旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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伝承時代:海上交易路・大商隊の青年

【海上交易路・大商隊の青年】 第三話:「最初の嵐」

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 潮の香りがぐっと濃くなり、空の色がどこか重たく沈んで見えた。

 甲板には、いつもと同じはずの賑わいが満ちているのに、胸の奥でざわめく感覚だけが少し違っていた。

 船乗りたちが帆を張り、ガンザスが荷台を確認し、テルナは素早い身のこなしでロープを結び直していく。

 その少し離れた場所に、ドワーフ族のロルドが腰を下ろしていた。

 厚い腕で鉄具の点検をしながら、黙り込んだ横顔だけで職人の気質が伝わってくる。

 ロルドは大商隊の輸送と整備を受け持っている。

 工具を扱う手つきには、長年の旅路を支えてきた重みが宿っていた。

 道具箱の蓋が開くたび、金属の乾いた音が静かに甲板へ転がっていく。

「帆の留め具に錆が出てる。あとで直す」

 報告は短く控えめだが、無駄のない声だった。

 ガンザスが振り向き、力強くうなずく。

「頼むぞロルド。嵐の前には、お前の腕が一番頼りになるからな」

 その言葉の直後、空に厚い雲がひとつ、またひとつと集まり始めた。

 潮風が冷え、肌を刺すように鋭くなる。

「天候が変わりそうです」

誰かの声がした。その響きには、微かな緊張が宿っていた。

 舵輪のそばで海を見つめるモルガも、眉をひそめて波の向きを読む。

「テルナ、見張り台に上がれ。雲を確認してこい」

「了解!」

 テルナが軽やかにマストへ上っていく。

 獣人族特有のしなやかさで、あっという間に上段へと消えていった。

 船の上に、少しずつ影が落ちていく。

 陽が雲に隠れ、仲間たちの表情もじわりと引き締まった。

「ライネル、ロープをもう一度見てくれ」

 ガンザスの声に、僕はうなずいた。

 足元の揺れを感じながら、甲板の端から端まで結び目を確かめていく。

 近くでロルドも錆びた金具を取り外し、布で磨きながら新しい留め具と交換していた。

 黙々と動くその背中から、職人としての揺るぎなさが伝わってくる。

 ――そのときだった。

 海の底から響くような低い唸りが、船全体を揺らした。

 風が強まり、波頭が白く砕け散っていく。

 遠くの水平線に、黒い雲が帯のように伸びていた。

「……来るぞ」

 誰かが小さく漏らした声は、潮風にすぐ飲まれていった。

 モルガが全員に向けて声を張る。

「持ち場につけ! 風を読むんだ! 荷物を守れ!」

 その瞬間、空気が一気に変わった。

 仲間たちの動きが速くなり、甲板に緊張が走る。

「北西から黒雲! かなり速いよ!」

 見張り台の上から、テルナの声が響く。

 強い風に耳が鳴る。

 バシュラは帳簿を閉じ、荷物の固定へ走る。

 モルガは風を読み、帆を制御するため次々と指示を出した。

 ロルドは工具箱を片手に舷側へ駆け寄り、迷いなく留め具を締め直す。

「ここは大丈夫だ。次は前方の留め具に行く」

 落ち着いた声が、不思議と胸のざわめきを抑えてくれた。

「心配すんな! こんな風じゃ沈まねぇ!」

 ガンザスの豪快な声が、嵐の前の甲板を少しだけ明るくした。

 けれど、風はどんどん強まり、ついに――

 激しい衝撃とともに、帆が大きく叩かれた。

 船が傾き、冷たい海水が足元を打ちぬく。

「きた……!」

 僕はロープにしがみつき、必死に足を踏ん張った。

 テルナが叫ぶ。

「左舷、波!」

 バシュラが荷物を支え、モルガは舵を切り替え、フィリカは帆の調整へ走る。

 風の音、波の砕ける響き、仲間たちの声。

 すべてが混ざり合い、嵐の渦へと変わっていく――。

◇◇◇

 風が吹き荒れ、波が甲板を叩きつけた。

 仲間たちは全員、無我夢中で持ち場にしがみつき、声を張り上げている。

 モルガは舵輪を握りしめ、必死に船を支えていた。

 その中で――ただ一人。

 イリルだけが、帆のそばに静かに立っていた。

 白い手を空に掲げ、ゆっくりと祈りを紡ぎ始める。

 嵐の音に紛れて、その声は誰にも届かないはずなのに。

 甲板に、淡い光がふっと落ちた。

 淡い光が落ちた瞬間――

 嵐のただ中にいた仲間たちの動きが、ほんの一瞬だけ、そっと支えられたように見えた。

 もちろん、誰にもそんな余裕はなかった。

 風と波に飲まれそうになりながら、全員が必死で持ち場を守っていた。

 けれど、それでも――

 イリルの祈りがもたらした光だけは、確かにそこにあった。

 船が大きく揺れ、波が砕け、風が帆を叩きつける。

 その中で、イリルはまるで透明な壁に守られるように、一歩も動かず白い手を掲げていた。

 彼女の周囲に落ちる光は、どこか静かで、あたたかかった。

◇◇◇

 次第に、甲板を叩いていた風と波が弱まり始めた。

 白い雲の切れ間から、淡い光が差し込んでくる。

 誰よりも早く動きを止めたのは、モルガだった。

 舵輪にめり込むほど力を込めていた手を離し、重い息を吐く。

「……落ち着いたな」

 ガンザスは黙って仲間たちを見渡し、一人ずつ無事を確かめる。

 テルナはマストから飛び降り、フィリカは帆の傷みを冷静にチェックし、バシュラは積荷の損傷を確認し、ロルドは船体を調べにいった。

「……全員、怪我はないか」

 ガンザスの声に、みんなが小さくうなずいた。

 その静けさの中に、なにか説明のつかない緊張が漂っていた。

 誰もが――自然と、イリルの方を見る。

 巫女の祈りが嵐を鎮めたのか。

 それとも偶然なのか。

 答えのない疑いと感謝が交じり合い、誰もが言葉を選びあぐねる。

 そんな空気を破ったのは、テルナだった。

「やっぱり……精霊がいなきゃ、海は越えられないってことだよね」

 しっぽを揺らしながらそう言うテルナに、ガンザスがすぐ反論する。

「俺は、腕と道具と仲間の力で乗り切ったと思ってるぜ。祈りは祈りだが、仕事は仕事だ」

 フィリカが静かに言葉を添える。

「ですが、私たちエルフは、どんな航海でも必ず精霊に祈ります。自然との調和なしに海を越えるのは、ただの無謀です」

 バシュラは、ふっと鼻で笑った。

「祈るよりも、風向きと計算に従ったほうが安全ですよ。帳簿の数字は裏切りませんから」

 言い合うわけでもなく、意見がただ違っているだけだった。

 でも、その違いが今はまっすぐにぶつかり合っていた。

 テルナは耳をぴんと立て、どこかむきになる。

「でもさ、どれが正解とかじゃなくて……全部が必要だったんじゃない? アタシはそう思うよ」

 それを聞いて、ガンザスがふっと笑う。

「そうかもしれねぇな。ロルドと俺は道具を信じてたし、お前らの祈りも悪くなかった」

 そこで、ずっと黙していたロルドが口を開いた。

「……仕事は仕事。祈りは……心の整備だと思う」

 その言葉に、仲間たちの視線が一斉に向かう。

 ロルドは、工具箱の蓋を静かに閉じながら続けた。

 その声音は、嵐明けの海のように落ち着いていた。

「嵐がきたら……どの種族も、最後は自分の信じたものにすがるしかない。道具でも精霊でも歌でも祈りでも、何でもいい。違ってていい。大事なのは、みんなが本気だったことだ」

 甲板に短い沈黙が訪れた。

 胸の奥に、波紋のようなあたたかさが広がる。

――私は思う。

 命のあり方が違うからこそ、衝突し、歩み寄り絆が生まれる。
 祈りという形の違いが、世界の広がりそのものを示しているのだと。

◇◇◇

 やがて、モルガが空を仰ぐ。

「……生き延びただけで十分だ。誰の祈りが届いたかなんて、もうどうでもいい」

 その言葉に、みんなが小さくうなずいた。

 吹き抜ける潮風が、船全体に静けさを運んでいく。

 陽が帆を透かし、淡い光が甲板に落ちた。

 僕はロープを握りしめていた手をゆっくりと開く。

 冷たい汗が、ようやく落ちていく。

 仲間たちの声、手の動き、祈りの気配。

 すべてが混ざり合い、ひとつの航路へとつながっていく。

 私のなかで、問いが静かに浮かぶ。

 ――人はなぜ、祈るのだろう。

 ――違う命が寄り添うとき、祈りはどんな形になるのだろう。

 どんな答えもまだ遠い。

 だけど今は、それでいい。

 それぞれの命が、それぞれの祈りを抱えたまま――

 この船の上で、また次の航路へ歩き出していくのだから。

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