警告するように。

透也は、その視線から目を逸らせなかった。 この絵が、何を伝えようとしているのか。 それを、透也はまだ理解していなかった。

でも、土曜日。 柊蒼一郎に会えば、何かが分かるかもしれない。

透也は画集を閉じて、ベッドに横になった。 目を閉じると、柊の顔が浮かんだ。
 会ったこともないのに、なぜか鮮明に想像できる。 黒い長髪。鋭い眼光。芸術家特有の、研ぎ澄まされた雰囲気。

透也の心臓が、静かに高鳴った。

土曜日。 運命の日が、近づいている。
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