旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:竜の都アルセリア・王と涙

【竜の都アルセリア・王と涙】 第五話:「危機の足音」

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 夜明け前の竜の都アルセリアは、息をひそめるように沈黙していた。

 祝祭の残響はすでに遠く、石畳に広がる朝靄が、かすかな不安を薄く覆ってゆく。

 王宮の回廊を歩くたび、冷たい空気が足元で渦を巻いた。

 窓の外では、竜の社を見上げる民の影が揺れている。

 その表情から、かつての誇りや祈りは消えていた。

 残っているのは――見えない『何か』への怯え。

 均衡の裂け目に触れた者たちが抱く、説明できない疑念。

「昨夜、城下で地面が震えたと……」

 近衛兵が静かに告げる。声はかすれ、わずかに震えていた。

「竜の社の方角で、青白い光が走ったという噂もございます」

 別の家臣が言葉を続けるたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。

 私は短くうなずいた。

「都の南の門でも、夜半に奇妙な鳴動が続いております」

 家臣の報告は、どれも小さな傷のようだった。

 だが、その傷が積み重なり、やがて大きな亀裂へと変わる――民は気づき始めている。

◇◇◇

 玉座の間に戻ると、王妃がそっと寄り添ってくる。

 光を捧げるように両手を胸に添え、静かに祈った。

「この都に、もう一度あたたかな光が満ちますように」

 その声は優しく、それでいて遠かった。

 祝詞役たちの歌も力を失い、淡い光だけが天井をかすめて消えていく。

「民の間に、竜と人との約束はもう果たせぬのではないか、という声がございます」

 老いた家臣が、ためらいを滲ませて言った。

「二匹の竜も、ここしばらく姿を見せておりません。……竜の社の周囲では、精霊の気配が乱れているとも」

 私は深く息を吐く。

 社の奥で揺らぎ続ける淡い光――

 それは都の均衡が崩れはじめた印。

 城外を見渡せば、川の流れは鈍く、森の緑もどこか重たい。

 風は止み、精霊の囁きさえ聞こえない。

 城下から、かすかなざわめきが届いた。

 市場の民たちが互いを見やり、足早に行き交う。

 その影に、怯えが滲んでいた。

「竜は、もう人を守らないのでは――」

「この都は、終わりに向かっているのでは……」

 声にならない恐れが、底なしの霧のように広がっていく。

 そのとき、玉座の間に淡い光がふわりと浮かんだ。

 竜の気配――揺らぎ。

 リュミエルの声が胸の奥に響く。

「王よ。人の心は、なぜこれほど容易く揺らぐのか」

 ノクスグレアの影が、闇の底から静かにさざめいた。

「恐れが連鎖し、祈りは遠のく。……それでも赦しは成り立つのか?」

 私は答えを探した。

 だが、民の心も竜の誇りも、どちらも小さな裂け目を抱えている。

 結ばれていた絆は、音もなくほどけかけていた。

 祝詞役が震える声を上げる。

「……民の祈りを、どうかもう一度……!」

 私は立ち上がり、竜の社へ向かった。

 夜明けの光は弱く、石畳に落ちる影も頼りなかった。

◇◇◇

 社の前には、いつの間にか民が集まっていた。

 祈りと不安の狭間で、誰もが何かを待っている。

 そのとき――地鳴り。

 細かい震えが社の奥から走り、亀裂が広がった。

 青白い光が、細い刃のように空へ昇る。

「これは……」

 呟きが、あちこちでかすれた。

 光が消えると、静けさだけが残った。

 祈りの声はなく、すすり泣きだけが風に溶けていく。

「竜の加護は、もう失われてしまったのでしょうか……」

 祝詞役の声は限りなく弱かった。

「……いや。まだ、終わりではない」

 自分でも驚くほど静かに、その言葉が漏れた。

――だが、終わりの影は確かに迫っている。

 王宮の方角で、鐘が鳴った。

 祝祭の合図だったはずの音が、今は不安の波を広げる。

「陛下! 北の門で地割れが! 川の水が濁り……!」

「西の森でも風が逆巻き、鳥たちが一斉に……!」

 次々と重なる報告。

 都の空気はさらに重く沈んでいく。

 高空で、リュミエルとノクスグレアの気配が交錯した。

 火花にも似た緊張が走る。

「――王よ。民の不安は、われら竜にも伝わる」

 リュミエルの声は、静かな痛みを含んでいた。

「祈りは、闇に閉ざされつつある」

 ノクスグレアが続ける。

「都に恐れが広がれば、精霊も揺らぐ。黒い痕跡は、その乱れが落とした影の残り香にすぎぬ。お前たちを脅かすものではない……だが、均衡のほころびは確かだ」

 私は民の中に立ち尽くし、彼らの顔を見渡した。

 信じる力が残っていないのかもしれない。

 それでも祈りは消えていなかった。

◇◇◇

 私は社の奥へ向かい、大精霊たちの声に耳を傾ける。

「均衡を繋ぐものが途切れれば、我らの力も揺らぐ」

 土の大精霊グランの声は重く、大地の深みを思わせた。

「人の祈りは風のよう。強ければ嵐、弱ければ消える」

 風の大精霊アウラが淡く揺れる。

「赦しも祈りも、いまは細い糸の上。闇を恐れすぎてはいけません」

 水の大精霊セルシアの光が、わずかに温かかった。

 空の高みでは、二匹の竜が向き合っている気配がある。

「王よ。わたしは、お前たちを見捨てたことはない」

「……だが、人の心がこのまま沈めば、未来は見えぬ」

 リュミエルとノクスグレアの声が重なり、静かに空気を震わせる。

「……それでも、祈りは続く。誰かがそれを紡ぐ限り」

◇◇◇

 社から出ると、民たちの顔が見えた。

 誰もが恐れに濡れながら、どこか『赦し』を求めていた。

 祝詞役の歌は弱い。

 それでも消えず、細く灯を保ち続ける。

 精霊たちが、その光にそっと寄り添うのがわかった。

 私は民の前で膝をつき、静かに祈る。

 ただ、目を閉じて息を整える。

 危機の足音は、すぐそこまで来ている。

 だが、それは終わりではない。

 社の屋根を風が通りすぎた。

 そのとき――王宮の上空で、竜の二匹がわずかに視線を交わす。

 空気が震え、世界が呼吸をひとつ刻む。

 祈りはまだ、消えていない。

 淡い光が、この地に残っている限り。

 危機は迫る。

 だが、希望も同じ距離にあるのだ。

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