片足を失くした人魚

青海汪

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第三話 食い尽くされた夢の家

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午後の授業の終了を告げるチャイムが鳴り出すと、生徒たちはそれぞれに立ち上がり昼食をとり始めた。
「琳子!」
名前を呼ばれて廊下を見ると、サトルがディランと共に手を振って立っていた。
「サトル…! 体調はもういいの?」
「うん、心配かけてごめんね。ちょっと寝坊しただけだから」
「ちょっと寝坊って、無理は禁物だからね。しんどくなったらすぐに言ってね」
「ディランも心配し過ぎだよ」
笑いながら応えると、サトルは持っていた鞄を私に見せた。
「ゆっくりしていたら暇だったから、お弁当を沢山作ったんだ。琳子も昼は学食か購買だろ? 一緒に食べよう」
「お邪魔していいの?」
サトルに、と言うよりもその恋人のディランに尋ねた。せっかく二人だけの時間を設けようとしているのなら、私はお邪魔虫かと思えたけれど彼はふわりと柔らかい笑みを見せてくれた。
「もちろん。琳子ちゃんはサトルくんの大切な友だちだからね」
「ありがとう、じゃあ。お言葉に甘えて」
心からの言葉に、私は遠慮なく応じることにした。そして私たちはサトルに連れられて普段は立ち入りが禁止されている屋上に向かった。
「ここは鍵が閉められているんじゃないの?」
階段を上がって屋上の入口前まできてから、普段から生徒の出入りが禁じられている扉を見詰めて尋ねた。
「実は園芸部は例外なんだよ」
と言ってサトルは制服のポケットから鍵を取り出して扉を開けた。
初めて出る校舎の屋上には、様々な種類の草花が植木鉢に植えられ並んでいた。同時に園芸部が例外である理由がすぐに納得できた。
「交替で昼休みの時間に、毎日ここの植物の世話をしているんだ。今日はたまたまぼくの当番だから」
空は素晴らしく澄み渡り色鮮やかな花たちが暖かい春風に吹かれている。
「綺麗だよね。サトルくんたちが頑張ってるだけあるよ」
色とりどりの花を眺め、ディランはサトルを振り返った。
「ね? サトルくんのお気に入りの花ってある? せっかくだからお花の傍でお昼にしたいし」
「それなら木香薔薇かな」
と言ってサトルはフェンスに枝葉を伸ばして咲く薄黄色の花を指差した。小さな八重咲きの花が身を寄せ合って咲いており、大輪の薔薇のような華やかさとは違う素朴な美しさがあった。
「今がちょうど開花時期で、夏には剪定しなくちゃいけないんだ。それに木香薔薇は棘がないから近づいても安心だよ」
「素敵ね。花言葉って…何かしら?」
「確か…幼い頃の幸せな時間、私は貴方に相応しい、とかだったな」
「ふふ、素敵な花言葉だね。なんだか熱烈な告白されてるみたいで嬉しくなるね」
「……」
何となく恥じらいを覚えてしまったのかサトルは頬を赤らめた。
「は、早く食べよう。休み時間がなくなっちゃう」
サトルは鞄からいくつものお弁当箱を取り出し広げてくれた。中身は出し巻き卵や金平ごぼう、焼き魚に煮物が数種類と和食メインと、サンドイッチや唐揚げ、タコさんウインナーと言った洋食を詰めたものと弁当箱毎に系統が違った。確かに体調が悪ければこれだけの種類を作るのは無理だろう。退屈だったから、というサトルの説明に素直に感嘆し私は喜んだ。
「美味しそう…っ!」
「さすがにデザートまでは持ってこれなかったけど、足りるかな」
「わぁ、ご馳走だね」
色とりどりのお弁当の中身を覗き、ディランも目を輝かせた。
「ね? これは何?」
金平ごぼうが気になるようでそれを指し示した。
「人参とごぼうを甘辛く炒めたものだよ」
持参した紙皿に金平ごぼうを取り分けてサトルはディランに渡した。
「一人でよくこんなに作れたわね」
「どれも美味しそうだよね。てっ、体調崩して寝坊したんだよね? まさか…このお弁当作ってて体調崩したとか…?」
「違うよ」
恋人の指摘にサトルは小さく手を振って否定した。
「昨日は楽しくてなかなか眠れなかっただけなんだ。珍しく寝坊したから、少し家出休んでいただけ。暇だから作り出したら熱中しちゃって」
「じゃあ、身体は大丈夫なの?」
「うん。心配かけてごめんね」 
「よかった。…ほっとしたよ」
安堵の表情を浮かべた。
「…じゃ、せっかくサトルくんが作ってくれたんだし、お弁当食べようか」
「いただきます」
最初に目についたサンドイッチを食べて私はその味付けを絶賛した。
「美味しい…っ」
「うん、すっごく美味しいよ。これ」
気になっていた金平ごぼうを食べてディランも笑みを浮かべた。
「よかった。二人とも好き嫌いがないから作り甲斐があるよ」
「一応あるにはあるのよ。美味しいものが大好きで、美味しくないものが嫌いなだけで」
「ふふ、まあ不味いものは苦手になるよね」
苦笑しつつも、ディランは唐揚げをパクリとつまんだ。
「でも、サトルくんの作ったものはどれも美味しい。…そう言えば琳子ちゃん、学校には慣れてきた? 前の学校との違いとかに戸惑ったりとかしてない?」
「そうねぇ…。やっぱり日本の学校は楽ね」 
ディランの問いかけに少し考えると、私は小さく笑い肩を竦めた。日本に帰ってようやく落ち着き始めた近頃を思うと、やはり生まれ育った環境が大きいのだと実感していた。
「…ん? 前の学校ってどんなところだったの?」  
「メール・ヴィ学園っていう海外の学校に数ヶ月ほど通っていたの。その前にはイギリスの学校にもいたわ」
「そのメール・ヴィ学園って確か湖上にあって話していた?」
「そうよ。モン・サン・ミシェルみたいな感じでとても綺麗だったわ」
初めて学園を目にした時に似ていると思ったフランスの有名な修道院の名前を挙げるとディランは小さく頷いてくれた。
「そうなんだ。生徒は多国籍とかかな?」
「日本人が経営をしていたから、やっぱりアジア系が多かったわね。特に日本には姉妹校があって、交換留学もしていたみたいだから」
と言ってからディランの眩いばかりの金髪を眺めた。翠と親しかった男子学生が、彼のような綺麗な金髪をしていたことを思い出した。ただし少し癖のあるディランと違って、彼はストレートヘアーだったけれど。
「でも色々な国籍の生徒がいたわ」
「日本人が経営なんだ。アジア系が多いとはちょっと意外だったよ。外国人学校とは違うよね?」
「えぇ。詳しくは知らないけれど、海外になんか書架姉妹校があるみたいよ」
「そうなんだ、初めて聞いたよ。ね? ここと学園だとだいぶ環境が違いそうだね。学園独自のルールとかもありそう」
「その国の文化を取り入れたイベントや習慣はあったわね」
「へぇ…なんだか興味深いね。一度行ってみたいな」
「ふふ、面白そうだね。日向くんも興味あるんじゃないかな。学園の話」
ディランは小さく笑みを浮かべた。
「残念だけど…学園は火事で全焼して、もうないのよ」
答えながら私は視線をディランから、すぐ傍らで優しい匂いを漂わせている木香薔薇へ移した。あの学園には校内の至る所に様々な種類の薔薇が常に飾られていた。けれど木香薔薇は一度も見かけたことがなかった気がする。
「だから私も、急遽帰国してこの学校にきたの」
「…え? 火事で全焼したってどういうこと?」
ディランは目を丸くして問いかけてきた。
「はっきりとわかってはいないけど、生徒による火の不始末が原因らしいわ」
「火の不始末って調理実習か何か? 普段学校生活でそんなに火は使わない気がするけど」
最もな指摘に私はどう答えていいのかわからず黙り込んだ。結局あの事件は犠牲になった生徒の火の不始末として片づけられてしまったけれど、誰もがそれ以上の追及を拒むように口を閉ざしていた。
犯人と思われる女子生徒が追い詰められて、狂っていく様を。私たちはただ遠巻きに眺めるだけだった。関わってしまえば、消されてしまった彼女の恋人と同じ道を辿ることになるとわかっていたから。学園の秘密をすべて解き明かしてしまえば、きっと問題は解決するとばかり思っていた。
だけどそんな簡単に変わらない。現実はいつも期待を裏切るのだから。
「…だからはっきりわかっていないんだろ。災難だったね、琳子」
「…ふふ。不幸続きだからお祓いしたら? って言われちゃうの」
サトルの言葉に私は肩竦めて苦笑した。この心優しい友人は、私があまり学園について語りたがらないのを知っている。だから、いつか私が話してくれるのを待つとも言わない。興味のない様子で、時々思い出したように私が語る過去をただ聞き流してくれる。
本当は、きっと一緒に悩みたいと思ってくれていると、知っている。だけどそれさえ噯にも出さない態度が、今の私には何よりもありがたかった。
「ねぇ、この卵サンド…もしかして刻んだ野菜が入ってるの?」
「うん。沢庵を入れてみたんだけど、どうかな?」
「…ふうん。まあ、いいけど」
特に興味もないようで、一人ごちるとディランもサンドイッチを食べた。
「…あ、これ確かに食べたことない味だね。…美味しい」
「本当に?」
嬉しげに頬を赤らめるサトルを眺め、恋人たちの微笑ましい姿に自然と口元が緩んだ。
「…なんだか羨ましくなっちゃうわね」
「え、そう?」
「まあね」
幸せそうに笑みを浮かべると、ディランはサトルを愛しげに見つめた私の方に振り返った。
「琳子ちゃんもきっと素敵な人に会えるよ」
「……」
しばらくディランを見詰め、私はその視線を再び木香薔薇に向けた。優しく控えめな木香薔薇の香り。大勢の生徒たちによって彩られたあの学園で、一際異彩を放っていた彼はまるで白い薔薇のように凛として。どこか危うく霞のように掴みどころのない人だった。
「……もう一度…会えるかしら」
あの学園を異常だと知った時。いずれ学園長の座が約束された彼を、どうにかして救い出せないかと悩んだ。理想と責任に押し潰されそうになりながらも、あそこでしか生きていけない子どもたちの為に。常に扉を開けておくと約束した彼。本当は誰よりも一番に、学園から逃げ出したかったはずなのに。
「…? …もしかして、学園で会った人とか?」
「…琳子?」
その声にようやく反応すると、私は慌てて我に返った。気がつけば二人の視線が集中していて完全に夢想に浸っていたようだ。
「ごめんなさい。少しぼーとしていて。…私も昨日は楽しくて、なかなか寝付けれなかったのよ。誰かさんと違って、寝坊はしなかったけれど」
「今日はたまたまだよ。明日はきちんと起きる…あぁ、今日の授業内容知りたいんだけど日向からノート借りれるかな…」
「僕から日向くんに話して頼んでおこうか?」
「いいの? …あ、いや、自分の不始末だから自分で何とかするよ。ありがとう」
「そう? あ、教室で会った方が早いかもね」
「うん。そうするよ」
「彼とはあまり教室で話さないの?」
サトルの家では特に気兼ねなく話をしていた気がした。とは言え恋人に気遣って彼の方も普段、率先してサトルとコンタクトをとろうとしていないのだろうけど。
「元々親しい訳ではなかったから。昨日は珍しく話だけど」
「日向くんの性格からするとサトルくんは苦手じゃないはずなんだけどね…」
「同じクラスだし、徐々に親しくなるよ」
「ふふ、そうだよね。そう言えば前はクラスから違ったんだっけ」
「うん。だからほとんど話したこともないし、その…ディランの家に行くたびに日向が追い出されているから、申し訳ない気持ちもあったんだけどね」
「そう? 日向くんは快く部屋を空けてくれてたと思うけど」
「…うん…」
頷きつつもサトルは、昨日の会話を思い出してそこまで快くとは言えない態度だったと思っているようだった。
「そう言えば、普段のお昼は学食なの?」
さすがにサトルがディランの分もお弁当を作ることはあまりないようなので、尋ねてみた。
「…う~ん、学食が多いかな。まあ、お弁当が必要な時とか、気分でたまには作るけど」
なんとも言えない様子でディランは苦笑した。
「朝は忙しいしね。キッチンで毎日お弁当作成中の日向くんのところに割り込むのも邪魔になるだろうし」
「すごいわね。きちんとお弁当を作るなんて…」
と言って様々な野菜をふんだんに使ったサトルのお弁当を眺めた。
「私も学食ばかりよ。朝ご飯を食べるのがやっとで、お弁当作りなんて到底…」
「琳子のお兄さんも学食なの?」
「彼の方が学校が近いから、朝ご飯の準備をしてくれるの。だからたまにはお弁当も作ってみたいだけど、大体は学食で済ませているわね」
「琳子ちゃんもなんだね。あ、そうだ。一度日向くんにお弁当作ってもらうってのはどう? 僕じゃ、何かと引き換えじゃなきゃ動いてくれないけど、相手が琳子ちゃんならはりきって作ってくるんじゃないかな」
「そんな…悪いわ」
「…でも、日向の郷土料理って気になるね。試しに食べてみたいけど」
「う~ん、サトルくんも興味あるなら…あ、じゃあ。みんなでお弁当持ち寄ってお昼を食べるとかどうかな。…琳子ちゃんは家庭の事情でちょっと作れる環境にないって伝えれば、日向くん、 その分も作ってくれると思うよ」
「それ、いいね。ぼくも味見させてもらおう」
「いいのかしら…」
何だか彼の善意に甘えてばかりいる気がしていささか申し訳ない気がした。
「いいんじゃない? 四人で食べるの楽しいと思うよ」
「そうだよ。せっかくだから、甘えたらいいよ」
「…そうね。じゃあ、御馳走になろうかしら」
「うん。…ディランの分は、ぼくが作ろうか?」
「え? ホント? いいの? サトルくん」
サトルの言葉にディランは思わず目を輝かせた。
「今日みたいにサトルくんの美味しいお弁当が食べられるんだね」
「さすがに今日みたいに沢山は無理だけど…それでよければ」
「もちろんだよ。サトルくんの作ってくれる料理ってどれも美味しいし」
幸せそうに笑みを浮かべるとディランは興味深げに煮物を見た。
「…えと、これはお箸を使うんだったっけ?」
「フォークでもいいよ」
「ありがとう」
笑みを浮かべると、フォークで煮物を取り、ぱくりと食べた。
「…美味しい」
「本当にサトルは料理上手よね」
薄味だけど出汁がよくきいている優しい味付けは、まるで俗に言うお袋の味のようでどこか懐かしい。きっとこうした手料理を毎日食べて育ったのだろうと思わせるお弁当だった。
ふと亡くなった母が得意としていた汁物の味を思い出し、私は一人でそっと笑ってしまった。特別料理が上手でもなかった彼女は、それでも育ち盛りの子ども二人に十分な栄養を与えなければと思っていたのだろう。野菜とタンパク質を摂らせるという点に重きを置いて、鍋一つでできる汁物料理を愛用していた。
お蔭で私も翠も、どんなに疲れていてもレトルト食品を使う時であっても。必ず一品は汁物を食卓に出す習性がついてしまっていた。それは血の繋がらない私たちが、同じ母の味で育ったという証拠のようにも感じられて何よりも尊い絆だと思えた。
 
 
その日の夜、買ってきた材料を集め日向は夕食の準備を始めた。バイトのない日は節約の為、夕食を作るようにしている。ディランはいたりいなかったりとまちまちなのだが、食費を持つと言われれば喜んで二人分作るのだから、我ながら現金なものだ。
「ねぇ、日向くん」
テーブルの片付け終わったらしいディランが何か言いたげに顔を出した。
「なんだ? やけに機嫌がいいな」
「まあね。今日はサトルくんと琳子ちゃんと一緒にお昼食べたんだ」
「!?」
サトルと…なら分かるのだが、友人同士の時間にディランが割り込んだのか、よくわからない事態に日向は唖然とした表情を浮かべた。
「それでね。今度は日向くんも交えて四人でお昼食べようって話になって。という訳で、日向くん。二人分のお弁当よろしく」
「は?」
今度こそ夕食の準備の手も止まると日向は訝しげにディランを見た。
「…なんでお前の分まで作ることになってるんだ」
「あ、違う違う。僕の分はサトルくんが用意してくれるって。だから、日向くんは琳子ちゃんの分を用意してあげて」
「琳子の分を?」
琳子が料理が出来ないとは思えないのだがと首を傾げるとディランは笑みを浮かべた。
「そう。琳子ちゃん家庭の事情でちょっと朝からお弁当を作りにくい環境らしくて。日向くんなら、問題ないよね?」
「ああ、まあ。一人分作るのも二人分作るのもそう変わらないが」
「じゃ、決まり。当日はキッチン独占しちゃって全然構わないから」
琳子の家庭の事情と言われても、琳子はまだこの前再会したばかり。日向には今一つピンとこない。よく考えてみれば知らないことだらけだ。
そうは言っても、コップを両手に笑顔でキッチンを出て行くディランを横目で見つつ、いつになく日向は心が浮き足立つのを感じていた。
 
 
 その日の夕食は翠と一緒に作ったので、普段よりも品数も多く手土産にいただいた惣菜の力もあって豪勢になった。
 「翠く~ん! 栓抜きってあるかしら?」
 料理をお皿に盛りつけているとリビングから結衣子さんの明るい声がかかった。早速ワインを開けるつもりのようだ。
 「琳子、そこの引き出しに入っていたから出してくれ」
 「ここね」
 栓抜きを渡すと、翠は盛りつけの済んだ料理を運ぶついでにリビングへ向かった。今日は後見人であり母の元秘書である芹沢さんと、彼女の友人であり母の元後輩でもある結衣子さんが私たちの進級祝いに駆けつけてくれたのだ。
 「琳子ちゃんもこれる?」
 「はーい」
 サトルのお弁当のように、とまではいかなくとも。そこそこ彩りよく飾りつけられたお皿を持って、私もリビングに向かう。テーブルには乗り切らないほどの料理が並び、それを囲う三人の笑顔に私もつい頬が綻ぶ。
 「結衣子さんがいるのにこれで足りるかしら」
 細身の華奢な見た目に反した健啖家の結衣子さんは、私の呟きに豪快に笑った。
 「大丈夫よ! 足りなくてもデザートを大量に持ってきているんだから」
 「…本当に羨ましいわねぇ。私なんてすぐ太っちゃうのに」
 スーツのよく似合うすらりとした芹沢さんの体格は、きっと日頃からの努力の賜物なのだろう。
 「お二人とも十分に素敵ですよ。それに今夜は祝杯を挙げる為にお越しくださったんですから、今日ばかりは存分に楽しみましょう」
 「まったく、翠くんには敵わないわね。大人でも本気にしちゃうわよ」
 「さすがは妃紗子さんの息子。でも、楽しく食べると消化もいいらしいわ。さぁ、乾杯しましょう」
 大人二人はワインで。私と翠は炭酸ジュースをグラスに注いで、四人で乾杯をすると楽しい夕食が始まった。
 「それじゃあ、学校にはすっかり馴染めているのね」
 見ていて気持ちがいいくらい、どんどん料理を胃袋に収めていく結衣子さんは私の近状を知って嬉しげに微笑んでくれた。
 「はい。希望通りの学科に進級もできたので、気の合う友だちと楽しくしています」
 「翠くんは来年には受験よね。心配はしていないけれど…必要なことがあれば何でも私に相談してね」
 後見人という立場を超えた親心を最近何かと醸し出してくれる芹沢さんは、何気ない風を装って翠の進路について言及した。以前から彼の父親との面談の際に、いずれ海外留学を考えていると聞いていたので余計に芹沢さんは気遣っているようだった。
 「ありがとうございます。まだ多方面に於いて情報収集の段階ですが、いずれ相談させて下さい」
 「けれど翠くんが留学したら琳子ちゃん、この家で一人暮らしになる訳よね? ちょっと年頃の女の子が一人って不安だわ。いっそのこと、芹沢さんがここに引っ越してきちゃえば?」
 まださほど酔ってはいないようだけど、すぐに顔に出るタイプなのだろう。結衣子さんはほんのりと目元と耳を赤く染めて、ワインを飲みながら冗談交じりに話しかけてきた。
 「そうねぇ。そーしたいのは山々だけど…さすがに琳子ちゃんのプライバシーを侵害するのは…でも、確かに防犯面でも…」
 元弁護士の肩書を持つ芹沢さんは頭を抱えて悩みこんでしまった。翠も結衣子さんもそんな芹沢さんの様子を見て楽しげに笑い、解決策のない話は保留となって話題は別のものへと変わっていく。
 ――――。
 口の中に運んだローストビーフの味が急にわからなくなって、私は急いでそれを飲み込んだ。
 同じ年のサトルは既に一人で自炊をして、きちんと自立した生活を送っているというのに。私にはまだ、周囲からの承認さえ受けることもできない。
 あの事件からずっと、周りの目が怖かった。他者から一方的に下される私の評価が恐ろしかった。どれだけ努力すれば私は、あの頃の哀れで怯えるだけの自分と切り離して見てもらえるのかわからない。
 私は…いつになれば、大人になれるのだろう。
 
 夕食の後片付けを済ませ、芹沢さんたちを見送ると私は先にシャワーを浴びて自分の部屋へと戻った。翠はまだリビングでコーヒーを片手に寛いでいた。多分そろそろ彼女から電話がかかってくる時間だから、きっと待っているのだろう。
 自室でドライヤーをかけ、長い髪を乾かすと私はいつもの習慣でパソコンに届いていたメールを確認した。
 学園で親しくなった生徒の一人と、昨日からメールのやりとりが続いていたのだ。日中は学校があるので返事ができず、夕食の時間も今日は大幅に長引いたのでこんな夜になってしまった。
 メールボックスを開き未読のメールをクリックする。
『From Kikuko
 あたしもやっとこっちの環境に慣れてきた頃よ。琳子みたく適応能力がないから苦戦してるけど。特にあの頑固ジジィとね(笑)家にいるのが一番苦痛で、行きたくもないけどなんとか学校へ通っているわ』
 彼女―――篦口菊子。愛称キッコは私が学園に滞在している間、特に親しくなった女子生徒だった。けれどサトルのようにお互いが対等とした関係とは少し違う。キッコは私に対し様々な憧れとか理想を重ね、自分のコンプレックスをわざと突く嗜虐的なところがあった。今でこそ過去の話として語れるけれど、当時は彼女の裏切りを経験し距離を置いていた時期もあった。再び仲直りをしたという訳でもなく、私は堂々と彼女を利用すると宣言し、キッコもまたそれを快く受け入れた関係にある。
 きっと母をよく知る芹沢さんたちにその話をしたならば、母親にそっくりだと口を揃えて断言するだろうけれど。
 思えば友だちと言える関係の他人は―――正直言ってサトル以外に思いつかなかった。
 マウスを動かしメールの後半を確認する。キッコは学園が炎上後、実家のある京都へ戻り私と同様に地元の学校へ通っているようだった。
 『ちょうど今が桜の季節で観光シーズンよ。海外からのお客さんが多いの。機会があれば是非琳子にもきて欲しいわ。だってあたしたちには、もっとあの学園について話し合う時間が必要な気がするの。時間が経てばあたしはどんどん忘れていきそうだから。
 P.S.学園で舌が肥えてしまったみたい。もうどんなお菓子を食べても、あの頃のように満足できないのよ! 乙女の危機的体重になってるわ』
 最後の文章に思いがけず吹き出して笑ってしまった。そして笑った顔がゆっくりと固まり、何度もキッコのメールを読み返した。
 時間が経てばどんどん忘れていきそうだと言うキッコ。きっと何気ない言葉なのだろう。けれど妙に気になってしまい、心が落ち着かない。
彼のことを思い出す度に生まれるこの胸の痛みを、私もいつか、忘れてしまうのか。忘れたくない。だって私は、まだ、この気持ちに何も名前を見出せていないのだから。
 
 
それから数日後。以前約束した通り、サトルの水やり当番の日を待って再び四人で屋上に集まった。木香薔薇を始めとするたくさんの花はまさに盛りの最中で綺麗に咲き誇っていた。
「いい天気だね」
「ホント、絶好のお弁当日和だよね」
座りやすいようにと床に敷物を敷きながら、ディランは笑みを浮かべた。その様子にまるでピクニックのようだ、とサトルは密かに微笑んだ。この日を心待ちにしてくれていたようで、恋人の姿に自然と頬も緩んでしまう。
「…こんなとこがあったんだな。まさか屋上に花まであるとは…」
周囲に咲き誇る花々に視線をやり、日向は興味深げに息を吐いた。
「こまめに部員が手入れしているからね」
「花も素敵だし、人気がないから本当に穴場よね」
琳子の言う通り、実は園芸部員たちが密かにこうして当番の日を利用し恋人や友人たちとの密かなひとときを過ごすのに使っていた。これまでそうした目的で使ったことはなかったが、サトルを含む園芸部の部員たちの公然の秘密だった。
「ここの花はね、サトルくんも手入れしてくれてるんだよ」
「そういや、園芸部員だったか」
「一応ね。そう言えば日向は何か部活に入っていたっけ?」
「…あー。僕は部活には入ってない。その、色々あってだな」
と言って日向は気まずそうに視線を逸らした。
「そういや、琳子はどうなんだ? 部活の見学をしていたとディランから聞いたが」
「通学に時間がかかるから迷っていて…。基本的に私が夕食当番だから余計に」
一通りの部活は見学し、高等部に進級してから入部を検討すると言っていたことを思い出し、サトルは尋ねてみた。
「体育系の部活は避けて、文化系のだったらどうかな? 負担が少なそうなやつとか」
「そうねぇ…」
しかしこれといって決め手のある部活が思い浮かばなかったようで、琳子は小さく息を吐いた。片道一時間もかけて毎日通学しているのだから、それに部活動まで始めてしまえば帰ってから家のことを片づけられなくなるだろう。特に部活に入らなくても十分交友関係を築けているので、本人が乗り気でなければ勧めなくてもいいだろうと思った。
「帰宅部の生徒も多いし、無理に入らなくても大丈夫だよ」
「そうだな。現に僕も部活には入ってないしな」
「ゆっくり考えてみるわ」
琳子は頷き微笑んだ。その笑顔に満足すると、サトルはおもむろにお弁当を広げた。
二人分のお弁当箱にはオニギリ、煮物に出し巻き卵、ミニハンバーグとアスパラのベーコン巻き。そしてサラダが入っていた。
「少し多めに作ってきたから、琳子や日向もどうぞ」
「わぁ、美味しそうだね」
「いいのか?」
「ありがとう、サトル」
そして琳子も教室から持ってきた紙袋を取り出した。
「お弁当は作れないけど、よかったらデザートにと思ってお菓子を買ってきたの」
袋からは抹茶を使ったクッキーなどの焼き菓子が出てきた。最近女子生徒の間で流行っている店のものだ。抹茶の他にも日本茶を生地に練りこんだ菓子や、おからが入ったものまで揃っていて味はもちろん材質にもこだわった商品ばかりだった。
「わぁ、いいね」
「…悪いな。あと遅くなったが、これも」
日向が二人分のお弁当の包みを開くと春巻きにピーマンともやしの中華炒め、きゅうりのピリ辛浸けが並んでいた。春巻きのそばにはニンジンとキャベツを刻んであった。ごはんは具のない塩握りになっていた。
「わぁ、美味しそう」
「本当だ」
 初めて見る日向の手料理にサトルは素直に感嘆した。
「…一応、こちらも多めに作ってきたからな。サトルとディランも、気になるのがあれば食べてくれ」
「ありがとう。実は日向の料理、気になっていたんだ」
「…そうなのか?」
これには意外だったのか日向は驚き、目を丸くした。
「いただきます」
早速日向の弁当からきゅうりのピリ辛漬けをとりながら答えた。
「ぼくの国と習慣が似ているようで違うから、食文化にも興味が湧いてね。…辛いけど美味しい」
「じゃあ、私もいただきます」
琳子も日向の弁当に手をつけ顔を綻ばせた。彼女は美味しいものを食べると本当に満面の笑みを浮かべてくれる。それが作り手を何よりも喜ばせる最大の謝礼だった。
「美味しい…っ」
「…なら、よかった」
琳子の笑顔に日向はほっと表情を和らげた。
「サトルくんのお弁当もらうね」
ディランはアスパラのベーコン巻きを食べて笑みを浮かべた。
「美味しい」
「ありがとう」
特に一番気になっていた恋人からの評価を聞いて安心すると、サトルもお弁当を食べた。
「それで、琳子にはあれから手紙はきていないの?」
「えぇ。特に変わったことは起きていないわ」
「そうか。…だが今はなくてもまだわからないからな。何か違和感があれば教えてくれ」
「ありがとう。…それで、前に話していたメールを送ってみたいんだけど…」
と言い、捨てアドのアドバイスを提案したディランを見た。
「ケータイは持っていないけど、パソコンならノートタイプがあるの。それを使って送ってみたいんだけど、どうかしら?」
「…そうだね。パスワードを共有して、僕たち四人が誰でも見れる状態で送るなら、ありだとは思うけど。万一のことを考えて、使うパソコンは琳子ちゃんのは使うべきではないと思うよ」
「いや、ちょっと待て。本当に送るのか?」
既に話していた内容だったものの、日向は思わず琳子を見た。 
「えぇ、そのつもりで準備しているわ」
臆する様子もなく頷くと琳子はその大きな瞳で日向を見つめ返した。終始人当たりのいい態度を貫く彼女にしては、珍しく一歩も譲る気配のないものだった。
「準備って…」
「日向くん、その話は終わってるでしょ」
「…まあ、気持ちはわかるとして」
日向の心配を汲み合いの手を入れながらサトルも提案した。
「近く処分するつもりのノートパソコンがあるんだ。それを使ってメールを送ったらいいよ。それに、その方が琳子も気兼ねなく使えるだろ」
「…いいの?」
「…いいんじゃないか。…その、今になって同じ話を蒸し返して悪かった」
「心配してくれてありがとう。だけど、宙ぶらりんのまま放置したくないの」
肩を竦めて苦笑すると琳子はサトルにも声をかけた。
「サトルもありがとう。パソコン、使わせてもらうわね」
「…で、どうする? アドレスとパスワードは共有するとしてどこかで集まって文面を書いて送ることにする? …送ってすぐに反応があるとは思えないけど、経過はできるだけ共有した方がいいと思うんだけど」
「それなら、次の土曜にぼくの家に集まって送ったらどうかな?」
「…土曜なら空いてるが。琳子やみんなの都合つくなら、それでいいんじゃないか」
「私も大丈夫よ」
「僕も空いてるし、じゃ決まりだね。土曜日に集まってメールの文面を書くことにしよう。ただ、それまでの間にも何かあるかも知れないから、何か気になることがあったら、琳子ちゃん、僕たちに伝えてね」
「えぇ、わかったわ」
「…ただのイタズラ目的だったらいいんだけどな」
傍からすれば手の込んだ悪戯のようにも思えるのだが、当事者の立場になれば不安や恐怖は比較しようがないだろう。特に彼女の過去を思うと、琳子が抱く精神的な苦痛は大きいはずだ。気休めにもならないとは思いつつ、サトルは彼女を気遣う言葉をかけた。
「…イタズラだとしても悪質だがな」
落ち着かない様子で日向は息を吐いた。
「ま、これで何かの手がかりが得られるんじゃない? 次の手を考える為にもね」
「………」
三つ編みをいじりながら琳子も黙り込んだ。
「…送る文面は、私が考えてもいいかしら?」
「まあ琳子ちゃんが返す形になってるから、琳子ちゃんが考えた方が文面は自然になるとは思うけど」
琳子には親しくなったサトルにも未だ語りきらないことがある。それはサトル自身にも言えることであった。だからもし彼女が、既にあの手紙の送り主についてある程度目星をつけていたとしたら。自身に一切の害がないとわかっていれば、こうしてサトルたちの承認を得ずに勝手にメールを送っているはずだ。けれど未だその気配はない。と言うことはある程度のリスクを背負う可能性があるということだ。そして周囲に対し細やかな気配りを決して忘れない彼女の性格を考えると、そのリスクをサトルたちにまで背負わせることを良しとしないだろう。
「……。いいよ。でも、送る前に一度読ませてね」
文面から何らかのヒントを得られるだろうか。策略を練りながら提案すると琳子は鷹揚に頷いて応じた。
「もちろんよ。…日向もいいかしら?」
「ああ、まあ…」
「一つ確約して欲しいんだけど、メールの文面で琳子ちゃんと相手にしかわからないやりとりをして、その後琳子ちゃん一人が単独で行動するような真似はしないって約束してくれる?」
ディランの提案に、琳子はしばらく黙り込んでいたが小さく笑い両手を挙げた。
「わかりました。悪巧みはしません。…ふふ、これでいいかしら?」
「……もう少し渋るかと思ってたけど、了解。問題ないよ。疑うような真似してごめんね」
「友だちを巻き込む以上、余計な迷惑はかけたくないの。…だけど、話せるタイミングになるまで待ってね。私もまだ…わからないことが多いから」
「いくらでも待つよ。琳子がちゃんと話してくれるなら」
「…男前な発言ね。ありがとう、サトル」
「………言いたくないなら言わなくても構わないが、余計な迷惑なんてことはないから、気にせず何でも頼ってくれ」
「……」
しばらく日向を見つめ琳子はふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「ありがとう、心強いわ」
「…まあ、あまり力になれないかも知れないが、できる限りの力を尽くす」
琳子を見てやや安堵した様子で表情を柔げた。
「日向くんだけじゃなくて、僕もサトルくんもいるからね。日向くんに解決できなくても、僕やサトルくんも力になるから、何かの案は見つけられるよ」
「本当に…頼もしいわね」
「そうだよ。琳子は遠慮し過ぎなんだ。もっと我儘いいになればいいのに」
それは紛れもないサトルの本心だった。
「そうそう。琳子ちゃんはちょっと我儘なくらいがちょうどいいよ。友だちなんだからね」
「あら、みんなして私を甘やかすつもりね。後で後悔しても知らないわよ?」
クスクス笑いながら琳子は肩を竦めた。
「後悔はしない。だから、安心して任せてくれ」
「……日向って本当に、変に面倒見がいいね」
サトルがディランにこっそり耳打ちした。
「…これで自覚なしだからね。先が思いやられるよ。まあ、他の女の子にこんなこと言ってるの見たことがないし、いい傾向なのかも知れないけど」
ディランはサトル同様小声で返し、苦笑した。
「無自覚か…。タチが悪い」
「だよね」
「おい、さっきから何を小声で話してるんだ」
「聞こえているわよ」
琳子も堪らず笑いながら答えた。
「…そっかあ。じゃ、日向くん、責任持って頑張ってね」
「は?」
二人のやりとりを微笑ましげに眺め、琳子は先に箸を置いて食事を終えた。
「ご馳走でした。とても美味しかったわ、ありがとう」
「…あ、ああ。なら、よかった」
「僕もサトルくんの作ってくれたお弁当すごく美味しかったよ。ご馳走さま」
続いて食事を終えたディランが手を合わせた。
「お粗末様でした。それで…次の土曜日はぼくの家に現地集合にしよう。琳子は金曜日の夜から泊まっていけばいいよ」
「いいわね、楽しみだわ」
「…あー。何か必要なものはあるか?」
「パソコンはサトルくんが用意してくれるし、特にはない気もするけど…」
何かあったかなとディランは首を傾げた。
「みんな手ぶらできたらいいよ」
お弁当を片付けながらサトルが答えた。当日できたら夕食ぐらいご馳走できたらと思っていた彼女は、今日食べた日向の郷土料理を参考にした新しい献立をワクワクしながら考えた。
「…今日は美味しいお弁当をご馳走してもらったし、何かデザートになるものを持って行くよ」
ディランはふわりと笑みを浮かべた。
「うん、楽しみにしているよ」
「じゃあ、このデザートの評価がよければ私もまた持って行くわね」
と言い、買ってきた抹茶の焼き菓子を皆に勧めた。 
「せっかく用意してもらったしな」
焼き菓子を一つもらい、日向はぱくりと食べた。
「…ん。旨い」
「本当だ。ちょうどいい甘さだ」
「甘さ控えめだけど、美味しいね」
ディランも食べて笑みを浮かべた。
「…正直、甘いものは得意ではなかったんだが、これはいいな」
「よかった…。ふふ、やっぱり男の子は甘い物が苦手よね」
「琳子のお兄さんも?」
「んー…あまり好き嫌いのない人だから…。私が通っていた学園では、常に焼きたてのお菓子が用意されていたのよ。だから生徒はみんな甘党だったわ」
「…甘党…。そればかりだと少し辛いものがあるな。辛い菓子はなかったのか?」
想像するだけで胸焼けがするようで日向はお茶を飲んだ。
「多少は用意されていたわね」
日向の反応につい笑いながら答えた。
「変わった習慣だね」
「えぇ。…ヘンゼルとグレーテルみたいよね」
クスリと笑い琳子もお菓子をつまんだ。
「ヘンゼルとグレーテル?」
どうやら知らないらしく、日向は首を傾げた。
「グリム童話の一つだよ。生活に行き詰まった親が口減らしの為に兄妹を捨てようとするっていう話。迷子になった兄妹が辿り着くのがお菓子の家。チョコレートやクッキーやキャンディでできた家なんだよね」
「…………甘そうだ…」
「…っぷ、くふふ」
堪らずサトルが吹き出した。
「まさか開口一番の感想がそれだとは思わなかった…ふふ」
「…仕方ないだろ。さっきから甘い菓子の話をしてたから、そっちに思いきりひきずられたんだ」
「ごめん、悪気はないんだけどちょっと面白くて」
未だ笑いながらも弁明した。
「だよね。まあ、日向くんの希望通り、ポテトチップスとか辛いお菓子で作ったお菓子の家も気にはなるけど」
サトル同様ツボにはまったらしく、ディランも笑いを堪えつつ話した。
「ちょっと待て。そんな希望は出してないからな」
「もう…ディランまで…っ」
琳子も我慢できなくなり笑い出した。
「……いや、あのな…。ああ、もう、勘弁してくれ…」
なんでこうなるんだかと日向は頭を抱えた。
「いいだろ、こういうのも」
ようやく笑いが収まったサトルがニヤリとした。
「…あのな。まあ、塞ぎ込むより琳子が笑顔になるならいいことにしておく」
諦めたのか日向は力なく苦笑した。
「ありがとう」
日向に向けて、琳子は優しく微笑んだ。
 
 
 午後の授業は古文だった。白居易の漢詩が朗読され、その歴史的背景等について語られる間。私は楽しい昼食のお陰でお腹がいっぱいになってやや微睡んでいた。
 窓際の席から望む桜が風に吹かれチラチラと宙を彩りながら舞う。グランドには総合体育科の生徒たちがウォーミングアップをしていた。
 「…ふぁ」
 堪らずについ欠伸が漏れてしまった。午後一番の授業ということもあって、教室全体がどこか靄のような眠気が漂っているように見える。体育は特別得意でもないけれど、たまにはあぁして身体を動かした方がいいかもしれない。どうしてもインドアになりがちな日頃の生活を思い、私は眠い頭を働かせようとグランドを駆ける生徒たちを眺めた。
 「清浄爛漫にして好く相親しみ―――」
 漢詩がまるで子守歌のようだ。怠ける癖がよく似ているので親しみが持てるというのも、何となく今の私に相応しくておかしかった。
 グランドでは集合の合図が鳴り、それまで自由に走っていた生徒たちが一か所に集まり始めた。
 「琳子ちゃん」
 後ろの席から声をかけられ、私は振り向いた。すると今にも瞼が閉じそうなくらい睡魔に襲われている友人が、必死の形相で頼んできた。
 「眠すぎるからちょっとだけ窓開けて」
 確かに。ちらほらと目立つ脱落者たちの姿に私は小さく頷いた。穏やかな先生の声が急変してしまう前に、それとなく布団の中のような教室の空気を入れ換えた方がよさそうだ。
 そっと腰を上げて窓の鍵を開ける。その時、グランドから強い風が吹きつけ窓の隙間から大量の桜の花びらが入り込んだ。
 「―――花を踏んでは同じく惜しむ 少年の春」
 詩の続きは花吹雪に驚き、歓声を上げるクラスメイトたちの声に掻き消される。薄紅色に室内の空気が染まる中。グランドからこちらを見上げる一人の男子生徒と私は、お互いを見詰め合った。
 柔らかな色素の薄い髪に彩られた白い整った顔。細くしなやかに伸びる手足と、声変わりもまだ済ませていないかのようなその声は、誰にでも平等に訪れる成長を頑なに拒んでいるように見えた。事実、彼はそうだった。同じ遺伝性の疾患で夭折した父に自分を重ね、不幸な境遇に陥った伯父の願いを拒むことができず。自らの意思で、あの学園に縛られ最後まで助けを求めながら己の手で退路を断った。
 炎上する学園に最後まで留まることを選んだ彼。私が伸ばした手を、決して取ってはくれなかった―――
 「由良川さんっ!」
教壇から鋭く向けられたその声で私は我に返った。見ると居眠りしていた生徒たちはみんな起きていたけれど、机の上も床も花びらにまみれてひどい状態になっていた。
慌てて窓を閉めてグランドを見やる。私と目が合ったと思っていた生徒は、彼とは似ても似つかない容貌で準備体操に勤しんでいた。
「―――さて、素晴らしい目覚めの効果でしたが。灯火を背にして深夜の月を愛で、落花を踏んで青春を惜しむように。皆さんも今しかないこの時を大切に、勉学に勤しんで下さいね」
飛び散ってしまったプリントを集めるクラスメイトたちを横目に、私は喉元まで出かけていた彼の名前を必死の想いで飲み込んだ。
時々こうして突拍子なくむかしの出来事が鮮明に思い出されて、私はその度にそれまで順調に歩いていた足を引き留められてしまう。目指すは『もう何も心配ない由良川琳子』というゴール。周囲から気遣われ慰められて、時に諭され背中を押してもらう。そんな風に支えてもらわなければ歩けないような自分になりたくはなかった。私が背負う傷もすべて。何もかも余すことなく、私は、心ゆくまで私だけのものとしていたかった。
―――けれど私は恵まれている。私の周りには、痛みをまるで自分が受けたように感じ、悲しんでくれる人たちがいる。そんな優しい人たちの手を煩わせたくはない。だけど、ほんの少しでいいから。こうして彼を思い出す時間を私に与えて欲しい。
 手元のノートに広がる涙のシミを見詰めながら、私は静かに唇を噛みしめた。
 
 放課後、サトルと一緒に私は下校した。あのファミレスで集合した日から、三人が順番に私を送ってくれる日々が続いている。最初の頃はディランや日向といった、普段私と繋がりのないように見える面々の送迎に周囲は困惑している様子だった。けれど適当な嘘を混ぜた説明が次第に浸透し、そうして周りから向けられてくる視線が一通り落ち着いた頃。変わらずにずっと私を遠くから見ている一人の生徒に気づいた。と言ってもこうなる予想は既についていたので、如何に彼から接触してくるのを拒むかが当面の課題だ。
 幸い実技の多い総合体育科は校舎やグラウンドの移動が多い。それに比べて私は座学中心なので、事前にディランから時間割を聞き出しておけば向こうの動きを読むのは簡単だった。
 「…あのさ、琳子」
 「どうしたの?」
 それまでの会話に一区切りがつくと、サトルはおもむろに話題を変えてきた。短い沈黙の間に言葉を選ぶ彼女を見て、私も内容を予想する。
 「実際には、もう手紙の送り主について目星はついているんだろ?」
 「……そうね」
 下手に隠すのも誤魔化すのも、彼女相手にはしたくない。対等な友人関係を築けた相手だからこそ、私はサトルに対して誠実でありたかった。
 「やっぱり」
 サトルも息を吐きながらぼやき、つい苦笑した。
 「ボディガードとしてディランはいて欲しいけど、日向はどうする? 男子に口を挟ませたくないならうまく言っておくけど」
 「……」
 まだ何も伝えていないのに、サトルの方でもある程度推測を立てていたようだ。そしてそれがほとんど的中していることに内心驚きながらも、私は首を振った。
 「いいの? …結構デリケートな話に関わりそうだと思ったんだけど」
 言外に彼がデリカシーに欠けていると指摘しているようで、今度は私が吹き出して苦笑してしまった。
 「大丈夫よ。それに…何だか彼、私の兄に少し似ているの。だから…う~ん…うまく言えないけど、彼の反応を通して翠の反応を予想してみたいっていう気持ちもあるのよね」
 「日向があのお兄さんに?」
 春休みの間、サトルは私の家に遊びにきたことがある。その時たまたま翠とも会っているのだ。大した話はしていないようだったけれど、翠は短時間でサトルに十分な好印象を残していた。
 「…似てるとは思わないけど、身内にしかわからない共通点があるのかな」
 腕を組み悩ましげにぼやくサトル。
 「もしも…翠が私の同級生だったら、あんな感じなのかしらって時々思っちゃうの」
 「あそこまで世話焼きかな?」
 またしてもイメージと実際が一致しないようでサトルは眉を寄せて考えた。
 学校から離れ、周囲にも生徒の姿はほとんど見られない。スーツを着た男女や下校途中の小学生たち。様々な人が集う雑踏に紛れる自分を意識し、私はぽつりを漏らした。
 「翠は無関心な人に程優しくしてくれるから…」
 駅に近づき踏切が電車の通過を告げて音を鳴らし遮断機を下ろしていく。
 こちらを気遣うように向けてくる親友の優しい眼差しを横顔で受け止め、私は宙を眺めた。
 「―――私たち、血が繋がっていないの」
 突然の告白は、電車の通過音と警報機のけたたましい音で掻き消された。
 「………」
 遮断機が上がり足止めを食らっていた車や人々が動き出す。
 私は心臓が早鐘を打つのを感じながらそっとサトルを見た。
 「行こう。また電車が通るよ」 
 サトルは表情を変えず私の手をとると、再び警報機を鳴らす踏切を走って越えて行った。
 ドキドキが止まらない。血の繋がりがない男女が兄妹と偽って暮らしている。余計な詮索を恐れて極限られた身内しか知らない事実を、何故伝えようとしてしまったのか。自分でも完全に予想外だった。けれど同時に私は否定したいのだと気づいた。
 例え色眼鏡で見られるような間であっても、私たちには何も疾しいことなどない。一度拗れてしまった関係を今、一生懸命ほどき再び家族になろうとしている私たちを見て欲しい。認めて欲しいと、心が叫んでいるのだと。
 ホームに入り電車を待つ間、私たちは意識してか。それとも本当に何も聞こえていなかったのだろう。別段普段と変わらないまま他愛のないお喋りを続けた。
 「あ…ぼく、この電車に乗るよ」
 準急列車が間もなく到着する旨を告げるアナウンスを聞き、サトルが何気なく呟いた。そして彼女はまるで世間話の延長でもするかのように続けた。
 「聞いたところで、ぼくの中で琳子に対する何かが変わる訳でもないけど、一応言っておくよ。ぼくからしたら、それがどうした? ってくらい、兄妹にしか見えないし実際にそうだと思うよ」
 「!」
 胸を打つその言葉に、私は不覚にも目頭が熱くなるのを止められなかった。
 「じゃあ、また明日。宿泊セット、持ってきてね」
 手を振って電車に乗り込むサトル。その表情、態度のどれを取っても、何一つとして彼女は変わらなかった。
 「―――…っ」
 それから私は、涙目になるのを必死に堪えながら電車を待って帰途に就いた。
 
 
「…なぁ、日向~。結局、ユラちゃんには会えたの?」
昼休み。購買で買ったパンを平らげた関が話題に悩んだ末に出した話題がこれだった。
教室には購買や食堂、中庭やらあちこちに生徒が出ていってしまった為に生徒は疎ら。日向の前の席は確か女子の席だった気がするが、本人不在の今は関が勝手に椅子に後ろ座りをして日向の机で昼を食べていた。
「は?」
「だからユラちゃん」
聞き覚えのない名前に聞き返すと、隣の空いた席で食べていた須藤も興味深げにこちらを見た。
「いや、誰だそれは…」
「ええー。中学ん時、オレらめっちゃ協力しただろ? 漢字わかんないーとか言って」
「漢字?」
今日もいつも通り自作した弁当を前に日向は箸を止めた。
あとには最後に食べようと残していた中華風唐揚げ。塩胡椒は今かけたばかりだったのだが。
「…由良川琳子のことだろう」
「あ」
「もーらいっ」
合点がいった瞬間には弁当の唐揚げは関の口へと消えていた。
「あ、おいっ。関っ」
「…いーじゃん、唐揚げの一つや二つ。あれからオレらに何の報告もない罰ですぅ~」
「…そうだな。俺も一つもらっておくか」
助けを求めようと振り返ってみるが、須藤まで身を乗り出し、唐揚げを一つ摘まんだ。曲がったことは大嫌い、生真面目といってもいい須藤は普段から筋を通すことを心情としている。そんな男から見ても日向の現状は納得のいくものではないらしい。
「…悪い。せっかく協力してくれたのに、話すべきだったな」
「やりぃっ。じゃ、唐揚げをもう一つ」
「駄目だ」
調子に乗る関を止め、日向は二人を見た。
「で。どーなの? ユラちゃん、見つかった?」
「由良川だ。まず、その呼び方をやめろ」
女子との距離感がわりと近いディランとはまた違うが、関もどうも距離感がおかしいとつくづく思う。
「ええー。本人いないからいーじゃん。本人の前ではちゃんと由良川さんて呼ぶし」
ギロリと睨み付けると睨みが効いたのか、関は渋々了承した。
「ひなちゃんの意地悪」
「ひなちゃんと呼ぶな!」
「で? 結局どうした?」
茶番劇に付き合う気はないらしく、須藤があっさりと割って入った。
「…会えた。色々迷惑かけて悪かったな」
日向のその返答を聞くと二人の表情は綻んだ。
「ひなちゃん、こういう時は『ありがとう』だって」
「そうだな」
「お前らな」
こんな時、関の軽口は日向の心を軽くする。そんなところがどこかディランに似ている気もするが、あそこまで突き詰めた変わり種ではないと思う。
「まあ、せっかくユラちゃんと会えたんだし、よかったんじゃない?」
「由良川だ」
「これで日向も部活に専念出来るだろう」
「あ、そー言えば、ひなちゃん帰宅部だったっけ? いーね、いーね。どこに入んの?」
中学時分、家の事情により部活には入らないと伝えて以来、二人は高等部に上がったらいけるかもとわずかな望みをかけていたらしい。それを無下にしたくはないが、そうもいかなかった。
「…その、家の事情で部活はやっぱり無理だ…」
バイトを入れて生活費を稼ぐ以外にも日向の脳裏にはやけに個人的な事情が浮かんでいた。
再会の喜びでうっかり口走ってしまった、一人の友人のこと。
日本で消息を絶ったかつての親友の行方を探してはるばる日本にまで来たなんて、自分で考えてもあまりに無謀。あまりに愚かだ。
あてもない友人探しに気のいい日本の友人たちを巻き込みたくはなかった。
琳子には再会出来たが、探す友人には会える保証は一切ない。だというのに。琳子を自らの面倒事に巻き込む気はない。琳子自身現在においても、多くの悩みや問題を抱えているのを日向とて知っているというのに。
――何故、彼女に自らの問題を話してしまったのか。
きっとまだまだ日向が知らない多くの事情や問題があるだろうに、自分でも自分がわかりそうになかった。
 
 
「じゃあ…その痴漢事件でディランとは親しくなったのね」
琳子がサトルの家に宿泊する約束をしていた金曜日がきた。普段サトルが先に降りる駅で琳子も下車し、二人で夕飯の買い物をしながらサトルは彼女に尋ねられて恋人との馴れ初めについて話して聞かせた。
「うん。まぁ、目立つ人だったからぼくも入学早々に顔と名前くらいは覚えたけどね。接点なんて一切なかったから」
入学早々に周囲の女子生徒たちが噂をする金髪の先輩男子学生。サトルにとってディランの認識とはこの程度だった。学年も共通する友人もいない二人が何故付き合うまでに至ったかと言うと、偶然にも同じ電車に乗り合わせたことがきっかけだった。
休日に所用で普段は使わない沿線で出かけた日の帰りだった。溜めていた小さな用事を片づけ帰途についたのはもう夕方。周りは行楽帰りと見られる乗客で車内はひどく混雑していた。当然席は一つも空いてはおらず、サトルも吊革に掴まって自分が下りる駅までぼんやりと窓の外を眺め待っていた。と、その時。臀部に違和感を覚えた。これだけ混んでいるのだから誰かの鞄や何かが当たっても仕方ないと思ったが、角度を変えても執拗に触れてくるそれにすぐに違和感は確信に変わった。
同時に沸き立つ激しい嫌悪感。もうじき次の駅に到着し、下手をすればそのまま逃げ出されるかもしれない。そう思うと手段を選ぶ理由はなかった。
サトルは鞄から裁縫セットを取り出すと、迷わず自身の下半身に指を這わせるその手に安全ピンを突き刺した。
『―――イィッ!!』
野太い男の悲鳴が上がり周囲も痴漢の存在に気づいた。犯人の男は流血する手を押え取り乱し、駅に着くなり車内から飛び出そうとしたが間髪入れずにサトルが大声で叫んだ。
『その男は痴漢ですっ!』
誰よりも一番に反応し、見事に犯人をホームで組み敷いて捕まえてくれたのが偶然乗り合わせていたディランだったのだ。
「そんな風に助けられたら気になっちゃうものだと思うけど…まだその時点で、サトルは好意すらなかったのよねぇ」
不思議そうにぼやく琳子を見て、サトルもつい肩を竦めた。
この一件からディランの方がサトルに興味を持ち、何かと口説かれるようになり紆余曲折を経て現在の形へと落ち着いた。
「そういう琳子だって…誰かさんが異様に気にかけて親切にしてくれているけど、そんな風には見てないだろ?」
「あら、耳が痛い話ね」
琳子もペロリと舌を出して笑って見せた。楽しくお喋りを交わしながら二人は夕飯の材料と、おやつを買い込みサトルのマンションへ向かう。その途中で小さな和菓子屋を見つけた琳子が足を止めた。
「こんな所に和菓子が売っているのね」
「あぁ、時々寄るけどここのお菓子は美味しいよ。甘すぎないから誰かさんも喜ぶんじゃないかな」
「じゃあ、サトル一押しの和菓子ってことで買ってくるわね。誰かさんにも食べて欲しいみたいだから」
「え、ちょっと! それは誤解だから…っ!」
慌てて訂正しようとするサトルに手を振ると、琳子は笑いながら和菓子屋に入っていった。この手に関しては琳子の方がいくらか上手だという認識が最近サトルの中に芽生えていた。本人から話してくれない限り、サトルも深く追求するつもりもないが。それでもやはり年頃の二人なので恋愛についての話題は自然と出てくる。琳子がその胸に誰かの面影を宿していることはそれとなくサトルも感じていた。
けれど話したがらないし、そこに触れるのをいつも拒んでいる気がする。深く詮索するつもりはないが、過去の痛ましい事件が未だに尾を引いているように思えて仕方がなかった。
「わらび餅も買ってきたわ! それと苺大福も。おやつに食べましょうよ」
大きな袋を腕に下げて戻ってくる琳子を見て、サトルは一体何人分買ったのだろうと苦笑しつつも頷いた。
「誰かさんは甘いもの苦手だよ」
サトルの指摘に、琳子は肩を竦めて笑って見せた。
 
 
 夕飯は二人で色々な具材をトッピングしたピザを焼いて食べた。高等部にあがってからはクラスも違うので共通の話題は以前より減ってしまったけれど、それでもお喋りに夢中になって途中で何回かピザを焦がしてしまいそうになった。
 「何だかずっと笑ってる気がするわ。口の周りの筋肉が痙攣しちゃいそうよ」
 「ぼくも今までで一番腹筋を使ってるよ。軽く筋肉痛だ」
 そう言って私たちは再び顔を見合わせて笑った。こんな風に友だちの家でお泊りをして過ごすなんて初めての経験で。本来の目的も忘れてしまいそうなくらい楽しかった。夕食の片づけを済ませてからサトルの提案で課題に取り組む間を除けば、私たちはずっと喋り続けていた。
 「寝間着のサイズは問題ないみたいだね」
 シャワーを浴びた後、借りたパジャマを着て出てくるとサトルはほうじ茶を用意して待っていてくれた。
 「今度泊りにくる時用に置いておいたらいいよ」
 「ふふ、ディランがヤキモチ妬かないかしらね」
 「い、いや! ディランを泊める訳ないだろっ」
ドライヤーを借りて髪を乾かす私の後ろでサトルは声を裏返させて反論した。
「…手伝うよ」
長い髪なので乾かすのにいつも手間がかかる。サトルがブラシを持ってきて髪を梳き始めながら呟いた。
「綺麗だね。毛先まで丁寧に手入れされている」
「伸ばすなら、きちんとケアをしなさいって小さな頃から言われて育ったのよ」
初めは何気ない憧れから伸ばし始めたけれど、長い方がよく似合うと周囲に言われ気がつけばロングヘアが私の定番になっていた。
「サトルは伸ばしたことはあるの? 今の長さもサトルらしくて素敵だけど」
「……むかし、肩くらいまでなら」
大方乾いたのでドライヤーを片づけるとブラシを受け取り、毛先までブラッシングをしながら彼女の話に耳を傾けた。癖のある私と違いサトルはストレートヘアーだ。黒く艶やかな髪は短いけれど、風に吹かれる度に絹のような輝きを発する。
「病気をして、全部抜けた時に長いと余計に惨めになるって気づいたから。それ以来はずっと短髪にしているんだ」
何気ない様子でそう語るとサトルは少し唇を尖らせた。
「でもその所為でよく男に間違えられる。失礼な話だよ」
「ふふ。むかしのサトルはわからないけど…ディランといる時なんて、女の私でもキュンってするくらい可愛いわよ」
「だ、だから…っ! 琳子はからかいすぎだよっ」
さり気なく織り交ぜられたサトルの過去。大病を経験し今でも身体が弱いと聞いていたけれど、その経験はきっと私の想像を超える辛いものだったのだろう。時折過保護すぎるとも評される恋人のサトルに対する接し方も、案外事情を知れば納得いくものなのかもしれない。
「下しているところ、久しぶりに見るよ」
乾いた髪を眺めながらサトルは呟いた。春休みに二人で遊んだ時に一度下ろしたまま会ったことがあったけれど、普段からくくっているので確かに珍しい姿かもしれない。下していると日本ではよく年齢不詳と言われてしまうので、プライベートでもアップにしている方が多かった。
「あ、でも明日日向がくるだろ? 日向の前では髪は結っていた方がいいよ」
そう言えば初めて会った時にもボタンに絡まった毛先を解く為に、下した際に彼はひどく動揺していた。大して気に留めていなかったけれど、何か宗教的な理由でもあったのかしら。その疑問をサトルに尋ねると、彼女もやや首を傾げ曖昧さを残しつつ答えた。
 「ぼくも詳しくは知らないけど…日向の国では髪を人前で下すことに特別な意味があるらしいよ。ディラン伝えに聞いた程度の知識だけど」
 「そうなのね」
 サトルが丁寧にブラッシングをしてくれたお蔭で、いつも以上に指通りのよい髪の感覚を楽しみながら私も頷いた。
 「どんな国なのかしらね。料理もおいしかったし…」
 「興味があるなら明日聞いてみたらいいよ」
 
 
その日は朝からそわそわした心地で日向は落ち着かなかった。約束の時間は昼頃。サトルの家でお昼を食べてそれから肝心の行動に移すと何度も脳内でシミュレーションしたもののどうにも落ち着かない。今日はやけに朝から時間の進みが遅いのかとじれったくてイライラしたりもした。
「…日向君、自分の事みたいに緊張し過ぎ」
「…悪い」
サトルの家に着く時間を想定して迷惑にならないギリギリの早さで家を出れば、少しは落ち着くかと思ったのだが。朝からディランには迷惑をかけっぱなしのようだ。
「まあ、好きな女の子のピンチに早々駆けつけたくなるのは仕方ないよね」
「あのな」
ディランの軽口に反応するのもやっとのことで、ディランを置いてサトルの家へまで走りだしたくなる気持ちを必死に抑えているのもつらい。まあ、実際走りだしたところで抜群の運動神経のディランならあっという間に追いつくことは目に見えているが。
だからといって二人してサトルの家へと歩くのももどかしい。
「あれ? やっぱり日向君、本調子じゃないんだ?」
「何がだ」
「琳子ちゃんが好きな女の子ってそんなに否定しないところ。あまり動揺もしてないよね」
「!?」
開いた口がふさがらなかった。正直、現段階でディランの軽口に付き合う余裕がない。
「…う、うるさいっ。とりあえず、嫌いな奴の為にここまでしたりしないって、それでいいだろっ」
「は~い。ま、いずれきちんと自分の気持ちに向き合う必要があるけどね。今日はこのあたりにしてあげる」
ふわりと浮かべる笑みは西洋絵画で見るような文字通り天使の微笑みだ。言ってることにはどうにも引っ掛かることはあるのだが。
「あ、でも、日向君。とりあえず着く前に気持ちは落ち着かせておかないとダメだよ。気持ちに余裕がないとね、見えるものも見えなくなっちゃうよ」
「…そうだな」
 
 
マンションの前に咲く桜の木の下でサトルと琳子は花見を楽しんでいた。晴れやかな青空に、優しい風が時折吹いて花びらをヒラヒラと飛ばす。
「本格的にお花見がしたくなるわね」
回覧板を回すついでに外に出ただけなので、さすがに花見団子もお弁当も手元にはない。
「そうだね」
花吹雪の中に佇む琳子に向かって微笑むと、サトルは道の向こうからこちらへやってくる二人の姿に気づいた。
「来たよ、琳子」
 
 
遠目にサトルと琳子の姿が見え、ディランは自然と笑みを浮かべた。
「あ、サトル君!」
普段見る制服ではなく、サトルはシャツワンピースを、琳子は白のワンピース姿で髪型も変えてポニーテールにしている。その姿が桜舞う中によく映えて、日向は言葉をなくした。
「?!」
「わぁ、サトル君、ワンピース、すごく可愛い」
駆け寄ると同時に笑顔でサトルに話しかけるあたり、ディランは相変わらずのようだ。
「はは、ありがとう、ディラン」
照れ笑いをしながらサトルはワンピースを見た。
「前、琳子に見立ててもらったんだ」
「サトル、よく似合うでしょう?」
「うん、すごく可愛いよ。ふふ、琳子ちゃんも似合ってるよね、日向君」
「?!」
ここで話題を振られるとは思っておらず、日向は思わず視線を逸らした。
「私服で会うと新鮮よね」
「立ち話もなんだし、部屋に上がって」
「ありがとう」
ディランは笑顔でサトルに答えつつ、片手で日向を小突いた。
「っ!」
「何か、琳子ちゃんに言うことあるんじゃない」
「…いや、確かに私服は見違えてて、その…髪型まで変わるとは思ってなくてだな…」
「サトルに聞いたのよ。髪を下ろしたままだとよろしくないって」
クスクス笑い、ふと思いついて尋ねた。
「サトルみたいにショートでも結わないといけないのかしら?」
「え、そうだったの?」
「…サトルの話じゃないんだが。まあ、サトルの髪型なら、僕の国なら童子か出家でもしたか、あるいは既婚者なんだがな…」
何故サトルの話になるのかと複雑そうな表情を浮かべた。
「…あ、じゃあサトル君は僕と既に婚約済みとかそんな感じに見えてるってこと?」
「婚約者って…!」
真っ赤に赤面して叫ぶサトルを楽しげに眺め、琳子は更に尋ねた。
「じゃあ、下ろすとどういう意味になるのかしら?」
「!?」
顔が熱くなるのを感じ、日向は思わず視線を逸らした。
「…あ、いや…それは…」
「……?」
日向の反応に琳子は首を傾げた。
「えっと…気まずい話題だったかな」
昨日詳しく知らないまま琳子に説明した手前、サトルは申し訳なさそうに日向に尋ねた。
「…いや、日本に来てからはよく聞かれるんだが、正直答えにくい…」
「答えにくいって?」
ディランも不思議そうに目を丸くした。
「…簡単に言うと新婚初夜とか…まあ、他にもあるが似たようなものだ。…ここじゃ、髪をおろすのは特にそんな意味はないと分かってはいるんだが」
「!」
まさかの答えにさすがの琳子も頬を赤らめた。
「……初対面でいきなり髪を下ろされたら、びっくりしちゃうわよね。今さらだけど、ごめんなさい」
「…あ、いや…気にするな。ここじゃ、若い女が髪をおろしてるのをよく見かけるし、いちいち気にしないようにしてる」
出会った当初のことを思い出したのか、日向の頬はうっすら色づいていた。
「それに…僕の国の文化なんて知らないのが普通だからな」
「あ、でも、好みの女の子だと別とか」
「?! …あのな」
「ディランもあまりからかうなよ」
当惑する日向の様子にサトルが苦笑しながら間に入った。
「琳子が困るだろ」
「…悪い。琳子、そんなこと考えてないから、気にしないでくれ…」
「大丈夫よ。それより今日は、甘い物が苦手な誰かさんの為にサトルお勧めの和菓子を買ってきたのよ」
 「な、琳子っ! なんか誤解されそうだけど…よければディランも食べてもらえたら…」 
「ホント? ありがとう、サトル君」
「…そ、そうか。ありがとな」
サトルの反応に一瞬ヒヤッとしたのだが、早合点だったと分かると日向は安堵の表情を浮かべた。
「あと…その、言い忘れてたんだが、琳子。…その、私服似合ってる」
「ありがとう」
琳子は嬉しげに微笑み、四人はサトルの部屋へと場所を移動させた。
 
 
各自が荷物を下して足を伸ばしたところでサトルが飲み物を尋ねた。
「琳子からもらった紅茶とコーヒーがあるけど、何を飲む? 日本茶の類もあるよ」 
「じゃ、僕はコーヒーをお願い。日向君は?」
「…なら日本茶を頼めるか」
「わかった。琳子は紅茶にする?」
「せっかく練習したんだから、サトルのコーヒーを頂くわね」
「あ、サトル君、手伝うよ」
ディランがすかさず立ち上がった。
「ありがとう。じゃあ、カップを出してもらっていいかな」
お湯を沸かしながらサトルはコーヒーとほうじ茶の用意を始めた。実は昨日琳子の兄翠にわざわざ電話をかけて、美味しいドリップコーヒーの淹れ方を教えてもらったのだ。それまで何となく習慣化して飲んでいたコーヒーが小さな違いで、豆の香りが引き立ちまるで違う味を楽しめたのが衝撃的だった。今度はその味を恋人にも楽しんでもらおうと、サトルは慎重に準備を始めた。
温めたカップに注がれるコーヒーから豆の香ばしい匂いが漂い始めた。
「翠はコーヒーに少しうるさいのよ」
「…あー。確か兄貴だったか。コーヒー好きなんだな」
楽しげに雑談を始める友人たちの手元にそれぞれの飲み物を差し出す。春先とは言えまだ温かな飲み物が恋しい時期だ。それぞれに指先を温めながらゆっくりと啜ると日向がしみじみと呟いた。
「…やっぱり、こうして落ち着く時間があるのはいいな」
「普段から忙しくしているの?」
「…あ、いや」
「ふふ、日向君はさっきまで琳子ちゃんが心配で気が気じゃなかったからね」
「あのな」
「そうだったの…。心配してくれて本当にありがとう」
「日向は心配性だね」
サトルがニヤニヤ笑い茶化した。
「…いいだろ、別に」 
特に否定することもせず、日向は気まずそうに視線を逸らした。
「いいんじゃない? 僕たちだって落ち着く時間は必要だったと思うし」
 
 
 ディランの言葉に素直に頷いて返した。まさかこんな風に周りを巻き込む大事になるとは思っていなくて、手紙をもらった当初も一人で解決するつもりでいた。それぞれ家事と学業の両立で忙しいだろうに、誰も嫌な顔せずに付き合ってくれている。
 なんだか改めて三人の大切な友人たちの存在を心強く感じてしまい、心から嬉しくなった。
「じゃあ、まずは腹拵えだね」
湿っぽくなりそうな雰囲気を感じてかサトルが陽気に声をかけてくれた。
「そうね、準備しましょう」
二人でせっせと下準備をした餃子を始めとする中華風料理を手分けして調理すると、四人で食卓を囲んだ。
「ディランたちも普段から中華料理を食べてるの?」
「ふふ、日向君が作ると中華料理が多くなるよね」
「…そうだな。ディランが作ると洋食になるが」
「ディランが作る料理、いつか食べてみたいな」
以外にも恋人の手料理を食べる機会がなかったのか、ポツリとサトルがもらした。
「ホント? じゃ、今度は僕がご馳走するよ。前はよく作ってたんだけど、最近は日向君がキッチンを独占しちゃってて、空いた時を見計らって作ってるよ。あと、中華料理以外が食べたい時とか」
「みんな料理上手なのね」
やはり自炊をしている為か、料理のレパートリーの広さを感じてしまい素直に感嘆した。私なんて一週間の夕食のメニューを決めるのがやっとだと言うのに。
「上手って程ではないよ。日本にきてから、こっちの食材の調理方法にやっと慣れてきたくらいで」
「僕が料理始めたのって日本に来てからだよ。故郷の味が恋しくなっちゃって」
「そうだったんだ。…故郷の味って、どんな料理?」
「スープとか、キッシュとかパイ料理とかかな。肉料理とかも、ここだと日本流にアレンジされてるのが多いから」
ディランはふわりと笑みを浮かべた。
「そっかあ…」
「サトルはディランの国へ行ったことないのね」
「うん。そんな暇がなかなかとれないし、それこそ修学旅行か何かで行けたらいいんだけど」
「う~ん。確か、修学旅行って海外か国内の選択制じゃなかったっけ? 海外って言ってもアメリカやハワイとか行かれちゃうと僕の国は遠いけどね」
「今年はアメリカと九州へ行くらしいわね。ディランは去年行っているのよね。行き先は国内にしたの?」
「…一人で帰ってもつまらないし、僕は国内にしてたよ。僕からするとこの方が海外旅行だし。うう…アメリカだと僕の国は遠いね」
「どっちにしろ、お前は学年が違うからサトルと一緒に修学旅行って訳でもないだろ」
「…そうなんだよね…」
改めて恋人との歳の差を悔しがるようにディランは残念そうに肩を落とした。
「私たちは来年ね。どこになるのかしら」
 「留学生はやっぱり国内の選択が多いのかな」
「いや、それぞれなんじゃないか? 僕だと西洋圏は完全に未知の領域だからな」
「私も実は国内ってほとんど旅行したことがないのよね」
多忙な母と旅行にいった記憶はない。祖父たちの家も同じ都内だった所為もあり、長期休暇の時もほとんど遠出はしなかった。時々祖父の別荘に行くのが唯一の旅行だったかもしれないけれど、その別荘も例の事件の現場となってから処分されてしまった。
そうして食事が終わるとテーブルの上を片付けてサトルのパソコンを用意してくれた。
「そういえば琳子ちゃん。文面は考えてきた?」
「もちろんよ」
ディランの質問に微笑み応えると、私はパソコンの前に座りキィボードを叩いた。
『まだ、不幸の手紙を続けているの?  R.Y』
「なるほどね」
「? 不幸の手紙ってのはなんだ?」
「…思い出話よ」
「…日向君には今度不幸の手紙がどんなものか教えてあげるよ」
「今度ってな」
しばらくしても返信がなかった為、サトルがおやつの和菓子とお茶を配った。甘さ控えめと言う和菓子を手に取ったその時パソコンがメールの受信を表示した。三人の視線が一気に集まる中、受信ボックスを開き新規で受信したメールの内容を確認した。
「『誰?』…ですって」
短い問いについ苦笑しつつ読み上げた。
「思ったより早かったね。手紙を置いて、イニシャルで判断出来そうなものだけどね」
「えぇ、でも手紙を置いてから一週間。返事を諦めた頃に送ったメールだもの。食いつき気味になるのも仕方ないわね」
言いながら再びパソコンに返信内容を入力した。
「それに不幸の手紙については言及していないわ。イニシャルと文面から、ある程度送り主が私だと確信しているけど確認を先にしたい…って思っているのかしらね。臆病で、慎重な性格はあの事件のせいかしら」
まるで自分を鏡に映しているような性格に思え、つい卑屈な気分が湧いて出た。けれどそれを笑顔で隠すと私は返信内容を三人に示した。
 
 
『ストーカー殺人事件の被害者』
「多分、私と同じ被害者の一人だと思うの」
「…それがむかし、不幸の手紙を送ってきた奴?」
「琳子の他にも被害者がいたのか?」
あまり詳しく聞けていた訳ではないので、日向は怪訝そうに尋ねた。
「えぇ、余罪がいくつかあって同じようにストーカーをしていた女児がいるとは聞いていたの」
メールを送信し、琳子は肩の力を抜くとお茶を飲んだ。
「そうなのか」
「その被害者に心あたりってある?」
「……むかし、手紙を貰ったの。みんなが不幸になればいいって書いてあったわ」
琳子は肩を竦め苦笑し続けた。
「事件の影響で私の名前は知れ渡って、住所も特定された状態だったから…。証拠はないけど、私に一度会いに来てくれたのよ。お兄さんと一緒に」
「もしかしてその兄が同じ学校なの?」
「まだ断定はできないけど…多分そうね」
小さく息を吐き出し再びお茶を飲んだ。
「来てくれたのはいいけれど、タイミングが悪くて話せなかったの。だから…もし、あの手紙の送り主が彼女なら、話したいことを聞いてあげようかしらって思っていて」
「ね? その子の名前って分かる?」
「…向井…」
少し言いづらそうに琳子は答えた。
「確定ではないの。証拠はないから」
「ああ、彼ね…」
「知ってるのか?!」
「同じ部活だからね。妹さんの方は知らないんだけど」
「じゃあ、兄の方が下駄箱に手紙を入れたのかな」
「そこはまだ分からないんじゃない? 琳子ちゃん、妹さんの方も知ってる?」
ディランの追及に琳子は首を振った。
「一度見かけた程度だから…」
その時再びメールが届いた。
『手紙を読んでくれましたか? 私は、アナタに会って話がしたいです』
「は?」
「会って話がしたいなんて臆病で慎重な性格というわりに随分大胆なんだね。…そう言えば、琳子ちゃん。妹さんとは同学年?」
「私より…少し年下に見えたわね…」
パソコンと向かい合ったまま、画面をじっと見詰め琳子は応えた。
「…琳子は、会うつもり?」 
「………」
サトルの問いかけに琳子はキィボードの上に伸ばした指先を見詰め黙り込んだ。
「…やめておけ。妹の振りをした兄がありもしない因縁をつけて襲ってくる可能性だってある」
メールを打とうと伸ばした琳子の腕を掴み、日向は真剣に彼女を見詰めた。
「……実は最近まで、事件のことを忘れていたのよ。でも、前の学校に通っていた頃に詳しく思い出して、とても辛かったわ」
優しい手付きで日向の手を離すと琳子は微笑んだ。
「忘れたままでは、乗り越えられなかった。だからもし彼女がそのきっかけを求めているなら、私は見てみたい。彼女がどう、それを克服するのかを。…それに、最初にボディガードを名乗ってくれたのは貴方でしょう?」
「……会いに行くなら、ぼくもついて行くよ」
と言って反応を伺うようにサトルは、上目遣いにディランを見詰めた。
「……正直、今回の首謀者の可能性がある妹さんの行く末なんて知ったことじゃないけどね。琳子ちゃんとは別の人間の話だし。でも、ま。サトル君にそんな顔されちゃ、ね。僕も行くよ。人数の指定はないみたいだし。ま、あったところで、馬鹿正直に守る義理もないしね」
「ありがとう」
二人に向け礼を述べると琳子は改めて日向と向き合った。 
「色々なリスクがあることは承知だけど、私は、逃げてばかりでいたくないの」
琳子の覚悟が変わらないと感じとり、日向もまた覚悟を決めたように真っ直ぐに琳子を見た。
「…なら、僕も行く。それで琳子が前に進めるなら。ただ、危険なことはしないでくれ」
「約束するわ」
 
 
「…………」
二人のやりとりを見て何となく首を傾げるサトル。
「…ふふ。これはこれでいい関係なんじゃないかな」
ディランは穏やかな笑み浮かべ、サトルにだけ聞こえるように呟いた。
それから琳子がメールを送ったが、すぐには返信がこなかった。しばらく待っても反応がないので、気分転換がてらサトルとディランが買い出しに行くことにした。
「……琳子…って」
ディランと並んで歩きながら、サトルはポツリと呟いた。
「普段からすごく、言葉の選び方一つにしても気遣っているような子なんだ」
「…うん、そうみたいだね。普段からとても慎重にうまく周りとのバランスをとるようにしてるみたいだよ」
「だから…おかしいなって思ったんだ。メールの相手に会って、彼女がどう克服するのかを見たいって言っていたけど…普段の琳子なら手助けをしたいっていう風に話していたんじゃないかなって」
答えながらサトルは頭をひねった。
「あの言い方なら、もし乗り越えられなかったとしてもそれはそれで構わないって思っているように聞こえて……。もしかしたら、それが琳子の本心なのかなって」
「…単に自分の気持ちを素直に話してくれたってことなんじゃないかな? 取り繕うことなく。もともと人助けを主義信条にしてるってタイプではないし」
サトルほど琳子を理解している訳ではないので、ディランは苦笑した。
「そっか…」
呟きサトルはディランの手を握った。
「……ごめんね。僕じゃ、サトル君ほど、琳子ちゃんのこと分かってあげられてなくて」
「違うんだ。ディランの言う通りだって思って」
ディランを見上げ笑いかけた。
「やっと琳子が壁を崩し始めたんだね。…多分、琳子は割りと性悪だと思うよ」
ふふ、と楽しげに軽口を叩いた。
「…ふふ。最初から琳子ちゃんはいい性格してると思ってたよ」
ほっとしたようにディランも小さく笑みを浮かべた。
「ははは、さすがディランだね。…気づいていないのは日向くらいかな」
「まあ、日向君ぐらいじゃないかな。そもそもが女の子に耐性がないタイプだからね」
「……その割に、少し積極的な気がするけど…」
「あ、もしかして琳子ちゃんの手を掴んでたやつ? 完全に無意識だからこそ出来た行動だと思うけどね」
「………」
赤面し繋いでいるディランの手を握って一瞥した。
「…あの二人は、特に接点もなかった筈だろ。日向は…一目惚れだったのかな」
「う~ん。どうなんだろ。気にはなってるみたいだけど、自覚はないみたいだし」
赤くなっているサトルを見て、ふわりと柔らかい笑みを浮かべ、繋いだ手を握り返した。
「ま、僕は自覚あるけどね」
「………っ」
恥ずかしさのあまりサトルは俯いた。
 
 
ネットで検索をしているとサトルたちも帰ってきた。
「お帰りなさい。ちょうど今返信がきたのよ」
「え? なんて書いてあった?」
「具体的な待ち合わせ場所が提案されたんだけど…少し遠くて」
「…遠い?」
指定された住所を見せるとサトルは困ったように表情を曇らせた。そこは隣の県の山奥だったのだから。
「調べたんだけど、交通の便があまりよくない場所みたいで車がないと難しいみたいなのよ」
「…車かあ…。日本での免許はまだ持ってないんだよね」
「少し値はかかるが、タクシーを貸し切りで頼むか」
惹かれる提案ではあったけれど躊躇いを覚えた。確か彼はアルバイトで生活費を賄っているとサトルから聞いている。例え運賃を私が全額負担すると申し出ても、彼の性格を考えると受け入れてくれない気がした。
何よりこの住所は少し気になる点があった。これ以上心優しい友人たちを危険に巻き込ませる訳にはいかない。いざという時の保険を使う必要がある。
「……車と運転手にツテがあるわ。私からお願いしてみるわね」
「琳子ちゃんの知り合い?」
「ええ、亡くなった母の後輩よ。もしも彼女が無理でも後見人に頼めば…」
「もしその人が無理なら、日向の案で行こう」
「…その人には事情を話せるのか?」
「そう…ね。きっと力になってくれるわ」
多分喜んで私に協力してくれるだろう。けれど同時にこの件を翠に隠すのは不可能になってしまう。
他の誰に知られたって構わないけれど、彼にだけはもう、これ以上傷つけるような真似をしたくなかった。例の事件で私はさも自分だけが一番の被害者のように説明してきたけれど、実際のところは翠こそがその座に相応しい体験を強いられてしまっていたのだから。
「何か適当な理由をつけて行ってもらう? グループ研究とかなんとか」
「………無理がないか? まあ、琳子がやりやすいやり方でいこう」
「ありがとう。手配ができたら連絡するわ」
「…じゃあ、この件は一旦終わりにして…せっかくだからお花見でもしようよ」
と言ってサトルは配ってからまだ誰も手をつけていなかった和菓子を見た。
 
 飲み物と和菓子を持って私たちは、サトルのマンションから然程遠くはない河川敷に移動した。そこは桜並木になっており散歩がてら花見を楽しむ人々の姿が見られた。
「いい場所ね。毎年ここへ来るの?」
「まさか。一人じゃつまらないし、時々通り掛かりに花を見上げる程度だったよ。…」
「そうなんだ。実は僕、日本に来るまでお花見って文化も知らなくて。サトル君とお花見出来るなんてすごく嬉しい」
「私も久しぶりの花見だわ」
「さぁ、みんな座って」
レジャーシートに腰を下ろすと、サトルは水筒に入れて持ってきた暖かいほうじ茶と和菓子を広げてくれた。
「これはいいな」
周囲に咲き誇る桜を眺めると、日向も和菓子や温かいほうじ茶を見て表情を和らげた。
「わぁ、サトル君。このお菓子何かな?」
「わらび餅だよ。春らしい可愛いデザインの物が多くて買ってみたんだ。こっちは桜餅だよ」
「桜餅…? わぁ、本当に桜色だね」
二人の微笑ましいやりとりに耳を傾けつつ、私は優しいそよ風が巻き起こす桜吹雪を眺めた。
「風が気持ちいいわね」
「いい風だな」
気がつけば肩を並べていた彼が呟いていた。
 「…ふふ、珍しくディランが花より団子だね」
「あら、本当ね」
「ふふ。花はね、日本に初めて来た時咲いてて、その後毎年見てるから。お花見の文化も知ったんだけどやったことなくて。和菓子は初めてみるからついつい」
気恥ずかしそうに小さく笑った。
「そうだったんだね。花もいいけど、今は花より団子で楽しもうよ」
と言ってサトルは桜餅を食べた。
「日向の国にも、和菓子のようなお菓子はあるの?」
「似てはいるが少し違うかもな。揚げ菓子なんかもあるし」
「あ、ごま団子とか?」
「まあ、そんな感じだな」
「美味しそうね。月餅も食べるのかしら?」
どちらかと言うと大陸系の食文化に近い印象を受ける彼の母国の習慣を思い尋ねた。
「ああ、まあな。…そうだな。よければ何かこちらの菓子を持っていくが」
「いいの? 嬉しい…っ」
「琳子は甘い物が好きだもんね」
「そうなのよ。でも太りやすいから気をつけているの」
それまでは然程気にならなかった体型が、ここ最近変化し始めていた。体重も大きな変化はないけれど以前よりも少しずつ。けれど確実に私の身体は大人に近づいている。
いずれ母のような女性らしい身体つきになるのだろう。その頃にはもしかしたら、誰か違う人を想っているのかもしれない。子どもとか、結婚とか…未来の事過ぎてあまりに今の私に不釣り合いで考えられない。考えたくもない。私はまだ、まだ、まだ…ずっと子どものままでいたい。
「来年もお花見したいね…。ディランが帰る前にでも」
「そうだね、来年も。ああ、でも…その時は感極まっちゃって、サトル君を僕の国に拐っちゃうかも」
「…えっ? え、え?!」
困惑するサトルを見て私は思わず、先ほどまで悩んで否定してしまっていた言葉を口にしてしまった。
「結婚ってことかしら?」
「ああ、いいね、それ」
私の疑問をまさにいい提案とばかりにディランは笑みを浮かべた。
「おい」
「あ、でもサトル君の年齢じゃ、まだ無理なのかな…。まあ、将来的にはサトル君に僕の国を見てもらいたいし、当然、結婚も考えてるけどね」
「…真剣交際ね…」
真っ赤になって黙り込むサトルを一瞥し言葉を選びつつ応えた。
「…そこまで相手に想いを寄せることができるなんて…羨ましくなるわね」
「ディランの場合、さすがに気が早い気がするんだが…」
「……ぼくの国では割と早婚で…。もう所帯を持つ人もいるけど、でも、まだ学生だし…っ」
「そうなの?! じゃ、サトル君が卒業したら…っ」
「おい、ディラン」
「いや、あの…っ」
慌てて口を開くもうまく言葉が出てこず、サトルは視線を彷徨わせつつ答えた。
「そもそも、日本にわざわざ留学したのもどうしても入りたい新薬の研究開発施設があるからで…け、結婚は…さすがに進学の差し支えに…っ」
「あら、じゃあ…差し支えなければやぶさかではないということ?」
必死に否定しようとしているように見えて、実際には決して本心ではない様子がおかしくてつい意地悪をしてしまった。
「琳子っ」
「ホント? 進学に差し支えなければ問題ないんだね?」
恋人の発言に思わず目を輝かせ、ディランはサトルの手を握った。
「じゃ、結婚はお互い落ち着いてからとして、卒業したら婚約しよ? 研究施設でサトル君に余計な虫がついたら困るしね」
「け、結婚とか婚約…って、そ、そんな簡単に決めていいのかよっ! 後から取り消しって大変なんだぞっ」
「…取り消しはないよ。時期はずれ込むかも知れないけど、いずれそうしたいと考えてるよ。……ただ今のはよくなかったよね、ごめんね。サトル君ときちんと相談しないといけないし、僕 自身、身を立ててからの話だしね。…今のは僕の希望。サトル君が他の男に取られないか心配でつい…」
「……………その時がきたら、きちんと言って欲しい。そうしたら、ぼくも真剣に考えるから」
「勿論。その時が来たらきちんと言わせてもらうから」
サトルの手を両手で包みこむと、ディランはふわりと絵画に描かれる天使のような笑みを浮かべた。
「…うん」 
はにかみながらもサトルはディランを見詰め頷いた。
「…ふふ。その時が楽しみ。ああ、でもその前に僕の国、一度は見てほしいな。サトル君の国も見てみたいし」
「そうだね。いずれは観に行きたいな。…で、何だかごめんね」
取りあえず二人の間で話がまとまるとサトルは申し訳なさそうに眉を寄せ、私たちに視線を向けてきた。
 
 
一方的に二人の仲の良さを見せつけてしまう形になってしまい、サトルは恥じらいと申し訳なさでいっぱいになり謝った。
「全く気にしてないわ。仲の良さを再確認できたくらいで」
「……なんというか、仲がいいとは思っていたが、ディランに関してはよくやるなとしかいいようがない」
あまりに自分からはかけ離れ過ぎているからだろう。日向は苦笑した。
「えー? 日向君だって、大切な人が出来たら、いずれ言うことになるよ?」
「なっ?! いくらなんでもあんな歯の浮く台詞が言えるかっ」
「文化の違いかしらね」
クスクス笑い楽しげに琳子も加わった。
「私たちの年で真剣交際ってすごいけれど」
「…どう考えたってディランが極端過ぎるだろ」
「…やっぱり…ちょっと極端だよね」
日向に同調するところが多くてついサトルも苦笑し頷いた。
「そう? でも、逆に日向君だと進展しないんじゃない?」
「なっ?!」
「二人を足して二で割ればちょうどいいんだよ。…琳子は積極的な男性か奥手な男性、どっちが気になる?」 
「…………」
さすがにこの質問は気になるらしく、日向は琳子の答えに耳を傾けた。
「……私?」
ワンテンポ遅れてから反応すると、琳子は少し考えてから肩を竦めた。
「どちらも気になるし、どちらも気にならないわ」
「どういうこと?」
「私は自分から好きにならないと動かないと思うの。正反対のタイプだけど、それぞれにとても魅力的じゃない」
「じゃ、好きになった人がタイプって訳だね」
「………」
「……」
日向を見てサトルは思わず小さく笑った。
「どうしたんだよ」
「いや、別に。特に何もない」
返答に困り、日向は視線を逸らした。
「日向君としてはちょっとほっとしたんじゃない? 僕みたいなのがタイプって言われなくて」
「あのな」
「あら、とても魅力的よ? でも…サトルみたいに情に深い素敵な女性の方がお似合いよね」
「当然。僕には既に最愛の女性がいるからね。琳子ちゃんはいい友人だと思っているよ」
サトルを腕の中に納めるとふわりと天使と見間違うばかりの笑みを浮かべてみせた。
「ディラン!」
一瞬の隙を突かれてしまいサトルは慌てて彼の腕から抜け出した。今日はいつも以上に二人に見せつけてしまっている気がして恥の上塗り気分だった。普段ならこういった男女の戯れに関して同じ程度の慎みを持つ日向も、何故か今日に限っては寛容な態度を見せた。
「ああ、既に結婚の申し込みをしているようなものだからな。慣れた」
「いや、ちょっと待って! 日向までっ。ディランに感化されないでよ」
むしろ琳子はこういった面に対して動じるタイプでもない為、サトルからすれば日向は最後の砦に等しい存在だっただけにあっさり陥落されては堪らない。予想外の反応に必死に説得をしたが楽しげに琳子が笑うので、サトルの必死さはほとんど伝わっていないような気がした。
「ん~…でも、最低限の自制はしているじゃない? サトルのことが好きで好きで堪らなくて、つい手が出る程度なんだから微笑ましいわ」
「り、琳子?!」
「勿論だよ。僕なりにきちんと自制してるし」
ディランは自然と笑みを浮かべた。
「まあ、文化の違いを感じはするが…」
「日向の国では恋愛結婚てある?」
「家柄の低い下級民ならな。下級民同士好きに相手を選ぶらしいが、そもそも愛だの恋だのは暇潰しの娯楽みたいなもので、恋愛と結婚は結びつけて考えるものではないと言われてきたな」
心底うんざりした様子で日向は息を吐いた。
「ああ、でも、ホントによかったよ。僕、日向君の国に生まれてたら、やってけなかったと思うし」
「まあ、あの国で生まれ育ったディランなんて、ディランじゃないだろうからな」
想像もつかないという様子で日向はディランを見た。その点に於いては満場一致で他の二人も頷いた。いずれ挙げるであろう二人の結婚式の話になり、再び周囲から熱愛ぶりをいじられてしまいサトルは肩を落として溜息を吐いた。
「たまにはいいんじゃないか。いじられる側ってのもな」
普段はどちらかといえばいじられる側だからだろう。やや口角を上げる日向を見て、サトルは口を尖らせて反論した。
「それは、日向がいじり甲斐があるからだろ」
「そうそう。日向君の恋愛の悩みとか僕に相談したらきっと解決すると思うよ?」
「なっ?! 間違ってもディランには相談しない」
 
 
「そうそう。日向君の恋愛の悩みとか僕に相談したらきっと解決すると思うよ?」
「なっ?! 間違ってもディランには相談しない」
何気なく聞いていたディランの提案を即座に否定し却下する日向。けれどその案はどうしようもなく私の心をざわつかせた。
「……もし、サトルが行方不明になったら…貴方ならどうするの?」
気がつけば私は、そんな問いかけをディランに向けていた。
答えなんて聞くまでもない。わかりきったことだ。これは単に私の想いを伝えて聞いてもらう為の導入に過ぎない。彼もそれを悟った上で私と視線を合わせると、真剣な表情で応えてくれた。
「…探すよ。僕にとってサトル君以外は考えられないから。例え、サトル君が望んでなかったとしてもね。僕に持ってる全てで、何をしてでも、ね。……でも、琳子ちゃんならこの答えは既にわかってたんじゃないかな。それに、琳子ちゃんと僕はまた別の人間だから、琳子ちゃんが僕と同じ結論を出して自分の身を危険に晒すのは認められないかな。琳子ちゃん、行方不明の何にも代え難い大切な人がいるんだね?」
「…………」
切り出した癖に、今更追及されて何て答えたらいいのかわからなくなってしまった。私は一瞬、自分の本当の気持ちを見失い迷子になった幼い子どもの気分を味わいそれを少しだけ表情に出してしまった。
「大切なのかも、まだわからないけれど」
「………大切な人、か…」
「…初めてだね。琳子が話してくれるのは」
優しく声をかけてくれる二人に、私は少し冗談を交えて微笑んだ。
「そうね。…スペシャリストがいたから、つい話したくなったのかもしれないわ」
「ディランは確かに、場数が違うから」
「場数って…僕が本気になったのはサトル君だけなんだからね」
「わかってるよ、大丈夫」
「まあ、ディランが察してくれなければ、琳子のこんな話聞けなかっただろうな。ひとつ、納得はできたが」
「?」
 何のことかわからずに首を傾げてしまった。
「あ、いや。以前、僕が友人を探しているという話をした時、親身になって話を聞いてくれたのは琳子にも探してる奴がいたのも関係してるのかと思ってだな.…」
打算なんて一切ない真っすぐな気持ちに、私は少しだけ胸が苦しくなり咄嗟に彼から目を逸らした。
「なんというか日向君の気持ちってよくわからないね」
「いや、そんなことないだろ。まぁ、琳子の探してる奴がどんな奴か気にはなるが…」
「うん、ぼくも初めて聞くから…でも、話したくないなら聞かないよ」
飽く迄逃げ道を用意しようとしてくれるサトルの思いやりが身に染みて、それでもどう話したらいいのかわからず私は思いつくままに答えた。
「…ありがとう。以前通っていた学園の生徒よ」
「…どんな人? えと、ほら。外見とか性格とか、雰囲気とか?」
「雰囲気…はうまく言えないけれど、不思議な人だったわ。思い出す度に印象が違う気がするの。性格は…」
改めて彼について説明すると、やはりその独特の雰囲気をどう言葉に変えるべきか非常に悩ましい。あの学園の中だからこそ、彼の非凡さがそこまで浮き彫りにならなかったのだと思うと、言葉という檻に私が知る彼のすべてを注ぎ込み伝えようとするなんて無意味な気もした。
『だってあたしたちには、もっとあの学園について話し合う時間が必要な気がするの。時間が経てばあたしはどんどん忘れていきそうだから』
不意にキッコの手紙の内容が思い出されて胃の辺りがグッと気持ち悪くなった。
いつかきっと私も、忘れてしまう。あんなに一生懸命彼の事を考えて理解したいと願ったのに。学園での楽しくも辛かった、かけがえのない日々を成長と共に手放してしまう。
―――何一つ、余すことなく、私は覚えていたい。何度でも思い出して傷ついていい。この気持ちに名前をあげられないままでもいい。私が知る彼について、誰かに伝えて心に刻もう。
「掴みきれないくらい…慈悲深いようで、意地悪で…気ままな猫みたい」
「……そ、そうなのか…」
彼からすると明らかに苦手なタイプであるようで、日向はやや表情を硬くした。
「ね? 顔は? 髪とか目とか何色?」
対照的に追及して聞いてくるディランの様子に微笑みを浮かべ、私は更に懐かしい思い出の人について語った。
「ふふ、日本人だけど色素が薄いの。茶色だったわ」
「え? 日本人なの?」
ディランだけでなく日向まで、これには意外と言った表情を浮かべた。
「…てっきり、ディランと同じか似た国の人間かと」
「少し入っているみたいだけど、明確なルーツまでは私も知らないの」
「日本人が多い学園だって言っていたもんね」
「あ、じゃあ。琳子ちゃんみたいに日本とは違う国の血が混ざってるんだろうね」
「それにしても…少し意外だな」
「どうして?」
「…てっきり琳子は、真面目で一途な男性が好みだと思っていたから」
と言ってサトルは日向を一瞥した。
「?!」
落ち着かない様子で日向は視線を逸らした。
「う~ん、色々あって好みが変わったとか? まあ、実は追われるより追う方が好きだったりして」
自分の好みについて考えたこともないし、より踏み込んだ質問に対し私は返答に困った。
「…本当に、好きなのかわからないの」
「え? そうなの?」
ディランだけでなく日向も不思議そうに目を丸くした。
「あ、じゃあどちらかが告白して付き合うとかになる前の、琳子ちゃんからして気になる人で、好きかどうか自覚する前に離れちゃったんだね…」
「…それは、何と言うか…心残りだろうな…」
「……そうね。でも、好きになればきっと見返りを期待するわ。私を好きになって欲しいって。…立場上仕方ないなかもしれないけど、彼は周りから期待されて求められて………押し潰されそうだった。だから好きになれなかった」
自分の気持ちを自覚し始める前。私はそれまでずっと静かに寄せられていた小さな恋に気づいた頃でもあった。それは恋と呼ぶには拙く、まだそこまで成熟した想いではなかったのかもしれない。たまたま傍に私がいて。偶然にもお互いを共に戦う同志だと思い込んでいて、そこに小さな刺激が生じたから起きた錯覚。すべてが終わった今でさえ、そんな風に表現しなければいけないくらい、その感情は私たちの間をひどく歪なものにしてしまった。
―――恋は人をいとも簡単に狂わせてしまう。
祖父母を殺したストーカーのように。静かに、それでいてひた隠しに愛情を注ぎ続けてくれた彼のように。これまでの関係を一瞬にして破壊してしまう激情が、私は誰よりも恐ろしいと感じていた。
 だからいざ自分の中にそんな感情が芽生え始めた時、どう向き合えばいいのかわからずに苦しくて、どんどん醜くなる自分がひどく惨めだった。
「…琳子…」
「…相手の負担になりたくないから、気持ちを抑えたってことか…」
否定しようとして、私は黙り込んだ。本当はそんな綺麗な思いやりで抑えていた訳ではない。ただ怖くて耳を塞ぎ立ち止まっただけだ。けれどそれを説明するつもりにはとてもだけどなれなかった。
「…ふうん」
ディランは少し思うことがある様子で息を吐いた。何となく彼の考えていることがわかってしまった気がして、私は肩の力を抜いて尋ねた。
「ふふ、貴方だったらまた違う選択をしたんでしょうね」
「まあ、僕は好きな人と近づくのに躊躇ったりはしないけどね。相手の負担になる? 政略結婚じゃあるまいし、嫌なら拒否するだけで済む話だよね。それで人に要求されてるからって自分の気持ちを押し殺して、告白を受け入れられたりしたら、こっちから願い下げだよ。嫌いなら嫌いだと言ってくれた方が僕はずっと嬉しいよ」
そこまで話してから、ディランは静かに息を吐いた。
「でも、ま。琳子ちゃんが納得しているんなら、それでいいんじゃない?」
清々しいまでに割り切った発言に私は堪らず吹き出した。
「アハハ、本当よね」
「……琳子?」
突然笑い出した私を日向が心配げに眺めてきた。
「ごめんなさい、大丈夫よ」
それでもまだ笑いを抑えられずに答えた。
「だって彼の言う通りなんだもの。ふふ…何だか、母にも同じことを言われそうだわ」
「…何て言うか…琳子は割とその手に於いては不器用なんだね」
「えぇ、そうよ。よく勘違いされるけど」
肩を竦めて苦笑しサトルに同調した。
「…あー。その、心残りだろうし、これからはもう少し自分の気持ちに素直になる方がいいんじゃないか?」
「…素直に…?」
呟いてからしばらくして、そこに含められた彼の優しさに気づき微笑んだ。
「ありがとう」
「…!」
何故か日向は慌てて視線を逸らした。
「ああ。まあ、その、よかった…」
「あれ? でも、日向君、今のってライバルを応援て感じにならない?」
「は?」
「…やっぱり無自覚」
「なんだか時間がかかりそうだよね」
「傍から見てるとじれったくなるよ」
「おい、どういう意味だ」
二人して苦笑するのを見て日向は怪訝そうな表情を浮かべた。普段なら周囲から色々と言われてもそこまで気にならないけれど、そろそろこの二人にも釘を刺しておく必要があると思い私も向き直った。
「もぅ…二人は私たちをくっつけたがり過ぎよ。彼にも選ぶ権利があるわ」
「それはまあ…そうだろ。琳子にだってきちんと選ぶ権利がある」
ほとんど同じタイミングで日向も言葉を返した。
「あら…」
「…あ」
つい私たちは顔を見合わせた。
「ふふ、息ぴったりだね、二人とも」
「なんだか照れるわね」
はにかみながら日向に笑いかけた。すると彼はやや安堵した表情を浮かべてくれた。
「まあ…そうだな」
「案外息は合うのかもね」
「貴方たち程じゃないわよ」
クスクス笑いながら応じた。
「ふふ、当然。でも、いずれはそうも言ってられなくなるかもね」
「どうかしら? 私以上に魅力的な女性は沢山いるわよ」
片目を閉じて肩を竦めて見せた。
「それに…今はこうして、気兼ねなく何でも相談できる友だちと楽しくしている方がいいみたい。とてもリラックスしているわ」
「ああ、確かに。それはあるかも」
またもや意見が一致した私たちを見てディランは苦笑した。
「ただまあ、日向君がその魅力的な女性と会話が成り立つのか疑問が残るけどね」
「それもそうだ」
サトルが相槌を打った。
「…悪かったな、口下手で。べつに、琳子と話せてるし、問題ないだろ」
「一応ぼくとも話せてはいるし、口下手だけど女嫌いではないよね」
「…まあ、その。嫌いという訳ではないが、会話に困るのは事実だ」
「気持ちはわかる。ぼくも慣れない相手に会話をするのは面倒だ」
「あれ? サトル君て、男性苦手だったっけ?」
「苦手…ではないけど、見ず知らずの男性に突然馴れ馴れしく声をかけてこられるのは」
「あぁ…それはナンパって言うのよ?」
「へ? ナンパ?」
「ナンパ⁈ それはいつ? 誰に? どんな奴だった?」
サトルの発言にディランは血相変えて尋ねた。
「え、いや…世間話をして別れたから違うよっ!」
「そう? なら、いいんだけど」
「……」
相変わらずのディランの過保護ぶりに琳笑いを堪えて見守った。
「まあ、よくやるよな」
日向も同感といった表情を浮かべて苦笑した。
 
それから花見を楽しむと、一旦サトルの家に荷物を取りに行き帰る流れになった。
「今日はありがとう。琳子は気をつけて帰ってね」
「あ、途中までだけど、送っていこうか? 琳子ちゃん。日向君付きで」
「な」
「ありがとう。けれど少し考え事をしたいから一人でいいわ。駅も近いし大丈夫よ」
「…あまり暗い道を歩かないで、何かあれば連絡してくれ。その、充分気をつけた方がいい」
「えぇ、わかったわ」
頷き日向に微笑んだ。
「心配してくれてありがとう」
「ああ、気をつけてな」
三人に手を振ると私はゆっくりと駅に向かって歩き出した。
辺りは然程暗くはなくて、暖かくなってきたからか日が長くなった気がする。この調子で帰っても明るいうちに自宅にも着くだろう。帰ったら夕食の支度をしなければいけない。確か翠は家にいると聞いていたから、ご飯は炊いていてくれるだろう。夕食を済ませたら明日の用意をして、そして―――
母の後輩であり今は私たち兄妹の親戚のように付き合ってくれる結衣子さん。彼女に例の件をどこまで打ち明けるべきか悩み、軽い頭痛を覚えた。ある程度の嘘を混ぜたとしても結局話は翠の耳にもいずれ入ってしまう。適当な嘘が彼に通じる訳がないことは誰よりもよく知っている。
何よりも厄介なのは、向井の兄の方は翠と面識があるという点だ。卒アルで確認した限り同じ学校だった訳ではない。とすると、当時翠が通っていた塾で接点があったのだろう。保健室で耳にした会話の言い回しを思い出す限り、翠に対して何らかの劣等感を抱いている節があった。
品行方正で真面目で礼儀正しいを体現したかのような翠。少なくとも私たち兄妹は、生まれ持った生育環境というハンデを克服する為に身の振る舞い方を徹底して磨いた。他者からの評価に神経をすり減らしていたとも言ってよかった。だからこそ私が招いてしまったあの事件。それが翠に与えてしまった影響の大きさを考えると、どんなに謝罪を繰り返しても償いきれない罪悪感が私の中に根づいている。
優秀な兄が―――殺人現場を目の当たりにし―――犯人の意識がなくなるまで頭部を殴打―――正当防衛―――犯人は脳に知的障害を負った―――
当時テレビや新聞に何度も繰り返し踊った翠の報道。まるで二人の命を奪った犯人よりも凶暴性を秘めているかのように誇張な表現は、それまで彼が必死に築き上げていた社会的評価を一瞬にして崩してしまった。
それから翠は渡独しマスコミの過激な報道から逃れた。私は最近まで事件の記憶を失くし、今日に至っても二人であの凄惨な日の出来事について深く語り合ったことがない。
 電車に乗って窓ガラスをぼんやりと眺めていると、不意にじっと私に向けられていた視線に気づきそちらへ顔を向けた。
 「……!」
 目が合うと同じ年頃と思しき男性が慌てて目を逸らした。耳まで赤くなるその様子を見て、また胃のあたりがぐっと気持ち悪くなる。
 翠はいつも私を頼りになる片腕のような存在として扱ってくれていた。過酷な評価を下す社会に対し唯一タグを組める相手。けれど見た目は一切似ていないという事実が、私たちから兄妹という認識を無意識のうちに取り払っていたのかもしれない。
 ―――私が翠の気持ちに気づいた頃には、もう翠はとっくのむかしにその想いを昇華させていた。今では遠距離だけど恋人だっている。学業も順調で、何も彼の行く手を阻む者はいない。
 だから、もうこれ以上翠の重荷になる真似はしたくない。一度は失ってしまった頼れる片腕という立場を、私は取り戻したかった。
 窓ガラスに映る私の顔は、無意識に唇を一文字に硬く結び強い決意を双眸に滲ませていた。
 
 
 
 
 振り返り。何度も振り返り、私は通い慣れた道を進みました。同時に私の後を追ってくる狼が迷ってしまわないよう、彼にだけわかる痕跡を残して歩きました。
 ―――あぁ、なんて可愛らしい狼さん。私の後を必死に追ってくる。
 この道のその先に。憎い。憎いあの女が住んでいるのです。
 「ねぇ、愛しい狼さん。どうか私を守って下さいね」
 
                           (『赤ずきんの痕跡』より)
 
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