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墨の遺言
父の死、残された絵
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千尋は、父の遺した絵と覚え書きをふところにしまい、薄暗い長屋を出た。
早朝の木挽町は、まだ人通りもまばらだ。蒸し暑い空気のなか、町娘が桶をかかえ、魚屋の丁稚が大声で朝の売り口上を叫ぶ。その喧騒が、千尋にとってはどこか遠くの世界のようだった。
父が亡くなった朝のことを思い出す。
病に伏せってから数日、父・松庵は一度も苦しむそぶりを見せなかった。ただ、目を伏せ、筆を握りしめたまま眠るように息を引き取った。
「筆を……離さなかったな」
それが父の最期の姿だった。あの絵と、あの筆だけを残して。
千尋は町外れの寺を訪れた。簡素な墓に向かい、線香を一本だけ立てる。だが、祈りの途中でどうしても心に引っかかる。
あの絵だ。あの墨で塗り潰された人影。父の言葉。――“あの絵師のように、消される”。
「消された絵師……」
浮世絵の世界に身を置く者たちの間で、まことしやかに囁かれる噂話。
かつて、幕府の禁忌を描いたために、すべての絵を没収され、名前も記録も消された絵師がいたという。
名前は、どの記録にも残っていない。けれど、その人物が残した“とある絵”だけは存在すると、一部の絵師が語り継いでいる。
千尋は父のことを思う。絵筆に一生を捧げた人だった。華やかさとは無縁でも、誰よりも真面目に絵に向き合っていた。
そんな父が、なぜ――“消された絵師”を恐れたのか。
「父さん……本当に病だったの?」
線香の煙が、江戸の空に溶けていく。
千尋の小さな背に、重く、長い影が落ちていた。
早朝の木挽町は、まだ人通りもまばらだ。蒸し暑い空気のなか、町娘が桶をかかえ、魚屋の丁稚が大声で朝の売り口上を叫ぶ。その喧騒が、千尋にとってはどこか遠くの世界のようだった。
父が亡くなった朝のことを思い出す。
病に伏せってから数日、父・松庵は一度も苦しむそぶりを見せなかった。ただ、目を伏せ、筆を握りしめたまま眠るように息を引き取った。
「筆を……離さなかったな」
それが父の最期の姿だった。あの絵と、あの筆だけを残して。
千尋は町外れの寺を訪れた。簡素な墓に向かい、線香を一本だけ立てる。だが、祈りの途中でどうしても心に引っかかる。
あの絵だ。あの墨で塗り潰された人影。父の言葉。――“あの絵師のように、消される”。
「消された絵師……」
浮世絵の世界に身を置く者たちの間で、まことしやかに囁かれる噂話。
かつて、幕府の禁忌を描いたために、すべての絵を没収され、名前も記録も消された絵師がいたという。
名前は、どの記録にも残っていない。けれど、その人物が残した“とある絵”だけは存在すると、一部の絵師が語り継いでいる。
千尋は父のことを思う。絵筆に一生を捧げた人だった。華やかさとは無縁でも、誰よりも真面目に絵に向き合っていた。
そんな父が、なぜ――“消された絵師”を恐れたのか。
「父さん……本当に病だったの?」
線香の煙が、江戸の空に溶けていく。
千尋の小さな背に、重く、長い影が落ちていた。
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