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仮面の謀
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芝居小屋「菊乃座」。
連日満員の客足が続き、千弥の名は江戸中の評判となっていた。
「今日の演目は“深川恋灯籠”、女房・綾香役、千弥!」
幕が上がる。
舞台に立つ千弥は、以前とはまるで別人のようだった。
その所作、吐息、笑みに至るまで、観客を支配している。
「……わたし、あなたに選ばれたことしか、覚えていませんの」
わずかな台詞すら、客の心を締め付けた。
それは芝居ではない。
まるで、観客一人一人を“御主様”に見立てているような――
狂気すれすれの献身。
そしてその“狂気”を理解する者は、ひとりしかいなかった。
──松平正典。
千弥の舞台を終えたその夜。
屋敷では、正典がひとりの家臣から報告を受けていた。
「おめでとうございます。老中・土井様から、正式にご内命が届きました。次の大坂町奉行に、松平様が抜擢されると」
「……ふん」
正典は微笑まなかった。
だが、盃に口をつける手はわずかに緩んだ。
「大坂か。……遠いな」
「ですが、出世街道でございます。関東では若年寄に次ぐ格」
「――あの子を、江戸に置いていくつもりはない」
正典は盃を置いた。
その目には、昇進の喜びではなく、“確保すべきもの”への執着が滲んでいた。
「千弥は、私のものだ。どこへ行こうと連れていく。それが舞台でも、牢でも、閨(ねや)でもな」
⸻
一方で、その千弥の名声は、政敵たちの怒りの種となりつつあった。
ある評定の場。
南町奉行・堀田信景が、眉をひそめて言った。
「正典殿。噂では、あの若衆・千弥を囲っておると聞くが……まことか?」
「噂に事実も虚もありましょうが」
正典は静かに返す。
「いや、まことでも構わぬ。……ただし、“公の務めに私情を挟む者”が上に立つとすれば、それは問題だ」
「では、試されるのは私情ではなく、結果でしょうな」
正典の一言に、場が凍る。
堀田の背後で、ひそやかに書状を手渡す手があった。
その中には――千弥に関する密告文。
「若衆千弥、密かに大名家の御曹司と関係を持ち、松平正典に黙って金を受け取る」
「千弥、密かに舞台外で“売り”に応じ、芝居小屋の収益と引き換えに私的関係を持つ」
「――芝居を仮面にした淫売。幕府の名を穢す存在」
偽り、誇張、悪意。
すべてを混ぜた謀略は、静かに正典の立場を蝕もうとしていた。
だが、正典はまだ知らない。
この密告が届くより前に、千弥自身がそれを嗅ぎ取り、動き始めていることを。
⸻
夜、いつもの離れ。
千弥は正典に背を向け、膝を折ったまま低く言った。
「……私の周りに、尾を引いている者がいます。芝居小屋の客に紛れて、ずっと私を見ていた目……あれは、ただの欲望の目ではありません」
「罠か」
「はい。私を通して、御主様を引きずり下ろそうとする手です」
「ならば――お前がその“罠”になれ」
千弥の背中に、ぞくりとした快感が走る。
「私が囮に?」
「そうだ。誘い込み、泳がせ、喰わせろ。そして、その場で私が潰す」
その命令に、千弥は嗤った。
「……承知いたしました。御主様。私はあなたの毒にも、餌にも、なりましょう」
その声には、完全なる忠誠が宿っていた。
連日満員の客足が続き、千弥の名は江戸中の評判となっていた。
「今日の演目は“深川恋灯籠”、女房・綾香役、千弥!」
幕が上がる。
舞台に立つ千弥は、以前とはまるで別人のようだった。
その所作、吐息、笑みに至るまで、観客を支配している。
「……わたし、あなたに選ばれたことしか、覚えていませんの」
わずかな台詞すら、客の心を締め付けた。
それは芝居ではない。
まるで、観客一人一人を“御主様”に見立てているような――
狂気すれすれの献身。
そしてその“狂気”を理解する者は、ひとりしかいなかった。
──松平正典。
千弥の舞台を終えたその夜。
屋敷では、正典がひとりの家臣から報告を受けていた。
「おめでとうございます。老中・土井様から、正式にご内命が届きました。次の大坂町奉行に、松平様が抜擢されると」
「……ふん」
正典は微笑まなかった。
だが、盃に口をつける手はわずかに緩んだ。
「大坂か。……遠いな」
「ですが、出世街道でございます。関東では若年寄に次ぐ格」
「――あの子を、江戸に置いていくつもりはない」
正典は盃を置いた。
その目には、昇進の喜びではなく、“確保すべきもの”への執着が滲んでいた。
「千弥は、私のものだ。どこへ行こうと連れていく。それが舞台でも、牢でも、閨(ねや)でもな」
⸻
一方で、その千弥の名声は、政敵たちの怒りの種となりつつあった。
ある評定の場。
南町奉行・堀田信景が、眉をひそめて言った。
「正典殿。噂では、あの若衆・千弥を囲っておると聞くが……まことか?」
「噂に事実も虚もありましょうが」
正典は静かに返す。
「いや、まことでも構わぬ。……ただし、“公の務めに私情を挟む者”が上に立つとすれば、それは問題だ」
「では、試されるのは私情ではなく、結果でしょうな」
正典の一言に、場が凍る。
堀田の背後で、ひそやかに書状を手渡す手があった。
その中には――千弥に関する密告文。
「若衆千弥、密かに大名家の御曹司と関係を持ち、松平正典に黙って金を受け取る」
「千弥、密かに舞台外で“売り”に応じ、芝居小屋の収益と引き換えに私的関係を持つ」
「――芝居を仮面にした淫売。幕府の名を穢す存在」
偽り、誇張、悪意。
すべてを混ぜた謀略は、静かに正典の立場を蝕もうとしていた。
だが、正典はまだ知らない。
この密告が届くより前に、千弥自身がそれを嗅ぎ取り、動き始めていることを。
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夜、いつもの離れ。
千弥は正典に背を向け、膝を折ったまま低く言った。
「……私の周りに、尾を引いている者がいます。芝居小屋の客に紛れて、ずっと私を見ていた目……あれは、ただの欲望の目ではありません」
「罠か」
「はい。私を通して、御主様を引きずり下ろそうとする手です」
「ならば――お前がその“罠”になれ」
千弥の背中に、ぞくりとした快感が走る。
「私が囮に?」
「そうだ。誘い込み、泳がせ、喰わせろ。そして、その場で私が潰す」
その命令に、千弥は嗤った。
「……承知いたしました。御主様。私はあなたの毒にも、餌にも、なりましょう」
その声には、完全なる忠誠が宿っていた。
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