旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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伝承時代:海上交易路・大商隊の青年

【海上交易路・大商隊の青年】 第十話:「誤解と赦しの舟歌」

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 市場に漂う潮の匂いは、昨日の騒動をまだ完全には洗い流していなかった。

 遠くで帆が軋む音がする。

 荷運びの声は以前と同じなのに、町の人たちの足取りにはどこか重さが残っていた。

昨日の和解は確かに形になった。

 でも、その奥に沈んだわずかな澱までは、誰もすぐには拭えなかった。

 荷置き場で、僕は帳簿とにらめっこしていた。

「……どうして数が合わないんだ?」

 ページをめくるたび胃がきゅっと痛む。

 隣ではバシュラが眉間に皺を寄せ、静かに帳簿を見直していた。

 そこへ、ガンザスが分厚い掌で僕の肩を軽く叩く。

「焦るな、ライネル。数がずれるってことは、必ずどこかに理由がある。落ち着いて追えば見えてくる」

 その落ち着いた声に、ほんの少しだけ気が楽になった。

 だが――

「ライネル! ちょっと大変!」

 坂道を駆け上がってきたテルナが、肩で息をしながら叫んだ。

「ハーゼル隊の連中、今朝こっちの倉庫を覗いてたらしい。港の人たちも、なんかピリピリしてる」

 その言葉に空気がぴしりと震える。

 昨日のあの騒動が、まだ胸に刺さったままなんだ。

 ミリスがそっと僕の袖を引く。

「……町の人たちも、商隊のみんなも、まだ不安なんだよ。昨日のこと、なかったことにはできないから」

 その静かな声が、胸の奥にざらりと落ちる。

 僕が言葉を探していたそのとき――

「あっ……!」

 市場中央の方から、乾いた音が響いた。

 地元の少年が荷運びの最中、重い箱を落としてしまったらしい。

 木箱は割れ、中身が石畳に散らばった。

 少年は固まったまま、怯えた顔で周囲を見回した。

「そ、それ……誰の荷だろ……」

 その瞬間、

「それはうちの荷だ。返してもらおうか」

 低い声が空気を切った。

 現れたのは、ハーゼル。

 精悍な横顔と鋭い眼差し――昨日と同じ、いや、それ以上に張りつめた雰囲気をまとっていた。

 彼の背後には隊員たちが続いてくる。

 その表情にも焦りと苛立ちが揺れていた。

「いや、それは町の預かり分のはずだよ。倉庫番が見ていた」

 現地商人の男が割って入る。

 その声にも、生活を支える切迫感が滲んでいた。

 どちらか一方だけが悪いなんて、そんな単純な話じゃない。

 それでも、場の空気はじわりと熱を帯びていく。

 そんな中、フィリカがすっと前に出た。

「事実を整理しましょう」

 静かで凛とした声。

 彼女がひとことで空気をわずかに整える。

 だが、胸のざわつきは消えない。

 誰もが『誰かを疑いたくない』のに、『事実が見えないから不安』で仕方ない。

 僕は何か言おうとして、……言葉にならず口を閉じた。

 ガンザスが一歩前へ進み、全員の視線を受け止めた。

「争っても荷は戻らん。まずは事実の確認だ。誤解があるなら、ひとつずつ解けばいい」

 バシュラも帳簿を掲げる。

「積み荷の刻印と記録をここで照合しましょう。どこで入れ違ったのか、順番に確かめるべきです」

 その冷静な提案に、人々が徐々に頷き始める。

◇◇◇

 そこへ、杖をついた町の長老が歩み寄った。

「港の秩序は、互いの信頼で成り立っておる。今日が、その信頼を試される日じゃのう」

 その声は不思議と優しく、重かった。

 ハーゼルは腕を組んだまま、険しい表情で僕たちを見る。

「今日ばかりは譲れない。俺たちにも背負うものがある」

 その声音には、焦りと痛みが混ざっていた。

 僕は、心臓がきゅっと縮むのを感じながら、前へ一歩出た。

「……どちらが悪いって話じゃないと思う。ただ、みんな余裕がなくて、言葉が届かなかっただけじゃないかな」

 自分でも驚くほど震えた声だった。

 でも、それしか言えなかった。

 沈黙の中で、記録の照合が始まる。

 バシュラが箱の底を指差し、商人へ尋ねる。

「箱の刻印を見せてください。――この記録と一致すれば、預かり主が分かるはずです」

 商人は箱の底を見せ、バシュラが持つ帳簿と照合する。

 テルナは少年の横にしゃがみ「誰に頼まれたの?」と優しく声をかける。

「昨日の夕方……ハーゼル隊の人に」

 少年の小さな声に場が静まる。

 続いて、呼ばれたハーゼル隊の若い隊員が顔をしかめる。

「……確かに頼んだ。でも、その後どう置かれたかまでは見てない」

 点と点が少しずつ線になっていく。

 そこへ、ミリスが走り込んだ。

「わかったよ! 預かり場で別の箱が入れ替わったみたい! 誰かが急いで積み替えたときに混ざったらしいの!」

 人々がざわめき、ガンザスがまとめ役として声を上げた。

「つまり――これは誰か一人の責任じゃない。全員が慌ただしく動いたせいで、行き違いが起きた。それだけの話だ」

 空気が、ようやくひと息ついたように緩んだ。

 人々の肩から、張りつめた力が少しずつ落ちていく。

 ハーゼルは散らばった荷を見下ろし、ゆっくりと息を吸った。

「……間違いは、どちらにもあったみたいだな」

 その声は、昨日よりもずっと静かだった。

 町の長老が穏やかに頷く。

「誰もが自分の正しさを信じて動くものじゃ。だが、時には思い違いも重なる。大事なのは、そのあとどう向き合うかよ」

 潮の香りが風に乗り、港町のざわめきが徐々に元の調子を取り戻していく。

 積み荷の照合作業は無事に終わり、箱が誤って入れ替わっていたことも確認された。

 誰か一人を責める必要はなく、何より――少年のせいでは決してなかった。

 その安堵に包まれたのか、少年はぽつりと「ごめんなさい」と呟きながらも、目元はほっとしていた。

 そんな様子を見て、ミリスがにっこり笑う。

「ほら、お手伝いするよ。一緒に直そ?」

 テルナも横にしゃがみ込み、「手伝ってくれてありがと」と言うと、少年は照れくさそうに顔を伏せた。

◇◇◇

 少し離れたところで、ハーゼルが僕へ歩み寄ってきた。

 周囲の騒ぎが落ち着いてきたのを確認してから、短く言う。

「……悪かったな。俺も昨日のことを引きずりすぎてた。余裕がなかった」

 その声音には、昨日とは違う素直さが滲んでいた。

 僕はどう返していいか迷いながらも、小さく頷いた。

「誰にだって、譲れないものはあります。でも……そのせいで誤解があるなら、一緒に直せばいい」

 自分の言葉に自信はなかった。


 けれど、ハーゼルは少しだけ目を細めた。

「……不思議な隊だな、お前たちは。弱そうに見えるのに、芯のところで折れない」

 その言い方に、なぜか胸が温かくなる。

 ガンザスが近づいてきて、ハーゼルの肩を軽く叩いた。

「お互い、隊を率いてる身だ。誇りがあるのは当然さ。けど、引くべきときに引けるのも強さってもんだ」

「……そうだな」

 短い返事だったが、ハーゼルの横顔は少しだけ晴れていた。

◇◇◇

 その場の空気が和やかになるにつれ、商隊の仲間たちも自然と動き出していた。

 フィリカは港の商人たちと穏やかに話しながら、今後の積み荷管理の改善点をまとめていた。

 バシュラは帳簿を閉じ、港の職員へ丁寧に渡す。

「次からは、双方で確認を徹底しましょう。記録は嘘をつきませんから」

 テルナは子どもたちと一緒に壊れた箱の破片を片づけ、ミリスは笑い声を混ぜながら手際よく荷を並べていく。

 町の長老が、そんな光景を温かく見つめながら呟いた。

「こうして人は、違いを超えて生きる術を覚えていくんじゃよ。港も、商隊も……昔からそうやって舟歌を紡いできた」

 夕陽が水面に反射し、金色の道をつくる。

 旗が風に揺れ、潮騒のリズムが静かに重なる。

◇◇◇

 荷置き場の片隅で、僕は坂を上がりながら海を眺めた。

 精霊の気配が、潮風のどこかに溶けている。

 さっきまで張りつめていた胸が、すっと軽くなる感覚があった。

 ガンザスとハーゼルは、互いに短く手を合わせる。

 どちらの言葉も多くないのに、そこにははっきりとした敬意があった。

 私は二人の姿を見つめながら、静かな問いが生まれる。

――赦しとは、誰のためのものだろう。

 相手のためか。

 自分のためか。

 それとも、出会いと別れが絶えない旅のためか。

 答えは、まだ分からない。

 でも――

 荷物を並べ直す手、ミリスの笑い声、少年の「ありがとう」。

 そのひとつひとつが、昨日より少しだけ世界を軽くしていた。

◇◇◇

 日が沈み始めるころ、商隊の仲間たちで小さな宴をした。

「ちょっと! テルナ、それ飲みすぎ!」

「えー、いいじゃん。今日は頑張ったし!」

 バシュラが苦笑しながら止め、テルナは頬を赤らめて尾を揺らす。

 フィリカは港の商人たちとまだ話を続けており、ミリスは子どもたちに舟歌を教えていた。

 みんなの声音と共に、夜の気配が港を包み込んでいく。

 僕は声音の暖かさを感じながら、海の向こうに視線を向けた。

――赦すことは、昨日の自分をも赦すこと。

 そんな思いが胸に浮かび、そっと息を吐く。

 旅は、まだ続く。

 港町の明かりがひとつ、またひとつ灯る。

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