旅する創造主――アノンの世界観

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神話時代:竜の都アルセリア・王と涙

【竜の都アルセリア・王と涙】 第六話:「竜と竜」

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 竜の都アルセリアは、朝の光を拒むように沈み込んでいた。

 祝祭の面影はすでに薄れ、石畳を渡る風さえどこか怯えている。

 広場では祈りの声がかすれ、民たちの表情には、拭いきれない影が落ちていた。

 祈りと誇りで満ちていたはずの都が、わずかな揺らぎだけでここまで変わってしまうのか。

 玉座に座りながら、その事実が胸に重く沈んだ。

――竜と人の誓いが、崩れかけている。

 その感覚は、ただの不安ではなかった。

 空気の端々に、小さなひび割れのようなものが生まれ、都全体が静かに軋んでいる。

 玉座の間を満たす沈黙のなか、王妃と王族たちは言葉を飲み込み、ただ私を見守っていた。

 目を伏せ、そっと祈りを結ぶような仕草をする者もいる。

 そのひとつひとつが、都の揺らぎを示していた。

 そのとき――薄闇を裂くように、社の奥から淡い光が走った。

 天井に沿って浮かび上がるその輝きは、かすかに震えて消える。

 私は思わず立ち上がり、足元の外套が揺れた。

「竜の社で……何かが起こっている」

 小さく漏れた言葉に呼応するように、近衛隊長が息をのむ。

 視線が合った瞬間、状況の緊迫を互いに悟った。

 私は王宮を抜け、数名の祝詞役と近衛兵を伴って社へ向かう。

 冷えた朝気の中、石畳に響く足音が、不吉な前触れのように広場へ広がっていった。

◇◇◇

 竜の社が見えてくるにつれ、周囲の空気が変わっていく。

 風が細くなり、精霊のさざめきも弱く揺れるだけだ。

 すでに民が集まっていた。

 小さな子供は母の背にしがみつき、老いた者は石段に腰を下ろして祈りと息を重ねている。

 全員が、ひとつの方向――空を、見上げていた。

 夜明け前の淡い光が、空に薄布のような明るさを添える。

 だがその中央に、重なり合う二筋の影がゆらめいていた。

 リュミエルとノクスグレア。

 その名を呼ばずとも、圧倒的な気配が都を覆っていた。

 金色の輝きを纏うリュミエルの光。

 青白い闇を宿すノクスグレアの気配。

 互いが雲のはるか上で向き合い、静かに呼吸を交わしている。

 私は社の前に立ち、民たちと同じように空を見上げた。

 心臓がゆっくりと鳴る。

 王として、そしてアノンとして――この瞬間を誤ってはならない。

 光の揺らぎの中から、リュミエルの声が降りてくる。

「王よ……いま、人の祈りはどこにあるのだ?」

 まっすぐに問いかけられているのに、胸の奥がひどく重くなる。

 答えはすぐそこにあるのに、言葉にならない。

 民の祈りも、恐れも、赦しも、すべてが絡み合っている。

 ノクスグレアの声が重ねる。

 低く響き、空気を震わせる。

「恐れに寄り添うのが闇だ。だが、闇を恐れれば祈りは閉ざされる。……その先に何が残る?」

 二匹の竜が対話するたび、淡い光と深い影が都をなで、石畳がわずかに震えた。

 社の奥では、微かな気配が集まっていく。

 火の大精霊ラギア、風の大精霊アウラ、水の大精霊セルシア、土の大精霊グラン――

 そのすべてが、揺らぎの中心へと呼び寄せられていた。

 炎が小さくゆらめき、ラギアの声が低く響く。

「均衡は……細い繋ぎ目の上にある」

 空気がわずかに揺れ、アウラが囁く。

「竜の誇りも、人の祈りも、いまは頼りない羽根のようだね。……王よ、見届けて」

 セルシアが静かに水面のように揺れ、グランが大地を震わせる。

 四つの気配が交差し、私の胸に語りかけていた。

 世界そのものがわずかに軋む。

 広場のあちこちから、民のつぶやきが流れてくる。

「このままでは……」

「竜が争えば、都は……」

 ささやきは風に溶け、祈りはまだ形にならない。

 空で光と闇がゆっくりと動いた。

 リュミエルが翼を広げ、金色の光が都を照らす。

 ノクスグレアがそれを受け止めるように翼をはためかせ、蒼い影が大地に落ちる。

 その光景に、誰かが静かに涙をこぼした。

 祝詞役の声が震え、祈りの旋律が空へと昇る――だが、すぐに風にかき消される。

 私は掌を握り、冷えた息をゆっくりと吐いた。

 竜と竜。

 誇りと誇り。

 祈りと祈り。

 そのすべてがいま、綱の上で揺れている。

◇◇◇

 空がわずかに鳴った。

 竜たちが、お互いの呼吸の間合いを探るように円を描き、空気が細く震える。

 雲の合間で、光と闇の境界がゆっくりと軋みはじめた。

 その揺らぎが、地上にも伝わる。石畳がかすかに鳴り、民たちの肩がびくりと震えた。

 誰もが声を失い、ただ空を見上げる。

「……また揺れた」

「終わりが来るのか……?」

 そんなささやきが、祈りよりも早く広がっていく。

 私は一歩前へ出た。

 竜の社の石段が、浅く震えた。

 リュミエルが、高く舞い上がる。

 金色の光が尾を引き、朝の空を切り裂くように広がった。

「ノクスグレア」

 声が空を渡り、闇をまとった巨大な影へ届く。

「なぜ、祈りから離れようとする?」

 その問いは、責め立てる響きではなく、痛むような静けさを帯びていた。

 ノクスグレアは、ゆっくりと翼を震わせる。

 蒼白い闇が、夜明けの光を飲み込み、また返すように揺らめく。

「離れたのではない。寄り添っているだけだ。人の恐れも迷いも――祈りの影は、光の裏に必ずある」

 その声は低く、風に濡れたような冷たさがあった。

 けれど、怒りではなかった。

 リュミエルは小さく翼を畳む。

 その仕草は、深く思い悩む者の息づかいとよく似ていた。

「それでも、われらは誓いを結んだはずだ。赦しのために。共に歩むために」

 返事の代わりに、ノクスグレアは翼を一閃させる。

 蒼い影が大地に走り、石畳の表面がぱきりと音を立てた。

 竜たちの誇りが、空の上でぶつかり合っていた。

◇◇◇

 私は社の奥へ向かった。

社の奥では大精霊たちが、気配を寄せ合っていた。

 火の大精霊ラギアの炎は、細く揺れている。

 風の大精霊アウラは、何度も向きを変えながらも落ち着かない。

 水の大精霊セルシアは、揺らぎを抑えるように薄く光をまとわせていた。

 土の大精霊グランは、静かに震える大地を受け止めながら息を潜めている。

「祈りの流れが……弱くなっています」

 セルシアの声は、かすかな水音のように震えていた。

「恐れの風は、祈りより速い」

 アウラが言う。

「このままでは、均衡は……裂ける」

 ラギアの炎が短く揺れた。

 私は気づいていた。

 大精霊たちの言葉は恐れではない。

 ただ、世界が抱え込んだ『現実』を告げているだけだった。

 社の外では、子供が母親の袖を握りしめて空を見ている。

 老人は震える手で祈り続けている。

 祝詞役たちは声を枯らしながら歌を紡ぎ――その多くが風に飲まれていた。

◇◇◇

 空で、竜たちが再び交錯した。

 金色と蒼い闇が交わるたびに、雷のような衝撃が響き渡る。

 雲が裂け、風が逆巻き、空気がうなる。

 地上では、都の端から次々と報せが届いた。

「北の森で雷鳴を確認!」

「川の流れが逆転している!」

「南の丘で地面が割れ、炎が吹き上がりました!」

 近衛兵と家臣たちの声が重なり、王宮の方角まで緊張の波が走る。

 民たちはもう、祈りよりも先に恐れを抱いていた。

 誰もが空を見上げ、竜たちの行方を追っている。

◇◇◇

 その空の中で、竜たちは――最後の問いを交わしていた。

「我らは、ここで終わるのか」

 リュミエルの声は震えてはいなかったが、深い哀しみを抱えていた。

「それとも……新しい始まりを選ぶのか」

 ノクスグレアの声は、夜の底を思わせるような静けさがあった。

 その響きが落ちた瞬間、大地が長く揺れた。

 都の空に、細く鋭い亀裂が走る。

 民は声を失い、社の広場には淡い光がひそやかに揺れる。

 まるで、その光だけが都をつなぎとめているかのようだった。

 私はただひとつ、祈る。

 願いを言葉にすることもなく、胸の奥でそっと灯す。

 その淡い光が――消えませんようにと。

◇◇◇

 朝の風が一度だけ吹き抜けた。

 光と影の揺らぎが静まり、都の上に薄い静けさが戻りつつあった。

 けれど、その静けさは『終わり』ではない。

『始まりの静けさ』に、どこか似ていた。

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