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【第1章:出会いと執着の兆候】(第1~4話)
第3話「アトリエという名の聖域」
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土曜日の午後、透也は駅前で悠斗と待ち合わせをしていた。
春の陽気に、新しいシャツを選んだ。何度も鏡の前で確認して、結局シンプルな白いシャツに落ち着いた。
朝から何も喉を通らず、コーヒーだけを三杯も飲んだ。緊張で胃が痛い。
「先生、お待たせしました」
悠斗が手を振りながら近づいてくる。透也は少し緊張した笑みを浮かべた。
「いや、僕も今来たところだ」
嘘だった。実際には三十分も前から待っていた。
「兄、すごく楽しみにしてましたよ。昨日から、アトリエの掃除してたんです」
悠斗の言葉に、透也の胸が高鳴る。
二人は住宅街へと向かった。透也の心臓は、歩くたびに激しく鳴る。手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
「緊張してます?」
悠斗が笑いながら聞いてきた。透也は頬を掻いた。
「少しな。憧れの人に会うんだ。緊張しない方がおかしいだろう」
「兄も、緊張してると思いますよ」
「え?」
「だって、自分の作品を本当に理解してくれる人に会うの、初めてなんです」
悠斗の言葉に、透也は少し驚いた。 柊蒼一郎ほどの画家が、緊張する?
「兄、普段は人と会うの避けるタイプなんです。でも、先生のことは『会いたい』って自分から言ったんですよ」
透也の胸が、さらに高鳴った。
住宅街の一角、古いビルの前で悠斗が足を止めた。 三階建ての、少し古めかしい建物。外壁は年季が入っているが、どこか趣がある。蔦が這い、窓からは柔らかな光が漏れていた。
「ここです」
階段を上る。透也の足取りが、自然と重くなった。 一段、また一段。 心臓の音が、耳の中で響いている。
三階の奥の扉。301号室。
悠斗がノックした。
「兄さん、来ました」 「...どうぞ」
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
透也の心臓が、大きく跳ねる。
悠斗がドアを開けた瞬間――
透也の鼻を油絵の匂いが突いた。亜麻仁油と絵の具の混ざった、独特の香り。美術を学んだ者なら誰でも知っている、創作の匂い。
「わあ...」
思わず声が漏れた。
広い空間。天井が高く、大きな窓から午後の光が差し込んでいる。床には無数のキャンバスが立てかけられ、絵の具のチューブが散らばっている。中央には大きなイーゼルがあり、未完成の作品が置かれていた。
壁にも完成した作品がいくつも掛けられている。どれも、画集で見たものとは違う、新作らしい。
「ようこそ」
声がして、透也は顔を上げた。
アトリエの奥、逆光の中から、一人の男性が現れた。
透也の息が、止まった。
黒髪のロング。鋭い眼光。長身で、185センチはあるだろうか。白いシャツには、あちこちに絵の具が付いている。袖をまくった腕は細いが、どこか力強さを感じさせる。彫りの深い顔立ちは、男性的な色気を醸し出していた。
柊蒼一郎。
透也の憧れの画家が、光の中を歩いてくる。 まるで、絵画の中から抜け出してきたような、非現実的な美しさだった。
「あ...の...」
言葉が出てこない。透也の心臓が、今にも飛び出しそうなほど激しく鳴っている。喉が乾いて、呼吸が浅い。
柊が穏やかに微笑んだ。
「悠斗の担任の、篠原先生ですね」 「は、はい。篠原透也です」
透也が慌てて頭を下げる。柊が近づいてきた。 その存在感に、透也は圧倒される。
「お会いできて光栄です」
柊が手を差し出した。透也は緊張しながら、その手を握った。 大きな手。長い指。節くれだった、絵を描く手だ。画家の手。
握手の間、柊の目が透也を見つめている。 鋭い眼光だが、どこか優しさも感じられる。
でも―― 透也は気づいた。
柊の視線が、自分の顔を、ゆっくりと舐めるように見ていることに。 顔から、首へ。首から、肩へ。 まるで、透也の全てを記憶しようとしているような。
「こちらこそ。お兄さんの作品、大好きなんです」
透也の言葉に、柊の目が少し輝いた。
「ありがとう。悠斗から聞いたよ。四年前の個展を見に来てくれたんだって」
「はい。あの時の作品、今でも覚えてます。特に『窓辺の少年』は...」
透也が言いかけると、柊の表情が変わった。 驚きと、そして――何か、熱いものが混ざった表情。
「あの作品を覚えていてくれる人は、少ないんだ」
柊の声が、少し低くなった。
「どうしてですか。あんなに素晴らしい作品なのに」
透也の真剣な表情に、柊は少し驚いたように見えた。そして、穏やかに笑った。 でも、その笑顔の奥に、何かが潜んでいる。
「君は、本当に美術が好きなんだね」
「ええ。美術教師になったのも、それが理由です」
「そうか...」
柊が呟く。その声は、どこか満足げだった。 いや、満足以上の何かだった。 まるで、長年探していたものを、ようやく見つけたとでも言うような。
二人の会話を、悠斗が微笑みながら見ている。
「じゃあ、お茶でも淹れるよ。ゆっくりしていって」
柊が簡易キッチンへと向かう。透也は、その背中を見つめた。長身で痩せているが、どこか存在感がある。歩き方一つにも、芸術家特有の雰囲気が漂っていた。
「先生、座ってください」
悠斗が古いソファを勧める。透也が腰を下ろすと、悠斗は小声で言った。
「兄、すごく嬉しそうです」
「そう?」
「ええ。普段はもっと無口なんです。でも今日は、表情が柔らかい」
透也の胸が温かくなった。自分が、柊を喜ばせているのなら。それだけで、来た甲斐があった。
やがて、柊がコーヒーを持ってきた。三人分のカップ。悠斗が一つ受け取ると、柊に向かって言った。
「兄さん、僕ちょっと本を見てきます」
「ああ」
悠斗が別室へと消える。
透也と柊、二人きりになった。
少しの沈黙。 その沈黙が、やけに重く感じられた。
透也はコーヒーカップを手に取った。温かさが手のひらに伝わる。
「篠原先生は、油絵を?」
柊が口を開いた。透也は頷く。
「大学で専攻してました。でも、お兄さんのようには...」
「謙遜しないで。美術を愛する気持ちは、技術の上下じゃない」
柊の言葉に、透也は少し救われた気がした。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
二人は美術の話を始めた。印象派のこと。現代美術のこと。光の表現について。時間を忘れるほど、会話は弾んだ。
柊は穏やかで、知的だった。
話し方は丁寧で、透也の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれる。
透也は、この人と話せることが、ただ嬉しかった。
でも。 時々、柊の視線が鋭くなる瞬間があった。
透也が何かを話している時。柊はただ聞いているだけじゃない。透也を、じっと見つめている。 まるで、観察するように。
いや、観察以上の何かだ。 まるで、透也の全てを記憶しようとしているような。透也の仕草一つ、表情の変化一つを、逃さないように。
透也が気づいて視線を向けると、柊はすぐに穏やかな表情に戻る。
でも、その一瞬―― 透也は確かに見た。 柊の目に宿る、熱を帯びた何かを。 渇望に似た、危険な光を。
「篠原先生」
柊の声に、透也は顔を上げた。
「はい」 「悠斗が、先生のことをよく話すんだ。優しくて、真面目で、生徒思いだって」
透也の顔が少し赤くなった。
「そんな...僕はただ、普通に...」 「いや、本当だよ」
柊が微笑む。その笑顔は、どこか寂しげに見えた。
「僕には、そういう経験がなかったから」 「経験...?」 「誰かに、そんなふうに思われる経験」
柊の目が、少し遠くを見ている。透也は何も言えなかった。その表情には、言葉にできない孤独が滲んでいた。 まるで、『窓辺の少年』と同じ。
あの絵の中の少年と、同じ孤独を纏っている。 透也の胸が、少し痛んだ。
「柊さんは...一人で、絵を描き続けてきたんですか?」
透也が小さく聞いた。柊は少し驚いたように透也を見た。
「...よく分かったね」 「『窓辺の少年』を見た時、そう思ったんです。あの絵を描いた人は、きっと孤独なんだって」
柊の目が、わずかに見開かれた。
「君は...本当に、僕の絵を理解してくれるんだね」
柊の声が、少し震えている。
透也は頷いた。
「あの絵には、柊さんの魂が込められてますから」
沈黙。 長い、長い沈黙。
柊は、じっと透也を見つめていた。 その視線は、もう穏やかではなかった。 熱い。 まるで、透也を焼き尽くすような、熱い視線。
やがて、悠斗が戻ってきた。雰囲気が和らぐ。三人でまた話をした。
一時間ほど過ごして、透也は時計を見た。もうこんな時間か。名残惜しいが、そろそろ帰らなければ。
「そろそろ、失礼します」
透也が立ち上がる。柊も立ち上がった。
「もう帰るのか。もう少しいてもいいのに」
柊の声に、微かな名残惜しさが滲んでいた。
「いえ、今日は十分に楽しませてもらいました」
透也が頭を下げる。柊が、何か言いたげに透也を見つめた。
数秒の沈黙。 その沈黙が、やけに重く感じられた。
「篠原先生」
柊の声が、少し低くなった。
「はい?」
透也が柊を見る。柊の目が、真剣だった。 いや、真剣以上の何かだった。 熱を帯びた、渇望に似た眼差し。
「君を...描きたい」
透也の心臓が止まった。
「え...?」 「君を、モデルにしたい」
柊の視線が、透也を捉える。まっすぐに。逃がさないように。 まるで、獲物を見つけた獣のように。
「僕...ですか?」 「ああ。君は、美しい」
透也の顔が真っ赤になった。男に、美しいと言われた。それも、憧れの画家に。
「でも...僕なんかで...」 「いや、君がいい」
柊が一歩近づく。透也の心臓が、激しく鳴り続ける。
「その無防備な表情が、完璧だ」
柊の声に、何か熱いものが籠もっている。透也は、その熱に少し気圧された。
そして、気づいた。 柊の視線が、自分の全身を舐めている。 顔から、首、胸、腰へと。 まるで、服の下まで透かして見ているような、そんな視線。
「画集の最後に載ってた『待ち人』...あの絵を、いつか完成させたい」
柊が透也を見つめる。
「でも、その前に」
柊の視線が、透也の横顔を舐める。
「まずは、君の横顔を描かせてほしい」
「『窓辺の少年』の、新しいバージョンを」
透也の心臓が跳ねた。
「四年前、あの絵を見て泣いてくれた君」
「その君自身を、同じ構図で描きたいんだ」
透也は息を呑んだ。
「...考えさせてください」
透也が小さく言った。柊は頷いた。
「もちろん。無理強いはしない」
でも、その目は、透也から離れなかった。 まるで、もう答えは決まっているとでも言うように。
悠斗が嬉しそうに言った。
「先生、兄のモデルになってくれるんですか?」
透也は、悠斗の純粋な笑顔を見て、頷いた。
「...ああ。やらせてもらう」
柊の顔が、わずかに綻んだ。 でも、その笑顔は―― どこか、勝利を確信した者の笑みに見えた。
透也は慌ててアトリエを出た。階段を下りながら、胸に手を当てる。心臓がまだ、激しく鳴っている。
モデル。自分が、柊蒼一郎のモデルになる。
嬉しさと、何か得体の知れない不安が、透也の心を満たした。
そして、あの視線。 あれは、本当に芸術家の観察眼だったのだろうか。 それとも――
透也は首を横に振った。考えすぎだ。柊は穏やかで、知的な人だった。ただ、芸術に対して真摯なだけだ。
でも。 透也の背筋を走った、あの冷たい感覚は、消えなかった。
駅に着いて、携帯が震えた。柊からだった。
『今日はありがとう。次は来週の土曜日、2時にどうだろう。君を描けること、心から楽しみにしている』
透也は画面を見つめた。 「心から楽しみにしている」。 その言葉が、なぜか重く感じられた。
透也は深呼吸をして、返信した。
『わかりました。よろしくお願いします』
送信ボタンを押す。すぐに既読がついた。
『ありがとう。君は、僕が探していた完璧なモデルだ』
その言葉に、透也は何か引っかかるものを感じた。 「探していた」。 まるで、ずっと前から、透也を待っていたとでも言うように。
家に帰り、鏡の前に立つ。自分の顔を見つめる。 柊は、この顔を「美しい」と言った。透也には、そう見えない。ただの、普通の男の顔だ。
でも、柊の目には違って見える。 それは確かだった。
その夜、透也はうまく眠れなかった。 目を閉じると、柊の顔が浮かぶ。鋭い眼光。穏やかな微笑み。その裏に潜む、何か。
あの視線。 透也の全身を舐めるような、あの視線。
そして、『窓辺の少年』の憂いを帯びた瞳。 まるで、警告するような瞳。
「大丈夫...だよな」
透也は自分に問いかけた。 でも、答えは返ってこなかった。
春の陽気に、新しいシャツを選んだ。何度も鏡の前で確認して、結局シンプルな白いシャツに落ち着いた。
朝から何も喉を通らず、コーヒーだけを三杯も飲んだ。緊張で胃が痛い。
「先生、お待たせしました」
悠斗が手を振りながら近づいてくる。透也は少し緊張した笑みを浮かべた。
「いや、僕も今来たところだ」
嘘だった。実際には三十分も前から待っていた。
「兄、すごく楽しみにしてましたよ。昨日から、アトリエの掃除してたんです」
悠斗の言葉に、透也の胸が高鳴る。
二人は住宅街へと向かった。透也の心臓は、歩くたびに激しく鳴る。手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
「緊張してます?」
悠斗が笑いながら聞いてきた。透也は頬を掻いた。
「少しな。憧れの人に会うんだ。緊張しない方がおかしいだろう」
「兄も、緊張してると思いますよ」
「え?」
「だって、自分の作品を本当に理解してくれる人に会うの、初めてなんです」
悠斗の言葉に、透也は少し驚いた。 柊蒼一郎ほどの画家が、緊張する?
「兄、普段は人と会うの避けるタイプなんです。でも、先生のことは『会いたい』って自分から言ったんですよ」
透也の胸が、さらに高鳴った。
住宅街の一角、古いビルの前で悠斗が足を止めた。 三階建ての、少し古めかしい建物。外壁は年季が入っているが、どこか趣がある。蔦が這い、窓からは柔らかな光が漏れていた。
「ここです」
階段を上る。透也の足取りが、自然と重くなった。 一段、また一段。 心臓の音が、耳の中で響いている。
三階の奥の扉。301号室。
悠斗がノックした。
「兄さん、来ました」 「...どうぞ」
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
透也の心臓が、大きく跳ねる。
悠斗がドアを開けた瞬間――
透也の鼻を油絵の匂いが突いた。亜麻仁油と絵の具の混ざった、独特の香り。美術を学んだ者なら誰でも知っている、創作の匂い。
「わあ...」
思わず声が漏れた。
広い空間。天井が高く、大きな窓から午後の光が差し込んでいる。床には無数のキャンバスが立てかけられ、絵の具のチューブが散らばっている。中央には大きなイーゼルがあり、未完成の作品が置かれていた。
壁にも完成した作品がいくつも掛けられている。どれも、画集で見たものとは違う、新作らしい。
「ようこそ」
声がして、透也は顔を上げた。
アトリエの奥、逆光の中から、一人の男性が現れた。
透也の息が、止まった。
黒髪のロング。鋭い眼光。長身で、185センチはあるだろうか。白いシャツには、あちこちに絵の具が付いている。袖をまくった腕は細いが、どこか力強さを感じさせる。彫りの深い顔立ちは、男性的な色気を醸し出していた。
柊蒼一郎。
透也の憧れの画家が、光の中を歩いてくる。 まるで、絵画の中から抜け出してきたような、非現実的な美しさだった。
「あ...の...」
言葉が出てこない。透也の心臓が、今にも飛び出しそうなほど激しく鳴っている。喉が乾いて、呼吸が浅い。
柊が穏やかに微笑んだ。
「悠斗の担任の、篠原先生ですね」 「は、はい。篠原透也です」
透也が慌てて頭を下げる。柊が近づいてきた。 その存在感に、透也は圧倒される。
「お会いできて光栄です」
柊が手を差し出した。透也は緊張しながら、その手を握った。 大きな手。長い指。節くれだった、絵を描く手だ。画家の手。
握手の間、柊の目が透也を見つめている。 鋭い眼光だが、どこか優しさも感じられる。
でも―― 透也は気づいた。
柊の視線が、自分の顔を、ゆっくりと舐めるように見ていることに。 顔から、首へ。首から、肩へ。 まるで、透也の全てを記憶しようとしているような。
「こちらこそ。お兄さんの作品、大好きなんです」
透也の言葉に、柊の目が少し輝いた。
「ありがとう。悠斗から聞いたよ。四年前の個展を見に来てくれたんだって」
「はい。あの時の作品、今でも覚えてます。特に『窓辺の少年』は...」
透也が言いかけると、柊の表情が変わった。 驚きと、そして――何か、熱いものが混ざった表情。
「あの作品を覚えていてくれる人は、少ないんだ」
柊の声が、少し低くなった。
「どうしてですか。あんなに素晴らしい作品なのに」
透也の真剣な表情に、柊は少し驚いたように見えた。そして、穏やかに笑った。 でも、その笑顔の奥に、何かが潜んでいる。
「君は、本当に美術が好きなんだね」
「ええ。美術教師になったのも、それが理由です」
「そうか...」
柊が呟く。その声は、どこか満足げだった。 いや、満足以上の何かだった。 まるで、長年探していたものを、ようやく見つけたとでも言うような。
二人の会話を、悠斗が微笑みながら見ている。
「じゃあ、お茶でも淹れるよ。ゆっくりしていって」
柊が簡易キッチンへと向かう。透也は、その背中を見つめた。長身で痩せているが、どこか存在感がある。歩き方一つにも、芸術家特有の雰囲気が漂っていた。
「先生、座ってください」
悠斗が古いソファを勧める。透也が腰を下ろすと、悠斗は小声で言った。
「兄、すごく嬉しそうです」
「そう?」
「ええ。普段はもっと無口なんです。でも今日は、表情が柔らかい」
透也の胸が温かくなった。自分が、柊を喜ばせているのなら。それだけで、来た甲斐があった。
やがて、柊がコーヒーを持ってきた。三人分のカップ。悠斗が一つ受け取ると、柊に向かって言った。
「兄さん、僕ちょっと本を見てきます」
「ああ」
悠斗が別室へと消える。
透也と柊、二人きりになった。
少しの沈黙。 その沈黙が、やけに重く感じられた。
透也はコーヒーカップを手に取った。温かさが手のひらに伝わる。
「篠原先生は、油絵を?」
柊が口を開いた。透也は頷く。
「大学で専攻してました。でも、お兄さんのようには...」
「謙遜しないで。美術を愛する気持ちは、技術の上下じゃない」
柊の言葉に、透也は少し救われた気がした。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
二人は美術の話を始めた。印象派のこと。現代美術のこと。光の表現について。時間を忘れるほど、会話は弾んだ。
柊は穏やかで、知的だった。
話し方は丁寧で、透也の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれる。
透也は、この人と話せることが、ただ嬉しかった。
でも。 時々、柊の視線が鋭くなる瞬間があった。
透也が何かを話している時。柊はただ聞いているだけじゃない。透也を、じっと見つめている。 まるで、観察するように。
いや、観察以上の何かだ。 まるで、透也の全てを記憶しようとしているような。透也の仕草一つ、表情の変化一つを、逃さないように。
透也が気づいて視線を向けると、柊はすぐに穏やかな表情に戻る。
でも、その一瞬―― 透也は確かに見た。 柊の目に宿る、熱を帯びた何かを。 渇望に似た、危険な光を。
「篠原先生」
柊の声に、透也は顔を上げた。
「はい」 「悠斗が、先生のことをよく話すんだ。優しくて、真面目で、生徒思いだって」
透也の顔が少し赤くなった。
「そんな...僕はただ、普通に...」 「いや、本当だよ」
柊が微笑む。その笑顔は、どこか寂しげに見えた。
「僕には、そういう経験がなかったから」 「経験...?」 「誰かに、そんなふうに思われる経験」
柊の目が、少し遠くを見ている。透也は何も言えなかった。その表情には、言葉にできない孤独が滲んでいた。 まるで、『窓辺の少年』と同じ。
あの絵の中の少年と、同じ孤独を纏っている。 透也の胸が、少し痛んだ。
「柊さんは...一人で、絵を描き続けてきたんですか?」
透也が小さく聞いた。柊は少し驚いたように透也を見た。
「...よく分かったね」 「『窓辺の少年』を見た時、そう思ったんです。あの絵を描いた人は、きっと孤独なんだって」
柊の目が、わずかに見開かれた。
「君は...本当に、僕の絵を理解してくれるんだね」
柊の声が、少し震えている。
透也は頷いた。
「あの絵には、柊さんの魂が込められてますから」
沈黙。 長い、長い沈黙。
柊は、じっと透也を見つめていた。 その視線は、もう穏やかではなかった。 熱い。 まるで、透也を焼き尽くすような、熱い視線。
やがて、悠斗が戻ってきた。雰囲気が和らぐ。三人でまた話をした。
一時間ほど過ごして、透也は時計を見た。もうこんな時間か。名残惜しいが、そろそろ帰らなければ。
「そろそろ、失礼します」
透也が立ち上がる。柊も立ち上がった。
「もう帰るのか。もう少しいてもいいのに」
柊の声に、微かな名残惜しさが滲んでいた。
「いえ、今日は十分に楽しませてもらいました」
透也が頭を下げる。柊が、何か言いたげに透也を見つめた。
数秒の沈黙。 その沈黙が、やけに重く感じられた。
「篠原先生」
柊の声が、少し低くなった。
「はい?」
透也が柊を見る。柊の目が、真剣だった。 いや、真剣以上の何かだった。 熱を帯びた、渇望に似た眼差し。
「君を...描きたい」
透也の心臓が止まった。
「え...?」 「君を、モデルにしたい」
柊の視線が、透也を捉える。まっすぐに。逃がさないように。 まるで、獲物を見つけた獣のように。
「僕...ですか?」 「ああ。君は、美しい」
透也の顔が真っ赤になった。男に、美しいと言われた。それも、憧れの画家に。
「でも...僕なんかで...」 「いや、君がいい」
柊が一歩近づく。透也の心臓が、激しく鳴り続ける。
「その無防備な表情が、完璧だ」
柊の声に、何か熱いものが籠もっている。透也は、その熱に少し気圧された。
そして、気づいた。 柊の視線が、自分の全身を舐めている。 顔から、首、胸、腰へと。 まるで、服の下まで透かして見ているような、そんな視線。
「画集の最後に載ってた『待ち人』...あの絵を、いつか完成させたい」
柊が透也を見つめる。
「でも、その前に」
柊の視線が、透也の横顔を舐める。
「まずは、君の横顔を描かせてほしい」
「『窓辺の少年』の、新しいバージョンを」
透也の心臓が跳ねた。
「四年前、あの絵を見て泣いてくれた君」
「その君自身を、同じ構図で描きたいんだ」
透也は息を呑んだ。
「...考えさせてください」
透也が小さく言った。柊は頷いた。
「もちろん。無理強いはしない」
でも、その目は、透也から離れなかった。 まるで、もう答えは決まっているとでも言うように。
悠斗が嬉しそうに言った。
「先生、兄のモデルになってくれるんですか?」
透也は、悠斗の純粋な笑顔を見て、頷いた。
「...ああ。やらせてもらう」
柊の顔が、わずかに綻んだ。 でも、その笑顔は―― どこか、勝利を確信した者の笑みに見えた。
透也は慌ててアトリエを出た。階段を下りながら、胸に手を当てる。心臓がまだ、激しく鳴っている。
モデル。自分が、柊蒼一郎のモデルになる。
嬉しさと、何か得体の知れない不安が、透也の心を満たした。
そして、あの視線。 あれは、本当に芸術家の観察眼だったのだろうか。 それとも――
透也は首を横に振った。考えすぎだ。柊は穏やかで、知的な人だった。ただ、芸術に対して真摯なだけだ。
でも。 透也の背筋を走った、あの冷たい感覚は、消えなかった。
駅に着いて、携帯が震えた。柊からだった。
『今日はありがとう。次は来週の土曜日、2時にどうだろう。君を描けること、心から楽しみにしている』
透也は画面を見つめた。 「心から楽しみにしている」。 その言葉が、なぜか重く感じられた。
透也は深呼吸をして、返信した。
『わかりました。よろしくお願いします』
送信ボタンを押す。すぐに既読がついた。
『ありがとう。君は、僕が探していた完璧なモデルだ』
その言葉に、透也は何か引っかかるものを感じた。 「探していた」。 まるで、ずっと前から、透也を待っていたとでも言うように。
家に帰り、鏡の前に立つ。自分の顔を見つめる。 柊は、この顔を「美しい」と言った。透也には、そう見えない。ただの、普通の男の顔だ。
でも、柊の目には違って見える。 それは確かだった。
その夜、透也はうまく眠れなかった。 目を閉じると、柊の顔が浮かぶ。鋭い眼光。穏やかな微笑み。その裏に潜む、何か。
あの視線。 透也の全身を舐めるような、あの視線。
そして、『窓辺の少年』の憂いを帯びた瞳。 まるで、警告するような瞳。
「大丈夫...だよな」
透也は自分に問いかけた。 でも、答えは返ってこなかった。
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従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
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