10 / 20
囮役者
しおりを挟む
夜更けの芝居小屋「菊乃座」。
客席の灯りはすでに消え、奥座敷の一間だけが淡く灯っていた。
白い肌、藤色の襦袢、整えられた髪に、揺れる紅。
そこにいるのは、今や江戸一番の若衆と呼ばれる役者――千弥だった。
その前に座しているのは、南町奉行・堀田信景の実弟、堀田主計(かずえ)。
その目には、金と権力を持つ者だけが宿す、“選択される側”の余裕があった。
「やはり、評判は伊達ではなかったな……まさか、私が直接お前と対面できるとは思わなかった」
「……光栄です」
千弥は静かに頭を下げた。
表情に一切の恐れも羞恥もない。
それはまるで、あらかじめ台本のある芝居のように、整った動きだった。
主計は懐から金包みを取り出した。
「これは礼だ。今宵、お前は私のものだろう?」
千弥は微笑を浮かべた。
「……はい。私は、金で“役”を買われる者ですから」
そして襦袢の紐を解いた。
ゆるりと滑り落ちた衣の下、肩が露わになる。
主計は身を乗り出し、千弥を畳に押し倒した。
「静かに抱かれろ。乱れるな。役者として、そのくらいの心得はあるだろう?」
「……御意」
声が震えていた。だがそれは、恐怖ではない。
やがて主計が手を伸ばし、襦袢を脱がせようとした――その瞬間、
「そこまでだ」
低く、冷たい声が襖の向こうから響いた。
一斉に障子が開き、数名の与力と同心、そして正装の男が現れる。
松平正典。
その背後には、奉行所の目付もいた。
「堀田主計。芝居役者に金銭を渡し、淫行に及ばんとした罪により、現行犯として召し捕る」
「ば、馬鹿な……これは罠だ……!」
「罠ではない。捜査だ。お前がその手で小判を渡した瞬間、お前の負けは決まっていた」
正典が畳の上に落ちた金包みを拾い、証拠として手渡す。
「これは奉行所が封緘したものだ。……あとは、貴様の指紋だけが付いている」
「おい、待て……お前もだ! 千弥、お前も“売った”じゃないか!」
千弥は静かに起き上がり、衣を整え、正座する。
「私は、“演じていた”だけです。……御主様の命に従い、証人として囮となりました」
「なっ……」
「すでにすべては、奉行所に報告済み。……私が身を売ったと思ったのは、あなたの誤算です」
主計の顔が青ざめた。
役人に両腕を捕られ、引き立てられるその姿を、千弥は黙って見送った。
⸻
座敷に残されたふたりきりの夜。
松平正典は、千弥の前に膝をついた。
「……よくやった」
「光栄にございます」
「だが、まだ演技が抜けておらぬな」
「……御主様の前では、すべてを脱ぎます」
千弥は、自ら襦袢を脱ぎ落とした。
肌に残る紅の名残が、薄明かりに浮かぶ。
正典は千弥を畳に押し倒し、その上に覆いかぶさる。
「忘れるな。この身体は誰のものか」
「……御主様のものにございます」
「心は?」
「……まだ少し、残っているかもしれません。ですから、どうか――」
「壊してやろう。残らず、私だけのものに」
その夜、正典は千弥の身体を、心を、言葉を、一度壊してから、もう一度組み直した。
痛みと快楽、支配と慈しみ。
千弥は泣きながら、笑いながら、御主様の檻の中に沈んでいった。
客席の灯りはすでに消え、奥座敷の一間だけが淡く灯っていた。
白い肌、藤色の襦袢、整えられた髪に、揺れる紅。
そこにいるのは、今や江戸一番の若衆と呼ばれる役者――千弥だった。
その前に座しているのは、南町奉行・堀田信景の実弟、堀田主計(かずえ)。
その目には、金と権力を持つ者だけが宿す、“選択される側”の余裕があった。
「やはり、評判は伊達ではなかったな……まさか、私が直接お前と対面できるとは思わなかった」
「……光栄です」
千弥は静かに頭を下げた。
表情に一切の恐れも羞恥もない。
それはまるで、あらかじめ台本のある芝居のように、整った動きだった。
主計は懐から金包みを取り出した。
「これは礼だ。今宵、お前は私のものだろう?」
千弥は微笑を浮かべた。
「……はい。私は、金で“役”を買われる者ですから」
そして襦袢の紐を解いた。
ゆるりと滑り落ちた衣の下、肩が露わになる。
主計は身を乗り出し、千弥を畳に押し倒した。
「静かに抱かれろ。乱れるな。役者として、そのくらいの心得はあるだろう?」
「……御意」
声が震えていた。だがそれは、恐怖ではない。
やがて主計が手を伸ばし、襦袢を脱がせようとした――その瞬間、
「そこまでだ」
低く、冷たい声が襖の向こうから響いた。
一斉に障子が開き、数名の与力と同心、そして正装の男が現れる。
松平正典。
その背後には、奉行所の目付もいた。
「堀田主計。芝居役者に金銭を渡し、淫行に及ばんとした罪により、現行犯として召し捕る」
「ば、馬鹿な……これは罠だ……!」
「罠ではない。捜査だ。お前がその手で小判を渡した瞬間、お前の負けは決まっていた」
正典が畳の上に落ちた金包みを拾い、証拠として手渡す。
「これは奉行所が封緘したものだ。……あとは、貴様の指紋だけが付いている」
「おい、待て……お前もだ! 千弥、お前も“売った”じゃないか!」
千弥は静かに起き上がり、衣を整え、正座する。
「私は、“演じていた”だけです。……御主様の命に従い、証人として囮となりました」
「なっ……」
「すでにすべては、奉行所に報告済み。……私が身を売ったと思ったのは、あなたの誤算です」
主計の顔が青ざめた。
役人に両腕を捕られ、引き立てられるその姿を、千弥は黙って見送った。
⸻
座敷に残されたふたりきりの夜。
松平正典は、千弥の前に膝をついた。
「……よくやった」
「光栄にございます」
「だが、まだ演技が抜けておらぬな」
「……御主様の前では、すべてを脱ぎます」
千弥は、自ら襦袢を脱ぎ落とした。
肌に残る紅の名残が、薄明かりに浮かぶ。
正典は千弥を畳に押し倒し、その上に覆いかぶさる。
「忘れるな。この身体は誰のものか」
「……御主様のものにございます」
「心は?」
「……まだ少し、残っているかもしれません。ですから、どうか――」
「壊してやろう。残らず、私だけのものに」
その夜、正典は千弥の身体を、心を、言葉を、一度壊してから、もう一度組み直した。
痛みと快楽、支配と慈しみ。
千弥は泣きながら、笑いながら、御主様の檻の中に沈んでいった。
0
あなたにおすすめの小説
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる