片足を失くした人魚

青海汪

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第五話 身ぐるみを剥がされた王様

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「五月晴れだね。日中は暑くなるみたいだ」
サトルは持ってきた水筒のお茶を一口飲み、眩しげに空を見上げた。待ち合わせの駅前にはちらほらと観光客の姿も見られたが先日の大型連休とは比べようもなく少なかった。
「少ししたら夏だからね。まだ過ごしやすい季節でよかったよ」
ディランもまた空を見上げたのち、小さく笑みを浮かべた。
「確かオレンジ色の車だったよな」
一体何を持って来たのかあれやこれやと詰め込んだらしいバックパックを持った日向は周囲をちらちらと見回した。
「にしても…何を詰め込んできたんだよ」
日向の荷物にサトルは思わず苦笑し尋ねた。当の彼女は日帰り旅行に向いたショルダーバッグのみと軽装だった。
「念のための準備だ。何があるか分からないからな」
「念のためって…山籠りでもする気なの?」
「そういう訳じゃないが…」
日向はそこで言い渋り、くるりとサトルの方へと視線を向けた。
「そういや、結衣子さんというのはどういう人なんだ?  サトルは面識があるのか?」
「ないよ。琳子のお母さんの後輩らしいけど」
「後輩ってことは学校の?」
「そうらしいよ。高卒で起業した人らしいから、もしかしたら高校時代のかな」
「高校時代の先輩後輩か。そういや、どこの学校なんだ?」
「さぁ…そこまでは知らない。あ、来たみたいだ…直接聞いてみたらいいよ」
目を惹く明るいオレンジ色の車が目の前で停車され、スライドドアが開き琳子が現れた。
「お待たせしちゃったかしら」
「初めまして~」
奥の運転席からサングラスをかけた結衣子が手を振って気さくに挨拶をした。
「おはよう。全然待っていないよ。結衣子さんも宜しくお願いします」
「はじめまして。ディラン・カーナベルと言います。よろしくお願いします」
運転席側によるとディランは笑顔で軽く頭を下げた。
「ご丁寧にどうも。さぁ、自己紹介は改めてするから乗って乗って」
「サトルはこっちにきて」
「うん」
琳子に促されサトルは二列目のシートに座ったので必然的にディランたちは三列目に腰を並べた。各自が荷物を置きシートベルトを締めた事を確かめると車は出発した。
「改めて、初めまして。関根結衣子です。琳子ちゃんのお母さんの後輩にあたるのよ」
「スメラ・ソウ・サトルです。わざわざ車を出して頂きありがとうございます」
「いいの、いいの! 若者とドライブできるなんて、そうないから楽しみにしていたんだから」
「はは、ありがとうございます」
「厘日向と言います。名字は屋号なので、下の名前で呼んで頂けると助かります」
席につくと日向は改まった様子で声をかけた。
「サトルちゃんと、日向くんにディランくんね」
「あ、ぼくは呼び捨てで結構です。ちゃん付けは慣れなくて…」
「サトル、ね! OK。それにしてもみんなそれぞれ出身国が違うんでしょう? 日本の文化に触れたいって…随分熱心ね」
「サトルは日本で薬の開発研究に携わりたいから…」
ちらりと向けられた視線を意識し、サトルも琳子に話を合わせて頷いた。
「はい。もしかしたらそのまま長く暮らすかもしれないので」
「僕はちょっと動機が不純なんですけど、日本に来て初めて日本のよさを知ってもっと日本の文化に触れたいと思って、勉強中です。まだまだ、知らないことばかりなんですが」
「そういう事ならいくらでもお手伝いするわよ。ヒサコさんと違って日本は長いから」
「ありがとうございます。そういえば、ヒサコさんと結衣子さんは先輩後輩なんですよね? どこかの学校のですか? 」
「黎桜学園って言う山奥にある学園よ。琳子ちゃんが通っていた学園の日本の姉妹校なの」
「母は途中で黎桜から私が通っていた学園に編入して…卒業後もしばらく海外暮らしをしていたの」
「へぇ、あの学園の姉妹校って日本にあったんですね」
納得した様子で頷くディランの傍らで日向が更に問いかけた。
「ヒサコさんも琳子と同じ学園にいたことがあるのか」
「えぇ。父ともそこで出会ったらしいわ」
「そう言えばジャックとは連絡は取り合っているの?」
「はい。忙しいから月に一回程度ですけど」
「ああ、ジャックって琳子ちゃんのお父さん?」
名前までは知らなかったディランは目を丸くし問いかけた。
「そうよ。と言っても最近認知された関係だけど」
と苦笑した。
「いいじゃない。あのジャックが琳子ちゃんにはデレデレになっているんだから」
「ふふ、そうなんだ。いいね。ジャックさんてどんな人?」
すると琳子は困ったように視線を泳がせ言葉を選びつつ答えた。
「どんな…う~ん…礼儀正しくて、クールな感じかしら。結衣子さんから見たらどうですか?」
「私、あまりお世辞は好きじゃないの。だからハッキリ言うけどいけ好かないタイプよ。何を考えているのかわからないわ。当時の彼氏の友だちだったんだけど…研究者肌って言うか…根暗なドSな気がするわ。不思議だけど、ドSなヒサコさんとはうまく噛み合っていたわ。私とは合わないけど」
飾らずにはっきりとした感想を述べる結衣子のはっきりした性格が垣間見えて、サトルは好感を抱きつつ琳子に話しかけた。
「琳子の両親は割と癖があるタイプだね」
「ふふ、そうみたいね」
「そう、なのか。研究者肌っていうのは、学者か何かだったのか?」
琳子の両親のドS説にやや引き気味になりつつも、日向も興味深げに尋ねた。
「一度は…医学の世界に身を置いたと言っていたわ。今は転職して学園長の秘書をしているけど」
「かなり分野が変わる転職だね」
意外とばかりにサトルも尋ねた。
「そうね。私も詳しくは知らないけど…でも、それなりに理由がないとできない事よね。でも結衣子さん。私が思うに多分…母よりもジャックの方が一枚上手ですよ」
「あはは、確かにそうね。ヒサコさんが自分より格下の男との間に子どもなんて絶対作らないわ」
「そうなんだ。まあ、今の話からジャックさんがハイスペックなのが想像つくよ。琳子ちゃん見る限りでも、きっとイケメンだよね」
「う~ん…」
何と言えばいいかわからずといった感じで琳子は苦笑した。
「琳子ちゃんはヒサコさん似よ、完全に。ジャックは老け顔で、十代の頃からプラ十くらいに見られていたわ。まぁ、雰囲気イケメンくらいかしらね。女性のエスコートが洗練されていて身のこなしも上品。更に博識だから人気はあったみたいよ?」
「そうなんだ。てっきり、琳子ちゃんはお父さん似なのかなと思ってたよ」
これには意外だったようで、ディランは目を丸くした。
「よく似ているわよ。ヒサコさんは黒髪ストレートだったけど、目鼻立ちや雰囲気はそっくりね」
対する琳子は色素が薄く軽くウェーブをした毛色に茶色い瞳をしている。そこに艶やかな黒髪姿を重ね、サトルは自然と素直な感想を漏らした。
「お母さんも綺麗な人だったんだね」
「ありがとう」
はにかみながら琳子は微笑んだ。
「翠くんは父親似なのよね? 私は会った事ないけど翠くんみたいなクールガイ?」
「えぇ、よく似ています。翠をそのまま成長させたような人で…」
「憎たらしいくらい、ヒサコさんの血筋は恵まれているわね」
言葉とは裏腹に豪快に笑いながら結衣子はハンドルを握り、高速道路に入った。
「そういえば、結衣子さんは日本で仕事をされてるんですか?」
少し気になった様子で日向が尋ねた。
「まぁ、そうね。大体日本にいるけど最近は買い付けで海外に行く事もあるわ。画廊の運営をしているから」
「画廊?」
予想外の仕事に日向は目を丸くした。
「わぁ、素敵ですね。絵画ですか? それとも立体作品ですか?」
「いくつかあるのよ。今は絵画メインだけど定期的に立体も入れているの」
「へぇ…琳子も行った事ある?」
以前は然程絵画に興味を持たなかったが琳子と親しくなるにつれ、彼女に連れられて色々と作品展を見て回るようになったサトルは興味を持って尋ねた。
「えぇ、何回か行かせて貰っているわ」
「近い場所なら今度みんなで観に行きたいね。今、何か展覧会されてるんですか?」
サトル以上にディランは興味津々なようで目を輝かせた。
「今は風刺画展をしているの。その次は洋画展も予定しているわ。後でDMを渡すからよければデートのついでにきて」
「はい。ね、サトル君、どう? 興味があればぜひ」
「そうだね、行ってみようかな」
そう言えば絵画作品を一緒に見て回る機会はなかったなと、サトルは嬉しげに頷いた。
「…サトルとディランくんがカップルなのね」
ミラー越しに車内の様子を眺めていた結衣子が納得と言った感じで頷いた。
「はい。お似合いでしょう?」
ディランは幸せそうに笑みを浮かべてみせた。
「本当よね。熱々だわ」
笑いながら結衣子はハンドルを切るとサービスエリアへ車を移動させた。
ちょうど昼時で駐車場は混んでいたが、端に空いているところを見つけ停車した。
「せっかくだからここでお昼兼トイレ休憩にしましょう。ここの串焼きが美味しいって有名なの」
運転席から降りると結衣子はサングラスを外して背伸びをした。その後ろで順番に車中から出るとサトルがおずおずと申し訳なさそうに手を上げた。
「先にお手洗いに行ってもいいですか?」
「行ってきたらいいんじゃない。お昼の買い出しは僕が結衣子さん手伝うから」
「ありがとう。じゃあ、そうしましょうか。琳子ちゃんたちは向こうのテラス席の場所取りをお願いね」
頷くとそれぞれに目的の場所へと移った。
 
そして日向は琳子を連れて屋外に並ぶとテラス席に向かった。休日の昼時だけあって、席は家族連れやカップルで賑わっていた。
「あまり離れると見つけにくいか。席、この辺りにするか、琳子」
空いているテーブルを見つけ、日向が声をかけた。
「そうね、ここにしましょう」
腰を下ろすと琳子は改めて背伸びをした。それから日向を見ると
「疲れていない?」
と気遣った。
「いや。むしろ琳子こそ疲れてないか? ここに来るまでの準備についてもだが、精神的にも…」
荷物を置いて他の座席も人数分陣取ると、日向は落ち着かなげに琳子を見た。
「大した準備はしていないもの。大丈夫よ」
そして琳子は笑いながら日向の荷物を見た。
「貴方こそ、色々準備してくれたんじゃないの?」
「いや、僕の場合は単に心配症なだけだ。多分、荷物になるだけで終わるんじゃないか」
なんと言えばいいかと苦笑した。
「…結衣子さん、感じのいい人だったな。よく交流があるのか?」
「二人暮らしをしているから、何かと気にかけてきてくれているわ。後見人とも親しいから、私たちの親代わりみたいな事もしてくれるの」
「そうか、それはいいな」
親しい間柄という話を聞き日向はやや表情を和らげた。
「ああ、でも後見人とは違うんだな。後見人はどんな人なんだ?」
「母の元秘書の方で弁護士資格を持つ人よ。結衣子さんに負けず劣らず素敵な人なの」
「そうか。後見人ともよく交流があるのか?」
後見人の人となりを聞いて日向はややほっとしたような表情を浮かべた。
「えぇ、結衣子さんと一緒によく遊びにきてくれているわ」
小さく笑うと琳子は視線を周りの親子連れに向けた。屋外のテラス席というだけあり小さな子どもの姿が目立ち、周囲は賑やかだった。
「…貴方は、どんな家庭で育ったの?」
「?!  …僕の家か?」
まさか聞かれるとは思っていなかったので、日向は面食らったような表情を浮かべた。
「あまり聞いた事がない気がして…。嫌かしら?」
キョトンとした様子で尋ねる琳子の言葉を慌てて否定した。
「いや…別に嫌という訳じゃない。ただ、聞かれるとは思ってなかっただけで …」
そして一旦息を吐くと答えた。
「…そうだな。豪商の家の生まれなんだが、産後の肥立ちが悪くて母は早くに亡くなったな。そんな訳で兄弟はいない。まあ、僕が家を出てから父が後家でもとっていれば、もしかしたら弟か妹が生まれているかも知れないが。父はいつも仕事で出払っていたから、面倒は祖母がみてくれたな。祖父も健在なんだが、まあ頑固で厳しい人でな。どうにも折り合いが悪く衝突ばかりしていたな」
「そう…」
悲しげに呟き黙り込むと、気分を変えるように顔を上げた。
「私の母親も商人なのよ」
「そうなのか。それは知らなかった」
そこまで話した後、日向はやや苦い表情を浮かべた。
「…悪い。僕の家族の話はあまり気分のいい話じゃなかったな」
「うぅん、そんな事はないわ。ただ…何となく家庭環境に恵まれているんだろうなって思い込んでいたから」
「? …恵まれてる思うが。母は生まれて間もなくで亡くなっていたし、いないのが当たり前の生活だったからな。その分、ばあちゃん子になった自覚はあるが」
気恥ずかしい様子で苦笑した後、日向は静かに息を吐いた。
「こっちに来てから写真の存在を知ったんが、まあ写真があれば顔くらいは覚えてられたかもしれないとは思ったな」
「…私は、色々あった頃。すべての元凶は母親がきちんとした家庭を築いてくれなかった所為だって思い込んで、死んだと聞いても涙も出ないくらい嫌っていたの。今思うと一方的だったなって反省しているけど」
そして琳子は肩を竦め苦笑した。
「普段働きに出てて、両親代りに育ててくれた祖父母が不幸にあえば、そりゃそうなるだろう。僕だって同じことが起きれば、正気でいられない。周りが必死に諫めてくれたとしても、声だって何も聞こえない」
「……」
琳子は黙って日向の言葉に耳を傾けた。
「何も見えなくなる…」
熱を持つ拳から力を抜くと日向は息を吐いた。
「…悪い。実際に体験した訳でもないのに、何言っているんだって話だよな…」
「一度も翠と…事件についてきちんと話し合った事がないの。だから私以外の人がそれをどう感じるのか…正直、全くわからなくて」
テーブルの上で指を組むと琳子は悩ましげに呟いた。
「私は事件の現場をきちんと見た訳じゃない。けれど翠はそれを目の当たりにしている。一時はカウンセリングを受けたらしいけど、翠が事件や、私の事をどう思っているのかわからない…」
「………」
琳子の話に思わず苦い表情を浮かべた後、日向は静かに息を吐いた。
「事件後すぐにじゃ話が出来たとは思えないが、今なら…少しは違うかも知れないな…。まだ時間がかかるかもしれないが」
「…そうね」
肩を竦め苦笑し
「暗い話をしてごめんなさい。そろそろみんなも来るかしら」
「こちらこそ悪い。嫌な事を思い出させた…」
申し訳ない様子で、日向は頭を下げた。
「ねぇ、大切な事を言い忘れていたんだけど…」
と琳子は頭を下げる日向に笑いかけた。
「何だかんだ言っていても、私は図太い神経の持ち主なの。だからこの程度で傷つかないわ」
「…それはいいな」
きっと色々な思いがあるだろうとは思うものの、琳子の笑顔に日向はやや表情を和らげた。
「ただ、まあ何もなくても堪らなくなったら、吐き出してくれ。愚痴でも泣き言でも、怒りでもな。割と忍耐強い方だから、問題ない」
「ありがとう、その時はまた…聞いてね」
「ああ」
日向はしっかりと頷いた。
 
 
「それにしても私たちって、二人きりになるとこんな会話ばかりしているわよ」
話が一段落着くと私は堪らずクスクス笑い日向を見た。
「たまには十代らしい会話でもしなくちゃ」
「じゅ、十代?! …あー。つまり学生らしい会話ってことだよな。実はだな、この手の話は疎くて…。流行り物だとか話題の映画だとかはさっぱりでだな…」
「あら、私もよ? 最近映画を観ていないから流行りも知らなくて」
予想はできていたけれど同じく流行に疎いと知って私はついつい苦笑した。
「大体、映画という存在も日本に来てから知ったんだが。…て、琳子もなのか?! 琳子はその手の話は詳しいのかと思っていた」
「そんなに意外?」
彼にとって私はどんなイメージがついているのかと思い、楽しげに笑いながら頬杖をついた。
「結構インドアなの。最近はサトルに連れられて外出するけど…」
「そうだったのか」
日向は苦笑交じりになった。
「なんというか、知らない事ばかりだな」
「本当よね」
微笑みながら同調し私は更に尋ねてみた。
「休みの日の過ごし方は? 私みたいにインドアなのかしら」
「まさにその通りだな。バイト以外の日は用事の時以外、家で過ごす事が多い。外に出ると何かと金がかかるからな。家では新しいメニューの開発とか試しで台所にいる事が多いな」
「仕事熱心ね。料理のレパートリーも広そう」
「…料理は趣味でもあるからな。ただ、まあ、偏っているな。和食は少し始めたが、洋食はさっぱりだ」
「洋食ならディランが得意そうね」
「ああ、洋食作りの勝負なら、ディランの圧勝だな。どうも、食べ慣れていないせいか、今ひとつ美味しさがわからなくて、困る…」
「そうなのね」
そう言えばサトルも同じように料理好きで色々とアレンジ料理を編み出している事を思い出した。
「あ、でも…シチューに少しだけ味噌を足すと和風になって美味しいってサトルに聞いたわ。料理は工夫次第でどんどん変わるのね」
「なるほど。それなら美味しく作れるかも知れないな」
名案だとばかりに日向は目を輝かせた。
「本当に好きなのねぇ…」
正直、そこまで料理をしない私は素直に感心してしまった。
「そうだな。そういえば、琳子は家でどう過ごしているんだ? 読書とかか?」
「本を読んだり、溜めていたメールの返信をしたり…かしら。気が向いたら美術館やカフェにもいくけど」
「…美術館か。僕はあまり詳しくないが、何か気に入った作品があったりするのか?」
「ジャンルに特別拘らず、気になる作風だったら観に行く感じよ。けれど好きな作家は何人かいるわ」
「そうなのか。そういや、ディランも似たような見方をしてたな。間口は広い方がいいという事かもな」
 「似ているわね。選り好みをして、せっかくの素敵な作品を見逃すような真似をしたくないのよ」
「なるほどな。せっかくだから、選り好みせず、僕も一度足を運んでみるか」
「意外な自分の好みに気づくかもしれないわよ」
「それはいいな。とはいえ、何を基準に決めればいいものか…。よければ、琳子のお勧めのやつを教えてくれないか」
「お勧め…ね。抽象画は苦手かしら?」
「いや、苦手というよりよく分からない印象だな。まあ食わず嫌いをするより、まずは観てみるといいのか」
「そうね。抽象画にも色々な作風があるわ。私が好きな作家は…カンディンスキーやマレーヴィチかしら。作風は全く違うけれど、とても目を惹くの」
「名前は聞いた事がある気がするんだが、洋名は詳しくなくてな。…その、機会があれば、作品を観る時、一緒に来てくれるとありがたいんだが…」
少し落ち着かない雰囲気に飲まれてしまい私も一瞬答えに窮してしまった。
「…いいわよ」
咄嗟にそうは答えたもののそれが正しい対応だったのかわからなかった。
「けれど今は抽象画を展示している美術館がないの。結衣子さんに聞けばギャラリーでの展示情報もわかるかもしれないけど、規模は美術館よりかなり狭まるわね。それでもいいかしら?」
結衣子さんを通す事でサトルたちを自然な形で巻き込めるかもしれない。そんな私の嫌な思惑など察する様子もなく、日向は嬉しげに答えた。
「いいのか! …あ、いや広さはそもそもあまり美術館に行く機会がなかったから、小さくても構わない」
「ふふ、なら後で結衣子さんにも聞いてみましょう」
「そうだな。…結衣子さんなら詳しいだろうな」
「盛り上がっているわね。私の名前が聞こえたけど?」
振り返ると様々な食事を買い揃えた結衣子が、ディランとサトルと共に戻ってきたところだった。
「なになに? 何の話してたの?」
買ってきた食事をテーブルへと出しながら、ディランは興味津々で私たちを見た。
「いや、結衣子さんに相談しようかという話で」
「私に?」
意外そうに目を見開く結衣子さんに頷き返し、抽象画の展示情報について尋ねた。
「その、少し興味が湧いてな。見てみたいと思ったんだが」
「日向君が? わ、珍しい。どういう風の吹きまわし?」
「…いいだろ、別に」
「抽象画って…よくわからなくて苦手だな。ディランは?」
「僕は好きだよ。刺激的で面白いよね」
車中で交わされた画廊の話題からある程度予想はできていたがサトルの関心を惹く事はできなかったけれど、思いの外ディランの方が興味を持ってくれそうだった。
「それなら若手のグループ展を今度開くのよ。抽象画から具象、立体まであるからみんなで観にきたらいいわ」
「わぁ、それいいね。せっかくだから、みんなで観に行こうか」
「ぼくも観てみたいな。いいかな、琳子?」
「もちろんよ、多い方が楽しいわ」
「日向君も、いいよね?」
「ああ、まあ構わないが」
「じゃ、決まり」
予想通りの流れになり私は密かに内心ほっと胸を撫で下ろした。でも同時に何とも言えない後味の悪さも残った。決して他意があって誘ってくれた訳でもないのに、どうしても周囲の視線が気になってしまい二人きりで出かけるのに後ろめたさを感じてしまう。
―――祖父母を死なせ、翠に致命的な汚点を与えてしまった私なんかが…
と気がつけば心の奥で呟いている自分。無意味な贖罪だとわかっていても、そうでもしなければ誰からも断罪されなかった私は自分を許せない。
「なら早速食べましょうよ。串焼きのアラカルトと焼きそばにたこ焼きって定番から、とりあえず目についたものは買い揃えたわよ 」
「ふふ、日本の食べ物ってどれも美味しいよね。楽しみだよ」
「これ、全部結衣子さんが食べ切れるって言っていたんだ」
テーブルの上に乗りきらない量の食事を見てサトルはこっそり私に耳打ちしてきた。
「信じられないかもしれないけど、本当よ」
細い外見からは到底想像もできない豪快さに驚く面々がおかしくて、私はクスッと笑い昼食を始めた。
「あ、じゃあ二人は翠くんとも面識があるのね」
あっという間に手元のお皿を空にすると、結衣子さんはこれまでの会話を振り返り尋ねた。この場で唯一彼と面識のない日向に説明するかのように答える。
「私とは似ていないわよ」
よくこの手の質問は受けるので肩を竦めて苦笑した。
「クール系イケメンよね」
「ああ、まあそうだろうとは思うんだが」
「黒髪で眼鏡の、知性があるイケメンて感じだったよね」
「あとは、すらっとした背の高い人だったよ」
「何というか、完璧超人だということはよくわかった」
非の打ち所のないイメージを抱いたのか、日向は息を吐いた。
「あはは、完璧超人なんている訳ないでしょ」
串焼きを豪快に食べながら結衣子さんが笑い飛ばした。その意外な返答に私は思わず続く言葉を待って耳を澄ませた。
「弱味を見せたくなくて肩肘張ってる、一生懸命な優しいお兄ちゃんなのよ。翠くんは」
「そう聞くと、なんだか可愛らしい印象になるんだが。いいのか、それで」
今まで出会う人のほとんどが、翠をある種の完璧超人のような印象を持っていた。それは彼自身が意識してそう振る舞っているところもあり、そう簡単に見破られない勝手なイメージでもあった。けれどそれを結衣子さんは既に見抜いていた。過ごした時の長さで言うなら芹沢さんと比ともできない筈なのに。
……翠自身が、変わり始めているのか。それとも、単に結衣子さんが鋭いだけなのか。
「ん~…個々人の印象次第よね」
肯定し辛くて曖昧に流すも、私も感じている翠の変化。あの学園での出会いがきっと頑なになっていた私たちを変えていったのだろう。
「そうだなぁ…個人的には猫被りしたディランに近いものを感じたよ」
「えっ!? ヤダ、それ! 見てみたいわ! ディランくんの猫被り」
「ええ?!  やだなあ、さすがに似てないですよ。似てるようで全く違う何かだと思いますよ」
苦笑まじりに、ふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「違う何かって…」
堪らず結衣子は吹き出した。そしてにっこり笑うと私を見た。
「琳子ちゃんの周りは個性豊かな優しい子ばかりね。ついでに美形揃いとは羨ましいわ」
優しく…と表現するにはあまりに稚拙すぎるその笑顔。同じく系列の学園に籍を置き過ごした時があった結衣子さんにも、きっと失ったものと新たに得た何かがあったのだろう。
まるでかつての幼い自分に微笑みかけてくるような、そんな万感の想いを感じる笑顔に私は静かに頷き返す事で応えた。
 それから食事を終えると私たちは再び車に乗り込み目的地まで移動した。観光地のそこは休日効果もあって大勢の人で賑わっていた。車を置いて私たちが観光を済ませるまで食べ歩きを楽しんでくると言う結衣子さんと別れると、そのままタクシーを拾い再び車中の移動となった。
 
 
タクシーは次第に山奥へと入っていき、それまでの観光地らしい賑やかな雰囲気は息を潜めていった。冬になると積雪すると話してくれたドライバーの言葉に、サトルは春先でよかったと安堵した。
「長閑なところだね 」
山間に広がる田園風景に懐かしいものを感じサトルは思わず呟いた。窓側に座る琳子も彼女の言葉を受けてちらりと外の景色に視線をやるが会話に参加する気配はなかった。
「時期が早かったら、桜とか見られたのかな」
タクシーの助手席の窓越しに遠くの山並みに既に散ってしまったらしい山桜を見つけて、ディランはやや残念そうにぼやいた。
「桜ね…素敵でしょうね」
「琳子は、全くこの辺りとは縁がないんだよね?」
「えぇ。初めてきたわ」
「それでいくと相手に縁がある場所になるのか?」
窓から見える景色を眺め、日向も会話に加わった。
「…一般の民家だったわ。ネットで調べただけだけど」
「……」
何となく口数が減ってきた琳子を気遣うも、運転手の存在を気にしてサトルは複雑そうに眉を寄せた。
「…そう言えばサトル君の故郷もこんな感じだった? 山並みとか」
「生まれ故郷に似ているよ。田舎で…父の仕事の都合で転居するまでは、こんな雰囲気の山間の村に住んでいた」
「そうなんだ。あ、じゃあもしかして昔は田んぼとか畑の手伝いをしてたとか?」
「うん。小さいから大した手伝いはできなかったけど」
「そういや、何育ててたんだ? 米とかか」
「主食になる米やさつま芋に、あとはニンジンとか白菜とか…割と色々な種類を育てたよ。水の綺麗な場所だったから、根菜類が多かったかな」
「え? さつまいもって主食なの?」
じゃがいもと違って甘いイメージが先行したのだろう。サトルの話にディランは不思議そうに目を丸くした。
「確かに甘味があるけど、米が足りない時やあとはオヤツにも使ったよ。お米と炊いても美味しいしね」
「さつまいもをお米と炊く? どんなのだろ」
「気になるなら、今度作ってくるよ。お弁当にでもして」
「ホント? ありがとう。楽しみだよ」
ディランは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そういや、琳子はずっと都会育ちなのか? あ、いや。深い意味はないんだが。ディランは山間の村育ちじゃないみたいだしな」
「僕の場合は領内に村もあったし、わりと地方の田舎で田園や畑もあったけど、こういう感じとは違ったって話だよ。なんていうか、日本だと空気が違うよね」
「私も…物心ついた頃から今の家で暮らしていたわ。祖父母の家も近くにあったから、あまりこうした場所にはきたことがなくて」
「僕も都育ちでこういった田舎で過ごしたことはなかったな。だから、まあ。着いたら、辺りを散策するのもいいかもな」
「そうね。…それは楽しそうだわ」
日向の提案に琳子は頑なっていた表情を崩し嬉しげに笑った。
「なら、よかった」
そんな琳子を見て日向はやや口元を綻ばせ、二人の様子を見ていたサトルは密かに苦笑した。
「サトル君サトル君…」
助手席に座るディランが声をかけてきたのでサトルも身を乗り出した。
「どうしたの?」
「僕達も着いたら散策しよ? あ、四人の方がいいのかな」
「もちろんよ。一緒に回りましょう」
「いいの?」
と日向に尋ねた。
「ああ、構わない」
「…そう言ってくれるなら、いいか」
肩を竦め苦笑した。
「日向君はそういうトコ、押しが足りないよね」
「なっ」
「だって僕ならサトル君と二人きりになりたいもの。チャンスがあれば、すかさず狙っていくのに」
「…ディランは、確かにそうだよね」
懐かしい過去を思い出しサトルは頬を赤らめた。
「あのな。四人で来てるんだ。そりゃ、みんなで行動することになるだろ。…それに、その方が琳子もいいだろ」
「人数が多い方が楽しいわ。それに山奥だから、慣れない道は危ないもの」
「そうだねまた今度、一緒に行こう。ディラン」
「ふふ、じゃあ、また別の機会に」
 
 
年季を感じさせる古民家前で私たちはタクシーから降りた。
「立派な建物だね」
サトルの言葉の通り手入れが行き届いており、さほど建物も傷んではおらず広い庭には鶏の姿もあった。まるで田舎の祖母の家をそのまま具現化したかのような家。そこだけ何となく時間が止まっているかのような気配さえ漂っており、私はふとあの学園と似ていると思ってしまった。
呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばしそのまま動きを止めると私は振り返り三人を見た。
「…お願いがあるの」
「お願い?」
首を傾げるディランとは対照的に、日向は神妙な表情を浮かべた。
「何かあるのか?」
「私と彼女の話が終わるまで、口出しはしないで欲しいの」
そして言いにくそうに日向とディランを見た。
「事前に友人を連れて行くとは伝えていないの。況してや…例の事件に関わっているなら、異性を連れてくるとは言い辛くて」
「あ、そっか。じゃ、ここで待っていようか?」
「は?!」
ディランの提案に日向は思わず、目を見開いた。
「でも案外いい提案だね」
考え込んでいたサトルも頷き同調した。
「…だけど…ここまで巻き込んでおいて…」
「いや、ここまで来てそれはないだろ。それこそ何の為にここまで来たと」
「だよね~。ね、琳子ちゃん、その人、琳子ちゃんの家族構成は知ってて、面識はあるんだよね?」
「知っている筈よ」
「だろうね。親戚関係までは?」
「…事件の後、うるさく報道されていたから知っているんじゃないかしら」
「難しいか。で、相手の土俵に立つ必要はないけど、琳子ちゃんはどうしたいの?」
「少し離れてついていけばいいだろ。琳子とサトルだけが応対して何かあってからじゃ、遅い」
こればかりは譲れないと日向が言葉を遮った。
「…琳子、忘れないで欲しい。ぼくらは勝手についてきたんだ。巻き込んで、じゃない。自分から率先して巻き込まれたんだ。だからぼくらに気遣う必要はない。況してやここは日本だから、そこまで危険な状況になるとは思わない」
気遣うように私の顔を覗き込むサトル。その姿はまるで可愛らしい忠犬のようで、ただひたすら私を思いやる姿勢に胸を打たれた。
「…不愉快な話題になると思うわ。だから、みんながいてくれた方が私も…冷静でいられる気がする」
「じゃ、決まり。みんなで行こう。大丈夫だよ、琳子ちゃん。僕、不愉快な話題は慣れてるから。遠慮はいらないよ」
「それはどういう意味だよ…」
呆れた顔でサトルが呟いた。
「琳子ちゃんは大事な友人だからね。あまり気にする必要はないってこと。それに、ちょっとは気を抜かないとね。会う前から張り詰め過ぎはダメだよ」
こんな時だというのに、ディランは悪戯っぽく笑みを浮かべてみせた。二人の微笑ましいやりとりに私は頑なっていた頬を緩めると玄関のチャイムを鳴らした。
 
家の雰囲気によく似合った人の良さそうな老婆は四人にお茶と羊羹を出すと、申し訳なさそうに肩を落とした。
「ちょっと待ってやってねぇ。お友だちがきたっていうのにあの子は、準備に時間かかってぇ」
「あ、いえ、お構いなく」
先程までの勢いはどこへやら、完全に借りてきた猫状態の日向はきっちりと正座をし、落ち着かない様子だった。
「僕達、少し早く来ちゃったんで、ゆっくり準備してもらってください」
ディランは正座はしているものの、どこかリラックスした様子でふわりと笑みを浮かべてみせた。
「あらまぁ、まぁ」
嬉しそうにコロコロ笑う老婆の向こうで静かに襖が僅かに開いた。
「ばーちゃん、どっか行ってよ」
薄暗い隣室から声だけが聞こえてきた。神経質そうで強張った声。途端に私の記憶は時を遡りあの頃の自分が声を大にして叫んできた。
『―――みんな大っ嫌いっ!』
小さな身体を更に小さく縮めて硬くして。これ以上傷つかないように。自分に向けられる悪意や好奇心…様々な不快なものから守れるように。ベッドの中でシーツに包まり過ごしていた私。
この家に本来ならある筈のテレビも電話機も。外部と繋がるものを一切合財取り払った自分だけの安全地帯。
「ちよちゃん、お友だちにご挨拶してねぇ」
言いながら席を外す老婆の気配で我に返った。
「……由良川琳子だけが来るんだと思っていたから」
やはり襖の影に隠れたまま、ちよちゃんと呼ばれた少女は呟いた。
「…そうね。私も一人で行くとは伝えていなかったけれど」
応えながら私は心の中で呟いた。貴方は私と同じ。部屋から一歩も出られずに、事件の後も前に進めないまま月日だけが過ぎていった取り残された子ども。
「はじめまして。えっと、ちよちゃんだっけ。僕はディラン。よろしくね」
彼女を挑発するつもりなのか、ディランは私の最初のお願いを破りふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「ど、どうして男子もいるのよっ!?」
ディランの声を聞き驚いたように叫んだ。
「まさか、そこの二人も?!」
「…サトルは女性よ」
小さく息を吐き私は気持ちを抑えきれずに冷ややかに答えた。
「悪いけれど、あまり私の大切な友人に失礼を働かないでもらえるかしら。わざわざ貴方のお願いを叶えてここまで来たのよ?」
「……」
「ちょっと待て。今の流れだとまさか僕まで女だと思われていたのか」
不服そうに日向がぼやく。
「日向君、そこは今言うとこじゃないから。ちよちゃんがお話出来ないでしょ」
「…ぼくら、やっぱり席を外そうか?」
サトルが気遣うように尋ねてくれたけれど、私は今自分の中で渦巻いている複雑な感情をコントロールできず黙り込んだ。
「…男がいて話が出来ないんなら、僕とディランが席を外す。まあ、あまり遠くには行かないがな。サトルは同性なんだから、いても問題はないだろう?」
これでいいだろとばかりに襖に隠れる彼女の方を見た。
「日向君、顔が怖いってば。大丈夫だよ~、ちよちゃん。この人、怖そうに見えて全然怖くないから。ほら、犬だって小型犬の方がよく吠えるけど、可愛いものでしょ?」
「あのな」
「…信じられない」
襖の影から絞り出すように彼女は声を上げた。攻撃的で無意味で幼稚な反撃。
「あんな目にあっていても、懲りずに楽しく遊べるのね。…私、私なんて、私…っ」
言いながら涙ぐんだらしく声が上擦った。
「私も被害者なのに…っこんな山奥で引きこもっている、のに…っどうして、由良川琳子は…っ今もキラキラしたまま…っ。被害届は出せないって言われるし、みんなに知られたらもう死にたい…」
―――キラキラ…キラキラ…そう。まだ他人には私はそういう風に見られているのね。
まったくの赤の他人から受けた評価に私は場違いにも肩の力を抜いた。今はとにかくこの不快な案件をさっさと片付けて、何もかもを忘れて。もう一度。もう一度うまく、やり直すばかり。
「…それで、どうして私に手紙を送ったの?」
「…何か、理由があるんだよね?」
カッとなって今にも反論しようとした日向を制して、ディランが穏やかな表情で尋ねた。
「……戻りたい…」
襖の向こうで泣き崩れながら答えた。
「戻りたい?」
「あんな目に遭う前の私に、戻りたい、の…っ! お願い、教えてよ! どうやれば戻れるの?!」
もしもその質問に正しく答えられる人がいたのなら。私はきっとその人を神とでも呼んでいたと思う。
「戻れる訳がないじゃない。なかった事にできる筈がないんだから」
気がつけば腹の底から怒りが湧いていた。私が、翠が。どれだけ努力を重ね今の私たちになったのか。その過程や苦労を語ればきっと夜が明けてしまう。世間は私たちをただの被害者として見なかった。憶測や噂、妬みや恨み。日頃の鬱憤を晴らす為の的にされた私たち。
今でも外で見知らぬ誰かに声をかけられるのが怖い。少しでもあの男に似ていると思ってしまえば、私は冷静さを失い動けなくなる。憎い。憎い。とてつもなく憎いあの男。だけど自分に一切の非がないのかと自問してみれば、決して首を縦に振る事もできない。
 何て忌まわしい過去。消し去りたい思い出を、私は未だ顔も見せない彼女に重ねて切り捨てた。
「期待させたならごめんなさいね? でも、何も努力もせずに希望に縋るなんて私にはできないわ」
微笑みさえ浮かべ、彼女の一縷の希望を目の前で踏みにじる。それはかつて私たちが受けた仕打ちだから。歪なりにも私たちは家族だった。私たちなりの家族としての在り方を模索していた矢先に起きたあの事件。週刊誌やワイドショーを賑わす様々な憶測と妄想の中に紛れ込まれた真実。
誌面に出る前に何とか止める事ができたそれは、その当時。私さえ知らなかった家族の事実が記されていた。
―――兄妹間に血の繋がりなど一切ない年頃の子どもを育てる狂ったその母性。
事件を思い出してから自分なりに調べ、そしてネットの片隅にそんな陳腐なタイトルを目にした時は本当に笑ってしまった。だけど同時に許せなかった。もうこれ以上、私が傷つけてしまった彼の人生を滅茶苦茶にしないで欲しい。私たちが築き上げてきた家族という理想。噂の尽きない奔放な母を支える優秀な兄妹という、世間から身を守る為の盾を奪わないで。
「そんな…由良川琳子からしたら、そんなの」
「お茶を頂いたら帰りましょうか」
話を遮り私は三人に微笑みかけた。さすがにもう限界が近くなってきた。彼女との会話は脳を刺激して色々な事を思い出させる。
「せっかく来たんだから、観光する時間も取らなくちゃもったいないわ」
硬くなった筋肉を必死に動かし私は自然な笑顔を心掛けた。
「…そうだね。下らない話に付き合う必要はない」
「…というか、コイツが何か知ってんのか? 会話もままならない状態なんだが」
「だいたい琳子ちゃんに夢見過ぎでしょ。今の琳子ちゃんが昔と変わらずキラキラ輝いてみえるなんて、目が曇り過ぎ。そう見えるよう努力を重ねてきてる琳子ちゃんに失礼だと思わない? 君は何の努力もしてきてないから、残念で可哀想な女の子だけどね。自分に酔うのもいい加減にしたら?」
「あ、あんたたちには関係ないでしょ!」
「…二人共、気持ちはわかるけど最初の約束を忘れたのか?」
それまで長く沈黙を守っていたサトルが溜息を漏らした。
「話す価値もない相手に、時間を割かなくていいよ」
「…………悪い」
ぐっと堪えると日向は立ち上がった。
「帰るか。話が出来ないんなら意味がない」
立ち上がろうとして私は襖の向こうに散乱する紙に気づいた。
―――孤独な学園の中で本に囲まれ暮らしていた彼の姿が一瞬脳裏に蘇る。消えそうになったその面影を追いかけて、私は気がつけば勢いよく襖を開けていた。
「!?」
襖を開けた途端に風が入り込み、狭い部屋の中に紙ふぶきを巻き起こした。
宙に舞う白い紙が光を反射して眩しい。
美しい学園の至る所に飾られていた懐かしい薔薇の香りが鼻孔をくすぐり、談話室の暖炉では薪が燃える音が聞こえてきた。嵌め殺しの窓辺に腰をかけて本を読む彼。凍りついた窓の向こうから注ぐ光は、雪に反射してひどく眩しげに見えた。近くで本を読んでいた私に気づくと、彼は優しい表情を浮かべ名前を呼んでくれた。
『―――リン…』
 「由良川琳子っ?!」
 記憶の中にあるあの頃の彼女とはまったく似ていないやつれた姿。乱雑に短く切り揃えられた髪に身体の線を隠すかのような大きめの服。私を見上げるその瞳は赤く充血し、絶えず涙を流し続けていた。
 「………」
 白昼夢…? 自問して私は目の前の現実から咄嗟に逃避していたのだろうと肩を落とし視線を足元に向けた。
「………これは…」
 足元に落ちていた一枚を拾い私は呆然とした。
 そこには「謝る」「相談する」「お兄ちゃんの事」とどれも一生懸命書き留めた彼女の想いが書かれていた。
 ざわめき怒りさえ抱いていた先程までの尖った心がゆっくりと凪いでいくのがわかる。そうだった。あの頃の私もそうだったから。沢山伝えたい言葉があるのに、それを口にしようとすると急に何もかもうまくいかなくなる。ごめんなさい、も、ありがとうも。日頃当たり前のように使っていた単語が私の中で消えてしまうのだ。
 「……異性が、怖い?」
 今、目の前にいる少女は。誰にも救いの手を差し伸べてもらえずに迷子になったまま成長してしまったのだろう。学園と言う温かな檻の中で事件を思い出した私とは違い、私にはわからない苦しみと孤独を味わってきた結果が彼女なんだ。
「あ、そっか。ごめんね、ちよちゃん。初対面なのにきつく言っちゃって。しかも知らない男の人に言われて怖かったよね。ごめんね。怖くないよ~、えとちょっと離れるね」
先程までの態度とは一変し、ディランはふわりと笑みを浮かべてみせた。
「ほら、日向君もこっち」
「………分かった」
まだ言い足りない表情を浮かべていたが、日向も渋々距離をとった。
小さな声で話せばきっと私たちの間でしか聞き取れないこの距離感を保ち、私は彼女の目を優しく見詰め返した。きっと彼なら門前で打ち震える迷子を相手に、こうやって心を開かせただろう。
「……って…」
「?」
「……あ、あんな手紙…出してごめんって…言いたかったの…っ」
泣きじゃくりながらちよは話し出した。
「うっぐ…うぅ…あ、アイツの…判決、がでて…もっと怖くなった。おにぃちゃんが…由良川琳子と同じ学校になったって聞いて…話したかった…っうぅ、話を聞いて欲しくて、わた、私の…っ」
少し前に知ったあの事件の犯人に下された死刑判決。未だ刑は執行されておらず、彼は灰色の刑務所の中でその日をじっと待っている。
あの男の所為で人生を壊されたと言うのに。どうして今度はあの男を裁く為に死刑が行われるのに、こうも不安で心が落ち着かなくなってしまうのだろう。彼女の苦しみが手に取るようにわかってしまい、私はそっと痛みを訴える胸を押さえた。
ここに罪悪感がある限り。私はずっと変われない気がする。
「みんなが、言うの。わた、私は…ちょっと悪戯されただけで、由良川琳子は家族を殺されたんだって。お前はそこまで酷い被害にあっていないのに、どうしてそれなのに、家から出られないようになるんだ。社会から逃げるんだって…ねぇ? 私は、そんなに…っ我慢しなきゃいけないの? 私の傷と由良川琳子の傷はそんなに違うの?」
「―――傷の舐め合いは、したくないわ」
 驚き涙を止めるちよを見詰め私は心の中でそうだった、と呟いた。
 「傷口なんて一生見なくたって生きていけるでしょ。現実を直視できなくても死ぬよりずっとマシだわ」
 悪夢にうなされ発狂しそうになる日々を過ごした中で、母はいつも私にそう語りかけていた。
「貴方の傷は、貴方にしかわからない。だから賢く立ち回りなさい。その傷跡を誤魔化すのも、悲劇の小物に仕立てるのもすべては貴方次第」
あの時はわからなかった言葉の意味。ただ幼い私には母から突き放されていくようにも聞こえて、無情な対応に更に涙を流したりもした。
「けれど生きている限り傷には瘡蓋できるわ。その下には新しく生まれた美しい貴方がいる」
―――負けないで。多分、母はそう言いたかったのだと思った。
 
 
タクシーを呼んだが時間がかかるので、琳子たちは周辺を探索することにした。
「やっぱり長閑でいいところだね」
気に入った様子でサトルがディランに笑いかけた。
「そうだね。あ、みんなで観光するんだっけ。どこに行こうか」
肩の力が抜けたらしくディランも笑みを浮かべた。
「タクシーがくるまでだから…三十分くらいかな」
チラッと琳子の様子を見てからサトルはディランに提案した。
「そこの河原に行ってみようか? 岩もあるし、休むにちょうどいいよ」
「あ、いいね。行こう」
四人は土手を降りて川原へ向かった。山間から流れる川は美しく澄み魚の姿も見られた。
「夏場なら水遊びができるね」
水に手を入れながらサトルが嬉しげに呟いた。  
「あ、いいなあ。今度夏場に来てみたいね」
水遊びにはまだ早く、水が冷た過ぎる。少し残念そうにディランも笑みを浮かべた。
「…あー、その琳子。少しいいか?」
ディランとサトルの様子を眺めつつ、日向は琳子に話しかけた。
「………」
心ここにあらずと言った感じでぼんやりと二人を眺めていた琳子は、ハッと我に返り慌てて振り向いた。
「え?」
「……大丈夫か?」
普段の彼女とはまるで違う様子に日向は目を丸くし、日向は近くの岩場を指した。
「とにかくそこの岩場にでも座って休んでくれ。こちらの用件は後でいい」
「大袈裟ね」
つい苦笑しながらも琳子は勧められるままに腰をかけた。
「私は大丈夫」
そして日向を安心させるように微笑んだ。
「…そうか」
何と言えばいいのかとやや言い淀んだ後、日向は頭を下げた。
「…先程は悪かった。危うくせっかくの機会を台無しにするところだった。謝って済む話ではないが、今後約束を違えることのないよう肝に銘じる。すまない」
「そんな…全然、気にしていなかったわ。…むしろ…私こそみっともないところを見せてしまって。―――気が緩んでいたのね」
一点を見詰め表情を硬くすると呟いた。
「本当に…私はまだまだ未熟で……」
「そんな事はない。あの場で最後まで、琳子は気丈にやっていた。むしろこちらが心配になるくらい…」
そこまで話して、日向は息を吐いた。
「…あの場では水を差すと思って言わなかったが、あれで良かったのか?」
「………」
悩むように俯き黙り込んだ。
「多分、あの時は…あれが一番マストな対応だったと思うわ」
答えてから首を振り苦笑した。
「でも、最初…貴方たちを馬鹿にするような事を言われて、気持ちを抑えきれなかったわ。こんな失態を見せちゃうなんて…ごめんなさい」
「気にしてはいない。あんな誤解されるとは思いもしなかったが。むしろ琳子には感謝している。…それより、あの場では適切な発言だったかもしれないが、あの、ちよに言った言葉、琳子の中では整理がついているのか?」
日向の質問に答えられず琳子は再びぼんやりと流れる川を見詰めた。
「……傷の舐め合いはしたくないって言うのは本当よ。なかった事にもできないし、私は一生これを抱えて生きていかなくちゃいけない。だけど彼女を応援したいって言うのは嘘。本当の事を言えば興味がないの。彼女が負った傷も、これから辿る未来にも」
クスッとどこか自虐的に笑い琳子は日向を見た。
「最初は彼女の話を親身に聞いて応援してあげて、波風立てずにこの件を終わらせるつもりだった。必要なら自助グループでも紹介して。そうすれば、もう誰も私を責めない。今更蒸し返さないだろうって」
長い溜息を漏らし肩を竦めた。
「下心ありきの親切よ。私って、性格悪いでしょう?」
「いや。したたかでいいんじゃないか。生きる為に必要なものだ。というか、身近に輪をかけて性悪な友人がいるんでな。多少のことで、そう簡単に揺らぎはしない」
日向は小さく口角を上げた。
「……!」
一瞬驚いた表情を浮かべたがディランを見て吹き出した。
「ふふ…」
「だろ?」
日向もまた吹き出したところで、当の本人が気づいたらしく、川辺からこちらへと振り返った。
「ちょっと、二人とも何の話をしてるの~?」
「何でもないわ」
笑いながら琳子は手を振った。
「そう? じゃ、気が向いたら、こっちに来てね。琳子ちゃんと話したいってサトル君が寂しがってるから」
「あら、二人のお邪魔をしていいのかしら?」
「四人で来てるからね。気が向いたらでいいよ」
「…サトル!」
琳子の呼びかけでサトルはゆっくりと振り向いた。
「心配かけて、ごめんなさい。少し、自己嫌悪していたの」
「…大丈夫なら、いいよ」
小さく溜息を漏らしサトルはおもむろに腕を組んだ。
「あの頭の足りない馬鹿娘に一泡吹かせたいと思うなら、遠慮なく相談してくれたら尚いいね。あの席では控えたけど、ぼく自身。我慢できない程度には怒っているから」
「そうだよね。普段なら、あの場で一番激怒したであろうサトル君がぐっと堪えてたんだよね。琳子ちゃんの事、本当によく考えてたって思うよ」
「……さすがに子どもではないんだ。場を弁える」
ムゥと唇を尖らせたが再び琳子を見た。
「そんな事より、馬鹿娘以上に怒っているのは琳子に対してだ」
「私?」
「あんな奴を気遣って最後には応援までしていたけど、さすがにそれが本音だと思えるほどぼくは鈍くない。確かに同情の余地はあるかも知れないけど、琳子はもっと…ぼくらの目を気になんかしないで怒ったらよかったんだ」
「………」
「そうだよね。琳子ちゃんはもっと素直な感情を出したらよかったって僕も思うよ。でもま、琳子ちゃんは彼女には弱みを見せたくなかったのかなとも思ったんだよね。僕ならあの場で彼女と同じなんて死んでも嫌だし。…でもね、今なら、素直になってもいいんじゃない?」
 
 
「…え…」
戸惑うような本音が漏れて私は思わず視線を落とした。
「……でも…」
口にしてから急に複雑な感情が湧き上がり手で口元を覆った。
「…無理はするな。こちらに遠慮する必要はない」
遠慮と表現されてしまい、私は余計に返答に困りながらも応えた。
「…正直に言って…戸惑っているの。今まで誰も…うまく誤魔化せてきたから…。親しい人でも、ある程度距離を置いて。だけどそれには気づかせずにきたわ」
私たち家族へ向けられる様々な好奇心と偽善に満ちた眼差しから身を守る術だった。翠以上とはいかずも、それにはある程度の自信もあり見破られる経験はなかった。
「…どうして、わかったの?」
「サトルほどじゃないかもしれないが、琳子を見てるからな。他の誰かの意見で判断せず、自分の目で。それに…その、いい友人でいたいと思っているしな」
そこまで話して日向は気まずい様子で視線を逸らした。
「…悪い。今のはサトルに聞いたんだったか?」
どこまでも控えめな彼の対応に、私は笑いながら首を振った。
最初は巻き込んでしまったと思っていたこんな面倒な私の問題。けれど彼らの中に今まで向けられてきたような好奇心や一方的な妄想なんて一切存在しない。何か利益を求めるでもなく、対等に。相手を思いやり助けようとしてくれるその心にきっと嘘はないのだろう。
「こんな私でよければ、是非仲のいいお友だちになってほしいわ」
多分これは、私が初めて心からそうなりたいと思えた関係。居心地のいいこの繋がりが永遠に続けばいいと願い、計算高くて汚い私の一面を見ても嫌いだと言わずにいてくれた彼らとは―――生涯の友だちでありたかった。
「…ああ。勿論。こちらこそよろしく頼む」
「貴方たち二人も…少しばかり性格に難ありな私だけど、仲良くしてくれるかしら?」
「いい性格しているよ、本当に。だから面白くて楽しい。…もっと難ありな人物ともうまく付き合えているから、その点は安心したらいいよ」
「なあに、僕のこと?  まあね、自覚はしてるけどね。琳子ちゃんの性格くらいなら可愛いものだし、仲良くしない理由にはならないよ。琳子ちゃんと友人でいるの楽しいしね」
ディランもふわりと笑みを浮かべてみせた。
「じゃ、気分を変えて楽しもう? あっちの川辺で魚が泳いでいるのを見つけたんだ。誰か釣り具持ってない?」
「あのな」
「釣り道具はないけど、いつかやってみたいわね。釣りの経験がないの」
「ぼくは手掴みで魚取りをしていたなぁ」
「手掴み?  えっ、どうやって獲るの? やってみたい」
手掴みなら道具がなくても出来そうだとディランは目を輝かせた。
「魚はヌルヌルしているから軍手があるといいんだけど、岩の下で休んでいる魚を狙うんだ。二人組になって罠に追い詰めたり、とかね」  
「罠ってどんなの?」
「網を地面に隠しておいたり、囲いをつくって袋小路にしたりだね」
「網はないけど、囲いなら作れるかも。そこらの石を集めたらどうかな」
すっかりやる気になってディランは靴と靴下を脱ぐとズボンの裾を捲った。
「いいね、手伝うよ」
サトルもズボンの裾を捲り川に入っていった。
「冷たくないの?」
「大丈夫だよ」
「結構気持ちいいよ。ほら、日向君も」
「あ、ああ」
それなら私もと、スカートの裾を持つと川に入った。
小粒程度の大きさから拳程度の大きさまで色々な石が転がる川底はキンッとよく冷えていて、程よく火照っていた身体を冷やしてくれた。川のせせらぎと光の反射がとても美しく心を穏やかにさせてくれる。
こんな風に水遊びに興じたのはいったいいつぶりだろう。むかしはよく近所のプールに遊びに行っていたけれど、もう随分と過去のように感じてしまった。
「あ、魚」
「どこどこ?」
ディランと囲いを作っていたサトルが顔を上げた。
「ほら、そこよ。日向の足元に…」
「日向君、こっちに追い込んで!」
「あ、ああ」
日向は足元の水に手を浸すと魚を追いやった。慣れていないので、魚は真っ直ぐに囲いには向かわず、琳子の足元へと泳いだ。
「そっちに追い込むわね」
両手を使い魚を誘導すると次はうまく囲いに入り込んだ。
「やったね!」
「一旦、囲いを閉じるね」
逃げないように素早く退路を石で塞ぐとディランは笑みを浮かべた。
「ふふ、案外何もなくても捕まえられるね」
「そうだね。また今度、火を起こせるよう準備して、バーベキューとかやりたいね」
「わあ、いいね、それ。今度みんなでやろう」
サトルの提案にディランは笑みを浮かべた。
三人が夏休みの帰省の予定を話し合っている間、私はふと誰かの視線を感じ顔を上げた。するとガードレールの向こうで意外な人物が私に向かって必死に手を振っているのが見えた。
「そうだね。ふふ、楽しみだよ」
ふわりと笑みを浮かべるディランを一瞥し、私は一足先に川から出て靴を履いた。
「少し喉が渇いたからあそこの自販機で飲み物を買ってくるわね。何かリクエストはある?」
「ありがとう、ならぼくはお茶を」
「じゃ、コーヒーをお願い」
「僕もお茶を頼む。持てるか?」
「大丈夫よ」
 気遣う彼に手を振ると私は自販機に向かって走り出した。
 
 自販機の影に隠れるようにして私を待っていたのは、ちよだった。私が一人できた事を確認すると、それまでの強張っていた表情をやや緩めて呟いた。
 「ど…どうしても、伝えなきゃいけないと、思っていて…」
 暗い表情で俯く彼女が今、どれだけの勇気を振り絞っているか。察して余りあると思い私は頷いた。
 「貴方のお兄さんの件…かしら」
 「…知って、いたの?」
 驚き目を見開く彼女に再び頷いて返すと、私は溜息を漏らし答えた。
 「それはもう必死に探したわ。古いアカウントを探して見覚えのある景色の投稿写真から身元を割り出して」
 一体誰が翠と私が血の繋がらない兄妹だと見抜き、その情報をマスコミに売り出したのか。確かに外見は似ていない兄妹だけど、それも異父兄妹でそれぞれ父親と母親に似ていると説明すればある程度納得されてきた答えだった。余計な憶測を排除させる為に私たちは完璧な優等生を演じてきたのだから。
 つまり翠でさえ把握しきれていない所に小さな綻びがあったのだろう。
 決定的な証拠となる何か。例えば、翠の実の母親が名乗り出たとか―――
 「空港で全身緑色の服を着た女性と、翠が手を振り合っているムービーを見つけた時は思わず笑っちゃったわ」
 それは渡独する際の映像だった。どういう経緯で翠が実の母親から引き離されたのかは知らないけれど、全身緑色の女性相手に怯まない彼の様子から察するに事前に何らかのコンタクトが彼らの間であったのだろう。
 撮影者がたまたま撮れた映像とは言え、意図しなければわざわざ空港まで出向く筈もない。ましてや投稿者が恐らく私たちと同じ区内に住む学生だったならば、それは翠と何らかの因縁を持つ人物だと予想できる。
 「ごめん、…っさい。本当は、あの時…一緒に手紙を届けに行った時…お兄ちゃんも謝るつもりだった」
 頭を下げるとちよは、乾いたコンクリートに涙を零しながら謝罪し始めた。
 「お兄ちゃんは…本当に頭がよくて、家族の自慢だったの。でも翠くんにはどうしても勝てないって…。あの事件で私も被害者だったのに…っ由良川兄妹ばかりが取り沙汰されて…っお兄ちゃんは、悔しかったって言っていた」
 「…それは貴方のお兄さんに言って貰わなければ意味がない謝罪よ」
 泣きじゃくる彼女の背中にじんわりと汗が滲んでいた。事件以来祖父母宅にまるで隔離されるようにして暮らしていた彼女が、こうして私を追いかけ出てきただけでも十分に誠意ある対応に思えた。
 「だから貴方は笑っていて」
 そっと俯いたまま上げようとしない顔に手を添えて、改めて見詰めるその瞳には許しを期待する眼差しがあった。
 無意味な罪悪感に押し潰されそうになる気持ち―――誰かに赦して欲しくて縋ってしまいたくなる。
 「きっと笑っていた方が、とても綺麗だわ」
 私もいつか、そんな自分自身を赦したい。
 初めて見せてくれた彼女の笑顔を眩しい想いで眺めながら、願ってしまった。
 
 それから私たちは山を下りると観光地を見て回った。
「見て、サトル。温泉卵が売っているわ」
土産屋を回りながら歩くうちに気になって買った土産物が増えていく。そのほとんどを後ろからついてきてくれる二人に預けながら、私とサトルは店先に並ぶ物珍しい商品に夢中になった。
「温泉街って風情があるね」
「本当に。是非浴衣を着て回ってみたいわね」
湯煙が景色を曇らせて非日常世界のように辺りを彩る。浴衣姿で歩く観光客たちの姿が目立ち、自然と心は浮き立った。週末だけあって家族連れが多いけれど、私たちのような学生風の旅行客の姿も見受けられた。傍から見れば男女二人ずつの組み合わせから、きっと仲のいい友だちカップルにでも見られているかもしれない。
「わあ、いいね。サトル君の浴衣姿見てみたい」
周囲の景観を楽しみつつも私たちの様子を笑顔で眺めていたディランが目を輝かせた。
「確かにきっと似合うわ。夏には着てちょうだいね」
「浴衣かぁ…持っていないから、この際だし買ってみようかな」
「ホント? じゃ、夏楽しみにしてるね」
「…あ、その、琳子は着ないのか?」
「私は…小さい頃に着て以来ね。多分母の浴衣があるけれど、着付けられないから」
「あ、なら、サトル君なら着付け出来るんじゃないかな?」
珍しい事に日向は笑顔でサトルを見た。
「……」
日向の反応にサトルは苦笑しつつも頷いた。
「着付けくらい教えるよ。日本の夏って浴衣が必須って聞いたよ」
「あら、いいの? ありがとう」
「よかったね、日向君。これで琳子ちゃんの浴衣姿、見られるよ?」
「ああ、まあ」
言葉では曖昧に濁しつつも、落ち着かない様子で視線を逸らした。
「琳子なら、似合うと思う…」
「嬉しいけど見る前からハードルを上げないでね」
母の大人びたデザインの浴衣が自分に似合うかわからず、私は肩を竦めて応えた。コーディネイト次第で私は本当に、実年齢プラス五歳くらいに見られてしまうのは密かな悩みだった。
「あ、いや、今のは、その気にしないでくれ」
「ところで、貴方たちも浴衣は持っているの?」
「ん~、ないんだよね。あ、サトル君、興味ある?」
「ディランの浴衣姿かぁ…日本じゃないと拝めない姿だよね。確かに興味はあるよ」
「ホント? なら、着ようかな。ただ、着付けとか分からないんだよね。日向君、分かる?」
「…僕の国の装束とは似て非なるものだが、日本の浴衣の方が簡素で着付けやすいな」
「じゃ、日向君にお願いすれば問題ないね」
「それなら夏祭りにでも着て行こうよ。せっかくだからみんな浴衣で」
「うわ、頑張ってスケジュール調整しないと」
「はは、受験生なのを忘れないようにしないとな」
珍しく日向は声に出して笑った。
「そう言えば翠さんも、来年には受験生だよね。進路は決まっているの?」
「…ドイツに元々留学していたから、また戻るつもりみたいよ」
「ドイツに?」
「中学から向こうに留学していて、去年学園に転入したの。だからもう一度戻るつもりみたいで」
「となると、琳子があの家で一人暮らし?」
「誰か親戚とか来る予定はないの」
「ないわ」
首を振り苦笑した。ジャックに兄妹はいないし母方の親戚とも葬儀後の遺産諸々のごたごたで、すっかり疎遠になっている。頼れる身内などいない状況は、どこまでも自由と責任が付きまとう。
「それに私もいつまで日本にいるかわらないから」
「えと、琳子ちゃんてメール・ヴィ学園以外だと海外に留学とかしてた事あるんだっけ?」
「えぇ、イギリスに二年と少しほど」
「なら、イギリスに留学するのか?」
それまで黙って聞いていた日向が私を見て尋ねてきた。
「…わからないけれど、行くなら英語圏ね。それに日本を離れるなら今の家をどうするか考えなくちゃいけないもの。売却するか、誰かに貸し出すか…」
あの家は正式に私が相続する事が決まっている。つまり現在は翠が居候状態となる。そういった面倒な問題もあり、進路を決める上で無視もできずいつも頭を悩ませてしまう。
「琳子の家を貸し出す…かぁ」
ふと思いついた様子でサトルが呟いた。
「もし貸し出すなら、ぼくに貸してくれない? 維持管理する代わりに格安で。都心にアクセスもいいし、希望大学の通学圏内だ」
「あ、それいいね。琳子ちゃんも帰りたくなったら、帰って来られるし」
「本当ね。考えておくわ」
確かにサトルが管理してくれるのなら気安く帰国後も使えるし、何よりも荒れた庭の手入れ問題が解決するし名案に思えた。何だったら翠が留学する一年後に、サトルと同居してしまえばどんなに楽しいだろうか。考えたら急にワクワクしてしまった。
「でも一人暮らしには広すぎるわよ?」
「なら、僕が遊びに行っても大丈夫だね。まあ、別の可能性も考えてみたいけど」
私の言葉にディランはふわりと笑みを浮かべたので私もまた、明言は避けてニコリと笑った。
「? …そう言えば日向は進路はどう考えているんだ?」
「…日本の大学を受験する予定だ。もともとそれも込みで日本に来たからな。言語や文化習慣の違いもあるし、慣れる意味もこめて早めに来たんだが、……まぁ、もう一つの目的の方もそれで区切りをつけたいと考えている」
「…そぅだったのね」
行方不明の友人の件を言っているのだろう。そうしてどんな結果が待っているかもわからないのに、精力的に行動に移せるところは素直に素晴らしいと思う。それに比べて私は彼の消息を探す事にひどく消極的だ。
必死に探してその結果、最悪の事実を知ってしまえば私はどうなるだろう。きっと無理だ。今の私には受け止めきれる自信もない。
「じゃあ、卒業後も日向とは顔を合わせそうだね。さすがに志望大学は被らないとは思うけど」
「まあ、そうなるだろうな」
サトルの軽口に日向は苦笑した。
「さすがに大学に通う頃までディランの世話になる訳にはいかないからな。どこか大学の近くに部屋を探すつもりだ」
「…希望の科は? 商業関係に進むの?」
「まあな。ただ視野は広げておきたいと考えてるから、まだ一つに絞ってはいないが。…琳子は何が学びたいんだ?」
「何も決めていなくて…。英文学を学びたいってくらいかしら」
「英文学? …悪い、あまり詳しくないんだが、どういった内容なんだ?」
日向からすると未知の領域のようで、目を丸くした。
「英米文学の総称よ。できたらイギリスの文学を学びたいけど…まだ、詳しくは決めていなくて。日本でも一応大学もあるから」
「ああ、日本にも大学があるのか。なら、イギリスで学ぶと国文学扱いになるんだろうな。文学は専門外だから、分からないことだらけだが。日本でも学べるなら日本の大学もみてみてもいいかもな」
「…日本は」
言葉を選ぶように黙り込み再び口を開いた。少し前の私ならここで、きっと本音を言うでもなく適当に言葉を繕ってやり過ごしただろう。
「こうしてもう一度日本に帰ってきたけれど、私にとって嫌な思い出も多過ぎて息が詰まるの」
申し訳なさ気に肩を竦めつつも、私は本当の気持ちを包み隠さずに伝えられる関係に喜びを感じていた。
「…悪い。無理に勧めるつもりはなくてだな。嫌な気持ちにさせてすまない」
「大丈夫よ。ただ…せっかく仲良くなったのに、みんなと離れるのは寂しくなるわね」
「…その時は離れる事になるがいつまでもとは限らない。残念ながら、大学卒業後は僕も日本を出るからな」
「そうなの。…結局みんな、いずれ離れ離れになるのね」
「僕はサトル君といられる道を模索するつもりだよ? 琳子ちゃんも気が向いたら、僕達のところに遊びにきたらいいよ」
「ふふ、ありがとう。…いつか結婚式に呼んでね」
「あ、いや…っそれは」
サトルが赤い顔をして手を振った。
「もちろん。まあ、まだ先の話になるけどね」
恋人の肩を抱くとディランはふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「そうなれたらいいけどさ…」
恥ずかしそうにはにかみながらも同調するサトルを眺めてから私は日向に話しかけた。
「その頃には私たちは、何をしているかしらね」
「残念ながら、まだ分からないな。希望とは違った道を歩いているかもしれない」
「そうね」
頷きつつも視線を遠くに向けた。気がつけば辺りは少しずつ夕焼け色に染まり始めていた。色々な事が起きた今日この一日が、多分忘れられない思い出に変わっていく。辿り着く未来に私たち四人の姿が揃っているのかわからない。
「それでも、自分が納得できる道を歩いていけたらいいわ」
「…そうだな。それがいい」
日向もまた遠くを見詰めた。
 
 
 家に帰るとリビングに翠の姿があった。彼も私に気づくと声をかけてくれた。
 「楽しかったか?」
 「えぇ。結衣子さんのお蔭で色々な有名店の食べ歩きもしてきたわ。だからお腹がいっぱいで、今日の晩御飯は私はスープだけにさせてね」
 と笑いながら私は持ち帰ったお土産の山をテーブルに並べた。
 そのほとんどがお持ち帰り用に包んでもらった特産品だった。
 「たまにはこうした出来合いの夕食もいいでしょう?」
 「まぁな」
 翠も苦笑し山菜を煮込んで作られたレトルトのスープを取り出し眺めた。
 「それは…」
 「母さんが好きそうだな。こういうの」
 私が言おうとした事を先回りされ、一瞬言葉を失った。けれどすぐに温かな感情が込み上げてきて私は素直に頷き返した。
 「二日酔い明けの晩には必ず食べていたわね。こんな感じの…お袋の味みたいなスープを」
 「そうだったな」
 祖母の手料理はあまり覚えていない。私たち子ども向けに工夫して作ってくれていたので、懐かしいお袋の味といった料理をほとんど食べた事がなかった。けれどもしかしたら、幼い母たちに祖母はこんなスープを作ってあげていたのかもしれない。
 あの母にも子ども時代があった。当たり前だけど、そんな風に想像できずまったくイメージができなかった。そう言えば伯父とは事件が起きるより前から疎遠で、ほとんど顔を合わせずにきた。まともに言葉を交わしたのも母の葬儀の時くらいで…
 「それで、納得いく結果は得られたのか」
 目の前に出されたコーヒーのいい香りでふと我に返り、私は翠の視線と向かい合った。どうやって知ったのか、今日の目的は既に筒抜けだったらしい。今更隠すのも馬鹿らしくなり答えた。
 「最後の仕上げがまだよ。けれど…少しは…」
 コーヒーの独特の苦味と豆の甘味を味わい、私は最後に見せてくれた彼女の笑顔を思い出した。
 「後でサイトのURLを送るわ。ドイツへ留学する際の空港での出来事を収めたムービーが確認できるの。明日学校で向井兄の方を問い詰めるから、サイトは好きに潰してくれていいわ」
 「いや。兄への対応もぼくがやろう。元はと言えば自らが撒いた種だ」
 「……」
 冷ややかな眼差しでコーヒーを楽しむ翠の横顔を一瞥し、私は小さく頷いた。
 「わかったわ」
 つい先ほどまで胸にあった確かなぬくもりが、いつの間にかすっかり冷え切ってしまったのを感じる。結局は私たちは一切の血の繋がりもない他人の寄せ合い。不祥事に対する対応の仕方も、利益優先の自己責任。
 その瞬間美味しかったコーヒーの味が、何故かただただ苦い飲み物にしか思えなくなった。
 「……謝るつもり…だった…」
 息を吐き出した瞬間、胸の奥にあった言葉が自然と漏れて出てしまった。呟いてから私は咄嗟に翠の顔を見たけれど、彼は驚いた様子で私を凝視していた。
 私は気まずい想いを隠すように結い上げていた髪の毛を解くと、ソファーに深く凭れ掛かった。
 「同機は単純なコンプレックスみたいよ。同じように事件の被害者になったのに、大々的に取り上げられるのは私たちばかり。それ以前から貴方に強い劣等感を抱いていたらしく、このチャンスに一矢報いるつもりで空港まで押しかけてきたみたい。たかがその程度の情報で何ができるのかって気もするけれど…当時最もホットな事件だったからリークする気になったみたいね」
 話している間、翠の方を見る事ができなかった。こんな風にお互いを気遣う言葉を一切排除した会話は、以前の私たちにとって当たり前だった。それなのに日本に帰ってからぎこちなくも家族になろうとし接してきた今、こうした自分たちの傷を抉る話題がこんなにも居心地を悪くするものに変わってしまったとは。
 「私がイギリスへ行く前に兄妹で一度家まできているの。そこで謝罪するつもりだったらしいけど…」
 「―――寛容な対応を希望しているのか? このぼくに?」
 失笑交じりに呟く翠の冷たい言葉。
 「私は…っ」
 顔を上げると翠は真っ直ぐ私を見詰めていた。そこには以前の私が最も恐れたあの、冷酷ささえ感じさせる眼差しがあった。
 「平穏な暮らしを維持したいなら、余計な同情は捨てるべきだ。これ以上…恥の上書きは御免だ」
 「……翠にとって、血の繋がりがない私と…お母さんと暮らしたという事実は、そんなに秘すべき事なのね」
 「………」
 翠は何も答えなかった。沈黙を肯定と受け取ると、私もまた無言のまま自分の部屋へ上がった。疲れ切った身体をベッドの上に放り投げると、目の奥が熱くなり涙が止まらなくなった。
 問いかけておいて既に答えは知っている。翠が私たちを嫌っている訳がない事を。むしろ何よりも大切な存在として扱ってくれていたのは、共に過ごした思い出からも十分理解できた。
 でも問題はそこじゃない。翠にとってもう私は、妹ではない。
 異父妹でもなく、完全に血の繋がりがない赤の他人。
 そんな私たちが家族と言うとっておきのドレスをまとうのは、本当はとんでもなく滑稽なのではないだろうか―――
 「…すけて…っセト―――っ」
 こんな事、サトルにだって言えやしない。でも誰かに聞いて欲しい。悩みを打ち明けたい。助けて欲しいと思った時、自然と求めてしまったのは…
 どこへ行ったのか行方もわからない、彼の名前だった。
 
 
 
 
 扉はチョコレートで天井はふんわり生クリームたっぷりのケーキ。壁は美味しいビスケットだなんて夢の固まりのようなお家。そこは魔女のお家。だけど大丈夫。私のお兄ちゃんはとっても賢いから。どうやったら正当防衛と認められるかわかっています。
 悪いことなんてなにもしていないけど、魔女と言うだけで…私たちは罪を背負わずに人を殺せるのです。
だからお兄ちゃんは、狂っていくのです。
 
 
                          (『迷走するグレーテル』より)
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