片足を失くした人魚

青海汪

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第七話 脱色した(元)青い鳥

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 鬱陶しい梅雨が終わるとあっという間に夏季休暇へ突入した。
 最初の数週間は集中講義や補習に追われ、その間に留学準備の為に翠はドイツへ行き、更に父親であるジャックから長期休暇がとれたから日本へきたいという連絡がきて忙しく過ぎた。
 「実は日本は初めてです」
 空港から直接タクシーを使って私たちの家へやってきたジャックは、その穏やかな微笑みに僅かな緊張を滲ませてそう呟いた。
 リビングに招き入れアイスレモンティーとクッキーを出しながら、日本の産院で私を出産したと言っていた母は。父親である彼にどんな想いを抱いていたのだろうかと想いを馳せた。
 「それにしても随分突然…強引にきたわね?」
 学園では学園長秘書と一介の学生という立場で関わっていたが、もう敬語は必要ない。親子という事実が私たちの間の距離を取り除いた訳ではなく、私はまだ、彼を自分の父親として受け入れられていないからこそ余計な礼儀を排除した。
 酸味の強い食事はあまり好まないと聞いていたけれど。真夏の日本へ。こちらの予定もろくに聞かずにわざわざやってきてくれたのだ。できるだけ爽やかな気持ちで迎え入れてあげようと考えれば、レモンの果汁はぴったりな気がして笑顔で差し出した。
 「これでも一応は貴方たちを気にかけているのでね」
 穏やかな笑顔は一切崩さずに。ジャックはレモンティーにシロップを足して一口飲んだ。
 「そう言えば翠はどうされました? 彼にも進学祝いを兼ねたお土産を用意しているのですが」
 「…ドイツへ留学の下見を兼ねて行っているわ。わざわざ用意してくれなくても、必要な物があれば彼が自分で買って用意しているでしょうけどね」
 紳士的な態度で隠しているつもりだろうけれど、今の質問で彼が何故日本へやってきたのか大よその理由がわかった。どういう訳か急に父性愛とやらを思い出したらしいジャックにとって、私と翠だけの生活に色々と余計な想像が膨らんで不安になったようだ。これまで正体はおろか一切の援助もしてこなかった癖に、今更父親面をされても戸惑う私の気持ちもこれで正当化できるだろう。
 「それで…勝手に翠の部屋を貸す訳にもいかないでしょう? 空いている部屋はないの。悪いけれどどこかのホテルに宿泊してくれるかしら」
 「えぇ、勿論ですよ。だけど日本に慣れていないのでしばらくは琳子と一緒に行動したいですね。貴方の日本での暮らしぶりも知りたいですし、それに」
 と言ってジャックは流暢な日本語を一旦区切った。
 「…ヒサコに、会いに行きたいです」
 睫毛を伏せただけで目元に陰りが宿る。そこに心情描写でも加われば、まるで愛する人を失った悲しみを堪える孤独な男性の姿に見えるだろう。けれど私は、そんな風に解釈してしまう事自体が母への冒涜のような気がして憤りを覚えてしまった。
 「墓地の場所までは案内するわ。けれど私も忙しいの。貴方の予定に付き合いきれないわ」
 息が詰まるような苦い感覚。胸がジワリと痛み、懐かしさと悔しさが込み上げてくる。
 今まで何度も幼かった私は想像した。
 もしも私の父親がこの家にいたのなら―――彼はきっと、誰よりも家族を愛し守り抜いてくれるに違いないと。けれど父親と対面した今、現実は本当にいつも期待を裏切っていくのだと思い知らされる。
 母が気に入っていたソファの定位置に座るジャックが、私を見詰め目尻に皺を刻む。
 「リンコが初めて淹れてくれたこのレモンティーを味わったら…ホテルへ向かいますね」
 傷ついた心を隠しきるジャックに、何て声をかければいいのかわからず。私は黙ってそっぽを向いた。
 
 帰り際、ジャックは私にプレゼントと称してケータイ電話をくれた。翠もケータイを持ち始め、サトルたちと会う時にも連絡をとりやすくなるのでそろそろ欲しいと思ってはいたところだった。だけどどうして私が気になっていた機種のカラーも希望の通りなのだろう。
 「気に入って頂けました?」
 ニッコリと笑うジャックを一瞥し、画面をスクロールしながら念押しをしておいた。
 「GPS機能とかを勝手につけていないようなら、ありがたく使わせて頂くわね」
 「……。さすがにお互いのプライバシーもありますからね」
 肩を竦めて苦笑するも、答えるまでの間が微妙にあった点がやや気になった。
 「わたしの連絡先は既に登録させてもらっています。泊まっているホテルの住所をメッセージで送りますね」
 「明日は用事があるから付き合えないわ。明後日の午後に…墓地まで案内するわ」
 「ありがとうございます。では明後日、ランチも一緒に済ませましょう」
 恭しく頭を下げるジャックを無視し先ほど送られてきたメールの添付データーを確認した。
 「いいえ、ランチは済ませてから行くわ」
 高級ホテルの名前をちらりと見ると、そのままケータイはポケットの奥にしまいこんだ。
 
 
 『と言う訳で…遂にケータイデビューしたわ』
 夕食を済ませたところで見知らぬ番号から電話がかかって出てみたら、何と琳子からだった。彼女からは事前に父親が日本にやってくる予定だとは聞いていたものの、久しぶりに会う父親が好みを完璧に把握した贈り物を用意しているとは思わずサトルも素直に驚いた。
 「後でディランと日向の連絡先を送るよ。それにしてももう使いこなせているんだね」
 『電話とメッセージくらいしか使えていないわ。あ…でも、面倒だから学校ではあまり使わないつもりではいるの』
 「いいと思うよ。誰彼構わず繋がるのはリスクも多い」
 『そう言うと思ったわ』
 機嫌良さそうにクスクス笑う。父親との間に距離があると言っていたが、そこまで負担には思っていないのかもしれないとサトルは安堵した。
 『三日後よね、夏祭り。サトルはもう浴衣の準備は済ませたの?』
 「明日ディランと一緒にデパートに買いに行くつもりだよ。琳子はどうするんだっけ?」
 『母のお古が沢山あるのよ。柄も色も様々だから悩んでいて…』
 と言って琳子は迷っている浴衣の特徴をいくつか挙げてサトルにアドバイスを求めてきた。
 「そうだね…琳子は割と明るい色合いが好きって言ってたよね?」
 『えぇ。黄色とかオレンジ色とか…あとは明るい青色も好きよ』
 「じゃあ、その水色に金魚の柄はどうだろう。金魚なんていかにも日本の夏の風物詩みたいでいいと思うんだ」
 『これね。そうね、サトルがお勧めしてくれるならこれにしようかしら。そうだわ、これにぴったりの金魚の髪飾りがあるの』
 「きっと似合うと思うよ。当日会うのが楽しみだね」 
 『本当ね。サトルの浴衣姿も楽しみだわ。ディランがヤキモチ妬いちゃうくらい可愛いと思うの』
 「あはは…程々にしてって事前に言っておくよ。あ、そう言えば琳子は日向と会っている?」
 『いいえ、私もずっと忙しくてサトルにも会えていないくらいなのよ?』
 と、琳子は電話越しに苦笑したように答えた。
 「ぼくも直に会っていないんだけど、ディランから聞いたんだけど急に背が伸びているらしいよ」
 『あら、そうなの? 会ってもわからないかもしれないわね』
 「ぼくもだよ」
 そうして他愛のない話は延々と続いていった。
 
 
 翌日、午後から出かける準備をしていた私の元に初めての着信がかかった。
 「…はい」
 通知されていた相手の表示を見てやや気落ちするも、電話口に出た彼は私の心境などお構いなしに話し出した。
 『こんにちは、リンコ』
 「約束は明日の筈では?」
 父、ジャックからの挨拶を無視し早急に話題に入るよう促した。
 『それがリンコの家にわたしの万年筆が落ちていないでしょうか? 昨日ホテルに着いてから探したのですが見つからず困っていまして』
 「万年筆?」
 ケータイを耳にはさみながらリビングへ降りると、それはソファの間に挟まっていた。特注品なのか彼の名前まで彫られている。
 「あったわ。明日、届けるわね」
 『あぁ、よかったです。ありがとうございます。そうですね…今日は用事があると言っていましたものね?』
 「面識があるかは知らないけれど、伯父に呼ばれているのよ。母の遺品があるから渡し」
 『―――駄目ですっ』
 私の言葉を途中で遮り、ジャックは初めて聞くような感情をあらわにした必死の声で訴えた。
 「え…?」
 『ヒサコの兄ソウジですね。絶対に会いに行かないで下さいっ。リンコの身が…いえ、わたしが、長年日本にこなかった理由の一つが、彼を合法的に殺す方法が未だ見つからないからだと告白すれば、貴方を引き留める事ができるでしょうか』
 あまりに一方的な告白に私はしばし考えをまとめる為沈黙した。
 伯父の総司さんとは記憶にも残らない程幼少期に会っているかもしれないが、ほとんど接点を持たずに暮らしていた。母の葬儀の為に実家を借りて少し顔を合わせた程度で、その後はすぐに留学もしたし帰ってからも何かあれば後見人の芹沢さんを通すように伝えていたからだ。
 確かにどこで聞いたのかわからないが、今回のお誘いに関しても翠が日本にいないというのを知っている節があったが、私もジャックを避ける口実として叔父の誘いを利用しようとしていたところだ。
 「……最近認知されただけの関係で、私たちの間に長年培われた親愛の情など無に等しいのはよくわかっているでしょう? 貴方が勝手に殺人を犯したところで、私の良心が痛む訳もないわ」
 『リンコ、お願いです…っ』
 「理由について、詳しく話してくれるのなら考えてあげる。せっかく母の遺品を貰える機会を潰すんだもの。そのくらいお安い御用よね?」
 私の提案に、ジャックは長い沈黙の後了承した。
 それから私は誰にも聞かれたくない話だという彼の意見を最低限尊重すべく、ジャックが泊まっている高級ホテルへ向かった。
 ホテルマンに案内された部屋はスイートルームで、中に入るとワイシャツにスラックス姿のリラックスした服装のジャックがアフタヌーンティーを用意して待っていた。
 「昼食は既に済んでいる時間だと思い、早めのアフタヌーンティーとなりますが…」
 いつもは穏やかな笑みを浮かべて絶やさないのに、今日ばかりはそれもやや曇りがちだった。
 「座って下さい。楽しくもない話が…長々と続きます」
 椅子を引いて座るよう促すので私もそれに従う。母とジャックの間に何があったのかを知る機会だと思ったのに、思っている以上にきっと過酷な内容になるのだろうと覚悟した。
 「どこから話せばいいのでしょうね」
長い溜息を漏らすとジャックは窓際の椅子に腰をかけ、そこから注ぐ優しい日差しに視線を向けてしばらく考え込むように沈黙した。
「…わたしの父親は日本人だったと、確か初めてお会いした時に伝えました。母は貴族の令嬢で二人は駆け落ち同然で結ばれわたしが生まれました。ただ、若き研究者だった父はひどく不器用な人で…すぐに生活は行き詰まり、風邪薬も買えない程に落ちぶれました」
 紅茶を一口飲みながら、ジャックは手元に視線を落としたまま淡々と語り出した。
 「そこでわたしの祖父母は、幼いわたしの人生を買い取る代わりに生活や父親の研究を援助する申し出をしました。以降は多少の煩わしさもありましたが、人並み…いや、それ以上の生活水準を保てるようになりました」
 「人生を買い取るというのは…どういう意味?」
 ジャックを養子にしたという意味だろうかと思い尋ねると、ジャックは無表情のまま笑顔を浮かべ答えた。
 「そのままの意味です。何歳までに誰と結婚をし、どんな仕事に就くのか。結婚相手の排卵周期まで調べて月に何回性交渉を持ち、最低でも何歳までに何人の子どもをつくるとか。あぁ、彼女との出会い方やプロポーズの方法まで決められていましたね。ひどい時は一日の過ごし方も秒単位で……そして、死後の処置に至るまでのわたしのすべてを、祖父母が計画し実行するよう命じられていたのです」
 「……っ」
 口に入れた紅茶を吐き出しそうになるのを咄嗟に堪え、私は信じられずジャックを見詰めた。
 「…狂気の沙汰ですね。いえ、そんな事はどうでもいいのです。ただ、その計画に則りメール・ヴィ学園に入学し祖父母の希望通りの成績や人望を集めて暮らしていた頃に、ベンバーと共に交換留学制度を利用しやってきたヒサコに出会いました」
 ヒサコは転入した当初から異彩の存在感を放っており、すぐに誰もが彼女の虜になったとジャックは言った。ただ自分の人生設計図には彼女とのコンタクトは当然予測されておらず、ジャックはほとんど眼中になかったと言う。 
「しかしベンバーと親しくなると、自然にヒサコとも話すようになりました。彼女はベンバーに一途に想いを寄せていましたが、何度も断られ。その癖様々な男子学生や生徒たちと積極的に深い関わりを持つという…非常に不可解な行動をとっていたので次第に興味が湧きました」
確かベンバー先生は当時結衣子さんと付き合っていた筈だ。彼氏にちょっかいをかけてきていた、とは聞いていたけれど実は真剣に片想いをしていたとは知らず目から鱗が落ちた。
「その頃のぼくたちはお互いに、お互いが理解し合えないばかりに興味を持ち―――交際という形を持って相互を対象とした研究に勤しむ事になりました。そう…決してそこに、恋と言った不確かな感情はなかったのです」
ジャックの人生を買い取った祖父母に対する嫌悪感から、母がジャックを嫌っただろうというのは理解できる。自分の生き方を放棄する姿勢は、どんな非道な方法でも自らが決めたならば責任を持ってやり遂げる母とは対照的だったから。
「正直…当時のぼくは、ベンバーへ対する不毛な想いを昇華させる行動として不特定多数の人間と性的な関係に持ち込むのだとばかり思っていました。けれど違いました。彼女は…幼い頃から―――実の兄に性的虐待を受けていたのです。そのトラウマからの自傷行動でした」
「………え…?」
「しかもそこに、実の母親も関与していました。彼女はベンバーを追って。そして兄から逃れる為にメール・ヴィ学園へ逃げてきたのです。わたしがソウジに会って欲しくない 理由はこれで十分おわかり頂けるでしょう。彼はそういった偏った性癖があるのです」
心臓が痛いくらい激しく拍動しているのを感じながら私は自分でも信じられないくらい驚き、狼狽えていた。
あの母が…実の兄に性的な虐待を受けていた…? だから自傷行動として…? そんな筈がない。誰よりも強くて、他人が自分に屈服する様を何よりも喜んでいたあの人が…
―――誰かに虐げられる姿なんて、最も不似合いだ。
そう思うと同時に私は気づいてしまった。私自身も母を盲信していた事実に。
あの人は誰よりも強く、美しく。狡猾で、絶対に負けない強い人だと。だから疑いもしなかった。母があの学園にいたのは―――弱い自分を守る為に集まった…迷子たちと同じだなんて微塵にも疑いもしなかった。
「…信じられ…ないわ…」
「それは娘としても当然の反応だと思います」
飽く迄落ち着いた反応に、私はテーブルを叩き立ち上がった。
「貴方はそんな母と付き合った癖に、彼女に何も救いの手を差し伸べなかったの?! 数えきれないほど恋人がいたにも関わらず、あの人が生んだのは私だけ。貴方の子どもしか生まなかったのに…っそれが…どうして、今まで…」
例え母に辛い過去があったとしても、それを否定する意味なんてない。彼女はそれを乗り越えてきたのだから。けれどそんな彼女は何故、彼の子どもだけを産み落としたのか。一体二人の間に何があったのか。何一つわからず、誰もそんな真実を教えてもくれなかった。わからない。母がどんな想いで私たちを育てていたのか…
「……先に断りも入れていましたが、実際長い話になります。どうぞお座り下さい」
勧められ、私は仕方なくテーブルについたままだった手を戻し椅子に腰をかけた。
「彼女にそんな人生は認めないと強く否定され、ならばわたしを納得させてもらおうと始まった交際でした」
ベンバーに対する恋心を捨てきれないまま、様々な男たちをベッドに連れ込みボロボロになっていくヒサコの姿が一種の興味を惹いたのかもしれないとジャックは答えた。二人の交際はしばらく順調に進んだ。だけど彼は一つだけ、心に決めていた事があった。
「決して彼女に手を出さない。そう決めていました。何故なら彼女との交際はぼくの人生の中でイレギュラーな出来事であり…また、彼女が関わってきた男たちと同じ―――それだけの男になりたくない。そんな青臭い情熱が、まだあの頃のぼくにはありました。つまりぼくは、ヒサコに惹かれていた自分を認めきれずにいたのです」
しかし二人の交際はある出来事をきっかけに更に希薄なものとなってしまった。それは兄総司が母を訪ねにきたのだ。街中で総司に掴まり暴行されそうになった現場を、ジャックとベンバーが取り押さえ事なきを得たと説明されたけれど。当時の母がもし既にジャックに恋心を抱いていたならば。この事実は彼女の心を更に頑なに閉じ込めてしまうきっかけとなっただろう。
「その事件以来ヒサコは、ぼくを見る時に泣きそうな顔で笑うのです。いえ…彼女は完全に感情を隠しきっていました。けれど今にも泣き出しそうなその笑顔が…決してぼくの前では泣かない。弱みを見せないとする様に、無力さを何度も感じました。今のぼくには彼女を救えないと、はっきり自覚したのです」
長い溜息を吐いた後、ジャックは喉の渇きを癒すようにして紅茶を飲んだ。
卒業を機に自然と別れてしまったその後は、ジャックは祖父母の指示通りドクターとなり、身を粉にして働き続け様々な功績を残した。実家の借金を返しつつ自分の生活基盤を整えている最中、同級生に声をかけられ同窓会に参加をした。
「…その頃既にヒサコは、別れた恋人の子どもを一人で育てていました」
ジャックにとってそれは青天の霹靂だった。決して子ども好きでもなく、むしろ毛嫌いしていた節のあったヒサコが血の繋がりもない子どもの為に生きている。あの今にも泣き出しそうな笑顔で虚勢を張っていたヒサコが、驚くくらい強く。そして誰よりも凛々しい美しさを持ちそこにいたのだ。
「女性の芯の強さ…と言うよりも、ヒサコの底知れぬ強さに敬服しました。ふふ…きっとあれが、ぼくの二度目の恋だったのでしょう」
切なげに笑うジャックが、本当に悲しそうで。彼の口から聞く母の姿があまりに強く、そして辛そうで。私は自然と流れていた涙をそのままに話に聞き入った。
「ヒサコと婚約をした同時期…実はぼくは、学園長からスカウトを受けており悩んでいた頃でもありました。正直言えば、研究としての医学には興味はそこそこありましたが。医者としての資質のなさに嫌気がさし…誰かを救う事が医者としての使命ならば、形を変えて子どもたちに救いの導き手となるのはどうだろうと思い学園長のスカウトを受けたのです。まぁ、ヒサコはあの学園を毛嫌いしていたのでひどく怒られ、捨てられてしまいましたが」
ハハハと乾いた笑いで誤魔化すジャック。
「ヒサコから子どもはできたが、絶対に会わせないと絶縁状を頂きました。更に日本で出産をすると言うものですから…最初に言った通り、彼を合法的に殺す方法が未だ見つからない以上。わたしも日本へ平静を装って行く自信がなかったのです。けれど不定期的に連絡は取り合っていました。一時連絡が途絶えた時もありましたが…ヒサコが亡くなる数日前に、突然彼女から検査データーが送られてきました」
「検査データー?」
まったくの初耳で私は思わず口を挟んだ。確かに母の死は濡れたタイルで滑り後頭部を打った事が原因の失血死だった筈。タイミングよく私たちの学園編入を命じる遺書の作成も行われていた事もあり、警察は自殺や他殺の線も疑っていたみたいだけど結果は事件性なしだと報告された。
「…肝臓がんだと告知されたそうです。もちろん、治療すれば望みもある状態です。けれどヒサコは……治療を拒否し、いずれ彼女亡き後残されてしまう貴方たち二人を学園へ送り出す道を選んだ。―――ヒサコを救えなかった自分が許せなかったし、救いたいと言う思い自体が彼女に対する侮辱であると思いました。だからわたしは貴方が目の前に現れても自分の正体を告げられなかった。父としての責任も、恋人としての役割も何も果たせなかったわたしは、ひどく無力なのです」
そうして語り終えたジャックの姿は、言葉で言い表せないぐらい悲しみを堪えてそこにいるように見えて。そんな様子に涙腺は更に刺激されてしまい、結局それ以上言葉を交わせずに私は家に帰った。
最後にジャックは伯父さんが翠の留守を狙い家に忍び込まないとは言えないのでは、としきりに心配しホテルに泊まるよう勧めてくれたけど。こんな気分のままジャックといるなんて無理だった。ケータイを常に持っておくと約束し帰ってきたけれど、この一日で知らなかった事のほとんどを説明されてしまい。それらを自分なりに理解して解釈して、飲み込めないまま。私は家に帰るなりソファに倒れ込みそのまま動けなくなった。
 
 
夏休みの始め頃に夏祭りがあるので、ディランはサトルと待ち合わせてかねてより約束していた浴衣を買いに行った。ディランに至っては初めての浴衣で、話は盛り上がりようやく決めて帰る頃にはすっかり暗くなっていた。
「ふふ、いいのが買えてよかったね」
「うん、楽しかった。種類も多くて悩んだね」
それでも恋人に似合う浴衣を選び、サトルは満足そうに頷いた。
「浴衣っていろいろあるんだね。男モノと女モノの違いもあって楽しかったよ。初めて浴衣楽しみ。当日はサトル君の浴衣姿も見られるし、楽しみなことばかりだよ」
サトルを見つめ、ディランは満足そうに笑みを浮かべた。
「あ~、でも、この髪悪目立ちしないかな」
「大丈夫だよ。若い人も髪を染めていたりするし」
「なら、よかった」
サトルの言葉にディランはホッとした表情を浮かべた。
「サトル君の瞳、浴衣を着たら映えそうだよね。どの浴衣を合わせてもどれもよかったし」
「いや、そんな事…でも、似合うものが見つかってよかった。明日が楽しみだ。そういえば日向は浴衣を持っているんだっけ?」
「なんか最初の下宿先でよく面倒をみてくれた管理人さんが亡くなった息子の着ていたものだけどって、引っ越し前に渡してもらったのがあるんだって。日向君て年上の女性に可愛がられるところがあるよね」
年季の入った古風な柄だったが、逆に日向には誂えたかのようにぴったりと合っていたと、一度だけ見た印象ながらも、ディランは分かりやすく説明した。
「面倒見もいいから同年代にも好かれそうだけどね。あぁ、日向が身構えるのかな」
「同性だと結構好かれてるみたいだね。異性だと、日向君が距離を置いちゃうみたいだから、面倒見のよさは伝わりにくいかも」
「なるほどね。そう言うディランも、結構気に入ってるだろ」
「ふふ、勿論。そうでなきゃ、部屋を貸したりしないしね。それに明日の着付けは日向君に手伝ってもらわないとだし」
楽しそうにディランは笑みを浮かべた。
「いい関係だね。明日…早くこないかな」
サトルは穏やかに笑った。
「うん、楽しみ。琳子ちゃんも浴衣着てくるんだったっけ?」
「そうそう。金魚柄の浴衣って言っていたよ。きっと似合うね」
「わぁ、いいね。これは明日の日向君の反応が楽しみだよ」
「はは、本当だね。あ、ここでいいよ。送ってくれてありがとう」
「そう?」
周囲に人の姿がないことを確認すると、ディランはサトルを引き寄せた。
「勿論。僕が楽しみにしてるのはサトル君の浴衣姿だからね」
「うん、ありがとう」
そっとディランを抱きしめるとゆっくり離れ、手を振った。
「じゃあ、また明日」
ディランも手を振り、サトルの後ろ姿を見送ると帰路についた。
 
 
夏休み。これまでは学校もあって夕方からのシフトにしていたが、休み期間中であればとシフト目一杯取ったら、うっかり夏祭り前日にまでフルでシフトが入っていた。ただ、ディラン達とは違って当日に着る予定の浴衣は手持ちで済むし、他に大きな準備もないので問題ないだろう。
部屋に帰って見ると既に風呂上がりのディランが寛いでいるのが見えた。
「あ、日向君、お帰り~。お風呂溜まってるよ。さっき上がったとこだから、まだそんなに緩くなってないんじゃないかな」
「そうか」
元々、ディランは文化的にシャワー派でお風呂に浸かる習慣はなかったと聞いたのだが、日本に来て日本式の入浴も気に入ったらしい。すっかり馴染んで、今では入浴剤を試そうと日向に相談してくるのだが、残念ながら日向は入浴剤というものにまるで興味がなかった。
香りつきの風呂というのがどうにも落ち着かなくて自分が不在の際に勝手にやれとしか思えないのである。
「そういや、今日はサトルと浴衣を買いに行ったんだったか…」
「あ、珍しい。日向君から話題振ってくるとか」
「あのな」
荷物を置きつつ、今夜のお土産をリビングテーブルに置くと、日向はさっさと着替えの準備をした。
「…琳子ちゃんも浴衣で来るみたいだよ?」
「………」
いつもなら真っ先に出る「聞いてないんだが」の言葉が一瞬出てこず、日向は言葉に詰まった。
「あ、ちなみに柄は…」
「言わんでいい」
「あ、やっぱり、当日、本人を見るのが楽しみだよね」
「…風呂に入ってくる」
これ以上話題を続けられては堪らないので、日向は足早に浴室へと向かった。
そういえばついに明日なのか。以前夏祭りに行こうと約束した時は楽しみに思いながらもどこか遠い日のように感じていたのだが。
あの時は琳子は病みあがりだったし、少しでも元気になればとそれだけを考えていた。だが、夏祭りともなると、もしかしたら。少しでも気持ちが晴れて、琳子の笑顔が見られるかもしれないと少しばかり期待する気持ちもあって、日向は内心苦笑した。
――さすがに無理があるな。
琳子の心の内は推しはかることしか出来ないが、簡単に癒えるものでもないだろう。ならば、夏祭りにおいては琳子に少しでも楽しんでもらえるといい。
そんなことを思いながら、脱いだ衣服を洗濯カゴに入れて、日向は浴室のドアを開けた。
ふわりと浴槽から上がる香りに包まれる。
「…そういえば、お風呂どう? 日向君でも受け入れやすそうなの探してみたんだけど~?」
リビングからディランの声が聞こえてくる。一度、ゆっくりと深呼吸をすると、日向はディランを呼んだ。
「…頼んでないんだが」
わざわざ日向の嗜好をリサーチして入浴剤を選べと言った覚えはないのだが。
「勿論、頼まれてないからね」
 
 
 眠れる筈もない長い夜を終え、私はベッドを抜けると身支度を整えた。昨日は余裕がなく気づきもしなかったけれど、自宅の固定電話に何回も着信と留守番電話が入っておりそのすべてが総司伯父さんからだった。
 「………」
 胸の奥で燻る様々な感情を煮詰めたようなドロリとした気持ち。誰かに打ち明けてしまいたいけれど、翠にだって話せる内容ではなかった。そうは思っていてもケータイに表示されている時刻を見てつい、ドイツとの時差を考えてしまう。
 その時再び伯父の自宅番号から着信が鳴り、私は咄嗟にコードを抜いた。
 自分の動悸以外しばらく何も聞こえない。嫌な予感しかなくて、握っていた電話線をただ呆然と眺めていた。
 「昨日ぶりですね、リンコ」
 電車に揺られ約束の場所へ辿り着くと、長身のジャックの姿はすぐに見つかった。昨日の焦燥しきった様子は影を潜め、今はいつもの穏やかで紳士的な態度を貫いていた。
 「駅から少し歩くわ…」
 夏の眩しい日差しを受けて彼のウェーブがかった茶髪は、今の私と同じように秋の稲穂のような色に輝いていた。
 街路樹を特に会話もないまま歩く私たちは、傍から見れば親子になるのだろうか。さり気なく車道側を歩き、私のゆっくりとした歩調に合わせて歩くジャック。時々盗み見るその横顔は、どこか自分に似ているような気もして。でも、やはりまだ他人のように感じて距離感がうまく掴めない。
 「午前中だというのに、随分と気温が高いですね。やはり日本は湿気が多い」
 色素の薄い瞳を細め、眩しそうに木々を見上げるジャック。白い頬が熱気に晒され赤く火照っていた。
 「…出身はイギリスよね」
 「えぇ、ロンドンにわたしの両親がまだ住んでいます。ほとんど使ってはいませんが個人所有のアパートがありますよ。リンコがもしこの先ロンドンにくる事があれば、是非使って下さい」
 もしも私がイギリス留学を考えていると言えば、そのアパートを借りる事になるのだろうか。そうしたら彼の両親に紹介されて、そこで、家族ごっこが始まるのか。息子の人生を売った人たちを祖父母と呼んで、私たちを捨てた男を父と認め。血の繋がりは水よりも濃いと信じて…
 ―――その血が繋がった実の兄に虐げられた母は、一体何を信じて家庭を持ったのか。
 会話は続かなかった。無音のまま私たちは歩き続け、大通りから離れ小さなお寺の敷地に入ると急に辺りが閑散として感じられた。それまで耳に届きもしなかった蝉たちの大合奏が、私に失念していた季節を思い出させる。
 「婚約している間…本当に短い間でしたが、ヒサコも暮らしたアパートです。彼女が空けたワインのボトルが…とてもセンスのよいデザインで、今でも花瓶代わりにつかっていますよ」
 玉砂利を踏む足裏の感覚に集中し、頭上から降り注ぐ蝉しぐれに耳を傾け。私はジャックの呟きをBGMでも聴くように聞き流していた。
 「ヒサコはあの学園を否定していました。けれど、否定しきれずにいたのでしょう。自分の亡き後に貴方たちを転入させるよう手続きをとっていたと知り、ひどく驚きました」
 汗ばみ熱気にやられて息苦しさを覚える。乾いて、渇いて、カワイテ…心が涸れそうになる傷を負った迷子たち。甘いお菓子と同じ傷を持つ仲間たちの存在が、崩れ落ちそうな幼い心を救ってくれた。
 「一時連絡が途切れた時期があったと言いました。ちょうど…あの事件が起きた時期でした」
 足元に広がる木々の深い陰影に同化する二人分の影。翠と一緒に墓参りにくる時だって、こんなに息苦しさを覚えたりはしなかった。母の好きな花を買って、長い道中ずっと思い出話をして歩いた。あの時母さんはあぁ言ったけれど…とか言い合ううちはまるで、母が長期の出張にいって二人で留守番をしているような気分になれた。
 そして―――突然木々が開けて目前に広がる無言の墓石たちを見つけて、私と翠は再び思い出す。私たちの母は、もう二度と語りかけてくれない存在になったのだと。
 「知ったのは…事件が終わってから随分と経ってからでした」
 虚しげに呟く後悔に塗れた彼の独り言。
 母は死んでも両親と同じ墓に入りたくないと、何かの折に冗談交じりに芹沢さんに話していたそうだ。だから墓には母の名前だけが刻まれている。
 「……薔薇が…」
 墓に供えられていた少し萎れた赤い薔薇に気づき私は声を漏らした。きっと結衣子さんや芹沢さんが持ってきてくれたのだろう。時に芹沢さんは母亡き後、何かにつけ墓参りにきては職場の愚痴を漏らしているらしい。
 死んでも誰かの心に残りそして心のよすがとされる風景に、淀んでいた気持ちがほんの少し軽くなった気がした。
 線香の匂いを嫌う母の為に、アロマキャンドルを持って来て火をつける。今日はラベンダーを選んだ。この何とも皮肉な親子三人の初対面を、少しでも心穏やかに迎えられるようにと思って。
 「……ここに…ヒサコが眠っているのですね」
 随分と長い時間沈黙していたような気がする。ジャックは私が墓の掃除を済ませ、新しい花に替えている間もじっと動かず立っていた。
 「………」
 そして私も、ジャックの顔をさっきから見上げる事ができずにいた。気まずくて、もしも彼が涙を浮かべていたら。私はもっと複雑な気持ちを隠せずに苛立つだろう。
 「…向こうで休んでくるわ」
 適当な言い訳が見つからず、私はジャックの返事も待たずに踵を返すと小走りにその場を去った。それから木陰で涼み時間が経つのを待った。どのくらい過ぎただろう。昨日の不眠が祟って、心地の良い風が吹いていた事もあり私はしばらくうつらうつらとしていたようだった。
 日陰から覗く境内は眩しいばかりの光に包まれていて、自分がいる影と明確な線引きがなされていた。
 「…日向…」
 ふと思い出し彼と同じ名前だと呟いた。名付けの由来は知らないけれど、そこから感じる温かなイメージは人柄と程よくマッチしていてよく似合っていると思う。そして同時にどこまでもセトとは真逆なタイプだなとつい苦笑してしまった。
 きっと私やセトのように、あの学園に集う迷子たちはこんな日陰から眩しい日向を遠巻きに眺めるのが精いっぱいだ。明るい日差しの下に躍り出てしまえば、自分の醜さも弱さもすべて晒さなければいけなくなる。
 眩しくて、別世界のように見えてしまう光溢れるその場所は。誰もが辿り着く事を望む幸せな楽園には彼のような人がきっと相応しい。
 優しい風が吹いて木々を揺らし、葉の隙間からこぼれる木漏れ日の光を私の手元に届けた。暖かな日差しが掌を照らす。今の私には、眩しすぎる世界よりもこのくらいの光がちょうどいい。時々思い出しては悲しく、そして愛しく思う日々が。いつか忘れてしまったとしても、私はずっと心に焼きつけていたい。
 蝉時雨が響く境内に急に雨雲が広がりあっという間に大雨が降り出した。
 咄嗟に軒下に逃げたのでほとんど濡れずに済んだけれど、ジャックはどうしているだろうか。抜け目のない人だと思うが、まさか濡れ鼠にはなっていないだろう。
 「これで少しは涼しくなりますね」
 ニコニコと笑いながらご住職が出てこられ、私に参拝者が置いて行ったと言う忘れ物の傘をくれた。
 礼を述べて墓地へ向かうと、墓石に紛れて佇む長身の背中を見つけた。
 「……っ」
 何故かその姿を見つけた途端、私の胸はひどく痛みを発し何とも言えない切ない想いが込み上げてきた。
 ジャックは母の名が刻まれた墓石に向かって何かを話している。雨音が邪魔をしてほとんど聞こえない。少しの間逡巡したけれど、私はできるだけ足音を殺しジャックに近づいた。
 「…if  you know the…truth, I don’t…mind anything」
 ―――きみだけがわかってくれたらいい…
 途切れ途切れに聞き取れた言葉に私は戸惑いを隠せなかった。
 「……Lost forever if I never knew you…Hisako……I  miss you…」
 泣き崩れるジャックに容赦なく夏の強い雨が降り注ぐ。
 母に出会わなければ永遠に迷子だったと訴えるジャック。会いたいと嘆くジャック。自分から別れを選んだ癖に。私たちの手を離した癖に。我儘で一方的過ぎて、一番辛い時にも傍にいてくれなかった。母が死んだ今になって、どうして。どうしてよ…
 「我儘だわ」
 震えていた肩がピクリと動く。ジャックは墓前で座り込んだまま振り返らなかった。
 「今頃やってきて、死んだ人間に何を言っているのよ。生きている間に届けなきゃいけなかった言葉じゃないの? 独り善がりも大概にしてちょうだい!」
 大きな声で叫ぶと自然に涙が流れた。それは何度拭っても止まらなくて。私の中で滞っていた様々な感情が出口を求めて横溢としていた。
 「一番辛い時に、助けてくれなかった癖にっ!」
「―――わたしが…日本には絶対にこれないと知っているから、彼女はこの国に戻ってきたのです。決して許せないと言っていた兄と、彼女の母親と目と鼻の先に住居を構え。己のみの力で、今や有名なブランドまで立ち上げた。それに比べてわたしは…結局祖父母の援助を受けて医大へ進み、二人が望む道をそのまま辿ろうとしていました」
 「…辿ろうとしていた、フリなんでしょう? 貴方がそんな大人しい性格をして従う筈がないわ」
 学園での交流を含めても私とジャックの間に深い間柄になるだけの会話なんてほとんどなかった。けれど彼を知る人との会話や、時折見せる抜け目なさを思うと彼の話をそのまま信じる訳にはいかない。するとジャックはフッと肩を震わせ吹き出しそのまま苦しげに笑いを堪え始めた。
 「ふっふふ…ハハッ…いや、失礼。あまりにもヒサコとよく似ている事を言うのでつい」
 多分褒められてはいないだろう。複雑な気分で黙っていると、少し落ち着いたらしいジャックが立ち上がった。
 「―――医者になり地位も名誉も手に入れ、いつでもあの人たちを切れるようになれたなら…自由になれたら、やりたい事が沢山ありました。あと少しの我慢でした。けれど命令に背きヒサコと婚約した途端。それまで祖父母の管理下で生活できていた両親に危害が及びました。爪が甘かったと言いざるを得ません。あの時のわたしには、すぐにでも祖父母に対抗する力が必要でした。そうしなければ…ヒサコも守れないと思っていたからです。その為に、学園に戻り秘書という肩書を手に入れたかった。あの学園が持つ力が絶大であるが故に…諸刃の剣によってヒサコを失ってしまいました」
 「……母は…守られるのが、嫌だったの?」
 「いえ。自らの力で立ち上がり守るだけの力を持たなかったぼくに、失望したのでしょう」
 「本当に?」
 二人の事なんて私には何もわからない。けれどただそれだけの理由で、母がジャックを捨てるとは思えなかった。
 「身内に利用されて、今度は学園に利用されようとする姿が嫌だったんじゃないの? 自分がいる所為で、ジャックにまた、無駄に枷を嵌めさせるのが嫌だと思ったんじゃないの? …あの人は……何よりも自分の自由を尊ぶ人だったけれど、けれど、同時にそれは相手にも求めるものだったわ」
 もう今更かもしれないけれど私はびしょ濡れになったジャックの頭上に傘を伸ばした。
 「………」
 振り返ったジャックの目元が赤く腫れていて。私を見詰めるその眼差しに、きっと懐かしいあの人の面差しを探していると気づき。すれ違ってばかりの二人の想いに胸が苦しくなった。
 ―――母がどれだけジャックに想いを寄せていたか。そんな事は私が生まれたという事実からいくらでも推測できる。けれどジャックはどうだったのか。一片の愛情さえ持っていないのかもしれないとずっと思っていた。
 降り出した時と同じように突然止んだ雨。入道雲が聳える空から光が差し込み墓前の前に置かれていたモノが光を発した。
 「……指輪?」
 ケースの中に収められた指輪に気づき、私はジャックを見た。
 「渡せなかった、結婚指輪です」
 ジャックはおもむろにその指輪をケースから外し持ち上げた。
 「古い本にあった言葉です。人は短い人生に於いて三度、恋をすると。ぼくの初めての恋は…自分の傷を必死になって隠し、強く、誰にも負けないよう戦い続けた学生時代のヒサコでした。そして二度目は血の滲むような努力の果てに、確かな実力を身につけ立ち上がったヒサコ。彼女以上に誰かを愛する事はないと思い、プロポーズしました」
 三度目は…? と思い私は母の名前が刻まれた墓石を一瞥した。
 キラリ―――そんな擬音が似合いそうな眩しい輝きが視界に入る。
 いつの間にか握られていた右手に指輪が光っていた。
 「middle finger ringは、邪気から身を守るとされています」
 「…でもこれは…」
 よく見るとリングの部分に青い宝石と共に彫られた小鳥があった。
 「私の三度目の恋は、私たちの想いの結晶であるリンコなのです。―――幸せを運ぶとされる青い鳥と、中指にはめたその指輪が貴方を守ってくれるでしょう」
 恐る恐る伸びてくるジャックの手が、ひどく不器用に私の頭を撫でる。そこから伝わる確かな重みとぬくもりが、今までずっと求めて止まなかったものだと知り。私は彼の胸に頭を預けて涙を流した。
 父に家族を守ってもらいたかった。そして彼も妻子を守らせて欲しいと思っていた。だけど母は、魂の自由を欲していた。きっとそれぞれを大切に想うが故に、駕籠にいれ愛でるのではなく。空を羽ばたく鳥のように、あらゆるしがらみを越えたものになって欲しいと思っていた。
 私たちはやっぱり親子だった。
 自分の想いに素直になれなくて、気づいた頃には大切だと思っていた人は傍にいなくて。いつも後悔ばかり。だけど同時にこう思ってしまうのだ。
 ―――自分らしく、いつも自由に。ありがままに生きたい、と。
「琳子のお蔭でひどい脱水に陥った気分です」
 濡れた服をハンカチで拭きながらジャックは苦笑しつつぼやいた。
 「泣かせた本人がひどい事を言うわね。私も喉がカラカラよ」
 「申し訳ないのでランチでもご馳走しましょう」
 「お詫びとか言いながら、どうせ最初からそのつもりだったんでしょう? それにそんな恰好でレストランに入るつもり?」
 「ふむ、その言い方はひどくヒサコ似ていますね。将来がやや心配になります」
 「大丈夫よ。どちらに似ても、まともな人生は送れないわ」
 私たちは熱い日差しが見守る中、肩を寄せて歩き出した。つかず離れず、心地よい距離感。気遣いを要さない会話のやりとり。
 「確かにその通りですね。でもぼくが思うに外見的特徴の大部分はヒサコの影響が大きいですが、中身はどちらかと言えばぼく寄りでしょう」
 「あら、どうして?」
 私の問いかけにジャックは意味深に微笑んだ。そして小さな声で私にだけ聞こえるよう、母の秘密を明かした。
 ―――ヒサコはあぁ見えて、Mですからね。ぼくはSっ気があるとよく言われました。
 
 翌日。私はずっとケータイを触っていた。
 昨日ホテルに帰り着替えを済ませたジャックとランチをしたけれど、朝食を抜いていた私と違い彼は水分を少し摂る程度で一切食べ物を口にしなかった。疲れが出ました、と言うので一応は納得したけれどやはり気になって今朝からずっと電話をかけ続けた。
 「…どうして出ないのよ」
 嫌な予感と不安からつい苛立ちが溢れてしまう。今日は夕方からサトルたちと夏祭りに行く予定だと言うのに。
 母のクローゼットから出して用意していた薄水色の水面模様の下で泳ぐ、可愛らしい金魚柄の浴衣を一瞥する。着付けの時間と下駄で移動する事を考えると、どう多く見積もっても昼過ぎにはホテルを出て一度家に戻らなければ間に合わない。
 ジャックの安否を確認してから祭りに行くか、それとも電話をかけ続けて様子を見るか。
 ホテルのスタッフに依頼するという手段もあったけれど、でも、と中指に嵌めた指輪を見て溜息を漏らす。わざわざ私の指に合うようにとサイズまで変えて用意してくれた指輪には、プラチナの美しい白銀の輝きを放つ鳥の姿。青い宝石とセットのモチーフから童話の青い鳥だと説明してくれたジャック。
 けれど今は、この幸せを運ぶと言われた青い鳥が…何とも不吉な未来を予兆しているように思えてしまう。
 「…考え過ぎかしらね」
 自分自身に言い聞かせるように呟くも、やはり密かに病を患っていた母を思い出し不安がよぎる。同時に不意にジャックの言葉が思い出された。
 ―――日本にこなかった理由の一つが、彼を合法的に殺す方法が未だ見つからないから
 けれどジャックはやってきた。それは、遂にその方法を見つけたからだとしたら? 
 そんな筈はない。小説の中とは違うここは司法が治める現実社会だ。学園のように何もかもが曖昧な境界線で守られた世界ならば社会的抹殺も可能かもしれないけれど、ジャックは…医師の資格を持つ―――
 ドクンッと私の気持ちを代弁するように心臓が大きく飛び跳ねた。
 昨日からコードを抜いていた電話。帰り際の会話に伯父からの電話がうるさくて…と少しだけジャックに漏らした。その時の彼は穏やかな態度を崩さずにただ相槌を返していた。
 伯父の家は電車を乗り継いで行かなければいけない。亡き祖父母が暮らしていた実家をそのまま受け継いだ高級住宅街にある古い日本家屋。急いで行って、何もなければ戻ってくればいい。でも、伯父に見つかってしまわないよう多少の変装が必要だ。
 私は翠の部屋に入るとクローゼットから着られそうな服を借りて、むかし彼が使っていたキャップもついでに拝借した。長い髪をキャップの中に詰め込んで。普段の私なら決して着ないようなボーイッシュな装いに、母の眼鏡をかければ二、三度しか会った事のない伯父ならそうそうばれないだろう。
 ケータイを片手に家を飛び出すと、巨大な雲が見下ろす夏空の下を走り出した。
 
 車でしかきたことのない家だったけれど、記憶を辿り大して迷わずに辿り着いた。けれど一つ失念していたのが、高級住宅地という事もあり周囲には喫茶店など待ち構えるのに適した場所が一切ない点だった。
 更に暑いこの気温。しばらく街路樹の木陰で休んでいたけれど、あまり長時間ここに隠れている訳にもいかない。見知らぬ人物が長くうろついていると通報される可能性もあるので適当に移動しながら色々と準備不足だったと反省した。
 「……アツい…」
 できるだけ日陰を選び歩いていたけれど長い髪を詰め込んだ帽子の所為で蒸れて、汗が止まらず段々と息苦しさを感じていた。
 ジャックのケータイに電話をかけながらせめて水分だけでも摂ろうと思い自販機を探す。
 耳に当てた液晶の冷たい感覚が唯一の救いだった。ずっとかけ続けているけれど一向に繋がらない。さっき確認した時屋敷の方には特に騒ぎが起きている気配はなかった。できたら玄関先まで入り来客の有無まで調べたかったけれど、さすがにそこまで…
 『――――――ッ』
 突然通話口に誰かが出た音がした。
 ジャック、と言おうとして喉が渇いて声が出なかった。同時に目の前が暗転する。頭の先から急に血の気が引いて足場が揺れた。その瞬間、もしかして地震が起きたのかと勘違いした。
 「…リ…ンコ……リンコッ」
 どのくらい時間が経ったのかわからない。気がつけば私は病院の救急室にあるベッドで目を覚まし、ジャックが私の顔を覗き込んでいた。
 「………」
 左手に違和感を覚え見てみると私の腕には点滴が繋がれていた。
 ぼんやりとしたまま言葉を発さない私の頬に触れると、ジャックは目元を赤くして囁いた。 
 「よかっ…た…デス…本当に…」
 「…倒れた、の?」
 「そうです。熱中症で倒れました。今ドクターを呼びます」
 ナースコールを押すと看護師らしき女性がやってきて、医師を呼んできた。熱中症で倒れているところを見つけたジャックが救急車を呼び付き添ってくれていたと説明を受け、点滴が終わったら帰ってもいいと言われた。
 私が診察を受けて点滴が終わり針を抜く間もジャックはずっと私の手を握っていた。
 立ち上がり少し身体が軽くなった気がしてふらついた時も、ジャックはそっと肩に手を添えて支えてくれた。
 帰り際にその様子を見ていた看護師の女性が
 「とても紳士的なお父様ですね」
 と微笑んだ。
 ジャックは何も言わなかった。普段の彼ならきっと「当然の事をしているまでですよ」とか言っていそうだけど。じっと何かを堪え考えているような、私にその心の内を悟らせまいとしているようにも見えた。
 「…ジャック…」
 会計を済ませタクシーを待っている間、私はジャックの肩に頭を預けていた。そして辺りに人がいないこの時。ようやく初めて声を出した。
 「胸ポケットに入れている紅茶は…誰かへのお土産なの…?」
 その瞬間、ジャックの顔から血の気が引いたのがわかった。冷静さを装って何でもないふりをしているけれど。小さく息を飲み込む気配を見逃さなかった。
 「…日本にきたがらなかった理由が、あまりに物騒だったから」
 「リンコ…それが、貴方がソウジの家の近くで倒れていた理由という訳ですか?」
 頭を預けたままだったジャックの肩からどんどん体温が下がっていくのがわかった。院内の冷房がよく効いているからだけではない。おかしな話だけど彼は、自分が罪を犯す事よりも私に嫌われる方を恐れていた。
「止めにきたつもりじゃないわ」
小さく笑うと私はジャックを見上げた。
「けれどもう身の回りで面倒が起きるのはやめて欲しいの。でも…騒がれなければ、問題ないわ。そうでしょう?」
「それは…協賛されていると、捉えていいのでしょうか?」
「そうよ。…これは、私の問題でもあるわ。誰かに勝手に解決されたくないの」
 多分この時の私は、自分でも自覚できるぐらい母に似ていたと思う。ジャックは驚いたような表情を見せた後、とんでもなく無邪気で悪意を隠した笑顔を見せたのだから。
 「―――それでこそ、わたしの娘です」
 
 私たちを乗せたタクシーは途中で洋品店に寄ってから伯父の家へ向かった。
先ほどまで着ていた翠の服からカジュアルな装いに変わった私に、ジャックは終始不満げに眉間を寄せていた。夏物は通気性を考えて薄着が多い。況してや私たちの世代が着るような物となると多少膝丈が短かかったり肩が出ている類も多い。普段はそこまで露出の多い服は着ないけれど、今回ばかりは目的があってレース編みのシースルータイプのワンピースを選んだ。
「拗ねていないで、きちんと働いてね」
ジャックのケータイに私が送ったメッセージの受信を告げる音が鳴った。画面を開いて内容を確認するジャックは終始不満な胸中を隠そうともせず俯いていた。
「…ジャックがケータイを買ってくれたお蔭で、色々と手間が省けて楽ね?」
目的地の手前でタクシーを止まらせると私はしつこく抗議しようとするジャックに一言残し、先に降りた。そして久しぶりにきたかつての祖父母の屋敷を見上げる。事前に連絡をしていたからか、私がチャイムを鳴らすと伯父はすぐに戸を開けて出迎えてくれた。
 母の葬式以来だけど、随分長い時間会っていないような気がした。毎回顔を見る度に思ってしまうけれど、母と伯父は全くと言っていいほど似ても似つかない。
 「久しぶりじゃないか、琳子ちゃん。やっと来てくれて嬉しいよ」
 嬉々とした様子の伯父だが、やはり予測していた通り伯母の姿はなかった。葬式の最中も何かにつけ伯父の世話を焼きについてまわっていた人なので、恐らく出かけているのか不在なのだろう。
 「ご無沙汰して…申し訳なく思っていました」
 「いやいや、いいんだよ。日本に帰って環境も変わり…大変だっただろうねぇ。さぁ、外は暑いからね。今日も沢山熱中症で運ばれた人がいるってさっきもニュースでやっていたよ」
 そのニュースで報じられたうちの一人になっていた事は伏せて、私も適当に相槌を打って返した。 
 「さて、まず何か飲むかい?」
 応接間に通されてから伯父はジロリと私の全身を舐め回すように見て尋ねた。
 「伯父様もお忙しいでしょう。先に母の遺品を受け取ります」
 「あぁ…そうだね。妃紗子の部屋は二階なんだ」
 さり気なく背中を押され二階に向かうよう促されたが、私はわざと早足に歩き伯父から離れた。幼い頃は度々遊びに来ていたところだったけれど、あの事件以降くるのは母の葬儀を最後にこれが初めてだった。今は伯父夫婦が使っているけれど、部屋数も多く子どものいない事もあって使われていない部屋は沢山あった。けれど母の部屋には祖母に止められてから一度も入った事がなかった。
 「ここがむかし妃紗子が使っていた部屋だよ」
 そこは多分母が学生時代に使っていたであろう勉強机と、本棚。そしてベッドがそのまま置かれていた。大きな家具だけが残されていて、本や布団などはすべて処分されており長い事換気もろくにされていなかったのではないだろうか。少し黴臭くて埃の匂いもした。
 「琳子ちゃんも知っているだろうけど、妃紗子はよくモテてねぇ。本当に毎晩親の目を盗んで男を呼んでいたよ」
 ねっとりとした気持ちの悪い声で私の後ろに立つと、伯父はまるでご機嫌取りをするかのように囁いた。
 「女王様のように振る舞っていたけれど…実際はそんな事はない。どんな女も所詮は男に仕えるのが仕事って訳だよ」
 実の兄の虐待に加担していたのは、実の母親だった。息子に毎晩犯され娘に、経口避妊薬を与え続けたと聞いた。その所為かはわからないけれど、母は妊娠しにくい体質になったそうだ。だからジャックと婚約した時も子どもは最初から諦めていたと。最初から望みの薄い願いなら、それを欲して苦しむよりも。いっその事、欲しいだなんて気持ちを持たなければいいんだとジャックに話していたそうだ。
 ―――母の不幸はすべて、この部屋で始まった。
 「…伯父様にとっても、ここは思い出深い場所なんですか」
 母が使っていたベッドの縁を執拗に撫でるその動作までもが嫌悪感を生み、私は伯父から目を逸らし尋ねた。
 「……あぁ…戻れるのなら、もう一度あの夜に戻りたいね」
 舌なめずりしそうな眼差しで私を眺める姿には、最上級の嫌悪しかない。そして吐き気がしそうになる胸糞の悪さを隠そうともしない私に、何を思ったのか手を伸ばしてきた。
 「母の形見はどれですか?」
 触れるのも気持ち悪い。手の甲で彼の指を叩き落とすと伯父は小さく舌打ちし、勉強机の引き出しを開けた。
 「ほら、臍の緒だよ。琳子ちゃんの名前が入っていてね。妃紗子は琳子ちゃんを産んだらすぐに翠くんと家を出たからね。忘れて行ったんだろう」
 片手に納まる程度の小さな桐の箱に納められた、カラカラに乾いたミイラみたいな紐。
 初めて見る臍の緒に私は不思議な感想を抱いた。これまでも幾度となく母に似ていると言われてきた。でもやはり私と母はどうしてもまったく違う人格を持ち、それぞれの嗜好や特性を持った他人だ。以前は似ている事をひどく忌み嫌っていたけれど。最近はそんな気持ちにも変化が訪れた。飽く迄似ているけれど私たちは別の人間だとわかっていたから。だけどこうして、かつて胎児だった頃に母との間に確かにあった繋がりを目にすると。私と母は、同じ命を共有する関係だったのだと思い知らされる。
 「…しばらく、このお部屋を借りてもいいですか?」
 「……あぁ、いいとも」
 虚を突かれた表情を浮かべたが伯父は素直に下がり私は椅子に腰を下ろした。
 きっとこんな風にセンチメタルになるのはたまたま昨日、彼女の墓参りをして。今日体調を崩して救急搬送までされたからだ。色々あり過ぎて疲れが溜まっている気がする。でもちよの手紙の件からずっと感じていたこの燻った気持ちを、どこかで処理しなければいけないと思っていた。
 向井兄の事もすべて、私は自分だけの力で処理しきれていない。優しい、優しすぎる友人たちの力を借りて片づけられた。友人たちの存在は確かに私の力になってくれた。けれど、もしも同じ事態に一人で直面した場合。私に対処できるだけの能力がなければ結局は同じ事の繰り返しになってしまう。
 友人たちを使える駒にはしたくない。それはもう、学園で散々やってきた。
 小さく息を吐き出す私のポケットの中で、ケータイが小さく震えた。合図だ。
 だけど―――人をうまく使うのも能力の一つ。最後まで反対の姿勢を見せていたジャックが、ちゃんと仕事をこなしてくれた報告に密かな喜びを感じながら。私は笑顔を浮かべ、母の部屋を出た。
 応接室に戻ると伯父がソファに座って私を待っていた。
 テーブルにはクッキーが置かれているが、何故か飲み物はなかった。
 「いや、お茶の淹れ方がわからなくてねぇ」 
 恥ずかしげに頭を掻く伯父に微笑みかける。
 「ちょうどよかったです。お土産を持ってきたんですよ。私が準備しますね」
 そして台所を借りてお湯を沸かすと、私は持ってきた紅茶の準備を始めた。台所の棚には様々な種類のお酒と数種類のコーヒーが置かれていた。元々酒豪とは聞いていたけれど大手会社の役員になった今も、付き合いでアルコールはよく好んで飲んでいるのだろう。
 「……」
 私はふと思いつきその中でも特に度数の強いお酒を選び、伯父のティーカップに注いでから紅茶を淹れた。再び応接室に戻るとカップをそれぞれの前に並べた。
 「急いで淹れてしまったから美味しくないかもしれませんが…」
 「いや、普段紅茶は飲まないんで楽しみだね。はは…」
 気の所為か頬を紅潮させると伯父はカップを手に取り一口飲んだ。そして一瞬隠しきれない不味さを表情に出して、取り繕うように笑いかけてきた。
 「あぁ、やっぱりごめんなさい。お茶の温度がよくなかったんだわ。もう一度淹れ直すので待っていて下さいね」
 内心ほくそ笑むも私は慌てて伯父のカップだけを下げようとして、ついうっかり手を滑らせた。
「あっつぅ!」
飛び跳ねる伯父の太腿に熱い紅茶がこぼれた。
「ごめんなさい。すぐに冷やして…」
濡れ布巾を渡す間、伯父は必死の形相で怒りを抑えているように見えた。けれど私と目が合うとやはり顔を赤らめそっぽを向く。わかりやすい心情に嫌悪感が溢れるけれど、私は神妙な面持ちで謝罪し伯父に着替えてくるよう促した。
伯父が退室したのを確認し素早く応接室を見回す。そしてちょうどいい角度に並べられた本の隙間にビデオ通話状態にしたケータイを用意した。
それから私は再び台所へ戻り、先程とは別に用意したもう一つの茶葉で紅茶を淹れた。今度はじっくりと時間をかけて丁寧に紅茶の香りを楽しみながら用意した。
 「しっかりしているようで、案外琳子ちゃんはおっちょこちょいなんだねぇ」
 少しして着替えを済ませた伯父が戻ってきた。
 「ごめんなさいね。けれどわざとではないんです。ただ少し…動揺してしまって」
 「動揺?」
 「えぇ、だって…私、見つけてしまったんです。母と、伯父様の関係について記された手帳を」
 紅茶を飲もうとしていた伯父の動きがピタリと止まる。その様子を視界の端に収めながら、私はテーブルに飾られた美しい花を眺めた。
 「何の事だかな。いや、妃紗子の部屋にはそんな証拠なんて」
 「……」
 否定も肯定もしない私の反応に、伯父は顔色を変えて叫んだ。
 「いや、なかっただろうっ! そもそもアレは何十年も前の話だっ! 時効だっ」
 「―――時効って…何か後ろめたい事でもあったんですね?」
 その一瞬、伯父は言葉に詰まり私を見詰めた。
 「あぁ、そう言えば…さっきも母の部屋であの夜に戻りたいよって…呟いていたのもそういう意味かしら。だってよく考えてね。あの母が、何の対策も講じずに泣き寝入りするとお思い?」
 「―――っ」
 息を吸い込むなり伯父は椅子から立ち上がり私の胸ぐらに掴みかかった。
 「そんなに知りたいなら教えてやろうか。あぁ、確かに何度も妃紗子を犯したよ。楽しかったなぁ…実の妹を犯すなんて。おかげでアイツは股の緩い女になっちまった。だけどその娘まで、同じ末路を辿るとはなぁ。こんなチャラチャラした服を着て…っさすがは妃紗子の娘だよ」
 壁に私を押しつけると伯父は荒い呼吸で身体をまさぐり始めた。
 時折向けられる視線には欲情の対象として―――私を通して、母をもう一度汚そうとする。私を、母を、私が、母が…この男の思い通りにしてなるものか―――と強く怒りが湧いた。
 「伯父様の言う通りね。さすがは私の娘って、私を褒めてくれるんじゃないかしら?」
 「何を―――っ」
 荒い息遣いが耳元でピタリと止まり、息を止め蒼褪めていく。その顔には脂汗まで浮かんでいた。
 「私たちを、舐めないでちょうだい」
 股に蹴り上げた脚をどけると同時に伯父の身体がよろめく。その身体を支えるようにしてジャックが現れると
 「そこまでですよ」
 凍てついた氷のような表情をしたジャックが伯父を羽交い絞めにし素早い動きで床に投げ飛ばした。
 「た、たれた! お前はっ」
 最初の紅茶に入れたアルコールが回ってきたのか、早くも呂律が回らなくなってきた伯父の姿は滑稽だった。床に這いつくばりながらも必死に優位に立とうと怒鳴り散らす。私は乱れた服装を正すと、隠していたケータイを持ち出しそんな哀れな伯父の姿を収めた。
 「未成年者に手を出そうとして…これって犯罪ですよね?」
 「はんっ! 何をふざけやがってっ! お前らがやっている事もキョーハクだぞ。おいっ、勝手に撮るなっ!」
 顔を真っ赤にして私に襲い掛かりケータイを奪おうとする伯父を、ジャックが再び引き留め殴り飛ばした。
 「最近のケータイってお互いの顔を見ながら通話ができるんですね。私ってば、最近ケータイを持ち始めたから知らなくて。疎遠の親戚の家に行くので不安だから、テレビ通話状態にしたまま叔母様と連絡をとっていたんです。」
 「な、にゃを…」
 押えきれない怒りの所為で小刻みに震えるジャックの手をそっと握る。力の限り殴りつけたのだろう。彼の手はひどく熱を帯びて痛々しかった。
口の中を切ったのか大量の血を流す伯父の無様な姿に微笑むと、私は優しい気持ちで答えた。
 「そして今、ジャックがきたって事は…叔母様を迎えにいってくれたって事かしら」
 「えぇ、初対面ですので多少警戒はされましたが、動画を見て頂きながらわたしの乗るタクシーの後を追ってもらいました。もうすぐ着くでしょう」
 閑静な住宅街を異常なスピードで走るエンジン音に気づき、伯父は一気に血の気が引いたようだった。
 「こ、こんにゃ事をして…」
 「ただでは済まされないとでも? 勘違いしないでね。だって伯父様は私のお蔭で命拾いしているんだから」
 おもむろに伯父の席に向かうと彼のカップに入っていた紅茶をテーブルの花瓶の中に流し入れた。するとものの数秒で美しい花は萎れて枯れていった。
 「…温度で毒性が変化するものです。証拠は残りません」
 ヒッと悲鳴のような声を上げ喉に手をやる伯父を一瞥する。先程までの居丈高で高圧的な態度はどこにもない。下半身でしか物事を計れない情けなさすぎるクズ。そんな男に母が長年凌辱され続けたのかと思うと、私の中でこれまでにないくらい激しい怒りが込み上げてきた。
 「―――っ」
 私が腕を振り上げようとしたその瞬間、ジャックが私の手を掴み裏口から飛び出した。ちょうど入れ替わりに正面玄関から叔母のヒステリックな叫び声が聞こえてきた。
 この後二人がどんな末路を辿るかなんて興味もない。私は悔しさに顔を歪めながらジャックの手を握り締めた。
 走りながら不思議と色々な出来事を思い出した。
 ―――私の癖のある髪に指を通し、どこか遠くをぼんやりと眺めていた母。幼い翠と一緒になって傷だらけになるまで殴る噛みつくの激しい喧嘩をした私たちを見て、何故かとても嬉しそう笑っていた母の笑顔。絵本を読み終える度に、王子様なんて絶対にいないから自分から理想の人間になって王子なしの人生を送れだなんて子ども相手に無茶苦茶な話を振って私を困らせていた母の楽しそうな笑顔。
 臍の緒で繋がっていた頃、母と私は二つで一つだった。だから幼い頃の母が、あの男に辱められていたという事実が。自分自身に重ねてしまい―――事実、祖父母を殺された事件でも。犯人の佐久田は犯行後に私を連れ去るつもりだったと供述していた―――だから私ももしかしたら母のような悲惨な経験をしていたかもしれないと考えてしまう。
 膝が崩れて私はよろめいた。咄嗟にジャックが肩を支え、彼の胸になだれ込むようにして倒れた。
 「ハァ…ハァ…無理をしないでください。また…倒れますよ」
 「…私…以上の無茶をしようとしていた人がよく言うわね」
 息を整えてからそっとジャックから離れる。
 耳が痛くなるほどの蝉の鳴き声が辺りに響き、風はいつの間にか少し涼しくなり空は夕暮れていた。どこかの家の軒先で鳴る風鈴の音が私たちが紡ぐ沈黙を和らげてくれた。
 「…あの人は…何も言わなかったわ。何も言わずに…死んでいった」
 辛い過去の出来事も、何もかも。すべてを飲み込んで一人で抱えて、遠くへ逝ってしまった。
 「大嫌いだった。男にだらしなくて、傲慢で、自分勝手で。私たちの気持ちなんていつも二の次。自分のやりたい事を、自分の事だけを一番に―――っ。…けれど…最高の母親だった。死んでから、気づいたのよ」
 悔しくて堪らない。自分の無力さやあの男が犯した罪を償わせられない事が。悔しくて、もっと強く蹴っていればよかった。やっぱりあの紅茶だって飲ませておけばよかったと後悔が押し上げてくる。
 「―――どうか、ヒサコの人生が哀れなものだと思わないで下さい」
 私の肩に手を添えるとジャックは震える声でそう呟いた。
 「彼女は…常に自分の生き方に誇りを持っていました。彼女が自身の過去を語らなかったのもきっと、ヒサコの辛い経験が貴方たちの足枷になるのを恐れたのでしょう。いえ、自分自身で折り合いをつけて、前に進もうとしていたからだと思います」
 「……っ」
 夕焼けが照らす茜色の世界で、ジャックの顔が逆光の所為でどんな表情をしているのかまったくわからない。遠くから聞こえるヒグラシの鳴き声。温かくて少し鬱陶しい風が頬を撫でていく。
 あぁ…本当に、似ていると言われてきたけれど。私とあの人との間にはまだまだ天地程の差があった。
 私はそっと手を伸ばしジャックの頬を拭った。その指先に触れる温かな涙が、光を反射する様を眺め静かに想った。 
 ―――いつか、私も母のように強く…なれたなら。
 
 
「…そう、うん。わかった。またね」
祭りの喧騒に掻き消されながらもサトルはケータイでの通話を終え、振り返り日向とディランを見た。
「琳子、都合が悪くなったみたいでこれないらしい」
「…そっかあ、残念だね」
普段ならば、約束の時間ぴったりに来るであろう琳子が見えないことからもしかしてと思っていたのだが、案の定でディランは苦笑した。
「…体調は? 無理している声じゃなかったか?」
結局サトルが電話に出たので、心配げに日向が尋ねた。
「いや、元気そうだったよ。でも…」
と言いサトルは日向を見上げて苦笑した。
「日向の変化を見て、どんなリアクションをするのか知りたかったな」
「…いや、特に変わらないだろ」
今になって琳子が来ないことにやや拗ねた声を出した日向の視線はこれまでずっとやや見上げる形だったディランの身長を超えて、やや幼さを残す顔立ちながらも大人びた印象に変わっていた。
「変わらない訳ないでしょ? まさかの夏休みで僕の身長越しちゃったんだし」
「少しだ、少し」
ディランと変わらないぐらいという身長だが、きちんと並ぶとやや日向の方が高くなった。このところ全身筋肉痛状態の痛みが続いていて、お祭りの日を楽しみにしていたのだが。日向はうんざりとため息を吐いた。
「実際に会ってびっくりしたよ。顔つきまで変わって…」
「……バイト先の店長にも誰か分からないって、言われて困ったんだがな。休みだから毎日行ってたんだが、普段作ってる料理しか見てないのがよく分かった」
「それ、本当に本人かって、僕のところに電話が来たやつだよね。僕は最近痩せてきたのかなって思ってたんだけど」
「別人並みに変わったよね。成長期ってすごいや」
「…すごいと喜べる感じではないんだがな。このところずっと身体中が痛くて堪らない」
痛みが抜けないようで日向はぎこちない動作で腕を伸ばした。 
「まぁ、しばらくは仕方ないだろ。それより、せっかく祭りにきたんだ。琳子の分も楽しもうよ」
「…あー。その、いいのか? この場合、どう考えても僕が邪魔に…」
「ならないよ。今日はみんなで楽しもうって決めてたんだし。琳子ちゃんがいなくて傷心中の日向君にも楽しんでもらわなくちゃね」
「傷心中って…無自覚のくせに」
サトルが小さな声で呟き溜息をついた。
「ちょっと待て、どういう意味だ」
「そのまんまの意味だよ?」
「いい加減にしないと誰かと付き合い始めるかもしれないけどね」
「は?! いや、なんでそんな話になっているんだ。大体、琳子は今それどころじゃないだろう」
「それどころじゃない、なんていつ決めたんだよ? そんなの琳子の気持ち次第だろ」
「…そう、なのか?」
夏休みに入る前、校舎裏で見つけた傷心の琳子の姿が今も目に焼きついている。後日、琳子が登校してホッとしたし、その後、画廊に四人で出かけたりもしたのだが。やや落ち着いて見えた琳子だが、どうにも目が離せなくて、立ち直る域には至っていないからだと判断していた。
「…悪い。そこまで考えが至っていなかった」
「別に…謝るほどではないけど、いつまでも立ち止まっているような性格ではないよ、琳子は」
「……そうだな」
日向はなんとも言えないほろ苦い表情を浮かべた。
「つい余計な心配をしているのかもしれないが。この夏が終わる頃には前よりずっと前進しているのかもしれないな」
この期に及んでも未だ琳子の心配をする日向に、サトルは小さく溜息を漏らしディランに囁いた。
「あれは親心と恋心を取り違えているのかな?」
「本人的には友情のつもりみたいだけどね。あ~もう、loveとlikeの違いから説明しないとダメなのかな…」
サトルにだけ聞こえるように小さな声でぼやいた。
「…馬鹿なのかな」
「かもね。いっそのこと女の子の友人でも出来たら、違いに気づくかもとか思ったけど、サトル君がいるのに…」
「いや、むしろ琳子が誰かと付き合いえば変わるんじゃないかな」
「あ、それいいかも」
「おい、さっきから何の話してるんだ。…やっぱり二人がいいんだったら、帰るが」
何かを話しているのには気づいていた日向が痺れを切らしたらしい。
「あぁ、とりあえずみんなで回ろうか」
「そうだね。どこから回ろうか。せっかくだから面白そうな屋台探してみようか?」
「面白そうな屋台って祭りの見物が先じゃないのか?」
「日本のお祭りは初めてだから、とりあえず回って気になる店を覗いていこう」
「あ、そう言えば、このメンバーってみんな日本のお祭り初めてだよね。琳子ちゃんはどうだったんだろ?」
「琳子は日本で生まれ育ったから何回かあるをじゃないか? 翠さんとかと一緒に子ども神輿を担いだかもしれないね」
「ミコシ?」
「文字通り神さまを載せる輿、乗り物だろうな。形状までは知らないが」
「あ、見て。お面が売ってるよ」
サトルがディランの浴衣の裾を引っ張り様々なお面が並ぶ屋台を指差した。
「あ、ホントだ。キツネとかもあるんだね。結構、いろいろあるね」
「鬼まであるのか…」
「せっかくだから買って、琳子に写メ送ろうよ」
「いいね。あ、琳子ちゃんの分もせっかくだから買おうか」
「誰が誰か分からなくならないか?」
「いいだろ、浴衣とか髪色で当ててもらおうよ。ぼくはこの狐にしようかな」
何だかんだと楽しそうにそれぞれサトルは狐、ディランは天狗、日向は鬼の面を選びつけると三人で並んで写真を撮った。そしてついでに琳子への土産に弁財天のお面を買った。
「さて、もう少し回ってみようか」
「さっき通る時、的当てみたいなのあったよ。猟銃みたいなのを使うやつ」
「射的だな」
「へぇ、面白そうだね。行ってみようよ」
「じゃ、決まりね」
笑みを浮かべるとディランは先ほど来た道を戻って射的の屋台へと案内した。
小さな駄菓子や人形などがズラリと並べられていて、当てるともらえる類のようだ。
「誰からやる?」 
「初めてだからやってみようかな」
浴衣の袖をめくり、サトルが名乗りでた。
「弾は五発だよ」
「サトル君、頑張って」
店主から射的用の銃と弾を受けとったサトルをディランが笑顔で応援した。
「そういや、どれ狙うんだ?」
「そうだなぁ…とりあえず初めてだから、簡単そうなものを」
サトルは箱に入った飴を狙い撃ったが、どれもあと少しのところで当たらなかった。
「もう一度撃ってみるよ。何となくコツがわかってきた」
お金を払い新しい弾を充填し、構えた。
「集中して」
やっている側から隣の台に空きが出来て、せっかくだからと日向が狙って先に撃った。どこを狙ったのか全く見当違いな場所へと弾は飛んだ。
「……」 
これまで撃った銃の角度と弾が飛んで行った方向を計算し深呼吸をして集中すると、サトルは狙いを定め箱入りの飴を撃ち落とした。
「やった!」
小さくガッツポーズを決めて喜んだ。
「わあ、おめでとう! サトル君」
ディランは自分の事のように喜んでくれた。
「…すごいな」
盛り上がるサトルとディランの傍らでは、相変わらずどこを狙っているのか検討はずれな場所を撃ちながら日向も思わずぼやいた。
「少しずつ角度を調整していけばいいんだ。まだ弾が残っているからあげるよ」
景品を受け取ると銃を日向に渡した。
「あ、いや。まだこちらにも弾が残って…」
そういう日向は残り一発となっていた。
「ありがたく受け取ったら? 日向君、今の調子じゃ、あと一発で決めるのは難しそうだし。僕もやろっと」
店主に声をかけるとディランも銃と弾を受けとりサトルと場所を代わった。
「…そうか? 悪いな、助かる」
「二人とも頑張ってね」
「勿論。日向君が狙ってるのってこれかな?」
タバコ入れの形をしたシガーチョコの箱を狙って撃った。微妙に合わず外したが、隣で撃っていた日向も外していた。
「それじゃない。あと、自分で取る」
言いながら日向はサトルから渡された弾丸の残る銃に切り替えた。
「そう?」
コツを掴んだのか、しっかりと狙いを定めるとディランは先ほど外したシガーチョコに当てた。
「あ、さすがだね」
恋人のようすにサトルは感心した様子で呟いた。
「ありがとう。ね、サトル君、欲しいやつない? やってみるから」
「欲しいやつ? んーなら、あれかなぁ」
と言ってからサトルは小さなヌイグルミがついたキーホルダーを指差した。あれなら通学鞄につけられるだろうと思ったのだ。
「…あれ、小さくないか?」
隣で撃っていた日向が唖然とした声をあげた。
「あれだね。やってみるね」
しっかりと狙いを定めたものの、真ん中には当たらず、僅かにかすって小さなヌイグルミは少しだけ動いた。
「…だけどディランなら大丈夫だろ」
ニコリと笑いディランを見上げた。
「…期待に応えるよ」
小さく笑みを浮かべると狙いを定め、今度こそきちんと当てた。
「はい、サトル君。どうぞ」
もらったキーホルダーをサトルに渡した。
「ありがとう、ディラン」
嬉しそうに受け取るとディランを見上げ尋ねた。
「でもぼくは、ディランに何もあげてないや。何かお礼をしたいんだけど」
「そう? 僕はサトル君が喜んでくれるだけで嬉しいけど。あ、じゃあ、次も何か面白そうなお店探そう? 今度はサトル君が気になったやつで」
ふわりと笑みを浮かべてみせた。
「ありがとう。ついでに琳子にもう少しお土産も買いたいね」
「わあ、いいね。琳子ちゃんのお土産も見よう。…そう言えば、日向君、取れた?」
「…全弾外した。ディランの弾残ってないか?」
「あるよ。どうぞ、日向君」
「助かる」
「どれを狙っているの?」
「…その、1番上のやつ」
日向が指し示す先には花火セットと書かれた小さなカードが置かれていた。
「…今日は全員集まれなかったが、またの機会に琳子も交えてやれるといいなと思ってな」
「喜ぶと思うよ、きっと」
「…だといいな」
最後の弾で日向はなんとか花火セットのカードを当てた。
その様子を見てサトルは微笑みディランと視線を合わせた。
「おめでとう、日向君」
ディランも笑みを浮かべた。
「二人のおかげだ」
花火セットを受け取って、日向も満載でもない表情を浮かべた。
「次、どこ行こうか?」
「そうだね。ヨーヨー掬いとか、あ、ガラス細工も売ってるよ」
「わあ、どっちも気になる。サトル君はどっちに行ってみたい?」
「ガラス細工を琳子のお土産にしたいな」
「じゃあ、そっちに行ってみよう」
「…そういや、ガラス細工ってどんなやつなんだ?」
「百聞は一見にしかず、だよね。行こうか」
そうして向かった屋台には小さなガラスで作られた様々な置き物が並んでいた。それらは屋台の灯りを受け宝石のようにキラキラと美しい輝きを放っていた。
「装飾品もあるみたいだね」
「ホントだ。綺麗だね。ガラスの腕輪とか、指輪みたいなのにもあるね。あ、これ、サトル君どう?」
ガラスの青い花飾りが並んだ腕輪を見つけて、指した。
「あ、綺麗だね」
「サトル君の瞳の色みたいで綺麗だなと思って。…あ、先に琳子ちゃんの選ぶ?」
「ううん、これ。気に入ったから琳子とお揃いで買うよ」
「あ、じゃあ、サトル君の分、僕にプレゼントさせて?」
サトルの反応にディランは目を輝かせた。
「え、いいの?」
顔を赤らめディランを見上げた。
「勿論。サトル君に似合うんじゃないかなって思ってたし」
笑みを浮かべた。
「ありがとう、ディラン。じゃあ、琳子の分はぼくが」
「…金は僕が出してもいいか? 選ぶのは難しいが、何かしたくてだな…」
意を決したように、サトルの言葉を遮った。
「え、日向が?」
思わず驚き、サトルは聞き返した。
「あ、いや。もちろんいいよ」
「…そうか? なら、そうさせてもらう」
決まったところで日向はさっさと支払いを済ませた。
「…なんていうか、日向君、珍しいね。…はい、どうぞ、サトル君」
同じく支払いを終えたガラスの腕輪を入れた紙袋をサトルに渡した。
「ありがとう。うん、ぼくも意外で…あ、でも日向が渡せよ。それ」
「は? あ、いや、選んだのはサトルだろ」
「それはそうなんだけど、サトル君も言ってることだし、日向君から渡したら?」
有無を言わさぬ笑みを浮かべてみせた。
「…わかった」
「でも、日向が異性にプレゼントするとはね」
袋から出して腕輪をはめながらサトルが呟いた。
「わぁ、サトル君、似合ってる。…日向君が女の子にプレゼントって初めてじゃない?」
「……今日いない琳子のことを考えたら、何かしたいと思っただけだ」
「……まぁ、いいけど」
日向を見上げサトルは苦笑した。
「ね、腕輪をつけたサトル君、写真に撮っていい? せっかく可愛い浴衣着てきてるんだし、撮りたいなって思ってたんだよね」
「え、ぼく一人で映るのは恥ずかしいよ」
顔を赤らめ手を振った。
「なら、二人で撮ろうか? 日向君、撮影係で」
「…自撮り出来るんじゃなかったか?」
「いや、せっかくだから三人で撮ろうよ」
「…そうだね。じゃ、三人で撮ろうか。サトル君、こっち」
ふわりと笑みを浮かべるとサトルをそばに寄せた。
「……」
一瞬気まずそうに表情を曇らせたがディランのそばに近づいた。そしてディランにのみ聞こえる程度の声で呟いた。
「今度は二人でこよう」
「勿論」
サトルの言葉に満面の笑みを浮かべた。
「日向君もね、こっち」
「あ、ああ」
遠慮がちに日向が近づくと、ディランはスマホを出して三人を画面に収めた。
「じゃ、撮るよ」
「琳子に送るから笑顔で」
「は? 聞いてないぞ」
「勿論、サトル君は今言ったからね。ほら、笑顔笑顔」
「…わかった」
なんとか日向まで笑顔を浮かべたところで写真を撮った。
ちょうどその時、三人の背後では打ち上げ花火が上がった。
「わ、サトル君、花火!」
撮影後、ディランは思わず振り返り、サトルを促した。
「あ、うん」
サトルは慌て花火を撮影した。
「ちょうどいい瞬間だったみたいだな。さっきの写真、花火付きで写ってる」
ワンテンポ遅れて先ほどの写真を見た日向も、花火の方へと向き直った。
「あ、ホントだ」
笑みを浮かべるディランの頭上でまた新たな花火が鮮やかに空を彩った。視線は写真画像から、夜空の大輪の花へと向かった。
「…綺麗だね。琳子ちゃんも来られたら、良かったんだけど」
「次はその花火を楽しめばいいよ。琳子と一緒に」
日向が持つ花火セットを見てサトルは優しく微笑んだ。
「…それがいいな」
日向も今はいない琳子のことを考えていたようで、サトルの言葉に表情を緩めた。
「なあに、日向君、その為にわざわざ手に入れたんじゃない」
「…まあ、な」
そして三人は次々と咲いては散る満開の夜空の光の花を見上げた。
 
 
 サトルに祭りには行けないと電話をした後、私はホテルのベッドに倒れ込んだ。
 さすがにあんな事があった夜を独りで過ごす訳にもいかず、ジャックが急遽もう一部屋ホテルをとって宿泊する事になったのだ。今後の事も考えてジャックがホームセキュリティを申し込むとか何とか言っていたけれど、それをどうやってうまく翠に伝えればいいのか考えると頭が痛くなってしまう。
 「リンコ」
 さっきまでどこかに電話をかけていたジャックが寝室の戸を叩いた。
 「入っていいわよ」
 もう一歩も動きたくなくて私は横になったまま返事をした。
 少し躊躇うような間の後にジャックが入ってくる。ベッドに横たわる私を見て、彼は複雑そうに顔を歪めそれから小さく笑った。
 「随分疲れている様子ですので、食時はルームサービスを頼みましょう」
 ベッドの近くの椅子に座るとジャックは遠慮がちに私の髪に触れてきた。
 「少し休まれますか?」
 「そうね…でも、身体は疲れているのに頭は冴えてしまっていて…」 
 「そうですか。では…これ幸いにとばかりに色々話でもしましょうか」
 「人が疲れて動けないタイミングを狙うなんて、本当に性悪ね。いいわ、眠くなったら答えないから」
 優しく髪に触れる感覚が気持ちよくなってきて、私は欠伸を噛み殺した。
 「…リンコにとって、学園での生活はどうでしたか?」
 「一言で言い表せられないわ。…こうして離れてみて、もう一度ちゃんと会って話をしたいって思える人がいたの」
 「それは…」
 言いかけてジャックは戸惑うようにしばし沈黙した。
 「それは…わたしも知っている人でしょうか」
 「……」
 私は答える前に少し視線を上げてジャックの顔を仰ぎ見た。最初に寝室に入ってきた時以上に複雑そうな感情を隠そうと必死にポーカーフェイスを装っている。そんな姿がなんだか可愛らしくておかしかった。
 「みんなが…彼を知っているわ。知らない筈がないもの―――セトを…」
 そう呟くなりもう意識が限界を迎え、私は静かに眠りについた。
 
 昨夜送られていたサトルからの写真を眺めついにやけてしまう私に、ジュースを持ってきたジャックが声をかけてきた。
 「随分と面白いお面ですね」
 「昨日お祭りに行っていたのよ。その時の写真。みんな今の学校で親しくなった友だちよ」
 「そうでしたか」
 友人たちの顔を見て穏やかに微笑むジャック。半ば無理やりとってきたと言う彼の短い休暇は今日で終わり。空港まで見送りにきて欲しいというお願いを聞いてあげる事にしたのだ。
 世間も夏季休暇中だけあって空港内はひどく混雑していた。既に搭乗手続きを済ませたジャックは先ほどから少し落ち着かない様子だった。
 「まだ何か心配なの?」
 「いえ…」
 と言いながらも彼の視線は人混みの中から誰かを探そうとしているように見えた。
 「―――かつてリンコくらいの年だった頃、わたしも同じでした。自身の能力の限界、現実問題への突破口を見いだせず時間ばかりが過ぎていく焦燥感。だからこそ様々な境遇に置かれた子どもたちが集うあの学園で…仲間を見つけ、自由に呼吸をする事ができました」
 私の向こう側を眺めていたジャックの視線が一点に留まる。同時に雑踏の中、規則正しい歩調で近づいてくる気配に気づいた。
 「昨夜、リンコの話を聞いて確信しました。その傷は同じ傷を持つ者にしかわかり合えない。そしてこれが…何一つ父親らしい事をしてやれなかったわたしにできる、最善の方法なのではないかと」
 足音と共に私の鼓動は早まる。
 もう大丈夫、そう思えるようになっていた私を不完全だと診断する言葉に正体の知れない不安が煽られる。私の傷―――それは一体何を指しているの?
 ピタリと止まる足音と共に、私は振り向いた。
 「やぁ、久しぶり」
 聞き覚えのあるその声に背筋が震えるような感覚が走った。
 学園で会った頃より少し伸びた髪の他、何一つ変わらない。ショウゲ・コゥルは何も変わらないままそこに立っていた。
 そして私は無意識のうちに。ジャックがくれたあの脱色した、青い鳥の指輪と強く握り締めていた。
 
 
 
本日初めて顔を合わせる若き王子と王女。彼らは生まれた時からの婚約者でした。先日赤ん坊の頃、何者かに連れ去られずっと行方不明だった王女が見つかり、晴れて両国の和平と友好の証としてこの場で永遠の愛を誓う事となったのです。
 後に王妃となった王女は親しい侍女にこう語りました。
 「とても友だち想いの少女がいて、私とも親しくしていたわ。それなのに彼女は何者かに斧でひどい殺され方をしてしまったの…。もう何年も経つと言うのに犯人どころか、凶器さえもわかっていないのよ」
 と、王位継承者の証であるガラスの靴を眺めて微笑みました。
 
                        (『灰かぶりの埋葬』より)
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