旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:精霊の森・精霊との誓い

【精霊の森・精霊との誓い】 第二話:「消えゆく光」

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 森の朝は、いつもより少し暗かった。

 薄い霧が地面をなぞるように漂い、葉擦れの音はほとんど響かない。

 かつて森じゅうに満ちていた気配――精霊の息吹は、もう探しても見つからなかった。

 ぼくは泉のほとりでしゃがみこみ、そっと水に手を入れる。

 ひんやりとした感触が指先に残る一方で、水底には小石と泥がすぐ触れた。

「……また、少なくなってる」

 思わず呟いた声は、朝の静けさにすぐ呑まれる。

 薄い水面の揺れが、どこか痛々しく見えた。

 目を閉じて深く息を吸う。

 胸の奥に残るのは、言葉にならない鈍い痛みだけ。

◇◇◇

 村に戻っても、空気の重さは変わらなかった。

 大人たちは家の扉を固く閉ざし、畑へ向かう足取りもどこか急いでいる。

 子供たちの声はすっかり消え、朝食の支度らしい物音だけが家々の奥からかすかに洩れていた。

 ぼくは村の隅に座り込み、泉の水で濡れた指先を見つめる。

 冷たさは、まだ皮膚の奥に残っていた。

 ふと顔を上げると、少し離れた場所にキリアやユート、ナミの姿が見えた。

 かつて一緒に遊んだ仲間たちだ。

「……また、話してる」

 彼女たちは輪になり、何かを相談している。

 ユートがちらりとこちらを見るが、目が合う前にそっと視線を逸らした。

 ナミは不安そうに仲間の陰へ身を寄せる。

 その一瞬一瞬が、胸の奥に冷たい影を落とす。

 自分がもう、あの輪の中に戻れないことを静かに告げてくるようだった。

◇◇◇

 森の衰えに合わせるように、村の暮らしはどんどん小さく縮こまっていった。

 家族を失ったぼくに向けられる視線は、いつしか優しさを失い、代わりに諦めや恐れの色が滲むようになった。

 誰かが怪我をすれば森の祟りだと囁かれ、泉の水がさらに細れば、その理由を探すようにぼくを見つめる目があった。

 大人たちの不安は、子供たちの態度にも静かに染み込んでいく。

 キリアは時折目を合わせてくれるが、それでも何かを言いかけては唇を結ぶ。

 ユートは、もうぼくの存在を視界に入れようとしない。

 ナミは、ぼくが近づくと胸の前で手をぎゅっと握り、仲間の背中へ隠れた。

 どれも大きな拒絶ではない。

 けれど、積み重なるたびに、ぼくと村の世界は静かに離れていった。

◇◇◇

 森を歩けば歩くほど、息の詰まるような静けさが広がっていた。

 枝葉のあいだから差し込む光は弱く、風はときどき途切れる。

 足元の土は乾き、苔は灰色に近い色へと変わっていた。

 知っている場所のはずなのに、どこか違う。

 かつて精霊を感じた場所は、次々と空虚な沈黙へ姿を変えていく。

 胸の奥に溜まるものは、誰にも話せない孤独と、どうにもならない無力感だった。

 祈りの言葉はうまく出てこない。

 ただ、重たい空気が喉の奥にへばりついている。

 村の奥では、大人たちがひそひそと集まっていた。

 精霊に祈る儀式は、とっくに途絶えている。

 かつて祭壇で響いていた歌も、森の香りも、今ではただの記憶だ。

◇◇◇

 ぼくは泉のほとりに戻り、膝をついた。

 冷たい水にそっと触れ、心のなかで問いかける。

――まだ、どこかに……精霊はいるの?

 淡い希望が浮かぶと、すぐに同じくらい大きな失望が押し寄せた。

 祈りは届かず、水は指のあいだから静かに零れ落ちる。

 まるで、この森の命がそのまま消えていくように。

 それでも、ぼくは祈るのをやめられなかった。

 ふと、遠い記憶が浮かぶ。

 家族と過ごした、森と泉の穏やかな日々。

 小さな手を重ねて祈った朝。

 あの時、たしかに精霊の気配はそこにあった。

 けれど今は、その全てが消えかけている。

 ぼくの中にも。

 森にも。

 仲間たちの心にも。

 残された光は、ほんのわずかしかない。

 歩むほどに、無力さばかりが募っていく。

 どうして自分は、何もできないままここにいるのだろう。

 どうして祈りさえも届かなくなってしまったのだろう。

 心の奥底で、私が問いを投げていた。

――この終わりゆく森で、命の灯が再び揺らぐ日は来るのだろうか。

 答えは、まだ見えない。

 それでも、ぼくは祈りを手放せなかった。

◇◇◇

 泉のそばで膝を抱え、ぼくはじっと座り込む。

 祈りの言葉は声にならず、ただ遠くで水音だけが響いていた。

 時が流れているのかどうかさえ、分からない。

 ふと顔を上げる。

 森を照らしていた淡い光は、もうほとんど残っていなかった。

 木々の影が長く伸び、辺りは深い灰色に沈んでいく。

 帰り道の目印にしていた倒木も、いつの間にか見失っていた。

 胸の奥に、不安がじわりと広がる。

――このまま夜になったら……どうしよう。

 呼吸が浅くなる。

 ぼくは立ち上がり、森の小道を手探りで歩き始めた。

 枝葉が密に重なり、何度も通ったはずの道なのに景色が違って見える。

 足元には濡れた枯葉の冷たい感触。

 自分がどれだけ歩いたのか、もはや分からなかった。

◇◇◇

 やがて、足裏に石の感触が伝わってきた。

「……え?」

 目を凝らすと、薄闇の奥に苔むした石積みが浮かび上がる。

 それは、村の誰も語ったことのない、朽ちかけた祭壇だった。

 見覚えのない場所。

 幼い頃から森の奥へ何度も入ってきたのに、この祭壇を見るのは初めてだ。

 古い紋様が刻まれた石。

 側には、かすかに水音を立てる小さな泉。

 その水も、ほとんど干上がりかけていた。

 胸の奥に緊張となぜか静かな期待が生まれる。

――ここに、まだ何かが残っている。

 そんな気配があった。

 祭壇にそっと手を触れると、石の冷たさが指先を包む。

 遠い昔の祈りの残り火のような温もりが、胸にわずかに宿った。

 けれど、その余韻はすぐに消える。

 精霊の気配は感じられない。

 泉の冷たさにも、命の気配はなかった。

 村で聞いた囁きが、胸の奥で重く響く。

――精霊はもう戻らない。

――祈っても意味がない。

 どうしても、祈りの力だけでは何も変えられないような気がした。

 それでも、ぼくは両手を合わせた。

 言葉にならない願いが胸の奥から溢れてくる。

――どうか、この森の命がすべて消えませんように。

――どうか、もう一度、誰かと繋がれますように。

 返事はない。

 ただ夜の静けさだけが、淡く森を包んでいる。

 祈りはどこにも届かず、ぼくの願いだけが揺れていた。

 無力感が、身体の芯に沈んでいく。

 それでも――祈りだけは、手放せなかった。

◇◇◇

 私は、その時、少年の心の底に沈みながら灯る光があるのを感じていた。

 誰にも気づかれず、世界の片隅で。

 少年は今、この夜の森で、初めて『新しい祈り』を抱こうとしている。

 ここへ導かれた理由は、まだ分からない。

 けれど、この祈りが――

 終わりゆく世界のどこかに、いつか微かな波紋を広げることを。

 私は、静かに信じていた。

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