旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:竜の都アルセリア・王と涙

【竜の都アルセリア・王と涙】 第三話:「影の蠢き」

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 祝祭の夜が明け、竜の都アルセリアには穏やかな朝の光が広がっていた。

 だが、その静けさはどこか薄く、触れれば崩れてしまいそうな脆さを孕んでいる。

 王宮の窓辺に立ち、街を見下ろす。

 昨夜の祈りの歌と歓声は、まだ石畳のどこかに残響を落としているというのに――胸の奥では、言葉にならない靄が揺れていた。

 私は軽装を脱ぎ、重衣に袖を通す。

 鏡越しに自分の瞳を覗き込むと、王としての表情の奥に、アノンとしての焦点が一瞬だけ揺らぐ。

 リュミエルとノクスグレアの言葉が脳裏に浮かぶ。

『闇も訪れる』

 祝祭の夜の最後に残ったそのひと言が、朝の光よりも重く、胸へ沈んでくる。

◇◇◇

 広間へ向かうと、近衛兵たちがいつになく神妙な面持ちで控えていた。

 視線を交わし、声を潜めるその様子は、祝祭明けの高揚とは無縁の緊張を孕んでいる。

「陛下……昨夜、城壁の見回りで異変がありました」

 最も信頼する近衛隊長が、一歩進み出て報告した。

「西の門の付近で、見慣れぬ影が複数目撃されています。痕跡は薄く、足跡も掴めませんでしたが、民の間で噂が広がりつつあります」

「影……」

 私は小さく呟き、外套を羽織った。

 祝祭直後とは思えない重い空気が、王宮全体に沈んでいる。

「現場を見に行く。案内を」

「はっ」

 兵が整列し、私たちは王宮をあとにした。

◇◇◇

 朝の光に照らされた街は、どこかぎこちない。

 竜の加護を掲げた旗は昨日と変わらず翻っているのに、人々の足取りだけが妙に落ち着かない。

 すれ違う娘が胸元の護符をぎゅっと握りしめ「竜の社に姿を見せてないって……本当なのかね」と、隣の老婆に囁いている。

 老婆は昨日、涙を流しながら祈りを捧げていたはずの人だ。

 だが今は、その手が小刻みに震えている。

――竜が姿を見せないだけで、これほど揺らぐのか。

 王として、そして観察者として、その揺らぎは嫌というほど伝わってきた。

◇◇◇

 現場に着くと、民家の壁に刻まれた黒い印が目に飛び込んできた。

 ただの落書きや風化の跡ではない。そこには、意図と悪意の痕跡があった。

「昨夜未明、この家の主が気づきまして……」

 近衛兵の説明を聞きながら、壁へ近づく。

 煤のように黒ずんだ傷が、不気味な模様となって石壁を裂いていた。

 兵のひとりが祝詞を唱えて調べるが、空気は重く、精霊たちの気配は鈍い。

 ――精霊が遠い。

 昨日まで、祈りの旋律に寄り添っていた淡い輝きが、今日は街のどこを探しても薄い。

 胸の奥に、不安の影がじわりと広がる。

「陛下、この印……外からのものと考える者もおります」

「外の?」

「古い伝承に似た模様だと」

 民たちの視線が私に集まる。

 期待と恐れ、その奥に確かな動揺が潜んでいた。

「竜と王が誓いを交わしたばかりなのに……どうして」

 誰かの呟きが、空気の裂け目のように響く。

 その気配は、都全体にゆっくりと滲んでいた。

◇◇◇

 王宮へ戻る道のり、街のざわめきはいつもと違って聞こえた。

 昨日まで誇らしげに顔を上げていた人々が、今日は視線を落とし、小さな祈りをつぶやきながら歩いている。

『竜』という存在が、どれほど都の均衡を保っていたか。

 その重要さが、むしろ今日の不安の大きさでわかってしまう。

 王宮の廊下に戻ると、家臣たちが集まっていた。

 彼らもまた落ち着かず、互いに囁き合っている。

「陛下……竜が現れぬ理由を、ご存じなのですか」

「昨日の誓いの後、何が起きているのか……」

 遠巻きの声が耳に触れる。

 私は玉座の間へ歩み、深く息を整えた。

 古い垂れ幕の静かな揺れと、薄く差し込む光の冷たさが、今の都の空気そのままに感じられた。

 椅子へ腰を下ろすと、王としての重責がゆっくりと背中に沈み込む。

 同時に、アノンとしての観察する視点が、現実を別角度から照らし出す。

――民は祈りだけでは救えない。

――影が迫るとき、誰もが自分の弱さと向き合わされる。

 そんな声が、静かに胸の奥で鳴った。

◇◇◇

 しばらくして、王妃が玉座の間へ入ってきた。

 彼女の表情は穏やかだが、瞳の奥は深い不安で揺れている。

「陛下……都に不安が広がっています。どうか、皆にお言葉を」

 私はそっと彼女の手を取る。

 その温かさが、責務の輪郭をはっきりと形作った。

「大丈夫だ。必ず答えを見つける」

 口にした瞬間、まるで自分の声が遠くで響いたように感じた。

◇◇◇

 夕暮れが近づくころ、私はひとり竜の社へ向かった。

 祝祭の名残が残る社の中は、静寂に沈んでいる。

 リュミエルも、ノクスグレアも姿を見せない。

 その気配すら薄い。

 祭壇の奥に膝をつき、静かに頭を垂れた。

「……どうして、今は現れてくれないのか」

「私は、何をすればいいのか」

「この都を、どう守ればいい……」

 問いは、闇に吸い込まれるだけだった。

 風が社を吹き抜け、祈りを乱すことなく通り過ぎていく。

 そのすぐあと――淡い光がふわりと浮かんだ。

 精霊たちだった。

 小さな輝きが寄り添うように揺れ、社の闇を柔らかく照らす。

 だが彼らは何も語らない。ただ、祈りの余韻だけを残していた。

◇◇◇

 社を出ると、夜が落ちていた。

 都の上空には黒い雲が広がり、遠くで雷が鳴る。

 風が強くなり、外套が揺れた。

 私は都を見下ろし、静かに誓う。

――どんな影が蠢こうとも、私は逃げない。

 祈りも涙も、この都のすべてを受け止める。

 竜と民、王家と精霊、その均衡を守るために――

 竜の社をあとにした私は、しばし石段の上で足を止めた。胸の内側にある重みは、風にあおられても消えなかった。

――この静けさは、祝祭の翌日とは違う。

 都全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。

◇◇◇

 王宮に戻ると、近衛隊長が慌ただしく駆け寄ってきた。

「陛下、城下で二件目の印が見つかりました。先のものと同様、黒い痕跡が残されています」

「場所は?」

「南の路地です。民衆がざわついており、混乱の兆しがあります」

 私は即座に外套を整えた。

「すぐ案内を。これ以上の不安は広げられない」

「はっ」

 王宮を出ると、空気は先ほどよりも冷たくなっていた。

 夜風に交じる湿った匂いが、不吉な雨の気配を含んでいる。

 路地に到着すると、すでに人だかりができていた。

 民たちは王の姿を見て静まり返る――けれど沈黙は、決して安心ではない。

「陛下……またですか」

「竜の加護は……」

 声が押し殺されている。その震えが、むしろ都の不安を濃くしていた。

◇◇◇

 路地の奥、石壁には確かに印が刻まれていた。

 一つ目よりも深く、漆黒の煤が傷へ食い込むように残っている。

 私はそっと指先を近づける。

 傷の縁から漂う冷たい気配が、肌に触れる前からわかる。

――これは、ただの傷ではない。

「近衛、周囲に精霊の気配は?」

「いえ……先ほどから反応が極端に弱く、祝詞役も困惑しておりまして」

 精霊たちは沈黙している。

 昨日まであれほど寄り添っていた淡い光が、今は街中から消えかけていた。

 その事実が、胸の奥で重くのしかかる。

◇◇◇

 民衆の不安を抑えるため、私は静かに声を発した。

「皆、心配はいらない。調査は進めている。竜の社にも向かった。必ず原因を突き止める」

 しかし民たちの瞳には、安堵よりも迷いが浮かんでいた。

 昨日の誓いが揺らいでしまったかのように。

――誓いとは、ただ交わすだけで終わるものではない。

――日々、その意味を示し続けねばならない。

 アノンとしての声が、王の内側で静かに形を取った。

◇◇◇

 王宮に戻ったのは、夜半が近い頃だった。

 家臣たちはまだ広間に集まり、地図を広げ、各所の警備について議論を続けていた。

「陛下、見張りの増員を――」

「いや、外部からの侵入とは限らない。むしろ……」

 皆が口々に意見を述べるなか、私は玉座へと歩いた。

 その場のざわめきが遠くに感じられた。

――判断を急ぐべきなのか。

――それとも、まだ見えぬ本質を探るべきなのか。

 影はただの脅威かもしれない。

 だが、何かもっと深い「意図」も感じ取れた。

 私は手を上げ、家臣たちの声を制す。

「今は動揺を抑えることが先決だ。民への伝達は最小限に。必要以上に恐れを広げてはならない」

 家臣たちがうなずき、静かに散っていった。

◇◇◇

 玉座の間には、私ひとりが残された。

 窓辺の灯りが揺れ、陰影が床に長く伸びる。

 私は椅子にもたれ、天井を見上げて息をついた。

――なぜ竜は姿を見せないのか。

――祈りの余韻が残るこの時期に、影が動くのは偶然なのか。

 アノンとしての視点が、王としての焦りを静かに鎮めようとしてくる。

 だが、その調停すら完全ではなかった。

◇◇◇

 深夜、王宮の上空に雷光が走った。

 一瞬だけ白く閃いた光が、都の影を浮かび上がらせる。

 その光のなか――私は確かに見た。

 塔の影をすり抜けるように、黒い影が滑るのを。

「……!」

 目を凝らしたが、次の瞬間には消えていた。

 風が渦を巻くように吹き、外套が大きく揺れる。

 胸の鼓動が速くなる。

 恐怖ではない――『兆し』を捉えた感覚だった。

◇◇◇

 私は侍従を呼び、すぐに近衛隊長を集めさせた。

「影を見た。西ではない、塔の側だ。示威行動かもしれない。警備を強化し、城下へ知らせを出すな」

「承知しました!」

 兵が散る音が背後で響く。

 だが、その足音が遠ざかっていくにつれ、部屋の静けさが異様に濃くなった。

 窓辺に歩み寄り、都を見下ろす。

 光の下にも闇はある。闇の奥には、さらに深い影がある。

 昨夜、竜たちが残した言葉が静かに蘇る。

『闇も訪れる』

 それは予言ではなく、警告だったのではないか。

◇◇◇

 やがて、夜の風が和らいだ。

 黒雲の隙間から、わずかな星の光がこぼれる。

 私はそのわずかな光を見つめながら、胸の奥で静かに誓った。

――どれほど深い影が蠢こうとも。

――私はこの都を見捨てない。

――竜と民、祈りと涙、そのすべてを守り抜く。

 王として。

 そしてアノンとして。

 都は眠りにつこうとしていたが、夜の奥では確かに影が動いている。

 それはまだ気配だけ――

 だが、始まりの静けさは、確かにそこにあった。

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