旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:竜の都アルセリア・王と涙

【竜の都アルセリア・王と涙】 第十話:「未来への別れ」

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 長い闇がようやく途切れた。

 薄明の光が、静まり返った都にそっと降りる。

 瓦礫の上をゆっくりと流れる命の泉は、夜の冷たさをそのまま抱えながら、淡いきらめきを返していた。そこに立ち尽くす人々は、もう泣き声を上げない。ただ、朝が始まる気配に身を寄せていた。

 私は泉のほとりから、崩れ落ちた王宮を振り返る。

 かつて竜とともに栄え、民の祈りが満ちていた竜の都――アルセリア。

 その姿は、今や影だけを残して静かに横たわっている。

 焦土になった大地は地平の先まで裂け、王宮の塔は半ばから折れ、瓦礫の山のように崩れ落ちていた。けれど、そんな光景を前にしても、人々は言葉を失ったまま泉を囲んでいた。

 折れた槍に手を添えた近衛隊長が、膝をついて祈りを捧げる。

 祝詞役は震える指で花を一輪置き、泉の流れにそっと託した。

 花はゆらりと漂い、淡い光を帯びたまま小さく消えていく。

 私は静かに息を吸った。

 胸の奥には、終わりを見届けた痛みと、それでも消えなかったわずかな希望が混じり合っていた。

――リュミエル、ノクスグレア。

 心の中で名を呼ぶ。

 彼らの姿はもうどこにもない。

 だが……泉の底に揺らめく光の影が、二匹の竜の面影を確かに映していた。

 怒りでも、悲しみでもない。

 それは――祈りと赦しのような、穏やかな気配。

「王よ……」

 祝詞役が背後から声をかけた。

 その声音には、深い喪失と、それ以上の静かな決意が滲んでいた。

「都は失われましたが、竜たちの祈りは……私たちに新しい命を残してくれました」

 私は小さくうなずき、泉へ手を伸ばす。

 指先に触れた水は冷たかったのに、掌には確かな温もりが広がった。

 淡い光が水面の奥で脈打ち、竜の記憶と民の祈りがひとつになって息づいている――そう感じた。

 そのとき、近衛兵の一人が立ち上がり、声を張った。

「この地を、我らの祈りの地としよう! 命の泉を守り、この場所から――新しい時代を築くんだ!」

 励ましではなく、誓いの声だった。

 その言葉に、民は次々と膝をつき、泉へ手を合わせていく。

 泣き声ではない。

 静かな祈りが重なり、朝の空へ溶けていく。

 瓦礫の間で、火の大精霊ラギアが淡い炎を灯した。

 それは戦火ではなく、凍えた空気を温めるためのやわらかな光。

 水の大精霊セルシアは泉の流れをそっと撫でるように揺らし、水面に細かなさざめきを生んだ。

 まるで『命の約束』を告げるように。

 風の大精霊アウラは都の上空を巡り、灰を払い落とし、その風を受けた瓦礫の間から、小さな芽がひとつ顔を出した。

 土の大精霊グランが大地を震わせて根を張らせ、光の大精霊ルミナは雲間から柔らかな輝きを落とす。

 そして――闇の大精霊ノクスは、その光を包むように静かに漂い、過去の痛みを抱きしめるように都を覆っていた。

 大精霊が揃い、言葉もなく、ただ泉と民の誓いを見守る。

 その光景は、まるで創世の時へ戻ったかのような静けさだった。

 私は泉を見つめて、ゆっくりと口を開く。

「この地に残る者たちよ。今日より、この泉を『命の証』とせよ。都の名は消えようとも……祈りの灯は絶やしてはならぬ。私たちが歩んだ痛みと赦しを……未来へ渡すために」

 声は震えず、澄んでいた。

 民の瞳に浮かんだ涙は、悲しみではなく、再び歩き出すための光だった。

「王よ……あなたは」

 近衛隊長が言葉を詰まらせる。

 その目には、王を失うことへの恐れと、支えを求める想いが滲んでいた。

「これからも……我らはあなたと共に祈り続けてよいのですか」

 私は静かにうなずいた。

「この泉と共にあれ。私はこの地を離れぬ。姿は変わろうとも……ここに残るだろう」

◇◇◇

 静寂が戻った。

 けれど、それはもう終わりを告げる静けさではなかった。

 命の泉からこぼれた光が、瓦礫の上に新しい朝を描き出していく。

 民たちは泉を囲み、少しずつ、けれど確かに動き始めた。

 折れた柱を支え合い、崩れた石を積む。

 互いの手を取り、失われた場所に戻るのではなく――新しい生活のための小さな居場所を見出していく。

 祈りと共に生きるための、最初の一歩だった。

 祝詞役は泉のほとりに小さな祭壇を築いた。

 竜たちの名を刻んだ石板をそっと据え、花を添える。

 母は亡き子の名を刻んだ小石を並べ、兵たちは、倒れた仲間の紋章を静かに供える。

 やがて泉の周囲には、無数の小さな祈りが積み重なり、円となって広がっていく――『命の記憶』の輪が。

 その光景を、私は黙って見つめていた。

 そこにはもはや、王と民という境界はなかった。

 皆が等しく、同じ地に生まれ、同じ泉へ祈りを託す者となっていた。

◇◇◇

「王よ!」

 瓦礫の丘を越え、近衛隊長が戻ってくる。

 鎧は脱ぎ捨て、粗布をまとった姿。

 肩には新しい傷があり、それでもまっすぐに立っていた。

「都の外にも……泉の流れが届き始めています。森の奥の裂け目にも、水が光を落としていました」

 私は目を細め、静かにうなずく。

「それでいい。竜の涙は、もはや都だけのものではない。この大陸全土に祈りのかけらを運ぶために――生まれたのだ」

 風が吹く。

 新しい土の匂いが混じった優しい風。

 水音が響き、大地は根と芽を抱くように柔らかく息づく。

 光が泉の表面を照らし、闇がその奥へ静けさを与える。

 大精霊たちは、互いを見つめることなく、しかし確かにひとつの流れになり、 光と闇の粒となって、泉の中へ溶けていった。

◇◇◇

 私は空を仰ぐ。

 大陸を裂いた傷跡は深く、その先は遠い。

 けれど、裂け目の隙間にも光が射しこみ、雲はゆっくりと渦を巻き、風の道筋が生まれていた。

――世界は壊れてはいない。

 ただ、新しい形を得ようとしているだけだ。

 民は泉の水を器に汲み、互いに手渡し合う。

 それは、かつて祭りの日に行われた『命の杯』の儀式に似ていた。

 しかし今は、音楽も歓声もない。

 ただ水が器へ落ちる音と、静かな祈りの言葉が響くだけ。

「この水は竜たちの涙。この地を潤し……やがて新しい命を生むだろう」

 祝詞役の言葉に、人々は静かにうなずく。

 その瞳に映るのはもう、失われた都ではない。

――未来を見つめる光。

 私は泉のそばに立ち、民の背を見守る。

 風が頬を撫で、自分の体の輪郭が、少しずつ薄れていくのがわかった。

 恐れはなかった。

 私はまだここにいる。

 この地に、祈りと共に残ると約束したのだから。

 泉の光が、私の影を包む。

 その光の中に、かつて共に笑い、泣いた顔が浮かぶ。

 王妃と子供たち。

 友。

 臣下。

 そして――竜たち。

 その記憶が、水の奥で柔らかく溶け合っていく。

◇◇◇

「王よ」

 祝詞役が泉の前に膝をつき、静かに頭を垂れた。

「この泉を……竜たちが遺した『命の証』を、我らの祈りとして受け継ぎます」

 私は小さく微笑む。

「その名に恥じぬように生きよ。泉は語らずとも、必ず応えてくれる。人の祈りが絶えぬ限り……この地は再び息づく」

 空が白み始める。

 泉のきらめきは大陸そのものを照らすように広がり、裂けた大地へ流れ込む水は、いくつもの光の筋となって東西南北へ分かれていく。

 その瞬間、私は悟った。

――世界は分かたれたのではない。

 それぞれの大地が、新たな祈りを受け取るために『生まれ直した』のだ。

 風が吹き、泉の表面が細かく波打つ。

 その波間に――リュミエルとノクスグレアの光が浮かび上がった。

 最後の別れを告げるように、淡く尾を引いて。

「ありがとう、王よ」

「我らの祈りを、次の時代へ」

 声が聞こえた気がした。

 光はやがて消え、泉の奥へ沈んでいく。

 私は両膝をつき、深く頭を垂れた。

「……あなたたちの約束は、終わらぬ。この泉が、いつか――新しい命を呼び覚ます」

 民たちの祈りが重なり、風に乗って山や海を越えていく。

 彼らはもう、かつての民ではなかった。

 王に導かれる存在ではなく――自らの意志で祈り、未来を選ぶ者たちだった。

◇◇◇

 私はゆっくりと立ち上がる。

 泉の水面に映っているのは、もはや王ではない。

 ひとりの人としての私だった。

 血と泥に汚れた衣の隙間から淡い光が漏れ、泉と共鳴するように脈打つ。

 その鼓動は、私の体の奥深くから大地へ伝わり――

 泉の底で、ひときわ強い輝きが生まれた。

 竜たちの涙と祈りが混ざり合い、世界の再生を告げる光。

「見よ――竜たちの願いが息づいている!」

 祝詞役の声に、民が歓声を上げる。

 子どもたちが笑い、泉の光を追いかける。

 その声は、大災厄以来初めて響いた『希望』の音だった。

◇◇◇

 泉の光が薄れ、都の上に新しい空が広がる。

 崩れた塔にも、一筋の陽光が差し込んだ。

 それは、竜たちが最後に送る『光の祈り』のようだった。

 民たちは手を取り合い、子どもたちは瓦礫の丘で花を摘む。

 風に乗った一輪の花が、泉の中央へ落ちた。

 淡い光をまといながら、水面に浮かび、ゆっくりと溶けていく。

 私はその光を静かに見届ける。

「この地に残る者たちよ――祈りを絶やすな。命の泉がある限り……竜の都は生き続ける」

 祝詞役が新たな歌を紡ぎ始める。

 それは戦の終焉ではなく、再生のはじまりを讃える歌。

 光はさらに広がり、空と大地をつなぐ。

 私はその中心で、穏やかに微笑んだ。

――この身が朽ちても、祈りは残る。

 いつの日か、この泉を見つめる誰かが、再び『世界を結ぶ願い』を思い出すだろう。

 風が頬を撫で、泉の水音が遠くへ続いていく。

――竜の都アルセリアは、『命の泉』の伝説へと変わった。

 祈りは時を超え、赦しは命に変わり、

 世界は『分かたれた大地』として新しい時代へ向かう。

 そのどこかで、泉の水音は今日も響いている。

 過去を悼むためではなく――未来を呼ぶために。

 私の胸の奥でも、確かにその音は鳴り続けていた。

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