サリーは死ぬべきだったのか?

我利我利亡者

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 それから俺は、前にも増して第1王子を大切に扱った。第1王子の傷ついた幼い心を癒す為には、誠心誠意尽くし続けるしかないと思ったのだ。そう、かつて兄が、俺に対して真剣に向き合ってくれたのと同じように。
「さあ、殿下。今日は紙と粘土とインク、それにペンが届きましたよ! これで書き取りのお勉強ができますね」
 先ずペンの握るところに粘土をつけて、手の不自由な第1王子でも握りやすく工夫してから渡す。第1王子の指は獣の手先のように丸まって固まっているので、こうでもしないと物が握れないのだ。同じ要領で、後でスプーンの持ち手にも粘土をつけておかないと。
「殿下、私の膝に乗ってください。姿勢が保てるように私が支えていますから、殿下は心置きなくペンで文字を書くことに集中してください」
 あの日俺が第1王子の知性に気がついてから、第1王子は俺に触れられても暴れなくなった。それだけじゃない。噛み付くことも、不必要に唸ることも睨みさえしなくなったのだ。それどころか、話しかければ獣じみた唸り声でではあるものの、しっかり返事もしてくれる。俺の挺身に段々絆されてくれているのかもしれない。嬉しいことである。
「ウー」
「はい、これは『林檎』という意味の単語ですね。とってもお上手ですよ。では、『鳥』はどう書くか覚えておいでですか?」
「ガウッ!」
 元気よく返事をして、第1王子は再び紙に向き直ると真剣な様子でユックリペンを走らせた。拙い書き文字だが、第1王子はとても楽しそうに書いている。この歳でようやくまともに学びを得ることができて、嬉しいのだろう。
「ウー!」
「素晴らしいです、殿下! 完璧ですね! 前に本で単語を読んだだけなのに、とてもよく覚えてらっしゃいます。復習はバッチリじゃありませんか。それでは今日は、次の単語も覚えてしまいましょうね」
 ペンを貸してもらい、お手本を丁寧に紙の上に書く。口頭で意味や詳しい説明をつけ加えるのも忘れない。第1王子はとても賢い子供で、この国で使われている複雑な沢山の文字を、なんと半日で全部覚えてしまった。それに、その文字を使った単語だってどんどん覚えて語彙を増やしていっている。算術も、歴史も、魔法だって、教えることは全部乾いた砂に水を垂らすが如く瞬く間に吸収していった。今だってペンを持って書くのは初めてで、その上手が不自由なのに、たどたどしくではあるがしっかり文字を書けている。
「ガウッ」
「はい、殿下。どうかなさいましたか?」
 第1王子の成長を微笑ましく思っていると、前から声をかけられた。最初はなにか困り事かと思ったが、何故かしきりに俺の手を不自由な手で軽く引っ掻くので、手に何か用かと広げてみせると今度は軽く引っ張られる。どうやらなにか伝えたいことがあるらしい。
「ウー、ウー!」
「私の手がどうかいたしましたか?」
 今度は俺の手を引いてから、空中でペンを動かしている。暫くその意味を考えてから、ある1つのことに思い至った。
「……若しかして、私の名前をお書きになられたいのですか?」
「ガウッ!」
 そう、それ! とでも言うかのように、第1王子は体を揺らす。なんだよ、それ。それってすっごく……可愛い。俺の名前を書きたいとか、は? 健気すぎんだろ。
「私の名前は、こう書いて……サ、ル、ヴァ、ト、ア。サルヴァトア。はい、こうですよ」
「ガウッ!」
 第1王子は喜んで俺から返されたペンを持ち、俺の名前の綴りを書いていく。その背中はいつもに増して、真剣だ。ああ、なんて愛しい存在なんだろうか。たかが名前を教えてくれと請われるだけで、こんなに嬉しいとは。そういえば昔、俺が兄さんに初めて日頃の感謝を込めて手紙を書い手渡したら、間違いだらけの汚い文字で埋まった拙い手紙を抱きしめて、突然兄さんが泣き出してビックリしたことがあったっけ。今なら兄さんの気持ちが分かる。兄さん程涙脆くないつもりだが、恐れ多くも第1王子に自分宛の手紙を渡されたら、俺だって泣いてしまうかもしれない。
「ウッ!」
「フフッ、大変お上手ですよ、殿下。自分の名前をこんなに素敵に書いていただけて、感無量です」
 愛しさが募り、堪らず第1王子の旋毛にキスを落とす。第1王子はビックリしたようだが、モゾモゾ身動ぎするだけで特に嫌がられはしなかったので、褒めながら何度も頭にキスを落とした。
「殿下は覚えが早くあらせられますから、この分だとあっという間に私を追い抜いてしまわれますね。こんなにもできのいい生徒を持てて、私も鼻が高いです」
「グゥ……」
 後ろから見る第1王子の耳が赤い。どうやら照れているらしい。そんな所も可愛くて堪らない。今なら兄さんが俺をあんなにも可愛がってくれた理由が分かる気がする。きっと俺にとって第1王子がそうであったように、兄さんにとっては俺が、悲しみで心にポッカリ空いた穴に嵌ったのだ。
 兄さんは俺に出会った頃丁度実家を飛び出したのだと言っていた。どんな禍根があろうとも、やはり家族と決別するのは情に深い兄さんには辛かったのだろう。その寂しさを、兄さんは俺を相手にして忙しくすることで埋めた。丁度、俺が第1王子を構い倒して兄さんの死を見ないようにしているように。
 それがいい事なのか、悪い事なのか、判断はつかない。だが、それは確かに一種の救いではあるのだ。
「ガウッ」
「おや、もう紙いっぱいに書けたのですか? 本当に上達が早くあらせられますね、殿下。それじゃあ次はどんな単語を覚えましょうね……そうだ!」
 第1王子からペンを受け取り、紙にユックリ文字を書く。書き終えると第1王子の手を取って、1文字1文字確認させながら発音した。
「これは、オ、ー、ウェ、ン。と、読みます。殿下のお名前です」
 表舞台に出ない第1王子の名前は市井ではあまり知られていなかったが、俺は最初に精霊が仲介人の契約書にサインさせられた時、書類に書かれていた第1王子の名前を見たので知っていた。第1王子は生まれて初めて相対する自らの名前を、マジマジと見つめているようだ。
「さ、書いてみてください。先ずは『オ』から」
 最初は戸惑うように固まっていた第1王子だったが、意を決したのか返されたペンを持ち直し、ペン先を紙の上に滑らしていく。俺はそれを静かに見守る。
「凄い、完璧です、殿下! 綴りも文字の大きさも、文句の付けようがありません!」
 生まれて初めて第1王子が書いた、自分の名前。感無量だ。これは是非とも大切に飾らなくては。そうして俺が心中でコッソリはしゃいでいると、また第1王子が俺の手を軽く引っ掻く。
「今度はどうされたのですか、殿下?」
「グルルッ!」
 俺の手を引っ掻いていた手で自分の腹を叩き、そして今度はペンで書いたばかりの名前を指し示す第1王子。それを何度も繰り返す。これって、まさか……。
「殿下。若しかして、私にあなたをお名前で呼べと、そう仰っているのですか?」
「ガウッ!」
 ああ、なんということだ! 可愛い、可愛過ぎる! 名前で呼べとか、どんだけ可愛いお願いなんだよ! こんな可愛いお願いなら、いくらだって叶えてやりたい! そうは、思うのだが。
「殿下、申し訳ありませんが、それはいたしかねます」
「グゥッ!?」
 第1王子が不満そうな声を上げて膝の上で俺の方を振り向く。近過ぎてよく見えないが、その表情は不満そうだ。納得できないと体を揺らす第1王子に、訳を話す。
「殿下。殿下は仮にもこの国の第1王子であらせられますが、私は一介の平民。それも、かなり卑しい出の人間です。とてもじゃありませんが、恐れ多くて殿下のお名前をお呼びするなんて」
「ガウガウッ!」
 第1王子が怒った声を上げる。言うことを聞いてやりたいが、こればっかりはそうもいかない。
「殿下、どうかご容赦を」
「ヴー、ヴー!」
 第1王子が、久し振りに駄々っ子になってしまった。体を揺らし、手足をばたつかせ、全身で不満を表明している。殿下が膝の上から落ちないよう、慌てて支える手に力を込めた。
「殿下、どうか分かってくださいな」
「グゥ……」
 宥めるように声をかけると、暴れていた第1王子が大人しくなる。一瞬、諦めてくれたのかと思ったが、違った。第1王子はテーブルにペンを置いて、グイッと腰をひねり、こちらを向いたのだ。
「キューン、クゥーン」
 第1王子が今まで聞いたことのないような、甘えた声を出す。まるで生まれたての仔犬が母犬を探しているかのような、本能に直接響く可愛らしい鳴き声。それに加えてスリスリと俺の胸に擦り寄るのも忘れない。最後に上目遣いでこちらを見上げられれば、もう駄目だ。難しい顔をして渋っていた筈が、あえなくコロッと陥落してしまう。
「ヴッ……もう、しょうがないですね。でも、敬称はつけさせていただきますからね、オーウェン様」
「ガウッ!」
 ああ、兄さん。あなたがいつも俺に甘かった理由を今知りました。愛子いとしごからのお願いごととは、これ程までに破壊力のあるものなのですね。自分にできることなら、なんだって叶えてやってしまいたくなる。これから先ベッタベタに甘やかさないよう、しっかり気を引き締めなくては。





 そんな風にして俺達の毎日は穏やかに過ぎていく。第1王子……オーウェン様は毎日何かしら新しいことを学んでいって、最初の頃と比べると見違えるようだ。できるようになったことも、大分増えた。
 まず、読み書きを随分身に付けたし、最近では食事時は自分でスプーンを持つようになってきている。それに、ここの所は服の脱ぎ着も頑張っていらっしゃってもいた。
 オーウェン様は手が不自由なので、彼でも簡単に脱ぎ着できるよう支給された服は全て俺がボタンをスナップに付け直したのだが、その甲斐があったというものだ。まさか士官学校でこんなのなんの役に立つんだと思いながら習わされた針仕事が、こんな形で実を結ぶとは。人生何が役立つか分からないものだ。
 そうして段々自立の道を着実に歩んで行っていると思われるオーウェン様だったが、実は違う。と、いうのも……。
「グゥー」
「はい、オーウェン様。もう少々お待ちくださいね。これだけやってしまえば、もうお終いですから」
 言いながら俺に凭れたオーウェン様の体から伝わる、グルグルと喉を鳴らす音を感じる。背中にはスリスリと頭を擦り付けてくる感触が。後ろにある温もりを早く抱きしめたいと思いながら、手早く、しかし丁寧に盥の中の洗濯物を洗う。
 そう、ここ最近のもう1つのオーウェン様の変化。それは、臆面もなく真っ向から俺に甘えるようになったこと。少し遠ざかればキュウキュウ甘え声で鳴いて、仕事の邪魔にならないよう遠慮がちに後追いをしてくるし、1度引っ着けばあとはもうベッタリ。ゴロゴロ喉を鳴らして、上機嫌だ。
 極めつけは夜寝る時。初めの頃は別々に寝ていたのに、気がつくと夜中に俺の寝床に潜り込んで来るようになったのだ。夏も終わりにさしかかり、寒いのかと思って試しにオーウェン様の眠るベッドを魔法で温めてみても、その行為が止まることはない。観念して俺もベッドに上がると、その日は随分遅くまで嬉しそうに興奮した様子で喉を鳴らしたり、体を擦り寄せてきたりしていた。
 これは困る。いや、オーウェン様が懐いてくれるのが困るんじゃない。寧ろそれは嬉しいくらいだ。困るのは、俺の理性が持たないこと。これ以上なく懐いてくれたオーウェン様が、俺はもう可愛くて可愛くて仕方がない。
 以前甘やかしすぎないように、と心に立てた誓いはどこへやら。そんな事霞んでしまう程俺の頭の中はオーウェン様1色だ。だって、仕方ないだろう。無礼を承知で言わせてもらえば、オーウェン様があんなにも可愛過ぎるのがいけないんだ。
 オーウェン様を早く抱き絞めたいとはやる気持ちを抑えつつ、洗い終わったビショ濡れの洗濯物を取り出すと、オーウェン様が最近使えるようになった風の魔法で温風を出してくれる。その魔法はまだまだ拙いもので、正直あまり役に立っていないが、その気遣いが何より嬉しい。
「オーウェン様、手伝っていただけるのですか? ありがとうございます、とても助かります」
「ウー!」
 俺も魔法を使って洗濯物を乾かせば、あっという間に仕事は終わった。それらをできる限り素早く畳んで、後はオーウェンのお待ちかねの触れ合いタイムだ。
「はい、オーウェン様。おまたせいたしました。どうぞおいでになってください」
「ガウッ!」
 手を広げて屈みこめば、腕の中にオーウェン様が飛び込んでくる。その小さな体をギュッと抱き締めて、ついでに持ち上げクルッとその場で一回転してみせれば、楽しそうな声が上がった。
「グルルッ」
「フフッ、オーウェン様。あなたという人は、なんて愛らしいんでしょう」
 ここ最近でスッカリ習慣になったキスを、幾つも幾つもオーウェン様のつむじや目尻に落とす。本当、オーウェン様はとっても可愛らしい。オーウェン様を抱き締めればそれだけで、ホンワリ暖かい感情で胸がいっぱいになる。
 最近では兄さんのことを忘れこそしないけれど、思い出して取り乱すことも少なくなった。ボーッとしている時間も随分減ったと思う。突然泣き出すことも、死にたくなることも殆どない。
 兄さんや、第1部隊の仲間達。俺はあの日死んだ大勢の大切な人達の屍の上に立っている。その生はあまりにもおぞましい。あの日本当に死ぬべきは俺だった。俺は死にぞこなってしまったのだ。その思いは今も変わることはない。
 それでも、俺は生かされた。運命の女神の見えざる手によって。信仰心の厚い者の多いこの国では珍しく、殆ど神など信じず無神論者に近い俺は、そこに意味は無いと思っている。けれど、それでもこうして自分がオーウェン様の為になにかしてあげられているのなら、自分が死にぞこなったことも、そのうち受け入れられる日が来るような気がするのだ。
「オーウェン様。楽しそうにしているところ申し訳ないのですが、そろそろお終いですよ。私は次の仕事に取り掛からないと」
「グゥ、ヴー」
「そんな不満そうな声を出しても、駄目ですからね」
 名残惜しく最後にオーウェン様の頭を一撫でしてから、体を離す。オーウェン様は半眼になっていたが、我儘に追い縋ることはしない。俺が彼の為にあれこれ忙しく仕事をしていることをちゃんと分かっているのだ。本当にお利口さんである。
 オーウェン様が大人しくなったのを見計らって、洗濯中は邪魔になるので外してポケットに入れていたインデックスリングを取り出し、人差し指に嵌め込む。
「ウー?」
「ああ、指輪がどうかなさいましたか? 気になりますか?」
 オーウェン様が俺の指輪をシゲシゲと見る。いつも嵌めているものだが、今日に限ってどうしたのだろう。……若しかして、少しでも長く俺を自分の傍に引き止めておく為の作戦か? 何気なくオーウェン様の方を見れば、必死に指輪を気にしてる風を醸し出そうとしているようだが、その視線はこっそりチラチラとこちらを伺っている。……仕方ない、その意地らしさに免じてのってやるか。
「これはですね、私の兄の為のモーニングジュエリーなんですよ」
 指輪を再び外し、オーウェン様の目の前にかざして裏面を見せてやる。そこには、約1年程前の年号と日付が刻み込まれていた。
「モーニングジュエリーというのは故人を偲んでつける装飾品のことです。兄は私と違っていい所の出で、形見になるような品は全部兄の実家に引き取られて私の手元には何も残りませんでした。墓も貴人専用の墓地に作られて、私の身分では立入ることすら叶いません。なので、ここに来る前に知り合いに頼んでこの指輪を形見代わりに作ったんです。この刻まれた日付は兄の死んだ日なんですよ」
 兄さんの死んだ日付けが刻まれた指輪。兄さんに祈る時はこの指輪にキスをして、この指輪を嵌めた指を組み目を閉じる。俺にとってとても大切なものだ。以前なら多大な苦しみを伴ってしか想起できなかったこの指輪とそれに纏わる思い出も、オーウェン様の前だと不思議と安らいだものになる。
「オーウェン様。いつか……いつかでいいんです。私と兄の話を聞いてくださいませんか。あなたになら、穏やかな気持ちで全てを打ち明けられそうだ」
 そう言ってオーウェン様の瞳を覗き込む。その瞳は静かに凪いでいたが、俺の心のざわめきを受け入れ、宥めさせてくれる、不思議な力が宿っていた。
「……ガウ」
「ありがとうございます。またこんな風に幸せな気持ちで兄のことを思い出す日が来ようとは、夢にも思いませんでした。ああ、全てが遠く、懐かしい。穏やかな気持ちで思い出せたことで、あのかけがえのない日々がまた目の前に戻ってきたようだ。『サリー』、『サリー』と、何度も兄に名前を呼ばれた事が美しく思い出されます」
 優しい人だった。凛とした立ち姿。芯の通った性格。朗らかな笑い声。あの人を構成する何もかもを、心から愛していた。いいや、今だってその気持ちは色褪せず、変わることなくこの胸にある。
 兄さんは俺にとって、今も昔も何よりかけがえのない存在だ。もう、永遠に失われてしまったけれど。久し振りに目頭が熱くなる。最近オーウェン様のことで頭をいっぱいにしていたせいで遠のいていた悲しみが、再び目の前に現れた。オーウェン様に涙を見られないよう、顔を俯ける。
「ヴ、グゥー?」
「……申し訳ありません。ほんの少しだけ、待ってください。また直ぐに、いつもの明るいサルヴァトアに戻りますから」
 こんな子供に心配かけるなんて、情けない。早く涙をどうにかしなくては。必死になって瞬きをして後から後から溢れてくるそれを払っていた、その時。涙も何もかも引っ込む、驚くべきことが起こった。
「さ、い」
「っ!?」
 突然近くで聞こえてきた幼い声に驚いて、顔を上げた。視線の先には、心配そうなオーウェン様の顔が。そして、驚きで目を見開いたままの俺の前で、彼の鮮やかな色合いの唇が、を紡ぎ出す。
「さ……りぃ……」
「オ、オーウェン、様……今、言葉を……」
「サリ、ぃ!」
 今度こそ、俺の目の前で拙いながらもハッキリと、オーウェン様の唇から言葉が……俺の名前が飛び出した。たどたどしく喃語を喋る幼児のような発声の仕方だ。それでも、あの唸り声しか発せなかった筈のオーウェン様は、確かに俺の名前を呼んだ。
「オーウェン様、喋れるようになったのですね!」
 驚けばいいのか、喜べばいいのか分からない。なんということだろう。オーウェン様が、俺の事を『サリー』と呼んでくれた。その事がとても嬉しい。
 何よりいつも彼に教えているように『サルヴァトア』ではなく、兄さんと同じように『サリー』と呼んでくれたことが嬉しかった。オーウェン様はサルヴァトアより短くてただ呼びやすいからサリーと言っただけだろうが、俺にとって『サリー』という愛称は、何より特別な意味を持つ。
『サリー』には兄さんとの楽しかった思い出や、死別した悲しみ、その全てが詰まっている。ただの名前を縮めただけの愛称ではないのだ。その名前を、オーウェン様が呼んでくれた。その事で、今までの喜びや悲しみを全部纏めて忘れ、新しく『サルヴァトア』として生きるのではなく、また以前のように『サリー』として生きていくことを許されたような、そんな気がしたのだ。
 俺が兄を偲んで泣いていると、決まって誰もが『辛いことは忘れて前を向いて生きなさい』と言う。言い方の違いはあれど、本当に皆、忘れろ、と同じ内容のことを言うのだ。俺はそれが辛かった。例え苦しみのあまり気が狂ってしまったとしても、あんなにも敬愛した兄さんのことを簡単に忘れてしまうことの方が嫌だったのだ。けれど、オーウェン様に『サリー』と呼んでもらえたことで、まるで『忘れなくていいんだ』と言って貰えたような気がしたのである。
 全ては俺の勝手な思い込みだった。それでも、俺の魂は、その時確かに救いの光を見出したのだ。
「……オーウェン様。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
 オーウェン様をきつく抱きしめる。止まった筈の涙が、また溢れてきた。震える俺の体に、ぎこちなくオーウェン様の腕が回る。みっともなく流れ落ちる涙が止まるまで、オーウェン様はジッと俺の傍に寄り添ってくれた。
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