旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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伝承時代:海上交易路・大商隊の青年

【海上交易路・大商隊の青年】 第十一話:「嵐を越えて」

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 夜明けの港町は、どこか息を潜めているようだった。

 石畳の冷たさも、市場のざわめきも、いつもと同じはずなのに――出航の朝だけは、ほんの少し違って見える。

 船のすぐそばで、僕は最後の荷物を積み終え、桟橋に立つミリスと向き合った。

「……ちゃんと戻ってきてよ、ライネル。あんたの帰りを、みんなで待ってるから」

 彼女はいつもみたいに明るく笑おうとしていたけれど、言葉の端が少しだけ震えていた。

 その気配が胸に刺さる。

 港町で過ごした時間。肩を並べて働き、笑い合った仲間。

 ミリスは、その象徴みたいな存在だった。

「大丈夫。港のこと、ちゃんと守っておいてくれよ」

「まかせて! ……でも、あんたたちが無茶しすぎないように祈ってる。ほら、行ってらっしゃい」

 手を握り合ったのは一瞬だったのに、離したあとも温もりが指先に残る。

 港の仲間たちが小さく手を振る。

 僕はひと呼吸してから、船へと歩き出した。

◇◇◇

 甲板に戻ると、冷たい潮風が容赦なく頬を打った。

 水平線のむこうに、かすかに光る朝日。

 この海の先に、まだ誰も知らない道が待っている。

 ガンザスが短く声を張る。

「積み荷の最終確認は済んだか? 出航に抜かりはないな」

 それぞれがうなずく。

 フィリカとバシュラは帳簿を閉じ、ロルドは船縁の点検を終え、モルガは舵輪を握ったまま小さく息を整えた。

 イリルは祈りの所作を終え、航海の無事を祈っている。

 テルナはもう見張り台の上だ。

 港の鐘が鳴り、ゆっくりと船が岸を離れた。

 港町の明かりが揺れながら遠ざかっていく。

 その灯りには、ミリスと交わした小さな『約束』が、まだ温度を残していた。

◇◇◇

 出航からしばらく、海は穏やかだった。

 波音と帆の軋みだけが響く静かな時間。

 だけど、その静けさは長く続かなかった。

「……ん?」

 空の端が、じわりと翳りはじめていた。

 雲が低く垂れ込み、潮風が肌を刺すように冷たく変わっていく。

 テルナがマストの上から叫んだ。

「東の空、怪しい雲だ! 風も変だぞ!」

 僕は甲板の縁に駆け寄り、遠くの空を見た。

 黒い雲が地平線からせり上がるように押し寄せてくる。

 ガンザスが全員へ向かって声を張った。

「持ち場につけ! 帆の確認を怠るな!」

 すぐに、甲板が慌ただしく動き始める。

 ロルドは修繕用の工具を抱え、モルガは舵を。

 バシュラは荷台の固定を指示し、フィリカは風向きを読みながら帆の角度を変えていく。

 イリルは胸の前で手を組み、静かな祈りを始めた。

 僕もロープの張り具合を確かめ、結び目をひとつずつ強く締め直す。

 その瞬間――

 甲板を叩く風が一気に強まり、波が船の横腹を盛大に叩きつけた。

 空が暗く沈み、雷の光が雲の奥を走る。

「急げ! 嵐が来る!」

 テルナの叫びが風に削られながらも届く。

 船が大きく傾ぎ、足もとがぐらりと揺れた。

 風、波、怒号――すべてが混ざり合い、世界が嵐そのものに変わる。

 その時――

 海の底から、不気味な咆哮が響いた。

 胸の奥まで震わせるような低い叫び声。

 波間から黒い巨大な影が浮かび上がる。

 僕たちは、言葉もなくその影を見つめた。

――巨輪海蛇(きょりんうみへび)

 暗青色の鱗に覆われ、金の目がこちらを射抜く海の魔物。

 船より大きいその巨体が、嵐の海でうねりながら姿を現した。

 誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。

 だが――ガンザスの声が嵐を切り裂いた。

「全員、離れるな! 持ち場を守れ!」

 次の瞬間――巨輪海蛇が巨体を揺らし、船に突っ込んでくる。

 波が爆ぜ、甲板に水柱が打ち上がった。

 テルナが矢を番える。

 フィリカは帆を押さえ、モルガは舵輪を必死に回す。

 バシュラは荷台を死守し、ロルドは補強箇所へ駆ける。

 イリルは祈りの中で目を伏せ、僕はロープを両手で握りしめた。

 嵐の渦と魔物の影――。

 自然と異形、ふたつの脅威が、商隊の船を容赦なく飲み込もうとしていた。

 巨輪海蛇が波を割り、怒号のような唸りをあげて迫ってくる。

 黒い影が、稲光のたびに輪郭を歪める。

 そのたび、仲間たちの影も濃く伸び、甲板全体がひりつくような緊張に包まれた。

「舵を右に切る! 波を受け流すぞ!」

 モルガが叫び、船体が大きく軋んだ。

 フィリカは身を屈めながら風向きを読み、帆の角度を調整する。

 テルナはマストの上、荒れる風をものともせず矢をつがえ、巨体の動きを追っていた。

 その矢が放たれた瞬間、巨輪海蛇が身をひねり、矢は見事に鱗を滑っていく。

 波がさらに高くなり、船腹を叩きつけるたびに、甲板が水で満たされるようだった。

「ロルド、左舷の補強はどうだ!」

「まだ大丈夫だ! だけど次の衝撃は……わからん!」

 ロルドは工具を握りしめ、船縁に食らいつくように補強を続ける。

 バシュラは荷台の仲間を引き寄せるように支える。

 イリルは乱れた髪を押さえながら、祈りを胸に返すように小さく息を吐いた。

――僕もまた、ただ必死だった。

 足もとを波にさらわれそうになりながら、ロープを引き絞り、帆を揺らす風をどうにか受け止めようと踏ん張る。

 そんなとき、巨輪海蛇が再び姿を現した。

 巨大な胴体が、波の上を滑るようにせり上がってくる。

 金色の瞳が、すうっと細くなり――次の瞬間、尾が鋭い音を立てて振り下ろされた。

 船が大きく跳ね、視界が一瞬白くなる。

「ぐっ……!」

 ロープを握る手に、力が思わずこもる。

「ライネル! 左を見ろ、ロープが緩んでる!」

 フィリカの声が、雷鳴の合間を縫って届いた。

 僕は身体を傾け、必死でそのロープへ手を伸ばす。

 海水が目に入る。風が髪をひきちぎろうとしてくる。

 けれど、今これを外せば、積み荷は一気に崩れ、船も姿勢を保てなくなる。

「……行ける!」

 結び目を固く締め直し、僕は息を荒げながら叫ぶ。

「次! 次はどこだ!」

「右舷は持ってる! そのまま支えて!」

 フィリカが帆を押さえ、モルガが舵輪を必死に操作する。

 テルナの矢が再び放たれた。

 鋭い軌道を描き、今度は巨体の一部をかすめた。

 巨輪海蛇が一瞬だけ怯んだように見えた――。

 そのわずかな『隙』を、フィリカが見逃さなかった。

「いま! 進路を北東へ! 風が変わる!」

「舵を合わせろ! 波に逆らうな!」

 ガンザスの声が響き、船全体が北東へ向けてわずかに動き出す。

 イリルの祈りが、波音にそっと紛れていくようだった。

 その静けさが、嵐の只中で不思議と心をつないでいた。

 モルガが舵輪をぐっと回し、波の流れを味方につけるように船首を上げた。

「よし……このままいけ!」

 船が大きく傾斜し――そして。

 巨輪海蛇の突進が、わずかに逸れた。

 その長い影が、船をかすめて波の向こうへ流れていく。

 鱗が光を反射し、海中へ沈み込んでいく姿が見えた。

 潮風が、ゆっくりと和らぎはじめる。

 雷鳴が遠ざかっていく。

 風が落ち着き、帆の震えが静まっていく。

「……助かった、か」

 ガンザスが低く呟き、仲間たちがそれに応えるように息をついた。

 テルナは矢筒を肩にかけ直し、ロルドは工具を見ながら安堵の息を吐く。

 バシュラは荷台を見回しながら胸をなでおろし、フィリカは風の残り香を確かめるように目を閉じた。

 イリルは祈りを終え、海の地平線を静かに見つめていた。

◇◇◇

 嵐の去った海には、星がひとつ、またひとつと瞬きはじめた。

 打ち寄せる波は落ち着きを取り戻し、船は新しい風に乗って静かに進み出す。

 甲板には、嵐を越えた仲間たちの息遣いと、わずかな笑みが宿っていた。

 誰もが違う役割を持ち、違う強さを抱きながら――

 その違いが、ひとつの船を支えた。

 僕はゆっくりと夜空を見上げた。

――違いがあるから、僕たちは共に在る。

 その想いが胸の奥で静かに灯り、冷えた風に溶けていく。

 世界は広く、旅はまだ続いていく。

 星々の瞬きの下、僕たちはまたひとつ航路を越え、次の地平へと向かっていった。

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