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最後の紅
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芝居小屋「菊乃座」。
今宵の演目は特別演目――『夢見草(ゆめみぐさ)』。
春の夜、幻の桜を追い続ける女の物語。
その女は、最後まで己が“花”であることに抗わず、咲き、そして散る。
千弥が演じるのは、名もなき娘・あや。
その立ち姿、振り返る仕草、吐き出す一言ひとことが、
観客を刺し、包み、そして奪っていく。
「春が来れば、きっとまた咲けますか」
「咲いて……誰かを、また惑わせなさい」
舞台の上に立つ千弥の目に、涙はない。
それでも、観客席のあちこちで嗚咽が漏れた。
――この芝居が、最後だと知っている者も、知らぬ者も、
彼の演技には何かを“失わせる”予感を感じ取っていた。
物語の終幕。
あやは、紅を引きながら鏡の前に座り、静かに言う。
「咲いて、そして散ることが……花の定めなら」
「どうか、最後まで……美しく」
そのまま、ゆっくりと仰向けに倒れ、
幕が降りる――
静寂。
そして――爆発する拍手。
舞台裏で千弥は、静かに紅を拭った。
鏡を見つめる眼には、どこか清々しさがあった。
「これで……終わり」
楽屋へ戻ると、机の上に積まれた贈り物、香袋、贔屓からの文――
かつての自分が大切にしていた品々が静かに並んでいた。
千弥は、ただ一瞥をくれた。
そして、一つも手に取らなかった。
(御主様が仰った――)
「私のもとへ来るなら、何も持つな。与えるのは、私だ。
衣も香も寝台も、すべて私が“定める”。お前は、空の器として来い」
それは、支配の宣言だった。
だが、千弥にとっては、救いそのものだった。
かつては贈り物の重みに誇りを感じていた。
舞台に立つ意味を、世間の称賛に見出していた。
だが、今は違う。
(もう、誰の目も、誰の歓声も要らない。
私の姿を見てくれるのは、あの人だけでいい)
彼はゆっくりと、小引き出しを閉じた。
荷物は、薄紅の襦袢と、手ぬぐいひとつだけ。
それで、十分だった。
⸻
夜明け前。
芝居小屋の裏手には、正典が差し向けた駕籠が待っていた。
その前に、松平正典が静かに立っていた。
いつものように、黒羽織に白袴。
無言のまま、千弥を見つめている。
千弥は、深く頭を下げた。
「お待たせいたしました、御主様」
「済んだか」
「はい。幕は、下りました」
「もう、お前は“役者”ではない」
「はい。……今日より、私は御主様の所有物」
正典は何も言わなかった。
ただ、わずかに頷き、駕籠の帷を自ら開けた。
千弥が乗り込む、その瞬間。
舞台の方角から、かすかな朝日が差し込んだ。
けれど、それは夜明けの光ではない。
彼にとっては、最後の紅(くれない)――
舞台の照明が心に残した、幻の光だった。
帷が下りる直前、正典が低く囁いた。
「その紅は、もう人に見せるな。私だけに引け」
千弥は微笑んで頷いた。
「はい。これからは、御主様のためだけの紅にございます」
駕籠が動き出す。
その音が、幕引きの太鼓のように静かに鳴った。
千弥の“芝居”は終わった。
けれど、彼の“人生”は、これから始まる――
檻の中の、所有物としての人生が。
今宵の演目は特別演目――『夢見草(ゆめみぐさ)』。
春の夜、幻の桜を追い続ける女の物語。
その女は、最後まで己が“花”であることに抗わず、咲き、そして散る。
千弥が演じるのは、名もなき娘・あや。
その立ち姿、振り返る仕草、吐き出す一言ひとことが、
観客を刺し、包み、そして奪っていく。
「春が来れば、きっとまた咲けますか」
「咲いて……誰かを、また惑わせなさい」
舞台の上に立つ千弥の目に、涙はない。
それでも、観客席のあちこちで嗚咽が漏れた。
――この芝居が、最後だと知っている者も、知らぬ者も、
彼の演技には何かを“失わせる”予感を感じ取っていた。
物語の終幕。
あやは、紅を引きながら鏡の前に座り、静かに言う。
「咲いて、そして散ることが……花の定めなら」
「どうか、最後まで……美しく」
そのまま、ゆっくりと仰向けに倒れ、
幕が降りる――
静寂。
そして――爆発する拍手。
舞台裏で千弥は、静かに紅を拭った。
鏡を見つめる眼には、どこか清々しさがあった。
「これで……終わり」
楽屋へ戻ると、机の上に積まれた贈り物、香袋、贔屓からの文――
かつての自分が大切にしていた品々が静かに並んでいた。
千弥は、ただ一瞥をくれた。
そして、一つも手に取らなかった。
(御主様が仰った――)
「私のもとへ来るなら、何も持つな。与えるのは、私だ。
衣も香も寝台も、すべて私が“定める”。お前は、空の器として来い」
それは、支配の宣言だった。
だが、千弥にとっては、救いそのものだった。
かつては贈り物の重みに誇りを感じていた。
舞台に立つ意味を、世間の称賛に見出していた。
だが、今は違う。
(もう、誰の目も、誰の歓声も要らない。
私の姿を見てくれるのは、あの人だけでいい)
彼はゆっくりと、小引き出しを閉じた。
荷物は、薄紅の襦袢と、手ぬぐいひとつだけ。
それで、十分だった。
⸻
夜明け前。
芝居小屋の裏手には、正典が差し向けた駕籠が待っていた。
その前に、松平正典が静かに立っていた。
いつものように、黒羽織に白袴。
無言のまま、千弥を見つめている。
千弥は、深く頭を下げた。
「お待たせいたしました、御主様」
「済んだか」
「はい。幕は、下りました」
「もう、お前は“役者”ではない」
「はい。……今日より、私は御主様の所有物」
正典は何も言わなかった。
ただ、わずかに頷き、駕籠の帷を自ら開けた。
千弥が乗り込む、その瞬間。
舞台の方角から、かすかな朝日が差し込んだ。
けれど、それは夜明けの光ではない。
彼にとっては、最後の紅(くれない)――
舞台の照明が心に残した、幻の光だった。
帷が下りる直前、正典が低く囁いた。
「その紅は、もう人に見せるな。私だけに引け」
千弥は微笑んで頷いた。
「はい。これからは、御主様のためだけの紅にございます」
駕籠が動き出す。
その音が、幕引きの太鼓のように静かに鳴った。
千弥の“芝居”は終わった。
けれど、彼の“人生”は、これから始まる――
檻の中の、所有物としての人生が。
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