片足を失くした人魚

青海汪

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第二話 頭巾を破いたあの子の名前

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彼は四十代にしては若々しく、ジャケットとジーンズといったラフなスタイルもよく似合っていた。そして駅前で待ち合わせをしていた私たちを車に乗せ、自分が日本にきた時には必ず行くのだ、というお気に入りのお店に連れて出してくれた。テーブルマナーも完璧で、まだ数える程しか会ったことのない私に対しても紳士的に接し会話も弾んだ。
 「Daran gewöhnt, das Leben in Japan?」
 目の前に座る端正な顔立ちをした日本人男性は、彼によく似た雰囲気を持つ翠にドイツ語で話しかけた。彼、時任継男氏は紛れもない翠の実の父親で、現在もドイツに生活拠点を置いて多方面に於いて活躍している投資家だ。そして彼は息子の語学力を試すかのように一貫して翠にだけはドイツ語で話しかけていた。
 ドイツ語を理解しない私は二人が会話をしている間だけは気兼ねなく料理に夢中になれるのでありがたい休憩時間でもあった。
 「Ja」
 学園に転校する前はドイツ留学をしていた翠はナイフとフォークを動かす手を止めず、素っ気なく返事をしている。二人だけの秘密の会話だけど疎外感はない。むしろ私と話す時と翠と話す時では、時任氏がまとう空気がまったく違うからだ。
 恐らく私には―――かつて交際していた母の面影を見出し必要以上に優しくなっているのだろう。それとも息子を預けたまま離婚時の面倒事が片付いた途端姿を消し、そのまま養育してくれた私の母に対する感謝と後ろめたさの表れなのかもしれない。とは言え、誰も明言はしないが十中八九、時任氏と前妻の離婚の原因に母が関わっているのだろうけど。
 そして何故翠の実父と私たちがこうして一緒に食事をしているかと言うと、理由は案外簡単だったりする。私の実の父と時任氏の援助により、現在の生活水準を保つことができるだけの経済的援助を条件に時々こうして食事をする約束をしたのだ。と言っても身内による善意と義務だけの関係ではなく私たちは自分たち自身に投資をしてもらっている。その成果、つまり成績証明書を持って今後の生活援助をお願いするのだ。
 「成績はまったく申し分ない。次年度から琳子ちゃんは高等部に上がるんだね?」
 先に食事を終えた時任氏はナフキンで上品に口元を拭うと穏やかな眼差しを私に向けてきた。物腰は柔らかく紳士的だけれど、時々こうして私の価値を見出すかのような光を瞳に宿すことがある。彼の職業柄仕方ないのかもしれないけれど、私は精一杯自分の投資価値についてアピールしてやらねばならない。
「はい。文系に進学が決まっています」
 「そうか。きみが望むならどこまでも支援するよ。勿論、この成績をキープしてくれているなら、の話だがね」
 ニッコリと笑い時計を確認して立ち上がった。
 「じゃあ、ぼくはこれで失礼しよう。きみたちはデザートまで食べて行きなさい」
 無駄のない所作で去っていくと彼を見送り、私は小さく息を吐いた。
 
 
あれから。サトルと苦い会話をして進級試験を終えて、既に結果は出たところ。
「…………」
出来上がったばかりの中華料理を大皿に盛りつけて日向は息をついた。日頃から居候としてディランの世話になっている日向は普段のお礼としてバイトのない日はディランと二人分の料理を作る。それはバイト先の中華料理屋で覚えたてのレシピを頭に叩きこむよい練習にもなるので、よく作っているのだが、今夜はいつになく品数が多かった。
「わぁ、ご馳走だね。お皿足りるかな?」
もともとディランの一人暮らしの部屋だ。日向が居座るからと多少食器を追加はしてあるものの、炒め物に蒸し料理、米料理にメインディッシュ、箸休めのちょっとしたおかずと部屋中の皿を総動員させることになってしまった。
「あとデザートに杏仁豆腐も作った」
「ええっ!? 今日何があったの! ちょっとした満漢全ナントカになってない?!」
「…満漢全席な。ご馳走にしようとは思ってたんだが、確かに作り過ぎた…」
考え事がある時、料理をするとうっかり作りすぎてしまう。これはとても二人で食べきれそうにない。
「…余ったやつは明日の昼にでも食べればいい」
ずらりと料理を並べると、テーブルはいっぱいで取り皿を置くスペースはなくなってしまった。
「あ、そっか。明日から新生活の始まりだものね。自分に進級祝いかな?」
「…まあ…」
二人揃って席に着くとディランは軽く手を合わせるとさっそく食べ始め、舌鼓を打った。
「美味し~。やっぱり一家に一人日向くんが必要だよね」
「あのな」
どこぞの家電扱いに日向はむっとした表情を浮かべた。そういうディランも料理をすれば大抵器用に美味しく作ってしまう腕なのだが。とても日本に来てから初めて料理を始めたとは思えない。
「……で? 日向くん、結果は?」
「…何がだ」
「やだなあ、とぼけないでよ? 進級試験の結果だよ。とっくに出てるよね?」
ニヤニヤと楽しそうに浮かべる笑みは天使というより悪魔の笑みだ。その顔はとっくに知っているといった様子で日向は頭を抱えた。
「別にぼくの口から言わせる必要ないだろう…」
一切合切努力が成果に結びつかず、未だにショックを受けているというのに。
「そ? じゃ、やっぱり理系だったんだ」
「……」
壊滅的に文系には向いていないという教師の評価を自ら体現してしまうことになるとは。
「…外国語はよそで学ぶとして…それで…」
ガックリと肩を落とし、ブツブツと新たに計画を練る日向とは対照的にディランは軽い調子で笑みを浮かべた。
「…あ、だったら日向くん。サトルくんと同じクラスになるかも」
クラス発表は明日だというのに更なる悩みの種を増やす気なのか。
「…言っとくが、お前の代わりに護衛役なんてやらないからな」
ただでさえ向こうに嫌われているというのに。試験前に偶然出会った時の同じだったら嫌だなと、ありありと顔に出ていたサトルを思い出して日向は項垂れた。
日向とて女性は苦手な部類だが、サトルはあまり女性として意識するタイプではない。その点においてはおそらく苦手ではないはずなのだが…。
「もう。あまり話さないうちから相手を決めてかかっちゃダメだって」
「…まあ、確かにそうだとは思うが」
「でしょ? 日向くん、サトルくんともきっと仲良くなれるよ。いい友達になれるって」
いつになくサトルとの交友を勧めてくるディランに日向はたじろいだ。
「…お前、サトルに他の男ができないか警戒してたんじゃなかったのか?」
「ん? 日向くんは人の彼女とったりしないよね? まあ、とられる前にぼくが何の手も打たない訳ないけど」
ふわりと絵画に描かれるような天使のような笑みを浮かべるディランにぞわり…と背筋に冷たいものが走った。
「……っ。それは、ない…から、安心しろ!」
本当にサトルと友人関係を勧める気があるのか。サトルとの距離に躊躇するのは自分だけでなく、確実にディランの影響のような気がした。
「ふふ。わかってるよ。まあ、日向くんだからね。でもサトルくんに友人が増えるのは素敵なことだから、同じクラスの日向くんと友人になるといいなと思って。最近できた新しい友人ととっても楽しく過ごせてるみたいだし」
「ちょっと待て、まだ同じクラスになるとはわからないからな」
この調子では探し人も早々見つからないんじゃないかと日向は頭を抱えた。
――もしかしたら向こうはもう忘れているのかも。
そんな不安を掻き消して日向は目の前の料理へと箸を進めた。 
――まあ、ディランの言うとおり、視野を広げてみるのはよさそうだ。本当に仲良くやれるかは保証できないが。
 
 
 誰かに呼ばれたような気がして振り返ったけれど、誰もが校舎の前に掲示された新学期からのクラス名簿に夢中だった。
 「……」
 今日から新学期だ。制服も高等部仕様の青をベースにした少し大人びたものに変わり、校舎も中等部よりも広くなる。数か月も通っていない中等部校舎に特に愛着なんてないけれど、それでもいざ年上ばかりの高等部校舎を見ると些か緊張を覚えてしまう。けれど周りには私と同じように、新品の制服を着心地悪そうにして佇む生徒が大勢いる。新しい環境での生活に誰もが胸を躍らせつつも不安を隠し切れない様子がよくわかる。傍から見たら私もそんな風に見えるだろうか。
昨日の夜サトルと電話をした際に、専攻が違うので同じクラスにはならないけれど一緒に結果を見ようと約束をしていた。それぞれ第一希望が通り私は文系、サトルは理系に進級した。実験等の実技が多いから楽しみだと言っていたサトルと違い、私は特にこれといった理由もなく文系を選んでしまった。取り敢えず、現在の成績を維持し易いからという程度の志願理由。真剣に文系進級を希望し落ちてしまった生徒には申し訳ないけれど。
そろそろ約束の時間になると、腕時計を確かめ私は改めて辺りを見回した。クラス発表を確認した生徒たちは順次新しい教室へと移動していくけれど、生徒数が多いのでなかなか人気はなくならない。携帯電話を持たない私がすぐにサトルと合流できるよう、人の輪から離れた芝生の上に移動した。丁度桜が満開咲きとなっていてあまり周囲は関心を払ってくれないが、先ほどから桜吹雪がとても美しいのだ。
桜の幹の下に佇むと、今朝編んだ三つ編みを解いた。寝ぼけながらいつもの習慣で結んだものだから、緩くてゴムが外れそうになっていたのだ。
肩から背中にかけて流れる緩いウェーブがかった髪の毛を手櫛で整える。そして二つに分けて再び元の三つ編みに戻すと、私は何となしに視線を遠くに向けた。
「…あら」
 
 
高等学校に進級して初めてのクラス発表。込み合うことがおおいに予想できたので日向は朝早くに学校へと向かったはずだった。だと言うのに、考えることは皆同じらしい。十分早い時間帯だというのに、真新しい制服に身を包んだ生徒をちらほらと見かけ、到着する頃にはすっかり人の海ができていた。
この人混みの中に分けいって、クラスを確認するとなるとどうにも気が重い。
とは言え、新生活への期待と不安が入り交じる落ち着かない感覚に日向は人の海を掻き分けて掲示板へと向かった。
「………」
「…あ、同じ…!」
「え、…ホント!?」
周囲からは一喜一憂の声が聞こえてくる。友達同士なのだろう。日向自身は友人達と特に約束は交わしていなかったが、後で合流することになっていた。
もしかしたら誰か友人がきているかも知れないが、この人の海から見つけるのは難しいだろう。
「………」
クラスを確認後、日向はようやく人の海を抜けた。ふわりと眼前を涼やかな風ともに薄紅色の花弁が通り過ぎていった。
――そう言えば桜の季節なんだったな…
自然と視線は人混みから桜へと移り、どこか見覚えのある姿へと釘付けになった。
「…リン…コ…?」
ちらちらと花弁の舞う桜の木の下に、真新しい高等学校の制服に身を包んだ三つ編みの女子生徒の姿。散々探して結局中学時代には再会出来なかった。
まさか、見間違いかと日向が瞬きする間に、視線の先の彼女は長い小麦色の髪を解いた。
「っ?!」
ほつれた髪を整え直したかったのだろう。それはほんの一時の間で、すぐに綺麗な三つ編みに結い上げられた。
だが、そのほんの一瞬垣間見た、ほどかれた髪に日向の脳裏には初めて出会った時の光景が浮かんだ。
――間違いない。彼女は探していた由良川琳子だ。
何か声をかけなければ、そう思う一瞬の後に。ふと振り返った彼女と目が合った。
「……あ」
「…あら」
日向と目が合うと、琳子はしばらくきょとんとした表情を浮かべ吹き出した。
「ついに見つかっちゃたわね」
「………」
思わずパクパクと口を動かしていたものの、気を取り直して桜の木のそばまで向かった。
「…ああ、そうだな。…見つけた」
琳子のすぐ前までくるとほっとしたように息を吐いた。
「…まさか、この場で腕でも掴まないと姿をくらます、なんてことないよな…?」
「それはいい考えね」
ポンっと手を叩いて同意した。
「なっ!?」
本当にやる気かと思った瞬間、日向は反射的に琳子の腕を掴んでいた。
「…頼む、から…そんな簡単に消えないでくれ…」
「……っ!」
琳子は目を見開き驚きの表情で日向を見詰めた。そして視線を逸らすと
「…冗談よ」
と無表情に呟いた。
「…なら、いい」
日向はほっと息を吐くと今になってほとんど初対面に近い女子生徒の腕を掴んでいるのに気づき、慌てて手を離した。
「…あ、悪い…。ほとんど初対面みたいなものなのに…いや、こっちこそ本気に取ることはなかったよな…」
落ち着かなげに視線を逸らす日向の様子をしばらくボンヤリと見つめていたが、少しし琳子から笑いかけた。
「じゃあ、ここで…初めましてから、始める?」
そして桜の木を見上げ
「せっかく私を見つけてくれたんだから…。ここで、はい。さようならじゃつまらないじゃない」
「…あー、いやそういうんじゃなくてだな。その、さっきのは単に…女子の腕掴むとか、いきなり何してるんだと…自己嫌悪しただけで、別に今後会う気はないとかそういう意味じゃない」
こんな大事な時に口下手さ加減が露呈している。あまり話すことはない異性相手というのもあるかもしれないが。うまく伝わるかは分からないものの、日向は逸らしていた視線を真っ直ぐに琳子に向けた。
「…そうでないと、ここまで探したりしない」
それまで度々どこか遠くを見るような目をしていた琳子がようやく笑みを取り戻した。
「ありがとう。実を言うと、何だかゲームみたいで楽しかったの。それに、まさかこんなに真剣に探してくれるとは思っていなくて」
「……」
本当のことを言えば、多少の不満もあった。だが、由良川琳子の笑顔を見ると、そんな不満も消え失せていた。
そこに何か複雑な心情が絡んでいるような、そんな気がした。
「…まあ、な。案外悪くなかった。けどな、だからといって簡単に消えていい訳じゃないからな。…まあ、次からはもっと早くに見つけるようにするが」
「もう隠れたりしないわ」
まるで引き続き隠れん坊を続けることが前提のような話題に、琳子は肩を竦めて答えた。
「それにもし、同じクラスなら隠れようがないもの」
「…まあ、そうかもしれないが。ん? 琳子はどのクラスなんだ?」
「それは…」
「琳子は一組。ぼくと日向が八組だった」
とサトルが二人の間に現れた。
「!?」
なんでサトルが? という疑問が浮かんだものの、まさか昨夜ディランがあそこまで執拗にサトルとの仲を勧めてきたのはこれだったのかと日向は息を吐いた。
「おはよう、サトル。教室も結構離れちゃったわね」
「仕方ないよ。専攻が違うし…」
と言いサトルは日向を見た。
「まさかクラスメイトになるとはね」
「…ああ、そうだな…」
サトルくんと仲良くね、という今朝のディランの言葉を思い出す。思い出すのだが、どうにもやりにくい。
「…まあ、その…よろしく」
とりあえず友好的にと、ぎこちないながらもサトルに向き直った。
「三年間一緒のクラスだしな。よろしく」
「…日向も理系なのね。今年は理系の倍率が一番高かったみたいね」
「…そう、なのか? …第一志望じゃなかったんだが」
だったら第一志望に受かってくれたらよかったのに…と日向は複雑そうにぼやいた。
「第一志望は?」
「…ぶ」
「文系だよね? 完全に向いてないって評価されてたけど」
日向の言葉を遮ってディランが現れた。
「そぅ…残念だったわね」
「妥当な評価だと思うよ」
ディランの言葉にそれぞれに相槌を打った。
「!? ちょっと待て! なんでいるんだ」
「ん? そんなのサトルくんと一緒に登校してきたからに決まってるじゃない? まあ、琳子ちゃん見つけたサトルくんが途中で先に行っちゃったんだけど」
「だと思ったわ。サトル、もう少し彼氏を大切にしなくちゃ」
「…日向に絡まれてるかと思って。ごめん、ディラン」
「なっ。絡む訳…っ」
「そんなことだろうと思ってたよ。琳子ちゃんはサトルくんの大切なお友だちだものね」
またもや反論する日向の言葉を遮り、ディランはサトルを抱きしめた。
「だ、だから人前ではするなって!」
赤面して怒るサトルを見て、琳子は堪らず吹き出した。
「本当に…仲良し過ぎて、見ていて飽きないわ」
「……こっちはその度に部屋を追い出されてるんだがな」
「へ、変な誤解を与える言い方をするなっ」
聞き捨てはならないとばかりにサトルが反論した。
「一緒に勉強しているだけだ」
「そうだよ。まだ学生のサトルくんにぼくが手を出す訳ないじゃない。ちゃんと健全に付き合ってるんだから」
ディランも心外だとばかりに日向に反論した。
お前が言うと逆効果なんだがという言葉をなんとか飲み込んで、日向は息を吐いた。
「いや…まあ、そうだな…」
三人のやりとりを見ていた琳子は密かに苦笑した。
「デート中も勉強なんてサトルらしいわね」
「…勉強ばっかりじゃないよ。たまにはちゃんとデートもする」
「ふふ、そうだよね。サトルくんは努力家だから。で、日向くん、せっかく同じクラスなんだからサトルくんと仲良くね」
「…あ、ああ」
「サトルくん、日向くんのことで何か不満があったらぼくに言ってね。改善させるから」
「おい」
「頼もしい彼氏ね」
「…過保護だよ」
「…まあ、それには同意する」
大概のとばっちりは日向に降りかかってくる訳なのだが。
「じゃ、ぼくそろそろ教室に行かなきゃ。サトルくん、また後でね」
「うん、また」
ディランを見送るとサトルは琳子を見た。
「今日は始業式だけだろ? 帰りどこか寄って行こうよ」
「いいわね。せっかくだからランチも」
「…あ、じゃ。悪いが、ぼくはここで…」
 女子二人の会話に入っていけず、日向は適当に言い逃れ校舎へと向かった。
 
この高校はすべてで四つの学科に分けられる。一つは私サトルたちが進級した文系と理系。そしてサトルの恋人が所属する総合体育。最後に芸術学科だ。一つの学科につき定員は八十名。それを二クラスごとに分かれるのだけど、同じ校舎内にあっても授業内容がまったく被ることがないので普段から交流もない。
「琳子ちゃんおはよう! 同じクラスだったねー」
中等部で親しくなった友人たちが先に教室で私を出迎えてくれた。彼女たちも第一志望の文系クラスに進級でき、心から安堵している様子だった。
「今日から新しい制服だから何か落ち着かないよね」
「美奈ちゃんはイメチェンしたよね。前までロングだったのに、結構切った!」
確か中等部では肩までかかる髪をいつも可愛くアレンジしていた湯島美奈は、耳元までのショートボブに変え軽くパーマまで当てていた。髪型や服装が変わるだけで随分と印象が違う。
「とても似合うわ」
賞賛の言葉を贈ると美奈は頬を染めて微笑んだ。そして私の変わり映えしないお下げに視線を向け
「琳子は伸ばすの? せっかく長いんだからもっと遊んだらいいのに」
「あ、わかるー! 私もそう思ってた! 琳子ちゃんは美人だからどんな髪型でも絶対に似合うのに!」
ある程度親しくなると大抵この手の話が振られるようになる。私がいついかなる時も飽きもせず同じ髪型を続けるものだから、彼女たちのおしゃれ心に火をつけてしまったようだ。
「これ以外の髪型って慣れなくて。それに…三つ編みお下げって真面目な女学生のイメージでしょ?」
人の印象は最初の三から五秒で決まると言われている。メラビアンの法則によると視覚情報は他の言語・聴覚情報より遥かに多い五十五パーセントを占める。単純なことだけれど必要以上に目立つことを恐れる私は、大人しく見られそうな髪型を続け、つけ入る隙のない決められた通りの制服の着こなしをする。
「えーでもせっかくの花の女子高生がさぁ」
「ねぇ、雑誌見てよ! 彼のハートを釘付けにする魅惑のメイク術特集だって!」
人に見られると実感する時。まず意識してしまうのは他者からの自分自身への評価だ。私のことを何も知らない人だったとしても、私について語ることができる。外見から受けた印象。そこから発展していく各自の根拠なき妄想。
―――あそこのお母さん、かなり派手な人だから…娘さんも、ねぇ。あの事件だって実際に…
私のこの硬く結ばれた三つ編みは、聞き飽きるくらい聞かされてきたそんな評価から逃れる術の一つに過ぎない。噂を払拭できるだけの力を手に入れるまで、耐えるしかないのだから。
それからホームルームを終えて生徒たちが帰り始める中、私はサトルとの待ち合わせ場所に向かってゆっくりと歩き出した。正面玄関を出たところに並ぶ桜並木の下で待ち合わせているけど、早く出ても新入生たちで混雑しているだろう。携帯電話を持たない私と待ち合わせをする場合、こういう時に相手に不便をかけてしまうのがいささか申し訳なかった。
一番の混雑時は過ぎたのか、下駄箱にはあまり人がいなかった。
「…えっと….」
進級に伴い私の下駄箱の位置も変わってしまった。確かこの辺りと記憶を頼りに探すと、下段の方に自分の名前を見つけた。蓋を開けて靴を取り出そうとして手を止めた。
「………」
誰が入れたのか一見してわからない封筒に気づき、思わず私はどうしたらいいか途方に暮れた。
 
 
運がいいのか悪いのか、友人たちとは理系のクラスで一致していた。相変わらずの下らない会話に花を咲かせた後、日向は友人たちと別れて教室を出た。
初日から先生の呼び出しをくらうとは一体何をやらかしたんだ。いつ終わるかもわからないという訳でまた明日となった。少し時間を潰したおかげで下駄箱まで人だかりということはない。
ほとんど人のいない下駄箱で日向は見覚えのある人影を見つけた。
「…ん? …リン…コ?」
今朝がた、ようやく再会したばかりの女子生徒の姿があった。
「……」
手にした封筒をどうするべきか悩んでいた琳子は日向に気づいていなかった。
「…どうした? 何かあったのか?」
どうやらこちらに気づいていないらしい。何か手に持っているなと、日向は琳子のすぐ傍までいって声をかけた。
「琳子?」
「!?」
完全に予想外の登場だったらしく琳子は身体を震わせ驚いた。そして青褪めた顔で振り返り日向に気づくと、心底安心した様子で肩から力を抜いた。
「びっくりしちゃった…」
先程の過剰な反応を恥じるように苦笑した。
「今、帰りなの?」
「…ああ、まあ。悪い、驚かせたな」
琳子の驚きように思わず日向もびくついてしまい、自らを落ち着かせるよう息を吐いた。
「…驚かせるつもりはなかったんだが。距離には気をつける…」
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事をしてたから」
はにかみながら琳子は答えたが、すぐに視線は困ったように手元の封筒に注がれた。シンプルな絵柄が印刷された市販の封筒には宛名も送り主の名前もない。中身はまだあらためていないがセットの便箋が入っているようだ。
「…なんだそりゃ? 知り合い…からか?」
見たところ名前らしい表記が見当たらない封筒に日向は訝しげな表情を浮かべた。
「……開けたらこれが、不幸の手紙なのか。それとも誰かの気持ちを綴った手紙なのかわかるわね」
封筒を眺めながら琳子は答えた。
「どちらにしても、開けなければ知らなくて済む。…だから悩んでいるの」
「…まあ、差出人不明の手紙なんて気味悪いよな」
日向は封筒を一瞥すると息を吐いた。
「開けなくてもいいんじゃないか? 不審者かも知れないし、本当に用事があるなら、自分の名前は書くだろ」
「貴方だったら開けない?」
「…あー。まあ、開けるだろうな。中身は期待できないだろうが、気になるしな」
言われてみればと苦笑した。
「ふふ」
思わず小さく吹き出すと琳子は封筒の封を静かに破った。
「小学生の頃…流行っていたこともあって、よくこうして不幸の手紙をもらっていたの」
そして琳子は中から一枚の便箋を取り出した。
「ケータイの持ち込みが禁止された学校だったから、アナログな悪戯が大流行していて。何十枚って下駄箱に手紙を入れられたわ」
「…て、そんな悪意の塊は捨てとけ」
まさか本当に不幸の手紙じゃないだろうなと堪らず、日向は琳子の持つ手紙を取り上げた。
「あ…」
きょとんとして琳子は日向を見詰めた。
「…………」
不幸の手紙ではなかった。意図せず他人の手紙を見ることになった訳だが、その内容に日向は言葉に詰まった。
手紙の文面はたった一文。
『話しがしたいので、連絡下さい』
その下には連絡先としてケータイのアドレスが添えられていた。
どこを見ても名前の表記はなさそうだ。
「…あー。名前を書かずにこういう手紙を下駄箱に入れそうな知人はいるか?」
「…いいえ…」
文章を読みしばらく考えてから首を振った。
「でも、どこかで見た気がするわ。この字体に見覚えがあるの」
「…正直、名前も書かずに呼び出しするような手紙なんて信用しない方がいいと思うがな。…見覚えって言うのは?」
「……手紙…?」
首を傾げふと呟いた。
「そうね、きっと手紙だわ。小学校を卒業してから私、留学をしていてその頃には誰かと連絡するのにメールか電話しか使わなかったから。…小学生の頃に…」
そして再び文面にあるメールアドレスを見詰め
「…何を話したいのかしらね…」
「………」
静かに息を吐くと、日向は持っていた手紙をグシャグシャにして近くのゴミ箱に捨てた。
「…こんな気味悪い手紙に連絡する必要なんてない。本当に必要な手紙なら、次からはきちんと名前を書いて出してくるだろうしな」
意外そうに日向を見詰め、琳子は吹き出した。
「……ふふ、本当にその通りね」
そしてようやく何か吹っ切れた笑顔を見せた。
「ねぇ、よかったらこのままお昼も一緒に食べていかない?」
「え?! …あ、いや…」
まさか再会してすぐにこんな展開になるなど予想すらしていなかった。どころか不審な手紙に気をとられていたからか、朝のぎこちないやりとりはどこ吹く風。気づけば思いの外、距離が近かった。かといって、今さら後退る訳にもいかず、日向は落ち着かなげに視線を逸らした。
「…その、気持ちは…ありがたいんだが…」
こんな時に限って、昨夜の大量のご馳走が恨めしい。夕飯に回そうかとも思ったが、これには家主のディランの許可が必要だ。
「…うっかり夕飯を作り過ぎてしまってだな…」
「貴方が作るの?」
感心した様子で聞き返しながら、琳子は下駄箱から靴を取り出した。
「…ん? そうか、そういや日本じゃ珍しいんだったか」
ふと同世代の日本の友人達が料理をしないことを思い出した。
「実家暮らしじゃないからな。自炊しないと金が尽きる。それにいい練習にもなって、一石二鳥だしな」
日向も下駄箱から靴を出した。ランチを一緒にできるかどうかはともかく、こうして話ができるのはなんだか心地いい。
「私なんか、簡単な献立しか考えられないわ。私より兄の方が手を込んだ料理を作るのよ」
クスクス笑いながら二人で校舎を出た。既に人気はなく、始業式のみで部活も今日はない為辺りは少し閑散としていた。
桜並木の下にサトルとディランが並び二人を待っていた。
「あ、日向くん、琳子ちゃんと無事合流できたんだね」
琳子と日向の姿を見つけたディランがこちらへと手を振った。
「な?!」
「あら、二人も待ち合わせしていたの?」
「?!」
待ち合わせていた訳ではないし、琳子とは下駄箱で偶然会ったのだが、意味深な発言に日向は言葉に詰まった。
「ふふ、まあね~。サトルくんとお昼一緒に食べようって話したら、琳子ちゃんともう約束してるって聞いて。なら、琳子ちゃんも一緒に日向くんあたり誘ってみんなで行くのもいいかなって思って」
「いいかな、琳子?」
「もちろんよ。ただ、さっき誘って振られちゃったんだけど」
と言って日向を見た。
「あ、いや…」
「えー、日向くん、琳子ちゃんとお近づきになりたいんじゃなかったの? ここは日向くんから誘うぐらいじゃないとダメなのに、断るなんて。そんなんじゃ琳子ちゃん、他の素敵な男性にとられ」
「なっ!? も、黙れ」
慌ててディランの口を塞ぎにかかるが、ディランはひょいと軽くかわした。
完全にこちらの事情が筒抜けの状態になんともいたたまれない。
「あ、もしかして昨日のご馳走? そんなの夜にまわせばいいんじゃない? はい、解決」
サトルと琳子は顔を見合わせ吹き出した。
「ディランの方が一枚上手ね」
「日向が融通きかないタイプだから、尚更だよ」
「…あのな」
まさに図星だった為にぐっと言葉を飲み込んだ。その後、まっすぐに琳子を見た。
「…琳子。その、さっきは断るような真似して悪かった。……よければ、昼食一緒に摂ろう」
「もちろん。どこに行きましょうか? 嫌いなものはある?」
まさに図星だった為にぐっと言葉を飲み込んだ。その後、まっすぐに琳子を見た。
「好き嫌いは特にないな。琳子は?」
「私もないわ。…でも、あまりこの辺りに詳しくなくて」
「近くにファミレスがあるよ。和洋中揃っているし、そこにしたらどうかな?」
「そうだね。安くて美味しいし」
「ああ、まあ。そこで」
話がまとまり四人は歩き出した。
 
 
自然とディランはサトルの隣に並ぶので、サトルは空いている右側に琳子を誘導し話しかけた。
「天気がいいから気持ちがいいね」
「本当ね。それで、新しいクラスはどう?」
「理系だから男子の比率が高いね。でも馴染めそうだよ」
 あまり女子との交流に慣れていないサトルからしたら、むしろそういった環境が楽で居心地も悪くはなかった。
「…そういや、確かに女子は少なかったな。文系はどんな感じなんだ?」
「男女比は同じくらいかしら。芸術科が理系の反対に女子率が高いみたいね」
「ディランの総合体育科は?」
「…やっぱり男子が多いかな。女子もいるけど、琳子ちゃんみたいなタイプはまず、いないかな」
「でしょうね」
思わず苦笑しながら琳子は頷いた。当然サトルのようなタイプもいるとは思えなかったが、そこはディランなりの気遣いの現れと受け取った。サトルは幼い頃に罹った病気の所為で人より身体が弱く、ほとんどの体育の授業を見学して過ごしていた。そんな彼女にとって例え興味があったとしても、恋人のいる総合体育科は選択肢に入れることはできなかったのだ。
「でも楽しみだわ。新しいクラスも雰囲気がいいの」
「…それはよかったな」
「あ、日向くん、文系志望だったから気になるんでしょ?」
「あのな」
「残念だったわね。…志望の進路が文系なの?」
「…いや、正確には違うんだがな。理系よりかは近いかと」
「日向って、大学進学だっけ?」
とサトルもディランに尋ねた。
「あ、どうだったっけ? 日本の大学に進むの? 日向くん」
「いや、まだ日本かどうかまでは決めてないんだが。色々勉強しておきたいことがあるし、進学は考えている。…そう言えば琳子は?」
「……まだ、何も」
と答えて小さく肩を竦めた。
「サトルみたく明確な目標すらないのよ」
「…そうか。まあ、これから決めてけばいいんじゃないか? 悩みがあるなら先にそっちを解決してからでないと進めないこともあるしな」
「…何かあったの? 悩みって」
琳子の細やかな賛辞に微笑みを返していたサトルは、不意に日向の言葉に反応した。
「大したことじゃないのよ。ちょっと、おかしな手紙をもらっただけで」
丁度目的地のファミレスに到着した所為か琳子は一旦会話を終了させた。
平日の昼時ということもあり、店内はサラリーマンや大学生風の若者で賑わっている。中には同じ学校の生徒たちの姿も見られた。
少し待って四人はウェイトレスに窓際の席に案内された。
「…ん? 手紙って?」
席に着くなりディランは不思議そうに琳子を見た。
「…誰から送られてきたかわからない手紙が下駄箱に入っていたのよ」
メニューを眺めながら琳子は何てことない様子で手短に先程の一件を説明した。そして各々が料理を決めると近くを通った店員を呼び寄せオーダーを済ませた。
「それで日向が一緒にいたんだ」 
「なるほどね。で、琳子ちゃん、何か心当たりってないかな?」
少し考えてから琳子は首を振った。その表情はさほど事態を深刻に捉えている様子もなく、口元には微笑みさえ浮かべていた。
「誰かのイタズラかしらね」
中等部に編入した頃、携帯電話を持たない琳子に何とか近づこうとした男子たちが下駄箱に手紙を入れるという古風な真似を駆使したことを思い出した。最初のうちは戸惑っていた琳子だったが、慣れるにつれその対応にも磨きがかかっていった。もしかしたら今回の手紙もそういった類だろうか、とサトルも首を傾げた。
「…イタズラにしては悪質な気がするんだが。下手すれば、ストーカーになりかねないだろ」
「!!」
日向の言葉に琳子は表情を硬くし肩を震わせた。同時にサトルは、完全に無防備な状態で地雷を踏んでしまった彼女の胸中を察し咄嗟に叱咤した。
「バカ日向っ!!」
 
 
「…?」
一瞬事態が掴めず、成り行きを見守っていた日向は少ししてようやく合点がいったらしく表情を改めた。
「……悪い。その、知らなかったこととはいえ…発言には気をつける…」
おそらくストーカー被害者なのだろう。身近に犯罪被害者に会う機会はなかったし、まさかそうだとは思いもしなかった。
「……ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
ついて行こうか? と尋ねるサトルの申し出を断り、琳子はぎこちないながらも笑みを浮かべて席を立った。
「………バカ日向」
残されたサトルはジロリと日向を睨み、サトルは再びなじった。
「…仕方ないだろ。なんだかんだで、会ったのこれで二度目なんだぞ。…ぼくは超能力持ちでもなんでもないんだからな」
普段から接して親友と呼べる間柄のサトルと同等の対応を求められても、そもそも土台が違うのだ。いくらなんでも無茶ぶりが過ぎるだろと日向も睨み返した。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
「……」
ディランに宥められるもサトルは不満気に眉を寄せた。
「日向くんもこれから改善していったらいいんだし、ね?」
「……善処はする。が、気づかず地雷を踏みかねない。……別にぼくだって琳子を傷つけたい訳じゃないんだが、…他に何か犯罪に巻き込まれてるとかある…のか?」
出会った時からどこか見たことのないタイプだとは思った。留学してきて会う日本の一般的な異性とはどこか違うから、きっと日本の生徒たちの中に溶け込むのは苦労してるだろうなと共感に近い感情をもったのだが。
「…気を遣えって言った癖にこんな助言は矛盾しているかもしれないけど」
やや言葉を濁し続けた。
「琳子はきっと、誰かから自分の事を聞いて知るよりも実際に聞いて知って欲しがると思うよ」
「………」
矛盾してるだろという言葉をぐっと飲み込んで日向は盛大に息を吐いた。 
「……正直、何が引っ掛かるかわからないし、腫れ物に触るような態度も逆効果だろうしな。悪いが、こちらなりのやり方で接することにさせてもらう。…間違った時だけ指摘してくれ」
「……ごめん。わかったよ」
ちょうどその時各自が注文したメニューが届きテーブルに並べられた。
 
 
トイレに行くなり盛大な溜息が漏れた。
「はぁ……」
できることなら時間を巻き戻して先程の失態をやり直せたらと、切に願ってしまう。地元から離れた場所だからと油断した結果が気の緩みを持たせてしまった。こんな風にいちいち傷ついていたら、私はきっとこの先も一人で生きていけない。
同じハンデを持って尚も地元の学校へ通う翠を想うと、否応なく力量の違いを思い知らされた気分になってしまった。とは言えあまり長く席を外しても、あの三人に気を遣わせてしまうだろう。
もう一度鏡を見て、そこに先程思い出してしまった恐怖が綺麗に拭えているかを確認する。
「―――強く、ならなくちゃ」
そんな誓いを言葉に出して言い聞かせると、私は再び彼らの元へ向かった。
「ごめんなさいね。お待たせ」
「お帰り~、琳子ちゃん。グッドタイミングだね。ちょうどメニューが揃ったところだよ」
注文の料理が並び一気にテーブルの上が華やいで見えた。途端に空腹を覚え、私は喜々としてサトルの隣に腰を下ろした。
「おいしそうね」
「冷めないうちに食べよう」
「…そうだな」
 と応えてから何か悩んでいる様子で日向が私に声をかけてきた。
「…琳子。食事が終わった後、少し…話をしてもいいか?」
十中八九先程の件についてだろうけれど、私は少しとぼけた表情で首を傾げ頷いた。
「えぇ、いいわよ」
どんなに笑顔に気をつけたとしても、決して楽しい話題ではない。ましてやこんな日中の不特定多数の人間が集まる場所で語るにはにつかわしくないぐらい、それは血なまぐさいものだから。
「悪い」
私の反応に日向はほっとしたように息を吐いた。
「じゃ、食べよう。で、食べた後、ぼくとサトルくんは席を外した方がいいのかな?」
「…は?」
「……混み入った話?」
ディランの提案に驚き、いつの間にそんな大事のように扱われていたのかとサトルに尋ねた。
「…う…ん…」
どういう訳かサトルは気まずそうに視線を漂わせた。
「いや、ちょっと待て! 確かに混み入った話だが、別に琳子と二人でなきゃいけないって訳じゃない。むしろサトルもいてくれ」
「さっきの私のリアクションに関する話でしょう?」
私の過去を知るサトルは別にして、恐らく今後も交流のあるこの二人にはきちんと自分の口から話しておくべきだと思った。知りたければインターネットを使えばすぐにでも検索しヒットするような話だ。そこに一片の事実も書かれていないとしても、何をどう信じるかは本人次第なのだから。
「弁明くらいしておかないと、色々心配をかけちゃうんじゃないかなとは思っていたの」
「……いや、それは」
言葉に迷いながら日向は私を見た。
「…気にならないと言えば嘘になるが、別に無理に聞き出そうなんて気はないから、安心してくれ」
「無理じゃないわ」
苦笑しかぶりを振る。私が思う以上に彼は真面目でひどく優しい人柄なのだと思えた。
「ただ…楽しい話ではないから、あまり人のいない場所で話したいの」
「なら、食べたらどこか静かな場所に移動したらいいね」
「…そうだな」
「という訳で、私、お腹ぺこぺこなのよ。食べましょうよ」
「だよね。ぼくもお腹ぺこぺこ。いただきます」
改めて食事が始まると自然と和やかな空気が流れた。昨日の翠の父を交えたランチと比べるまでもないメニューだったけれど、どういう訳か断然今日の方がずっとおいしく感じられた。
「サトルは和食が好きなのね」
確か翠の学校は新学期開始だというのに、みっちりと夕方まで授業があると言っていた。今頃彼も学食かどこかでこうしてランチをとっているのだろう。そんなことを考え、ふと目についたトロロと魚のハーフサイズ定食を食べるサトルを見て呟いた。普段の彼女のお弁当も和食が中心で、彩りも美しく手の込んだ料理もたまに見受けられた。
「…サトルくんのそれ、なあに?」
ディランはトロロが気になるようで目を丸くした。
「山芋を摩り下ろしたものだよ。トロロって言うんだけど、食べてみる?」
「…ホント? じゃ、ちょうどこのサラダの器が空になったし、ここに少し頂戴」
「お前な」
「ドレッシングが混じらないかな」
とサトルは言って店員に取り皿をもらうとトロロご飯をよそった。
「ありがとう」
初めて見る料理に戸惑いを覚えたのだろう。少し悩んだ後ディランは、スープに使っていたスプーンで掬って食べた。
「あ…なんか不思議な味…」
「嫌い?」
「ううん、嫌いじゃないよ。薄味だけど、美味しいね」
「うん。食べやすいし割と好きなんだ」
「サトルの手料理は食べたことある?」
「あるよ~、天ぷらとか。でもこれは食べたことなかったな」
嬉しそうにディランはふわりと笑みを浮かべた。
「ね、サトルくん。今度また何か作ってほしいな。あ、そうだ。その時はぼくも何かご馳走するから。和食は作れないけど、どうかな?」
「いいよ。大したものは作れないけど」
「サトルも料理上手なのよね。普段から作るの?」
「まあね」
「…普段からって、自炊でもしてるのか?」
サトルの言葉に日向は首を傾げ尋ねた。確かに私も日頃のサトルの言動から疑問を感じるところがあっただけに、この質問に彼女がどう答えるのかが気になった。
「………………」
短い沈黙の後に箸を止め、サトルは諦めた様子で肩を落とした。そしてまず恋人であるディランに顔を向けると丁寧に頭を下げた。
「今まで騙してごめん。本当は、一人暮らしなんだ」
「…まあ、そうだろうとは思ってたよ」
苦笑しつつも、穏やかな笑みを浮かべた。
「当然だよ。簡単に異性に一人暮らしだってばらしてたんじゃ、サトルくんのことが心配過ぎるよ」
「…ごめん」
頬を赤らめサトルは気まずそう俯いた。
「成り行きとはいえ、話してくれる気になったってことはぼくのこと信頼してくれたってことかな」
「…まぁ、一応…」
恥ずかしくなったのかサトルはディランから視線を逸らし答えた。
「最初の印象から比べたらだいぶ変わったよ」
「ふふ、なら嬉しい」
ふわりと天使のような笑みを浮かべるディランを見て、一体最初の印象の彼はどんな感じだったのかいずれ聞いてみようと思った。周囲の話によるとサトルと付き合う以前は相当遊んでいたという、今では信じられないようなディランの態度に興味が湧いた。
「…とりあえず、特に問題はないみたいだな」
きっかけとなる発言を気にしていたのか、日向はほっとしたように息を吐いた。
「…そうだ。よければこの後ぼくの家にくる? 散らかっているけど」
「ホント?! 行くよ、行く行く」
サトルの言葉にディランは文字通り目を輝かせた。その様子は初めて彼女のお宅にお邪魔する男子高校生と言うよりも、急遽遊園地行きが決まって喜ぶ幼い子どものように見えて可愛らしささえ覚えた。
「ちょ、お、おいっ」
「ディラン、ちょっと落ち着いてよ」
「ふふ。近くなの?」
「うん。と言っても、ここからならバスに乗るけど」
「…じゃ、食べたらバスに乗って行こう。琳子ちゃん、そこなら静かに話せるよね?」
「そうね。そうしましょう」
確かにサトルの家なら周囲に気を配らなくて済むし、何より友だちのお宅に遊びに行くということ自体が小学生の頃以来なので私は二つ返事で頷いた。そうすると私も表には出さないようしたけれど、やはりディランのように遊園地に向かう子どものような気分になってつい口元が緩んだ。
それから食事を済ませると四人でバスに乗り、サトルが暮らす単身者向けマンションへ向かった。近くに大学があるというそこは同じような学生マンションが多く建っていた。 近所にはスーパーやコンビニもあり、娯楽施設は少ないけれどサトルのような一人暮らし向けにはちょうどいいのかもしれない。
「狭いけど上がって」
1DKの室内は綺麗に整理整頓されており、観葉植物と大量の書物が目立った。
「わぁ、たくさん本があるんだね。サトルくんらしい」
「とりあえず座って。お茶を出すよ」
「綺麗ね。植物も多くて」
ドライフラワーになった花たちも壁に飾られており、部屋に入った瞬間花のいい香りが鼻腔をくすぐった。
「部活で余ったものをもらっているうちに増えちゃってさ」
すぐに台所に向かいお湯を沸かすサトル。てきぱきと動く慣れた姿はさすがだった。
「サトルくん、何か手伝おうか?」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
小さなテーブルに座ると、少しして人数分のコーヒーと茶菓子が並べられた。
「ありがとう、サトルくん。…あれ? もしかして日向くん、コーヒー初めて?」
「…まあ、そうだな」
「あ、そうだったんだ。確認してから淹れたらよかった。琳子は平気?」
砂糖とミルクを用意しながらサトルは尋ねられ、私は頷いて返した。コーヒーが好きな翠が時々私にも淹れてくれるので味には慣れている。
「…苦手なら緑茶、ほうじ茶があるけど?」
「せっかくだから飲んでみたら? 飲まず嫌いかも知れないし」
ディランが興味津々で日向を見た。
「…まあ、そうだな」
「じゃあ無理しないで」
「悪いな」
少し悩んだ後、日向はコーヒーを飲んだけれど短い沈黙の後白旗を上げた。
「…………。悪いが、お茶か水をくれるか」
「そっかぁ…残念。じゃ、言い出したのはぼくだし、日向くんのコーヒーもらうよ」
「いいよ、ディラン。一杯くらい」
苦笑しサトルは先程使ったお湯を再び沸かし日向の為に口直しの緑茶を淹れた。
「…飲んでみると案外いけるかと思ったんだが」
「苦いのは苦手なの?」
「…苦手というか、飲みなれない味でな…。まあ、何度か飲めば慣れると思う」
「はい、口直し」
と言ってサトルは緑茶を差し出した。
「ぼくも初めはコーヒーは苦手だったけど、眠気覚ましに飲むようになったら好きになったよ。独特の苦さがあるしね」
「…悪い」
淹れてもらった緑茶を飲むと日向はほっと息を吐いた。そんな彼の横顔を眺めながら、きっと翠だったら例え苦手なものでも笑顔で飲み込みまるでそれを好物かのように演じてみるだろうと思った。
似ているようでまったく違う。きっと彼のように真面目で優しい人柄が、無意識のうちに兄という理想像に当てはめてしまっているのだろう。こんなことを考えてしまうと、再び私たち兄妹の関係を再構築させようとしている翠に対して失礼かもしれない。けれど私と翠が、完全に他人として出会っていたのなら。もしかしたら今よりもずっと親しい友人くらいにはなれたのかもしれない。
 
 
「そう言えば日向くん、琳子ちゃんと話があるんじゃなかったっけ?」
「…私から話した方がいいかしら?」
歓談が一段落ついてからディランから琳子に話を向けてきた。
「…あ、琳子は話しても大丈夫なのか?」
「もちろんよ。私から話すわね」
「…なら、無理はせず、話せる範囲で教えてほしい」
居ずまいを正すと日向はまっすぐに琳子を見た。
「…小学生の頃、親しくなった図書館の男性司書に祖父母を殺されたの。私を誘拐するつもりで旅先までストーカーをして、別荘に侵入した所を二人に見つかってしまいそれで」
一息吐き出すと琳子はコーヒーを飲んだ。
「当時は結構騒がれた事件みたいよ」
「…!?」
あまりの内容に言葉を失った後、日向は静かに息を吐いた。
当時騒がれたといっても日本の過去の事件は当時自分の国にいた日向にはさっぱりだ。とは言え銃社会でもなく、凄惨な事件はあまりないと聞く日本では相当騒がれただろう。
「…犯人は捕まったのか?」
それで死者が帰ってくるわけではないが、今もまだ近くにいるかもしれない状態はあまり考えたくはない。
「……」
しばらく沈黙した後に琳子は小さく頷いて微笑んだ。
「えぇ」
「…そうか」
とても笑みを浮かべられる状態ではないだろうにと思うと胸が痛む。
「…きつい話をさせてしまって悪かった」
「人伝に聞くとどうしても脚色されるんだもの。ちゃんと話せてよかったわ」
「…まあ、確かにそうだな。事実とは異なる噂まで流れただろうしな。…きちんと琳子の口から聞けてよかった」
「本当に」
恐らく心からそう思うといった感じで琳子もしみじみと同意した。
「そうだ。今後もし、帰りが遅くなる時があればここに泊まっていけばいいよ」
「あ、いいね。それ。琳子ちゃん、そうしたらいいんじゃない?」
「…それがいい。そうだ、琳子に話すつもりだったんだが」
日向は改めて琳子を見た。
「…今日、よくわからない手紙がきただろう。何もないならいいんだが、何かあってからでは遅いからな。できるだけ一人にならない方がいい。サトルがいるから問題ないとは思うが、…都合がつかない時だってあるだろうしな。琳子がよければ…だが、ぼくも…協力する」
「………本当に、ありがたい申し出だけど…」
言葉に詰まり琳子は複雑そうに眉を寄せた。
「……。じゃあ、こうしようよ。帰りはできるだけ、ぼくと帰ろう。そろそろ勉強に本腰を入れるつもりだから部活も辞めようか考えていたんだ」
「なっ!? ちょっと待て」
さすがにそれはサトルへの負担がかかりすぎると思い日向は声を上げた。
「…それなら、部活をしていないぼくが帰り道を送っていく。…その、琳子が迷惑じゃなければ」
「……」
「日向は他の男よりは安心だよ」
「…あ、いや、悪い…」
うっかり勢いで言い出してしまったものの、さすがに踏み込みすぎだろう。周囲の友人がお互いによく知る人たちだったので、本来の距離感よりもずっと近くになってしまっていた。
「…そうだな。家の近くまでとか…。そうだ、ディラン。ディランもいれば、問題ないだろう」
「ええっ?」
「コイツはサトル一筋だし、ぼくと違って何かあった時に体術も期待できるからな」
「…ふふ、ありがとう」
ふと笑みを漏らし琳子は笑った。
「迷惑をかけてしまうのが申し訳ないけれど…お言葉に甘えさせてもらうわね」
「ちょっ、ちょっと待って。ぼくへの了承なしになんで話を進めてるのっ」
まさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったディランが慌てた。
「サトルの友人が困ってるんだ。当然だろう」
「ディラン…ごめんだけど、しばらくはお願いできないかな?  部活を辞めたらぼくも一緒にいるから」
「…サトルくんは部活をやめなくていいよ。ただぼくも部活があるから少し待たせる日もあると思うんだけど、それでもいいかな?」
「ごめんなさい。…駅まで行けたら、後は電車に乗るだけだから」
「大丈夫だよ。さっきは勝手に決められてあんなこと言っちゃったけど、ぼくだって琳子ちゃんのこと心配してるんだし。何か気づいたことがあったら、すぐに言って?」
安心させるようにディランはふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「えぇ、ありがとう」
「…それにしても…日向って意外と面倒見がいいんだね」
コーヒーを飲みながらサトルがぼやいた。
「妹か弟がいるの?」
なんとかおさまったことにほっと息を吐いていた日向はサトルの言葉に目を丸くした。
「…いや、ぼく自身は一人っ子だが? 兄や姉もいなければ、弟も妹もいない。…ああ、そう言えばここにでかい弟が」
「ちょっと。ぼくは真ん中だってば」
「はは、確かにディランは末っ子みたいだよね」
「何人兄弟なの?」
「兄二人、妹一人の四人だよ。まあ…今は一人っ子みたいな感じだけど。サトルくんは大家族だったよね?」
「うん。と言っても姉三人と妹だけどね。あとは親戚筋の兄たちが一緒に暮らしていたから、結構賑やかだったよ」
「大家族ね。サトルも真ん中育ちなのね」
「えっ? サトルくんって末っ子だと思ってたよ」
「…そう言えば、琳子は?」
気になっていたらしく、日向は琳子を見た。
「私は兄が一人。末っ子なの」
「そうなのか。ぼくは兄弟がいないんだが、兄弟っていうのはどんな感じなんだ?」
「……残念だけどあまり仲は良くないわね。同性の方が親しくなれたかも」
「姉も似たようなものだよ。大体下が割りを食うんだ」
「…ぼくも兄二人とはほとんど話さなかったなあ。母親は妹にべったりだったし」
「なんというか…兄弟ってろくでもないものなんだな…」
「そういうものだろ。小さい頃は一緒に…と言うかオモチャ扱いで遊ばされていたけどね」
「…そうか。友人の都合がつかない時、遊び相手はいなかったが、一人でよかったな」
「うん。でも、ぼくも日向には下に兄弟がいると思っていたよ」
「…そんなに兄に見えるってことか。そう言うが、ぼくは別に、あ。……そう言えば、昔の友人がどうにも頼りない奴だったからかも知れないな」
ふと昔馴染みの顔が浮かんで、日向は苦い表情を浮かべた。今ではいい思い出しか浮かばないが、当時は色々あった。
「それは祖国の?」
「…まあな。もう長い間、顔も見てないないが」
日向は苦笑して答えた。
「日向が日本にきたから?」
「いや、どちらかと言うと逆だな。向こうが行ったらしいから、きたというのが正しいな」
特に話すつもりはなかったが、これまで誰にも話すことなく過ごしてきたことだったからか、話せばつい過去の思い出話が浮かんでしまう。
「お友だちが日本へ?」
「あれ? 日向くんの友人て日本人だったっけ?」
「違う。日本へきたらしいとは聞いたが、まあ、おそらくな」
「もしかして、その友だちを追って日本にきたの?」
「………まあ、な」
ついつい話しすぎてしまったことに気づいて、日向は気まずい表情を浮かべて視線を逸らした。
「おお~、日向くん、友情に篤い~」
「あのな」
「……それで、お友だちにはまだ会えていないのね?」
「!」
琳子の言葉に日向は目を見開いた。
「…な、なんでわかった?」
「あら、長いこと顔を見ていないって言っていたじゃない」
クスクス笑い答えた。
「それにお友だちを追ってきた割に近状も知らないみたいだから」
「…ああ。まあ、そうだな」
そう言えば既に話していたと日向は肩を落とした。
「まあ、勉強にもなってるし、それだけって訳でもないが」
「でも…本人を前に言うのも気がひけるけど、日向がわざわざ友だちの為だけに日本にくるかな」
「だよね。友情の為だけに日本にまでくる日向くんなんて、想像つかないよね」
「あのな」
「ひどい言われようね」
意外と辛辣な日向に対する評価に琳子もつい苦笑した。
「…いいだろ。ぼくの自由だ。ちなみにディラン、お前が失踪しても探してやらないからな」
「ええっ」
「琳子のことは心配してたくせに」
ジロリと日向を睨むサトル。
「…コイツは自力で帰ってくるだろ。サトルがいるんだからな」
「……確かに」
妙に納得したサトルを見て琳子は吹き出した。
「…まあ、ぼくだってサトルくんを一人にはしないし」
「…それで、お友だちを探す手掛かりはあるの?」
その言葉に日向は黙りこんだ。
「………まあ、一応は」
何故琳子の相談に乗るつもりが自分の悩みを話すことになってしまっているのか。日向は息を吐いた。
「そぅ…よかった」
「で、どんな奴なの? 日向がわざわざ探している友だちって」
「あ、聞いたことあるよ。日向くんとは正反対のすっごく性格がいいって話。確か、素直で優しいお人好しなんだよね?」
「あのな」
「へぇ…。そんな優しいお人好しが、どうして失踪したのかな」
「さあ。そこまでは聞いてないけど。どうなの? 日向くん」
「……色々事情があるんだよ。いいだろ、別に」
「見つかるといいわね」
「…そうだな。ありがとな、琳子」
話すつもりはなかったが、話したことで自らの気持ちを再確認できたように思う。日向は自然と穏やかな表情を浮かべた。
 
 
しばらく新しいクラスの話で盛り上がり、気がつけば茶菓子がすっかりなくなっていた。
「近くのスーパーに行って買ってくるよ」
「あ、じゃあ。ぼくも一緒に行くよ」
「私も」
すっかり寛いでしまっていた私は慌てて名を挙げた。こうしてお友だちの家でゆっくり過ごすなんて、ほとんど経験がなかったからつい気持ちも緩んでいた。
「琳子はいいよ。お客様だから、今日くらいはゆっくりして」
「でも…」
「あ、荷物持ちはいらないか?」
「ぼくがいるから大丈夫だよ。日向くんより力になるし。なあに、日向くん、今になって焦っちゃって」
「あ、いや…」
「……。すぐ戻るから」
サトルは恋人の手を引いて出て行った。多分ディランの方は明らかに二人きりの時間を持ちたがっているように見えたけれど、サトルの方はどうなのかしら。先ほどまでの二人のお互いに対する想いについて語ってもらった影響もあって、私はつい深く考えもせずに呟いた。
「…サトルも二人きりになりたかったのかしらね?」
「も!?」
思わずビクリと反応し、落ち着かせるように息を吐いた。そのリアクションを見てほんの少し申し訳なさを覚える。彼もサトル同様に男女間の関係について厳しい国出身だと聞いていた。それ故に些細な言動にも過敏に反応してしまうところがあった。
「あ、いや、悪い…。その、よかったのか? …サトルと話したかったんじゃ…」
「それは大丈夫よ。ただ…初めてのお宅に置いてきぼりにされると、何となく手持ち無沙汰になるわね」
思いもかけず二人きりになってしまった状況を思い、できるだけ彼が緊張してしまわないようクスクス笑いながら答えた。
「…そう、だな。ぼくも、まあ…そんな感じだ」
短い間を置いて日向は続けた。
「…悪い。何を話せばいいか、話のネタが思いつかない…」
「そうねぇ…。よく考えてみたら、今朝やっと私を見つけてくれたところだったわね」
「そうだな。だいぶ、時間がかかったとは思うが。……その、聞いておきたいことがあるんだが聞いてもいいか?」
「何かしら」
「…手紙の件なんだが、その、ほとんど勢いみたいなかたちで琳子が一人で行動しない方がいいからと駅まで送ると言ったが。よく考えたら、琳子の立場から見ると今日再会したばかりのぼくだって怪しい訳で……逆に不安を煽るかたちになったんじゃないだろうか」
 真剣に悩みながらも話しかけてくれるその姿を見て、どういう風に育てられたらこんなにも真っ直ぐな心を持った人になるのだろう。そんな彼の優しさに精一杯報いるつもりで、私も一つ一つの言葉を丁寧に選び答えた。
「貴方は誠実ね。そして友だち想いで…真面目。そんな人の優しさを疑ったり迷惑に思う訳がないじゃない」
「………。そうか。なら、よかった」
私の言葉をまるで反芻するように黙ると、まるで気持ちが晴れたように笑顔を見せてくれた。
「…ただ、さすがに誉め過ぎだと思うが。評価されるのはありがたいんだがな」
その後、落ち着かない様子で視線を逸らした。
「ふふ、実を言うと最初に提案を貰った時は戸惑ったのよ。だけど…貴方の態度を見て、ただ実直に私を心配してくれていると感じたの」
「…あー。まあ、そうなるだろうな」
容易に想像できるだけに日向は苦笑した。
「…けど、信用してくれてありがとな。信用に足るよう力を尽くすつもりだ。…ディランほど、頼りになる訳じゃないが」
「ありがとう」
きっと嘘偽りなんて一切含まれていない彼の想いに、私は笑顔を返すことで応えた。
 
 
スーパーで買い物を済ませアパートに向かいながらサトルはディランに話しかけた。
「今まで誰かを家に招いたことがないから、何だか新鮮だよ」
「そうなんだ。ふふ、ぼくもみんなでサトルくんの家に行くことになると思ってなかったよ。まさか日向くんまで行くことになるとか」
「…あの流れで誘わない訳にはいかないだろ。それに…あまり話したことがなかったけど、日向の人柄を知れたからよかった」
「話してみると結構面白いタイプでしょ?」
「そうだね。意外と友情に篤い人だね。…琳子にも、親切だし」
「だね。日向くん、昔はあそこまで友情にあついタイプじゃなかったみたいだけど。琳子ちゃんへの対応はぼくも意外だったよ」
「そうだったの?」
「うん。だって日向くんて、女の子が苦手みたいで自分からはまず近づかないし、よく会話に困ってるとこを見かけるよ。ぼくが男女関係なく話すからって、女の子との会話はぼくに投げてさっさと逃げちゃうのがほとんどだったし」
「……琳子は特別なのかな?」
「…まあ、気にはなってるんじゃない? ついつい周囲から琳子ちゃんを探しちゃうくらいには」
こんな日向は初めて見るとばかりにディランは楽しそうに笑った。
「日向くんのことだから、自分ではわかってないんだろうけど」
「……。これは、ぼくも一緒に見ていたから言うことだけど。琳子はいつも悉く告白を断っているんだ。恋愛に興味がないと言うより、トラウマがあるのかなって思うんだけど」
小さく息を吐き出しディランを見た。
「二人のことに口出しするつもりはないけど、日向には中途半端に琳子を好きになって傷つけて欲しくはないな」
「じゃ、今すぐ二人が関わるのを絶っちゃう?」
ディランはいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。
「…今なら戻れるよ。日向くんだって無自覚だし、今なら浅い傷で済む。人と人の出会いってちょっとしたきっかけやちょっとした興味から始まるものだよ。相手を包みこむまでの情は少しずつ育てていくものだしね」
「それは…。だって、琳子もきっと興味があるから、日向に自分を探してって言ったんだと思う。…外野が口出しすることではないけど、心配なんだ…」
「…わかってるよ。琳子ちゃんはサトルくんの大切な親友だものね。だから、琳子ちゃんが困ってる時、悩む時にぼくたちが支えになれるように気をつけていけばいいんじゃないかな?」
「…うん」
小さく頷き、二人が待つアパートを見上げた。
「さて、日向くんと琳子ちゃんは結局どんなお話をしてるのかな。仲良くやってるといいんだけど」
ディランもアパートを見上げ、ふわりと笑みを浮かべた。
 
 
コーヒーをすっかり飲み干してしまった頃、サトルたちが帰ってきた。
「ただいま」
「あ、お帰りなさい」
「どう? 日向くん、琳子ちゃんとお話できた?」
二人きりの時間をもてたことで活力を得たのか、ディランは先程よりもどこか活き活きして見えた。
「ああ、まあ」
「で、どうだった?」
「あのな」
「ディランったら…」
ディランと日向のやりとりはいつも親しい兄弟のように見えて微笑ましく感じてしまう。見た目からも決して共通点のない二人だけれど、やっぱり一緒に暮らしている所為か妙に雰囲気が似ているのかもしれない。
「遅くなってごめんね。琳子、大丈夫だった?」
「…どういう意味だ、それは」
「退屈してなかったかっていう意味」
買ってきた茶菓子をお皿に盛りながらサトルは答えた。そしてサトルと日向の掛け合いもまるでむかしからの腐れ縁のような親しみがある。本人たちはあまり自覚がないみたいだけれど、出身国の風習が似ていることからも価値観は意外と近いのだろう。
「…そう言えば、日向くんと琳子ちゃんていつ頃会ったの?」
「は?」
「私が編入したその日の放課後よ」
「そ、そんなに間なしだったのか」
これには意外だったらしく、日向は目を丸くした。そんなに驚くことだったかしら、とつい笑いを堪えながら答えた。
「校内をぶらぶらしていたら、あんな時間になって」
「…それで、階段で…。悪い。きたばかりの学校でさらに不安させたな…」
「まさか。むしろその逆よ。面白い出会い方ができてよかったわ」
「日向のボタンに琳子の髪が絡まったんだっけ?」
「わ、そうだったんだ。すごい偶然だね」
興味津々でディランが身を乗り出した。
「…まあ。琳子、あの後、髪、傷んでなかったか?」
「えぇ、大丈夫よ。ありがとう」
彼は男性にしては珍しく髪の毛に関して色々と気遣ってくれる気がした。あの時も毛先を切ろうと提案したけれど、即座に却下されたことを思い出した。
「…なら、よかった」
表情を柔らげたホッと息を吐いた。
「綺麗な髪だよね」
「そぅ? ふふ、ありがとう。父親に感謝しなくちゃ」
「あ、琳子ちゃんのお父さんてどこの国の人なの?」
「イギリス人なの。私の祖父は日本人で、父親はイギリスと日本のハーフにあたるらしいわ」
「じゃあ、琳子ちゃんはクォーターなんだね」
「…そうだったんだな」
「琳子よりぼくらの方が日本人みたいな外見だよね」
艶やかな黒髪のサトルは同じく黒髪の日向の顔を見て苦笑した。確かにこのメンバーで誰が日本人か尋ねられたら、真っ先に視線がいくだろう。
「そうだな。…まあ、外見が日本人に近い分、文化の違いで逆に距離をとられるが」
「日向の国はどんなところなの?」
「…サトルと近いんじゃないか? ものすごく厳格なところだ。血族だの、家だのうるさくて、男女の付き合いにも制限がつきまとう」
うんざりしたように息を吐いた。
「はは、似てるね。ただ、ぼくの国の方がもっと未文化的だと思うよ。地方では呪術師が治療を行ったりするんだ」
「…ぼくの国でも辺境の地方や田舎だとまだ残っているらしいとは聞いたが、ぼくが住んでた都では医術を扱う医者が治療していたな。呪術師ではなく、こちらではまじない師だとか祈祷師だとか呼ぶんだが、実際に遭遇したことはないな」
「日向が国を出る時、反対はされなかった?」
「……まあ、な。家を継ぐ唯一の男子だからと顔も知らない相手と無理矢理婚約させられそうになってな。夜逃げだ、夜逃げ」
「そうだったんだ…」
「顔も知らない相手と…。すごいわねぇ…」
今の日本ではよほどの財閥でもない限り考えられない話にただただ感嘆してしまった。
「…い、今はもう無効だ、こんな話」
「どうだか。案外、国では日向くんの両親が勝手に縁組みして、既に婚約になってたりして」
「なっ…」
ディランの言葉に日向は蒼褪めた。
「ちょっと待て。そんな話は無効だ、無効。…ああ、くそ。絶対、国には帰らないからな」
「でも、ちょっと気になるよね。どんな人が相手なんだろ」
「知らん」
「あ、でも。名前だけは聞いたんじゃない?」
「………」
「あら、知っているの?」
妙な沈黙が気になって追及してみた。
「…まあ、な。名前だけなら…。なんかの石の名前だった。以上」
「石? …鉱石の類かなぁ」
「う~ん、サファイアちゃんとかカタカナの名前な訳ないよね」
ディランは首を傾げた。
「…瑠璃…瑪瑙、翡翠って名前もありそう」
「…琥珀…?」
あまり鉱石に詳しい訳ではないけれど、サトルが列挙した名前に連ねて挙げてみた。
「………。当たりだ、琳子」
気まずい様子で日向は視線を逸らした。
「まあ、当たったところで何もないがな」
「へえ、琥珀ちゃんて言うんだね」
『琥珀』と言葉にせず心の中で呟く。長い年月をかけて化石となった黄金色に似た半透明なその鉱石の名を冠する婚約者の少女は、きっと美しくそして芯の強い人なのではないかと想像してしまった。
「…結局、婚約はしてないんだ。アカの他人だ、アカの他人。…特に気にする必要はない」
「まぁ、相手にも拒否権くらい欲しいよね。でも、婚約者に逃げられたって周りから見られる場合、その女性に不利益しかないよ」
「……………」
サトルの言葉に日向は頭を抱えた。
「…書類上の契約は一切していない。話が出たところまでなんだが…、正直、手立てが思いつかない。何かしら支援をした方がいいのか…? 現状では自分の面倒をみるのでカツカツで、向こうの落ち度ではなく、こちらの評判を落とすくらいしか手段が浮かばないんだが…」
「……」
まるで別世界の話のように感じてしまい、なんとなく口を挟むのも憚れていた私にディランが声をかけてくれた。
「…なんだかちょっと遠い話だよね。琳子ちゃんは日本育ちだっけ? 幼い自分に婚約だとか、家だとかはあまり聞かないよね。……計算すると婚約の話って日向くんが十二かそこらの時の話みたいだし」
「そうねぇ…」
ディランに同意しつつも母のことを思い出し苦笑した。
「私の母が、婚約前に私を妊娠して婚約中に父親と別れた人だから…そうして好きでもない相手に誠意を示そうとする姿勢に感心しちゃった」
「?!」
この手の話題についてはネタが尽きない私の母について語り出すと、日向は目を見開いて驚いた。
「…あ、いや。今のは…ぼくが聞いていい話だったのか…?」
「えぇ。特に隠すほどでもないじゃない」
「琳子のお母さんって色々と面白い経験をしている人だよね」
そういうサトルは私の母について語った時、最初は驚いていたけれどすぐに面白がって聞いてくれるようになった。きっとサトルがそうしてくれたから、私はあれから自分の母について話すことにあまり抵抗を感じなくなったのだと思う。学園に編入した頃は、私生児呼ばわりされひどく不快な思いをし更に母親に対する嫌悪感を募らせたというのに。
「そうだね。まあ、いらなくなったら一人養子に出しちゃえなんて人もいるしね」
「引かせてしまったかしら」
言葉に詰まった様子の日向を見て、それも当然と思い苦笑しながら続けた。
「ただ、私の母も意外かもしれないけれど、それなりに厳格な家庭で育ったのよ。それでも結構自由奔放な人だった。…中絶もせずに私を産み育てたのは、母なりに想いがあったのね」
「女一つで二人の子どもを育てるなんて…容易ではないよ」
「…あ、いや。本当にすごいことだと思う。悪い、嫌な思いをさせたな」
「ありがとう。ただ…むかしは嫌いだったけれど、今は嫌いじゃないの。彼女らしくて」
彼女らしくて、の一言にどれだけの想いを込めたとしても。私は母にそれまでの悪態を撤回し謝罪することもできない。温かな食事を用意してくれなくても、仕事から帰ったら必ず私たちの話を聞いてくれた。恋人たちと夜を共に過ごしたとしても、朝には必ず帰り学校へ向かう私たちを見送ってくれた。血の繋がりのない翠を引き取った時も、どうにかして自分の実子として迎え入れられないか奔走して策を練ったのだと翠の父から聞いた。
世に言う理想的な母親とは縁遠い人だったけれど、私たちにとっては素晴らしい母親だった。けれどそんなことに気づくまで、私たちは随分と遠回りをしてしまい、そして、あの人はいなくなってしまった。
コーヒーを飲むと再び日向を見て続けた。
「私が言いたいのは、お別れするにしてもきちんと二人で話し合うべきじゃないかしら。一方的に逃げられてしまったら、お互いを知る機会まで持てなくなってしまうわ」
「二人で話し合うべきって…当人の意見が通る話じゃないんだがな。決めるのは家だし、会ったりなんかしたらそれこそ、ない傷が増えるだけだしな。……誰か信頼出来るやつを見つけて手紙を届けてもらうか。手紙は読後、焼き捨ててもらうとして……」
「でも琳子の意見は尤もだ。理由も知らせずにとんずらするより、何らかの手段を用いて相手にきちんと説明をして誠意を見せるべきだよ」
「……まあ、本人以外の手には触れないよう配慮して、手紙を書くことにする…」
「…どんな人なのかしらねぇ」
「琥珀って人?」
「日向くん、知らないの? 名前以外」
「…知らないな。そもそも十二で婚約とか一切興味がなかったからな」
「ふふ、私たちからしたら、ずっと先の話に感じちゃうわね」
「…ぼくなんか、ディランの事を知らない両親から行かず後家になるって思われているだろうなぁ」
「ふふ。ぼくがいるんだから、サトルくんが行かず後家なんてまずあり得ないね」
ふわりと笑みを浮かべるディランと、そんな彼の発言に赤面するサトル。微笑ましい恋人たちのやりとりが心を温かくしてくれた。
「ご馳走さま。結婚式には呼んでね」
「琳子まで、からかうなっ」
「………くっ」
二人のやりとりに日向は小さく笑いを噛み殺したものだから、サトルは不満げにぼやいた。
「…何だよ」
「…いや? やっぱり、自分で相手を選べるっていいことだよなと思っただけだ」
「……。当たり前だ。自分の人生なんだから」
そして話の途中で視線を私に移すと
「結婚しようとしなかろうと、子どもを産もうと産まなかろうと、自分が幸せだと感じることができたらいいんだ」
彼女の優しさに溢れたその言葉に、私は静かに頷いてみせた。
「……そうね。えぇ、本当に」
「…ふふ。じゃ、二人共、自分が幸せだと感じられるように生きなきゃね」
「ま、そうだな。とりあえず問題を片付けるところからだが」
「うまくいくといいわね」
「いかなかったら、結婚って道しかないしね」
「…そうならないよう努力する」
と言って日向はうんざりしたように息を吐いた。
「…すっかり長居しちゃったわね。そろそろお暇しないと」
気がつけば窓の向こうでは夕陽が沈み始めている。
「…そういや、そうだな。悪い、長居した」
「…ぼくはもう少しいたいけど、さすがに迷惑かな。サトルくんも、いきなりみんなでくることになるとは想定外だったろうし」
「またよければ、遊びにきて。だいたい家にいるから」
「えぇ、ありがとう」
「あ、ぼくもいいよね?」
すかさずディランはキラキラと目を輝かせ尋ねた。
「ディランは……ちゃんと自分の家に帰るなら…」
「勿論、約束するよ。サトルくんの勉強の邪魔しちゃ悪いしね」
「はは、ありがとう。じゃあ、ディランも琳子も日向も…気をつけて」
「…ああ。邪魔したな」
「サトルくん、またね」
 
 
「楽しかったわね」
サトルのマンションを後にして琳子は楽しげに振り返った。
「こうして友だちの家に集まるなんて久しぶりなの」
「ふふ、よかったね。琳子ちゃん。日向くんもあんまりないんじゃない? こういうの」
「…あー。そうだな。男だけの集まりならあったんだが、こういうのは初めてだな」
「お友だちも一人暮らしなの?」
「…あー。実家暮らしのやつや、寮暮らしのやつばかりだな」
「そぅ。みんな地元か、もしくは一人暮らしを頑張っているのね」
駅に向かって歩く途中、満開の桜並木の下を歩いた。
「琳子ちゃんは家族と暮らしてるとか?」
「えぇ。母が亡くなってからは兄と二人暮らしよ」
「…そうなのか」
兄どころか兄弟のいない日向は今一つ分からないながらも、一人ではないという事実にほっと安堵の表情を浮かべた。
「なら、家に帰れば問題はなさそうだな」
「色々と心配かけてごめんなさい…」
「あ、いや。気にするな。こちらが勝手に気にかけているだけで」
「えぇ、ありがとう。…早めに解決したらいいけれど」
「日向くんが言ってたけど、ぼくも協力するし、何か気になることがあったらサトルくんでも日向くんでも、誰かに相談して」
ディランの言葉に頷き琳子は桜を見上げた。
「…綺麗な桜だな」
気遣う言葉もディランに取られてばかり。とはいえ、そこは気にせず。日向もまた桜を見上げた。
「この桜を楽しめるくらいに穏やかな日々を過ごせるといいな。…まあ、その為には解決しなきゃいけない課題があるがな」
日向の言葉に、琳子はしばらく黙り込むと意を決したように呟いた。
「……やっぱり、私…あのメールアドレスに連絡をしてみようと思うの」
「は!?」
「何も手掛かりがないじゃない。それにまだ、向こうの意図もわからないわ」
「いや、ちょっと待て」
「あれ? そう言えば、肝心のアドレスを書いた手紙って日向くんが破ったんじゃなかったっけ?」
「……」
気まずそうに一瞬沈黙すると、琳子は鞄からメモ帳とペンを取り出して例のメールアドレスを書き込んだ。
「実は短いから…覚えちゃったの」
「!?」 
驚愕した日向は盛大に溜息をつき、頭を抱えた。
「…頼むから、連絡もせず、危険へ飛び込むような真似はやめてくれ」
「………」
困惑したように黙り込むと、琳子は少しして苦笑した。
「本当に…面倒見がいいんだから」
「ふふ。日向くんて、ホント、お兄ちゃん気質だよね」
「あのな」
「…心配をかけてしまうけれど、これ以外に手掛かりが見つからないのなら、私は多少のリスクは仕方ないと思っているの」
「いや、ちょっと待て。本気で連絡を取る気なのか?」
「いいんじゃない?」
「はあ?!」
ディランの言葉に日向は信じられないとばかりに睨み付けた。
「ただし、連絡をとるのは琳子ちゃんの以外の端末で。メールしただけで琳子ちゃんの個人的なアドレスを拡散されちゃったり、悪質に使われるのを防ぐ為にもね」
「でも、それじゃあそのアドレスが悪用される可能性があるわ」
「その場合、捨てアドを用意するしかないかな」
「……わかったわ」
琳子は神妙に頷きディランを見た。
「お、おい…」
「そうそう、このことはサトルくんにも話した方がいいんじゃない?」
「えぇ、明日話すわ。だけど…できたらこの四人のうちで留めて欲しいの」
「…それは、琳子の家族にも話さないということか?」
彼女の意外な発言に日向は目を丸くした。
「……お願い」
質問に敢えて答えず、琳子はただ肯定のみして黙り込んだ。
「…琳子ちゃんの家にまで何かあるとは思わないでもないけど、可能性はゼロじゃないし。家族は知っておいた方がいいんじゃないかな? いざ、何かあった時、対処できないけど」
「…ディランの言う通りね。だけど…今はまだ、話したくないの」
「そっか。なら、仕方ないね」
「まあ、そうだな。ぼくも他言はしないようにする」
「ありがとう…」
ほっとしたように微笑むと、いつの間にか着いていた駅を見た。ちょうど帰宅時間と重なって駅の改札はサラリーマンや学生の姿で賑わっていた。
「そうそう。詳しい打ち合わせはまた後日。サトルくんも交えて話そう。それまで連絡を取るのはなしだからね」
肩を竦めて笑うと琳子は頷いた。 
「今日はありがとう。駅から家まで灯りも多いから、ここで大丈夫」
「…ああ、気をつけてな。くれぐれも一人で先走った行動はしないでくれ」
「はい」
クスクス笑い手を振ると琳子は改札口へと向かった。そして彼女を見送った後、日向とディランは帰路についた。
日向は居候の身だ。帰り道は必然、同じになる。普段からよく過ごしているため、会話はあったりなかったりなのだが。
「ふふ。日向くん、ずいぶん、ご執心なんだね」
「…今はそんなことを話してる場合じゃないだろ」
「そうだった。琳子ちゃん、大変なんだよね」
琳子の前ではわりと真面目だった気がしたのだが。
「…でも、日向くんからしたら、なんだか急展開じゃない? 琳子ちゃんと再会したのって今朝だよね」
「まあな」
「それでここまで世話焼いちゃうって日向くんて、相当なお人好しだよね」
「…まあ、お前やサトルとも知り合いだったしな。周囲の雰囲気に流されてこちらまで古くからの友人みたいに話せるとは想像もしてなかったな…」
その辺りサトルやディランに感謝しなければと思う。一方で、会話を振ったディランは想定とは違う返しにやや不満気な表情を浮かべた。
「まーいいけど。彼女、きちんと見とかないとダメだよ」
「?」
意図するところが読めずにディランを見ると、ディランはしてやったりといった表情を浮かべてみせた。
「琳子ちゃんみたいなタイプは目を離すといつの間にか消えちゃいそうな、危なっかしい感じだから」
 
 
携帯電話の通話履歴から彼の名前を探すと、サトルは通話ボタンを押した。
『…もしもし? サトルくん』
数コールと鳴る前に通話になった。
「ディラン? 今は電話をしても大丈夫?」
『ん。大丈夫だよ。さっき夕飯を食べ終わってゆっくりしてたところ。サトルくんは?』
「ぼくもだよ。…今日はありがとう。とても楽しかった」
『ぼくも楽しかったよ。いきなり大勢で押しかけちゃったからね。大丈夫だった?』
「それは大丈夫だよ。…あのさ、帰り道の琳子の様子はどうだった?」
『…そのことなんだけどね。琳子ちゃん、連絡取るつもりみたいだよ』
「連絡を? …確か、日向が手紙を処分したはずだけど」
『それがね。短いアドレスだったから、琳子ちゃん、覚えてたみたいで。まあ、短いアドレスくらいならぼくも覚えちゃいそうだなとは思うんだけど』
受話器越しの声に苦笑が混じった。
「…はぁ」
つい溜息を漏らしサトルは続けた。
「こんなことになるなら最初から手紙を処分しなきゃよかったのに」
『ふふ。仕方ないんじゃない? こんなだけど、それが日向くんなりの優しさなんだし。今更、事実は変えられないし、次に対処するしかないね』
「……。そうだね、ごめん。それで、連絡をとるって…琳子はケータイ持っていないんだ。パソコンから送るつもりかな」
『…かもしれないね。一応、勝手な行動はしないようにって釘は差したんだけど、一人で勝手に行動しちゃったら…ふふ、ご家族に連絡しちゃおうかな』
いたずらっぽく小さく笑う声が受話器越しに聞こえてくる。
「はは」
ディランの提案にサトルもつられて笑った。きっと彼女にとって一番避けて欲しい展開にディランのほんのりと黒い性格が窺える。
「ぼくもそこまで詳しくないけど、お兄さんと仲が悪いって言っていたね」
『ふふ、効果ありそうでしょ? …ま、実際どうにもならない事態になったら、最終的に知らせない訳にはいかないけどね』
「そうだね。最悪の事態を想定して動かないと。…あのさ、えっと…」
『何?』
「………っ」
なかなか言い出せずサトルは黙り込んだ。
『なあに? サトルくん。言いにくいことかもしれないけど、言ってみて』
「……今度はもっといいコーヒーを用意しておくから…気軽にきてくれたらいいよ」
『!?
まさかの不意討ちにディランからの反応が一瞬遅れた。
『…ホント? ありがとう。ふふ、嬉し過ぎてたまらない。…結局押しかけるかたちになっちゃったからね。成り行きとはいえ、サトルくんはまだぼくに家を知られたくないと思ってだろうし…だから、すごく嬉しい…』
「た、タイミングを逃したら伝えにくくなると思ったから、いいんだっ」
恥ずかしさのあまり口調がきつくなりつつもサトルは続けた。
「本当は、ディランがコーヒーを好きだから買うようになったんだ」
『え、そうだったの?』
サトルの言葉にディランは驚きの声をあげた。
『じゃ、ぼくの為にコーヒー買ってくれてたんだね。…ありがとう、すごく嬉しい…』
「……~っ」
相手にはこちら側が見えないにも関わらず赤面した顔を隠すとサトルは
「用件は以上。おやすみっ」
と叫び電話を切った。
「……恥ずかしい過ぎる…」
クッションに抱きつき小さな声で呟いた。
 
 
 「珍しく今日は和食だったな」
 準備に手間取ってしまい結果的に夕食の時間は随分と遅れてしまった。普段なら片づけまで料理を作った人が請け負うのだけど、今日は例外にということで翠も手伝ってくれた。
 「ちょっと食べてみたくなったの」
 サトルがお昼に食べていた和風定食の影響を受け、帰りのスーパーで山芋を買ってしまった。お陰で我が家も夕食にトロロがけご飯と焼き魚という珍しい純和風のメニューにしてみたのだ。お皿をあらかた片づけると、すっきりしたキッチンで翠がお湯を沸かし始めた。
 普段なら私はこのまま部屋に戻るのだけど、彼に聞いてみたいことがありタイミングを伺った。
 「翠の知り合いで…私の学校に通っている人っているかしら?」
 コーヒーのいい匂いが辺りに漂う。その香りを嗅ぎながら、翠が淹れたコーヒーなら日向も飲めるかもしれないと思った。
 「………」
 少しして二人分のカップを持って翠がキッチンから出てきた。
 「ないとは断言できないな。親しくしている友人の類ではいないが、顔見知り程度の他人が通っていないとは言い切れない。何より遠いが通学県内ではある有名進学校だ」
 「…そうよね」
 敢えて翠は明言を避けたけれど、例の事件以来私たち家族はこの辺りでも有名人になってしまった。今ではようやく落ち着いたとは言え、当時は連日のようにマスコミがチャイムを鳴らし謂れのない誹謗中傷に夜も眠れない日々が続いた。
 私はしばらく入院をすることでそれらの悪意ある周囲の眼から逃れることができたけれど、翠と母はこの家を手放すことなく果敢に住み続け戦っていた。
 ―――あの事件を機に、私と翠の関係は完全に他人になってしまった気がする。
 実の兄と信じて慕っていた私は、急によそよそしくなった翠の態度に傷つきそれを癒すかのように私に声をかけてくれたあの男に懐いてしまった。当時翠は、既に自分が血の繋がりなんてない他人だと知り、様々な葛藤を抱いていたとは知らずに。
 「美味しい」
 以前の彼なら私の為にコーヒーを淹れることもなかった。二人でぎこちないながらも、日常の出来事を語り合いささやかなアドバイスを送るなんてことも決してできなかった。
 家族から一度他人になり、そして再び私たちは家族になろうとしている。そこにはただ、お互いに今度こそ寄り添い助け合いたいという思いがあるから。傍から見れば卑しい憶測をされてしまうかもしれない私たちだから、例え親しい人に事実を伝える訳にはいかない。
 廊下に置かれた固定電話が着信を告げるメロディを奏でた。
 「!」
 一瞬迷惑そうに眉を寄せると、翠はリビングを出て電話をとった。ほとんど一日おきくらいにかかってくる、彼の恋人からの電話だろう。元は学園で私のルームメイトだったフランス人の少女だ。今は実家に戻っているので遠距離恋愛中なのだ。こうして恋人として見ているけれど、実際に交際しているのかわよくわからない。翠からも直接聞いたこともないし、私も特に率先して話題に出すことをしないからだ。
 コーヒーを持って二階に移動する際に、ちらりと受話器を持つ翠の顔を盗み見た。相変わらずの仏頂面だったけれど、ほのかに口元が緩んで見える。
 「……?」
 不意に翠と目があったので、私は口パクで「後でシャワーを浴びるわ」とだけ伝えてそそくさと階段を上がった。
 そして自分の部屋でゆっくりコーヒーを飲んだ。ディランや翠が恋人を得て変わったように。恋は人を変えてしまうものなのだろう。二人に訪れている良い変化につい鼻歌を歌いながら私は、クローゼットの奥にしまっていた箱を取り出した。
 どんな手紙でも時間が経てば笑って読めるようなる。そう母に言われたことがきっかけになって、私は今まで送られてきた手紙はほとんどこうして箱にしまい残すようにしていた。中には今朝日向に話したような不幸の手紙もある。
 「……これかしら」
 同じような内容の不幸の手紙はひとまとめにしていたけれど、一枚だけおかしな手紙をもらったことがあった。ちょうど私が事件の後しばらくしてようやく退院した頃に、この家まで切手なしに届けられたものだった。
 ピンク色の便箋は長年放置していた所為で少し湿っぽくなっている。中の手紙を取り出すと、当時これを読んで皺くちゃに握り潰した形跡が紙面に残っていた。
 『自分だけだと思うな。私もだ。私も私も私も。みんなが不幸になればいいのに』
 皺をもう一度伸ばしながら、拙い文章を読み直す。殴り書きしたかのような乱暴な筆跡だったけれど、丸みを帯びた文字は私のロッカーに入れられたあの手紙の文章とよく似ていた。
 
 翌朝、いつものように眠気眼で髪を三つ編みにし、まだ眠たいと叫ぶ胃袋に無理やり朝食を詰め込むと学校へ向かった。自分の教室へ向かうと日直の美奈が私の顔を見るなり
 「今日サトル休むらしいよー」
 と教えてくれた。
 「え? どうして?」 
 昨日は特に体調も悪くなさそうだったのに、と尋ねた。美奈も中等部からサトルと親しくしており、彼女の身体が弱いこともよく知っていた。
 「さっき職員室に日誌取りに行ったときに聞いただけなんだけど、サトルにメールしても返事ないし。体調悪いのかもね」
 「そう…。大丈夫かしら」 
 「まぁ、親が看てくれてるでしょ」
 楽観的に答える美奈の反応に、サトルが独り暮らしだというのを周囲に隠していたことを思い出した。
 「……」
 今日は少し早めに登校した為、朝のホームルームまでまだ余裕がある。きっと彼に聞けばサトルの状態もわかるだろうと思い、私は鞄を机に置くと再び教室を出た。
 三年生の階は初めてくる。特にこの学年は留学生が多いらしく、まるで異国に迷い込んだような錯覚さえしてしまった。いけばすぐに見つかるものと思っていたけれど、実際の所はディランのような金髪の生徒も多く一つずつ教室を覗くはめになりそうだった。
 「Excuse me」
ちょうど擦れ違った体格のいい金髪の女子生徒を呼び止め尋ねることにした。 
 「Where is Dilan`s class?」
「Adeley, What's happened ?」
 不意に女子生徒の背後ろから聞き覚えのある声がかかった。残念ながら総合体育科の生徒と思わしき彼女の体格が、私の視界を完全に遮っていて相手が見えない。
「Oh !  Dilan, I found you.」
「What ?」
探していた彼の名前が聞こえると、女子生徒は少し身体をずらして私の視野を広げてくれた。
「あれ? 琳子ちゃん?」
私の姿を見ると、ディランは目を丸くした。
「珍しいね。…もしかして、ぼくに何か用?」
「実はそうなの。サトルが今日、休むって聞いて…。具合が悪いのかしら」
「Your girl ?」
興味深げにアデリーが私の方を見た。サトルが聞いたら拗ねてしまいそうな発言だ。
「No, She's a friend. Thanks Adeley.」
アデリーと別れるとディランは琳子を振り返った。
「彼女はアデリーって言って、クラスメイトなんだ。…サトルくんのことだよね?」
「えぇ。何か聞いてる?」
「ぼくも心配になって聞いてみたんだけど、どうやら昨夜遅くまでの勉強のし過ぎで体調を崩しちゃったんだって。…昼には登校するみたいだよ」
ディランは複雑そうに苦笑した。
「……昨日、突然押しかけたから日中勉強できなかった分、無理したのかしら…」
「…かもしれないね。体調にはすごく気をつけて欲しいんだけど。…あ、昼休みに覗きに行くつもりだけど、サトルくんきてなかったら教えて。場合によってはお見舞いに行くつもりだから」
「わかったわ。ありがとう」
午後には登校すると聞き少し安心した。そろそろホームルームが始まる時間も迫っており、廊下に出ていた生徒たちが次第に教室へ戻り始めたので私もディランに軽く手を振ると急いで踵を返した。
「!」
擦れ違いざまに男子生徒の腕に肩が当たって少しバランスを崩してしまった。
「あ、ごめ…っ」
慌てて謝罪の言葉を口走る相手に笑顔を向け、大したことはないと告げようとしたけれど。その顔を見て喉元まで上がっていた言葉を飲み込んだ。
決して面識がある訳でもないはずなのに、何故か彼は私の顔を凝視していた。まるで長年会えずにいた相手と予測もしない再会を果たしたかのように、その表情は驚きと戸惑いがはっきりと浮かんでいた。
「…どこかで…」
会ったことがあるのだろうか。そう尋ねようとしたけれど、教室の入り口から担任と思われる男性が彼を呼んでいた。
「向井! 出席とるぞー」
その言葉を聞いて我に返ると、私は急いで自分の教室へと向かい走った。
 ―――私は多分彼を知っている。
四階から二階まで駆け下りると心臓が飛び出しそうなくらい激しく動悸がしていた。こんな季節にも関わらず背中は汗をかいている。
 廊下には人気もなく各教室からは出席を取る声が聞こえていた。
 戻らなくちゃいけないとわかっていたけれど、私は階段の踊り場に佇むと何度も深呼吸を繰り返した。
 『自分だけだと思うな。私もだ。私も私も私も。みんなが不幸になればいいのに』
 息を吸うたびに脳内で蘇るあの手紙の一文。切手を貼らずに私の家まで直に届けられた不幸の手紙。別れ際に私に話しかけようとしてきたあの兄妹。
いつの頃からか、翠は私と距離をとるようになった。目立つ外見の所為で友だちもいなく、兄には疎まれ仕事に明け暮れる母と、私は一人取り残される時間が多くなった。寂しくて、空いてしまった穴を埋める為に毎日のように学校の帰りに図書館へ行き時間を潰した。決して寄り道せずに帰りなさい、と奨励する先生たちの教えに背いたそれが、そもそもの間違いだった。そこで出会ったのが当時「お兄ちゃん」と呼び慕っていた佐久田賢治。私の祖父母を殺した犯人だったのだから。
佐久田賢治は、若い頃から気に入った女性に対しストーカー行為を行っていた。私の母もその一人だったそうだ。そして偶然知り合った母そっくりの娘に出会い、その偶然を運命だと倒錯した。
 私を手に入れようと別荘に侵入し、祖父母を惨殺。偶然殺害現場に居合わせた翠はその惨劇を目の当たりにしてしまった。幼い彼が必死の抵抗であの男をゴルフクラブで殴り続けなければ、罪状は更に増えていただろう。
脳に軽度の障害を負ったけれど責任追及は免れなかった。死刑判決が下されたその瞬間、あの男は静かに瞼を閉ざし低頭したと報道を通じて知った。
けれど判決が下った今も、あの男は灰色の塀の中で生きている。生きている限り、罪は償われない。そして私も、罪を犯した。私の所為で、母は両親を失い。私の所為で、翠は生涯忘れられない傷を負った。私たち家族はマスコミの餌食となり、それまで周囲で囁かれる程度だった噂は連日ワイドショーで取り上げられるまでになった。
私の所為で、私の所為で、私の所為で。
家中のカーテンを閉めて電話の線を抜いていても。誰かに見られているような気がして、誰かが闇に紛れて近づいてくる気配がして、一秒たりとも眠ることもできない。部屋の中で、布団に包まって耐えるしかなかった。けれどもう、限界だった。入院中の記憶は最近までなかった。どのくらい入院していたのかもよく覚えていない。
気がつけば小学校を卒業する年になっていて、自宅の窓から桜吹雪が舞う景色を眺めていた気がする。手元には事件以来登校することのなかった小学校の卒業証書があった。クラスメートからの寄せ書きもあった気がした。事件についてほとんど記憶のない私を気遣い、関連する一切のものを母が処分したので確かではない。
私は以前母と交わした約束を果たしてもらうべくピーター・パンの生まれた国。イギリス留学を決めた。―――そうだ。ようやく思い出すことができた。私は荷物をまとめて母と共にタクシーに乗り込んだ。留学の準備が整い晴れて本日、日本を発つことが決まったのだ。
「……あら、知り合い?」
何気なく窓の外を見た母が漏らした言葉に釣られ、私も視線を向ける。
見たこともない少女が、私たちが乗ったタクシーをジッと見詰めている。そしてその傍らには、少女よりも幾分身長の高い少年が寄り添うように立っていた。
「…知らない…」
兄妹かもしれないと思った。妹に優しく話しかける兄の姿が、壊れてしまった私たち兄妹を彷彿とさせて気分が悪くなった。
こちらに声をかけようとタクシーに近づいてきたけれど、私はドライバーに車を走らせるよう頼んだ。
覚えている記憶も、忘れてしまった思い出も、すべてを日本に捨てていこうと思った。大人たちの言いつけを破ったが故に、狼に目をつけられてしまった赤い頭巾。もう二度と同じ過ちを繰り返さないように、それを跡形もなく破り捨てて。
 イギリスへ渡航し忙しい毎日に忙殺されて忘れていた記憶。
 靴箱に入れられたあの手紙が、もしかしたらあの日会ったあの少女からのものだとしたら。あの子は何を私に伝えたがっていたのだろう。
 
 
 
 あぁ、また新たな子どもがやってきました。ここが地上の楽園という噂を聞きつけ。食い扶持を減らす為に送られた子どもたちが、またやってきました。
 この森を預かる番人の私は、優しい笑顔をたたえ彼らを温かく出迎えましょう。寒さに凍えないように。暑さに喉を嗄らさないように。飢えに苦しまないように。誰も、寂しくないようにと。そうしてこの可愛らしい子どもを、新たな仲間に加えましょう。
 冷たい土の中で眠る仲間たちは、新しい迷子の熱で泡沫のぬくもりを取り戻すでしょう。
 
                       (『眠れる森に集う迷子たち』より)
 
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