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裏火の灯
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翌朝――
千弥は、正典の屋敷を出て、ゆっくりと深川の芝居小屋へ戻っていた。
昨日の夜の記憶は、肌に、喉に、そして身体の奥に――焼け跡のように残っている。
いつものように演じたつもりだった。
従順な若衆として、乱されるまま、呻きながら快楽に溺れてみせた。
だが、松平正典は違った。
心の奥を覗き、支配した。
その深さに、自分でも気づいていなかった“空虚”を鋭く抉り出してきた。
(……あれは、芝居じゃなかった)
千弥は、初めてそんなことを思った。
芝居小屋「菊乃座」へ戻ると、仲間の若衆たちはすでに朝の掃除や準備を始めていた。
千弥が挨拶もせず楽屋へ入ると、年下の若衆・**紗之助(さのすけ)**がつぶやいた。
「昨日、あの人の座敷だったんでしょ。……噂が回ってる」
「噂?」
「松平さま、次期勘定奉行の推薦が内定してるって。……つまり、権力を持った“若衆喰い”になるってこと」
千弥は無言で、白粉を手に取った。
そんな話、今さら驚くことでもない。
役者を贔屓にする武士の中には、身請け話と引き換えに政治を動かす者すらいる。
問題は――
千弥が、すでにその手の中にいるという事実だった。
「千弥兄……今日、また来るってさ。道山さまが言ってた」
「……ふん」
千弥は、鏡に映る自分を見つめた。
襦袢の下の皮膚には、薄く残った指の痕。
そのすべてが、**“演技では得られぬもの”**だった。
紅筆が唇に触れる。
昨日と同じ所作、同じ色、同じ形。
だが――
その紅の奥には、すでに違う男の“命令”が染み込んでいた。
⸻
同時刻、江戸城内。
表では晴れやかな評定の席が続く中、密かに語られる話題があった。
「近頃、若衆芝居がはやりすぎておる。……御城の小姓の心まで乱れては、武家の名折れだ」
「女歌舞伎を禁じたのは寛永六年。今度は若衆歌舞伎を規制すべきという声が、南町奉行から上がっておる」
松平正典の名も、その噂の中に含まれていた。
彼は芝居を守る者ではない。
だが、千弥を“守る”意思を、誰よりも強く持っていた。
「法よりも、お前の身体の方が先だ。……壊れるまでは、芝居を続けろ」
正典が前夜、耳元で囁いた言葉が、千弥の中でずっと燃えていた。
⸻
その夜。
舞台の上、千弥は再び“女”を演じていた。
だが、その演技には以前とは違う熱が宿っていた。
紅の唇がかすかに笑う。
観客の目には、それが艶やかさに映った。
けれどそれは、千弥にしかわからない。
――仮面の内側で、ゆっくりと心が崩れはじめていること。
正典が座る桟敷からの視線が、肌を這う。
まるで命じるように、抉るように、焼きつけてくる。
(ああ……壊れていく。演じながら、私は――)
千弥の目が細く閉じられた。
その一瞬、客席のすべてが闇になり、
彼の目に映っていたのは――あの男の瞳だけだった。
千弥は、正典の屋敷を出て、ゆっくりと深川の芝居小屋へ戻っていた。
昨日の夜の記憶は、肌に、喉に、そして身体の奥に――焼け跡のように残っている。
いつものように演じたつもりだった。
従順な若衆として、乱されるまま、呻きながら快楽に溺れてみせた。
だが、松平正典は違った。
心の奥を覗き、支配した。
その深さに、自分でも気づいていなかった“空虚”を鋭く抉り出してきた。
(……あれは、芝居じゃなかった)
千弥は、初めてそんなことを思った。
芝居小屋「菊乃座」へ戻ると、仲間の若衆たちはすでに朝の掃除や準備を始めていた。
千弥が挨拶もせず楽屋へ入ると、年下の若衆・**紗之助(さのすけ)**がつぶやいた。
「昨日、あの人の座敷だったんでしょ。……噂が回ってる」
「噂?」
「松平さま、次期勘定奉行の推薦が内定してるって。……つまり、権力を持った“若衆喰い”になるってこと」
千弥は無言で、白粉を手に取った。
そんな話、今さら驚くことでもない。
役者を贔屓にする武士の中には、身請け話と引き換えに政治を動かす者すらいる。
問題は――
千弥が、すでにその手の中にいるという事実だった。
「千弥兄……今日、また来るってさ。道山さまが言ってた」
「……ふん」
千弥は、鏡に映る自分を見つめた。
襦袢の下の皮膚には、薄く残った指の痕。
そのすべてが、**“演技では得られぬもの”**だった。
紅筆が唇に触れる。
昨日と同じ所作、同じ色、同じ形。
だが――
その紅の奥には、すでに違う男の“命令”が染み込んでいた。
⸻
同時刻、江戸城内。
表では晴れやかな評定の席が続く中、密かに語られる話題があった。
「近頃、若衆芝居がはやりすぎておる。……御城の小姓の心まで乱れては、武家の名折れだ」
「女歌舞伎を禁じたのは寛永六年。今度は若衆歌舞伎を規制すべきという声が、南町奉行から上がっておる」
松平正典の名も、その噂の中に含まれていた。
彼は芝居を守る者ではない。
だが、千弥を“守る”意思を、誰よりも強く持っていた。
「法よりも、お前の身体の方が先だ。……壊れるまでは、芝居を続けろ」
正典が前夜、耳元で囁いた言葉が、千弥の中でずっと燃えていた。
⸻
その夜。
舞台の上、千弥は再び“女”を演じていた。
だが、その演技には以前とは違う熱が宿っていた。
紅の唇がかすかに笑う。
観客の目には、それが艶やかさに映った。
けれどそれは、千弥にしかわからない。
――仮面の内側で、ゆっくりと心が崩れはじめていること。
正典が座る桟敷からの視線が、肌を這う。
まるで命じるように、抉るように、焼きつけてくる。
(ああ……壊れていく。演じながら、私は――)
千弥の目が細く閉じられた。
その一瞬、客席のすべてが闇になり、
彼の目に映っていたのは――あの男の瞳だけだった。
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