英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第1章:冒険の芽吹き 第5話:冒険の芽吹き

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 翌朝の空は澄んでいて、風は冷たかった。

 ギルドの窓辺に立ち、胸元のペンダントを指でなぞる。金属は冷たいのに、その奥に宿る温もりは消えない。昨日、泉で感じた“応え”は幻じゃなかった。夜の間も、脈打つような微かな揺れが胸の奥に残っていた。

「今日は、どうする?」

 背後から声がして振り向くと、クレアさんが装備を整えて立っていた。

「依頼に行くなら、準備はできている」

 その瞳には、昨日よりも少しだけ柔らかな光があった。僕は頷き、受け付けへ向かう。

 選んだ依頼は、地下四階層の巡回警戒。数日前に魔獣の足跡が発見され、周辺の安全確認が必要だという。討伐依頼ではないが、精霊との契約後初の仕事としては十分だと思えた。

 受付の職員が依頼票を確認し、軽く注意事項を告げる。

「足跡が見つかったのは北東エリアの谷間付近。あそこは足場が悪いから気を付けて」

 僕は礼を言い、クレアさんと共に階層へ降りる螺旋階段を進んだ。

 地下四階層の空気は冷たく乾いていた。三階層までの湿った森とは異なり、地形は岩肌が多く、樹木もまばらだ。足音が岩に響き、天井からは細い水流がいくつも垂れている。

 契約を結んだ精霊の気配は、相変わらず姿は見えない。それでも、僕が周囲を意識するたび、胸元が微かに震える。まるで「ここにいる」と囁かれているようだった。

 谷間に向かう途中、ふと足を止める。

「……何か聞こえる」

 耳を澄ませると、風の音に混じって低い唸りがある。

「北東の谷間はもうすぐだ。慎重に行こう」

 岩壁の間を抜けると、視界が開ける。谷底には、石の上を流れる細い川と、その水際に散らばる黒い毛。

「これは……」僕はしゃがみ込み、毛を指でつまむ。粗く、油を含んだ獣毛だ。

 クレアさんが谷の奥を見やり、短く息をつく。

「《岩牙狼(がんがろう)》だね。群れで行動するから、近くに仲間がいる可能性が高い」

 その言葉に、胸の奥の揺らぎがわずかに強くなった。精霊が何かを伝えようとしているのか、それとも僕の緊張がそう感じさせるのかはわからない。
 
 だが、ただの気のせいではないと感じた。

 川沿いを進むと、足跡が複数見つかった。爪の跡が深く刻まれ、ところどころに泥が跳ねている。

「……新しいね。数時間前だ」

 クレアさんの声に僕は息を呑む。谷間は狭く、両側が岩壁で囲まれている。逃げ道はほとんどない。

 そのとき、背後で小石が転がる音がした。振り返った瞬間、灰色の影が岩の陰から飛び出す。

「来る!」

 咄嗟に短剣を構え、突進してきた《岩牙狼》の牙を受け止めた。金属と牙がぶつかる鈍い音が響き、腕に重い衝撃が走る。

 狼の唸り声と熱い息が顔にかかる。押し返そうと足に力を込めた瞬間、胸元のペンダントが熱を帯びた。
 
 その熱に背を押され、僕は体をひねって狼の脇へ刃を滑らせる。血が飛び散り、狼が短く悲鳴を上げて距離を取った。

 しかし、それで終わりではなかった。谷の奥からさらに二匹の《岩牙狼》が現れる。

「ニコ君、右を頼む!」

 クレアは左側の一匹へ駆け、剣を振るう。
 
 僕は深く息を吸い、右から来る狼に向かって踏み込んだ。精霊の姿は見えない。けれど、心は一人じゃなかった。

 右側の《岩牙狼》が低く唸り、地面を蹴った。

 爪が岩を削る甲高い音が耳に刺さる。牙をむき出しにしたその口が、一直線に僕へ迫る。

 胸元がかすかに震えた。脇ではなく右後方、──直感というより、胸の奥の“誰か”に押された感覚。

 僕は半歩退き、右足をずらす。瞬間、狼は僕の横をかすめ、背後に回り込もうとしていた。

「させない!」

 短剣を逆手に握り直し、振り向きざまに突き上げる。刃が肩口に食い込み、狼が悲鳴を上げた。

 その動きが鈍った一瞬を逃さず、間合いを詰める。

 呼吸が荒くなり、腕が重くなる。それでも渾身の力で喉元を斬り下ろした。血が飛び散り、狼は崩れ落ちた。

 息を整える暇もなく左から金属の衝突音。

 クレアが二匹目の《岩牙狼》と渡り合っていた。相手の牙をかわしながら反撃を重ねる。その足さばきに一瞬見惚れるが、すぐに危機に気づく。

 谷の奥から三匹目の狼が音もなく迫っていた。

「クレアさん、後ろ!」

 叫びながら駆け出す。胸元の熱がさらに強くなる。

 岩を蹴る音と共に狼が跳びかかってきた。牙が目の前に迫る。咄嗟に短剣を構えたが衝撃で腕が痺れた。

「下がって!」

 クレアさんの声と同時に鋭い剣撃が横から走り、狼の体勢を崩す。

 僕はその隙に横薙ぎの一撃を叩き込み、狼を弾き飛ばした。地面に転がった影がもがき、やがて動かなくなる。

 残る一匹も、クレアさんの鋭い突きが喉元を貫いた。短い静寂の後、谷間には僕ら二人の呼吸音だけが残る。

 岩壁に背を預けると、胸元のペンダントがまだ温かく脈打っているのを感じた。

 あの瞬間──右へ回られたときも、三匹目に飛び込んだときも──確かに“何か”が背中を押してくれた。

「……やっぱり、教えてくれている気がする」

 思わず口にすると、クレアさんが近づき、僕の胸元を見やった。

「見えなくても、感じられるなら十分。それが精霊の応え」

「応え……」

 泉で契約を結んだ瞬間を思い出す。守りたいと強く願った、その気持ちに触れてくれた何かが、確かにいる。
 
 あれは偶然じゃない。今日も、僕の判断を支えてくれた。

 剣を鞘に収め、深く息を吐く。

 恐怖が消えたわけではない。戦いの最中は何度も心が折れそうになった。それでも、倒れずにいられたのは──自分だけじゃないと思えたからだ。

 谷間を後にする途中、川面を渡る風が頬を撫でた。
 
 以前ならただ冷たく感じていた森の空気が、今は少しだけ柔らかく思える。

 焦りに突き動かされるばかりだった足が地面を踏み締める感覚を覚え始めていた。
 
 それは小さな変化かもしれない。でも、胸の奥では芽吹きのようなものが広がっていた。

 階段を上がり地上の光が見えたとき、胸元の脈動が一度だけ強くなる。まるで「これからだ」と告げるように。

 僕は小さく笑い、光の中へ足を踏み入れた。
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