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第1部 伯爵邸での日々
殿下の強硬手段と、裏切りの前夜
しおりを挟むセシリアからの報告を受けたアラン殿下の行動は早かった。彼は、翌日には伯爵家を訪れ、マルグリット伯爵夫人を伴って、アイリスの自室へと乗り込んできた。
「アイリス。君が裏で怪しげな商売に手を染めていると聞いた。王族の婚約者として、言語道断の行為だ」
アランは、冷たい目で梓を見下ろした。
梓は、これがセシリアの報告によるものだとすぐに察した。しかし、内心の動揺を隠し、静かに答えた。
「殿下。私はただ、領地で採れた薬草を加工して、使用人の手荒れを癒す品を作っているだけです。怪しげな商売などではございません」
伯爵夫人は顔を青ざめさせていた。
(ああ、なんて恥知らずな!殿下の心証が悪くなる!早く婚約を破棄させなければ!)
アランは、梓の言葉を一蹴した。
「言い訳はよせ。貴族の娘が、使用人と組んで生産活動を行うこと自体が、王族への侮辱だ。直ちに、その製造拠点と製品を全て差し出せ。全ては王室が管理し、君の行動は王室への献上品という形を取る。そうすれば、不問に付そう」
アランの目的は明らかだ。梓が稼ぎ始めている資金源を、自分の軍事資金として吸い上げること。
(これで、彼女の資金源を全て掌握し、鉱山問題が表面化する前に、彼女を丸裸にできる。セシリアの報告は、最高の贈り物だったな)
梓は、アランが製品を欲しがっていることに確信を持った。それは、製品の品質が、王都の貴族社会でも通用するどころか、軍事や政治資金になるほどの価値を持っていることを示していた。
梓は、深々と一礼し、表面的には服従の姿勢を見せた。
「承知いたしました、殿下。私の浅はかな行為が、殿下にご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。しかし、製品は現在、製造の最終工程に入っており、全てを差し出せるのは明日の夕方になります」
アランは、梓の素直な態度に満足し、鼻を鳴らした。
「よかろう。明日、この部屋で待っている。だが、もし一つでも隠蔽しようとしたら、その時は容赦しない」
アランと伯爵夫人が去った後、梓の瞳には強い光が宿った。
(製品を渡す?いいえ、渡すわけがないでしょう。私が時間を稼いだのは、最後の防衛線を発動させるためよ)
梓は、すぐに裏の物置小屋へと向かい、サイモンとガスパーに緊急の指示を出した。
「サイモン、ガスパー。全てアラン殿下に嗅ぎつけられました。製造拠点と、ここにある全ての製品を、今夜中に移動させます」
二人は一瞬驚いたが、梓の真剣な目に、すぐに事態の重大さを悟った。
「どこへ運ぶのですか、お嬢様?」
ガスパーが尋ねた。
「『銀の鈴』よ。バルカスには、事前に全てを託せるよう根回しをしています。そして、明日の朝までに、この小屋を、ただの物置に戻す必要があります」
梓は、物置小屋にあった、製品の材料の残りや、製造に使った道具、そして製造工程の記録を全て、バルカスが用意した信頼できる運び屋に託した。
梓がアラン殿下に差し出す予定の「献上品」として残したのは、最も粗悪で、まだ熟成が完了していない、失敗作の石鹸の残骸と、分離してしまったハンドクリームの油だけだった。
(アラン殿下。貴方は、私が資金源を失い、無能な愚か者だと断罪できる証拠だけが欲しいのでしょう?いいわ。望み通り、価値のないゴミを献上してあげる)
梓の目の前には、ノワールが静かに座っていた。ノワールは、主人の緊張と怒りを感じ取り、そっと梓の手に頬を寄せた。
(大丈夫、アイリス様。私はそばにいるにゃ。あの意地悪な奴らから、逃げられるにゃ)
ノワールの心の声に、梓は安堵した。これで、製品の命運はバルカスと『銀の鈴』に託された。
翌日、アラン殿下が手にするのは、価値のない失敗作と、貴族の令嬢が裏で商売をしていたという「証拠」だけだ。
梓の反撃は、静かに、そして確実に行われようとしていた。
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