上 下
21 / 21

おまけ1 後編

しおりを挟む
 振り向いて視線を向けた先。そこには、満面の笑みのまま凄まじい怒気を発しているエドアルドが立っていた。エドアルドはトラヴィスの拳を止めたのとは反対の手で、俺を釣り上げていたトラヴィスの手を、破壊しかねない勢いで毟り取る。かなり痛かったのだろう。トラヴィスは大慌てで俺の手を離した。自由になった俺は急いでエドアルドの後ろに回り込む。エドアルドはこちらに気遣わしげな視線をチラリとよこし、直ぐにまた敵意剥き出しでトラヴィスに向き直った。
「キャンベル大使。これはどういうことですか?」
 あくまでも表面上は穏やかに。しかし、内心怒り狂っていることは隠しもせず。忌々しげな口ぶりと表情で、エドアルドはトラヴィスにそう問うた。あれだけ俺相手に威勢よく暴言を吐いていたのに、トラヴィスはエドアルドのこの威嚇に怯えた様子を見せて、その手から逃れようと身を攀じる。エドアルドはそんな抵抗などものともしなかったが、いつまでもトラヴィスの手なんか握っていたくないとでも思ったらしく、見せつけるように勢いつけて拘束を解いた。トラヴィスはエドアルドに手を離された際に勢い余ってたたらを踏んでよろめいたが、一先ず距離を取れたことで気が大きくなったらしい。急に反抗的な目付きでこちらを睨んでくる。
「出会い頭に問答無用でいきなり無遠慮に手首を掴むなんて、ご挨拶ですね、宰相殿。お陰で、ほら。手首が赤なってしまった」
「何を寝惚けたことを。そもそも最初にあなたがアーリ博士に無体を働かなければ、こんなことにはならなかったんですよ」
「む、無体だなんて、そんな。私はただ……その……。少し、アーリ博士が暴れないように抑えようとしただけで」
「ハァ? 暴れないように、ですって?」
 トラヴィスの言葉におもっクソ挑発するような、舐め腐った響きの返答をするエドアルド。まるで下町のガキンチョが相手に喧嘩を売る時のような口調だ。それは、仮にも一国の宰相が他国の大使にしていい態度ではないのは明らかである。当然トラヴィスにもそのことは伝わっていて、先程までの言動からも分かる通りただでさえプライドが高い向こうは、明らかにムッとした表情を作った。
「そうです。アーリ博士がいきなりこちらに暴言を吐いて、私がそれを諌めようとしたら急に暴れだしたんです。いやはや、常識がないとは聞いていましたが、まさかここまでとは。いけませんなぁ、こういう公の場に出るのなら、躾くらいはきちんと済ませてからでないと。お陰で私は大変不快な思いをさせられました。今回に限ってはヴェチェッリオ様の面目を立てて内々に済ませてさしあげてもいいですが、その代わりとしてアーリ博士にはきちんとした謝罪をしていただきたいものですなぁ」
「ほーお、その謝罪とは具体的にどういったことをすればいいのですか?」
「なに、私も鬼ではありません。どこかでゆっくりアーリ博士と2人切りになって話し合って、その時に十分反省していると、十分ですよ。勿論、謝りたくないというのなら、それで結構。もっとも、その場合は流石に私も上に今回のことを報告せざるを得ませんなぁ。ここまで譲歩してさしあげた国の代表である私の顔に泥を塗るということは、引いては我が祖国を侮辱するということになりますからね」
 嫌な感じでニヤリと笑うトラヴィス。まるで、こちらが当然自分の要求を飲むだろうと確信しているかのように、得意満面、余裕綽々の表情だ。言葉の裏が読めない俺には分からなかったが、若しかすると常人なら分かるような駆け引きが言外になされていたのかもしれない。その駆け引きでは、俺がトラヴィスの要求通りにしないとエドアルドに多大な迷惑がかかることになるのだと示されていたのかもしれない。いや、トラヴィスの態度を見るに、十中八九そうなのだろう。
 このままではよくない。俺のせいでエドアルドに迷惑がかかるのは許容できないし、何より俺はトラヴィス相手に謝罪をしなくてはならないような礼を失したマネはしていないのだ。全ては完全なるトラヴィスの嘘と言いがかり。自分に非があるならまだしも、ないのなら謝る理由も義理もない。エドアルドに他人を無為に貶めるような考えなしと思われるのも癪だ。そう思った俺は、意気込んで弁明をしようとしたのだが。俺が何か言う前に、エドアルドが口を開く方が早かった。
「クソ巫山戯た頭の悪い戯言はそれでお終いですか、キャンベル大使?」
 エドアルドが言い放ったその言葉に、嫌味ったらしい笑みを浮かべていたトラヴィスの表情が、ピシリと固まる。釣り上げられていた口角が、ヒクリと大きく痙攣するのが見えた。トラヴィスの目から見せ掛けのものだろうが、それでも表面的には見られていた親しみの光がスッと消える。ところが、エドアルドはそんなトラヴィスの反応よりも俺の方が気になるらしく、しきりに俺の顔をチラチラと見てきていた。俺よりも前を気にしろ! と、身振り手振りで示すのだが、従う気配がない。
 さっき俺がトラヴィスに乱暴に扱われたことを気にしているのか? これといって特に怪我なんてしてないから、俺としては今は兎に角サッサと目の前の面倒事を片付けて欲しいんだがな。なんてったって今、エドアルドが口にした言葉はどこからどう聞いてもトラヴィスに対して喧嘩を売るような言葉だったんだ。あのプライド激高男がこれに憤らない筈がない。国家間の関係に罅が入らないよう、尚且つこちらの国になるだけ不利益が出ないように、この場を収めるのが宰相としてのエドアルドの仕事だと俺は思うのだがね。当然、喧嘩を売るなど以ての外だ。
「……ヴェチェッリオ様。今私は、あなたの口からおよそ一国の宰相が他国の大使に言うべきではない言葉が聞こえたように感じたのですが、気の所為ですか?」
「気の所為ではありませんよ、キャンベル大使。まだ言葉が理解できるだけの理性と知性があなたに残っていたようで、良かった」
 あくまでも穏やかな声音で、エドアルドが答える。しかしいくら声音だけが穏やかでも、言ってる内容は丸っきし喧嘩を売るような言説だ。当然トラヴィスだってそのことが分からない訳ではない。もう苛立っているのを隠しもせず、顔面の筋肉を引き攣らせてこちらを睨みつけてきている。
「……先程からどうも、私に対して些か失礼な物言いではありませんか、ヴェチェッリオ様? ご自分のお立場を理解していらっしゃらないのですか? あなたは今、そちらの国の国民であるアーリ博士が私に対して働いた無礼を、国を代表して謝罪しなくてはならないんですよ?」
「無礼、ですか? アーリ博士が、あなたに? ハッ! 馬鹿も休み休み仰ってください。無礼を働いたのはむしろあなたの方でしょう、キャンベル大使」
「なっ、それはどういう意味ですか!? 今のは冗談では済まされませんよ!?」
 この言葉に今度はエドアルドがニヤリと笑うのが下から見上げて分かった。向こうを小馬鹿にした、不敵な笑み。これにトラヴィスは今度は笑わず、眉を顰めて不可解そうな顔をした。
「キャンベル大使、あなたはここの所このアーリ博士に随分とご執心でしたね。博士の立ち回り先に出入りしたり、身辺を探ったり、こうして付き纏ったり」
「それのどこがいけないんです? 確かにそれに関しては少し行儀が悪かったかもしれませんが、なにか法律に違反している訳ではありませんよね? 私はただ、アーリ博士と仲良くなろうとしていただけなんですから」
 開き直るトラヴィス。残念ながら奴の言葉の通りだ。有名になってからこっち、俺は色んな人間に追いかけ回されてとても煩わしい思いをしている。だが、それ等は度を超えて迷惑をかけられない限り有名税の一言で全ては片付けられ、特に問題として取り上げられることはない。追いかけてくる相手がトラヴィスのように身分の高い人間なら尚更だ。文句を言おうもんなら、反対にそれくらい我慢しろと諌められてしまうことだろう。それは、そこら辺に疎い俺にだって分かることだった。
「ええ、そうですね。周りをうろちょろするだけなら常識的な問題はともかく、法律的な問題はない。ただでさえアーリ博士は有名人ですから。あくまでも力づくで無理矢理言うことを聞かせようとしない、という前提が守られているのなら、の話ですが」
「な、何を言って」
「私の部下が見ていたんですよ。パーティー会場を抜け出した博士の後をこっそり付ける、あなたの姿をね。その後あなたが博士に何をしたのか。それはあなたが1番よく知っている筈だ」
 こちらを見ていたトラヴィスの顔がサッと青褪める。当然だ。つい先程まで俺が失礼なことをしただの何だの言いがかりをつけて自分勝手なことを言ってたのが、全部嘘だってバレちまったも同然なんだから。徹頭徹尾俺相手に何してたか丸分かりなんだから、むしろ形勢逆転である。一気に向こうの旗色が悪くなった。
「……少々誤解があったようですね」
「誤解? 何がですか? 私は先程からあなたに対して事実しか言っていません。ただ、あなたがそれを認めようとしないだけだ」
「あー……その……。手段が少々強引だったのは認めます。ですが私は、ただアーリ博士と話をしてみたかっただけで」
「話したい相手の手を捻り上げて無理矢理物陰に引き摺りこもうとするのがあなたの国での会話を始める際の作法なのですか? 大そう野蛮な国なんだな。ああ、可哀想に。アーリ博士の手首に真っ赤な手の痕がクッキリついている。これは手酷くやられたな。他国の使が、我が国のに、。これはあなたの立場から考えて、他国に赴任中にする行動として適切であると考えられるのでしょうか?」
「……」
 適切な言葉を探し出せず、黙り込むトラヴィス。おお、凄い。真っ青だった顔に今度は赤みが刺してきた。なんだか全体的に顔がどす黒い紫色になってきたぞ。人の顔色ってこんなにクルクル変わるものなのか。知らなかった。これは大層面白い見物だぜ。もっと良く見ようと身を乗り出した俺の体を、エドアルドがさり気なく後ろに押して自分の背中に隠す。
「た、確かに私のアーリ博士に対する態度は宜しくなかったかもしれませんな。それに関しては……まあ、認めましょう。ですが、高々少し腕を強く掴み過ぎてしまった、それだけでしょう? 暗がりに連れ込もうとした相手が高位の貴族令嬢ならまだしも……ねぇ? 重要な研究をしているとはいえ、少々資産があるだけの平民階級出身の、ただの男だ。我が祖国と貴国との関係性を考えれば、ここは大事にするべきではない、と考えるのが自然ですよね?」
「……まあ、宰相としての私の立場で考えるのなら、そうなんでしょうね。国家間の関係に、個人的な事情を持ち込んで余計な波風を立てるのは得策ではない」
 おっと、これは……? なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。絶望的なものから一転、トラヴィスの表情に希望が差し込む。若しかして、またもや形勢逆転? それも、今度は俺が形勢不利な形で。エドアルドは俺ではなく、トラヴィスに味方する方を選んだのか。まあ、仕方がない……のか……? だって、エドアルドはこの国の宰相だ。俺のことよりももっと優先させるべきことがある。国益とか、国益とか、国益とか。これはトラヴィス側に貸しを作る絶好のチャンスだもんな。なにか深刻なことが起きる前に俺が助け出されてこれといって大きな損害を蒙っていないのなら尚更だ。俺は呆然と下からエドアルドの後頭部を見上げる。
 これでエドアルドが自分の味方になったものと決めてかかったトラヴィスは、もう気色満面。勝ち誇った顔で俺の方を見てくる。あのいっそみっともないまでの動揺具合はどこへやら。余裕綽々で先程エドアルドに手首を掴まれた時に暴れて乱れた服装をなおしている。最後に前髪を指でサッと払い、ユッタリとした笑みを浮かべた。
「いやぁ、あなたが話の分かる人でよかった。我々のように多くの人々の上に立つ選ばれた人間は、このような瑣末なことに一々囚われている訳にはいきません。そうですよね? こういった面倒事は目を瞑り、耳を塞ぎ、口を噤んで黙殺するに限る。ああ、なに。お目零しのお礼はちゃんといたしますよ? 総合扶助だ。それくらいはしなくてはね。そうだな……来月分の貴国と我が祖国との間の輸出入の取引。あれに私の権限で少し色をつけましょう」
「フッ、面白い冗談だ」
「おや、足りませんでしたかな? では、私の個人的に運営している商会が有りますので、そこから貴国にいくらか融通させていただきましょうか? ああ、それとも……国に尽くすよりももっと、個人的な見返りをお求めで? それでも私は一向に構いませんよ。私達はこれだけ身を粉にして国の為に日夜働いているんだ。少しくらい個人的にいい思いをしても、バチは当たらない」
「それで、私を買収できるとでも?」
「うーむ、まだ足りませんか。なら……ああ、そうか! 分かりました! 申し訳ない、これは私の考えが足りなかった。我が国選りすぐりの美姫、または美男をお送りいたしましょう。勿論、金銀宝石で作られた、絢爛豪華な装飾品もお付けして。幼い者から花の盛りの年頃、臈長けた者まで。選り取りみどりだ! 最近アーリ博士の相手ばかりで飽き飽きしていることでしょう。きっとヴェチェッリオ様も気に入る筈です」
「本気で仰っているのですか、キャンベル大使?」
 このエドアルドの返答に、とうとうトラヴィスは答えに窮する。少し考える素振りを見せたが、どうにも今上げた他にいい考えは浮かばなかったらしい。困り顔でエドアルドの顔を見てくる。エドアルドは見つめ返すだけでそれに何も答えない。暫くの沈黙が降りてから、とうとうそれに耐えかねたトラヴィスが気まずそうに口を開く。
「……あー、ヴェチェッリオ様。どうも私の理解が浅いのか……あなたの求めているものがなんなのか分からない。できればもっと……直接的にお教えいただけると助かるのですが」
「そうですか、そうですか。それなら僭越ながら、私自ら今何を1番求めているのか、お教えしてさしあげましょう。……直接、その体にな!」
 その瞬間。突然トラヴィスが俺達の目の前から消えた。驚いた俺はパチクリ目を瞬かせる。どういうことか分からなくて、1度目を閉じて擦ってからまた前を向く。それでようやく俺はトラヴィスの奴が目の前から消えたのではなく、遠くの床に倒れ込んでいることに気がついた。次にエドアルドのことを見れば、拳を固めてトラヴィスのことを見下ろしている。その2つを見比べて、その因果関係や原因と結果に思い至り、エドアルドがトラヴィスを思いっ切りグーで殴り飛ばして吹き飛ばしたのだと気がついた。
「ゲフッ、ゴホゴホッ……ひゃ、ひゃにを……!」
 痛くて触るのも無理なのか、トラヴィスは殴られたほうの頬の上に手を彷徨わせ、愕然とした顔でこっちを見ている。殴られて顔の骨がガタガタになったらしく、呂律が回っていない。口から喋る度にボタボタと血が垂れる。あ、今ポロって落ちたの歯かな? スゲェ、まじで殴るだけで歯って折れるんだ。やっぱりこういうのは実際に見てみなくちゃなぁ。マジマジとトラヴィスを観察していると、エドアルドはそちらに向かってズンズンと歩いて行って、ムンズと奴の襟首を掴んだ。
「き、きひゃま……わたゃしにこんにゃことをして……にゃんのちゅもりだゃ……!」
「何のつもり? それはこっちの台詞だ。よくもまぁ、ルクレツィオ君に手を出してれたなぁ。ただでは済まさんぞ」
「しょんな……じぶんのたゃちばをわゃすれたのきゃ!? しゃいしょうちょして、たゃいしにょわたゃしにこんにゃあちゅかいをしてぇいいにょかよ!?」
「そうだな……。宰相として振舞おうとするのなら、私の今の振る舞いは0点だろう。いや、むしろマイナスかな? だが、ルクレツィオ君の恋人としての私の立場で考えるのなら、話は別だ」
 そう言ってまた、エドアルドは軽ーい調子で重い1発をお見舞しトラヴィスの顔をぶん殴る。わぁ、凄い。首がもげそう。エドアルドってば剛腕だなぁ。トラヴィスはまたゴプッと大量に血を吐き、白い小さな欠片をカラコロ複数吐き出す。ヤバッ、意識飛びかけてるじゃん。半分白目剥いてる。そんなトラヴィスの殴られた方のエドアルドは頬を容赦なくビシバシ叩き、奴の意識をこっち側に引き戻した。
「クショッ……! おい、こんにゃことょして、たゃだゃですみゅとおみょうなよ! おみゃえもおみゃえのくにも、わたゃしがきゅににきゃえってしんげんしゅれば、しゅぎゅにでも」
「おうおう、威勢だけはいいことで。国元に帰って国王陛下に、かの国の宰相に酷い目に合わされたんですぅって泣きつくのか? お好きにどうぞ。そしたら、こっちはこれを聞かせるだけだ」
『無駄な抵抗するんじゃねぇ! つべこべ言わずついてこい! でないと、お前の大切な人間達を酷い目に合わせるぞ!』
 突如、響くトラヴィスの声。だが、それは殴られて不明瞭になった声ではない。それにトラヴィスの口からではなくエドアルドの掲げた手の中から聞こえてくる。
『よしよし、そうだ。そうやって大人しくしていればいいんだ。なーに、心配するな。お前が従順でいる限りは』
 エドアルドが手を下ろす。声はピタリと止まった。
「最近ルクレツィオ君……アーリ博士の周りを悪い虫がう彷徨くことが増えてね。恋人としてはとても不安だったんだ。それで、心配が高じて勝手ながら何かあってもいいように監視魔法をかけさせてもらった。それも、盗聴、盗撮、追跡、何でもござれのトップクラスのやつを。本来はもっと高貴な立場の人間の身辺警護の為に使われる魔法だが……まあ、アーリ博士も一応この国の要人であることには変わりがないのだから、構わないだろう」
 え、待って。それ聞いてないんだが。俺、知らん間にそんな魔法かけられてたん? それって、えぇー……。まぁ、研究に影響がないならいいか。エドアルドが相手なら別に隠すようなこともないし。
「この魔法の近くでどこかの馬鹿が自分に不利なことをペラペラペラペラ喋ってくれたお陰で、こっちは大助かりだ。そりゃぁもう、明らかに公人としてではなく、私人として馬鹿なことをやらかしましたって証拠の映像、音声、山盛りだ。これを提示したらあなたの国は喜んであなたのことを切り捨てるでしょうね。大使の肩書きが外れれば、お前はただの弱っちぃヤニ下がったクソ低能なスケべ猿だ」
「……!」
 トラヴィスの顔が、夥しい真っ赤な血の下で真っ青になる。自分の運命の行先を想像したのだろう。どうやらあまりいい夢は見れなかったようだ。それを見たエドアルドは、そりゃあもう心底嬉しそうにニッコリと笑いかけた。
「おい、キャンベル。よくも俺の恋人を捕まえて好き勝手やってくれたな。暴言吐くわ、暴力振るうわ、やりたい放題。お礼にこの国で1番治安の悪い刑務所にブチ込んでやるよ。お前みたいな生まれを鼻にかけて甘やかされて育った青びょうたんなら、そこの荒くれ者共に特に大層可愛がってもらえるだろうさ。万が一にでも保釈申請が来ても、この私が責任持って却下してやるからそのつもりでいろ。その汚い手で私の恋人に手を出したことを、そこで死ぬまで悔やんでいるんだな」
 エドアルドはそう言い捨てるのと同時にベッと手に持っていたトラヴィスを地面に捨てる。トラヴィスは無様にドチャリと地面に突っ伏した。滅茶苦茶痛そう。怯えた表情で恐る恐るエドアルドの顔を伺うトラヴィスだったが、そこに強烈な平手を食らって今度こそ意識を失い、そのまま動かなくなった。
 エドアルドはトラヴィスのことを足先で強めに蹴って完全にノックアウトされたことを確認すると、クルリと俺の方を振り返る。そのまま物凄い勢いでこっちに向かって来た。あっ、と気がついたその瞬間には、目の前にエドアルドが。浄化魔法でも使ったのだろうか。いつの間にやらスッカリトラヴィスを殴った時の返り血から綺麗になった手で俺の事を抱き締める。
「ああ、ルクレツィオ君……! 直ぐに助けられなくてごめんよ。手首を見せて? 治癒魔法をかけるから」
 言い終わるのも待たずに早速治癒魔法をかけられた。かなりの大盤振る舞い。明らかにかけ過ぎである。そうでなくともこんな手首の赤味ぐらい、放っときゃいいのに。充分自然治癒できる範囲だ。魔力がもったいない。まあ、世にも珍しい治癒魔法を間近で見れるからいいか。
「いきなりあんな変態に迫られて、君はどれ程怖い思いをしただろうね。いくら魅力的とはいえ誰彼構わず性的に狙われるなんて、可哀想なルクレツィオ君。やっぱり監視魔法以外にも、虫除けに防御攻撃撃退もしてくれる警護魔法をかけるべきだったか」
 エドアルドの奴、なんか物騒なこと言ってねぇ? この国でそこまで強力な魔法を個人でかけていいのは王族くらいじゃねぇの? 俺王族じゃねぇよ? ていうか、そもそも。
「あのさぁ……エドアルド。張り切ってるところ悪いんだが、俺別に誰にも性的に狙われてなんてねぇよ? 最近俺の周りを色んな奴が彷徨いているのは、例の研究を成功させた俺が物珍しいからだ。要は動物園のペガサス展示コーナーに人集りができるのと同じ理由さ。どうせトラヴィスだって、俺を引き込んで自国の為の研究かなにかさせて利益を上げようと目論んだんだろう」
「ハァ? 狙われてない? トラヴィスだぁ?」
 おっと、なんだ? 心配そうに俺の顔を覗き込んでいたエドアルドの表情が、一瞬で『無』に変わる。まるで溢れる激情を抑えるが如く、表情筋を引き攣らせるおまけ付きで。ただでさえ鈍く表面的なことから内面を読み取るのが苦手な俺だ。当然このエドアルドの表情の変化も、何を意味するのかが分からない。ポカンとエドアルドの顔を見上げる俺に、奴はなんとも形容し難い凄まじい表情をした。
「エドアルド?」
「ルクレツィオ君……君って奴は、本当に……! あのねぇ、分かっていないようだから言わせてもらうけど、君は自分で思っている以上に魅力的な人なんだよ? ただでさえ前々から可愛らしかったのに、ここのところ私が君の健康に気を使うようになってからその可愛らしさが増して凡愚共の目にも見えてしまうようになって……。それで、こんなことに。おまけに君はあんな奴のことをファーストネームで呼んでるし! 最近男も女ものべつ幕無しに君のケツを追いかけまくりやがって恋人の私だって仕事が忙しくって四六時中一緒にはいられないのにそれをいいことにあいつら許さんできることなら今直ぐにでも全員処刑して」
「待て待て。せめて息継ぎはしろ、息継ぎは」
 ノンブレスで喋りながらどんどんエドアルドの顔が恐ろしくなっていく。このままではエドアルドが悪魔のような表情になってしまいそうだったので、途中で口を挟んで止める。エドアルドはブスくれた顔ではあるが、それでも俺の言葉に従い一応口を噤んだ。顔面の強ばりを解いてやりたくて手を伸ばし頬をソッと撫でれば、エドアルドは少し表情を弛めてその手に擦り寄る。完全にいつもの優しい表情に戻ったわけじゃないけど……まあ、多少はマシになったか。
「もう、少し落ち着けよエドアルド。お前に俺がどう見えているのかはよく分かったから」
「いいや、分かってない。全っ然分かってない! 君が私と付き合っているって知れれば私の怒りを買うことを怖がって、誰も手を出さなくなると思って噂を流しても、誘蛾灯に引き寄せられる虫のように群がる連中は尽きないし。誰が誰の囲われ者だ何だ愛はないだの契約恋愛だの好き勝手な噂が立つ始末。いくら隣に立って牽制しても、少し目を離すと直ぐこれだ。もういっそルクレツィオ君のことを閉じ込めてしまおうか……」
「俺は別に研究さえできればそれでも構わねぇけど。それなら苦手な社交しなくて良さそうだし」
「……私を甘やかさないでくれ。私の我儘で君の世界を狭めてしまうのは、私の本意ではない」
 エドアルドがキュッと俺の体を弱々しく抱き締める。それに応えて俺はコテン、とエドアルドの肩に頭を乗せた。エドアルドの大きな手が俺の頭を撫でてくれる。その手付きはもういつもの優しいものだ。少し嬉しくなって、キュッと目を閉じエドアルドの体に抱きつく。
「……本当は、こんな形ではなくもっとロマンチックなやり方で渡したかったんだが、そうも言ってられないな。もう待てない」
「え、何がだ?」
「ルクレツィオ君。ちょっと右手を貸して?」
「いいけど……一体なんなんだ?」
 抱きついていたエドアルドの体から渋々手を離し、向かい合う形になる。困惑しながらも、俺は大人しく右手を差し出した。エドアルドは黙ってその手を取り、反対の手でなにやらポケットの当たりをゴソゴソ探っている。やがて目当ての物が見つかったらしく、探っていた手を俺の右手の方に持ってきた。
「ルクレツィオ君。私はとても君のことを愛している。そりゃぁもう、到底言葉では言い表せない程、とてつもなくね。勿論、君はそのことをよく分かってくれていると思う。自他問わず心の機微に疎い君だが、私の愛は本能で理解してくれていると信じているし、間違いなくそうだと感じている。なのに、そんな私の愛を関係のない外野から疑われて茶々を入れられるのはもう沢山だ。あいつら君が私から自分に靡いて宗旨替えすると、そんな荒唐無稽で不遜な夢を見ていやがる。夢を見るのは自由だが、狭量な私はそれすら許せない。私の可愛い恋人を想像の中だけでも無関係の他人が侍らせるなんて、絶対に駄目だ。……だから、不埒な輩がこれ以上無礼な妄想を膨らませられないように、より一層の牽制としてこれを受け取って欲しい」
 右手をエドアルドの大きな手で覆われる感覚が。ゴソゴソと手の上でエドアルドの指が動く。やがて動きが止まり、手が離れていった。それまでなかった拘束感と僅かな重み。恐る恐る自分の手を顔の前に持っていく。そこに、あったのは。
「こ、れは……」
「婚約指輪だよ。一応ね。結婚指輪は、いつか結婚式を挙げた時に贈りたいから。今はこれで我慢してくれるかい?」
「が、我慢も何も……こんな……嘘じゃないよな……?」
「こんな一世一代の告白、嘘にされたら流石に泣くよ?」
 へ二ョンと力の抜けた困り顔でエドアルドが俺の手を取り、指輪の上から口付ける。指先で優しく指輪を撫でられた。そこでようやく俺は、指輪をキチンと観察する余裕を取り戻す。
 指輪は石も何も嵌め込まれていない、レリーフだけのシンプルな作りである。派手さはないが地味という訳ではなく、繊細なレリーフは見ているだけで引き込まれそうだ。2種類の金属を合わせているのか、螺旋を描くように1周している深い溝を境にして色が変わっているのが面白い。だが、何よりいいのはこれをエドアルドが贈ってくれたという事実だ。これってつまり、そうだよな? いわゆる愛の証、ってやつ? うわぁーお! スッゲェ! 俺は手をひっくり返したり遠ざけたり近付けたりして指輪を心ゆくまで観察した。
「気に入ってくれた?」
「ああ、いいな、これ! 自分が装身具を気に入る日が来るなんて、思わなかった! ……悪い、俺何も用意してねぇ。お前になんにも返せん」
「そう。それは良かった。お返しなら私は君が喜んでいる姿を見られるだけで十分だから、いいんだ。……実はね、まだ仕掛けがあるんだ。ここに同じ作りをした私の分の指輪があるから、仕掛けを見せてあげよう。よく見てて」
 そう言ったエドアルドの手の中に、またもう1つ指輪が。大きなエドアルドの手に合わせて俺の指に嵌っているものより一回り大きい。レリーフや2種の金属を合わせた作りは確かに同じようだ。エドアルドはそれを指先で摘み、俺の目の前に持ってくる。言われるがまま指輪をジックリ見ていると、エドアルドはニヤリと悪戯っ子の笑みを浮かべた。そして、次の瞬間。エドアルドが少し指先を動かしたと思ったら、なんと指輪が2つに分裂したではないか! 分裂した指輪は互いに互いの穴を通って、引っかかっている。金属が擦れてシャランと軽い音を立てた。
「なんだ、これ!? 凄い! どうなってるんだ!?」
「ギメルリングって言ってね、重ねると2つのリングが合わさって1つのリングになるように作られた指輪なのさ。ほら、ルクレツィオ君はこういう変わり種のギミック、好きだと思って。普段は研究の邪魔になるからチェーンに通して首から下げることになるだろうし、その時もこういう作りなら見た目にも楽しめるだろうから」
 エドアルドが指輪を渡してくれたので、俺はそれを思う存分カシャカシャバラしたり合体させたりする。そうか、2種の金属を合わせたんじゃなくて、別々の金属でできた2種類の指輪が合わさっていたのか! 確かに、こういうのは大好物だ。益々気に入ったぞ。エドアルドの奴、つくづく俺のことよく分かってるな! それにしても、本当によくできている。こういったものを作るには、高い技術力がいるに違いない。複雑なデザインが重ねるとピタリと合わさるのが面白くて堪らなかった。2つのリングがくっついたり離れたりしているのを見ていると、なんだか……とても……。
「バ、バラしてぇ……」
「うん、言うと思った。『2人は永遠に離れない』って意味を込めた縁起物だから止めてね? 知恵の輪みたいだから外したくなるのはわかるけどさ。なんなら、今度本物の知恵の輪を沢山プレゼントするから、我慢して」
「いや、流石に衝動に負けて縁起物を台無しにするくらい理性捨ててはねぇから大丈夫だわ。それよりも……。俺からもお前に嵌めていいか?」
 言いながら手に持った指輪を見せれば、エドアルドは一瞬キョトンとした顔をした後、ゆっくりと俺の言葉を理解したらしくジワジワと目を見開いていく。なんだよ。だって俺からはなんにも用意してないんだ。せめてエドアルドの分の指輪を嵌めるくらいしたい。それくらいの人情を俺が持ってちゃおかしいか? ……まあ、普段心なんてありません、研究の才能と引き換えに売り渡しました、みたいな言動をしている俺だから、仕方がないかもしれないけど。
「ルクレツィオ君……いいの……?」
「別に、指輪を嵌めるだけじゃねぇか。それに良いも悪いもあるかよ」
「ただの指輪じゃない。だ。恋人に婚約指輪を嵌めるってのは、ただじゃない。特別な意味を持つことだよ」
「……そうかもな」
 エドアルドの右手を取る。分厚くて、暖かくて、少し荒れた、俺の大好きな手だ。俺の手の上で、大人しくその時を待っている。俺はその手を恭しく目の高さまで持ち上げて、指輪を持った手の小指で優しく撫でた。キュッと唇を軽く噛み、ゴクリと唾を飲む。緊張から震える指先で静かに指輪を持ち直し、薬指の先端に通した。指輪は爪の上を過ぎ、節を通って、そしてとうとう付け根に辿り着く。エドアルドの指に燦然と輝く金属の輪。その輝きに俺は何だか堪らなくなって、エドアルドの真似をしてソッと指輪に口付けた。上からホウッと感嘆の溜息が降ってくる。
「有難う、ルクレツィオ君。フフフッ、君に指輪を填めてもらえるなんて、夢みたいだよ」
「絶対いつか、俺からもお前にお返しをしてやるからな、覚悟しておけよ」
「その言い方だとまるで復讐を誓われてるみたいだ。でも、有難う。楽しみにしてるね」
 顔を上げると、少し潤んだ青と目が合う。俺の大好きな、愛しさの青。エドアルドが俺の愛を信じていて、同時に感じてくれているのと同じように、俺もこの碧眼を見る度こいつの愛を思い知るのだ。深く揺るぎない、確かな愛を。自然と口元に笑みが浮かび、それが確かなものになる前に2人の唇が重なった。そこから先は目を閉じ、体を寄せ、ただ溺れていく。ウットリと互いの唇の熱と柔らかさを確かめ合う時間は、エドアルドの部下達がトラヴィスを回収しに来るまで続いた。





 そしてその後、ある日のパーティー会場にて。
「ねぇ、あなた。見た? アーリ博士の右手の薬指!」
「見た見た! 指輪のことでしょう? しかも、ヴェチェッリオ相公の右手にも同じデザインの指輪が……!」
「これってこれ以上アーリ博士に手を出したら、容赦なく排除する、もう容赦しないからなって牽制よね? あーん、そんなぁ……」
「やだ、あなた本気でアーリ博士のこと狙ってたの!?」
「だって、前まではただの研究狂いの変人だと思ってたのに、最近やけに可愛くなってきてたから、気になっちゃって……。最初はただの興味本位だったけど、研究内容を話してる時のキラキラ輝く無邪気な笑顔を見てたら、いつの間にか本気で好きになっちゃった……」
「でも、ヴェチェッリオ相公の恋人なのよ! まあ……今は婚約者、だけど」
「アーリ博士をサポートする延長線上でなった恋人関係だから、本気で愛し合ってないって噂を信じてたのにぃ……」
「もう、愚痴ならいくらでも聞いてあげるから、諦めなさい。完全に望みはないわ。だって見てご覧なさいよ、あの仲睦まじい2人のお姿。あれで愛し合っていないっていう方が無理な話よ。それに……さっきからヴェチェッリオ相公、アーリ博士に気付かれないように彼を見てる人を睨みまくってるわ。普段感情を出さずに穏やかに笑っているのが嘘みたい。あれはちょっかいかけた人間はって顔よ。私はあなたの親友として、命の危険のある恋路を応援できないわ」
「そうね……。励ましてくれて有難う。よし! これから私は、アーリ博士とヴェチェッリオ相公の恋を影ながら応援する活動に熱をあげることにする!」
「いや、ちょっかいかけるのは危険だから、もう止めなさいよ」
 こうしてその晩、何人もの人々が涙を飲み、時にガックリ肩を落として失恋をし、同時に『陰ながらアーリ博士とヴェチェッリオ相公の恋を見守る会』が発足した。アーリ博士に懸想していた連中の羨望と嫉妬の視線を一身に集めるのは、その国の宰相だ。彼にとっていつもなら嫌悪感しか感じない類の様々な色を感じながらも、宰相は幸せにほくそ笑み、傍らに立つ魅力的なパートナーの腰にソッと腕を回す。そして、パートナーの博士も微笑んで宰相の顔を見上げ、彼の体に自分の体を寄せるのだった。この時の彼らの会話の内容を知る部外者は、誰も居ない。
「あ、因みにこの指輪、さっき言った例の警護魔法かけてあるから、そのつもりでいてね! ルクレツィオ君が不用意に誰かに体を触れさせたら、相手の首が物理的に吹っ飛ぶよ!」
「お前、マジか……。別に、いいけどさ。いや、良くねぇわ。首吹っ飛んだら」
「駄目だった?」
「ハァー……。まあ、俺が気をつけるから、お前はそのままでいいよ、エドアルド」
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】偽りの宿命~運命の番~

BL / 完結 24h.ポイント:276pt お気に入り:988

可愛くなりたい訳じゃない!

BL / 完結 24h.ポイント:92pt お気に入り:363

【完結】聖獣人アルファは事務官オメガに溺れる

BL / 完結 24h.ポイント:3,706pt お気に入り:1,764

嫌われ者は異世界で王弟殿下に愛される

BL / 連載中 24h.ポイント:127pt お気に入り:5,512

フェリシアの誤算

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:839pt お気に入り:49

氷の騎士団長様の悪妻とかイヤなので離婚しようと思います

BL / 連載中 24h.ポイント:50,431pt お気に入り:5,268

優しいおにいちゃんが実はとっても怖い魔王さまだった話

BL / 連載中 24h.ポイント:4,373pt お気に入り:2,729

処理中です...