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【第2章】

第39話 線を引くのは一瞬で

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「あの男児だが」

 ある日の朝食時、シリウス様がおもむろに口を開いた。
 すぐにピンときた。
 ここ最近でシリウス様が「男児」と呼んでいるのは、ジャンたちにいじめられていたあの使用人の男の子だけだ。

「昨晩、復讐を果たした」

 どきりと心臓が跳ねた。

 ジャンに対して特に良い思い出は無い。
 それでも一緒に暮らしていた人間が殺されるというのは、複雑な想いに駆られるものだ。
 少なくとも朝食をこのまま食べ続ける気分ではない。

「どうやって、殺したんですか?」

「紅茶に毒を仕込んで毒殺した」

「紅茶……ジャンは無事なんですか? それとも一緒に?」

 私の質問に、シリウス様は不思議そうな顔をした。

「そなたは、兄が嫌いだったのではないのか」

「ジャンのことは嫌いですけど……死ぬとなると、話が別と言いますか……」

「人間の感情はよく分からん」

 私も自分の感情がよく分からない。
 あんなに嫌っていたのに、どうして胸がざわざわするのだろう。

「男児が殺したのは、男児が使えている貴族の息子だけだ。屋敷内で彼だけが飲む紅茶の茶葉に毒を仕込んだようだ」

「……そうですか」

 ジャンが無事と聞いてホッと胸を撫で下ろした。
 あのくそったれな兄は、今もなお生きている。

 しかし、数日前に元気な姿を見た人間が死んだというのは、やはり気分の良いものではない。

「その男の子は犯人として捕まったんですか?」

「まだだ。毒を仕込んだのが事件の直前ではなかったこともあり、誰の犯行か見極めが難しいらしい」

「そう、ですか」

 とはいえ貴族が殺されたのだから、誰かを犯人として捕まえることになるだろう。それがあの男の子か、そうでないかは、分からないが。

「気分が悪いか」

「……いいえ、大丈夫です」

 口では大丈夫と言いつつ、朝食の大半を残したままスプーンを置いた私を、シリウス様は見逃さなかった。

「余の仕事の話は、こういった死者の出る話ばかりとなる。余の過去の話にしてもそうだ。あくまでも余は死神であり、どうあっても死がまとわりついてくる。これ以上のことを聞きたい場合は、きちんと覚悟をしてからにするといい」

「……愛する人の過去の話なら、どんなものでも受け入れられますよ」

 私の答えに、しかしシリウス様は首を振った。

「そなたは雛だ。悲しいことに誰にも優しくしてもらえなかったそなたは、初めて優しくしてくれた余に懐いているだけだ。安易に愛を語らず、一度冷静になるといい」

 ……雛、か。
 鳥の雛は初めて見た者を親だと思って懐くらしい。私がシリウス様に懐いているのもこの類の理由。
 シリウス様はそう言っているのだ。
 そう言って、私との間に線を引こうとしているのだ。

「私の愛は、雛の刷り込みではありません」

「そうか。しかし余は死神で、そなたは人間だ。そのことについて、もう一度考えてみてもいいはずだ」

「それでも愛があれば……」

「すまないが、仕事が立て込んでいる。今日のところは自室で大人しくしているといい」

 シリウス様が言うからには本当に仕事が立て込んでいるのだろうが、私を近づけないようにしているのは、きっと仕事のせいではない。
 私がさっきの話にショックを受けたからだ。
 私にはシリウス様の過去は荷が重いと判断したシリウス様が、私との間に線を引いたのだ。

 それは、私が傷付かないようにというシリウス様の優しさであり、過去を話すことを恐れるシリウス様の弱さなのだろう。

「……シリウス様の言う通り、一度冷静になってみます。時間をください。私なりに考えがまとまったら、お声をかけます」

「それが良いであろう」

 そう言ってシリウス様は食事を再開した。
 広いホールにはシリウス様の奏でる食器の音が響いている。小さな音だったが、それ以外の音が聞こえないから響いて聞こえるのだろう。

 私はシリウス様にくっついて回っては話を聞きたがっていたくせに、死者の出る話を聞く覚悟が全く出来ていなかったのだ。
 死神であるシリウス様と契約したときに、覚悟は出来ているつもりだったのに。

 シリウス様の話で朝食が喉を通らなくなってしまった自分に、誰よりも私が落胆した。




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