旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:竜の都アルセリア・王と涙

【竜の都アルセリア・王と涙】 第七話:「大災厄」

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 空が――裂けた。

 その瞬間、胸の奥が強く掴まれたように固まった。夜明けでも夕暮れでもない、時間から切り離されたような白い空。その中央に走った黒い亀裂が、ありえない音を立てて広がっていく。

 竜の都アルセリア。

 かつて祈りと祝福で満ちていたはずのこの都は、いま、息を潜めたように静まり返っていた。

 私は王として、その光景をただ見上げるしかできなかった。玉座であれ社の前であれ、どの場所に立っていても、あの裂け目から目をそらすことはできない。

 民たちの声は、凍りついた風の中で完全に途絶えていた。

 広場では、老いた者も幼い子も互いに寄り添い、祈りを抱えたまま空を見上げている。

 祈りの歌はもう響かない。

『裂け目』の向こうにある何かに、誰もが怯え、すがるように目を凝らしていた。

 足元が、ぶるりと揺れた。

 小さな震え。それがすぐに都全体を飲み込み、大地を波打たせる。

 社の柱が悲鳴のように軋み、王宮の高窓がきしむ。民家の石壁が低く呻いて崩れ、砂埃が夜明け前の空気に舞う。

 遠くでは山脈がうなり、川の流れが逆転した――まるで世界そのものが裏返るように。

「……本当に、終わるのか」

 誰かが呟いた声がした。

 けれど、その声も地鳴りに呑まれ、消えていった。

 祝詞役は祈りを紡ごうとするが、震える唇は音をつくらない。

 近衛兵たちが私の前に立つ。その姿は『護る』というより『祈る』に近かった。

 視線を上げると、空ではリュミエルとノクスグレアが激しく舞い、金と蒼の光を絡ませながら衝突していた。

 竜たちの咆哮が、骨の奥まで響く。

 都の東――王宮の裏手。

 大地に亀裂が音もなく走る。草花が裂け目に吸い込まれ、根がちぎれる。

 北の森では雷鳴が轟き、樹々がなぎ倒され、精霊の気配が混乱したように揺れた。

 南の丘では地が割れ、地中から火柱が吹き上がり、赤い光が空を照らす。

 風の精霊は暴走し、街路を荒れ狂うように駆け抜け、水の精霊は逃げ惑うように気配を散らす。

 すべての自然が、『分断』という名の渦に巻き込まれていく。

 私は社の前で拳を握りしめた。

 こんなときでさえ、王の声はあまりにも小さい。

「……都が、裂ける……」

 民のなかから、震える声が漏れた。

 王妃は石段に立ち、王子と王女を抱き寄せている。

 家臣たちもまた、ひざまずき、祈るように目を閉じていた。

 すべてが、壊れる。

 空では竜たちが再び激突する。

 金色の光が空を切り裂き、蒼い闇がそれを呑みこむ。

 大気がきしみ、社の奥では淡い光が揺れた。

 その刹那、大精霊たちが動いた。

 火の大精霊ラギアの気配が炎の波動となり、都じゅうに熱のうねりを広げる。

 大地の大精霊グランの重い気配が地中を貫き、石畳にさらに深い亀裂を刻む。

 水の大精霊セルシアは、川の逆流を押し返すように冷たい揺らぎを放つ。

 風の大精霊アウラは烈風となって民の恐怖を吸い取り、空へ散らす。

 光の大精霊ルミナは淡い光を落とし、王と民の頭上に静かに触れる。

 闇の大精霊ノクスは夜の帳のように都を包み、混乱を押しとどめる。

 六体の大精霊の気配が都を覆った。

 それでも――災厄の流れは止まらない。

 祈りの歌も、風のざわめきに紛れて消えていく。

「均衡は、すでに崩れ始めている」

 炎の奥から、ラギアの声が響く。

 象徴のような響き。自然そのものが言葉を紡いでいる感触。

「分断は、もう止められないのか」

 グランの呟きが、大地の底から溢れた。

 私は――王でありながら、無力だった。

 天空の裂け目に迫る竜たちを見上げながら、握った拳がわずかに震える。

 王宮の塔が揺れ、石畳は大きく割れ、都の家々に走る裂け目は、まるで見えない指が大地をなぞったようだった。

 民たちは互いを抱き合い、恐怖に耐えながら、それでもどこかで『願う』心を捨てられないでいた。

 しかし、それも――届かない。

 空で渦巻く金色の光と蒼い闇。

 リュミエルとノクスグレアの輪郭が、世界の境界を歪ませる。

 光が滝のように降り注ぐたびに、大地の震動が隆起し、闇が覆いかぶさるたびに、都の音がすべて吸い込まれる。

 リュミエルの翼が大気を裂き、吹き荒れる風が大陸をなぎ払う。

 ノクスグレアの尾が雲を叩き、空が二つに分断される。

 そして――衝突点から『それ』は走った。

 最初に裂けたのは空だけ。

 だが次の瞬間、亀裂は空から地へ、王宮を貫き、都全体へ、そして遥か遠くの山脈や川や森へ走る『災厄の筋』へと変わる。

 大精霊たちが最後の力で押し返そうとする。

 だが竜の力は圧倒的だった。

 雲の上から落ちてきた亀裂は、都の中心を貫き、大地に太く深い傷を刻む。

 石畳が崩れ、社の柱が傾き、王宮の塔がゆっくり折れていく。

 広場は裂け、人々の悲鳴は轟音にかき消された。

 王妃は子らを抱きしめ、崩れゆく石段に膝をついた。

 家臣や近衛兵は震える足で私を守ろうとするが、立っているのがやっとの状態だ。

 天では、リュミエルとノクスグレアが最後の問いを交わすように向かい合っていた。

「なぜ、ここまで来てしまった――」

「これが、われらの運命なのか……」

 金と蒼の光が交錯し、空が唸る。

 そして――二匹の竜は、空の中心で激突した。

 光と闇の爆発が世界を呑み込んだ。

 空が押し広げられ、風と光と闇が渦を巻き、時間さえ止まったような静寂が広がる。

 次の瞬間――

 大陸が、音もなく裂けた。

 私は、崩れゆく都を見つめるしかできなかった。

◇◇◇

 都の中心を貫いた亀裂は、稲妻のように四方へ走り、大地を深く裂き、山脈へ、森へ、川へと伝播していく。

 世界そのものが断ち切られていくようだった。

 石畳は崩れ、王宮の塔がきしみ、そして――折れた。

 砂煙がゆっくりと立ちのぼり、何もかもを薄く覆い隠していく。

 広場でも大きな裂け目が口を開け、祈りの場だったはずの場所を二つに断ち切ってしまった。

 人々の叫びは、地鳴りと風の奔流にかき消され、ほとんど届かない。

「陛下、こちらへ……っ!」

 近衛兵が震える声を張った。

 だが、その足取りは重かった。

 そして――私の視界の端に、静かな終わりが映った。

 砕けた石柱の陰。

 王妃は、すでに床に崩れ落ちていた。

 膝の上には王子と王女。

 ふたりを抱きしめるその腕は、まるで眠る子どもたちを守るように優しく、しかし二度と動くことはなかった。

 寄り添う子どもたちもまた、瞳を閉じたまま。

 その小さな胸は、かすかな上下さえ見せていなかった。

 命の灯火は――ひっそりと、すでに消えていた。

 家臣たちは、その光景の前で声を失い、膝を震わせながら立ち尽くした。

 誰も叫ばない。

 誰も泣き崩れない。

 ただ、静かに、喪失の重さに押しつぶされていた。

 私は立ち尽くす。

 胸の奥がひどく冷え、何かが崩れていく音がした気がした。

 けれど、目をそらすことはできなかった。

 王である以上、見届けなくてはならない。

 たとえそれが、どれほど残酷でも。

 そのとき――大精霊の気配が再び濃くなる。

 炎は、悲しみに震えるように揺れつつ、崩落を少しでも止めようと赤い壁を立てていた。

 雨は静かに降り、舞い上がる粉塵を沈め、割れた大地をそっと濡らす。

 土は裂け目を縫い合わせるように押し返し、大地がこれ以上崩れぬよう支えていた。

 風は人々の叫びと祈りを抱えて空へ運び、混乱をわずかに遠ざける。

 光は絶望の闇に細い光を落とし、闇は、喪失を静かに包み込み、痛みを夜の底へ沈めていた。

 それでも、竜たちの傷跡は止まらない。

 亀裂は海のように拡がり、世界は別々の大地へと引き裂かれていった。

「こんな……」

 民のひとりが震える声を漏らす。

 その横で、別の者がそっと手を重ねる。

 恐怖のただ中でも、人は互いに寄り添うことをやめなかった。

 私は唇をかみしめた。

 守れなかった現実が、胸に突き刺さる。

 ふと、空を見上げる。

 光と闇がほどけ、ゆっくりと沈んでいく。

 まるで燃え尽きた祈りの残滓が風に流されていくように。

 リュミエルの金の光は、遠い空へ消え――

 ノクスグレアの蒼い闇は、夜明けの気配へ溶け込んでいった。

――その背に、深い傷と赦しの記憶だけを残して。

 都は、裂け目のふちに取り残された。

◇◇◇

 瓦礫の上に立つと、かつてのアルセリアが遠い昔の幻のように思えた。

 折れた柱。砕けた壁。裂けた道。

 そのすべてが、世界が裂けた証だった。

 私は拳を握った。

 この手では、何ひとつ守れなかった――その重さが、胸の奥で静かに沈んでいく。

 それでも。

 瓦礫の影で、まだ誰かが誰かを支え合っていた。

 泣き声と祈りのさざめきが、風に溶けるように混じり合う。

 大精霊たちの気配は、まだ都を包んでいる。

 私は目を閉じる。

 聞こえるのは、瓦礫のあいだを抜ける風。

 そして、絶望の底に沈んだ祈りの残響。

「……終わったのか」

 その声は、誰に届くこともなく、風に消えた。

 それでも、私は願う。

 たとえ世界が裂けても。

 この地がどれほど深く傷ついても。

 いつか、この場所に――

 赦しと祈りの芽吹きが、もう一度訪れることを。

 裂け目の向こうに漂う淡い光が、ゆっくりと揺れていた。

 それは、終わりの印であり。

 そして、新たな始まりの予兆でもあった。

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