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第9章 恋と愛
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しおりを挟む庭に咲く花々に霜が降りている。
桶にはった水にそっと手を差し込むと、じんじんと指先が痛むような感覚に襲われる。
暖房もない、ヒートテックもない冬は嫌いだ。
薫は米を研ぎながら心の中で愚痴った。
しかし、である。
その寒さを以てしても昨日の夜目撃してしまった光景を忘れ去ることはできなかった。
大好きで大尊敬している山南先生が悪所通いなんて。
暗い夜道とはいえ、満月に照らされた街の中で
廓の暖簾から出てきたのは見紛うことなく山南であった。
どんなに師と仰げども、山南だって男は男だ。
女の一人や二人、抱いたところで別に悪いことではない。
それに、賄いお手伝い衆だってよくどこの女が気立て良いだの、器量よしだの下世話な話をしている。
日々命を懸けて働く彼らが金を払ってどうしようと私が口出しできることではない。
だからこそ、山南先生は他の人とは違うと思っていたのかもしれない。
薫は深いため息をついた。
薫がため息をついたのにはほかにも訳がある。
「さすがに百人分のご飯を一人で作るのは…。」
近藤が隊士を引き連れて京へ戻ってきたのはつい先日。
お陰で食事の準備にかかる時間は倍増した。
それでも、賄い方として働くのは薫一人である。
お手伝い衆が以前のように手伝ってくれているが、
彼らには巡察という命懸けの仕事があるのだから無理は頼めない。
米を炊くのも一回の食事に3度。
水を汲むのに井戸を何往復もしなければならない。
まあ、これでお給料もらってるんだから文句は言えないんだけどさ。
朝稽古が終わり、朝食の時間になった。
薫はいつものように幹部が食事をする部屋に朝餉の膳を並べていく。
「おや、新選組は花を飼っておいでか。」
汗だくのはずなのに、どこか涼しげな面持ちをした男に声をかけられた。
見たことない男だ。
後から入って来た土方はどこか面白くないと言いたげな表情をしている。
「それはうちの賄い方ですが、何か。」
「これは失礼、あまりの麗しさに思わず足を止めてしまった。」
己の美しさを自負するように男はにこやかに薫を見て笑った。
このタイプの人間は自分がイケメンであることを十二分に承知の上で女の子に笑顔を振りまく人たらしだ。
薫は直感的に身を引いた。
「失礼しました。」
「待ちたまえ。」
急いで逃げようとする薫はその男に呼び止められた。
「名前は?」
「東雲薫と申します。」
そして、またにこやかな笑顔をこちらへ向けると、そうかとだけ男は呟いた。
「源氏物語に出てくる薫の君もあなたほど場を華やぐ姿ではあるまい。」
教養が高すぎて何を言っているのかよくわからない。
後で山南先生に聞いてみよう。
失礼します、と薫は小さく頭を下げると、逃げ出すように部屋を飛び出した。
そして台所に戻るや否や、事の次第をお手伝い衆に相談することにした。
「薫の君?誰だ、そりゃ。」
「そういや、そんな奴がいたような、いなかったような。」
「俺達に学を求めるなよ。相手を間違ってるぜ、東雲。」
「それこそ、山南先生に聞いてみたらいいさ。」
「それは、そうなんだけどね…。」
今は山南先生の所へは行けない。
会ったら、昨日見たことを問い質してしまいそうだ。
山南先生は何も悪いことをしていないのに。
「伊東先生は面白い人ですね。」
ハハハ、と軽快な笑い声を上げるのは、新入りお手伝い衆、安富才助であった。
近藤が東から連れてきたのは懐かしい江戸の香りだけではない。
伊東甲子太郎という新しい風を新選組に吹き込んだのである。
伊東はこれまでの幹部連中のようにむさ苦しい感じではなく、
どちらかといった京好みな風流な振る舞いをする人だった。
山南もようやく話の合う仲間に出会えたという風で食事の時も隣に座り、時流を熱く語っていた。
しかし、薫は土方と思考が同調するようになったのか、伊東を好きになれそうにない。
「伊東先生たちと上手くやっていけるかな。」
風流も過ぎれば、胡散臭い。
「上手くやっていくも何も俺達みたいな平隊士には関係ない話だ。」
彼らはあまり伊東という人間に興味がないのか、話は別の話題に移っていた。
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