灰の底で君に出会う

鮭茶漬け

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気になる存在

 夜の病室は静かだった。

 天井の灯りは落とされ、白い部屋は薄い闇に沈んでいる。廊下の光がドアの下から細く差し込み、規則正しい電子音だけが、わずかに空気を震わせていた。

 青年は椅子に座ったまま、透のベッドを見ていた。

 白いシーツの上で、細い体がわずかに上下している。呼吸は浅く、時折、胸元がぎこちなく動いた。眠っているはずなのに、どこか苦しそうだった。

 事故の光景が、ふと頭に浮かぶ。

 横断歩道。
 飛び出しかけた小さな背中。

 それを引き戻した腕。

 そして、車の衝撃。

 倒れたのは、この少年だった。

「……なんだよ、あの母親」

 隣のベッドから声がした。

 青年が視線を向ける。弟が枕にもたれながら、眉をしかめていた。

「さすがに変だろ」

 青年は短く答える。

「……ああ」

 弟は小さく息を吐いた。

「事故ったの、自分の子どもだろ。普通さ、あんな落ち着いてるか?」

 言葉を探すように続ける。

「心配とか……そういうの、普通あるだろ」

 青年は答えなかった。

 ただ透を見ていた。

 白いシーツ。
 点滴の管。
 胸元に巻かれた包帯。

 眠っている顔は、まだ青白い。病室の淡い灯りの下で、その細さが余計に目立った。

 事故のときの光景と、目の前の姿が、頭の中で重なる。

 あのとき、少年は迷わなかった。

 とっさに妹を引き戻し、自分の体で庇った。

 その結果、車に当たった。

 倒れたのは、この少年だった。

 青年は小さく息を吐く。

 どうしても引っかかる。

 あの母親の態度が。

 怪我をしたのはこの少年だ。それなのに、心配の言葉は一つもなかった。

 口にしたのは妹の熱のこと。

 それから、退院の話。

 そして最後まで――

 透の顔を見ることさえなかった。

 青年は視線を落とした。

 そのときだった。

 透の唇が、かすかに動いた。

「……ごめんなさい」

 小さな声だった。

 弟が顔を上げる。

「え?」

 透は眠ったまま、もう一度呟く。

「……ごめんなさい……」

 それだけだった。

 弟が眉をひそめる。

「なんで謝ってんの」

 青年は答えなかった。

 ただ透を見ていた。

 怪我をしているのは、この少年だ。

 謝る理由はない。

 それなのに、眠ったまま謝っている。

 弟が小声で言う。

「……やっぱ変だ」

 青年はゆっくり息を吐いた。

 頭の中に、ある言葉が浮かぶ。

 ――虐待。

 だが、その言葉をすぐに打ち消す。

 まだ分からない。

 事情を知らない。外から見ただけだ。

 それでも。

 青年は透を見た。

 細い体。浅い呼吸。眠ったまま謝る少年。

 胸の奥に残った違和感は、消えなかった。

 むしろ、少しずつ形を持ち始めていた。

 どうして、この少年は謝るのか。

 どうして、あんな母親の態度を当たり前のように受け入れているのか。

 青年はゆっくり立ち上がった。

 透のベッドの横まで歩く。

 透は眠っている。

 顔色はまだ悪い。それでも、表情はどこか穏やかだった。

 青年はしばらくその顔を見ていた。

 たまたま見かけただけの少年。

 本来なら、関わる理由はない。

 それでも――

 どうしても、放っておけない気がした。

 青年は小さく息を吐く。

 窓の外を見ると、街の灯りが遠く瞬いていた。

 青年はもう一度、透を見た。

(……少し調べてみるか)

 そんな考えが、自然に浮かんでいた。
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