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第19章:影の中に潜む、裂け目
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天正十年四月。
徳川家康の接待は、文句のつけようのない成功だった。
安土城では、使者たちが信長の威光と蘭丸の美を讃え、
絹や金、香木や硯が贈られ、宴の余韻に花が咲いた。
だが──蘭丸は、それらすべての賛美の中に、
微かに忍ばせられた“感情”を、敏感に察知していた。
「信長公の御側は、すっかりあの少年で埋まっておりますな」
「功を積まずとも、あれほどに愛されるとは……美とは恐ろしき力よ」
その“讒言”は、もはや噂ではなかった。
妬み、欲望、そして――嫉妬。
蘭丸は笑みを絶やさず、丁寧にすべてを受け流しながら、
その実、心の奥で警鐘を鳴らしていた。
⸻
ある日、蘭丸は城内で明智光秀とすれ違った。
光秀の視線は静かで、礼儀正しく、何も非はない。
だが、その目の奥には、凍った湖のような光があった。
「成利殿。家康公の件、誠にお見事でしたな」
「恐縮です。殿のご威光あってこそ」
「……それにしても、信長公は、貴殿をまるで“天守の飾り”のように扱われる。
飾る者があまりに美しければ、庶民は中を見ようとせぬものですな」
「……飾りとは、風の当たる場所に咲く花。
吹けば散りますが、咲いている間は、誰よりも殿の目を惹きます」
光秀は、口の端を僅かに吊り上げた。
「散ったあとの香に酔う主が、果たして……強いままでいられるか。
私は少々、それを危ぶんでおりますよ」
そのまま光秀は立ち去った。
足音は静かで、背筋は真っ直ぐで、敵意など一滴も見せなかった。
だが蘭丸は、確信していた。
──この男は、今や“敵”だ。
⸻
その夜。
信長は書斎で筆を走らせながら、蘭丸を呼び寄せた。
「蘭。そなたは、余の香をどこまで持っていける」
「……香を?」
「この香──“信長という名の香”を、どこまで、誰の中に染み込ませることができるか。
花でありながら、香となれ。目を奪い、息を奪い、心を縛れ」
蘭丸は、主の膝に跪いた。
「では、命も心も、この香に変えて差し出します。
殿の言葉ひとつで、私は炎にも毒にもなります」
「ふふ……ならば、“裏切る者”の喉元に焚き込んでみよ」
信長は、蘭丸の帯を緩めた。
そのまま、胸元を乱し、肌に指を這わせる。
「見よ。おぬしの香は、こうして余の中に刻まれている」
「……あぁ、殿……どうぞ、その爪で私の香を穿ってください……」
「悦んでおるのか?」
「はい……殿の欲に、躰ごと刻まれることが……私の誇りです……」
信長は、口元を歪めた。
「ならば、このまま“香の器”として、舞台に立て。
裏切り者を、そなたの香で酔わせろ。
そして、堕ちぬふりをして、落とせ」
蘭丸は深く頷いた。
「……はい。殿の“夢”の盾となり、“罠”の花として、咲いてまいります」
⸻
春の夜。
香は淡く、だが確かに空気を支配していた。
それは愛の香でも、忠義の香でもない。
ただ、“信長の香”として仕組まれた、一つの武器だった。
徳川家康の接待は、文句のつけようのない成功だった。
安土城では、使者たちが信長の威光と蘭丸の美を讃え、
絹や金、香木や硯が贈られ、宴の余韻に花が咲いた。
だが──蘭丸は、それらすべての賛美の中に、
微かに忍ばせられた“感情”を、敏感に察知していた。
「信長公の御側は、すっかりあの少年で埋まっておりますな」
「功を積まずとも、あれほどに愛されるとは……美とは恐ろしき力よ」
その“讒言”は、もはや噂ではなかった。
妬み、欲望、そして――嫉妬。
蘭丸は笑みを絶やさず、丁寧にすべてを受け流しながら、
その実、心の奥で警鐘を鳴らしていた。
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ある日、蘭丸は城内で明智光秀とすれ違った。
光秀の視線は静かで、礼儀正しく、何も非はない。
だが、その目の奥には、凍った湖のような光があった。
「成利殿。家康公の件、誠にお見事でしたな」
「恐縮です。殿のご威光あってこそ」
「……それにしても、信長公は、貴殿をまるで“天守の飾り”のように扱われる。
飾る者があまりに美しければ、庶民は中を見ようとせぬものですな」
「……飾りとは、風の当たる場所に咲く花。
吹けば散りますが、咲いている間は、誰よりも殿の目を惹きます」
光秀は、口の端を僅かに吊り上げた。
「散ったあとの香に酔う主が、果たして……強いままでいられるか。
私は少々、それを危ぶんでおりますよ」
そのまま光秀は立ち去った。
足音は静かで、背筋は真っ直ぐで、敵意など一滴も見せなかった。
だが蘭丸は、確信していた。
──この男は、今や“敵”だ。
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その夜。
信長は書斎で筆を走らせながら、蘭丸を呼び寄せた。
「蘭。そなたは、余の香をどこまで持っていける」
「……香を?」
「この香──“信長という名の香”を、どこまで、誰の中に染み込ませることができるか。
花でありながら、香となれ。目を奪い、息を奪い、心を縛れ」
蘭丸は、主の膝に跪いた。
「では、命も心も、この香に変えて差し出します。
殿の言葉ひとつで、私は炎にも毒にもなります」
「ふふ……ならば、“裏切る者”の喉元に焚き込んでみよ」
信長は、蘭丸の帯を緩めた。
そのまま、胸元を乱し、肌に指を這わせる。
「見よ。おぬしの香は、こうして余の中に刻まれている」
「……あぁ、殿……どうぞ、その爪で私の香を穿ってください……」
「悦んでおるのか?」
「はい……殿の欲に、躰ごと刻まれることが……私の誇りです……」
信長は、口元を歪めた。
「ならば、このまま“香の器”として、舞台に立て。
裏切り者を、そなたの香で酔わせろ。
そして、堕ちぬふりをして、落とせ」
蘭丸は深く頷いた。
「……はい。殿の“夢”の盾となり、“罠”の花として、咲いてまいります」
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春の夜。
香は淡く、だが確かに空気を支配していた。
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ただ、“信長の香”として仕組まれた、一つの武器だった。
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