旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:祈りの丘・最初の巫女

【祈りの丘・最初の巫女】 第一話:「孤児の朝」

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 風は、遠くで止まっていた。

 まるで世界そのものが息を潜めているかのように、灰色の空は低く垂れ込み、焼け焦げた大地はどこまでも静まり返っていた。

 風の音さえなく、ただ『止まっている』という気配だけが辺りを包んでいた。

 その沈黙の奥で、私は――名もなき少女の内側で、ゆっくりと目を覚ました。

 冷えた土が指先から腕へ、そして胸の奥へとじわりと染み込み、意識を現実へ引き戻してくる。

 頬には灰のざらつき。鼻に届く空気には、焦げた匂いがかすかに残っていた。

――ここは、滅びの跡か。

 見上げれば、崩れ落ちた家々の残骸が灰に埋もれ、大地には深い裂け目が走っていた。森は黒く沈み、枝は影のように折れ曲がっている。

 この光景には覚えがあった。

 だがそれは『私』の記憶ではない。

 この身体――少女が覚えていた世界の痛みだった。

 胸の奥で、心臓が小さく脈動する。

 少女の鼓動が、私の感覚へと染み込み、世界を確かめるように静かに響いた。

 家族の声は、どこにもない。

 呼んでくれる人も、支えてくれる腕も。

 それでも、この身体はまだ世界に縫いとめられるように、生きようとしていた。

 私は、そっと立ち上がる。

 膝が震えた。足裏に触れる土は冷たく、硬く、ところどころ熱を残していた。

 焦土の匂いが風に揺れずに漂っている。

 視界の端で、土の下から淡い光が漏れていた。

 命の泉の名残――世界のどこかでまだ脈打つ光が、この地にも落ちてきていた。

 掌をかざすと、光は脈動し、静かに呼吸を返してくる。

――終わりじゃない。まだ、息づいている

 そんなかすかな響きを感じた。

 世界は滅びた後も、どこかで再生の呼吸を続けている。

 その息づかいを見つめる者は、今はほんのわずかしか残っていない。

 私は胸の奥に問いを浮かべた。

――なぜ、命は『終わり』を拒み続けるのか。

――破壊を知ってなお、世界は再び芽吹こうとするのか。

 その答えを探すように、私は歩き出した。

◇◇◇

 村の中央には、倒れた祈祷塔があった。

 かつて祈りを捧げる声が集っていた、世界の小さな中心。

 今はただの残骸となり、黒く崩れた影だけを地面に落としている。

 影の下――小さな人影が横たわっていた。

 私はひざをつき、そっと手を伸ばす。

 幼い子供の身体は冷たく、沈黙のまま動かない。

 その顔には、恐れでも安らぎでもなく、ただ静けさだけが残されていた。

 指先は空を掴もうとしたまま、途中で止まっていた。

 誰かの手を求めたのだろうか。

 それとも、祈りの残響を掴もうとしたのだろうか。

 胸の奥で、かすかな波紋が広がる。

 少女の記憶――ではない。

 これは私自身の揺れだった。

――創造主である私が……悲しんでいる?

 そんな思いが自分の内に芽生えたことに、私は軽い驚きを感じた。

 本来なら、失われた命も、残る命も、ただ理の流れの一部にすぎない。

 けれど、この胸の痛みは理では説明できなかった。

――これが、祈りの始まりなのかもしれない。

 私は静かに目を閉じた。

 土の奥には、まだ微かな気配が揺れていた。

 風が焦げた木々の間を通り抜け、その流れのどこかに、呼びかけのような響きが混じっている。

 耳で聞いたのではない。

 心の奥へ沈み込むように伝わってくる声だった。

 少女の記憶か、世界そのものの残響か――その区別はつかない。

 それでも私は、その声に応えたくなった。

「……ここにいる」

 その言葉は自然に唇からこぼれた。

 私の声か、この身体の声か、それすら曖昧だった。

 風が頬を撫でていく。

 返事をするように、優しく。

 地面に落ちていた白い花のような欠片を、私は拾い上げた。

 指先にふれると、淡い光が脈動する。

――命は、まだ……ここにいる。

 胸の奥で少女の記憶が揺れた。

 誰かに抱かれた感触。

 温かい手の記憶。

 その残像が、灰色の世界にぽつりと灯るように浮かんだ。

 私はその記憶を静かに抱きしめる。

 世界は沈黙している。

 けれど、その奥に息づくものがある。

 顔を上げたとき、遠くの丘で光が瞬いた。

――呼ばれている。

 胸の奥が導かれるように、私は歩き出した。

 理由はない。

 だが、あの光は『祈り』の匂いを帯びていた。

◇◇◇

 丘へ向かう途中、焦げた風が頬を打った。

 その風には、嗚咽のような音が混じっている。

 崩れた井戸のそばに、三人の影が座り込んでいた。

 生き残った村人たち。

 煤にまみれ、痩せて、目は深い空洞のように沈んでいる。

 子供だけが、静かに泣いていた。

 私は声をかけようとして――やめた。

 彼らは、私を見ていない。

 この身体の少女が『ただの孤児』であること。

 それを私は理解していた。

 男が瓦礫の中から壊れた木像を拾い上げる。

 祈祷塔の残骸に似た像だった。

 その目は光を失い、世界を映さない。

「……神は、いなかったのか」

 その言葉は、世界の底に沈んでいくように響いた。

 私は答えを持っている。

 創造主として、世界の理も、命の循環も知っている。

 けれど――返すべき言葉はなかった。

――祈りは、答えを求めるものじゃない。

 ただ願いの形。

 かつて二匹の竜が、この世界で初めて示したように。

 私は静かにその場を離れた。

◇◇◇

 丘へ続く道は、まだ熱の名残を抱えていた。

 踏みしめるたび、淡い光が滲む。

 命の泉から流れた光が、土の奥へ染み込んでいる証だった。

 丘のふもとで、ひとりの子供が倒れた木に寄りかかっていた。

 涙は乾き、目は赤く腫れている。

 私を見ると、小さく身をすくめた。

「……こわいの?」

 尋ねると、子供は首を振った。

「こわく、ない。でも……お母さん、いないの」

 声は震えよりも静かだった。

 私はその小さな手を見つめた。

 掴めば壊れてしまいそうな指先。

 そのかすかな震えに、胸の底が揺れる。

 少女の記憶が、また光る。

――誰かに触れられる安心。

――温かさ。

 私はその記憶に導かれるように、手を伸ばした。

 掌が重なる。

 かすかな体温が伝わってくる。

 その瞬間、風が流れた。

 光がきらめき、ふたりの手を包む。

 祈りの気配が、丘の方へ流れていった。

「……いまの、なに?」

 子供が尋ねる。

 私は答えず、光の行方を見つめた。

――祈りの、かたちだ。

 丘を登るにつれ、世界の色が変わる。

 焦げた土の隙間から草の芽が一つ、また一つと顔を出していた。

 風の音が戻り、崩れた石の影で小鳥が羽を震わせた。

――命は、戻ろうとしている。

 胸の奥で、その確かな息づかいを感じた。

 丘の中腹まで来たとき、風が音を取り戻した。

 崩れた石の影から、小鳥の影がひらりと舞い上がる。

 焼けた世界の中に差し込む一筋の生命。

 私は立ち止まり、振り返る。

 村の跡地が、朝の光に染まっていた。

――これは、希望というやつか。

 そんな言葉が胸に湧いた。

 滅びのあとに祈りが残り、祈りのあとに再生が訪れる。

 人が泣き、願い、誰かがそれを拾い上げる。その連鎖が命をつなぐ。

 胸の奥で記憶が疼く。

 創造主アノンとしての記憶。

 竜がいた丘。世界で最初に祈りが生まれた場所。

 そこに、私は足を進めた。

◇◇◇

 丘の頂には、何もなかった。

 ただ風だけが、昔の残響を抱えてこの場所を巡っていた。

――あの時も、同じ風が吹いていた。

 思わず零れた言葉は、少女の声ではなかった。

 アノンとしての声。観察者として、この世界の根を見つめる者の声。

 風が頬を撫で、丘の記憶を静かに運んでいく。

 竜たちが祈ったときの気配。

 世界が初めて『願う』という行為を覚えた瞬間の残響。

 私は掌を広げた。

 淡い光が集まってくる。

 指のあいだから零れ落ち、それでも消えない。

 祈りの種のような光。

――この世界は、まだ歩ける。

 確信が胸に灯った。

 少女の瞳がゆっくりと閉じる。

 風の温度が変わり、丘の色がほんのわずかに明るくなる。

 世界はまだ鼓動している。

 再生の気配が、静かに根を張り始めていた。

 私は空を見上げ、心の底でそっとつぶやく。

――私は見よう。この小さな祈りが、どんな未来を咲かせるのかを。

 風が流れ、光が散り、祈りの丘に朝が訪れた。

 それは、始まりの静けさに満ちていた。

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