森蘭丸 ~天下人に愛された美少年~

ましゅまろ

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第9章:蝶は見下ろす

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天正五年(1577年)──初春。

森蘭丸は、数えで十三歳になった。

まだ声変わりも終えていない。
しかし、その身のこなし、視線、そして語る言葉には、誰もが目を奪われる品と知性があった。

信長の傍に付き従い始めて三年。
蘭丸の名は、今や城内だけでなく、公家の座敷や武家の酒宴でも囁かれるようになっていた。

「あの童子こそ、織田殿の心の座に座す者」

その評価は、しばしば“好意”と“妬み”を両方含んでいた。



ある日、安土城に久方ぶりの客が現れた。

**帰蝶(きちょう)**──信長の正室。
美濃・斎藤道三の娘であり、信長が尾張にいたころから彼を支え続けた女。

久々に都から戻った彼女の登場は、城内を微かにざわつかせた。

「蘭丸殿。奥にて、帰蝶様が“お見えなされたい”と」

使女がそう言った時、蘭丸は一瞬、動きを止めた。

──帰蝶様が、私を?

それは、呼ばれたのではなく、試されたという感覚だった。



帰蝶の座する奥の間は、薄香の焚かれた、静謐な空間だった。

「……失礼いたします。森成利、参上いたしました」

蘭丸が頭を下げると、屏風の陰から、女の声がやわらかに響いた。

「お噂は、都でも絶えず耳に届いておりましたわ。
 ──“殿の傍には、香のような少年が咲いている”と」

蘭丸は顔を上げる。

帰蝶は、かつて戦に生きた女ではなく、**今は宮中の調度を纏った“静かな毒”**だった。
年の差は二十近くある。けれど、その視線は刺すように鋭い。

「殿は……ただの武将ではございません。
 その方の隣に立つには、“時”ではなく“覚悟”が必要です」

「心得ております」

「では問います。──そなたは、殿の“寵”に甘えるだけの子か、
 それとも、殿の未来に咲く“華”となるおつもり?」

蘭丸は、真正面からその問いを受け止めた。
そして、静かに答えた。

「殿の未来が、血と火の道であろうとも。
 私は、その道に香を焚き、足元を照らす灯とならんと存じます。
 ──私は“恋”などしておりませぬ。ただ……殿の在る場所に、己が存在することを、望んでいるだけ」

帰蝶の目が、わずかに揺れた。

そして、笑った。

「ならば咲きなさい。誰よりも高く、誰よりも艶やかに。
 そうでなければ、“女の嫉妬”は超えられませんわよ」

それは敗北ではない。
だが、確かに「認めた者の微笑み」だった。



夜、信長のもとに戻った蘭丸は、帰蝶との対面を語らなかった。

だが信長は、すべてを知っているかのように蘭丸を抱き寄せ、ぽつりと呟いた。

「──蝶は、強い。だが、花は儚いほどに、美しい」

「殿……」

「我が傍には、花が似合う。女でも、武でもない……
 “我だけの花”があれば、それでよい」

蘭丸はその言葉を胸に刻んだ。
恋ではない。
だが、これは愛だと──確かに思った。



夜明け前の回廊に、花の香がひとすじ流れた。
それは、蝶の残り香か、花の吐息か。
いずれにせよ、それは“主の傍”にある者だけが知る香だった。
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