旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:精霊の森・精霊との誓い

【精霊の森・精霊との誓い】 第五話:「小さな奇跡」

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 森の奥へ踏み入れた朝、空はうっすらと曇っていた。

 足もとには昨夜の雨が残した水滴が散らばり、靴裏がしっとりと湿る。

 森の匂いが、いつもより強い。

 草木は夜のあいだに水分を吸って輝きを増し、苔の緑は深い呼吸をするようにしっとりと広がっている。

 ぼくは祭壇へ続く細い道を進んだ。

 木の根元には、小さな芽がいくつも顔を出している。昨日よりも確かに増えている。

 もう、ここは『朽ちた場所』じゃない。

 そんな気持ちが胸にふっと広がる。

 祭壇のすき間から伸びた緑は、弱々しいけれど、真っすぐだった。

 倒れかけた供物台の上にも、いつの間にか草花が根を張っていて、朝露を弾いている。

 ぼくは静かに手を合わせ、目を閉じる。

 何を祈るべきか、もう言葉にしなくてもよかった。

 祈りは『行動そのもの』になりつつある。毎日ここに通う時間が、ぼくにとっての答えだった。

 風が、梢のあいだをそっとすり抜ける。

 微かなざわめきとともに、鳥の声が遠くで鳴く。

 朝の薄明かりに包まれた祭壇の周囲だけが、不思議と柔らかく光って見えた。

 深く息を吐くと、胸の奥が少し温かくなる。

――つながっている。森と、祭壇と、そして見えない何かと。

 その感覚が、今日はいつもより強かった。

 ふと、目の前に淡い光が舞い降りる。

 最初はただ光が差し込んだだけだと思った。

 けれど、その光は空中でゆっくりと揺れ、ぼくの目の前まで近づいてくる。

 言葉はない。でも、存在だけがはっきりと伝わってきた。

 ぼくはそっと手を伸ばした。

 触れられないのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。

――精霊だ。

 消えたはずの、森の命の痕跡。

 けれど、確かに『ここ』にいる。

 祈りは孤独じゃなくなった。

 森の流れとつながり、泉の音と混ざり、草花の息づかいと重なっていく。

「ぼくは……」

 自然と声がこぼれる。

「必ず、この森を生き返らせる。精霊が帰ってこられる場所を……守りたい」

 言葉は風に溶けたが、その想いは確かに胸に刻まれた。

 淡い光は、ゆるやかに円を描くように漂う。

 まるで応えてくれているみたいだった。

 昨日までの祈りは、どこにも届かないものに思えた。

 でも今日の誓いだけは、森全体へ静かに広がっていく気がする。

 風が音を変え、葉がさざ波みたいに震えた。

 精霊の揺らめきは、まだぼくのすぐそばにいた。

 言葉はいらない。

 心で感じるだけでいい。

 祭壇の石に小さな手をそっと置く。

 冷たさの奥に、ほのかな温もりがあった。命の予感が確かにそこに宿っていた。

――森はゆっくりと目覚め始めている。

 絆を願う祈りが、精霊の光を少しずつ強くしていく。

 その輝きはまだ小さくても――確かな希望だった。

◇◇◇

 しばらく、ぼくは祭壇の前で精霊とともにいた。

 淡い光は消えることなく、ゆるやかに明滅を続けている。

 そんなとき――背後で気配が動いた。

 ぼくは振り返る。

 木立のあいだから、誰かがこちらを見ていた。

 足音は小さい。

 動物じゃない――そう直感した。

 祭壇へ通じる小道のところに、小さな影が立ち止まっている。

 最近、村では『森で不思議なことが起きている』という噂が広がっていた。

 その話を聞きつけて来たのだろう。

 その影はキリアだった。

 古い木の幹に背を預け、慎重に周囲を見ている。

 目が合うと、驚いたようにまばたきをして、そのまま駆け寄ってきた。

「……あんた、ここにいたんだ。森の中で見なくなったから、てっきりどこか行ったのかと思ったよ」

 彼女の後ろから、ユートとナミも少し不安げに近づいてくる。

 ぼくは静かにうなずいた。

「ここに来て……祈ってた。森と精霊と泉と……全部がつながっている気がして」

 キリアたちはぼくの隣に座り、しばらく誰も喋らなかった。

 風と鳥の声だけが、淡く流れていく。

 精霊の光はぼくらのそばで静かに揺れていた。

「……これ、精霊なの?」

 ナミが小さな声で尋ねる。

「たぶん。……まだ弱いけれど」

 そう言うと、胸の奥にふわっと温かさが広がった。

 キリアはそっと光に手を伸ばしたが、触れられずに手を引っ込める。
「ほんとだ……。むかしおばあちゃんが言ってた、森を守る精霊……いたんだね」

 彼女の声は小さかったが、どこか嬉しそうでもあった。

 ぼくらのあいだに、静かな安堵が広がっていた。

 誰も大声を出すことなく、ただ光の揺らぎを見つめている。

 その小さな温もりが、胸の奥まで静かに染み込んでくる。

 そのときだった。

 祭壇の石のすき間から――

 ひときわ明るい緑の芽が、するりと生え出した。

「見て! 新しい芽だ!」

 キリアが思わず声を上げる。

 普段は落ち着いているのに、このときばかりは子供みたいにはしゃいでいた。

 ナミも小さく笑う。

 緊張していた肩が、ふっと下りた。

 ユートは祭壇の石をそっと撫で、低くつぶやいた。

「……この森、本当に生き返るのかもしれない」

 泉のほうから、澄んだ水音が静かに響いてくる。

 まるで、この瞬間を祝福するように。

 ぼくの胸にも、小さな灯りがともった。

 昨日までの重苦しい空気が、少しずつ薄まっていく気がした。

 精霊の光は、ぼくらの輪のそばでやさしく漂っている。

 小さな明滅にも、確かな意志のようなものを感じられた。

◇◇◇

「……あのさ」

 キリアが不安そうに、僕に声をかけてきた。

 少し離れたところには、ユートとナミも立っている。

 キリアが、遠慮がちに言葉を探すように口を開いた。

「前みたいに……その、話しかけてもいい?」

 その声は小さかったけれど、昨日までの距離とはまったく違っていた。

 ぼくはゆっくりとうなずく。

「もちろんだよ」

 キリアはほっと息を吐き、後ろの二人に振り返る。

 促されるように、ユートが気まずそうに頭をかいた。

「……悪かった。その……ずっと避けてて」

「わたしも……怖かったけど、本当は、話したかった……」

 ナミの声はか細いが、まっすぐだった。

 胸の奥で、何かがほどけるような気がした。

 ぼくはゆっくりと笑い返す。

「ううん。ぼくも、どうしたらいいか分からなかったから」

 その瞬間、淡い光がぼくらの間をそっと横切った。

 小さな揺らぎが、まるで「それでいい」と言ってくれているようだった。

 ぼくらは、久しぶりに同じ場所で息をしていた。

 森の空気が、柔らかく澄んでいく。

 しばらくすると、森の奥の気配がふっと変わった。

 光の具合も、風の流れも、すべてがどこか柔らかい。

 キリアたちは名残惜しそうに立ち上がり、それぞれの家へ戻っていく。

 森で起きたことをすぐに誰かへ話すわけでもなく、ただその『奇跡』を胸に抱えたまま。

「また来るね」

 キリアがぼそりとつぶやいた。

 その言葉に、ぼくもうなずいた。

 ぼくはひとり残り、改めて祭壇へ向き合う。

 淡い光は、まだそこにあった。

 昨日よりも強く、けれどどこまでも静かに。

 精霊は何も語らない。

 でも――その沈黙は拒絶ではなく、寄り添うようなあたたかさだった。

 ぼくは小さく息を吸い、光へ向かってつぶやいた。

「……ありがとう」

 誰に届くでもない声。

 でも、精霊の光がほんの少しだけ強く明滅した気がした。

 祭壇の石にそっと手を置き、再び祈りを捧げる。

 指先に触れる冷たさは、その奥に眠る命の気配を伝えてくる。

 森が変わり始めている。

 泉も、草木も、小さな芽も。

 村人たちが気づき始めた違和感は、きっとやがて希望に変わる。

 ぼくがひとりで祈っていた頃には想像もできなかった変化だ。

 祈りは確かに広がっている。

 孤独だったはずの想いが、森と、泉と、精霊と、そして村の人たちへ――

 静かに伝わり始めていた。

 淡い光が、そよ風に溶けるように揺れた。

 新しい一日が、静かに始まっていく。

 その始まりは、ほんの小さな光だったけれど――

 ぼくはきっと、この光を忘れない。

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