森蘭丸 ~天下人に愛された美少年~

ましゅまろ

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第22章:京へ、影は静かに咲く

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天正十年、五月末。
森蘭丸は、信長の命を受けて先行し、京へと入った。

向かう先は──本能寺。

それは、信長の上洛拠点として選ばれた寺であり、
上洛の折に何度も利用された、安寧と格式を備えた場所だった。

「我が京へ入るのは六月一日。
 そなたは、その前に香を焚け。余の“間”を整えよ」

信長はそう言い、蘭丸の髪を撫でた。

「京は華やかだ。だがその華は……時に人の目を狂わせる。
 そなたの香で、我を包んでおけ」

「はい。殿がその空に溶けぬよう、私の香で包みます。
 この身ごと、御座を香炉といたします」



本能寺に入った蘭丸は、すぐに支度を始めた。
寝所の位置、襖の調整、焚き込める香木の選定、
献立と器の配置まで、自らすべてを整えた。

“主のために空間を整える”という行為が、
まるで心臓を造るような儀式に思えた。

それほどまでに、空気が重かった。

京の空は、晴れていた。
だが、その風には、確かに違和感があった。

──柔らかすぎる。

──温すぎる。

まるで、風そのものが息を潜めているように、
街は妙に静かだった。



夜。
蘭丸は本能寺の寝所でひとり、香を焚いていた。

信長のために用意した香は、伽羅と梅肉を重ねた、重たく甘い香。

その香りに身を沈めるように、彼は天井を仰いだ。

「……殿。
 この香が届くまで、どうか……生きて、咲いていてください」

その祈りは、香に乗って静かに昇っていった。

やがて、廊下の足音。

「成利殿、お使いが」

「……誰から?」

「光秀様の……家中からの、使者とのことにございます」

一瞬、蘭丸の指が止まった。

「……通せ。香はそのまま。
 この香の中でしか、余計なものは見えぬ」



使者は丁寧に礼をし、
「光秀公が、六月初旬の御礼に舞を捧げたいとのこと」
と告げて帰っていった。

──嘘だ。

蘭丸は確信していた。

光秀は、舞わない。
舞の申し出は、戦の火蓋と同じ。

すでに、焔の縁は始まっていた。

「……殿。
 この香は、最後の香かもしれません。
 ならば私は、燃え尽きる覚悟で香り続けましょう」

蘭丸は再び香炉の蓋を開けた。
今度は、信長の体温に最も似た香──蘇芳と桂皮の調合。

「殿の香を……この寺に、焼きつける」



そして、静寂は続いた。

翌日には信長が京に入る。
蘭丸が準備を整えた本能寺に──
すべてを捧げて、主を迎える時が来る。

それは、影が咲く場所。
そして、花が炎に抱かれる、前夜の香だった。
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