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第20章:火を孕む香、沈黙の約
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天正十年四月中旬。
安土の空は晴れ渡っていたが、地に立つ者の心は、どこか重たかった。
信長の周囲では、奇妙な静けさが続いていた。
諸将の言葉は慎重すぎるほどに整い、宴はどこか義務のような熱を欠いていた。
その中心で、ただひとり――
森蘭丸だけが、微笑を絶やさぬまますべてを見通していた。
⸻
「成利殿、おひとりで?」
安土城の中庭、静かな白砂の上で声をかけてきたのは、明智光秀だった。
「ええ。風が心地よく、つい……」
「春の風は、花を攫います。
特に、あまりに柔らかい花は、簡単に」
「攫われぬように、根を深く張っております」
「……それは何より」
一見穏やかなやり取り。
けれど、二人の間には火の粉にも似た緊張が流れていた。
蘭丸は、静かに扇を開いた。
「明智様。
殿が“すべてを見ておいでだ”と、貴殿にお伝えするよう仰せでした」
光秀の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……それは、何について、ですかな?」
「言葉ではなく、“香”のように滲むもの。
殿は、風の匂いを嗅ぐ方です。
何も言われずとも、香が変われば、それが“兆し”とお感じになる」
「……私は、香を焚く趣味はありませんが」
「けれど、火を孕んだ香は、いずれ煙となり、城を包むのです」
⸻
沈黙。
やがて光秀は微笑を浮かべた。
「……成利殿。
貴殿は、“ただの小姓”ではないのですね」
「私は、“殿の香”です。
主の命じるところに咲き、必要とあらば……毒にもなります」
「忠義とは、そこまで人を変えるものですか」
「忠義だけではございません。
──これは、“恋”の香でもあります」
光秀は、その答えに、はじめて“苦い笑み”を浮かべた。
「……ならば、私には到底勝てませんな。
信長公を愛してしまった者に、理は届かない」
蘭丸は、その場をそっと下がる前に一礼した。
「愛とは、届かぬほどに香しいもの。
どうか、殿に手を伸ばすのならば、火傷を覚悟なさってくださいませ」
⸻
その夜。
蘭丸は信長の寝所に戻り、帯を解いて床に伏した。
信長は、酒を口に運びながら、蘭丸の髪を梳いた。
「光秀はどうであった」
「……香を焚く気配は、まだ薄いです。
けれど、薪は乾いております。火を入れれば、よく燃えるでしょう」
「ふふ……ならば、我が焚き火とせねばな」
信長は、蘭丸の胸元を引き寄せ、低く囁いた。
「今宵は“香の源”として、余の中に沁み込め。
そなたが香るほど、我は冴える」
「……はい……殿……私の奥まで、香を染み込ませて……
この身のすべてで、殿の刃となります……」
「悦びながら忠義を捧げる──まこと、愚かで、可愛い奴よ」
信長はそのまま、蘭丸の唇を塞ぎ、
“香”として、愛として、完全に支配した。
⸻
愛される香は、いつか燃える。
それでも、蘭丸は願った。
──その炎が、主のために咲くならば。
──すべてを燃やし尽くしても、構わない。
安土の空は晴れ渡っていたが、地に立つ者の心は、どこか重たかった。
信長の周囲では、奇妙な静けさが続いていた。
諸将の言葉は慎重すぎるほどに整い、宴はどこか義務のような熱を欠いていた。
その中心で、ただひとり――
森蘭丸だけが、微笑を絶やさぬまますべてを見通していた。
⸻
「成利殿、おひとりで?」
安土城の中庭、静かな白砂の上で声をかけてきたのは、明智光秀だった。
「ええ。風が心地よく、つい……」
「春の風は、花を攫います。
特に、あまりに柔らかい花は、簡単に」
「攫われぬように、根を深く張っております」
「……それは何より」
一見穏やかなやり取り。
けれど、二人の間には火の粉にも似た緊張が流れていた。
蘭丸は、静かに扇を開いた。
「明智様。
殿が“すべてを見ておいでだ”と、貴殿にお伝えするよう仰せでした」
光秀の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……それは、何について、ですかな?」
「言葉ではなく、“香”のように滲むもの。
殿は、風の匂いを嗅ぐ方です。
何も言われずとも、香が変われば、それが“兆し”とお感じになる」
「……私は、香を焚く趣味はありませんが」
「けれど、火を孕んだ香は、いずれ煙となり、城を包むのです」
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沈黙。
やがて光秀は微笑を浮かべた。
「……成利殿。
貴殿は、“ただの小姓”ではないのですね」
「私は、“殿の香”です。
主の命じるところに咲き、必要とあらば……毒にもなります」
「忠義とは、そこまで人を変えるものですか」
「忠義だけではございません。
──これは、“恋”の香でもあります」
光秀は、その答えに、はじめて“苦い笑み”を浮かべた。
「……ならば、私には到底勝てませんな。
信長公を愛してしまった者に、理は届かない」
蘭丸は、その場をそっと下がる前に一礼した。
「愛とは、届かぬほどに香しいもの。
どうか、殿に手を伸ばすのならば、火傷を覚悟なさってくださいませ」
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その夜。
蘭丸は信長の寝所に戻り、帯を解いて床に伏した。
信長は、酒を口に運びながら、蘭丸の髪を梳いた。
「光秀はどうであった」
「……香を焚く気配は、まだ薄いです。
けれど、薪は乾いております。火を入れれば、よく燃えるでしょう」
「ふふ……ならば、我が焚き火とせねばな」
信長は、蘭丸の胸元を引き寄せ、低く囁いた。
「今宵は“香の源”として、余の中に沁み込め。
そなたが香るほど、我は冴える」
「……はい……殿……私の奥まで、香を染み込ませて……
この身のすべてで、殿の刃となります……」
「悦びながら忠義を捧げる──まこと、愚かで、可愛い奴よ」
信長はそのまま、蘭丸の唇を塞ぎ、
“香”として、愛として、完全に支配した。
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愛される香は、いつか燃える。
それでも、蘭丸は願った。
──その炎が、主のために咲くならば。
──すべてを燃やし尽くしても、構わない。
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