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第一部 第一話 実ない胡桃の殻
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亡き母の遺言で海外の学園へ編入したのが数カ月前の話。突如起きた学園炎上事件の所為で私と兄の翠は急遽日本へと帰国することになった。まだとても冷たい季節だったけれど、向こうの気候に慣れていた私にとってそれほど苦ではない温度ではあった。
帰国してからは様々な事務手続きと、元々住んでいた家の掃除で忙しく走り回っていた。社長であった母の秘書を務めていた後見人の芹沢さんが色々と手伝ってくれたお蔭で書類関係はスムーズに片付いた。中途半端な時期の編入に随分と骨を折ったけれど、私は電車で一時間程かかる郊外の中高一貫校へ。翠は地元の進学校へと進路を決めた。
「琳子ちゃんの学校は国際交流に随分と力を入れていて交換留学生も多いらしいわ。インターナショナルスクールみたいね」
編入手続きを終えその報告をしにきた芹沢さんは、翠が淹れた温かいコーヒーを飲みながらそう言った。
「でもちょっと通学に時間がかかり過ぎじゃないかしら。部活動なんてしたら帰りが夜中になっちゃわない?」
確かに翠のように地元の進学校という手もあったけれど、今の私には様々な思い出が至る所に隠れているこの家にいることさえ辛かった。だから少しでも遠く、私が起こしてしまった事件について知る人のいない所へ行きたかった。
けれどそんな本音を口にする訳にもいかず、言葉を選び答えた。
「せっかく勉強して身に着けた英語のスキルを伸ばしていきたくて。…もちろん、帰りも遅くならないように気をつけるつもりです」
「だけど…」
年頃の女の子だから、と心配を漏らす芹沢さんの前に翠が茶菓子のクッキーを持ってやってきた。
「大丈夫ですよ。駅からも近いし、必要ならぼくが迎えに行くこともできます」
そして私の前にもコーヒーを出すと
「もう何も知らない子どもじゃない。琳子なりに防衛策は持っているはずです」
優しい口調だったけれど、私は翠の顔が直視できなくなりコーヒーを飲むふりをして目を逸らした。何も知らない子どもじゃない。えぇ、そうね。私は十分痛い目に遭ってそこから何らかの教訓を得たと自分でも思っている。そうではないと、決して翠相手に言えるはずもなく。
新品の制服に袖を通し鏡に映る自分の姿を眺める。濃い茶色のブレザーの襟と裾はスカートと同じ赤いチェック柄が入っていて、なかなか可愛らしいデザインをしていた。赤いタイを締めてから髪を二つに分けて三つ編みをした。
例の火事の時に私の髪は毛先数センチ程燃えてしまった。それでも十分な長さはあるし、所々に負ってしまった火傷の痕も綺麗に治りつつある。髪の毛もいずれ伸びてゆきその長さから時の流れを感じて、私はいつしかあそこで見て聞いたものを懐かしい思い出話の一つとして誰かに語るのだろうか。
「……っ」
どうしようもない歯痒さを感じ私は結んだばかりの三つ編みを強く握り締め引っ張った。これが学園を捨てて大人になることを選んだ迷子の結末だとしたら、なんて惨めで情けのないものだろう。そんな学園の為に生涯を捧げた仲間たちが大勢いるというのに、彼らに向ける顔もない。
時々何の脈略もなく私に襲い掛かる感情の波。後悔なんてしないと言っておきながら、私は私が望んだ結末と大きく異なるあの学園の最期にもどかしさと悔しさ。自分の不甲斐なさに情けないくらい圧し潰されそうになる時があった。
壁の時計が七時を指した。私は慌てて一階へ下りて朝食の支度をしようと台所へ向かった。
「遅刻するぞ」
そこには既に朝食が用意されており翠がコーヒーを淹れて待っていた。焼きたての食パンにサラダとハムエッグの色彩豊かな食卓がいかにも一般家庭の当たり前の朝ごはんといった感じがして、私は無意識に身構えていた。
挨拶もそこそこに席に着き食パンを齧る。昨日の晩芹沢さんが差し入れにと持ってきてくれた、都内で有名な店のものだったけれど今の私には味もよくわからなかった。
「……慣れるまで朝食の支度はぼくがやる。琳子は夕食を担当してくれ」
コーヒーを飲みながら翠はそう言った。確かに朝は翠の方が遅くに家を出る予定だから合理的で私としても助かる提案だった。でもそれさえも、このモデルケースのような朝食のように彼が必死に「家族」を演じる為に用意した、いわば嘘くさい優しさに感じられてしまう。
「えぇ、ありがとう。助かるわ」
私は笑顔で答え、食欲のないお腹に無理やり朝食を詰め込み席を立つ。
家族でもない私たちが再びあの頃のように共に暮らす為に、そんな無駄な手順を何回も繰り返していく必要がある。家族のように一緒に朝食を囲い、家事を分担して、適度な距離を保ちつつ互いに気遣い。意識して、毎日繰り返して。そうしていくにつれ意識は次第に無意識となり、演技はそのうち自然になる。
「行ってきます」
玄関に立ち扉を開けると、私は誰も見ていないのに笑顔でそう叫んだ。
地元の駅から特急列車で一時間程揺られる間、私は周囲から向けられる無関心を装った視線にただひたすら耐えた。
通勤通学時間のほとんど同じ顔触れで埋められた車両に、私と言う異端が紛れ込んだことで起きるささやかな違和感。きっとこの髪も瞳の色も翠のように真っ黒でいたなら。日本人離れした顔立ちでなかったなら、群衆の中に紛れ込んで目立つこともなかったに違いない。
ふとガラス越しに大学生と思しき男性と目があった。ずっと私の方を見ていたらしく戸惑ったようにおもむろに顔を逸らされた。
自分が人よりも目立ってしまう容姿であることは、これまで嫌と言う程経験して自覚している。意味もなく不特定多数の他人から好かれると同時に、同じくらい理由もなく私は大勢の人に嫌われてしまう。
具体的な予防策なんて何もない。何一つ、私は学んでいない。それでも私ができる最善の策についてぼんやりと考えながら、私は駅に着くまで顔が隠れるようずっと俯いた。
クラスの担任は定年を迎え再雇用契約でも結んでいそうなベテラン女性教師だった。
「由良川琳子さんね」
見事な白髪によく似合う上品な顔を彩る皺を深く刻み、彼女は飯島と名乗って私に握手を求めてきた。
「うちの学校の特徴を一言でまとめるのなら、生徒の主体性にすべてを任せていることですね。追々理解されると思いますが、主体性を認めるとは即ち当人が責任を伴うこと。基本的に制服さえ着ていれば、私は自分で落とし前のつけられる悪戯なら多めに見ますよ」
広いテラスで友人とお茶会でも楽しんでいそうな風貌の老婦人と思いきや、ぶっちゃけた物言いに私はとても好感を抱いた。後に友人たちから飯島先生は若い頃に暴力団組長の愛人を務め、様々な経緯を辿り教育の道に目覚めたのだと嘘か本当かよくわからないとても面白い話を聞くことになる。
「お父様がイギリス人なのね。あぁ、籍は入れていらっしゃらないと。自由で素敵ね」
職員室を出てクラスへ案内しながら飯島先生は楽し気に笑い話しかけてきた。複雑な私の家庭事情を自由の一言で片づけてしまう豪胆さに虚を衝かれた。
「うちの学校も多いのよ。何がって、外国籍の生徒よ。だからみんな基本的にファーストネームで呼び合っているわ。じゃないと同じ苗字の生徒ばかりになるでしょう? ふふ」
廊下から注ぐ鋭い冬の日差しが飯島先生の白髪を明るく照らし出す。雪こそ積もってはいないけれど、寒暖差で曇った窓ガラスがそこから望む外の景色を何故か特別に見せた。
「こんな季節の編入って目立つと思うでしょう? でもこの学校ではそんな小さなことを気にする子はいないわ。何たってみんな、時計もカレンダーだってまともに見やしないのよ。壁に貼り付けられたものを気にする暇もないくらい、日々を楽しんでいるのね」
眩しく輝く髪に彩られ微笑む彼女の顔を見た瞬間、私は不思議と心が温かく落ち着くのを感じた。こんな風に肩の力を抜いて呼吸をすることが、とても久しぶりに思う。
「さぁ着いたわ。中等部と高等部は校舎が離れているのよ。でも渡り廊下で繋がっているけれどね。ここが今日から貴方のクラスよ」
目の前で開かれる扉を見詰め、私は小さく息を吸い込み前へ踏み出した。
教壇に立ち飯島先生が簡潔に私の紹介を行う。クラス中から集められる視線を意識し、私は静かに頭を下げると生徒たちの顔を見渡した。
確かに東洋人が目立つけれど中には明らかに西欧の顔立ちをした生徒の姿もある。みんな同じ制服を着ているけど、中等部の赤いタイの代わりにリボン。ブレザーの代わりにパーカーやセーターと思い思いの着こなしをしていた。
「琳子の席はそこね。後ろで悪いけれど、視力は問題ないわね」
「はい、大丈夫です」
机の隙間を縫って窓際の一番後ろの席に向かう。男女混在の席順となっているらしく、私の隣はショートカットの小柄な女子学生が座っていた。
「教科書は隣のサトルに借りて頂戴ね」
サトル、と呼ばれた彼女は多分クラスで私以外に、唯一きちんと制服を着こなしていた。
「よろしく」
癖のないショートカットの黒髪が軽く頭を下げる彼女の動きに合わせてサラサラと音を立てた。見るからに日本人の顔立ちをしていたけれど、その瞳はサファイヤのような深い青色を発している。あまり見詰めすぎると双眸の深海に飲み込まれてしまいそうになる不思議な魅力があった。
「机をくっつけようか」
襟元の第一ボタンまできっちりと留めた彼女はその第一印象に相応しい、まるで新品のような教科書を広げてくれた。
一限目は数学だった。私はサトルの横顔を時々眺めながら、懐かしささえ感じられる授業時間を楽しんだ。
休み時間を挟む度に私は編入生の受難とも言うべきクラスメートたちからの囲い質問に答えた。毎度聞かれる内容はほとんど変わらない。前の学校についてや、現在の住所、家族構成に好きな人がいるかどうか…。私は適当な嘘も交えつつそれらに丁寧に答えながら、隣の席で背筋を伸ばしたまま読書に勤しむサトルの姿を時々盗み見た。決して友だちがいない訳でもないらしく、彼女に声をかけてくるクラスメートは多い。男女問わずに広い交友関係があるようだけど基本的にあまり群れないタイプなのだろう。周囲もそれをよく理解している空気があった。
それにしても机にかけている彼女の鞄から度々バイブレーションが聞こえてくるのだけど、サトルは一向に気に掛ける様子もない。多分携帯電話が鳴っているんだと思うけど、実は国民の八割が持っているというそれを未だに所持していない私にははっきりと断言できなかった。
携帯電話を持っていないことに関してはかなり驚かれた。若者たちの必需品なのだからその反応は妥当だろうけど。そうしてやっと私がサトルに話しかけるチャンスが訪れたのは昼休みの時間になってからだった。
「ねぇ、よかったら一緒にお昼を食べない?」
鞄からお弁当箱を取り出すサトルに声をかけると、彼女は一瞬意外そうに眼を見開いて私を見た。それからすぐにふっと表情を崩すと
「いいよ。琳子の昼食は購買で? それとも食堂に案内しようか」
「ん~…食堂にしようかしら。ついでに校内も案内してもらえたら助かるけれど」
「わかっ…」
頷こうとしたサトルはふとその動作を止め、たまたま手に持っていた携帯電話を見詰めた。またバイブレーションが鳴っている。
「…………」
毎回のことなのか諦めた様子で液晶画面を確認すると、申し訳なさそうに私を見上げ
「ごめん。ちょっと呼び出しされて…。多分すぐに戻ってこれないから一人で食堂に行ってもらってもいいかな」
食堂と購買の場所を簡単に説明すると、サトルは荷物を持って教室を後にした。すると彼女の退場を待って後方に控えていた女子の集団が私に声をかけてきた。
「琳子ちゃん、一緒に食べましょうよ」
結局サトルとほとんど話すことはできなかった。むかしから集団に属する女子たちに好かれる傾向にある私とまったく違うタイプのサトル。出会った瞬間から目を惹く存在の彼女と親しくなりたいと思いながら私は、振り返り笑顔で頷いた。
「ふふ。サトルに振られちゃったわ」
一旦購買でサンドイッチとドリンクを買ってから戻ると、既に机がくっつけられ巨大なテーブルができていた。
「琳子ちゃんはこっちに座って」
手招きされるがままに席に着くと一斉に様々な話題が広がった。
テーブルを囲う七、八人の女子生徒たちの自己紹介が終わり皆の関心が私の特徴的な外見に向けられる。日本名なのにそれにそぐわない色素の薄い瞳や毛色について、彼女たちは納得いく答えを欲しているようだ。
「私の父親がイギリス人なのよ。正確にはイギリス人の祖母と日本人の祖父との間に生まれたハーフで、私はクォーターってことになるわね」
有難いもので、父親の正体を知らなかった頃はそんな説明すらできず。幼い頃は何故自分は日本人なのに、周囲と違うのだろうとひどく悩んだ時もあった。閉鎖的な子ども社会に於いてこうした差異は大きな足枷となる。意味もなく嫌われ、疎まれてきたあの頃と比べるとこうして理由を言えるだけでこんなにも周りからのリアクションは違う。
「うちの学校にもハーフって多いわよ」
「そうそう、サトルもそうでしょ。お母さんも目が青いって聞いたし」
やはり彼女の深海のような瞳の色は目立つらしい。サンドイッチに齧りつく私に隣に座る奈々子と名乗った女子が話しかけてきた。
「琳子ちゃんの前の学校。海外だったのね? 私も留学してみたくて…もっと詳しく教えてよ」
無邪気な人懐っこい笑顔に断りにくさを感じ、一瞬言葉に詰まる。
ほんの数か月だけ過ごした学園での生活。こうして日本に戻り振り返ると、それはまるでお伽話の中の出来事のように感じられて未だに現実味がない。学園長を王という意味が含められたバロと呼び称え、世界中から集められた子どもたちが押し込められた古城の学園。学内には常に新鮮な薔薇が飾られ、談話室にはいくつもの甘いお菓子が毎日用意されていた。
「……っ」
急に腹部に鈍痛を覚え私は立ち上がった。
「だ、大丈夫?」
「保健室に行く?」
口々に心配してくれるクラスメートたちを宥め、私は女子トイレへ駆け込み胃の中身を空っぽにした。
そして私は声を殺して泣いた。
どこへ行っても、あの時の想いを共有してくれる人はいない。学園を捨てて祖国に逃げ帰った私に、仲間はどこにもいないのだと。一人で物語を書き続けた彼のように、今は私が孤独を背負って生きていかなければいけない。
辛いのは今だけ。次は幸せになる為の準備期間だから。そう何度も言い聞かせて顔を洗うと、私は舞台に挑む女優の気持ちで教室へと戻った。
放課後、日直の仕事を終えた日向は一度教室に帰った。今日に限って一緒に担当するはずだった日直の女子生徒は体調不良で早退した。その為、日誌やらクラスの提出物やらを一人でこなさなければならず、思った以上に時間がかかってしまった。
こんな日に限って手伝ってくれそうな友人たちは部活や委員会活動へと行ってしまい、なんともついていない。
「……」
教室に帰ると既に誰もいなかった。窓の向こうではうっすら日が陰っており、そろそろ夕焼けが見られそうな頃合いだった。日向はさっさと荷物をまとめ、教室を出た。
校則では制服は基本を守ってさえいれば自由に着こなして構わない。そう聞いてはいるが、ちょっとした理由からネクタイの色を黒に変えているくらいであとはきっちり制服を着ている。髪は肩まで伸びているがこれでも短く切った方だ。伸びた髪を後ろでネクタイと同じ黒の飾り気のない細いリボンでまとめていた。
――もう誰もいないことだし、少しきついネクタイを緩めるか
階段に差し掛かったところで、日向は下りながら器用に片手でネクタイを緩めた。
「…あ?」
階段の踊り場を曲がったところで誰かが階段を上がってくるのが見えた。
夕日を浴びて上がってくるのは見覚えのない女子生徒だった。別に校内全ての生徒を把握している訳でもなく、日向は特に気にせず階段を駆けおりた。
夕日の鮮やかなオレンジが反射して女子生徒の髪が黄金色にキラキラと輝いて見えた。綺麗に二つに結い上げたお下げが小さく揺れる。
「……」
一瞬、通りすぎる女子生徒に気をとられたのがいけなかった。すれ違い様、ネクタイを緩めていた方の片手が不用意に彼女の髪をかすめた。
「きゃっ!」
その瞬間、すれ違うはずだった女子生徒から小さな悲鳴が上がった。
「…あ」
特に何かを掴んだ等の自覚はなかった。しかし、気づくと袖口のボタンに少女の髪が絡まっていた。ひっかかったのに気づかず、彼女の髪を引っ張る形になってしまったらしい。
「わ、悪い…!」
まさかこんなことになるとは思いもよらず、日向は慌てて立ち止まった。このまま前へ進んでは女子生徒を巻き込んで階段下まで落としてしまうかもしれない。絡まっているのは右手の袖口。この場でジャケットを脱げば簡単に解けるかもしれないが、荷物を背負った状態ではどうにもならない。
あえなく日向は残った左手のみで解きにかかった。
「…不注意だった。解くから、ちょっと待っててくれ」
「……」
女子生徒は特に何も答えず、日向が解決してくれるのを待っていてくれてるらしかった。
「………」
少しの沈黙が訪れる。普段女子と会話することはほぼないし、あまり得意な方ではない。間をもたす会話をするより、日向は絡まった髪をほどくのに専念した。
片手しか使えないものの少しずつ慎重に取り組んだ。
「……あ、その、悪いんだが、その踊り場まで移動してもらってもいいか?」
できるだけ解いたが、夕日を背にしている為に影になって見えにくい箇所がある。それにそれぞれ違う段差で止まってしまった為、少しばかり無理のある姿勢になってしまっていた。
中途半端な場所で直すより階段を降りるか踊り場に上がるかした方がきちんと解けるだろう。階段を降りるという提案も考えられたが、この場合彼女に後ろ向きに階段を降りさせることになってしまう。それは危険だし、加害者である自分が後ろ向きに階段を上がった方がましだろう。
「待って」
すると今まで静かだった女子生徒から声が上がった。彼女は髪を引っ張らないよう気をつけながら鞄を足元に置くと、日向の手元から毛先を抜き取りヘアゴムを外した。途端に小麦色をした長い毛が肩から滑り落ちた。
「ゆっくりすれば大丈夫よ」
「な!?」
きっと彼女は知らないだろうから不審がられるに違いない。髪も瞳を墨を流したように真っ黒な日向はよく日本人に間違われていたものだから。反射的に頬が熱くなってしまって日向は気まずい様子で視線を逸らした。
「……あ、いや、悪い。すぐ解く…」
解きやすいように工夫してくれたのだ。日向は気を取り直して慎重に指を動かした。
「…ねぇ。少しだけだから、切ってもいいのよ?」
提案する少女の視線を感じる。もしかすると熱くなった頬を見られているのかもと思うと落ち着かない。
「……いや、切るのはないだろ。せっかく綺麗な髪してるってのに」
気づけばついつい余計なことまで口にしてしまい、日向は息を吐いた。
「…悪い。その髪をこんなにしたのはぼくだったな」
その時、最後に絡まっていた髪が綺麗に解けた。
「ふふ、ありがとう」
女子生徒は毛先に指を通しながら微笑んだ。
「…悪かった。髪傷んでないか?」
「えぇ。大丈夫」
結び直すのを面倒に感じたのか女子生徒はもう片方も解くと一つに頭の上でまとめた。
「!?」
まさかこの場で一旦髪をほどくとは思わず、日向は気まずい様子で視線を逸らした。再びまとめられた時には心底ほっとしたが。
「…あのな。初対面の奴の前で髪をほどくのは……あ、いや、ここは日本だったな。忘れてくれ」
「?」
すると彼女は不思議そうに首を傾げた。
「………」
やってしまったとばかりに日向は息を吐いた。
「…あー。実はぼくはこんななりだが、日本人じゃないんだ。だから、気づかずおかしな発言をしているかも知れないが、できれば目を瞑ってもらえると助かる」
「…あぁ、そういうことね」
合点がいったのか少女は可笑しそうに笑った。
「ごめんなさい。私ってば、知らないうちに貴方に失礼な態度をとっていたのね」
「…いや、外見じゃ気づいてもらえないからな。よくあることだ。こちらこそ悪かった」
珍しく口元が緩み、日向は苦笑した。
「それに、お互い様だろ? むしろ、そっちの方が苦労してるんじゃないか?」
「…ん~そうね…」
言葉とは裏腹に少女はこちらから視線を逸らした。どうやら何か図星でもついてしまったらしい。
「…悪い、今のは完全に失言だったな」
まず女子とこんな風に話すこと自体がないので、日向はどう言えばいいのかと言葉に詰まった。
「…友人にな、といっても悪友なんだが、目立つ金髪の奴がいるんだ。そいつはここじゃ明らかに浮いてるし、周りも本人もわかってるんだが、あいつはそれを逆に武器にしてるって言うか、なんだかんだ楽しくやってるみたいなんだ。まあ、そいつほど図太くなるのは無理かもしれないが、逆手に取ってみるのもいいんじゃないか?」
「……ふふ、ありがとう」
フォローになってないかもしれないフォローだったが、少女は口元を緩めて微笑んだ。
「…………」
話してみると割と話しやすいかもしれない。そう思いつつも、そう言えば初対面だったと気づくと日向は気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「…あー。まあ、とにかく。そろそろ暗くなるんだから、気をつけて帰れよ」
初対面の女子に何を口走ってるんだか。これ以上話していられなくなって日向は荷物をまとめると階段を駆けおりた。
「待って」
まさか呼び止められるとは思わなかったが、日向は慌てて足を止めた。
「私、きっと不満や不安が顔に出ていたと思うの」
振り返ると、真っ直ぐにこちらを見つめる少女と目が合った。
「今は辛いけど、多分…準備期間なのね」
「………」
彼女に何があったのだろう――?
今の自分には何もわからない。本来なら彼女だって偶然接触した見知らぬ男子生徒に、自らの素性に関わる苦悩をほんの少しであっても吐露することはなかっただろう、と。
それだけはわかる。だから、このまま一度きりの偶然として終わらせるには忍びないと感じてしまった。ちょっとした会話を楽しんでる自分がいたのには内心驚いた。
今日は割とついていない日かと思ったが、こんな日があってもいいかもしれない。
「……日向だ。名字は厘だが、呼びにくいだろうから、下の名前で構わない。どいつもこいつも呼んでるからな。あまり相談に乗れるかはわからないが、同じ学校なんだしまた会えたら、話せるといいな」
普段だったら、こんな風に出会ったばかりの相手に名前を名乗ることはないのだが、たまの気まぐれもいいかと判断していた。
「琳子よ。由良川琳子」
ニッコリと笑いかけ
「気が向いたら探してみて」
「…リンコ、あ、いや由良川で呼んだ方がいいのか…?」
日本だと親しい間柄でないと下の名前で呼ぶのはあまり好まれないらしいと思い出し、日向は躊躇った。
「あら、この学校ではファーストネームで呼び合うって聞いたわ?」
それからふふ、と笑い
「日本ではちょっと意味深にとられがちだけど、日向は気にしないわよね?」
リンコはわざと挑発気味にそう加えた。
「……っ」
さらりと下の名前で呼ばれ、普段から呼ばれ慣れているはずなのに日向は一瞬戸惑った。
「あ、いや。そうだな、よろしくな、琳子」
「えぇ」
にこやかに微笑みリンコは颯爽と階段を上がっていった。頭上で結ばれたポニーテールがユラユラと夕陽を浴びて綺麗に輝いていた。
「………」
やっぱり目を引くなと改めて思いつつ、見送ると日向もまた学校の玄関へと駆けていった。
校内の見学を終え私は教室へ荷物を取りに戻った。教室には誰もいないと思っていたけれど、意外なことにサトルが私を待っていた。
「鞄があるから、まだ残っていると思ったんだ」
「部活は? もう終わったの?」
終礼が終わると部活での集まりがあるからと言って、一番に教室を出たはずの彼女を眺め尋ねる。すると肩を竦めサトルは苦笑した。
「園芸部はこの時期割と暇なんだ。すぐに終わったから、昼にできなかった校内の案内とでもって思ったけど。…もう一人で回ったんだろ?」
幼い頃まで母方の国で育った彼女は日本語を従兄に習ったらしい。その為か元々のさっぱりした性格と口調の加減もあって、とても男らしく見えてしまう時がある。何より可愛らしい外見にそぐわない彼女の一人称が「ぼく」なのだから仕方ない気もするけれど。
「そうなの。ちょうど今、だいたい見てきてこれから帰ろうと思っていたのよ。ねぇ、せっかくだから一緒に帰らない?」
「いいよ。駅まで送る」
二人で校舎を後にして色々な話をしながら歩いた。サトルも電車で二十分程の所に住んでいるらしく、偶然にも私と路線が一緒だった。空いている席に肩を並べて座る間、私は不思議と周囲から向けられるいつもの視線が気にならずサトルとの会話に夢中になっていた。
「こっちに越してきたのは日本でいう小学校を卒業したくらいに。日本語もまだまだわからなかったし、父が留学生の多いあの学校を探してきたんだ」
「そう。私は小学校を卒業してからイギリスの寄宿舎へ転校したの。私も向こうでは会話に苦労したわ」
「今日の授業を聞いている限り、琳子の英語の発音はなかなか綺麗だったよ」
「嬉しいわね。ふふ、サトルって割と自然に相手を褒めてくれるのね」
「な、別に下心なんてないから…!」
慌てる彼女を見てふと、階段で出会った男子生徒のことが頭に過った。
純朴そうな人柄が短い会話の中に溢れていて、少しどこか翠に似ている気がした。あの広い学校の中で、いつ私を見つけてくれるのかと思うと何となくワクワクしてきて楽しくなった。
「ねぇ、うちの学校に金髪の目立つ生徒っているのかしら?」
「……何人かはいるけど…」
妙に歯切れの悪い答えに腑に落ちないものを感じたけれど、視線を落とすサトルの様子からあまり触れて欲しくない話題のようだったのでそのまま流すことにした。
「私も何か部活に入ろうかしら」
「今から入ってももうすぐ高等部に上がるけどね。何か興味ある部はある?」
「ん~…実は今まで部活って入ったことがなくて。家庭部に入ってお菓子を作ってみるのも面白そうだし、何かのマネージャーも楽しそう」
「女子に人気なのはサッカー部のマネージャーみたい。あまりお勧めはしないけど」
「あら、どうして?」
部活に対するイメージがあまりないので疑問符をつけて尋ねた。するとサトルは表情を硬くして呟いた。
「リアル大奥らしいから」
簡潔かつわかりやすい説明に思わず息を飲んだ。
「…容易に想像できたわ」
「…だろ」
そしてどちらともなく顔を見合わせ吹き出した。
その日の夜、私が作ったシチューは珍しく上手にできて翠も「うまくなったな」と褒めてくれた。お風呂に入り制服に軽くアイロンをかける。皺はすぐに伸びて、まるでサトルの制服のような張りができた。寝る前にかかってきた芹沢さんとの電話での会話では、登校初日の緊張や友人たちとの交流について伝え無事にこちらの学校に馴染んでくれたと喜んでくれた。
―――私が笑えば、周りはもうこの子は大丈夫。むかしのことなんか引きずっていないわと思ってくれる。辛い事件で家族を亡くしたけれど、立派に育っているのね。と誰ともなしに太鼓判を押していく。
そうして問題点を逸らして、周囲の視線から逃れていく自分の未熟さを自覚しながらも。私には、まだ辛かった日々を振り返るだけの余裕なんてないのだと思い知らされる。誰かに理解して欲しいつもりも、共感してとも言いたくない。私の想いも、記憶も、何もかも。誰かの言葉によって意味を変えられ、慰められて教訓のように聞かされて。話のすべてを全く違うように再構成して苦労話の一つにまとめたくない。
日本にきてから新しく新調したノートパソコンの前に座りながら、私は書きかけだった文章を開いた。
あの学園で見たものも聞いたものも、すべて。お伽話だったのかもしれない。彼が書き記した童話の一篇に自分を投影していた稚拙な物語。それでも私は、不幸な自分の身の上を嘆くだけで発展のない終わり方をしたくない。その為にできること。辛い今を乗り越える、幸せになる為の準備期間に最善を尽くしていたい。
『逆手に取ってみるのもいいんじゃないか?』
ふと、階段で擦れ違った彼の言葉を思い出して笑みを漏らした。
―――そうね。それは、とても魅力的な答え。
微笑みながら私はパソコンのキーボードを叩いた。
放課後、誰もいない階段で少し不思議な出会いをした。帰り際、階段を降りていく途中で同じように一人の女子生徒が階段を上がってきた。本来であれば、ただすれ違うはずだった見知らぬ女子学生とちょっとした事故で知り合うことになったのだ。
学生が集う学校の階段や廊下で男子学生と女子学生がすれ違うのなんて日常風景だ。大抵は各々の友人やクラスや部活仲間と話しながらすれ違いだけで、特に気にも止めることはない。
何らかの用事や事情でそれぞれ一人であったとしても、やはり気にも止めるどころか顔すら覚えてないのが当然だろう。だが、昨日起きた出来事はやけに鮮明に記憶に残っていた。
時間にして数分程度。交わした会話は数えるほど。絡まった髪を解くのに夢中で、目を合わせたのも数回くらい。制服のボタンと女子生徒の髪が絡まるなんてちょっとしたアクシデントがなければ、お互い話すどころか顔すら覚えなかっただろう。
階段でのアクシデントというと入学早々、階段の前を歩いていた先輩らしき男子学生が誤って小銭をぶちまけたことがあった。その場には自分しかいなかったし、小銭を拾うのを手伝って軽口を叩いたのだが、お互い名前なんて名乗らなかったし、今では顔すら覚えていない。
そう思うとあの短時間でよく自分の名前を名乗る気になったものだと自分でも不思議に思う。
――それだけ印象的だったということか。
小麦色の柔らかな髪が夕日を浴びて黄金色に輝いていた。
「琳子よ。由良川琳子」
ニッコリと笑いかけ
「気が向いたら探してみて」
今思うと夢か幻のような出来事だったが、ここで終わりにはしたくないと思った。
翌日、日向はふとクラスを見回してみた。特に転校生などはなく、隣のクラスと体育が合同だが、男女分かれているので女子の方は隣のクラスですらさっぱりだ。
委員会などしていれば他クラス、他学年との交流があるのだが、日向は委員会どころか、部活にすら入っていなかった。
これまでのクラス替えで同じクラスになったことはなかったから、転校生かとも思ったが一学年十もクラスがあるのでは単にクラスが同じになったことがないだけとも言えた。
「――なあ、ユラガワリンコって知らないか?」
「ぶっ」
「?!」
翌日の朝の授業も終わった休み時間、日向は友人に聞いてみた。
ちょうど昼食は終えたところ。お茶を飲んでいた須藤が吹き出し咳き込んだ。
「あ、おい。大丈夫か?」
須藤の隣の関は腹を痛めたのか腹を抱えている。
「くくく…まさかあの日向が」
落ち着くように須藤の背中をさすっていると、関は単に笑いを堪えているだけのようだった。
「…もういい。お前らに聞いたのが間違いだった」
「あーごめんって、ひなちゃん」
「その呼び方やめろ」
関は軽口が多く悪い奴ではないのだが、たまに冗談混じりで「ひなちゃん」と呼んでくるのだけは受け付けない。
「…で、ユラガワリンコというのは? うちの学校の生徒か?」
「ああ」
クラスメイトで友人でもある須藤かなたは割と顔は広い方。といっても、部活関連での知り合いが多いのだが、関と違って話が通じる。
「クラスは?」
「…聞いてない」
そう言えば学年すら聞いていなかった。日向は中等部三年生。中等部の制服を着ていたから、同学年か年下のどちらかだとは思うのだが、あまりにも範囲が広すぎる。
「…日向ー。お兄さんに聞いてみるのはー? アリ? ナシ?」
「は? ぼくに兄はいないんだが」
さも名案とばかりに提案した関は顔の前で手を振った。
「違う違う。血い繋がってるとかじゃなくて、金髪のめっちゃ派手なお兄さん。女子の友だちいないオレらと違って、うちの学年に彼女もいるみたいだし、案外知ってたりするんじゃない?」
「…一応、俺の方でも陸上部で転校生とかいなかったか聞いてみる。外見とあと漢字でどう書くのか教えてくれ」
「二人とも悪いな。外見とあと漢字は―――」
「ええっ。ちょっ…オレも調べんのかよ」
ここにきて漢字すらどう書くのか聞いていなかったことに気がついて日向は頭を抱えた。
あれから数日、特に手がかりはなく移動教室のたびに周囲に注意を向ける癖がつくようになっていた。
「厘クン、今日もよろしくネ」
「陳さん、本日もよろしくお願いします」
お互い深々とお辞儀して、日向は仕事にかかった。中華料理店の店主陳さんの厚意で、留学生である日向は中華料理店で皿洗いのバイトをさせてもらっていた。
バイト自体は内緒のものなので、接客係を避けた結果の皿洗いだ。調理場と洗い場は分かれていて、陳さんの娘さんが次々と運んでくる食器を無心で洗い続ける。時折、なくなりかけた食器を優先したり、調理場から顔を出す陳さんの指示にそって順番を入れ替えたりもする。ありがたいのは注文に空きが出たところで出される美味しいまかない料理で夕飯が浮くことだ。
日向のひそかな楽しみである。
「……あ、厘クン。休憩ドウゾ」
ある程度ピークが過ぎて落ち着いてきたところで賄いが出てきた。表に出ないからか、陳さんの日本語は癖がある。娘さんはペラペラなのだが。
「あとネ、ディラ…クンきてルヨ」
「え」
驚いて暖簾の向こうの店内を覗くと金髪の少年と目があった。染めているという訳でなく、天然だ。紫の瞳と相まって、関の評価通り目立つ金髪のお兄さんだ。
年上という感覚は皆無だが。
「何か用事あるみたいダヨ。待ってルヨ、頼む?」
「……お願いします」
目立つ金髪のお兄さん、もとい同じ留学生のディランに強く出られない事情がある日向に選択肢はなかった。
「美味しかった~っ。やっぱり、ここの中華料理最高だよね。陳さんにいつも通り美味しかったって伝えておいてね」
照れ屋の陳さんは客の前に滅多に顔を出さない。接客は既に子持ちの娘さんが担当しているし、ほぼ顔を出す必要がない。そうは言っても誉められると嬉しいみたいでよくおまけをつけたりしていた。
「お前、それおまけ目当てじゃないよな?」
「そんなことないって。あ、でも前おまけで出てきた小籠包最高だった~」
あれからバイトを終えて、結局日向はディランと一緒に夜道を歩いていた。
ディランは日向より年上の同じ学園の高等部の先輩にあたる。ただし、こうして学校で先輩後輩の間柄になるよりはるかに前からの付き合いだ。そんな訳で日向はついついため口になるのだが、当の本人が全く気にしていないようなので問題ないだろう。
そもそも年上の印象も皆無だ。
「……それで? 今日は何しにきたんだ?」
「んー、陳さんの美味しい料理を食べに?」
「なら麗さんに言伝てを頼む必要はないよな」
麗とは陳さんの娘さんの名前だ。
あまり話す機会はないし、日向の性格上、会話が長続きしないのだが名前だけは陳さんから聞いていた。
「そうだ! 日向くんの忘れ物を届けにとか」
「何も忘れてないし、何ももらってないんだが?」
さも今思いついた台詞に日向は息を吐いた。これまでの言動のどこをとっても年上の威厳は皆無。なんなら同い年か自分より年下かと思ってしまうほどである。
「あー、彼女サンの話とか?」
「そう!」
嬉しそうにディランは彼女の名前を呼ぶが、日向としてはどうでもいいことなので聞き流した。
「ふふ、学年が違うからね。連絡は欠かさないんだ」
「…お前、それで連絡し過ぎで怒られてだろ」
学校が斡旋するマンションの一室で送られてきたメール内容に、意気消沈していた姿は記憶に新しい。どころか日常茶飯事だ。
それでもめげずに連絡を続けるディランがすごいのか、怒りの内容を送りつつも連絡を続ける彼女サンが偉大なのか。
「…そうだけど。だって心配なんだよ。クラスの男子に迫られてないかとか。日向くん、知らない?」
「ぼくが知るか」
学年が同じとはいえ、別のクラスだ。隣のクラスでもないのに、彼氏の代わりに彼女サンの護衛でもしろというのか。結局、わざわざ中華料理店にきてバイト帰りまで待っていたのは単なるノロケと愚痴の為かと日向は頭を抱えた。
「――なんてね。女友だちもいない日向くんにそこまで期待してないから、大丈夫だよ」
ふわりと浮かべる笑みはその外見も相まって絵画に出てくるような天使のような微笑み。
女友だちなんて大勢いることだろう。
『日向ー。お兄さんに聞いてみるのはー?』
ふと昼間話した関の言葉が脳裏を過った。
『金髪のめっちゃ派手なお兄さん。女子の友だちいないオレらと違って、うちの学年に彼女もいるみたいだし、案外知ってたりするんじゃない?』
確かにディランなら、ユラガワリンコを知っているのかも知れない。そうなのだが。
「…どうしたの? 日向くん。いきなり黙りこんじゃって」
「………いや、別に」
なぜか聞くのを躊躇っていた。とりあえず、しばらく自分の力で探してみようと日向はひそかに決意した。
「あー! そう言えばちゃんと用事あってきたんだった」
「用事?」
「そ。日向くん、実家から荷物届いてたよ? 同居人のお兄さんにもどうぞだって」
「なっ?! 送り返せ!」
肝心の用事を今になって思い出され、日向は焦った。
「えー。あ、そうそう。いらないなら同居人のお兄さんにどうぞだって。ぼくがもらってもいいんだよね?」
わざわざそれを聞く為に待っていたということか。
「あー勝手にもらっていけ」
訳あって居候させてもらっている身分では家主に強く出られないのが辛いところだ。
どの道同じ部屋に帰るので部屋で待てば済む話だが、ディランの場合、単に中華料理が食べたかっただけだろう。
「日向くん、家族と和解すればいいのに。そしたら向こうでいくらでも学校やらあるでしょ」
「余計なお世話だ。…まあ、その置いてもらってるのは助かってるし、今度何か奢る…」
「いいよ、そんなの。金欠の日向くんにそんなことさせられないよ」
笑顔に似合う天使のような発言に日向はちょっと感動した。
「…あ、今度また彼女くるから部屋出てってね?」
最後のセリフで台無しになったが。
実を言うと私は、あれから何度か校内で彼の姿を目にしていた。中高と一貫で生徒数もかなり多いこの学校で、きっと擦れ違うのも難しいだろうと何となしに思っていたけれど。
「次の理科では実験があるんだ」
嬉しそうに理科室へ移動するサトルの様子に微笑み頷きながら、私は既に廊下の向こうに彼の姿を見つけていた。
「サトルは理系なのね。いつもこの授業を楽しみにしているわね」
「明確な答えが出る問題が好きなんだ。どっちつかずより、ずっと効率的で思い切りがいい」
このまま真っ直ぐいけばきっと彼も私に気づくだろう。探してみて、と言った手前偶然の再会で済んでは何となく面白くない気がした。
「こっちの廊下を通って行きましょうよ。グランドに積もった雪が見れるわ」
「いいね。今年初めての雪だったし」
昨晩から降り続いた雪はグランドだけではなく、道路も草も木もすべてを銀色に塗り替え飲み込んでいた。昼間から少しずつ陽が差し始め、きっとキラキラと光を反射していることだろう。美しい外の光景を眺めることにサトルは喜んで賛成してくれた。
そうして私はサトルとわざと遠回りをして理科室へ向かう。いつもこうやって偶然の再会を避けていることに、きっと彼は気づいていないだろう。
独りで勝手に悪巧みをしている気分になって楽しかった。それは少しだけ幼い頃に夢中でしたごっこ遊びに似ているのかもしれない。さしずめ今の私は「女スパイ」役だろう。
「そうだ。琳子、今日の放課後よかったら部活の見学に付き合うよ」
「嬉しいけど…彼氏は大丈夫?」
ここ数日で一気に仲良くなったサトルには実は年上の彼氏がいるらしい。同じ学校だそうだけれど、まだ一度も会ったことはない。クラスメートが言うにとても嫉妬深いので男子は絶対に彼氏のいる前でサトルに話しかけないのだとか。
「今日は琳子と一緒にいる。友だちといる時間まで邪魔なんかしないよ」
自信満々に断言しているけれど、それは女友だち限定らしい。それでも二人の仲睦まじさが伝わってきてつい頬が緩む。
「ありがとう。じゃぁ、お願いしようかしら」
可愛らしい恋人たちに想いを馳せた瞬間、ほんの少しだけ。そう、本当にきっと少しだけのこと。私の胸は古傷を抉るように鈍い痛みを発した。
あれから、日向は移動教室やら体育などがある時周囲に視線を向けるようになった。
入学したての一年生のように周囲をキョロキョロ確認する様子は多少気をつけてやっていても奇妙に映るらしい。
「こら」
「痛っ」
別に痛くはないのだが、突然脳天に軽い衝撃が走って日向は頭を抱えた。
「次、視聴覚室だよ~、ひなちゃん」
丸めた教科書でチョップしたのは大して表情を変えていない須藤で、ここぞとばかりに関が軽口を叩いた。
「…お前らな…」
とはいえ移動教室でぼんやりしているのを指摘してくれたのだ。
「いや、悪い。助かった」
「あ、もしや『ひなちゃん』公認?!」
「呼ぶな。…とにかく行くぞ」
調子に乗る関を睨むと日向は理科室へと向かった。
我ながら馬鹿みたいだと内心毒づきつつも、先ほど見つけたちらりと向こう側の校舎を移動するリンコへと視線を向けた。
このところ、遠くで見かけるまでなら注意力が上がったとは思う。だが、そこまでなのだ。向こうがこちらに気づくと、こちらが想定する遭遇範囲から離れられているみたいなのだ。
最初こそ気づかなかったものの、どうやら意図的に。
『琳子よ。由良川琳子。気が向いたら探してみて』
――結局、何がしたいんだよ
内心毒づくものの、日向の視線はついついあるたった一人を探して周囲へと向けられていた。
由良川琳子が転校してきて既に一週間が過ぎようとしていた。元々交換留学制度があり生徒の入れ替えが度々行われる。その為新たな面子を迎えるに当たり、クラス内で特に荒波が立つ予感などなかったとサトルは思っていた。
「初めまして。由良川琳子です」
そう、彼女が初めて教壇に立ち挨拶をした瞬間。周囲に音のないどよめきのような衝撃が走ったのを忘れない。恐らく男子生徒たちはこの美しく魅力的な転校生に一瞬にして心を奪われ、対する女子生徒たちはそんな男連中の心情をすぐさま感じ取り様々な感情を抱いたのだろう。
…綺麗だけど、何となく型にはまった感じがする人だな。
そのどちらにも属さないサトルが持った第一印象はそれだった。
完璧な外見にすらりと伸びた手足。長い色素の薄い髪をきちんと三つ編みにした琳子は、まるでその形のまま生まれてきたかのように隙がなくて。崩れないようにコーティングされた等身大の人形のようにも見えた。
しかし実際に彼女の言動を観察していると、外見の第一印象から大きくはずれていた。気さくで男女問わず分け隔てなく接することを特に心掛けているようだった。恐らく長年の経験から培ったものなのだろうが、特に同性の生徒と話をする時。彼女は言葉の隅々まで意識の枝を張り、不毛な争いを悉く避けるべく注意を怠っていないように感じた。きっと自分が異性の関心を無意識に買ってしまう分、同性の妬みが集中してしまうと理解しているのだろう。
その成果があってか、最初の数日は琳子のことを遠巻きに眺めていたクラスの女子たちも次第に彼女に近づきその波はゆっくりと広がっていった。今ではすっかり女子たちのお気に入りだ。
そんな琳子は不思議なことにもサトルのことを気に入って近づいてくる。最初は席が近いからという理由だけだと思っていたが、どうやら彼女自身がサトルに興味を持って接しているようだと悟った。
「こっちの廊下を通って行きましょうよ。グランドに積もった雪が見れるわ」
正直サトルとしても悪い気はしなかったし、何よりも琳子には知りたいと思う点が多かった。知ってみたい。何故自ら作る型にはまろうとするのか。時々誰もいるはずのない空間をぼんやりと眺めている理由とか。無意識に呟いている聞いたこともない言語についてとか。もっとたくさんのことを。
ぼくはもっと、琳子について知ってみたい。
「いいね。今年初めての雪だったし」
硬い硬い殻をカチ割った時、彼女の中には一体何が入っているんだろう。それを想像して、 サトルは密かにほくそ笑んだ。
「Allez!」
試合開始の合図とともに、両者はそれぞれ間合いを取りにかかった。幅1.5メートル、長さ16メートルの練習用ピストから外れることなく相手のポイントを取りにいくのは見ている以上に至難の業だ。練習試合とはいえ上級生の試合を見るのも勉強のうちなのだが、体育館の半面に用意されたピストは二つ分のみ、上級生の試合終了を待つ間はひたすら筋トレ三昧という訳だ。
「…やっぱり三年の試合は長いよなあ…」
ディランと同様、腕立てにスクワットに背筋運動をこなしていた友人がつまらなさそうにぼやいた。
時期がちょうどセンター試験の時期だというのに推薦組は既に大学受験終了ということで久々の部活でエンジョイ中である。
三年生は夏から引退ではなかったのか―――。
そんな訳でフェンシング用の剣は数に限りがあるし、こちらもなかなか部員全員に行き渡るという訳ではない。そんな訳で剣もない状態ではスタミナ切れとならないように、体幹を鍛えたりの筋トレがメインメニューとなってしまう。
「大体、力が拮抗してるからね」
1セット終わり、次のメニューへとシフトしながらも、ディランは試合の様子へと意識を集中させた。
ざわざわとざわめく体育館での物音がスッと静かに凪いでいく。右と左の両者それぞれの動きに意識を集中させ、ステップと体勢、剣先の狙う先を読む。
実際に試合をしているのは自分ではないが、対戦者の動きから脳内での自らの動きを想定していく。一手ニ手三手と足の動きと手の動き重心の移動の仕方、視線の先、相手の動きの傾向からどれが適切な行動か脳内で検証していく。
「……ありゃ、珍しいねぇ。見学がきたみたいだね」
フェンシング部自体が珍しいので、見学者もだいぶ限られてくる。入部希望者は大半が経験者だし、未経験者はなかなか入部にまでは至らない。
「……隣のバレー部の見学でしょ」
コートの反対側を陣取って活躍中のバレー部に視線をやり、ディランは筋トレを続けながら先ほどまでの試合のイメージトレーニングに集中した。
「…どうかな? あ、女子だ」
嬉しそうにテンションを上げる声にディランは息を吐いた。少し前までのディランであれば大なり小なり興味を持ったに違いないが、今は特定の一人以外興味がない。
「お…外人…? あ、いや日本人かな? すごい美少女がこっち見てる」
何が面白いのか、ツンツンと小突かれて集中が途切れる。金髪の外国人そのもののディランにまるで日本人のノリで珍しい外国人を見つけたという反応もどうかと思うのだが。
「金髪? あ、いや茶髪なのかな? くそ、あれ何色かわかんねー」
「静かにしてくれる?」
完全に手が止まっている件は当人の問題としてさておき、真面目に筋トレしているこちらにまで話しかけてくるとは。
「ほら、ディランも見てみろって」
「――あのね、こっちは真面目にやってるんだから、邪魔し」
思わず友人を振り返った時、視界の端に体育館の出入り口が入った。ちょうど見学にきたらしい女子生徒が二人。
どうやら後から顔を出したらしい一人の女子生徒の姿に抗議の声も止まった。
「…………」
「あれ、どした? もしかして知り合いだった?」
「…まあ、ね。ね、ユキヒロくん」
「はい?!」
ふわりと天使のような笑みを浮かべて、友人の名前を呼ぶと彼はびくりと反応して声が裏返った。どうもディランの人との距離感は生粋の日本人相手には異様に映ってしまうらしい。
「まだ練習試合の順番にはならなさそうだし、ちょっと時間繋いどいてくれるかな?」
「は?」
「じゃ、お願いね」
得意の笑顔で有無を言わさず強引に収拾をつけると、ディランは体育館入り口へと向かった。
「サトルくん!」
体育館入り口に立つ二人の女子生徒のうちの一人を見て思わず笑みを浮かべた。
「見にきてくれたの?」
「あ、ディラン」
名前を呼びながら駆けつけてきた金髪の男子生徒に気づくと、サトルは僅かに頬を染め私を気遣うように一瞥した。すぐに二人の関係を察したけれど、恋人をくんづけで呼ぶなんてサトルにぴったり過ぎて少し笑ってしまった。
「琳子、紹介するよ。ディランだ」
「初めまして、琳子です」
「ディラン、前から話していた琳子だよ」
「初めまして。ぼくはディラン・カーナベル。ディランって呼んでね。きみのことは琳子ちゃんて呼んでいいかな? サトルくんの友だちが増えて嬉しいよ」
華奢な身体つきに似合った中性的な顔立ちをした彼は、まるで絵画から抜け出してきたかのようにふわりと天使のような笑みを浮かべ私に挨拶をしてくれた。
ふんわりとカールした癖のある金髪にアメジストの瞳。華やかな外見はそこにいるだけで人目を惹いた。同時に階段で出会った彼が話してくれた目立つ金髪の男子学生というのは、このサトルの恋人のことではないかという確信に似た疑問が湧いた。
「えぇ、ディラン。こちらこそよろしく。サトルもこんなに素敵な恋人がいるなら早く紹介してくれたらよかったのに」
「…目立つから、すぐにバレると思ったんだ」
「あ、もう恋人だって紹介してくれてたんだ。サトルくん照れちゃうのかなと控えてたんだけど」
サトルの返答にディランは心底嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。
「改めまして、サトルくんの恋人のディランだよ。学年は違うけど仲良くしてね。…琳子ちゃんは転校生だっけ? どう? 学校は慣れそう?」
「えぇ、とても自由な校風が素敵よね。それと部活動も盛んみたいだし」
「ふふ、それはよかった。今日は部活の見学?」
「そうなの。進級してから入部しようかと思って」
それからふとディランの笑顔を眺め話題を変えた。
「…もしかして、お友だちに尻尾髪の真面目な、私たちと同学年の子がいないかしら?」
「尻尾髪?」
一瞬きょとんと目を丸くした後、脳裏を巡らした。
「ああ。もしかして、黒髪の、日向くん? なあに? 知り合いなの?」
「え、日向と? いつ知り合ったんだよ、あの石頭と」
「石頭って…」
笑いながら首を振った。いつも意外な所で交友関係は繋がっているものだ。それでもなかなか私に辿り着けていないのは、もうどうでもよくなっているのか。それともまだ、サトルと私の関係に気づけていないのかどちらかだろう。
「たまたま少し会話した程度で知り合いって程ではないの」
「そうなんだ。日向くんが女の子と話すなんて意外だよ」
クスクスと楽しそうに笑った。
「ふふ、あれはあれで可愛いとこもあるから、面白いかもね」
「可愛いところなんてあるの? 大抵不機嫌そうにしているけど」
「まあね。からかうと楽しいよ」
今までちょっとした退屈しのぎの楽しみ程度にとっておいた彼の話題を、こんな風に周囲から聞かされるとは思わず私は興味をそそられ尋ねた。
「彼とは親しいの?」
「学校で会う前からの仲だからね。おかげでぼくのが年上なのに先輩って呼んでくれないんだよね。先輩呼びってちょっと憧れてたのになあ」
「そうなの…」
律儀そうな第一印象とは違って意外な気がしたけれど、それだけ二人の関係が親密ということなのだろう。話を聞けば聞く程、無意識にも抱く人に対する先入観と言うものがどれだけ一方的なのかよくわかる。
「ぼくが呼んであげようか? ディラン先輩」
ディランの呟きを聞き、にっこりとサトルが笑いかけた。
「!」
するとディランは目を輝かせ感極まってサトルを抱きしめた。咄嗟の出来事だったので私は思わず一歩身を退いてしまいつい苦笑した。
「ああ、もう。サトルくん、大好き」
「こ、こら! ディラン!!」
こちらの想像通りこうしたコミュニケーションに、免疫のないであろうサトルは真っ赤になって激しく暴れた。
「人前ではしない約束だろっ!」
「…ああ、ごめん。ついね」
苦笑しつつも、そっとサトルを離した。
「『ディラン先輩』は不意討ちで…ちょっと感動しちゃって。気をつけるよ」
「ふふ」
暴れて髪がぐちゃぐちゃになったサトルの頭を直してやりながら思わず吹き出した。外見から中身に至るまで正反対の印象を持つこの二人が恋人同士だなんて。どういった経緯で付き合いに至ったのか色々と知りたいことが増えてしまった。
「本当に仲がいいのね」
「もちろん。何より大切だからね」
ふわりと天使のような笑みを浮かべた。
「ね? サトルくん、明日は一緒に帰れるかな?」
「いいよ。じゃあ、授業が終わったら連絡するよ」
「やった。じゃ、約束ね」
そうして再び体育館の中へ戻っていく恋人を見送り、私たちはその場所を去った。
「そう言えば、どうしてぼくらが付き合っているってわかったの?」
校舎の合間を歩き大方の部活動を見学した私たちは、どちらともなく教室へ向かい荷物を取りに行くことにした。
「だって…嫉妬深いと有名な恋人がいるサトルを、まさか『くん』づけで呼ぶような勇士がこの学校にいるかしら?」
図星を指されたらしくサトルは頬を染めそっぽを向いた。きっと照れているのだろう。
「素敵な彼氏ね。何よりも大切だなんて…言われてみたいわ」
夕焼けが残り雪を美しいオレンジ色に染め上げる道を歩きながら私は独り言のように呟いた。
あの学園で私は、きっと初めて恋をしたのだと思っている。けれど異常とも言える独自の文化や法則に覆われたあそこで素直に自分の心を信じるには、あまりに危険が多すぎた。
消えていく同級生たち。いつの間にか行き先も告げず友人が転校してしまっても何一つ疑問を持つこともなくなっていく感覚が痺れていく恐怖。だから私は最後まで、本当に彼に恋をしているのか自信が持てなかった。確信できるものがなくて、たった一人の血の繋がらない肉親さえも信じることができなくて。私を慕ってくれた友人たちでさえ手駒として扱ってしまった。
もう一度彼に会えたなら。そんな風に考えても結局、現実はどうにもならない。
「なぁ」
ストレッチをしていた同じ部員がディランに話しかけてきた。
「さっきの女子、誰?」
「ん? さっきのって?」
女子は二人いたのだがどちらを対象に聞いてきたか不明な為、ディランは相変わらずの笑みを浮かべてみせた。
「お前と話してた奴いただろ。中等部の」
「ん、なあに。向井くん、気になるの?」
「……名前、何て言うの?」
「名前?」
まさかの発言にディランはついきょとんと目を丸くした。さほど仲のいい友人という訳ではないので彼の女性の好みまで知らないのだが、興味があるということだろうか。
「さっきの二人の?」
「二人? あー、まぁ二人共」
「……二人共って片方はぼくの彼女なんだけど?」
「あーそこまでそこまで。ストーップ! 俺もすっげー気になるから」
笑顔を浮かべたはずだが明らかに不信が伺えたのか、部員で友人でもあるユキヒロが割って入った。
「え? どっち? 髪長い方とか?」
驚いたように向井は尋ねてきた。
「いや、髪長い方って…ゆら…何とかって言う名前じゃなかった? いや、短い方かな」
「…彼女って確か髪短い方だったよな。サトルっていう…」
ユキヒロが上機嫌で会話に加わり、ディランは息をついた。ユキヒロはこの手の話題が大好物なのだ。
「…で? 髪の長い、ちょい外人っぽい子誰? 今日初めてきたよな?」
「名前、何て言うの?」
よっぽど本人に聞けば? という台詞が喉元まで上がってきたものの、それはそれで当人に迷惑がかかるとも思うとディランは言葉を飲み込んだ。
せっかくサトルにできた友人なのだ。
「由良川さん。ぼくの恋人の友人でもあるから、余計なちょっかいはかけないように」
「…由良川…そっか…」
独り言のように呟き向井は気まずそうにディランから視線を逸らした。
「…もしかして、知ってる人だった?」
「まぁ、地元ではある意味有名って言うかな…」
向井は歯切れ悪く答えた。
「兄貴の方と同じ塾だったんだよ。そっか…遠目からしか見たことなかったけど、あの子が妹か」
「へぇ、お兄さんいるんだ。どんな人?」
「兄貴に興味持つのかよ」
とユキヒロに小突かれたがそこは無視することにした。
「…頭のいい奴で、確か海外留学して…いや、帰ったのかな? まぁ、妹とは全然似てねぇよ。それに頭のいい奴ってキレるとヤバいし」
意味深に笑ったところでコーチから集合がかかった。
「…キレるとヤバいって…」
当人がキレるようなことでもしたということなのか。おそらくタイプ別に推測したものだろうと判断するとディランは息を吐いた。
「ね、向井くん。また話聞かせてよ」
向井は再び意味深に笑うと片手を軽く挙げて応えた。
翌日、部活を終えるとディランは着替えて中等部の校舎へと向かった。中等部の校舎に高校生が入るとどうにも異様に目立つ。加えて金髪に紫の瞳の日本からすれば外国人そのもののディランは嫌でも人の目を引いた。
ディランからすれば日常茶飯事であり、人の目を引くことよりも恋人に会うことが最優先だ。放課後かつ部活終わりの時間ということもあって、教室にいる生徒はまばらだった。
「サトルくん、一緒に帰ろう」
さほど大きな声とは言えなかったがディランが教室のドアから顔を出して声をかけると、少ないながらも教室中の視線が集中した。
「お疲れ様」
琳子と雑談をしていたサトルが、鞄を持ってディランの元に駆け寄った。
「…ありがとう。サトルくんも部活だった?」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべ、サトルの側まで向かった。
「うん。終わってから、琳子が日直で残っていたし少し話してた」
と言いながら日誌をまとめる琳子に手を振った。
「琳子、また明日」
「…琳子ちゃん、またね」
やや躊躇ったものの、ディランは相変わらずの絵画に描かれるような天使のような笑みを浮かべ手を振った。
「部活は疲れた?」
「まあね。でも楽しいよ。今度全国大会があるから、みんな気合い入ってるし」
教室を出て廊下を歩き出したところでサトルから声をかけられた。少し気になることがあったが今は部活の話題にした方がいいだろう。
「そうなんだ。ぼくも予定が合えば応援に行きたいな」
「ホント? ありがとう、サトルくん。今度日程教えるよ」
「うん」
少しディランを見上げ
「…琳子に何か用事でもあった?」
「………ふふ、サトルくんにはかなわないね」
ちょっとした変化だったとも思うが、鋭い彼女についつい笑みがこぼれた。
人通りは少ないが学校を出た方がいいだろう。中等部校舎出入口に向かいつつ、ディランは口を開いた。
「特に用事はなかったんだけど、少し話したいとは思ってたかな。サトルくんの大切な友人だし」
「話し?」
サトルは小首を傾げ尋ねた。
「うん、まあ、ね。ただ、ぼくは琳子ちゃんと昨日知り合ったばかりだし、いきなり話すのは失礼かなと思って」
校舎を出るとディランは苦笑した。
「…何か、誰かに言われたってこと?」
「…言われたっていうか聞いたって感じかな。琳子ちゃんにお兄さんがいることとか…」
「あぁ、確か一つ歳上って聞いたよ」
「あまり似てないらしいね。部活の向井くんから聞いたんだけど、どうもあんまりいい感じの話じゃないみたいだったよ…」
「…大なり小なり、どの家庭にも事情はある。琳子は隠す気はないって言っていたから言うけど、琳子の母親は一度も結婚したことがないって。だから…」
「…そっか。まあ、ぼくも人の事言えないしね。不安にさせるようなこと言ってごめんね。ぼくも詳しく聞いた訳じゃないけど、一応心積もりしとくといいかな」
「うん…。ありがとう、ディラン」
ディランを見上げ微笑んだ。
「…あとね。何かあったら相談して? サトルくん、一人で抱え込んじゃうんじゃないかと心配だから。力になりたいし」
「ディランは心配性だよね。大丈夫。きっと琳子もいずれ話してくれるだろうから」
「ふふ、安心したよ。琳子ちゃんとはいい友人になれそうだね」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「うん。思っていたより話しが合うんだ」
そう言ってサトルは嬉しげに琳子について話した。
「それはよかった。琳子ちゃんとはクラスが同じなんだっけ?」
「そうだよ。高等部でも同じだったら楽しいんだけどな」
ふと思い出した様子でサトルはディランを見上げた。
「そう言えばディランは、進路をもう決めた?」
「そのことなんだけどね。国に一度帰ることになりそう。家の整理をしなきゃいけないし」
サトルには既に話してあったが、ディラン自身の家の都合はかなり特殊と言えた。実の血を引く両親から遠戚の未亡人の養子に出されたものの、養母はディランが十四の時に亡くなり、一人になった。レーセ婦人に近しい親戚はなく、ディランは唯一の遺産相続人となったが未成年の為、学業以外に使用できなかった。その為、後見人は国に残して今は一人日本へ留学中といういきさつがあった。向こうでの成人年齢は十八の為、卒業時には膨大な遺産手続きやら、家の整理が山ほどあったりする。
「……帰ってくる?」
サトルの言葉にディランは堪らず、サトルの手を握った。元々屋敷を出る為だけにとにかく遠くへと選んだのが日本への留学だった。
まさかその日本で大切な人が出来るとは思っていなかった。
「勿論だよ。サトルくんと共に生きる未来を模索したいし」
「……っ」
思わずサトルは赤面しそっぽを向いた。
「そ、それって…結婚の申し込みみたい…」
「…将来的にはね。そうだったらいいなっていうぼくの希望。まだ学生だし、きちんと申し込むのはもう少し先になりそうだけど、そうなるように努力するつもり」
「………っ!」
耳まで赤く染めサトルは俯いた。
「ふふ、可愛い。で? サトルくんの家にはいつ行かせてもらえるの?」
期待を込めた眼差しでサトルを見つめた。
「えっ、あ。いや…散らかっているし、そのうち…」
「そう? この前もダメだったんだけどなあ…?」
またダメなのかと思いつつディランは苦笑した。
「…家族が多いから、なかなか片付かなくて」
「サトルくん、すごく掃除得意だった記憶があるんだけど? 多少散らかってても気にしないよ?」
「……そのうちに」
「…そのうちに、ね?わかった。期待してるよ」
サトル本人が話すように家族と共に暮らしているのではなく、実は一人暮らしだとつい先日知ったのだが、今のところ追及したり押しかけるような真似はやめておこうと結論づけた。
今の段階ではまだまだディランの個人的願望のみで終わると思っていた未来の夢に、サトルも割と好意的な反応を示していた。――それが何より嬉しい。
「でもね、いずれはご家族に彼氏ですって紹介させてね?」
「……」
サトルは返事の代わりに握られたままだった指に力を込めた。
「……ふふ」
ディランはふわりとやわらかい笑みを浮かべると、自らもまたサトルの手を握る手に力を込めた。
サトルが恋人と帰ってしまうと一気にクラスの温度が下がったような錯覚を覚えた。実際に気がつけば、幾人か残っていたクラスメートたちも姿を消し教室には私だけになっていた。
特別熱中して記録する程の出来事があった訳でもないけれど、日誌に一日のまとめを書くうちに周囲の様子に気を配るのを忘れてしまっていた。ペンを置いて軽く背伸びをする。
いい加減帰って買い物を済ませないと、翠の帰宅に間に合わなくなってしまう。そんな主婦みたいなことを考えながら私は荷物をまとめ、日誌を片手に職員室へと向かった。
「失礼しました」
飯島先生が不在だった為、近くにいた教員に日誌を託すと私は真っ直ぐ下駄箱へ下りた。途中の階段で男子生徒と擦れ違い、ほとんど無意識に私は振り返ってその生徒の顔を確かめていた。
相手の生徒も驚いた様子で目を見開くと、すぐに気まずそうに視線を逸らした。似ても似つかないその生徒の顔を仔細に眺めつい苦笑を漏らした。同時に内心申し訳ない気分になってしまった。
「ごめんなさい。人間違いだったの」
軽く会釈を返して余計な追及を避けたいが為に、足早に階段を下りる。
―――私は誰を探しているつもりなんだろう。
学園にも沢山の階段があった。特に人気のないあそこは密談には持ってこいで、意図しない偶然の逢引にも役立っていた。けれど自分が決してここで、彼を探している訳ではないと自覚している。
じゃあ、誰を探しているのって尋ねられたって困ってしまう。私は確かに探しているけれど、でも見つかって欲しいとも思っていない。そして面倒なことに、私が必死に探しているのと同じくらい、私も誰かに見つけてもらいたい。そんな風に思ってしまっているのだから。
「琳子ちゃん」
下駄箱で突然名前を呼ばれ一瞬全思考が止まった気がした。
「バイバーイ」
振り返ると廊下の暗がりに立つ部活終わりらしき男子生徒が手を振っていた。見覚えのない相手だったけれど、名前を知られている以上無碍にする訳にもいかず。でも愛想を込めた対応をするには不安も大きくて、私は軽く頭を下げると早足で校舎を後にした。
その日の夕方、私は翠が帰ってくる音で目を覚ました。リビングに灯りが点されソファに横たわっていた私を見つけると、彼はやや意外そうに眼を見開き
「眠ってたのか?」
と問いかけてきた。
「…ちょっと、疲れちゃって」
テーブルに出したままにしていた処方箋を片づけると、私は寝起きの気怠い身体を起こしキッチンへ向かった。見知らぬ男子生徒に声をかけられなければ、きっとここまで疲弊することもなかっただろう。結局買い物をする気力もなく帰ってきてしまったので、残り物で作ったスープとレトルトのパスタを温めた。
「…うまく、やっているのか?」
こちらに対する気遣いを滲ませた少しぶっきら棒な声かけに、私は振り向きもせずに答えた。
「えぇ。ありがとう、大丈夫よ」
以前の私たちの間柄だったなら、こんな相手を思いやる言葉のやりとりなんて一切なかった。表面上でも私たちは、家族を再び装うことにしているのだ。
「…学年末の進級試験が終わったら頃に、日本に帰ってくるそうだ。その時に食事をしようと言われているから予定を空けておいてくれ」
「わかったわ」
憂鬱な気分に憂鬱な話題。私たちの今後の生活の為にも避けては通れない面談に、一番気を滅入らせているのは翠なのだから。と、私は兄の胸中に想いを馳せ僅かばかりに同情した。
進級試験が近づくにつれ学校では自習時間が増えた。当然移動教室もなくなり、他クラスとの交流の機会も減ってしまう。多くの生徒は教室で自習をしているけれど、中には友人たちを呼んで図書室で集まっている子もいた。
私も何回か声をかけられたけれど、教室内で静かに勉強をするサトルの隣で教科書を開くことを選んだ。第一何かを期待して図書室へ向かったとしても、もうあんな小さな約束を忘れているかもしれない。会ったところで私のことを覚えているとも限らない。それに会いたくない人に出くわす恐れだってある。
問題集をめくりながら私は何度もあの下駄箱で声をかけてきた生徒について考えた。
地元から離れていると言っても、まったくの確率で知人に遭遇しない筈がない。残念なことに私たち家族はある意味とても有名になっているから。だから、どうしても、怖くなってしまう。私たちの情報は知らないうちに垂れ流しにされていて、拡散されて、誹謗中傷をまとった噂だけが独り歩きをしていく。どんどん、どんどん…他人から被せられた偽の情報をまとって大きくなっていく。気がつけば巨大な影となったその噂に私は飲み込まれ―――
「琳子?」
ふいに声をかけられ私はハッと我に返った。勉強をしているつもりがいつの間にかうたたねをしていたらしい。
「大丈夫? 何だかさっきからしんどそうだよ」
それまでずっと机に齧りついて勉強をしていたサトルが、心配げに私の顔を覗き込んだ。深く青い瞳に映る自分の顔を見て肩を落とす。
「確かにひどい顔ね。…保健室で横になってくるわ」
火照った身体を持ち上げ席を立つ。ちょっとした動作だったけれど、寝不足の私には少し辛く軽い眩暈さえ覚えた。この次の授業も確か自習だったので、少しは眠れそうだ。
「先生にはぼくから伝えておくよ」
気遣わし気に眉を寄せるサトルに礼を伝えると、私は保健室へと向かった。
「生理前なのね。試験前だからって無茶したら駄目よ」
養護教員の若い先生はそう言って私にベッドを勧めてくれた。生理前というのは面倒だった私が吐いた小さな嘘だったけれど、顔色の悪さから疑うことなく信じてもらえた。
「ありがとうございます」
白色で統一されたシーツは消毒液の匂いがしみついていて、皺ひとつなく伸ばされている。どこの学校でも保健室の先生と備品がもたらす不思議な安堵感と、不確かな緊張は変わらない。横になるとすぐに目の前の景色が歪んで見えた。こういう時はただ眠るしかない。きっと嫌な夢も見てしまうだろうけれど。
ぐるぐると回転する天井を睨みながら私は、引き離されそうになる意識下で呟いた。
…先生に…薬を変えてもらわなくちゃ…
隣の席の琳子が保健室へ行ってしまうと、何となくサトルの集中力も途切れてしまった。今朝から顔色が悪いとは思っていたがまさか本当に体調不良だったとは、と思いもっと早めに気づいてやれなかったことを僅かながらにも後悔する。
あと数分で自習時間も終了するのでサトルは参考書を片づけ始めた。そしてチャイムと同時に立ち上がると、ふと琳子の机の下にブリキ缶が転がっていることに気づいた。有名なブランド「Qeen.」のロゴが入っているそれを拾い上げ、サトルは迷うことなくその中身を開けた。
「………」
一瞬にしてその中に入れられたものたちの意味を理解したサトルは、そっとそれをポケットに隠すと席を立ち始める同級生に混じって廊下へと出て行った。
休み時間になると廊下には生徒の姿が目立った。しかし試験期間前ということもあり、普段の賑やかさは少し影を潜めている印象だ。生徒たちが行き来する中、サトルはちょうどこちらに向かって廊下を歩いてくる彼に気づいた。
「…おはよう」
目が合った以上、無視する訳にもいかず。サトルは恋人のディランのルームメイトである日向に声をかけた。
「…お、おはよう…」
日向も同じ心境なのかやや面食らったような態度で応えた。お互いの出身国は違うが風紀等については厳しい環境で育ったと聞いている。むしろ彼の国の方がより厳罰だそうだが、男女間で友情なんて以ての外といった所だろう。知り合い以上友人以下といった微妙な関係の日向が、どうして琳子と知り合ったのか疑問もあった。
「…珍しいな」
「…無視していけばよかったのか」
ムッとした態度でサトルが聞き返した。
「いや、意外に会わないものだなと思っただけだ」
誰か別の人のことを思ったのか、日向は苦い表情を浮かべた。
「クラスが違うから、余計にだろ。特にお互い教室も離れているし」
「…ああ、そういやそうか」
「…そう言えば…高等部の希望専攻って」
「…ああ、文系、理系、美術、体育とかいうやつだよな。次の試験結果の影響をもろに受けるんだったな…」
サトルが意図する事が読みきれなかった様子で日向は首を傾げた。
「………あー、もしかしてそれはぼくのを聞いているのか?」
「どうせ理系だろ」
溜息交じりに呟いた。当然サトルも理系を希望していた。理系のクラスでも希望者数によって数は変わるが、進級してからクラスメートになる可能性は捨てきれない。普段からディランとの交際で不本意ながら迷惑をかけている相手なので、多少の気遣いは必要かと思うと面倒臭さを感じてしまった。
「…志望は文系だが」
意外にも日向は頭を抱え答えた。
「……本当に?」
「まあな。最終的に商業分野を学びたいと思ってるし、外国言語は海外事業の展開に必要だろうし、…国語は…すごく接客に重要な位置を占めてくるだろうと考えたんだが…。教師からは致命的にあってないし、理系にしなさいだそうだ…」
まさに的を射た教師の指摘に日向は溜息を吐いた。
「…まぁ、試験結果次第だろうけど…」
「…まだ、決まった訳じゃないからな。結果を出せるよう全力を尽くすつもりだ」
「……一応、健闘を祈ってるよ」
肩を竦め苦笑するとサトルは軽く手を振って日向と別れた。
夢現としている意識の中で、私は誰かが勢いよく保健室のドアを開ける音を聞いた気がした。大股でどこか乱暴さも感じる足取りからきっと男子生徒だと予測する。カーテンの向こうで先生が声をかけた。
「○○くん、どうしたの?」
「体育の授業で怪我しちゃって…」
気怠くて身体が動かない。けれど今ここに私自身に向けられる悪意はどこにもないのだと感じとり再び瞼を閉ざす。短い夢を何度も見る。まるでドラマの合間を縫うCMのように、途切れ途切れにカーテンの向こうで交わされる男子生徒と先生の親し気な会話が聞こえてきた。
「今朝もねぇ、変なニュースあったでしょ」
「そんな報道がない日なんてないっしょー」
もしかしてこうして聞こえてくる会話自体も私が見ている夢なのかもしれない。声が遠くなったり二重になったり、か細くなっていったり…
「で犯人を再起不能にしたって話。そいつ、小六の癖に法廷までいって証言したらしいっすからねー」
「あぁ、新聞とかネットでも結構広がった話よね。確か…妹さんの…が別荘までやってきておじいちゃんおばあちゃんを…」
「―――ちゃんでしょ?」
聞こえるはずのない声がそっと私の名前を囁いた。
―――いっそすべてが夢で。もう一度あの場所で目覚めることができたらいいのに。
温かな紅茶が用意され、テーブルに載りきらないくらいのお菓子の山。部屋の中は薔薇の香りで満たされていて誰もが幸せなひとときを送るあの談話室。自らの意思であの学園を出てきたはずなのに、私はいつも後ろめたさと後悔を感じていた。逃げるのではなく、今度こそ過去と向き合って生きていくんだと決めた癖に、心と身体はバラバラなまま。
まだもう少し。もう少しだけ待って欲しい。私はきっと立ち上がるから。そう懇願しても誰も時間を止めてくれない。止める術もない。
「そう言えば、ベッドって誰か寝てるんすか?」
いつの間にか流れて止まらなくなっていた涙を拭い、重たい瞼を持ち上げる。誰かがカーテンの向こうでこちらの気配を窺っているのがわかった。
「あぁ。調子の悪い子がいるのよ。静かにしてあげて」
「へぇ~誰だろ」
その声にはこちらの正体を暴きたくて堪らないといった不愉快な気配が滲んでいた。そして案の定、カーテン越しに裾を握る様子が確認できた。
―――会いたくもないっ。
シーツの中に潜り込み隠れようとしたその瞬間。再び保健室のドアが開けられる音が響いた。
「すみません。友だちの様子を見にきました」
それはサトルの声だった。直接見えなくてもすぐにわかる。彼女の堂々とした態度に気圧されて、先ほどまでカーテンを開けようとしていた男子生徒がしどろもどろに何か言い訳のような戯言を呟き保健室を出ていった。
「由良川さんなら眠っているわよ。ちょっと、お手洗いに行ってくるから待っていてね」
先生も席を立ち、再び保健室に束の間の沈黙が戻った。
「…琳子? 起きてる、かな」
遠慮がちにカーテンの向こうから声がかけられる。私は何故かとても久しぶりに誰かの優しさに触れた気がして、止まらない涙を拭いながら答えた。
「ごめんなさい。起きているわ」
そっとサトルが顔を覗かせると、私の泣き顔を見て驚いた表情を浮かべた。
「大丈夫? もしかして泣くほどしんどいの?」
心から私を気遣ってくれる想いが伝わり、横たわったままかぶりを振った。
「違うの。色々とタイミングが悪いことが重なって…」
「そぅ…。今日は大した授業はないから、あまり辛いなら早退して病院へ」
と言ってからサトルは言葉を区切り、ポケットから小さなブリキの缶と取り出した。
母の会社で試供品としてもらったそれに、私は普段から臨時薬を何種類か入れて持ち歩いている。きっと一般の人は見ることもないような専門的な薬だから、彼女以外の人が拾って中身を確かめたとしても何も思わなかっただろう。
けれどサトルは以前から、薬の研究に携わる仕事をしたいという明確な目標を私に打ち明けてくれていた。だから授業や進学の為の勉強以外にも、専門情報誌を定期購読し薬剤について少しでも知識を深めることができるようにしているのだとも。
「…言いたくないなら何も聞かないけど。だけど、中身を見たよ。それだけは伝えなくちゃいけないと思ったから」
見ないふりだってできた癖に。でもきちんと真実を伝え、真っ向から私を知ろうとしてくれる人なんてずっとずっと限られている。
「ありがとう、サトル」
起き上がり小さなブリキ缶を受け取ると、私の口から自然とそう言葉が漏れていた。
「かかりつけの精神科医がいるの。明日…薬の飲み合わせについて相談してくるわ」
でもね、と無意識のうちに続けていた。
「興味もないことかもしれないけど…よかったら…私の話を聞いて? 実のない胡桃のような…きっと、他人からしたら手間ばかりで実りのない話かもしれないけれど。サトルには聞いて欲しいの」
涙が渇いた頬を綻ばせて、私は、私のことを真っ直ぐ見詰めてくれるサトルが静かに頷きそして微笑んでくれるのを待った。
王子様、王子様。人と魚という垣根を越えて、私を愛して下さい。私を見て下さい。決して目に映るものだけを信じな―――
(『泣けない人魚の泣かせ方』より)
帰国してからは様々な事務手続きと、元々住んでいた家の掃除で忙しく走り回っていた。社長であった母の秘書を務めていた後見人の芹沢さんが色々と手伝ってくれたお蔭で書類関係はスムーズに片付いた。中途半端な時期の編入に随分と骨を折ったけれど、私は電車で一時間程かかる郊外の中高一貫校へ。翠は地元の進学校へと進路を決めた。
「琳子ちゃんの学校は国際交流に随分と力を入れていて交換留学生も多いらしいわ。インターナショナルスクールみたいね」
編入手続きを終えその報告をしにきた芹沢さんは、翠が淹れた温かいコーヒーを飲みながらそう言った。
「でもちょっと通学に時間がかかり過ぎじゃないかしら。部活動なんてしたら帰りが夜中になっちゃわない?」
確かに翠のように地元の進学校という手もあったけれど、今の私には様々な思い出が至る所に隠れているこの家にいることさえ辛かった。だから少しでも遠く、私が起こしてしまった事件について知る人のいない所へ行きたかった。
けれどそんな本音を口にする訳にもいかず、言葉を選び答えた。
「せっかく勉強して身に着けた英語のスキルを伸ばしていきたくて。…もちろん、帰りも遅くならないように気をつけるつもりです」
「だけど…」
年頃の女の子だから、と心配を漏らす芹沢さんの前に翠が茶菓子のクッキーを持ってやってきた。
「大丈夫ですよ。駅からも近いし、必要ならぼくが迎えに行くこともできます」
そして私の前にもコーヒーを出すと
「もう何も知らない子どもじゃない。琳子なりに防衛策は持っているはずです」
優しい口調だったけれど、私は翠の顔が直視できなくなりコーヒーを飲むふりをして目を逸らした。何も知らない子どもじゃない。えぇ、そうね。私は十分痛い目に遭ってそこから何らかの教訓を得たと自分でも思っている。そうではないと、決して翠相手に言えるはずもなく。
新品の制服に袖を通し鏡に映る自分の姿を眺める。濃い茶色のブレザーの襟と裾はスカートと同じ赤いチェック柄が入っていて、なかなか可愛らしいデザインをしていた。赤いタイを締めてから髪を二つに分けて三つ編みをした。
例の火事の時に私の髪は毛先数センチ程燃えてしまった。それでも十分な長さはあるし、所々に負ってしまった火傷の痕も綺麗に治りつつある。髪の毛もいずれ伸びてゆきその長さから時の流れを感じて、私はいつしかあそこで見て聞いたものを懐かしい思い出話の一つとして誰かに語るのだろうか。
「……っ」
どうしようもない歯痒さを感じ私は結んだばかりの三つ編みを強く握り締め引っ張った。これが学園を捨てて大人になることを選んだ迷子の結末だとしたら、なんて惨めで情けのないものだろう。そんな学園の為に生涯を捧げた仲間たちが大勢いるというのに、彼らに向ける顔もない。
時々何の脈略もなく私に襲い掛かる感情の波。後悔なんてしないと言っておきながら、私は私が望んだ結末と大きく異なるあの学園の最期にもどかしさと悔しさ。自分の不甲斐なさに情けないくらい圧し潰されそうになる時があった。
壁の時計が七時を指した。私は慌てて一階へ下りて朝食の支度をしようと台所へ向かった。
「遅刻するぞ」
そこには既に朝食が用意されており翠がコーヒーを淹れて待っていた。焼きたての食パンにサラダとハムエッグの色彩豊かな食卓がいかにも一般家庭の当たり前の朝ごはんといった感じがして、私は無意識に身構えていた。
挨拶もそこそこに席に着き食パンを齧る。昨日の晩芹沢さんが差し入れにと持ってきてくれた、都内で有名な店のものだったけれど今の私には味もよくわからなかった。
「……慣れるまで朝食の支度はぼくがやる。琳子は夕食を担当してくれ」
コーヒーを飲みながら翠はそう言った。確かに朝は翠の方が遅くに家を出る予定だから合理的で私としても助かる提案だった。でもそれさえも、このモデルケースのような朝食のように彼が必死に「家族」を演じる為に用意した、いわば嘘くさい優しさに感じられてしまう。
「えぇ、ありがとう。助かるわ」
私は笑顔で答え、食欲のないお腹に無理やり朝食を詰め込み席を立つ。
家族でもない私たちが再びあの頃のように共に暮らす為に、そんな無駄な手順を何回も繰り返していく必要がある。家族のように一緒に朝食を囲い、家事を分担して、適度な距離を保ちつつ互いに気遣い。意識して、毎日繰り返して。そうしていくにつれ意識は次第に無意識となり、演技はそのうち自然になる。
「行ってきます」
玄関に立ち扉を開けると、私は誰も見ていないのに笑顔でそう叫んだ。
地元の駅から特急列車で一時間程揺られる間、私は周囲から向けられる無関心を装った視線にただひたすら耐えた。
通勤通学時間のほとんど同じ顔触れで埋められた車両に、私と言う異端が紛れ込んだことで起きるささやかな違和感。きっとこの髪も瞳の色も翠のように真っ黒でいたなら。日本人離れした顔立ちでなかったなら、群衆の中に紛れ込んで目立つこともなかったに違いない。
ふとガラス越しに大学生と思しき男性と目があった。ずっと私の方を見ていたらしく戸惑ったようにおもむろに顔を逸らされた。
自分が人よりも目立ってしまう容姿であることは、これまで嫌と言う程経験して自覚している。意味もなく不特定多数の他人から好かれると同時に、同じくらい理由もなく私は大勢の人に嫌われてしまう。
具体的な予防策なんて何もない。何一つ、私は学んでいない。それでも私ができる最善の策についてぼんやりと考えながら、私は駅に着くまで顔が隠れるようずっと俯いた。
クラスの担任は定年を迎え再雇用契約でも結んでいそうなベテラン女性教師だった。
「由良川琳子さんね」
見事な白髪によく似合う上品な顔を彩る皺を深く刻み、彼女は飯島と名乗って私に握手を求めてきた。
「うちの学校の特徴を一言でまとめるのなら、生徒の主体性にすべてを任せていることですね。追々理解されると思いますが、主体性を認めるとは即ち当人が責任を伴うこと。基本的に制服さえ着ていれば、私は自分で落とし前のつけられる悪戯なら多めに見ますよ」
広いテラスで友人とお茶会でも楽しんでいそうな風貌の老婦人と思いきや、ぶっちゃけた物言いに私はとても好感を抱いた。後に友人たちから飯島先生は若い頃に暴力団組長の愛人を務め、様々な経緯を辿り教育の道に目覚めたのだと嘘か本当かよくわからないとても面白い話を聞くことになる。
「お父様がイギリス人なのね。あぁ、籍は入れていらっしゃらないと。自由で素敵ね」
職員室を出てクラスへ案内しながら飯島先生は楽し気に笑い話しかけてきた。複雑な私の家庭事情を自由の一言で片づけてしまう豪胆さに虚を衝かれた。
「うちの学校も多いのよ。何がって、外国籍の生徒よ。だからみんな基本的にファーストネームで呼び合っているわ。じゃないと同じ苗字の生徒ばかりになるでしょう? ふふ」
廊下から注ぐ鋭い冬の日差しが飯島先生の白髪を明るく照らし出す。雪こそ積もってはいないけれど、寒暖差で曇った窓ガラスがそこから望む外の景色を何故か特別に見せた。
「こんな季節の編入って目立つと思うでしょう? でもこの学校ではそんな小さなことを気にする子はいないわ。何たってみんな、時計もカレンダーだってまともに見やしないのよ。壁に貼り付けられたものを気にする暇もないくらい、日々を楽しんでいるのね」
眩しく輝く髪に彩られ微笑む彼女の顔を見た瞬間、私は不思議と心が温かく落ち着くのを感じた。こんな風に肩の力を抜いて呼吸をすることが、とても久しぶりに思う。
「さぁ着いたわ。中等部と高等部は校舎が離れているのよ。でも渡り廊下で繋がっているけれどね。ここが今日から貴方のクラスよ」
目の前で開かれる扉を見詰め、私は小さく息を吸い込み前へ踏み出した。
教壇に立ち飯島先生が簡潔に私の紹介を行う。クラス中から集められる視線を意識し、私は静かに頭を下げると生徒たちの顔を見渡した。
確かに東洋人が目立つけれど中には明らかに西欧の顔立ちをした生徒の姿もある。みんな同じ制服を着ているけど、中等部の赤いタイの代わりにリボン。ブレザーの代わりにパーカーやセーターと思い思いの着こなしをしていた。
「琳子の席はそこね。後ろで悪いけれど、視力は問題ないわね」
「はい、大丈夫です」
机の隙間を縫って窓際の一番後ろの席に向かう。男女混在の席順となっているらしく、私の隣はショートカットの小柄な女子学生が座っていた。
「教科書は隣のサトルに借りて頂戴ね」
サトル、と呼ばれた彼女は多分クラスで私以外に、唯一きちんと制服を着こなしていた。
「よろしく」
癖のないショートカットの黒髪が軽く頭を下げる彼女の動きに合わせてサラサラと音を立てた。見るからに日本人の顔立ちをしていたけれど、その瞳はサファイヤのような深い青色を発している。あまり見詰めすぎると双眸の深海に飲み込まれてしまいそうになる不思議な魅力があった。
「机をくっつけようか」
襟元の第一ボタンまできっちりと留めた彼女はその第一印象に相応しい、まるで新品のような教科書を広げてくれた。
一限目は数学だった。私はサトルの横顔を時々眺めながら、懐かしささえ感じられる授業時間を楽しんだ。
休み時間を挟む度に私は編入生の受難とも言うべきクラスメートたちからの囲い質問に答えた。毎度聞かれる内容はほとんど変わらない。前の学校についてや、現在の住所、家族構成に好きな人がいるかどうか…。私は適当な嘘も交えつつそれらに丁寧に答えながら、隣の席で背筋を伸ばしたまま読書に勤しむサトルの姿を時々盗み見た。決して友だちがいない訳でもないらしく、彼女に声をかけてくるクラスメートは多い。男女問わずに広い交友関係があるようだけど基本的にあまり群れないタイプなのだろう。周囲もそれをよく理解している空気があった。
それにしても机にかけている彼女の鞄から度々バイブレーションが聞こえてくるのだけど、サトルは一向に気に掛ける様子もない。多分携帯電話が鳴っているんだと思うけど、実は国民の八割が持っているというそれを未だに所持していない私にははっきりと断言できなかった。
携帯電話を持っていないことに関してはかなり驚かれた。若者たちの必需品なのだからその反応は妥当だろうけど。そうしてやっと私がサトルに話しかけるチャンスが訪れたのは昼休みの時間になってからだった。
「ねぇ、よかったら一緒にお昼を食べない?」
鞄からお弁当箱を取り出すサトルに声をかけると、彼女は一瞬意外そうに眼を見開いて私を見た。それからすぐにふっと表情を崩すと
「いいよ。琳子の昼食は購買で? それとも食堂に案内しようか」
「ん~…食堂にしようかしら。ついでに校内も案内してもらえたら助かるけれど」
「わかっ…」
頷こうとしたサトルはふとその動作を止め、たまたま手に持っていた携帯電話を見詰めた。またバイブレーションが鳴っている。
「…………」
毎回のことなのか諦めた様子で液晶画面を確認すると、申し訳なさそうに私を見上げ
「ごめん。ちょっと呼び出しされて…。多分すぐに戻ってこれないから一人で食堂に行ってもらってもいいかな」
食堂と購買の場所を簡単に説明すると、サトルは荷物を持って教室を後にした。すると彼女の退場を待って後方に控えていた女子の集団が私に声をかけてきた。
「琳子ちゃん、一緒に食べましょうよ」
結局サトルとほとんど話すことはできなかった。むかしから集団に属する女子たちに好かれる傾向にある私とまったく違うタイプのサトル。出会った瞬間から目を惹く存在の彼女と親しくなりたいと思いながら私は、振り返り笑顔で頷いた。
「ふふ。サトルに振られちゃったわ」
一旦購買でサンドイッチとドリンクを買ってから戻ると、既に机がくっつけられ巨大なテーブルができていた。
「琳子ちゃんはこっちに座って」
手招きされるがままに席に着くと一斉に様々な話題が広がった。
テーブルを囲う七、八人の女子生徒たちの自己紹介が終わり皆の関心が私の特徴的な外見に向けられる。日本名なのにそれにそぐわない色素の薄い瞳や毛色について、彼女たちは納得いく答えを欲しているようだ。
「私の父親がイギリス人なのよ。正確にはイギリス人の祖母と日本人の祖父との間に生まれたハーフで、私はクォーターってことになるわね」
有難いもので、父親の正体を知らなかった頃はそんな説明すらできず。幼い頃は何故自分は日本人なのに、周囲と違うのだろうとひどく悩んだ時もあった。閉鎖的な子ども社会に於いてこうした差異は大きな足枷となる。意味もなく嫌われ、疎まれてきたあの頃と比べるとこうして理由を言えるだけでこんなにも周りからのリアクションは違う。
「うちの学校にもハーフって多いわよ」
「そうそう、サトルもそうでしょ。お母さんも目が青いって聞いたし」
やはり彼女の深海のような瞳の色は目立つらしい。サンドイッチに齧りつく私に隣に座る奈々子と名乗った女子が話しかけてきた。
「琳子ちゃんの前の学校。海外だったのね? 私も留学してみたくて…もっと詳しく教えてよ」
無邪気な人懐っこい笑顔に断りにくさを感じ、一瞬言葉に詰まる。
ほんの数か月だけ過ごした学園での生活。こうして日本に戻り振り返ると、それはまるでお伽話の中の出来事のように感じられて未だに現実味がない。学園長を王という意味が含められたバロと呼び称え、世界中から集められた子どもたちが押し込められた古城の学園。学内には常に新鮮な薔薇が飾られ、談話室にはいくつもの甘いお菓子が毎日用意されていた。
「……っ」
急に腹部に鈍痛を覚え私は立ち上がった。
「だ、大丈夫?」
「保健室に行く?」
口々に心配してくれるクラスメートたちを宥め、私は女子トイレへ駆け込み胃の中身を空っぽにした。
そして私は声を殺して泣いた。
どこへ行っても、あの時の想いを共有してくれる人はいない。学園を捨てて祖国に逃げ帰った私に、仲間はどこにもいないのだと。一人で物語を書き続けた彼のように、今は私が孤独を背負って生きていかなければいけない。
辛いのは今だけ。次は幸せになる為の準備期間だから。そう何度も言い聞かせて顔を洗うと、私は舞台に挑む女優の気持ちで教室へと戻った。
放課後、日直の仕事を終えた日向は一度教室に帰った。今日に限って一緒に担当するはずだった日直の女子生徒は体調不良で早退した。その為、日誌やらクラスの提出物やらを一人でこなさなければならず、思った以上に時間がかかってしまった。
こんな日に限って手伝ってくれそうな友人たちは部活や委員会活動へと行ってしまい、なんともついていない。
「……」
教室に帰ると既に誰もいなかった。窓の向こうではうっすら日が陰っており、そろそろ夕焼けが見られそうな頃合いだった。日向はさっさと荷物をまとめ、教室を出た。
校則では制服は基本を守ってさえいれば自由に着こなして構わない。そう聞いてはいるが、ちょっとした理由からネクタイの色を黒に変えているくらいであとはきっちり制服を着ている。髪は肩まで伸びているがこれでも短く切った方だ。伸びた髪を後ろでネクタイと同じ黒の飾り気のない細いリボンでまとめていた。
――もう誰もいないことだし、少しきついネクタイを緩めるか
階段に差し掛かったところで、日向は下りながら器用に片手でネクタイを緩めた。
「…あ?」
階段の踊り場を曲がったところで誰かが階段を上がってくるのが見えた。
夕日を浴びて上がってくるのは見覚えのない女子生徒だった。別に校内全ての生徒を把握している訳でもなく、日向は特に気にせず階段を駆けおりた。
夕日の鮮やかなオレンジが反射して女子生徒の髪が黄金色にキラキラと輝いて見えた。綺麗に二つに結い上げたお下げが小さく揺れる。
「……」
一瞬、通りすぎる女子生徒に気をとられたのがいけなかった。すれ違い様、ネクタイを緩めていた方の片手が不用意に彼女の髪をかすめた。
「きゃっ!」
その瞬間、すれ違うはずだった女子生徒から小さな悲鳴が上がった。
「…あ」
特に何かを掴んだ等の自覚はなかった。しかし、気づくと袖口のボタンに少女の髪が絡まっていた。ひっかかったのに気づかず、彼女の髪を引っ張る形になってしまったらしい。
「わ、悪い…!」
まさかこんなことになるとは思いもよらず、日向は慌てて立ち止まった。このまま前へ進んでは女子生徒を巻き込んで階段下まで落としてしまうかもしれない。絡まっているのは右手の袖口。この場でジャケットを脱げば簡単に解けるかもしれないが、荷物を背負った状態ではどうにもならない。
あえなく日向は残った左手のみで解きにかかった。
「…不注意だった。解くから、ちょっと待っててくれ」
「……」
女子生徒は特に何も答えず、日向が解決してくれるのを待っていてくれてるらしかった。
「………」
少しの沈黙が訪れる。普段女子と会話することはほぼないし、あまり得意な方ではない。間をもたす会話をするより、日向は絡まった髪をほどくのに専念した。
片手しか使えないものの少しずつ慎重に取り組んだ。
「……あ、その、悪いんだが、その踊り場まで移動してもらってもいいか?」
できるだけ解いたが、夕日を背にしている為に影になって見えにくい箇所がある。それにそれぞれ違う段差で止まってしまった為、少しばかり無理のある姿勢になってしまっていた。
中途半端な場所で直すより階段を降りるか踊り場に上がるかした方がきちんと解けるだろう。階段を降りるという提案も考えられたが、この場合彼女に後ろ向きに階段を降りさせることになってしまう。それは危険だし、加害者である自分が後ろ向きに階段を上がった方がましだろう。
「待って」
すると今まで静かだった女子生徒から声が上がった。彼女は髪を引っ張らないよう気をつけながら鞄を足元に置くと、日向の手元から毛先を抜き取りヘアゴムを外した。途端に小麦色をした長い毛が肩から滑り落ちた。
「ゆっくりすれば大丈夫よ」
「な!?」
きっと彼女は知らないだろうから不審がられるに違いない。髪も瞳を墨を流したように真っ黒な日向はよく日本人に間違われていたものだから。反射的に頬が熱くなってしまって日向は気まずい様子で視線を逸らした。
「……あ、いや、悪い。すぐ解く…」
解きやすいように工夫してくれたのだ。日向は気を取り直して慎重に指を動かした。
「…ねぇ。少しだけだから、切ってもいいのよ?」
提案する少女の視線を感じる。もしかすると熱くなった頬を見られているのかもと思うと落ち着かない。
「……いや、切るのはないだろ。せっかく綺麗な髪してるってのに」
気づけばついつい余計なことまで口にしてしまい、日向は息を吐いた。
「…悪い。その髪をこんなにしたのはぼくだったな」
その時、最後に絡まっていた髪が綺麗に解けた。
「ふふ、ありがとう」
女子生徒は毛先に指を通しながら微笑んだ。
「…悪かった。髪傷んでないか?」
「えぇ。大丈夫」
結び直すのを面倒に感じたのか女子生徒はもう片方も解くと一つに頭の上でまとめた。
「!?」
まさかこの場で一旦髪をほどくとは思わず、日向は気まずい様子で視線を逸らした。再びまとめられた時には心底ほっとしたが。
「…あのな。初対面の奴の前で髪をほどくのは……あ、いや、ここは日本だったな。忘れてくれ」
「?」
すると彼女は不思議そうに首を傾げた。
「………」
やってしまったとばかりに日向は息を吐いた。
「…あー。実はぼくはこんななりだが、日本人じゃないんだ。だから、気づかずおかしな発言をしているかも知れないが、できれば目を瞑ってもらえると助かる」
「…あぁ、そういうことね」
合点がいったのか少女は可笑しそうに笑った。
「ごめんなさい。私ってば、知らないうちに貴方に失礼な態度をとっていたのね」
「…いや、外見じゃ気づいてもらえないからな。よくあることだ。こちらこそ悪かった」
珍しく口元が緩み、日向は苦笑した。
「それに、お互い様だろ? むしろ、そっちの方が苦労してるんじゃないか?」
「…ん~そうね…」
言葉とは裏腹に少女はこちらから視線を逸らした。どうやら何か図星でもついてしまったらしい。
「…悪い、今のは完全に失言だったな」
まず女子とこんな風に話すこと自体がないので、日向はどう言えばいいのかと言葉に詰まった。
「…友人にな、といっても悪友なんだが、目立つ金髪の奴がいるんだ。そいつはここじゃ明らかに浮いてるし、周りも本人もわかってるんだが、あいつはそれを逆に武器にしてるって言うか、なんだかんだ楽しくやってるみたいなんだ。まあ、そいつほど図太くなるのは無理かもしれないが、逆手に取ってみるのもいいんじゃないか?」
「……ふふ、ありがとう」
フォローになってないかもしれないフォローだったが、少女は口元を緩めて微笑んだ。
「…………」
話してみると割と話しやすいかもしれない。そう思いつつも、そう言えば初対面だったと気づくと日向は気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「…あー。まあ、とにかく。そろそろ暗くなるんだから、気をつけて帰れよ」
初対面の女子に何を口走ってるんだか。これ以上話していられなくなって日向は荷物をまとめると階段を駆けおりた。
「待って」
まさか呼び止められるとは思わなかったが、日向は慌てて足を止めた。
「私、きっと不満や不安が顔に出ていたと思うの」
振り返ると、真っ直ぐにこちらを見つめる少女と目が合った。
「今は辛いけど、多分…準備期間なのね」
「………」
彼女に何があったのだろう――?
今の自分には何もわからない。本来なら彼女だって偶然接触した見知らぬ男子生徒に、自らの素性に関わる苦悩をほんの少しであっても吐露することはなかっただろう、と。
それだけはわかる。だから、このまま一度きりの偶然として終わらせるには忍びないと感じてしまった。ちょっとした会話を楽しんでる自分がいたのには内心驚いた。
今日は割とついていない日かと思ったが、こんな日があってもいいかもしれない。
「……日向だ。名字は厘だが、呼びにくいだろうから、下の名前で構わない。どいつもこいつも呼んでるからな。あまり相談に乗れるかはわからないが、同じ学校なんだしまた会えたら、話せるといいな」
普段だったら、こんな風に出会ったばかりの相手に名前を名乗ることはないのだが、たまの気まぐれもいいかと判断していた。
「琳子よ。由良川琳子」
ニッコリと笑いかけ
「気が向いたら探してみて」
「…リンコ、あ、いや由良川で呼んだ方がいいのか…?」
日本だと親しい間柄でないと下の名前で呼ぶのはあまり好まれないらしいと思い出し、日向は躊躇った。
「あら、この学校ではファーストネームで呼び合うって聞いたわ?」
それからふふ、と笑い
「日本ではちょっと意味深にとられがちだけど、日向は気にしないわよね?」
リンコはわざと挑発気味にそう加えた。
「……っ」
さらりと下の名前で呼ばれ、普段から呼ばれ慣れているはずなのに日向は一瞬戸惑った。
「あ、いや。そうだな、よろしくな、琳子」
「えぇ」
にこやかに微笑みリンコは颯爽と階段を上がっていった。頭上で結ばれたポニーテールがユラユラと夕陽を浴びて綺麗に輝いていた。
「………」
やっぱり目を引くなと改めて思いつつ、見送ると日向もまた学校の玄関へと駆けていった。
校内の見学を終え私は教室へ荷物を取りに戻った。教室には誰もいないと思っていたけれど、意外なことにサトルが私を待っていた。
「鞄があるから、まだ残っていると思ったんだ」
「部活は? もう終わったの?」
終礼が終わると部活での集まりがあるからと言って、一番に教室を出たはずの彼女を眺め尋ねる。すると肩を竦めサトルは苦笑した。
「園芸部はこの時期割と暇なんだ。すぐに終わったから、昼にできなかった校内の案内とでもって思ったけど。…もう一人で回ったんだろ?」
幼い頃まで母方の国で育った彼女は日本語を従兄に習ったらしい。その為か元々のさっぱりした性格と口調の加減もあって、とても男らしく見えてしまう時がある。何より可愛らしい外見にそぐわない彼女の一人称が「ぼく」なのだから仕方ない気もするけれど。
「そうなの。ちょうど今、だいたい見てきてこれから帰ろうと思っていたのよ。ねぇ、せっかくだから一緒に帰らない?」
「いいよ。駅まで送る」
二人で校舎を後にして色々な話をしながら歩いた。サトルも電車で二十分程の所に住んでいるらしく、偶然にも私と路線が一緒だった。空いている席に肩を並べて座る間、私は不思議と周囲から向けられるいつもの視線が気にならずサトルとの会話に夢中になっていた。
「こっちに越してきたのは日本でいう小学校を卒業したくらいに。日本語もまだまだわからなかったし、父が留学生の多いあの学校を探してきたんだ」
「そう。私は小学校を卒業してからイギリスの寄宿舎へ転校したの。私も向こうでは会話に苦労したわ」
「今日の授業を聞いている限り、琳子の英語の発音はなかなか綺麗だったよ」
「嬉しいわね。ふふ、サトルって割と自然に相手を褒めてくれるのね」
「な、別に下心なんてないから…!」
慌てる彼女を見てふと、階段で出会った男子生徒のことが頭に過った。
純朴そうな人柄が短い会話の中に溢れていて、少しどこか翠に似ている気がした。あの広い学校の中で、いつ私を見つけてくれるのかと思うと何となくワクワクしてきて楽しくなった。
「ねぇ、うちの学校に金髪の目立つ生徒っているのかしら?」
「……何人かはいるけど…」
妙に歯切れの悪い答えに腑に落ちないものを感じたけれど、視線を落とすサトルの様子からあまり触れて欲しくない話題のようだったのでそのまま流すことにした。
「私も何か部活に入ろうかしら」
「今から入ってももうすぐ高等部に上がるけどね。何か興味ある部はある?」
「ん~…実は今まで部活って入ったことがなくて。家庭部に入ってお菓子を作ってみるのも面白そうだし、何かのマネージャーも楽しそう」
「女子に人気なのはサッカー部のマネージャーみたい。あまりお勧めはしないけど」
「あら、どうして?」
部活に対するイメージがあまりないので疑問符をつけて尋ねた。するとサトルは表情を硬くして呟いた。
「リアル大奥らしいから」
簡潔かつわかりやすい説明に思わず息を飲んだ。
「…容易に想像できたわ」
「…だろ」
そしてどちらともなく顔を見合わせ吹き出した。
その日の夜、私が作ったシチューは珍しく上手にできて翠も「うまくなったな」と褒めてくれた。お風呂に入り制服に軽くアイロンをかける。皺はすぐに伸びて、まるでサトルの制服のような張りができた。寝る前にかかってきた芹沢さんとの電話での会話では、登校初日の緊張や友人たちとの交流について伝え無事にこちらの学校に馴染んでくれたと喜んでくれた。
―――私が笑えば、周りはもうこの子は大丈夫。むかしのことなんか引きずっていないわと思ってくれる。辛い事件で家族を亡くしたけれど、立派に育っているのね。と誰ともなしに太鼓判を押していく。
そうして問題点を逸らして、周囲の視線から逃れていく自分の未熟さを自覚しながらも。私には、まだ辛かった日々を振り返るだけの余裕なんてないのだと思い知らされる。誰かに理解して欲しいつもりも、共感してとも言いたくない。私の想いも、記憶も、何もかも。誰かの言葉によって意味を変えられ、慰められて教訓のように聞かされて。話のすべてを全く違うように再構成して苦労話の一つにまとめたくない。
日本にきてから新しく新調したノートパソコンの前に座りながら、私は書きかけだった文章を開いた。
あの学園で見たものも聞いたものも、すべて。お伽話だったのかもしれない。彼が書き記した童話の一篇に自分を投影していた稚拙な物語。それでも私は、不幸な自分の身の上を嘆くだけで発展のない終わり方をしたくない。その為にできること。辛い今を乗り越える、幸せになる為の準備期間に最善を尽くしていたい。
『逆手に取ってみるのもいいんじゃないか?』
ふと、階段で擦れ違った彼の言葉を思い出して笑みを漏らした。
―――そうね。それは、とても魅力的な答え。
微笑みながら私はパソコンのキーボードを叩いた。
放課後、誰もいない階段で少し不思議な出会いをした。帰り際、階段を降りていく途中で同じように一人の女子生徒が階段を上がってきた。本来であれば、ただすれ違うはずだった見知らぬ女子学生とちょっとした事故で知り合うことになったのだ。
学生が集う学校の階段や廊下で男子学生と女子学生がすれ違うのなんて日常風景だ。大抵は各々の友人やクラスや部活仲間と話しながらすれ違いだけで、特に気にも止めることはない。
何らかの用事や事情でそれぞれ一人であったとしても、やはり気にも止めるどころか顔すら覚えてないのが当然だろう。だが、昨日起きた出来事はやけに鮮明に記憶に残っていた。
時間にして数分程度。交わした会話は数えるほど。絡まった髪を解くのに夢中で、目を合わせたのも数回くらい。制服のボタンと女子生徒の髪が絡まるなんてちょっとしたアクシデントがなければ、お互い話すどころか顔すら覚えなかっただろう。
階段でのアクシデントというと入学早々、階段の前を歩いていた先輩らしき男子学生が誤って小銭をぶちまけたことがあった。その場には自分しかいなかったし、小銭を拾うのを手伝って軽口を叩いたのだが、お互い名前なんて名乗らなかったし、今では顔すら覚えていない。
そう思うとあの短時間でよく自分の名前を名乗る気になったものだと自分でも不思議に思う。
――それだけ印象的だったということか。
小麦色の柔らかな髪が夕日を浴びて黄金色に輝いていた。
「琳子よ。由良川琳子」
ニッコリと笑いかけ
「気が向いたら探してみて」
今思うと夢か幻のような出来事だったが、ここで終わりにはしたくないと思った。
翌日、日向はふとクラスを見回してみた。特に転校生などはなく、隣のクラスと体育が合同だが、男女分かれているので女子の方は隣のクラスですらさっぱりだ。
委員会などしていれば他クラス、他学年との交流があるのだが、日向は委員会どころか、部活にすら入っていなかった。
これまでのクラス替えで同じクラスになったことはなかったから、転校生かとも思ったが一学年十もクラスがあるのでは単にクラスが同じになったことがないだけとも言えた。
「――なあ、ユラガワリンコって知らないか?」
「ぶっ」
「?!」
翌日の朝の授業も終わった休み時間、日向は友人に聞いてみた。
ちょうど昼食は終えたところ。お茶を飲んでいた須藤が吹き出し咳き込んだ。
「あ、おい。大丈夫か?」
須藤の隣の関は腹を痛めたのか腹を抱えている。
「くくく…まさかあの日向が」
落ち着くように須藤の背中をさすっていると、関は単に笑いを堪えているだけのようだった。
「…もういい。お前らに聞いたのが間違いだった」
「あーごめんって、ひなちゃん」
「その呼び方やめろ」
関は軽口が多く悪い奴ではないのだが、たまに冗談混じりで「ひなちゃん」と呼んでくるのだけは受け付けない。
「…で、ユラガワリンコというのは? うちの学校の生徒か?」
「ああ」
クラスメイトで友人でもある須藤かなたは割と顔は広い方。といっても、部活関連での知り合いが多いのだが、関と違って話が通じる。
「クラスは?」
「…聞いてない」
そう言えば学年すら聞いていなかった。日向は中等部三年生。中等部の制服を着ていたから、同学年か年下のどちらかだとは思うのだが、あまりにも範囲が広すぎる。
「…日向ー。お兄さんに聞いてみるのはー? アリ? ナシ?」
「は? ぼくに兄はいないんだが」
さも名案とばかりに提案した関は顔の前で手を振った。
「違う違う。血い繋がってるとかじゃなくて、金髪のめっちゃ派手なお兄さん。女子の友だちいないオレらと違って、うちの学年に彼女もいるみたいだし、案外知ってたりするんじゃない?」
「…一応、俺の方でも陸上部で転校生とかいなかったか聞いてみる。外見とあと漢字でどう書くのか教えてくれ」
「二人とも悪いな。外見とあと漢字は―――」
「ええっ。ちょっ…オレも調べんのかよ」
ここにきて漢字すらどう書くのか聞いていなかったことに気がついて日向は頭を抱えた。
あれから数日、特に手がかりはなく移動教室のたびに周囲に注意を向ける癖がつくようになっていた。
「厘クン、今日もよろしくネ」
「陳さん、本日もよろしくお願いします」
お互い深々とお辞儀して、日向は仕事にかかった。中華料理店の店主陳さんの厚意で、留学生である日向は中華料理店で皿洗いのバイトをさせてもらっていた。
バイト自体は内緒のものなので、接客係を避けた結果の皿洗いだ。調理場と洗い場は分かれていて、陳さんの娘さんが次々と運んでくる食器を無心で洗い続ける。時折、なくなりかけた食器を優先したり、調理場から顔を出す陳さんの指示にそって順番を入れ替えたりもする。ありがたいのは注文に空きが出たところで出される美味しいまかない料理で夕飯が浮くことだ。
日向のひそかな楽しみである。
「……あ、厘クン。休憩ドウゾ」
ある程度ピークが過ぎて落ち着いてきたところで賄いが出てきた。表に出ないからか、陳さんの日本語は癖がある。娘さんはペラペラなのだが。
「あとネ、ディラ…クンきてルヨ」
「え」
驚いて暖簾の向こうの店内を覗くと金髪の少年と目があった。染めているという訳でなく、天然だ。紫の瞳と相まって、関の評価通り目立つ金髪のお兄さんだ。
年上という感覚は皆無だが。
「何か用事あるみたいダヨ。待ってルヨ、頼む?」
「……お願いします」
目立つ金髪のお兄さん、もとい同じ留学生のディランに強く出られない事情がある日向に選択肢はなかった。
「美味しかった~っ。やっぱり、ここの中華料理最高だよね。陳さんにいつも通り美味しかったって伝えておいてね」
照れ屋の陳さんは客の前に滅多に顔を出さない。接客は既に子持ちの娘さんが担当しているし、ほぼ顔を出す必要がない。そうは言っても誉められると嬉しいみたいでよくおまけをつけたりしていた。
「お前、それおまけ目当てじゃないよな?」
「そんなことないって。あ、でも前おまけで出てきた小籠包最高だった~」
あれからバイトを終えて、結局日向はディランと一緒に夜道を歩いていた。
ディランは日向より年上の同じ学園の高等部の先輩にあたる。ただし、こうして学校で先輩後輩の間柄になるよりはるかに前からの付き合いだ。そんな訳で日向はついついため口になるのだが、当の本人が全く気にしていないようなので問題ないだろう。
そもそも年上の印象も皆無だ。
「……それで? 今日は何しにきたんだ?」
「んー、陳さんの美味しい料理を食べに?」
「なら麗さんに言伝てを頼む必要はないよな」
麗とは陳さんの娘さんの名前だ。
あまり話す機会はないし、日向の性格上、会話が長続きしないのだが名前だけは陳さんから聞いていた。
「そうだ! 日向くんの忘れ物を届けにとか」
「何も忘れてないし、何ももらってないんだが?」
さも今思いついた台詞に日向は息を吐いた。これまでの言動のどこをとっても年上の威厳は皆無。なんなら同い年か自分より年下かと思ってしまうほどである。
「あー、彼女サンの話とか?」
「そう!」
嬉しそうにディランは彼女の名前を呼ぶが、日向としてはどうでもいいことなので聞き流した。
「ふふ、学年が違うからね。連絡は欠かさないんだ」
「…お前、それで連絡し過ぎで怒られてだろ」
学校が斡旋するマンションの一室で送られてきたメール内容に、意気消沈していた姿は記憶に新しい。どころか日常茶飯事だ。
それでもめげずに連絡を続けるディランがすごいのか、怒りの内容を送りつつも連絡を続ける彼女サンが偉大なのか。
「…そうだけど。だって心配なんだよ。クラスの男子に迫られてないかとか。日向くん、知らない?」
「ぼくが知るか」
学年が同じとはいえ、別のクラスだ。隣のクラスでもないのに、彼氏の代わりに彼女サンの護衛でもしろというのか。結局、わざわざ中華料理店にきてバイト帰りまで待っていたのは単なるノロケと愚痴の為かと日向は頭を抱えた。
「――なんてね。女友だちもいない日向くんにそこまで期待してないから、大丈夫だよ」
ふわりと浮かべる笑みはその外見も相まって絵画に出てくるような天使のような微笑み。
女友だちなんて大勢いることだろう。
『日向ー。お兄さんに聞いてみるのはー?』
ふと昼間話した関の言葉が脳裏を過った。
『金髪のめっちゃ派手なお兄さん。女子の友だちいないオレらと違って、うちの学年に彼女もいるみたいだし、案外知ってたりするんじゃない?』
確かにディランなら、ユラガワリンコを知っているのかも知れない。そうなのだが。
「…どうしたの? 日向くん。いきなり黙りこんじゃって」
「………いや、別に」
なぜか聞くのを躊躇っていた。とりあえず、しばらく自分の力で探してみようと日向はひそかに決意した。
「あー! そう言えばちゃんと用事あってきたんだった」
「用事?」
「そ。日向くん、実家から荷物届いてたよ? 同居人のお兄さんにもどうぞだって」
「なっ?! 送り返せ!」
肝心の用事を今になって思い出され、日向は焦った。
「えー。あ、そうそう。いらないなら同居人のお兄さんにどうぞだって。ぼくがもらってもいいんだよね?」
わざわざそれを聞く為に待っていたということか。
「あー勝手にもらっていけ」
訳あって居候させてもらっている身分では家主に強く出られないのが辛いところだ。
どの道同じ部屋に帰るので部屋で待てば済む話だが、ディランの場合、単に中華料理が食べたかっただけだろう。
「日向くん、家族と和解すればいいのに。そしたら向こうでいくらでも学校やらあるでしょ」
「余計なお世話だ。…まあ、その置いてもらってるのは助かってるし、今度何か奢る…」
「いいよ、そんなの。金欠の日向くんにそんなことさせられないよ」
笑顔に似合う天使のような発言に日向はちょっと感動した。
「…あ、今度また彼女くるから部屋出てってね?」
最後のセリフで台無しになったが。
実を言うと私は、あれから何度か校内で彼の姿を目にしていた。中高と一貫で生徒数もかなり多いこの学校で、きっと擦れ違うのも難しいだろうと何となしに思っていたけれど。
「次の理科では実験があるんだ」
嬉しそうに理科室へ移動するサトルの様子に微笑み頷きながら、私は既に廊下の向こうに彼の姿を見つけていた。
「サトルは理系なのね。いつもこの授業を楽しみにしているわね」
「明確な答えが出る問題が好きなんだ。どっちつかずより、ずっと効率的で思い切りがいい」
このまま真っ直ぐいけばきっと彼も私に気づくだろう。探してみて、と言った手前偶然の再会で済んでは何となく面白くない気がした。
「こっちの廊下を通って行きましょうよ。グランドに積もった雪が見れるわ」
「いいね。今年初めての雪だったし」
昨晩から降り続いた雪はグランドだけではなく、道路も草も木もすべてを銀色に塗り替え飲み込んでいた。昼間から少しずつ陽が差し始め、きっとキラキラと光を反射していることだろう。美しい外の光景を眺めることにサトルは喜んで賛成してくれた。
そうして私はサトルとわざと遠回りをして理科室へ向かう。いつもこうやって偶然の再会を避けていることに、きっと彼は気づいていないだろう。
独りで勝手に悪巧みをしている気分になって楽しかった。それは少しだけ幼い頃に夢中でしたごっこ遊びに似ているのかもしれない。さしずめ今の私は「女スパイ」役だろう。
「そうだ。琳子、今日の放課後よかったら部活の見学に付き合うよ」
「嬉しいけど…彼氏は大丈夫?」
ここ数日で一気に仲良くなったサトルには実は年上の彼氏がいるらしい。同じ学校だそうだけれど、まだ一度も会ったことはない。クラスメートが言うにとても嫉妬深いので男子は絶対に彼氏のいる前でサトルに話しかけないのだとか。
「今日は琳子と一緒にいる。友だちといる時間まで邪魔なんかしないよ」
自信満々に断言しているけれど、それは女友だち限定らしい。それでも二人の仲睦まじさが伝わってきてつい頬が緩む。
「ありがとう。じゃぁ、お願いしようかしら」
可愛らしい恋人たちに想いを馳せた瞬間、ほんの少しだけ。そう、本当にきっと少しだけのこと。私の胸は古傷を抉るように鈍い痛みを発した。
あれから、日向は移動教室やら体育などがある時周囲に視線を向けるようになった。
入学したての一年生のように周囲をキョロキョロ確認する様子は多少気をつけてやっていても奇妙に映るらしい。
「こら」
「痛っ」
別に痛くはないのだが、突然脳天に軽い衝撃が走って日向は頭を抱えた。
「次、視聴覚室だよ~、ひなちゃん」
丸めた教科書でチョップしたのは大して表情を変えていない須藤で、ここぞとばかりに関が軽口を叩いた。
「…お前らな…」
とはいえ移動教室でぼんやりしているのを指摘してくれたのだ。
「いや、悪い。助かった」
「あ、もしや『ひなちゃん』公認?!」
「呼ぶな。…とにかく行くぞ」
調子に乗る関を睨むと日向は理科室へと向かった。
我ながら馬鹿みたいだと内心毒づきつつも、先ほど見つけたちらりと向こう側の校舎を移動するリンコへと視線を向けた。
このところ、遠くで見かけるまでなら注意力が上がったとは思う。だが、そこまでなのだ。向こうがこちらに気づくと、こちらが想定する遭遇範囲から離れられているみたいなのだ。
最初こそ気づかなかったものの、どうやら意図的に。
『琳子よ。由良川琳子。気が向いたら探してみて』
――結局、何がしたいんだよ
内心毒づくものの、日向の視線はついついあるたった一人を探して周囲へと向けられていた。
由良川琳子が転校してきて既に一週間が過ぎようとしていた。元々交換留学制度があり生徒の入れ替えが度々行われる。その為新たな面子を迎えるに当たり、クラス内で特に荒波が立つ予感などなかったとサトルは思っていた。
「初めまして。由良川琳子です」
そう、彼女が初めて教壇に立ち挨拶をした瞬間。周囲に音のないどよめきのような衝撃が走ったのを忘れない。恐らく男子生徒たちはこの美しく魅力的な転校生に一瞬にして心を奪われ、対する女子生徒たちはそんな男連中の心情をすぐさま感じ取り様々な感情を抱いたのだろう。
…綺麗だけど、何となく型にはまった感じがする人だな。
そのどちらにも属さないサトルが持った第一印象はそれだった。
完璧な外見にすらりと伸びた手足。長い色素の薄い髪をきちんと三つ編みにした琳子は、まるでその形のまま生まれてきたかのように隙がなくて。崩れないようにコーティングされた等身大の人形のようにも見えた。
しかし実際に彼女の言動を観察していると、外見の第一印象から大きくはずれていた。気さくで男女問わず分け隔てなく接することを特に心掛けているようだった。恐らく長年の経験から培ったものなのだろうが、特に同性の生徒と話をする時。彼女は言葉の隅々まで意識の枝を張り、不毛な争いを悉く避けるべく注意を怠っていないように感じた。きっと自分が異性の関心を無意識に買ってしまう分、同性の妬みが集中してしまうと理解しているのだろう。
その成果があってか、最初の数日は琳子のことを遠巻きに眺めていたクラスの女子たちも次第に彼女に近づきその波はゆっくりと広がっていった。今ではすっかり女子たちのお気に入りだ。
そんな琳子は不思議なことにもサトルのことを気に入って近づいてくる。最初は席が近いからという理由だけだと思っていたが、どうやら彼女自身がサトルに興味を持って接しているようだと悟った。
「こっちの廊下を通って行きましょうよ。グランドに積もった雪が見れるわ」
正直サトルとしても悪い気はしなかったし、何よりも琳子には知りたいと思う点が多かった。知ってみたい。何故自ら作る型にはまろうとするのか。時々誰もいるはずのない空間をぼんやりと眺めている理由とか。無意識に呟いている聞いたこともない言語についてとか。もっとたくさんのことを。
ぼくはもっと、琳子について知ってみたい。
「いいね。今年初めての雪だったし」
硬い硬い殻をカチ割った時、彼女の中には一体何が入っているんだろう。それを想像して、 サトルは密かにほくそ笑んだ。
「Allez!」
試合開始の合図とともに、両者はそれぞれ間合いを取りにかかった。幅1.5メートル、長さ16メートルの練習用ピストから外れることなく相手のポイントを取りにいくのは見ている以上に至難の業だ。練習試合とはいえ上級生の試合を見るのも勉強のうちなのだが、体育館の半面に用意されたピストは二つ分のみ、上級生の試合終了を待つ間はひたすら筋トレ三昧という訳だ。
「…やっぱり三年の試合は長いよなあ…」
ディランと同様、腕立てにスクワットに背筋運動をこなしていた友人がつまらなさそうにぼやいた。
時期がちょうどセンター試験の時期だというのに推薦組は既に大学受験終了ということで久々の部活でエンジョイ中である。
三年生は夏から引退ではなかったのか―――。
そんな訳でフェンシング用の剣は数に限りがあるし、こちらもなかなか部員全員に行き渡るという訳ではない。そんな訳で剣もない状態ではスタミナ切れとならないように、体幹を鍛えたりの筋トレがメインメニューとなってしまう。
「大体、力が拮抗してるからね」
1セット終わり、次のメニューへとシフトしながらも、ディランは試合の様子へと意識を集中させた。
ざわざわとざわめく体育館での物音がスッと静かに凪いでいく。右と左の両者それぞれの動きに意識を集中させ、ステップと体勢、剣先の狙う先を読む。
実際に試合をしているのは自分ではないが、対戦者の動きから脳内での自らの動きを想定していく。一手ニ手三手と足の動きと手の動き重心の移動の仕方、視線の先、相手の動きの傾向からどれが適切な行動か脳内で検証していく。
「……ありゃ、珍しいねぇ。見学がきたみたいだね」
フェンシング部自体が珍しいので、見学者もだいぶ限られてくる。入部希望者は大半が経験者だし、未経験者はなかなか入部にまでは至らない。
「……隣のバレー部の見学でしょ」
コートの反対側を陣取って活躍中のバレー部に視線をやり、ディランは筋トレを続けながら先ほどまでの試合のイメージトレーニングに集中した。
「…どうかな? あ、女子だ」
嬉しそうにテンションを上げる声にディランは息を吐いた。少し前までのディランであれば大なり小なり興味を持ったに違いないが、今は特定の一人以外興味がない。
「お…外人…? あ、いや日本人かな? すごい美少女がこっち見てる」
何が面白いのか、ツンツンと小突かれて集中が途切れる。金髪の外国人そのもののディランにまるで日本人のノリで珍しい外国人を見つけたという反応もどうかと思うのだが。
「金髪? あ、いや茶髪なのかな? くそ、あれ何色かわかんねー」
「静かにしてくれる?」
完全に手が止まっている件は当人の問題としてさておき、真面目に筋トレしているこちらにまで話しかけてくるとは。
「ほら、ディランも見てみろって」
「――あのね、こっちは真面目にやってるんだから、邪魔し」
思わず友人を振り返った時、視界の端に体育館の出入り口が入った。ちょうど見学にきたらしい女子生徒が二人。
どうやら後から顔を出したらしい一人の女子生徒の姿に抗議の声も止まった。
「…………」
「あれ、どした? もしかして知り合いだった?」
「…まあ、ね。ね、ユキヒロくん」
「はい?!」
ふわりと天使のような笑みを浮かべて、友人の名前を呼ぶと彼はびくりと反応して声が裏返った。どうもディランの人との距離感は生粋の日本人相手には異様に映ってしまうらしい。
「まだ練習試合の順番にはならなさそうだし、ちょっと時間繋いどいてくれるかな?」
「は?」
「じゃ、お願いね」
得意の笑顔で有無を言わさず強引に収拾をつけると、ディランは体育館入り口へと向かった。
「サトルくん!」
体育館入り口に立つ二人の女子生徒のうちの一人を見て思わず笑みを浮かべた。
「見にきてくれたの?」
「あ、ディラン」
名前を呼びながら駆けつけてきた金髪の男子生徒に気づくと、サトルは僅かに頬を染め私を気遣うように一瞥した。すぐに二人の関係を察したけれど、恋人をくんづけで呼ぶなんてサトルにぴったり過ぎて少し笑ってしまった。
「琳子、紹介するよ。ディランだ」
「初めまして、琳子です」
「ディラン、前から話していた琳子だよ」
「初めまして。ぼくはディラン・カーナベル。ディランって呼んでね。きみのことは琳子ちゃんて呼んでいいかな? サトルくんの友だちが増えて嬉しいよ」
華奢な身体つきに似合った中性的な顔立ちをした彼は、まるで絵画から抜け出してきたかのようにふわりと天使のような笑みを浮かべ私に挨拶をしてくれた。
ふんわりとカールした癖のある金髪にアメジストの瞳。華やかな外見はそこにいるだけで人目を惹いた。同時に階段で出会った彼が話してくれた目立つ金髪の男子学生というのは、このサトルの恋人のことではないかという確信に似た疑問が湧いた。
「えぇ、ディラン。こちらこそよろしく。サトルもこんなに素敵な恋人がいるなら早く紹介してくれたらよかったのに」
「…目立つから、すぐにバレると思ったんだ」
「あ、もう恋人だって紹介してくれてたんだ。サトルくん照れちゃうのかなと控えてたんだけど」
サトルの返答にディランは心底嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。
「改めまして、サトルくんの恋人のディランだよ。学年は違うけど仲良くしてね。…琳子ちゃんは転校生だっけ? どう? 学校は慣れそう?」
「えぇ、とても自由な校風が素敵よね。それと部活動も盛んみたいだし」
「ふふ、それはよかった。今日は部活の見学?」
「そうなの。進級してから入部しようかと思って」
それからふとディランの笑顔を眺め話題を変えた。
「…もしかして、お友だちに尻尾髪の真面目な、私たちと同学年の子がいないかしら?」
「尻尾髪?」
一瞬きょとんと目を丸くした後、脳裏を巡らした。
「ああ。もしかして、黒髪の、日向くん? なあに? 知り合いなの?」
「え、日向と? いつ知り合ったんだよ、あの石頭と」
「石頭って…」
笑いながら首を振った。いつも意外な所で交友関係は繋がっているものだ。それでもなかなか私に辿り着けていないのは、もうどうでもよくなっているのか。それともまだ、サトルと私の関係に気づけていないのかどちらかだろう。
「たまたま少し会話した程度で知り合いって程ではないの」
「そうなんだ。日向くんが女の子と話すなんて意外だよ」
クスクスと楽しそうに笑った。
「ふふ、あれはあれで可愛いとこもあるから、面白いかもね」
「可愛いところなんてあるの? 大抵不機嫌そうにしているけど」
「まあね。からかうと楽しいよ」
今までちょっとした退屈しのぎの楽しみ程度にとっておいた彼の話題を、こんな風に周囲から聞かされるとは思わず私は興味をそそられ尋ねた。
「彼とは親しいの?」
「学校で会う前からの仲だからね。おかげでぼくのが年上なのに先輩って呼んでくれないんだよね。先輩呼びってちょっと憧れてたのになあ」
「そうなの…」
律儀そうな第一印象とは違って意外な気がしたけれど、それだけ二人の関係が親密ということなのだろう。話を聞けば聞く程、無意識にも抱く人に対する先入観と言うものがどれだけ一方的なのかよくわかる。
「ぼくが呼んであげようか? ディラン先輩」
ディランの呟きを聞き、にっこりとサトルが笑いかけた。
「!」
するとディランは目を輝かせ感極まってサトルを抱きしめた。咄嗟の出来事だったので私は思わず一歩身を退いてしまいつい苦笑した。
「ああ、もう。サトルくん、大好き」
「こ、こら! ディラン!!」
こちらの想像通りこうしたコミュニケーションに、免疫のないであろうサトルは真っ赤になって激しく暴れた。
「人前ではしない約束だろっ!」
「…ああ、ごめん。ついね」
苦笑しつつも、そっとサトルを離した。
「『ディラン先輩』は不意討ちで…ちょっと感動しちゃって。気をつけるよ」
「ふふ」
暴れて髪がぐちゃぐちゃになったサトルの頭を直してやりながら思わず吹き出した。外見から中身に至るまで正反対の印象を持つこの二人が恋人同士だなんて。どういった経緯で付き合いに至ったのか色々と知りたいことが増えてしまった。
「本当に仲がいいのね」
「もちろん。何より大切だからね」
ふわりと天使のような笑みを浮かべた。
「ね? サトルくん、明日は一緒に帰れるかな?」
「いいよ。じゃあ、授業が終わったら連絡するよ」
「やった。じゃ、約束ね」
そうして再び体育館の中へ戻っていく恋人を見送り、私たちはその場所を去った。
「そう言えば、どうしてぼくらが付き合っているってわかったの?」
校舎の合間を歩き大方の部活動を見学した私たちは、どちらともなく教室へ向かい荷物を取りに行くことにした。
「だって…嫉妬深いと有名な恋人がいるサトルを、まさか『くん』づけで呼ぶような勇士がこの学校にいるかしら?」
図星を指されたらしくサトルは頬を染めそっぽを向いた。きっと照れているのだろう。
「素敵な彼氏ね。何よりも大切だなんて…言われてみたいわ」
夕焼けが残り雪を美しいオレンジ色に染め上げる道を歩きながら私は独り言のように呟いた。
あの学園で私は、きっと初めて恋をしたのだと思っている。けれど異常とも言える独自の文化や法則に覆われたあそこで素直に自分の心を信じるには、あまりに危険が多すぎた。
消えていく同級生たち。いつの間にか行き先も告げず友人が転校してしまっても何一つ疑問を持つこともなくなっていく感覚が痺れていく恐怖。だから私は最後まで、本当に彼に恋をしているのか自信が持てなかった。確信できるものがなくて、たった一人の血の繋がらない肉親さえも信じることができなくて。私を慕ってくれた友人たちでさえ手駒として扱ってしまった。
もう一度彼に会えたなら。そんな風に考えても結局、現実はどうにもならない。
「なぁ」
ストレッチをしていた同じ部員がディランに話しかけてきた。
「さっきの女子、誰?」
「ん? さっきのって?」
女子は二人いたのだがどちらを対象に聞いてきたか不明な為、ディランは相変わらずの笑みを浮かべてみせた。
「お前と話してた奴いただろ。中等部の」
「ん、なあに。向井くん、気になるの?」
「……名前、何て言うの?」
「名前?」
まさかの発言にディランはついきょとんと目を丸くした。さほど仲のいい友人という訳ではないので彼の女性の好みまで知らないのだが、興味があるということだろうか。
「さっきの二人の?」
「二人? あー、まぁ二人共」
「……二人共って片方はぼくの彼女なんだけど?」
「あーそこまでそこまで。ストーップ! 俺もすっげー気になるから」
笑顔を浮かべたはずだが明らかに不信が伺えたのか、部員で友人でもあるユキヒロが割って入った。
「え? どっち? 髪長い方とか?」
驚いたように向井は尋ねてきた。
「いや、髪長い方って…ゆら…何とかって言う名前じゃなかった? いや、短い方かな」
「…彼女って確か髪短い方だったよな。サトルっていう…」
ユキヒロが上機嫌で会話に加わり、ディランは息をついた。ユキヒロはこの手の話題が大好物なのだ。
「…で? 髪の長い、ちょい外人っぽい子誰? 今日初めてきたよな?」
「名前、何て言うの?」
よっぽど本人に聞けば? という台詞が喉元まで上がってきたものの、それはそれで当人に迷惑がかかるとも思うとディランは言葉を飲み込んだ。
せっかくサトルにできた友人なのだ。
「由良川さん。ぼくの恋人の友人でもあるから、余計なちょっかいはかけないように」
「…由良川…そっか…」
独り言のように呟き向井は気まずそうにディランから視線を逸らした。
「…もしかして、知ってる人だった?」
「まぁ、地元ではある意味有名って言うかな…」
向井は歯切れ悪く答えた。
「兄貴の方と同じ塾だったんだよ。そっか…遠目からしか見たことなかったけど、あの子が妹か」
「へぇ、お兄さんいるんだ。どんな人?」
「兄貴に興味持つのかよ」
とユキヒロに小突かれたがそこは無視することにした。
「…頭のいい奴で、確か海外留学して…いや、帰ったのかな? まぁ、妹とは全然似てねぇよ。それに頭のいい奴ってキレるとヤバいし」
意味深に笑ったところでコーチから集合がかかった。
「…キレるとヤバいって…」
当人がキレるようなことでもしたということなのか。おそらくタイプ別に推測したものだろうと判断するとディランは息を吐いた。
「ね、向井くん。また話聞かせてよ」
向井は再び意味深に笑うと片手を軽く挙げて応えた。
翌日、部活を終えるとディランは着替えて中等部の校舎へと向かった。中等部の校舎に高校生が入るとどうにも異様に目立つ。加えて金髪に紫の瞳の日本からすれば外国人そのもののディランは嫌でも人の目を引いた。
ディランからすれば日常茶飯事であり、人の目を引くことよりも恋人に会うことが最優先だ。放課後かつ部活終わりの時間ということもあって、教室にいる生徒はまばらだった。
「サトルくん、一緒に帰ろう」
さほど大きな声とは言えなかったがディランが教室のドアから顔を出して声をかけると、少ないながらも教室中の視線が集中した。
「お疲れ様」
琳子と雑談をしていたサトルが、鞄を持ってディランの元に駆け寄った。
「…ありがとう。サトルくんも部活だった?」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべ、サトルの側まで向かった。
「うん。終わってから、琳子が日直で残っていたし少し話してた」
と言いながら日誌をまとめる琳子に手を振った。
「琳子、また明日」
「…琳子ちゃん、またね」
やや躊躇ったものの、ディランは相変わらずの絵画に描かれるような天使のような笑みを浮かべ手を振った。
「部活は疲れた?」
「まあね。でも楽しいよ。今度全国大会があるから、みんな気合い入ってるし」
教室を出て廊下を歩き出したところでサトルから声をかけられた。少し気になることがあったが今は部活の話題にした方がいいだろう。
「そうなんだ。ぼくも予定が合えば応援に行きたいな」
「ホント? ありがとう、サトルくん。今度日程教えるよ」
「うん」
少しディランを見上げ
「…琳子に何か用事でもあった?」
「………ふふ、サトルくんにはかなわないね」
ちょっとした変化だったとも思うが、鋭い彼女についつい笑みがこぼれた。
人通りは少ないが学校を出た方がいいだろう。中等部校舎出入口に向かいつつ、ディランは口を開いた。
「特に用事はなかったんだけど、少し話したいとは思ってたかな。サトルくんの大切な友人だし」
「話し?」
サトルは小首を傾げ尋ねた。
「うん、まあ、ね。ただ、ぼくは琳子ちゃんと昨日知り合ったばかりだし、いきなり話すのは失礼かなと思って」
校舎を出るとディランは苦笑した。
「…何か、誰かに言われたってこと?」
「…言われたっていうか聞いたって感じかな。琳子ちゃんにお兄さんがいることとか…」
「あぁ、確か一つ歳上って聞いたよ」
「あまり似てないらしいね。部活の向井くんから聞いたんだけど、どうもあんまりいい感じの話じゃないみたいだったよ…」
「…大なり小なり、どの家庭にも事情はある。琳子は隠す気はないって言っていたから言うけど、琳子の母親は一度も結婚したことがないって。だから…」
「…そっか。まあ、ぼくも人の事言えないしね。不安にさせるようなこと言ってごめんね。ぼくも詳しく聞いた訳じゃないけど、一応心積もりしとくといいかな」
「うん…。ありがとう、ディラン」
ディランを見上げ微笑んだ。
「…あとね。何かあったら相談して? サトルくん、一人で抱え込んじゃうんじゃないかと心配だから。力になりたいし」
「ディランは心配性だよね。大丈夫。きっと琳子もいずれ話してくれるだろうから」
「ふふ、安心したよ。琳子ちゃんとはいい友人になれそうだね」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「うん。思っていたより話しが合うんだ」
そう言ってサトルは嬉しげに琳子について話した。
「それはよかった。琳子ちゃんとはクラスが同じなんだっけ?」
「そうだよ。高等部でも同じだったら楽しいんだけどな」
ふと思い出した様子でサトルはディランを見上げた。
「そう言えばディランは、進路をもう決めた?」
「そのことなんだけどね。国に一度帰ることになりそう。家の整理をしなきゃいけないし」
サトルには既に話してあったが、ディラン自身の家の都合はかなり特殊と言えた。実の血を引く両親から遠戚の未亡人の養子に出されたものの、養母はディランが十四の時に亡くなり、一人になった。レーセ婦人に近しい親戚はなく、ディランは唯一の遺産相続人となったが未成年の為、学業以外に使用できなかった。その為、後見人は国に残して今は一人日本へ留学中といういきさつがあった。向こうでの成人年齢は十八の為、卒業時には膨大な遺産手続きやら、家の整理が山ほどあったりする。
「……帰ってくる?」
サトルの言葉にディランは堪らず、サトルの手を握った。元々屋敷を出る為だけにとにかく遠くへと選んだのが日本への留学だった。
まさかその日本で大切な人が出来るとは思っていなかった。
「勿論だよ。サトルくんと共に生きる未来を模索したいし」
「……っ」
思わずサトルは赤面しそっぽを向いた。
「そ、それって…結婚の申し込みみたい…」
「…将来的にはね。そうだったらいいなっていうぼくの希望。まだ学生だし、きちんと申し込むのはもう少し先になりそうだけど、そうなるように努力するつもり」
「………っ!」
耳まで赤く染めサトルは俯いた。
「ふふ、可愛い。で? サトルくんの家にはいつ行かせてもらえるの?」
期待を込めた眼差しでサトルを見つめた。
「えっ、あ。いや…散らかっているし、そのうち…」
「そう? この前もダメだったんだけどなあ…?」
またダメなのかと思いつつディランは苦笑した。
「…家族が多いから、なかなか片付かなくて」
「サトルくん、すごく掃除得意だった記憶があるんだけど? 多少散らかってても気にしないよ?」
「……そのうちに」
「…そのうちに、ね?わかった。期待してるよ」
サトル本人が話すように家族と共に暮らしているのではなく、実は一人暮らしだとつい先日知ったのだが、今のところ追及したり押しかけるような真似はやめておこうと結論づけた。
今の段階ではまだまだディランの個人的願望のみで終わると思っていた未来の夢に、サトルも割と好意的な反応を示していた。――それが何より嬉しい。
「でもね、いずれはご家族に彼氏ですって紹介させてね?」
「……」
サトルは返事の代わりに握られたままだった指に力を込めた。
「……ふふ」
ディランはふわりとやわらかい笑みを浮かべると、自らもまたサトルの手を握る手に力を込めた。
サトルが恋人と帰ってしまうと一気にクラスの温度が下がったような錯覚を覚えた。実際に気がつけば、幾人か残っていたクラスメートたちも姿を消し教室には私だけになっていた。
特別熱中して記録する程の出来事があった訳でもないけれど、日誌に一日のまとめを書くうちに周囲の様子に気を配るのを忘れてしまっていた。ペンを置いて軽く背伸びをする。
いい加減帰って買い物を済ませないと、翠の帰宅に間に合わなくなってしまう。そんな主婦みたいなことを考えながら私は荷物をまとめ、日誌を片手に職員室へと向かった。
「失礼しました」
飯島先生が不在だった為、近くにいた教員に日誌を託すと私は真っ直ぐ下駄箱へ下りた。途中の階段で男子生徒と擦れ違い、ほとんど無意識に私は振り返ってその生徒の顔を確かめていた。
相手の生徒も驚いた様子で目を見開くと、すぐに気まずそうに視線を逸らした。似ても似つかないその生徒の顔を仔細に眺めつい苦笑を漏らした。同時に内心申し訳ない気分になってしまった。
「ごめんなさい。人間違いだったの」
軽く会釈を返して余計な追及を避けたいが為に、足早に階段を下りる。
―――私は誰を探しているつもりなんだろう。
学園にも沢山の階段があった。特に人気のないあそこは密談には持ってこいで、意図しない偶然の逢引にも役立っていた。けれど自分が決してここで、彼を探している訳ではないと自覚している。
じゃあ、誰を探しているのって尋ねられたって困ってしまう。私は確かに探しているけれど、でも見つかって欲しいとも思っていない。そして面倒なことに、私が必死に探しているのと同じくらい、私も誰かに見つけてもらいたい。そんな風に思ってしまっているのだから。
「琳子ちゃん」
下駄箱で突然名前を呼ばれ一瞬全思考が止まった気がした。
「バイバーイ」
振り返ると廊下の暗がりに立つ部活終わりらしき男子生徒が手を振っていた。見覚えのない相手だったけれど、名前を知られている以上無碍にする訳にもいかず。でも愛想を込めた対応をするには不安も大きくて、私は軽く頭を下げると早足で校舎を後にした。
その日の夕方、私は翠が帰ってくる音で目を覚ました。リビングに灯りが点されソファに横たわっていた私を見つけると、彼はやや意外そうに眼を見開き
「眠ってたのか?」
と問いかけてきた。
「…ちょっと、疲れちゃって」
テーブルに出したままにしていた処方箋を片づけると、私は寝起きの気怠い身体を起こしキッチンへ向かった。見知らぬ男子生徒に声をかけられなければ、きっとここまで疲弊することもなかっただろう。結局買い物をする気力もなく帰ってきてしまったので、残り物で作ったスープとレトルトのパスタを温めた。
「…うまく、やっているのか?」
こちらに対する気遣いを滲ませた少しぶっきら棒な声かけに、私は振り向きもせずに答えた。
「えぇ。ありがとう、大丈夫よ」
以前の私たちの間柄だったなら、こんな相手を思いやる言葉のやりとりなんて一切なかった。表面上でも私たちは、家族を再び装うことにしているのだ。
「…学年末の進級試験が終わったら頃に、日本に帰ってくるそうだ。その時に食事をしようと言われているから予定を空けておいてくれ」
「わかったわ」
憂鬱な気分に憂鬱な話題。私たちの今後の生活の為にも避けては通れない面談に、一番気を滅入らせているのは翠なのだから。と、私は兄の胸中に想いを馳せ僅かばかりに同情した。
進級試験が近づくにつれ学校では自習時間が増えた。当然移動教室もなくなり、他クラスとの交流の機会も減ってしまう。多くの生徒は教室で自習をしているけれど、中には友人たちを呼んで図書室で集まっている子もいた。
私も何回か声をかけられたけれど、教室内で静かに勉強をするサトルの隣で教科書を開くことを選んだ。第一何かを期待して図書室へ向かったとしても、もうあんな小さな約束を忘れているかもしれない。会ったところで私のことを覚えているとも限らない。それに会いたくない人に出くわす恐れだってある。
問題集をめくりながら私は何度もあの下駄箱で声をかけてきた生徒について考えた。
地元から離れていると言っても、まったくの確率で知人に遭遇しない筈がない。残念なことに私たち家族はある意味とても有名になっているから。だから、どうしても、怖くなってしまう。私たちの情報は知らないうちに垂れ流しにされていて、拡散されて、誹謗中傷をまとった噂だけが独り歩きをしていく。どんどん、どんどん…他人から被せられた偽の情報をまとって大きくなっていく。気がつけば巨大な影となったその噂に私は飲み込まれ―――
「琳子?」
ふいに声をかけられ私はハッと我に返った。勉強をしているつもりがいつの間にかうたたねをしていたらしい。
「大丈夫? 何だかさっきからしんどそうだよ」
それまでずっと机に齧りついて勉強をしていたサトルが、心配げに私の顔を覗き込んだ。深く青い瞳に映る自分の顔を見て肩を落とす。
「確かにひどい顔ね。…保健室で横になってくるわ」
火照った身体を持ち上げ席を立つ。ちょっとした動作だったけれど、寝不足の私には少し辛く軽い眩暈さえ覚えた。この次の授業も確か自習だったので、少しは眠れそうだ。
「先生にはぼくから伝えておくよ」
気遣わし気に眉を寄せるサトルに礼を伝えると、私は保健室へと向かった。
「生理前なのね。試験前だからって無茶したら駄目よ」
養護教員の若い先生はそう言って私にベッドを勧めてくれた。生理前というのは面倒だった私が吐いた小さな嘘だったけれど、顔色の悪さから疑うことなく信じてもらえた。
「ありがとうございます」
白色で統一されたシーツは消毒液の匂いがしみついていて、皺ひとつなく伸ばされている。どこの学校でも保健室の先生と備品がもたらす不思議な安堵感と、不確かな緊張は変わらない。横になるとすぐに目の前の景色が歪んで見えた。こういう時はただ眠るしかない。きっと嫌な夢も見てしまうだろうけれど。
ぐるぐると回転する天井を睨みながら私は、引き離されそうになる意識下で呟いた。
…先生に…薬を変えてもらわなくちゃ…
隣の席の琳子が保健室へ行ってしまうと、何となくサトルの集中力も途切れてしまった。今朝から顔色が悪いとは思っていたがまさか本当に体調不良だったとは、と思いもっと早めに気づいてやれなかったことを僅かながらにも後悔する。
あと数分で自習時間も終了するのでサトルは参考書を片づけ始めた。そしてチャイムと同時に立ち上がると、ふと琳子の机の下にブリキ缶が転がっていることに気づいた。有名なブランド「Qeen.」のロゴが入っているそれを拾い上げ、サトルは迷うことなくその中身を開けた。
「………」
一瞬にしてその中に入れられたものたちの意味を理解したサトルは、そっとそれをポケットに隠すと席を立ち始める同級生に混じって廊下へと出て行った。
休み時間になると廊下には生徒の姿が目立った。しかし試験期間前ということもあり、普段の賑やかさは少し影を潜めている印象だ。生徒たちが行き来する中、サトルはちょうどこちらに向かって廊下を歩いてくる彼に気づいた。
「…おはよう」
目が合った以上、無視する訳にもいかず。サトルは恋人のディランのルームメイトである日向に声をかけた。
「…お、おはよう…」
日向も同じ心境なのかやや面食らったような態度で応えた。お互いの出身国は違うが風紀等については厳しい環境で育ったと聞いている。むしろ彼の国の方がより厳罰だそうだが、男女間で友情なんて以ての外といった所だろう。知り合い以上友人以下といった微妙な関係の日向が、どうして琳子と知り合ったのか疑問もあった。
「…珍しいな」
「…無視していけばよかったのか」
ムッとした態度でサトルが聞き返した。
「いや、意外に会わないものだなと思っただけだ」
誰か別の人のことを思ったのか、日向は苦い表情を浮かべた。
「クラスが違うから、余計にだろ。特にお互い教室も離れているし」
「…ああ、そういやそうか」
「…そう言えば…高等部の希望専攻って」
「…ああ、文系、理系、美術、体育とかいうやつだよな。次の試験結果の影響をもろに受けるんだったな…」
サトルが意図する事が読みきれなかった様子で日向は首を傾げた。
「………あー、もしかしてそれはぼくのを聞いているのか?」
「どうせ理系だろ」
溜息交じりに呟いた。当然サトルも理系を希望していた。理系のクラスでも希望者数によって数は変わるが、進級してからクラスメートになる可能性は捨てきれない。普段からディランとの交際で不本意ながら迷惑をかけている相手なので、多少の気遣いは必要かと思うと面倒臭さを感じてしまった。
「…志望は文系だが」
意外にも日向は頭を抱え答えた。
「……本当に?」
「まあな。最終的に商業分野を学びたいと思ってるし、外国言語は海外事業の展開に必要だろうし、…国語は…すごく接客に重要な位置を占めてくるだろうと考えたんだが…。教師からは致命的にあってないし、理系にしなさいだそうだ…」
まさに的を射た教師の指摘に日向は溜息を吐いた。
「…まぁ、試験結果次第だろうけど…」
「…まだ、決まった訳じゃないからな。結果を出せるよう全力を尽くすつもりだ」
「……一応、健闘を祈ってるよ」
肩を竦め苦笑するとサトルは軽く手を振って日向と別れた。
夢現としている意識の中で、私は誰かが勢いよく保健室のドアを開ける音を聞いた気がした。大股でどこか乱暴さも感じる足取りからきっと男子生徒だと予測する。カーテンの向こうで先生が声をかけた。
「○○くん、どうしたの?」
「体育の授業で怪我しちゃって…」
気怠くて身体が動かない。けれど今ここに私自身に向けられる悪意はどこにもないのだと感じとり再び瞼を閉ざす。短い夢を何度も見る。まるでドラマの合間を縫うCMのように、途切れ途切れにカーテンの向こうで交わされる男子生徒と先生の親し気な会話が聞こえてきた。
「今朝もねぇ、変なニュースあったでしょ」
「そんな報道がない日なんてないっしょー」
もしかしてこうして聞こえてくる会話自体も私が見ている夢なのかもしれない。声が遠くなったり二重になったり、か細くなっていったり…
「で犯人を再起不能にしたって話。そいつ、小六の癖に法廷までいって証言したらしいっすからねー」
「あぁ、新聞とかネットでも結構広がった話よね。確か…妹さんの…が別荘までやってきておじいちゃんおばあちゃんを…」
「―――ちゃんでしょ?」
聞こえるはずのない声がそっと私の名前を囁いた。
―――いっそすべてが夢で。もう一度あの場所で目覚めることができたらいいのに。
温かな紅茶が用意され、テーブルに載りきらないくらいのお菓子の山。部屋の中は薔薇の香りで満たされていて誰もが幸せなひとときを送るあの談話室。自らの意思であの学園を出てきたはずなのに、私はいつも後ろめたさと後悔を感じていた。逃げるのではなく、今度こそ過去と向き合って生きていくんだと決めた癖に、心と身体はバラバラなまま。
まだもう少し。もう少しだけ待って欲しい。私はきっと立ち上がるから。そう懇願しても誰も時間を止めてくれない。止める術もない。
「そう言えば、ベッドって誰か寝てるんすか?」
いつの間にか流れて止まらなくなっていた涙を拭い、重たい瞼を持ち上げる。誰かがカーテンの向こうでこちらの気配を窺っているのがわかった。
「あぁ。調子の悪い子がいるのよ。静かにしてあげて」
「へぇ~誰だろ」
その声にはこちらの正体を暴きたくて堪らないといった不愉快な気配が滲んでいた。そして案の定、カーテン越しに裾を握る様子が確認できた。
―――会いたくもないっ。
シーツの中に潜り込み隠れようとしたその瞬間。再び保健室のドアが開けられる音が響いた。
「すみません。友だちの様子を見にきました」
それはサトルの声だった。直接見えなくてもすぐにわかる。彼女の堂々とした態度に気圧されて、先ほどまでカーテンを開けようとしていた男子生徒がしどろもどろに何か言い訳のような戯言を呟き保健室を出ていった。
「由良川さんなら眠っているわよ。ちょっと、お手洗いに行ってくるから待っていてね」
先生も席を立ち、再び保健室に束の間の沈黙が戻った。
「…琳子? 起きてる、かな」
遠慮がちにカーテンの向こうから声がかけられる。私は何故かとても久しぶりに誰かの優しさに触れた気がして、止まらない涙を拭いながら答えた。
「ごめんなさい。起きているわ」
そっとサトルが顔を覗かせると、私の泣き顔を見て驚いた表情を浮かべた。
「大丈夫? もしかして泣くほどしんどいの?」
心から私を気遣ってくれる想いが伝わり、横たわったままかぶりを振った。
「違うの。色々とタイミングが悪いことが重なって…」
「そぅ…。今日は大した授業はないから、あまり辛いなら早退して病院へ」
と言ってからサトルは言葉を区切り、ポケットから小さなブリキの缶と取り出した。
母の会社で試供品としてもらったそれに、私は普段から臨時薬を何種類か入れて持ち歩いている。きっと一般の人は見ることもないような専門的な薬だから、彼女以外の人が拾って中身を確かめたとしても何も思わなかっただろう。
けれどサトルは以前から、薬の研究に携わる仕事をしたいという明確な目標を私に打ち明けてくれていた。だから授業や進学の為の勉強以外にも、専門情報誌を定期購読し薬剤について少しでも知識を深めることができるようにしているのだとも。
「…言いたくないなら何も聞かないけど。だけど、中身を見たよ。それだけは伝えなくちゃいけないと思ったから」
見ないふりだってできた癖に。でもきちんと真実を伝え、真っ向から私を知ろうとしてくれる人なんてずっとずっと限られている。
「ありがとう、サトル」
起き上がり小さなブリキ缶を受け取ると、私の口から自然とそう言葉が漏れていた。
「かかりつけの精神科医がいるの。明日…薬の飲み合わせについて相談してくるわ」
でもね、と無意識のうちに続けていた。
「興味もないことかもしれないけど…よかったら…私の話を聞いて? 実のない胡桃のような…きっと、他人からしたら手間ばかりで実りのない話かもしれないけれど。サトルには聞いて欲しいの」
涙が渇いた頬を綻ばせて、私は、私のことを真っ直ぐ見詰めてくれるサトルが静かに頷きそして微笑んでくれるのを待った。
王子様、王子様。人と魚という垣根を越えて、私を愛して下さい。私を見て下さい。決して目に映るものだけを信じな―――
(『泣けない人魚の泣かせ方』より)
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