片足を失くした人魚

青海汪

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第四話 羨望を集める醜いアヒルの子

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桜の季節は一瞬で走り去り、新緑の葉が彩る木漏れ日が注ぐ心地よい季節がやってきた。
 世間は大型連休で賑わい各地は観光客で湧いているようだけれど、私はその分課題が沢山出て追われていた。それらをある程度片づけて迎えた本日。ようやく休みの日らしく外出の予定が組まれていた。
 鏡の前で私は服装を確認してみた。今日は電車に乗って買い物に行くので歩きやすいパンツスタイルにしたけれど、髪は下したままでいいのか。それともアップにした方が楽だろうか。久しぶりのお出かけは随伴する相手の問題は別として、楽しみでもある。芹沢さんと結衣子さんが進級祝いに贈ってくれたネックレスをつけると、鏡に映る私は無意識に頬を緩ませていた。
 すると部屋の扉をノックする音が響いた。
 「準備が出来たら行くぞ」
 「…わかったわ」
 小さく息を吸い込むと、私は扉を開け部屋の外で待っていた翠に笑いかけた。
 「行きましょう」
 行き先は少し離れたところにある大型デパート。最近芹沢さんや結衣子さんといった客人を招く機会が多いので、母の死をきっかけに大量に処分した食器の類を増やす事にしたのだ。
 本当は地元にも十分な品揃えを誇る店舗はいくつかる。けれど私も翠も、お互いにはっきりと明言はしないものの二人で近くの店を回ることに抵抗を感じていた。例の事件以降私たちは日本から離れて暮らしていた。そこで味わってしまった―――誰も事件のことを知らないという安心感が忘れられず、もう戻るつもりもなかったここでの生活を再び始めていることへの複雑な気持ちがそんな風な後ろめたさになっているのではないかと思っていた。
 事件の当時、翠は犯人を返り討ちにした英雄としてではなく―――凶悪性を秘めた危険な少年として見られ。私は母の自由奔放な異性関係をそのまま投影され、根も葉もない噂を飽きる程立てられた。そんな私たち兄妹が揃えば当時を知る人々はどんな想像するか、考えるまでもない。
 電車に乗り込むとやはり連休だけあり、車内はすし詰め状態だった。お互いに嫌でも身体を密着させてしまい痴漢の冤罪でも起きてしまいそうな環境はどう考えても仕方ない。
 それでも気が滅入る私に翠が声をかけ、手を引くと壁際の一角に導いた。そして自ら私の前に立つとさり気なく周囲から守ってくれた。
 以前の彼なら決して見せてくれなかった優しさに、私は頬がつい緩みそうになるのを必死に引き締めた。
 
 
ゴールデンウィークの中休み、ディランは約束より随分早くに待ち合わせ場所へと向かった。約束は十二時。一緒にお昼を食べて、それから二人で買い物の予定である。もちろん、相手はディランにとって最愛の人であるサトルだ。学校でも毎日のように会っているが、学年は違うし、部活も違うとなかなかまとまって二人で過ごすことは出来ない。
リンコや日向も交えて四人でお昼を食べるのも楽しいが、やっぱり恋人と二人きりで過ごすのは格別である。今日はサトルを独り占め。久々のデートに気持ちは浮き立ち、デパートに到着してから、彼女を待つ時間も苦ではなかった。
「サトル君、まだかな」
ゴールデンウィークということもあって、デパート前は人の波でごった返していた。サトルをすぐ見つけられ、かつ彼女からも分かりやすいようにと、ディランはデパート前で一際目立つ時計台の傍へと移動した。
「ディラン!」
人混みに押し潰されながらサトルは必死に手を振り恋人の元に駆け寄った。
「サトル君!」
人混みに流されないようにと彼女の手を握ると、ディランはサトルを引き寄せて、人の波から彼女を庇った。
「待たせてごめん。人がすごくてなかなか進めなかったんだ」
言いながらサトルは服の皺を伸ばして苦笑した。カジュアルでボーイッシュな装いだが、デートを意識してかロングスカートを穿いていた。
「お疲れ様。ああ、もう。今日のサトル君も可愛い」
「相変わらず大袈裟だなぁ」
恋人の甘い言葉にサトルはにかみながら笑った。
「そう? 今日は僕の為にオシャレしてくれたんでしょ? 大袈裟じゃなく、嬉しいよ」
ディランはふわりと笑みを浮かべた。
「……………」
反論できず頰を赤らめるとサトルはデパートを見上げた。
「と、とりあえず行こうかっ」
「ふふ、そうだね」
サトルの様子を愛しげに見つめると、歩けるように彼女と手を繋いだ。
「人も多いことだし、はぐれないようにしないとね」
「そ、そうだね…」
慣れないのかぎこちなく頷くと、離れないようにしっかりとディランの手を握った。
「じゃ、行こうか。まずはお昼からかな」
サトルの手を引いてデパートの中へと入った。
「そう言えば今日、日向はバイト?」
「うん。休みの日はここぞとばかりにバイトを入れてるみたいだよ。ゴールデンウィークは繁盛するしね。あ、でも、一日だけ休みを入れてたかな。何か予定があるみたいで」
「へぇ…。例の行方不明の友だちを探すのかな」
「かもね。日向君、そのあたりの話、全然話してくれないから、どこに行くかも知らないんだけど」
「だから、この前、日向君が話してくれたのは本当に珍しいんだよね」とディランは付け加えた。
「……琳子が、いたからかもね。お互いに探し人がいるし、通じ合うものがあるのかもしれない」
呟きサトルは少し寂しげに視線を落とした。
「サトル君、琳子ちゃんが話してくれなくて寂しい?」
心配げにディランは彼女の横顔を見つめた。
「………でも、ぼくも同じだから」
少し悩みながら言葉を選ぶと、サトルは辛そうに表情を歪め紡いだ。
「あの国でぼくが受けた仕打ちを、話せていない。…聞いて、失望されるのが怖いからだ」
と言ってディランを真っ直ぐ見上げた。
「いつか話すって言っていたね? …むかし、ぼくが大病を患った時のことを」
「…話して、くれるの…?」
いつか話してくれたらと思っていた。サトルの心の整理が必要なのことであるし、本当の意味で信頼してもらえていないような寂しさを感じていたが、話して欲しいと強要するつもりはなかった。きっとまだ時間が必要なのだろうと思いこんでいたものだから。
気づけば歩みは止まり、ディランはサトルの青い瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「…いいの?」
小さく頷くとサトルは視線を落とした。
「ちゃんと向き合わなくちゃいけないって思うんだ。こんなぼくとのことを、真剣に考えてくれているから。でも…楽しい話なんかじゃないよ」
最後に茶化すよう付け足すと、サトルは硬い笑顔を見せた。
「構わないよ。僕は別に楽しい話が聞きたいんじゃないし。ただね、サトル君の事が知りたいって思ってたから、話してくれる気になったのはすごく嬉しい」
どう言えばきちんと思っていることが彼女に伝わるのか。考えつつも気持ちを言葉に変えて、ディランは穏やかな笑みを浮かべた。
「ここは人が多いし、どこか静かなところに行こうか」
「うん…」
ディランの手を強く握り締め、サトルは頷いた。
 
 
元々デパートで買い物でという話だったが、デパートはどこに行っても人が多過ぎるということで、急遽、デパートを出て近くのカラオケへと二人で入った。ここなら、人の目を気にせず話せ尚且つ食事も出来る。ディランに誘われるがままに入ったが、サトルは交際を始めてから二人でカラオケにくることが初めてだと思った。元々音楽は嫌いではないものの歌うとなると、日本語の発音を意識してリズムに乗せるというのが苦手でクラスメイトたちから打ち上げでカラオケに呼ばれても何だかんだ理由をつけて断っていた。
「さあ、どうぞ。サトル君」
先に飲み物を注文するとディランは紳士らしくサトルに座るよう促した。
「あ、えっと…」
生まれて初めて入るカラオケボックスについ好奇心から周囲を見回しつつ腰を下ろした。
「初めて入るんだ。クラスの子が入り浸っているのは知っていたけど」
「実は僕もあんまり入ったことないんだよね。練習したら出来ると思うんだけど、日本の歌ってあんまり詳しくなくて」
同じような経験値らしくディランもまた苦笑した。
「はは、聴いたことはないけどディランなら上手く歌えそうだよね。ぼくは…その、音痴だから誘われてもずっと断ってたんだ」
「そうなんだ。ふふ、なら二人で練習したらいいね。サトル君の歌声、いつか聞いてみたいし」
「う…う、うん…ちょっと人前で練習できるレベルになるよう自主トレするよ…」
明後日の方向を見ながら気まずげに答えた。日本語の歌に限らず音楽系の才能に恵まれていないことはよく自覚しており、恋人の前で無意味に恥を晒したくなかった。
「そう? 僕はサトル君のどんな歌声でも聞いてみたいんだけどね」
サトルの反応にディランはクスクスと楽しそうに笑った。
「…で。話して、くれるんだよね…?」
小さく息を吐くとディランは改めてサトルを見つめた。恋人の眼差しを意識し、サトルは膝の上に両手を乗せるとゆっくりと深呼吸をして答えた。
「……むかし住んでいた未開発地域で、ある日突然子どもたちが大量に死んでいく奇病が流行ったんだ」
「奇病?」
「当時は原因もわからず、弱い子どもばかりがかかって死んでいったんだ。…次第に村の祈祷師たちは、悪魔の仕業だと言い出した。前世の行いが悪い者たちが悪魔に呪われていくんだと」
改めて言葉に変えてみると何とも馬鹿げた理由だと思えた。けれど当時の彼女にはそんな風に大人たちの言葉を疑い反論する気力も体力もなくただただ打ちのめされるばかりだった。
「父の仕事の都合でその地域に滞在していた頃だった。運悪くぼくもその病気にかかってしまった」
「…サトル、君も…?」
そうだろうと話の流れから思いはしたものの、いざ聞くとディランは目を見開かせた。
「それで…どう、なったの?」
「……酷い状態だった。病状もだけど、見た目も…皮膚が爛れて、身体が動かなくて…毎日血を吐いていた」
当時を思い出すのかサトルは膝の上で強く拳を握り締め続けた。
「祈祷師たちが前世の罪を償う祈祷をする間、本当にぼくは何か罪を犯したのかなと錯覚しそうだった」
「…………」
言葉にならない様子でディランはサトルをそっと抱きしめてくれた。そんな恋人のぬくもりに触れ、冷えていた身体にようやく灯りがともったような錯覚を抱く。
「サトル君は罪を犯してなんかいないよ」
「……けれど、あそこではそんな常識が通じなかった」
事態を重く見た政府が国際医療機関に要請し、大勢の医療者たちが救助に訪れた。
「だけどほとんどの親が、子どもの診察を拒んだ。そんな中、ぼくは治療を受けることができた。…原因は新種のウィルス。治療に三年かかり、そこからリハビリをずっと続けて…ようやく車椅子に乗れるまで回復して家に帰ってきたぼくを待っていたのは、迫害だった」
「…異教徒だとか、そういう扱いを受けたということ…?」
当時を思い出し小刻みに震えていたサトルをディランは労わるように彼女の背を優しく撫でた。
「だけど…何よりも辛かったのは、一緒に遊んだ友だちが、みんな…最期まで苦しんで死んでいって、それなのにおかしな宗教観から治療を拒みぼくらを迫害する連中が…堪らなく憎かった…っ。悪魔に乗り移られたと罵られ、家に火をつけられて、何度も殺されそうになって…っ」
退院したその日の夜、サトルの家は放火された。ベッドの上から身動きできず四方が燃え上がる様をただ眺めるだけだったサトルは、辛うじて父に助けられ逃げ出せた。闇夜を焦がし燃え上がる炎を見上げ、これまで信じられずにいたその事をただただ実感した。
生きている人間がこの世で最も恐ろしい存在であると―――
堪えていた涙を拭うとディランを見上げ笑いかけた。
「だから、仕返しをしてやるんだ」
「…ふふ、それでこそ、サトル君だよ」
濡れた頬に口付けるとディランはふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「…僕が復讐したい相手はもういないけど。サトル君の思いを晴らす為に、僕にも力を出させて? サトル君の思うとおりにしてくれて構わないから」
「…ありがとう、ディラン」
心から礼を述べるとサトルは一点を見つめた。
「ぼくの治療にあたってくれたスタッフに、日本人のドクターがいたんだ。彼はウィルス研究者でもあり、色々な事を治療の合間に教えてくれた。…あの地域にはまだ、治療方法が確立していない病気が沢山ある。それらを治す新薬を開発したら…彼奴らは、かつて蔑み殺そうとしていたぼくに、頭を下げずにはいられなくなる」
フッと息を吐きディランを見上げた。
「…医療従事者にあるまじき思想だとはわかっている。けれど、こればかりはぼくの性分だから仕方ない」
と意地悪く笑いかけた。
 
 
小さく笑みを浮かべるとディランはサトルを抱きしめ、唇を重ね合わせた。短い口付けを終えると、ディランもまた笑みを浮かべてみせた。
「………っ!?」
突然のキスにサトルは赤面すると口元を両手で隠し俯いた。
「…僕はね、サトル君がサトル君だから、愛おしく感じているんだよ? もちろん、自分の過去と心情を包み隠さず話してくれた今のサトル君を含めてね。……詳しくは聞いてなかったけど、サトル君の心情を僕はどこかで感じていたんだと思う。どう足掻いても果たせない、僕の内なる怒りや悲しみとか。その思いを果たせるサトル君にどうしようもなく惹かれるなんて、うまく伝わらないかもしれないけど」
脳裏に浮かぶ記憶を思い出し、ディランは苦笑した。
「……薬と毒は、表裏一体。ぼくの仕返しは…そう言う意味合いも含めていても?」
「もとから薬と毒は表裏一体でしょ。難病に苦しむ患者には薬でも、病気でもない人間が飲めば途端に昏倒する毒にも等しい薬なんてザラだろうしね。サトル君の受けた苦しみをなかったことになんて出来ない。どうしようもない怒りと憎しみを持つことは人として当然の感情だと思うよ」
「……」
そっとディランの手を握り返すと、静かな眼差しで彼を見詰めた。
「言いたくないなら…ぼくも聞かないよ。けれど、ディランの憎しみは…?」
「……サトル、君…」
触れられた手があたたかくて、ディランはサトルに話すうち、自分の中に燻る炎に気づいた。
「ごめん。サトル君を元気づけたい気持ちでいっぱいだったはずなのに、自分のことに重ねちゃってたみたいだね…。別に隠してるつもりはなかったんだけど、サトル君がせっかく話してくれたんだもの。……僕も話すよ。聞いて、くれる?」
こんなつもりではなかったはずなのに、ディランは迷子にでもなったような表情を浮かべた。
「ディランがぼくを理解してくれようとしているように、ぼくもディランを知りたい」
「うん…ありがとう」
サトルの言葉を噛みしめ、ディランは静かに口を開いた。
「サトル君が羨ましい、よ。僕の感情はどう足掻いても果たすことは出来ないから。少し話してたかな。僕ね、養子なんだよ。もとの家庭が貧しかったとか虐待があったとか、そんなことは一切なかったんだけど、上に兄二人、妹が一人いて。家族仲も悪くなかったと思う。…だけどね、親戚筋のあるご婦人が子供が欲しいと望んでて、じゃあどうぞって、猫の子じゃないんだけどね。僕が養子に出された」
なんと言えばいいか分からず、ディランは苦笑した。
「……っ」
切なさを覚えサトルはディランの手を強く握った。
「そこはね、まあ、いいんだけど」
今は既に納得がついているのか、自分でも確信はないものの、ディランは言葉を続けた。
「彼女はレーセ・カーナベル婦人っていって地元では有力な盟主でね。森と広大な丘と田畑を持つ城に住んでいた。代々、城を受けついできた城主は天涯孤独で、レーセは彼の妻だった。でも城主は早くに亡くなって、未亡人になったレーセが城主になった。ただね、二人の間に子供は生まれなかったんだって。跡取りを探していると言われた僕の両親はそれで僕を養子に出したんだけど、行ってみたら少し事情は違ってた。最初の数年はね、本当に跡取りとして英才教育を受けてね、厳しいけれど、彼女の指導には愛情も感じられてたし、僕なりに努力したよ。……でもね、真夜中よく声が聞こえて。子供の声が聞こえるなって思ってて。真夜中に部屋を出てはいけないって言われてたんだけど、僕は声の主を探しに行ってしまって」
その時のことを思い出すと、ディランの手が小さく震えた。
「ディラン…」
手を握るだけでは足りない気がして、サトルはディランを抱き締めた。
「無理に聞くつもりはないんだ…っ」
「………」
少しずつ震えが治っていくのを感じる。サトルの背に腕を回すとディランは静かに息を吐いた。
「サトル君がいるなら、大丈夫だから。話せる範囲で話すよ」
「…うん」
顔が近過ぎてサトルは恥ずかしげに視線を落とし頷いた。
「城の地下にはね、レーセが集めた身寄りのない子供たちがいたんだよ。レーセは愛を求めて子供たちを飼っていた。見目のいい子ばかりね。今思えば、養子に引き取られる前、よくレーセの視線が僕に向けられていたのに気づけばよかった。僕は最初からレーセの楽園を作る為に集められた子供たちの一人だったんだと思う。地下室の秘密を知った僕はそれから子供たちの仲間入りをして、地下から外には出られなかった。愛されなかった子供は食事ももらえず、疲弊して死んでいく。いつか彼女に復讐をと誓いながら、彼女に愛を捧げて、ようやく外に出られた時は彼女は既に死んでいた」
「…!?」
衝撃的な内容にしばし言葉を失い、サトルは沈黙した。それから必死に自分なりに話を理解すると改めて疑問を投げかけた。
「レーセは…何故死んだの? 他の子どもたちは…」
「病死だったらしいよ。最後の数日、レーセが来ないなと思っていたんだけど、病気には気づけなかった。あの頃は僕も正気じゃなかっただろうからね。自分のことだけでいっぱいいっぱいで…」
そこまで話してディランは静かに息を整えた。
「……僕はね、レーセのお気に入りだったんだよ。だから、レーセの最後の訪問の日に水と食事をもらえた。レーセが亡くなってから、地下に地元の警察が入るまでは数日かかってしまって…誰も地下の存在を知らなかったから。警察が僕を見つける前の夜に最後の一人が死んだよ」
「……っ」
サトルは渾身の力を込めてディランを抱き締めた。涙が止まらなくて、何か言葉をかけたいのに口を開けばとんでもない罵詈雑言が飛び出してきそうで必死に唇を噛み締めた。
「ディラ…ンっが、ディランが…っ」
涙で喉を詰まらせながらサトルは言葉を紡いだ。
「―――生きて、いてよかった…っ」
「……ああ、もう。サトル君を手離せなくなっちゃうじゃない…」
抱きしめられる腕のぬくもりに胸の奥が熱くなる。サトルの背はこんなにも小さいのに、何より大きな存在で。ディランは堪らなくなった。本来の家族の元を離れてから、ディランの生を肯定してくる人はいなかったから。
「……あの後、僕はきちんとした手続きをとっていたことで、レーセの遺産を継いだ。発見された子供たちの遺体はどれも戸籍がなくて、レーセが元々地元では有力な城主だったこともあって、事件は警察内部で処理され、すべてなかったことにされた。遺体を処理する場所がなくて、結局、城の庭の敷地に埋められたよ。公式にはレーセの病死を僕が看病の末に看取ったとことになってね。腹立たしいことに。僕の復讐は生涯果たすことは出来ない」
「………」
涙を拭うとディランの頰を両手で包み込んだ。
「ねぇ、ディラン…。今までぼくは、過去をきちんと話せずにいた後ろめたさから自分の気持ちを伝えられずにいた。だけど、今伝えるよ。―――ディランが好きだ。どんな風に生きてきたかなんて、関係ない。今、目の前にいるありのままのディランが、大好きだ」
そして涙目になりながら笑いかけた。
「レーセの愛は愛じゃない。相手を支配する為のそれは、手段を似せた全くの別物だ。否定してやればいい。彼奴が必死になって守ってきたものをすべて、完膚なきまでに否定してみろよっ! それが死者に対する最大の復讐だ」
「…あ、…い…? …レーセの愛がニセモノなんて分かってるよ。きっと僕が前の家族から受けたのが本物なんだって…。でもね、そのニセモノの愛に僕は生かされてきて、今もこうして彼女の恩恵を受けてきている」
レーセの愛を否定したくて堪らないのに、どうしたって否定出来ない現状にいる。
「レーセの遺産を継いで、あの城に一人で過ごすことは僕には苦痛でしかなかった。とにかくどこか遠くに行きたくて、僕は国から遥かに遠い日本を選んだ。未成年の僕に自由に出来るお金は教育の為という名目がないと通らなくて、必死に日本語を勉強して日本に留学してきたって訳。だから今も僕は…彼女に生かされている」
「それの何が悪いんだよっ。お金に死者の怨念がつく訳でもない。生き延びた褒賞として、堂々と自分の為に使えばいいだろ。せっかく日本まできたなら、ここでっ! 沢山勉強をして、そして誰にも邪魔をさせないだけの力を手に入れたらいいんだ」
「……そうだね。たくさん勉強して力をつけるよ。僕一人の力で立てるように」
あの時、苦し紛れであっても日本を選んでよかった。そうでなければ、こんなに愛しいかけがえのない人に出会えなかった。
「…ああ、でも。やっぱり一人では無理だ。サトル君がいてくれないと」
改めてサトルの手を握るとディランは真っ直ぐに彼女を見つめた。
「サトル君がいてくれるから、僕は強く生きようと思える。力をつけたら改めて言葉にするつもりだけど、一言だけ。サトル君、こんな僕だけど、僕の持てる限り全ての力を尽くしてサトル君を幸せにするつもりだから、だから、ずっと僕のそばにいて下さい」
「………」
赤面しディランを見詰めると何か意を決し、真っ赤な顔のまま彼に口づけた。
「……!」
触れられる唇のあたたかさとぎこちなさに彼女の想いが詰まっていて、胸の奥がツンと痛んで熱くなる。もっともっとと彼女を求める感情が強くなって、ディランはサトルを抱きしめて、自らも深く口付けた。愛しい彼女にずっと触れていたい。
想いが溢れて、気づけばサトルを座席に押し倒して、彼女との口付けを深く求めた。
それでも少しして自らを制すると、まだ熱っぽい表情のまま、口付けをやめた。
「…ダメだよ? こんな場所で僕を誘惑したら。…ああ、でも、すごく嬉しかった……。愛してる、サトル君だけを愛してるよ。サトル君に出会えて、本当によかった…」
「…アッ…」
熱い息を吐き肩を上下させると恥ずかしさのあまり顔を両手で隠した。
「…ぼ、ぼくも…だよ…っ」
「…本当? …サトル君も同じ気持ちでいてくれてるってこと…?」
それは何よりディランの胸を熱くしてくれる言葉で、思わず彼女を抱きしめた。抱きしめるといっても、既に座席に押し倒してしまっている状況なので、どちらかと言えば覆い被さっている状態に等しいが、そのぬくもりに心が満たされる。
「大好きだよ、サトル君。愛してる。他の誰かのモノになんてさせないから」
「………っ」
ディランのぬくもりや愛の言葉の数々はサトルの熱を一気に引き上げ、横になっていながら目眩を覚えてしまった。
「あ、あの、この状態は…些か際どすぎるから…っ」
「……そうだね。せっかくさっき自制したはずなのに、自分で台無しにしたらダメだよね」
苦笑すると、ディランはサトルの首元の服をややはだけさせ首筋に強く口付けた。
「ひゃ…っ、ディ、ディラン?!」
普通に服を着ていれば隠れる位置に赤い跡を残すと、ふわりと天使のような笑みを浮かべて、彼女から離れた。
「な、な、何してるんだよっ?」
「名残惜しいけど、これで終わりにしておくよ」
「ぜ、全然自制してないよっ!」
「なあに? 僕はきちんと自制してるつもりだよ? …まあ、これからはもう少し頑張って自制するね。サトル君に嫌な思いをさせたい訳じゃないし」
真っ赤なサトルを愛しげに見つめ、苦笑した。
「い、嫌だと思ったことはないけど…」
キスマークが見えないか手鏡で確認しながら呟いた。
「そう? ならよかった」
ほっとした表情を浮かべ、ディランは笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。普通に服を着てたら、見えない位置だし。まあ、なんなら、仕返ししてくれてもいいけど」
そう言って、いたずらっぽく笑った。
「……」
そんな彼の意を察したのかサトルはムゥと頰を膨らませディランを睨んだ。
「…煽ってるだろ」
「まあね」
先程まであんなに苦しかった想いが今はすっかり落ち着いて、穏やかな気持ちになっているのを心地よく感じる。
「サトル君の話を聞くはずが、僕の話まで聞いてもらうことになると思ってなかったよ。僕の話は終わったけど、サトル君の話はこれからだから。サトル君の話が聞けてよかった」
「うん…。前よりもずっと、距離が縮まった気がするよ」
「僕もだよ。この話はね、本当は話しちゃいけないことになってて、僕はレーセの死を看取ったことになっているから、話したのサトル君だけだよ。悪いけど、この話は日向君や琳子ちゃんにも内緒にしておいて。この秘密を公にしないことを条件に僕はこの場にいられるから」
「わかった」
ディランの顔を見るしっかりと答えた。
「ありがとう、サトル君」
サトルの手を取ると、ディランもまた彼女と視線を交えた。  
「こんな約束してもらうことになってしまったけどね、サトル君の話を聞いて力を尽くしたいと思ったのは事実だから。サトル君の復讐に僕の力を使って? 僕はね、サトル君の力になりたいから」
「…ありがとう、ディラン」
ディランの手に自らの指を絡めると、サトルは睫毛を伏せて微笑んだ。
 
 
デパートの予想以上の混雑具合に私も翠も思わず顔を見合わせ苦笑してしまった。
「仕方ない…な」
「そうね」
既に家で軽く昼食を済ませてきたので私たちはすぐに用事を済ませるつもりでいた。母の遺品整理ついでに随分と家具も捨ててしまったので、少し家具も見て回る予定だった。
「家具は配送の手続きをしよう」
「そうね。じゃあ、まずは寝具売り場から回りましょう」
効率よく回れるよう予定を組むと、私たちは目ぼしい商品を探し購入の手続きしていった。
「支払いはカードで」
生活費用のクレジットカードを使い会計を済ませる翠を少し離れて眺めながら、彼も留学の手続きをして二年後には再びドイツへ行ってしまう事を思った。そうなれば私はあの家で一人になる。もしもこの先も日本にいるつもりなら、ずっと一人で暮らし続けるのだろうか。
誰かと一緒に暮らす未来なんて想像もできない。けれどそう遠くはないこの先に、いずれ決断を迫られるのはわかっている。
「次は、食器売り場か?」
私に優しくしようと努力してくれている翠に、彼の人生があるように。私にも私だけの道がある。
「えぇ、行きましょうか」
 頷いたその時、ふと私の脳裏に彼の後姿が浮かんですぐに掻き消されていった。
 記憶の彼は再び出会わない限りずっと、歳をとらずに私の中の思い出の一つとなるのだろう。私の知らない場所で、私の知らない人々と新しい人生を歩む彼。そんな想像をしてしまい、想像した彼と関わるすべてのものに対し焦れた想いを抱いてしまった。
 いつまでもずっと時計の針を止めておける訳ではない。わかっているけれど、時が思い出を色褪せてしまうのが怖い。私にとって学園で彼と共に過ごした一秒一秒がすべて、昨日の出来事のように鮮明なままなのだから。
 
 
その後、カラオケで昼食を済ませて、二人は本来の目的であるデパートへ買い物へと向かった。食事を終えた頃にはとりあえず落ち着きを取り戻していた。
「えっとサトル君の買い物って何階に行けばいいかな…」
一階の入り口で入ったところでディランは尋ねた。
「母さんが日本製のタオルとお菓子を送って欲しいって言っていて」
お菓子は地下に、タオルは四階の生活雑貨フロアにあるようだ。
「今の赴任先で使いたいらしいんだ」
「なるほどね。タオルは軽いし、買った後すぐ持ち帰らないといけないものでもないから、先に四階の生活雑貨フロアに行こうか」
「うんっ」
「じゃ、こっちにエスカレーターがあるし、上がって行こうか。途中気になるものがあれば、立ち寄ってもいいよね」
昼間になってもデパートは相変わらずの混みようで、はぐれないように手を繋ぐとディランはエスカレーターへと向かった。
「ついでにぼくの家用にタオルを買おうかな。琳子がまた泊まりにくるだろうし」
「それはいいね。琳子ちゃん、喜ぶんじゃない? …そう言えば、琳子ちゃんとはゴールデンウィークに会う予定?」
「明後日、一緒に美術館に行くんだ。その後、琳子お勧めの喫茶店に行こうって話してる」
嬉しそうに頰を緩めて話した。
「ふふ、なんだか妬けちゃいそうだね。楽しんできて」
サトルの笑顔を愛しそうに見つめ、ディランもつられて笑みを浮かべた。
「ありがとう。…ディランは、他の休みの予定は?」
「そろそろ受験だとか考えないといけないし、休みの日は勉強に当ててるんだけど、サトル君の予定があうなら、もう一日会えると嬉しいかも」
「あ、じゃあ一緒に勉強しようよ。ぼくの家にきてくれたらいいから」
「ホント? やった、もちろん行くよ。ありがとう、サトル君」
思わず、満面の笑みを浮かべてみせた。
「ディランがいる方が色々教えてもらえるし、勉強も捗るんだ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。お互いしっかり勉強しなきゃだね」
「うんっ。…でも進学するんだっけ? 確か一度国に帰るんじゃ…」
「進学は一応候補に残しているんだよ。国には一度帰らないといけない。あの城をそのままにはしておけないしね」
「そっか…!」
嬉しそうに頷き喜んだ。
「大学生のディランに会えるね」
「まだ日本の大学にすると決めてないけど、卒業してもサトル君に会えるよう努力するよ。サトル君は日本の大学なの?」
「うん。実はさっき話したぼくを治してくれたウィルス研究者のドクターが教鞭をとっている大学があって、アジア圏ではトップレベルだから…」
「そうなんだね。サトル君は日本の大学なんだね。僕もきちんと考えないと」
「だけど進学したら少しアルバイトもしたいし…。実習もあるから、忙しいし…ディランたちみたいに誰かと一緒に暮らして家事負担を減らしたいよ」
「……ああ、便利だよね。確かに」
そこまで話してディランは少し考え込んだ。
「う~ん、まだ確約は出来ないは出来ないんだけど、サトル君が大学に行くとき、僕と一緒に暮らすのもいいかもね」
「………」
キョトンとディランを見上げ、その意味を反芻するように黙り込んだ。
「…あ…あの、えっと…」
耳まで赤く染めていたが、サトルは自分の意見をまとめた。
「それは…ぼくとしても、助かる。けど、その為だけに日本に留まるという結論は出して欲しくない。だから、もし卒業後の進学が日本だったなら…よければ、一緒に暮らそう」
「もちろんだよ。だから、きちんと結論を出すよ。ああ、でも、その前に。サトル君には一度僕の故郷を見に来て欲しいな」
「…うん」
はにかみ笑顔で頷いた。
「じゃあ、ディランが一度帰国して落ち着いた頃に行くよ。ディランが生まれた国を見てみたい」
「ありがとう、サトル君ならいつでも大歓迎だから。ああ、でも、長期休暇中の方がいいよね。日帰り出来る距離じゃないし」
「タイミングとしては春休みか夏休み…それかゴールデンウィークかな」
「そうだね…。夏休みだと、日本と違って過ごしやすい環境だよ。逆に冬だと本当に凍えるし」
少し話してディランは苦笑した。
「以前も僕の国を見に来てと話してたけど、僕の過去話聞いた後だと、サトル君、複雑じゃない? あまりいい印象はもてなかったよね…」
「正直、カーナベルの城はあまり見たいと思えない。だけどそうした過去の経験が今のディランを作り上げているなら、受け入れたい。だってぼくも、きっと大病をしなかったら全然違う性格になっていたんじゃないかな?」
クスクスと笑いながら例を挙げた。
「日向みたいな石頭になったかもしれないし、琳子みたいな誰からも好かれるタイプになれたかもね。…少なくとも、あの悔しさがあったから踏み台にしてやろうと思えた」
「…そうだね。僕は今のサトル君だから、好きになったんだと思う。大病を生き延びて、ここまでやってきたサトル君だから。つらい経験ではあっても、サトル君の一部になっていると思うよ。僕もね。……ありがとう。正直な気持ちが聞けてよかった」
ディランはどこかほっとした表情を浮かべた。
「ああ、そうだ。買い物、忘れないようにしないとね」
「うんっ」
そしてディランの手を握り返すと、そのままタオル売り場へ向かった。
「えーと…母さんの好きなメーカーがあって指定されているんだ」
と言って二人でしばらく商品を見て回った。
「あ、これだ」
国産の有名ブランドタオルを見つけ自宅用と実家用と手にとった。
「ぼく、会計をしてくるからディランは少し待っていて」
「わかった。じゃ、待ってるね」
他の買い物客の邪魔にならない位置へと移動し、ディランはサトルを見送った。ゴールデンウィークとあって客足は多く親子連れから若いカップル、老若男女、様々な客で溢れていた。  
「…あれ?」
ふと一瞬、客の中に見覚えのある姿を見た気がして、ディランは目を瞬かせた。
タオル売り場とは通りを隔てた向こう側の食器売り場で親しげに話す男女が見えた。それだけならどこにでもある光景でディランも特に目を向けることはなかっただろう。だが、そのうちの一人に見覚えがあった。
「……琳子ちゃん…?」
思わず呟いた言葉は店内に流れるBGMと口々に話される辺りの喧騒によってかき消された。
改めて声をかけようかとも思ったが、学校で見る彼女とは印象が違っていて尚且つ、同年代の男と共にいる状況に躊躇した。学校ではきちんと結っている三つ編みが、今日に限っては下されて普段よりだいぶ大人びて見える。
―――まるで、一緒に買い物をしている男に合わせて、背伸びしているかのような。
残念ながら、二人の会話は聞こえそうにないのだが、二人が昨日、今日知り合った浅い関係というようにも見えなかった。
盗み見るつもりはなかったが、ついつい二人を視線で追ってしまっていた。琳子は何やら深いブルーのパスタ皿を手に取り、男に話しかけていた。彼も満更ではないようで、同意しているだろうということはそれぞれの表情から読み取れた。
どころか、互いに親しいのであろうことは琳子の笑顔と男性の琳子への眼差しが優しく見守るようなところからよくわかる。
「……あれ、琳子ちゃんて、恋人いたのかな…」
ディランの知る琳子は恋人であるサトルの親友であるということと、ディランの悪友である、日向と妙な縁で知り合った仲、ということくらいだ。ディランからすれば、どちらも間接的な繋がりであり、個人的には友人だと思っているが、琳子のことをよく知るとは言いがたい。
ディランの知る琳子は異性関係に積極的なタイプとは思えないので、きちんとお付き合いをしている恋人辺りが妥当だろうか。
そうなると、琳子の為にといろいろと気を揉んでいる日向は琳子の認識では友人であって、それ以上になることはないと思うとディランは苦笑した。
―――日向自身、無自覚な感情であるが、今のうちに芽を摘んでおいた方が双方の為になるだろう。
そんな事を考えているうち、視線の先の琳子と同年代の男は別れて、男の方がこちらに近づいてきた。
「!」 
どうやら選んだ商品を買う為に、レジへと向かうらしい。通り過ぎるのに邪魔にならないようにと、ディランは道を開けた。 琳子はというと、会計は男に任せて他の商品を見ているようだ。
先ほどは声をかけそびれたが、声をかけずに帰るのも忍びないと思い、歩き出そうとしたところで、足元に何かが転がってきた。
「あれ?」
足元を見ると、男物のサイフが落ちているのが見えた。落ちてきた側を振り向くと、そこには先ほど通り過ぎたはずの男が慌ててこちらに向かってくるところだった。どうやら、会計を終えてサイフをカバンにしまおうとしたところで落としてしまったらしかった。その証拠に彼はカバン以外に買ったばかりと思える紙袋をいくつも持っているのが見えた。
「はい、どうぞ」
ディランは屈んでサイフを拾うと、彼に差し出した。
流暢な日本語に一瞬虚を突かれた表示を見せたが、眼鏡の男は穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
財布を受け取り鞄へしまうとディランを見た。
「日本語がお上手ですね」
「ああ、僕は留学生なんです。この近くの学園で勉強していて」
普段慣れ親しんだ人との会話に慣れきっていて、そういえばこの容姿で日本語が話せるのは日本人からすると驚かれることが多いのを忘れていた。
「ご友人とお買い物ですか?」
さすがに初対面の相手に恋人とは言えず、ディランは首を傾げた。
「いえ、妹です」
柔らかな物腰だがきっぱりと否定し微笑んだ。
「似ていないので、よく勘違いされますが」
「そうなんですか。すみません」
そういえば、いつだったか琳子には兄がいると聞いていた。外見までは聞いていなかったが、恋人であることを隠しての態度には見えないし、言葉通りかなと一応の結論づけた。
「お兄さんだったんですね。あ、すみません。実は僕、琳子さんの学友? というか先輩のディラン・カーナベルと言います。妹さんとは学校で親しくさせていただいています。といっても、僕より僕の恋人の方が仲がいいんですけどね」
「…あぁ、サトルさんの」
思い出したかのように呟き頷いた。
「初めまして、琳子の兄の翠です」
愛想よく握手を求め訪ねた。
「妹がお世話になっています。親切な先輩がいると聞いていますよ」
「ありがとうございます」
ディランも笑顔で握手に応じた。
「休みの日に兄妹で買い物なんて、仲良くていいですね」
間という程もない僅かな沈黙を経て翠は苦笑した。
「ご覧の通り荷物持ちですよ」
「ふふ、そうですか? 先ほどはとても穏やかに妹さんを見ていた気がしますけど?」
クスクスと楽しそうに笑ってみせた。
「アレでもただ一人の家族ですから」
敵わないな、とばかりに肩を竦めた。
「ところで、今日は恋人の同伴は?」
「 恋人の付き添いですよ」
そこまで話した後、ディランは少し考えこんだ。
「えと…お互いに敬語、やめませんか? たぶん、年近いですよね? 僕のことはディランて呼んでもらえれば」
「では、翠で。二人の仲の良さも琳子から聞いているよ」
「ふふ、そうなんだね。じゃ、改めて。よろしく、翠君」
ディランはふわりと笑みを浮かべた。
「こちらこそ」
口端に笑みを乗せ翠は尋ねた。
「藪から棒な質問かもしれないけど、妹が…迷惑をかけているみたいだね。詳しく話したがらないからぼくからは聞けないけど、君たちを振り回していないかな?」
「迷惑? 特にかけられてないですけど?」
何を意図して話しかけられているかは察しがついたが、これに関しては本心から応えた。
「ああ、でも。親兄弟には恥ずかして話せない、みたいな思春期によくある秘密とか、女の子だとデリケートな問題もありますからね。僕からだとあまり突っ込んで聞けませんよ。…う~ん、翠君がそれとなく聞いてみるというのは?」
「……」
返答に少し悩むように黙り視線を琳子の方へ向け、眉を寄せた。ちょうど一人で商品を見ていた琳子に見知らぬ男性が声をかけているところだった。
「…翠君、出番ですよ? ここはお兄ちゃんとしてかっこ良く助けて、好感度を上げれば、会話の糸口になるかもしれないですしね」
ぽんと翠の肩を叩くと、ディランはふわりと天使のようなもの笑みを浮かべてみせた。
「…いや、しばらく様子を見るよ」
冷めた眼差しで壁にもたれると事の成り行きを見守る態度をとった。
「自分で対処の仕方を学ばないと、同じ事を繰り返す」
「お兄ちゃんは冷たいなあ」
現段階では差し迫った様子ではないのだが、目は離さない方がいいだろう。ぼやきつつも、琳子の方に視線を向けた。
「でも、ま。何かありそうなら、お兄ちゃん論はおいといて行きますからね」
明らかに行く気のない翠の腕をガシッと掴んだ。
「………」
不服そうにディランを見たが仕方ないとばかりに頷いた。
 
 
「綺麗な色の皿ですよね」
翠が離れてしばらくしないうちに、私はまったく見ず知らずの男性から声をかけられていた。
手に取っていた明るい色彩の色をした皿をそっと陳列棚に戻すと、私は大学生くらいの男性に微笑みかけ一歩退いた。
「見ていただけですから、どうぞ」
「いえ、その、できたら話しがしたくて」
決して女性慣れした様子もなく、無理強いする気配もない。けれど折角作った微笑みも頬が引きつってしまいそうになり私はさり気なく翠の姿を探した。
フロアの端に目立つ金髪が視界に入り、思わずそちらを凝視してしまった。どういう偶然かわからないけれど何故かディランと翠が一緒にいる。ディランがいるという事はサトルもきっと近くにいるのだろうけれど、今はその姿は見えない。
「ねぇ、よかったら連絡先だけでも」
思いの外しつこく尋ねてくる男性への断り文句が見つかり、私は笑顔でディランに向かって手を振った。
「ごめんなさい。彼、とても嫉妬深いの」
笑顔で手を振り返してくれたディランの姿を見て、男性は露骨に表情を曇らせた。それを見て内心決して嘘ではないわね、と呟き私は二人の元へ駆けて行った。
「ありがとう、ディラン」
「いえいえ。お兄ちゃんは照れちゃったみたいだよ」
「いつの間に親しくなったの?」
素直に驚き翠を見ると彼はやや肩を竦め苦笑した。
「落とした財布を拾ってくれたんだ」
そして改めて私に視線を向け
「大丈夫か?」
と気遣ってくれた。
第三者を交えたこの場で、翠は普段以上に意識して私に優しくしようと接している。初対面のディランに、私たちが仲のいい兄妹だと認識してもらえるように。だから私も彼の意図を汲み取り微笑みながら頷き返した。
「今日は兄妹二人でお買い物だったんだね」
「そうなの。…貴方はサトルと?」
「まあね。今はちょうどサトル君を待っているところだよ」
「…ディラン!」
会計を済ませたサトルが小走りにやってくると、やはり彼女も予想外のメンバーに驚いた様子で表情を和らげた。
「こんにちは、翠さん。琳子も偶然だね」
「サトル君! 琳子ちゃんと翠君、兄妹二人でお買い物みたいだよ」
恋人の姿を見つけディランは笑みを浮かべた。
「へぇ、珍しいね」
「来客用のお皿が欲しくて。二人はデートかしら?」
「うん。サトル君の買い物があって」
「そぅ、ふふ相変わらず仲良しね。話していた通りでしょう?」
「あぁ、本当に」
翠も笑いながら相槌を打ったけれど、実際にサトルたちの交際について深く語ったことなんてない。以前サトルが家に遊びにきた折に付き合っている人がいるという程度の情報は口にしたけれど、翠はさも妹からよく聞かされているとばかりに応えた。
「そりゃ、恋人同士だからね。…そういえば、翠君て恋人いるの?」
「さぁ、想像に任せるよ」
肩を竦め苦笑した。
「あ、じゃあいるんだね。……う~ん、出来たら、翠君とも友人になりたいと思ってるんだけど、難しいかな?」
「…っく、はは」
思いの外ストレートな表現がツボにはまったのか、翠は堪らずに吹き出して頷いた。計算などない本当のリアクションが珍しくて、私も思わず彼の様子を凝視してしまった。
「改めて申し込まれるとは思わなかったよ。もちろん、喜んで」
「……」
ここに来て初めて笑ったように見えたのかディランは少し目を丸くした。その後、改めてディランは笑みを浮かべた。
「じゃ、改めてよろしく。てか、翠君、僕の名前覚えているよね?」
「ディラン・カーナベル。こちらこそ宜しく」
「ありがとう。呼ぶ時は長いから、ディランで。翠君、思うところがあったら、はっきり言ってね」
「わかったよ」
苦笑しながら頷いた。
「そういえば、二人は買い物は終わったの?」
「えぇ。サトルは?」 
「あとはお菓子だけだよ」
「そぅ。…デートのお邪魔になるわね。翠、私たちは帰りましょうよ」
それは本音でもあったけれど、妙に翠と親しくなりたがっているディランの意図がわからなくて警戒しているというのもあった。普段人当たりのいい柔らかい態度をとっているけれど、野生の勘とでも言うのか彼は変に鋭いところがあった。サトルの恋人ではあるけれど、私との関係は特別深くもない。だから興味本位で適当に私たちの事を突っつかれたくないという想いがあったけれど私の提案をディランが却下しにかかった。
「そう? こんな機会滅多にないし、僕達の買い物が終わってからになるけど、せっかくだし、四人でお話しない?」
 
 
琳子は翠に決断を委ねるように黙り込んだ。そんな彼女を一瞥すると、翠はすぐに視線をディランへ戻し微笑んだ。
「それならカフェにでも場所を移そう」
「うん。…あ、えと、サトル君もそれでいいかな?」
全員に提案したつもりだったのだが、先にサトルに確認を取るべきだったとディランは申し訳なさそうに尋ねた。
「それはいいんだけど…とりあえず、ぼくらは先に買い物を済ませるから二人は先に喫茶店に行って下さい」
先程から琳子の表情に想うところがあったが、サトルはひとまず同意し二人に先へ行くよう促した。
「わかった。デパートのすぐ隣にあるカフェで待っているよ」
「うん、じゃあまたあとでね」
笑顔で手を振り、二人を見送った。二人の姿が完全に見えなくなると、ディランはサトルを振り返った。
「せっかくのデートだったのに、勝手に決めちゃってごめん」
「いや、いいんだけど…」
ディランを見上げふと気になっていた事を尋ねてみた。
「翠さんのこと、気に入ったの?」
「興味深い人だよね。それもあるけど、翠君のこと知りたいと思って。話には聞いてたけど、琳子ちゃんのお兄さんがどんな人か知らなかったからね」
何と言えばいいかとばかりにディランは苦笑した。
「ああ、でも友人になりたいってのも本心だよ。翠君がどう思ってるかは分からないけど」
「うん。人当たりがいい好感度も高めな人だよね」
その癖何を考えているのかわかりにくい人だ、と内心で付け加えてからやや考えサトルは続けた。
「ただ…何となく、琳子は帰りたそうに見えたから。あまり兄妹でいる所を見られたくないのかなって思って」
「人当たりいい好感度高めねぇ…。まあ、表面的にはね。僕には何言われても笑顔で人には接するけど、心の内をひた隠しにしている感じの印象を受けたかな。まあ、まだ知り合って間もないし、妹の友人を邪険には出来ないってことだろうから、仕方ない気もするけど。嫌なら嫌ってはっきり言ってくれた方が僕としては嬉しいんだけどね。この感じだと知らずに相手の地雷を踏みまくりそうだし、いいも悪いも同じ反応に見えるからなあ」
「はは、少しむかしのディランに似ているよ。笑っているのに本心がわからないあたりが」
苦笑しディランの手を引いてお菓子売り場に移動した。
「それに琳子の兄だけあって、一癖も二癖もありそうだ」
「だからこそ、友人になれたら、きっと面白いんだろうと思うんだよね。今のところ、距離感がつかめなくて、難しいんだけど」
それから二人はお菓子を買うと約束のカフェに向かった。お洒落な店内はやはり連休の影響もあって人で賑わっていた。琳子たちは入り口から離れた奥の席におり、二人に気づくと手を振った。
「お待たせ!」
「遅くなってごめん、買い物終わったよ。二人は何か注文した?」
「このお店、豆から挽いたコーヒーを出してくれるのよ。私はカフェラテよ」
「ぼくはアメリカンだ」
二人に座るよう促すと琳子はテーブルのメニューを広げた。
「わあ、いいね。じゃ、僕もアメリカンで。サトル君は?」
「あ、じゃあカフェラテにしようかな」
親友の手元にあるカップを見て決めると、メニューの一部を指差し琳子が身を乗り出した。
「ケーキもあるのよ」
「…ふっ、昨日甘いものを控えようかなって言ったばかりじゃないか」
琳子の発言に翠が吹き出して笑った。
「そうなの? でも、まあ、いいんじゃない? こんな機会でないと食べられないかも知れないし。そういえば、翠君は甘い物は?」
「甘さ控えめなら。ガトーショコラ…か」
「ぼくも食べようかな…」
「サトル君も好きなの食べたらいいよ。もし、迷うんなら、僕も注文して半分こにするのもいいし」
「本当? ありがとう。じゃあ…この、季節のフルーツタルトにしたいんだ」  
「決まりだね。えと注文決まってないのってあとは…」
誰かなとディランは首を傾げたので、琳子が笑いながら答えた。
「私はレアチーズケーキにするわ。ディラン、貴方は?」
「そうだね…じゃ、僕はシブーストで」
店員を呼び、それぞれの希望を注文すると何となく和やかな雰囲気が漂い出した。
「そういえば、二人は普段はこうしてケーキとか食べたりしてるの?」
「あまりないわ。…たまに来客の時にお土産で頂いたら一緒に食べるけど」
「そうなんだね。…う~ん。翠君て、学園で見かけないけど、もしかして違う学校?」
「あぁ、ぼくは地元の高校だ」
と言って地元の有名進学校の名前を挙げた。
「進学校なんだね。あ、じゃあ部活とかは?」
「いや、強制ではないからしていないんだ。ディランは何か?」
「フェンシング部に入っているよ。日本だと結構少ないよね。ちなみに必ずどこかの部活に入る仕組みになってたら、何の部活を選んでた?」
「そうだなぁ…強いて言うなら、文系の部活だろうな。囲碁将棋部っていうのがあるから」
「あ、それ、ぼくも興味あります。うちの学校にはないので」
「頭脳スポーツって感じだよね。囲碁は分かるんだけど、将棋ってチェスみたいなやつだったかな?」
「相手の将をとりにいく点は似ているけど、将棋の方が駒もマスも多い」
「ああ、たくさんあるよね。えっとキングが王将なんだっけ。コマだっけ。コマの名前がわからないやつがたくさんあるんだよね」
「チェスのルークとビショップは、将棋の飛車角に似た動きをする。元はどちらもチャトランガというインド発祥のボードゲームが進化したものだといわれているらしいけど」
「そうだったのね」
「わあ、翠君、詳しいんだね。ヒシャカクってルークやビショップに似た動きなのか。なるほど、分かりやすいよ。ルーツが近い気がしてたけど、将棋って全くやったことがなくて。翠君、もしかして、将棋強いのかな?」
「ルールを知っている程度で実力は然程だよ」
翠は苦笑し答えた。
「ディランはチェスは強いの?」 
「嗜む程度でプロの実力には到底及ばないよ。強いのはフェンシングの腕の方。といっても、力勝負よりテクニックで勝負って感じなんだけどね」
ディランもまた苦笑した。
「そういえば、翠君てチェスのルールとか分かるんだよね?」
翠はコーヒーを飲みながら頷き肯定した。
「いや、珍しいなと思って。どこでやってたの? 日本だとほとんどチェス盤自体見かけないし、どころかルール自体知らない人が多いのに」
「暇潰しに覚えたんだ」
「…学園で?」
琳子の質問に頷く翠に、サトルが更に問いかけた。
「前通っていたって言う?」
「冬の間は外出禁止になるんだ。だから生徒の間では室内でできるボードゲームが流行る。ぼくもそれをきっかけに覚えた」
店員が注文したケーキを持ってきたので一旦会話は中断された。それぞれの手元にケーキが並ぶと改めてディランが開口した。
「そうだったんだ。あ、でも、冬の間、外出禁止になるっていうのはどうして? 雪深い場所だとか?」
「雪もだけど、気温がかなり下がるのよ」
ケーキにフォークを突き刺しながら琳子が答えた。
「山間の湖の上にある学園だったから 。湖の上にかかる橋が唯一の連絡口で、下手に外出して凍結した湖に落ちたら大変って事みたい。だから、冬の間は色々なイベントがあったわね」
「じゃあ、長期休みもあまり生徒は帰省しないの?」
「えぇ。生徒たちが退屈しないように、毎年生徒会長が頭を悩ませるのよね」
と言って琳子は翠に笑いかけた。 
「そうだったな」
それに応えるかのように小さく笑い、翠もまたガトーショコラに手をつけた。
「それは生徒会が催しを考えてたってこと? 日本でいう文化祭みたいなこととか?」
ディランはコーヒーを飲み、静かに息を吐いた。
「そんな感じさ」
「へぇ…前琳子が言っていた、ダンスパーティーも文化祭だっけ?」
「えぇ。全員が着飾って、とても華やかだったわ」
想像するだけで溜息がでそうな光景に思わずサトルも本音が漏れた。
「…いいなぁ」
「僕もサトル君とダンスしてみたいよ。ここの学園だと、さすがにやらないよね。あっても、学年違うし難しいよね」
「はは、でもダンスは習ったことがないからできないんだ」
「大丈夫だよ。僕が教えるし。サトル君のドレス姿、見てみたいな」
「高等部は卒業式の後に卒業生を対象にしたプロムナードがあるわよ。パートナーは同学年に限らず、だからサトルも参加できるわ」
「そうなの? だったら、僕の卒業式の時にはサトル君を指名するね」
琳子の話にディランは思わず目を輝かせた。
「あ、え…れ、練習します」
指名され、サトルは赤くなって頷いた。
「うん、期待してるね」
サトルの様子を愛しげに見つめた後、ふと翠たちを振り返った。
「そういえば、翠君や琳子ちゃんのダンスの時は練習というか、講習みたいなものはあったの?」
「……」
すると琳子たちはチラリとお互いに顔を合わせると苦笑した。
「ほとんどでたらめのワルツを、むかし母に習ったの」
「…え、翠君も…?」
意味が分からないといった様子でディランは翠を見た。
「さすがにぼくは、男性ステップだよ。当時の母の恋人がダンス好きでね」
「でも随分むかしだし…ステップもほとんど忘れちゃったわ」
「えと、母の恋人って?」
「恋多き女性だったって事さ」
「そうなんだね。じゃ、翠君はお母さんの恋人に習ったから、ダンスパーティーで躍れたってことかな」
「そういう事だ」
頷きコーヒーを飲むとケーキを食べる琳子に声をかけた。
「一口食べるか?」
「…じゃあ、私のも味見してみて」
二人でケーキを交換した。
「なんていうか、兄妹仲がいいんだね。僕は妹とこういうやりとりをしたことがなかったから、ちょっと羨ましいかも」
「そうなの? 仲良しかと思ったわ」
「僕と妹は離れて暮らしているからね。琳子ちゃんとこはどう? 家で兄妹喧嘩とかあったりする?」
「喧嘩は…ないわね」
「ぼくのところもなかったよ」
「そうなんだ。デザートの取り合いになったりとか…ああ、でも、こうやってシェアしてるなら、それはないか」
苦笑した。
「まぁ、妹ではないけどシェアはできるかな」
と言ってサトルはタルトを切ってディランのお皿に乗せた。
「ありがとう、サトル君。妹より断然、恋人の方が嬉しいよ。僕のもあげるね」
嬉しそうに笑みを浮かべるとディランはシブーストを切ってサトルのお皿に運んだ。
「はは、ありがとう」
「相変わらず仲良しね」
「当然。恋人だからね。そういえば、さっき聞きそびれちゃったんだけど、学園でのダンスパーティーの時、翠君、恋人と踊ったとか?」
「いや、ぼくは役員だったから踊っていないんだ」
「そうなの?」
チラリと琳子を見た。
「そうよ。生徒会長だったから」
苦笑しながら同意した。
「ああ、なるほどね。琳子ちゃんも何かの役員だった?」
「私は人をまとめるのが苦手なの」
肩を竦めて答えた。
「ダンスも苦手だし、体調も悪かったから壁の花を決め込んでいたわ」
「そっか。せっかくだから躍れたらよかったけど、残念だったね…」
「琳子も三年後の卒業式ではプロムに参加するだろ? その時までにダンスの上手な相手を見つけなくちゃ」
「う~ん…私自身がダンスが苦手だから、参加は見送るつもりなの」
「そうなの? 琳子ちゃん、不器用な訳じゃないし、練習したら出来そうな気もするけど。まあ、無理に勧めるものでもないか」
苦笑した。
「ありがとう。けれどサトルみたいにダンスのできる素敵なパートナーもいないからいいのよ」
「…意外だな」
ケーキを食べ終えコーヒーを飲むと翠は冗談混じりに笑って見せた。
「サトルさん、妹はそんなに男子生徒から人気がないのかな。パートナーが見つからないからと言ってダンスも苦手なままにするとは、いつの間にそんな奥手になったんだ?」
「あ…いえ、琳子は結構モテていますよ。男女問わずに親しまれています」
「…なんていうか、翠君は琳子ちゃんのこととなると心配性だね」
「………」
ディランの言葉に琳子は気まずそうに俯いた。
「……上書き、したくないの」
膝の上でぎゅっと握り拳を作ると琳子は翠に向かって溜めていた想いを発した。
「私は、忘れたくないの。ずっと覚えていたいのっ」
必死に訴えかける彼女をまるで観察するかのようにしばらく眺めると、翠は冷ややかに笑った。
「それで一生、誰ともダンスを踊らないつもりか?」
「っ!」
反論できず視線を逸らすと琳子は席を立った。
「ごめんなさい、サトル。ディラン。私…帰るわ」
有無を言わせず琳子は鞄を持つと店を出た。
「翠君、日本でなら別にダンスを一生踊らなくたって、特に問題ないよ。社交界に出る貴族じゃあるまいし。…ごめんね、琳子ちゃん。また、学校で」
店を出る琳子にも聞こえるよう、声を響かせた。
翠は肩を竦めると席を立った。
「ぼくも失礼するよ。迷惑をかけてすまなかった」
「翠君、過保護も過干渉も本人が望まないことを押しつけない方がいいよ。気にかけてるのは分かるけど、琳子ちゃん本人にはきちんと伝わってない気がするよ。……なんて今日会ったばかりの僕には言われたくないだろうけど」
ディランは息を吐くと再び翠に視線を向けた。
「僕の方こそ迷惑かけちゃってごめんね。という訳で、ここの支払いは翠君が琳子ちゃんと翠君の二人分を、僕とサトル君の分は僕が支払うということで。一方的に迷惑をかけられた訳じゃないし、むしろこの場を設けたのは僕だからね。これで精算にしよう? 全部払わせてもらえるなら、勿論、僕が払うけど」
「いや、自分たちの分だけ支払うよ」
フッと息を吐き翠は困ったように苦笑した。
「それじゃあ、また」
踵を返す翠に思わずサトルが声をかけた。
「琳子から、聞いています。…まだ溝を埋めるには時間がかかるとは思うけど、琳子はぼくがきちんと支えます」
「翠君、今日は僕のわがままに付き合ってくれてありがとう。よかったら、また話そう」
軽く手を挙げると翠はその場を去った。
「………翠さんなりに、琳子を想っているんだね」
「思ってはいるけど、琳子ちゃんにはきちんと伝わってないみたいだけどね」
そこまで話すとディランはサトルに向き直った。
「せっかくのデートだったのに、付き合わせちゃってごめんね。琳子ちゃんにも嫌な思いさせちゃったし、後日きちんと謝ることにするよ」
「ううん。…あの兄妹は意外に不器用だね」
「翠君がって気がするけどね。なんでもソツなくこなすように見えて、翠君は琳子ちゃんのこととなるとやけに心配性だし。琳子ちゃんを見守る視線は穏やかなのに、琳子ちゃん本人にはストレートにぶつかっちゃうしね。多分、普段の翠君ならスマートに衝突を回避して、お互いにいい距離感へと持っていけそうなのにね。…それだけ、翠君が琳子ちゃんを大事にしてるのは僕でも分かるよ」
「……琳子からは、翠さんに対して引け目を感じているみたいだ」
カフェラテを飲み呟いた。
「何となく、だけどさ。琳子がずっと告白を断っていたり、日向の気持ちに気づいてる癖にそれを黙殺しているのを見ていると…琳子って誰かに好かれるのを恐れている気がするんだ。…ぼくの思い違いかもしれないけど」
「琳子ちゃんて…恐れてるのかな。さっきの話を聞く限りだと前の学園でのダンスの相手が忘れられないみたいだし、まだ新しい恋をする気はない、したくないってことなんじゃないかな。琳子ちゃんにとっては過去じゃなくて、今も会いたい人がいるから」
「どうなんだろうね。また機会があれば、聞いてみたいけど…」
「琳子ちゃんが話せるようになってからにするしかない気もするけど」
苦笑した後、コーヒーを飲んだ。
「そういえば、翠君と二人で話してた時なんだけど、翠君に琳子ちゃんの最近の様子について何か知らないかと聞かれたよ。まあ、同じ家に暮らしてるんだし、違和感を感じない訳にはいかないんだろうけど」
「そうだったんだ。…例の件は、琳子に口止めされているしね」
「ちなみに特に何も話してないよ。逆に翠君に聞いてみたけど、手強いね。情報はなしだよ。けど、あの様子だと翠君は琳子ちゃんのことは気にしてるみたいだけど、本人には聞くに聞けないって感じなのかな。琳子ちゃんとの距離があるみたいに感じたよ」
「…距離は、あるだろうね。異性の兄妹なら尚更のことだけど」
「ああ、そっか。姉妹じゃないしね」
ディランは納得した表情を浮かべたが、それ以上に込み入った事情があると知るサトルは気まずげに視線を逸らした。
「……異父兄妹って言っていたし、複雑だよね」
「えと、そうだったっけ。ごめん、琳子ちゃんに関しては兄がいるという事と、過去の事件とかしか知らなくて」
「その過去の事件だけど…」
ケーキを食べ終えサトルはカフェラテのカップを両手で持ち呟いた。
「少し調べたんだ」
「何か分かったの?」
ディランも最後の一口を食べると、コーヒーへと手を伸ばした。
「一通りは。…犯人の男は琳子たちの母親が若い頃からストーカーまがいの事をしていて、偶然知り合ったその子どもの琳子に執着して、親しくなっていったらしい」
気まずそうに視線を落としてテーブルの上で指を組んで話を続けた。
「それで…琳子と翠さんが祖父母の別荘に遊びに行くと、それを追いかけて…事件が起きたんだって。その日の夜、琳子は翠さんと喧嘩をして家から飛び出し、軒先きで一人で拗ねていたんだって」
言い難いらしく息を吸い込み、吐き出すようにして言葉を紡いだ。
「琳子が不在の間に、犯人は別荘に侵入し祖父母を惨殺…し、その現場をたまたま目撃した翠さんが、犯人の不意を突いてゴルフバットを使い頭を何度も殴打し…意識を失わせたところで警察に通報したらしい。犯人は脳に気質的な障害を負い、マスコミは相当騒ぎ立てたようだった。二人の出自や、琳子の母親が有名なブランド会社の社長だった事もあって色々書き立てられたみたいで…」
「完全にとばっちりじゃない。琳子ちゃんが家にいなくてよかったよ。まぁ、お爺さんやお婆さんは本当にお気の毒だけど、だからって琳子ちゃんのせいじゃない。翠君だって完全な正当防衛だし、犯人が障害を負ったのは当然の報いだよ。そうでなきゃ、翠君だって殺されてたのだろうし」
「ぼくだって、そう思うよ。だけど…琳子や翠さんは? さっきも言った、琳子が翠さんに感じているように見える引け目も、もしかしたら事件のきっかけは自分の所為かもしれないと琳子が思っているからだとしたら…」
「まあ、そうなんだろうね」 
容易に想像できるだけにディランは静かに息を吐いた。
「で? この話、日向君にも伝えておく? 知らないとまた気づかずに琳子ちゃんを傷つけかねない気もするけど」
「…でも、知りたいなら簡単に調べられる事だ。日向が自分で、琳子に向き合って知る方がいい気がする」
「じゃ、聞かれない限りは話さないことにするよ」
「ごめんね、友だちなのに」
「ま、仕方ないよ。僕も日向君に隠し事してるからね。でも、日向君て裏で調べるより、琳子ちゃんが話せるようになるまで待つタイプだと思うけどね」
そう答えてからディランは苦笑した。
「そうだろうな。…日向は男らしいね」
「まあ、僕の場合、これがサトル君なら地雷覚悟で本人に聞いちゃうんだけど」
「はは、ディランなら何でも答えるよ。ぼくなんか…」
と呟くとサトルは気まずそうに溜息をついた。
「気になって調べたけど、踏み込み過ぎたかなって反省してる」
「その素直な気持ちを琳子ちゃんに話してみたらどうかな? 琳子ちゃんのことを心から心配して知りたいって思っての行動なんだし、琳子ちゃんにとっても心強いんじゃないかな? …それに、翠君に最後に言ったサトル君の言葉、すごくかっこよかったし」
「あ、あれは…っ」
今更恥ずかしくなったのか赤くなった。
「僕が琳子ちゃんであの場にいたなら、感動して惚れちゃうね。まあ、既に好きなんだけどね」
サトルの様子を見てふわりと笑みを浮かべた。
「恥ずかしいから、もう言わないでっ」
思い出すと急に恥ずかしさが湧いてきて、サトルは顔の前で手を振って誤魔化した。
「そう? 謙遜することないのに」
恋人の様子にディランはクスクスと楽しそうに笑った。
 
 
ざあざあと雨のように降り注ぐ滝壺の湖からはただひたすら滝の轟音のみが鳴り響いていた。
ここより東の湖。ただ、それだけの手がかりだけでここまできた。耳奥で鳴り響く轟音は鳴り止まず、全身に打ちつける飛沫は雨のように打ちつける。頭頂部から流れ落ちる雫で、髪が頬に張り付き、水を吸い込んだ服からぼたぼたと岩肌へ落ちていく。頬を伝って流れていく水は全身を撫でて靴裏から浸み出していっていた。
いつの間に穴が開いたのだろう。買ったばかりだったはずの靴がすり減って、すっかり穴が空いていた。
地図を見る限り、途中から道らしい道がなくなったのはだいぶ前のこと。獣道を抜けた山中でようやく見つけた滝壺には日向一人しかいなかった。
「………」
延々と続く轟音の中、泉の淵にいるだけで、全身はすっかり滝の雨に打たれて、ずぶ濡れになっていた。
「………無駄足、か」
前日の夜からわざわざ夜行列車から地方の電車へと乗り継いで、一日に数本しかないバスに乗って山の麓まで、あとはもう半日かけての山歩き。ハイキングコースから途中で獣道を通ってここまできた。
分かっていたただ一つの条件からここを選んだ。
別に滝に打たれに来た訳ではない。
ほとんど宛のない探しものを探して。
側から見れば、あまりに愚か。あまりに滑稽。
自分でも愚かだと笑いたくなるほどに。
今日一日でゴールデンウィークの稼ぎを全て使い切った。人一倍お金にうるさいと自覚している身だが、この使い方は無駄遣いもいいところだ。
思いつく限りの散々探しまわって、あらゆる手段を講じて。結局、何の手がかりも得られなかった。
「…津波…」
日本でこんな名前をつけられたら、きっと大問題になっているだろう。もう何度となく呼んだ名前を呟くと、日向はその場にしゃがみ込んだ。
そろそろ帰らなければならない時間だ。そうしなければ、今夜は麓の村で一夜を明かすことになる。
分かっているのに、身体は鉛のように重く動けそうになかった。
ふと、脳裏に探し人ではなく、一人の少女の顔が浮かんだ。
詳しく話を聞いた訳ではないが、彼女もまた自分と同じように探したい人がいると。自分はこうして、ほとんど宛もなく探し続けているが、彼女は。
諦めきれないのは彼女だって同じだろうと強く思う。
「見つかるといいのにな…」
琳子、と言葉にすることなく呟くと、自分でもどちらにあてたものなのか分からない言葉が溢れた。
 
 
 学園で行われた学園祭。生徒も教員たちも皆、思い思いに着飾り仮面をつけてダンスに挑んだ仮面舞踏会。
 私は最初からダンスに参加するつもりはなかった。ダンスパートナーは公認のカップル扱いをされると知っていたので、おかしな噂をこれ以上立てられないよう気をつけていた。
 けれどまさか、彼にダンスを申し込まれるとは思いもしなかった。
 ―――If I had a single flower for every time I think about you,I could walk forever in my garden―――もし貴方を想う度に一輪の花を手に入れられるなら、私は花畑の上を永遠に歩いて行けるでしょう―――
 ダンスの合間にそう囁いた彼。だけどきっと、今も花畑を歩くのは私だけ。彼は一輪の花だって手に持ちやしない。
 生まれて初めて踊ったダンスパートナーを忘れたくなくて。これ以上記憶を重ねて彼を思い出せなくなってしまう日がくるのが怖くて、私は翠の指摘通りきっと一生涯誰とも踊らない。
 「ごめんなさい」
 駅に着いたところで翠に掴まると、私は彼の顔を見上げて開口一番にそう伝えた。
 「大人げない対応だったわ。私からダンスパーティの話題を提供したのに」
 そんなことでいちいち傷ついていたら私はいつまで経っても変われない。本当は変わりたくないと願いながら、もう大切な人たちに心配をかけさせたくない。その一念だけが私に成長しなければ、と後押ししてくる。
 「……」
 ふと頭に柔らかな掌の感覚が伝わってそして、すぐに離れて行った。
 「―――いい友だちを持ったな」
 顔を上げるともうそこには翠の後姿しかなくて。彼の呟く声を聞いて私は、慌ててその背中を追いかけた。
 帰りの道中、特別私たちの間に会話はなかった。けれどその間ずっと何度も『友だち』という言葉が繰り返されて、その度に私はようやく自分がすべてを晒してもいい対等な友人を手に入れたのだと実感し身体の底から喜びが込み上げてきた。
 家に帰ると固定電話に留守中にメッセージがあった事を告げる点滅を見つけた。
 「結衣子さんからだ」
 電話番号を確認した翠が私に向かって声をかける。多分次の週末に予定している、例の件で連絡があったのだろう。一瞬翠の前で再生するべきか悩んだけれど、下手に警戒する方が悟られると思いその場で再生ボタンを押した。
 『琳子ちゃん? 結衣子です。週末の件だけど、ワゴン車を手配できたから安心してね。お土産も沢山買って帰れるわ。それじゃあ、九時頃にお迎えに行きます』
 確か有名なレストラン街がある市なので、結衣子さんは私たちを目的の場所に下した後グルメ巡りでもするのだろう。華奢な体型の割結衣子さんは自他ともに認める食いしん坊だった。
 「観光…だったか」
 リビングのソファーで寛いでいた翠が尋ねてきた。
 「留学生の友だちを連れて神社仏閣を巡るとは、なかなか渋い趣味だな」
 「異文化交流と言ってちょうだい」
 つい苦笑しながら私も向かい側の椅子に座った。
 「サトルと今日会ったディランも一緒に行くわ。それと彼のルームメイトが一人。みんな出身国が違う上に、日本の文化を学びたいってとても意欲的なのよ」
 「意外だな。彼がそこまで日本文化に親しみを抱いているとは思わなかったよ」
 指摘されてから私は無意識に墓穴を掘っていた事に気づいた。カフェでの会話でディランは日本のメジャーなボードゲームについてほとんど知らないと自ら伝えていた。
 「そうね、ディランは少し意味合いが違うわ。サトルが日本の大学に進学を目的としているって話したでしょう? まだ未確定ではあるけれど、日本に永住する事も視野に入れているわ。だから彼女の為にこの国の文化を理解しようとしているの」
 ディランの恋人に対する妄執ぶりは翠も感じ取っている筈だ。だから補正の利く範囲内でごまかした。
 「なるほど…実に、彼らしい」
 膝を組み穏やかな微笑みを浮かべる翠。それは暗に、現状では私に反論する材料がないから納得しておくよと伝えていた。
 
 その日は予めサトルと美術館へ行きお勧めのカフェへ案内する約束をしていた。けれど今朝になってから彼女から電話がかかってきて、予定を変更してサトルの家で会おうと提案された。翌日は平日なので、一泊して一緒に登校しようとまで言われたので仕方なく準備をしてサトルのマンションへ向かう。
 途中でケーキでも手土産に買うつもりでいたけれど、連休中につい食べ過ぎてしまった事を思い出し脂質の少ない和菓子を選んだ。
 「ごめんね、急に予定を変えて」
 サトルは申し訳なさそうに私を出迎えると中に入るよう促した。
 「いいのよ。私も先日…」
 と言ってカフェで中座してしまった件を謝ろうとした私を片手で制すると、サトルは私の背中を押してテーブルに着かせた。
 「はい、これ食べてみて。何度か試作してみたけど一番の出来だから」
 座るなり差し出されたのは初めて見るスイーツだった。白いプリンのようなものにきな粉と黒糖がかけられている。
 「……あ…とても…こってりしている…これは、プリン?」
 白いプリン自体は甘味がなく、けれど舌の上ですぐに溶けていく癖に濃厚な味わいがあった。きな粉と黒糖の組み合わせもとても美味しい。
 「それは豆腐なんだ」
 「え? お豆腐?」
 予想外の答えに私は思わず声を張り上げた。そんな私の反応にサトルはしてやったりと笑顔になった。
 「はは、びっくりしただろ? 豆乳から作ってみた手作りだよ。普通の洋菓子と比べて糖質がかなり抑えられているから太りにくい。…琳子は、薬の影響で血糖値が上がり易いんだろ?」
 「……お豆腐だって事以上に驚いたわ。でも勉強熱心なサトルなら知っていて当然よね」
 精神科で処方されている薬のうち副作用で体重増加を引き起こすものがあった。思春期の急激な体型の変化と相まってかわからないけれど、その効果を実感し普段からできるだけ食べるものに気をつけていた。けれど誰にも相談した事がなかったそれを、サトルは気づいて私の為にこんなに美味しいスイーツを開発してくれた。
 何だか急に胸がいっぱいになってしまい、私は熱くなる目頭を必死に誤魔化して涙を堪えた。
 「それと…甘い物でご機嫌をとるつもりじゃないんだけど、このタイミングで言う事を許して欲しい」
 一呼吸置いてサトルは続けた。
 「琳子の事件について、調べたんだ。理由は知りたかったっていうのと、客観的な情報が欲しかったから」
 「私の説明だけでは不足していたって訳ね」
 「正直言うと、そうなる。でも琳子の口から聞けなかった事も知れたよ」
 「黙っていれば、こんな風に場の空気を悪くする結果も避けられたんじゃないかしら」
 「まぁね。でもぼくは、琳子が怒ればいいと思っている」
 言葉とは裏腹にサトルはニッコリと笑いかけてきた。何となくそういうところが恋人と共通するものを感じ、私は逆に毒気を抜かれた気分になった。
 「誰にでもいい顔をして愛想を振りまくのは大切だよ。人間関係を潤滑にする事に於いて、琳子はかなり才能がある。だけどぼくは、琳子が何に憤りを覚え、喜び、哀しむのかを知りたかった。多少乱暴な方法でもとらないとさ…きみって本当にガードが堅いもん」
 「褒められて貶してまた褒められた…って感じかしら」
 苦笑する私に釣られてサトルも笑った。
 「でもね、自分からすべてを晒す覚悟も必要だとは思う。だから申し訳ないけど、ぼくの昔話に付き合って欲しくて、こうして美味しいものと座り心地のいいクッションを用意してみたんだ」
 なるほど、と頷きもう一口豆腐スイーツを頬張ると私は傾聴の姿勢をとった。
 「ディランにも話したけど…面白くない話だよ。病気を理由に迫害されて、結果的に復讐を誓った子の話だから」
 砕けた口調でサトルは語り始めた。その壮絶で過酷な半生について。
 話し終えてからしばらく、私は何と声をかけていいのかわからず黙り込んでいた。
 「…正直言って…」
 沈黙がいつまでも続くのが恐ろしくなり、私は思いつくままに口を開いた。
 「これまで以上に、サトルが…とても強くて揺るがない精神を持つ、素敵な人なんだって思ったわ」
 サトルは意外そうに私を見詰めた後、相好を崩して微笑んでくれた。 
 「下手な慰めを言われるよりずっといいね。よくみんな、ディランを執念深いって言うけどぼくも大概だよ」
 「似た者同士のお似合いカップルね」
 「そういう事だ」
 軽口を叩くとサトルは何か緊張が解れたような、そんな穏やかな表情を見せた。
 「秘密を何でも打ち明けるのが友だちだとは思わない。言いたくなければ一生墓場まで持って行けばいいし、聞き流して欲しいならいつだって忘れる。だけどこれだけは信じて欲しいんだ」
 サトルは真剣な表情で私を見詰めた。
 「苦痛というものは、客観的に量れるものでは決してない。きみが辛いと言えば、それがどんな内容であってもぼくは助けてあげたいと思うし、その程度の事で悩むなだなんて絶対に言わない。だからもしも過去に、琳子を利用しようとして近づいてきた輩がいたなら。ぼくはそんな連中とは違うって覚えていて」
 正直言うと、これまで何度も私だけは信じて…と語りかけてきた友人たちは大勢いた。けれどその度に私は一切の損得を絡めずに友情は成立しないのだと学んでいった。同時にきっと私には心から信頼できる他人なんて絶対に作れないという諦めも芽生えた。
 学ばなければいけない。他人と心地のいい距離の作り方や、自分が傷つかない方法を。だってそうしなければ耐えられなかった。翠は上手にこなしていくその術を、私も早く手に入れなければ置いて行かれてしまう。
 「…ねぇ…どうして、そんなに私に肩入れするの?」
 ある意味それは純粋な疑問だった。出会って数か月しか経っていない私に、サトルがそこまで一生懸命になる理由が何も思いつかなかった。
 「そうだなぁ…」
 サトルは腕を組んでしばらく悩んだ。
 「多分日向は、琳子に一目惚れしているから一生懸命なんだろうな。ディランはぼくがいるから。…肝心のぼくは、きっと―――琳子ほどの性悪を知らないから興味深いんだと思う。最初の興味はそれだったよ」
 「…っふふ」
 一切言葉を飾らないサトルの発言に思わず吹き出してお腹を抱え笑ってしまった。
 「ひどいわ。私が性悪って…あははっ」
 「でも否定しないところを見ると多少の自覚はあるだろ?」
 「意地悪ね」
 何と言えばいいかわからず肩を竦めると、私は壁に凭れ掛かり天井を仰いだ。
 心はとても落ち着いている。だから今なら、話せる気がしてきた。
 「…人と違うって言うのが、とても嫌だったの」
 幼い頃はこの薄い色素の所為で周囲から浮いていた。外見が少し違うという理由だけで特別視され、嫌われて、排除された。ハーフの同級生や外国籍の子どもたちはいたけれどその当時の私は生粋の日本名の影響もあり、より異質に見られていたのだろう。
 「自由奔放な母親と片親しかいない生活は一方的な先入観を持たせたわ。だから私も翠も必死に身の振り方を考えて、ずっと勝手に下される自分の評価に敏感になっていった。母は馬鹿げてるって言っていたけれど…ふふ」
 今となっては母の言う通り過ぎて反論もできやしない。けれど幼い私たちは自分を守る盾を持っていなかった。世間から向けられる攻撃に対抗する手段を選んでいる余裕もなかった。
 「そうして気がつけば…無難に嫌われない人生を送るつもりが、都合よく私を解釈されて好かれる傾向が強くなってしまったわ。当然よね。嫌われたくなくて私は、誰にでもいい顔をしてきた訳だもの」
 結果があのストーカー事件に繋がるまで、私はその方法が間違っているとは思わなかった。勉強と言うにはあまりに高い代償だったけれど。
 「だから…と言う訳ではないけど私は…誰かに好かれるのが怖い。誰かを好きになるのも怖い。これまでの関係を一気に壊してしまう危険性を孕んでいるから」
 口にしてからしばらく私はサトルから目を逸らした。彼女がこの告白をどう捉えるかが気になって、うまく想いを伝えきれず誤解を与えてしまう可能性を考えると胃が捻じれるように痛んだ。
 「実際にぶち壊された経験があるんだ。臆病になって当然だよ」
 そっと肩を叩くとサトルは優しく言葉を紡いだ。
 「やっと…琳子の本音が聞けた」
 たった一言なのに。私の涙腺を破壊するだけの威力は十分に持っていた。
 「ずるい…わね。サトルが男の子だったら…きっと、今の瞬間に惚れていたわ」
 「えっ、いや、ごめん。そんな泣かせるつもりはなかったんだ…っ」
 「ダメ、許さない」
 慌てるサトルの反応につい悪戯心が湧いてきて私は涙を拭いながら微笑んだ。
 「その代り、今日は沢山時間があるから…色々と聞かせてもらうわよ」
 「お手柔らかにお願いするよ。琳子って容赦なさそうだから」
 そして私たちは顔を見合わせて笑い出した。
 
 
 
 
「さぁ、噂に惑わされた愚かな貴方たちの為に。私の破滅を願う哀れな貴方たちの為に。私は言って差し上げます。青い小鳥が幸せを運ぶと言ったのはだぁれ? あれは子どもが青く塗ったただの鳥ですよ」
彼女の言葉に、広場に集まった民衆たちは一同に黙り込んだ。そして、誰からともなく手にしていた、赤く染めた斧や鎌を足元に置いていった―――
 
                           (『噂を運ぶ青い鳥』より)
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