片足を失くした人魚

青海汪

文字の大きさ
11 / 11

第十話 ウェンディの結末

しおりを挟む

 車内は週末だったけれど行き先が都心や観光地から遠く離れていたお蔭もあってかひどく空いていた。それでもショウゲは指定席を用意してくれて、私たちは向かい合って座った。私は終始サトルと他愛のない話を楽しみ、ショウゲは時々会話に口を挟みもしたけれどずっと本を読んでいた。
 乗り換えをする度に周りには人も建物も減っていく。山に近づくにつれて気温も下がりまだ秋も始まったばかりだというのに吐き出す息がほのかに白く見えた。次の列車に乗りついでそこから更にバスに乗るらしいけど、朝早く出てもう昼を過ぎようとしていた。
 「寒くない?」
 声をかけられて振り向くとショウゲから温かな紅茶を渡された。見るとサトルも暖かいほうじ茶をもらったようで、両手を温めているところだった。
 「…ありがとう」
 不意に肩の力が抜けた気がした。自分で自覚している以上に、私は随分と緊張していたようだった。
 「バスの本数がやっぱり少ないみたいだから、駅を降りたらタクシーに乗り換えるよ」
 「予約をしてくれたの?」
 「もちろん。個人の所有地だから滅多に車も通らないしね」
 「………」
 行き先は未だ明確に聞いていなかった。どうせ行けばわかるだろうというどこか自暴自棄な気持ちと、きっとあそこだろうという予想があったからだ。所有地と聞いて、もはや疑いようもなく日本にある結衣子さんの母校。母も一時在籍していたという黎楼学園に違いないと確信した。
 セトの人生に多大な影響を及ぼした彼の伯父も、確か日本の学園に在籍していたと聞いた。伯父は父親から受けていた長年の虐待で精神を病んで、若くして自殺している。それも、彼の目の前で病室の窓から飛び降りた。
 そんな話を思い出し心がざわめくのを感じた。まだ目的地に着いてもいないというのにこの調子では先が思いやられてしまう。ちょうどショウゲとサトルが二人で会話をしているので、この隙に私はピルケースから屯用の薬を取り出し紅茶で口の中に流し込んだ。サトルに知られてしまったら、薬は必ず水で飲まなきゃいけないと懇々と説教をされていただろう。けれどわざわざ水を買いに行ってしまえば私が薬を飲まなきゃいけないくらい追い詰められていると気づかれてしまう。
 ペットボトルのキャップを閉める指が僅かに震えていた。
 本当は、真実なんて知りたくない。傷ついてでもいいから知りたいけれど、でも、何も知らないままで過ごせる幸せに、つい縋りたくなってしまう時もあった。
 「……い…」
 怖い、と誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。けれど、これが私の望みの対価ならば。薬一つで抑え込める程度の不安なら、今はまだ、前に進むしか道はない。
 
 山奥にある小さな駅を降り、タクシーに乗り込むと車は迷う事無く更に山の奥へと向かって進みだした。疲労感と僅かな緊張が車内に漂う。暖房がほどよく利いているけれど窓の外は薄らと霧が漂い、木々の向こう側も景色が見えなかった。
 精神を病んだセトの伯父は学園で隔離されながら育ったらしい。そこで出会った唯一心許せる女性がいたが、彼女は学園の在り方を否定する為に伯父を置いて外の世界へと出ていった。それが結衣子さんとベンバー先生の友人でもあった人だった。もしかしたら母とも多少面識があったかもしれない。
 学園に行けば何かわかるだろうか―――
 思考に溺れる私の手を何か温かい物が触れた。見るとそれはサトルの手だった。
 彼女は強く握り過ぎて血の気を失った私の手を包み込むと、視線は前に向けたまま運転手に話しかけた。
 「この道は時々誰かを乗せて行く事があるんですか?」
 「滅多にないですけど…そうですね。この山にはご当主の代々続く個人墓地があるので学園にご縁のある方がお参りにくるくらいですかね。あとは黎楼学園に行く方かな」
 二人のやりとりを聞いているつもりなのに、先程の薬の効果が出てきたのか少し頭がぼんやりとしてきた。ほんのりと身体が火照るのもその所為だろうか。
 私はサトルの肩に頭を預け到着までのひとときを微睡んだ。
 
 「寒いから気をつけて」
 そう声をかけられたけれど、やはりドアを開けた瞬間に冷気に晒され一気に目が覚めた。
 「疲れは少しとれたかい?」
 車を降りたショウゲが手を差し出しつつ私に尋ねてきた。
 「……」
 疲れなんて少しもとれていないし、むしろこれから更に過酷な状況が待ち受けているというのに肩の力を抜く訳にもいかない。最適な返答が思い浮かばず、私はそっと彼の手を借りると黙ったまま車を降りた。
 「…わぁ…」
 先に降りていたサトルが思わず声を漏らして感嘆していた。それにつられて視線を持ち上げる。乳白色の霧が木漏れ日の光を受けて辺りを厳かな雰囲気へ変えている。そんな中私たちを待ち構える、年季を感じる蔦で覆われた煉瓦の塀と門扉に続く橋があった。
 橋にかかる霜が細やかな光を反射してひどく眩しい。
 フランスの有名な修道院に例えられた湖上の城メール・ヴィ学園とはまた違う趣でつくられた日本の黎楼学園。元々はセトの曾祖父の代で創立され、その後各国に姉妹校を増やしていった。謂わばここは私たち迷子の始まりの場所。
 「行こうか」
 脚が竦んでしまい動けずにいた私に、ショウゲが再び声をかける。率先して歩くと彼は門扉のすぐ脇に建つ山小屋のような受付で門番と何やら会話を始めた。
 門番の男性が一旦席を外すとショウゲは振り返り先程受け取ったらしい入園許可証を渡してくれた。
 「手続きにもう少し時間かかりそうだから、よければ学園の中でも見学しておいでよ。今はちょうど授業中だから」
 「…目的地ってこの学園ではないんですか?」
 「そう言う事。ここでぼくと待ってくれてもいいけど、正直中の方が興味あるだろう? 行っておいで。ぼくはここで、待っているから」
 私たちはお互いに顔を合わせると仕方なく入園許可証を首からつりさげ学園の敷地に踏み入った。
 「かなり広いんだね」
 私が過ごした学園は立地や環境の問題もありほとんど屋内で過ごしていた。敷地内に多少スペースはあったけれど、ここと比べるとそれもかなり狭かったのだと思った。
 建物と建物の間には十分な広さがあり、休み時間などはこうして園内を散策して過ごすのも気持ちがいいだろう。所々にベンチとテーブルが設置されており、思い思いに楽しむ生徒たちの姿が思い浮かんだ。
 建物の古さはメール・ヴィ学園の方が当然勝っていた。古城を改築しているのだから歴史の長さが違うだろう。けれど上質な作り手が細部まで拘り造り上げた建物だという事は見てすぐにわかった。
 「琳子のお母さんもここで過ごしたんだね」
 「……どんな気持ちで…いたのかしら」
 母は遺言書にメール・ヴィ学園もしくはその姉妹校へ進学するよう示唆していた。当時はその理由がわからなかった。今でもこの考えが正しいのかわからない。けれど幼い頃より実の兄に性的な虐待をうけていた母が、自らこの学園を探してきて入学を希望したという話を聞いて。この学園で過ごした僅かな日々が、きっと傷ついた彼女を癒すだけの効果があったのだろうと思えた。そして同じように辛い事件を経験した私たちが、再び前を向いて歩いていけるまで。自分の死後、子どもたちを守れるのは学園しかないと信じていたのだろう。
 「妃沙子?」
 誰かが母の名前を呟いた気がして私は振り返った。そこには学園の教師と思しき男性が驚いた表情で私を見詰めていた。
 「やっぱり…いや、でも脚は…」
 頭の先から爪先までじっくり観察するように眺めながら、男性は混乱した様子で一人ぼやいていた。
 今日は長時間の移動を考えてできるだけシンプルな服装を選んできた。その所為もあって今朝から翠に母にそっくりだとからかわれるくらい、実年齢よりも上に見られた。そして彼の言動からも察するに、亡くなったと報せがあった筈の母が思い出の地に蘇ったのだろうかと少しファンタジーな発想に陥って混乱しているのだろう。
 「母をご存じなんですね」
 「…母? もしかしてきみは、妃沙子の例の…っ」
 と口走ってから思わず口を塞ぎ、男性は気まずげに視線を漂わせた。それから咳払いをしてごまかすと、改めて私たちの元に歩み寄ってきた。
 「突然失礼な態度をとてしまい大変申し訳ない。ぼくはここで教鞭をとっている大和田です。由良川妃沙子さんとは同期だったんだ」
 「初めまして。娘の琳子と私の友人です」
 簡単に自己紹介をするとサトルは軽く頭を下げた。
 「もしかしてきみも編入するのかな?」
 「いえ、そういう訳ではなく…。今、もう一人の知人が門の近くにある受付にいて…」
 「あ、お供えの花を貰っているんだね」
 「…っ―――」
 その瞬間、目には見えない巨大な拳に後頭部を強く殴られたような衝撃を感じた。心臓の鼓動が耳元で鳴っているような気がして、激しい眩暈と吐き気を覚えた。私はそれを必死に堪えて悟られないようにするのが精一杯で大和田さんの話はまったく耳に入らなかった。
 「この近くに学長一族の個人墓地があるんだよ。学園に由来のある参拝者が時々くるから、受付の方で事前に連絡をもらった人に限りお花とか線香の準備を代行してくれるんだよ。ぼくも年に一回はお参りに行っていて…」
 五感がゆっくりと死んでいく気がした。視界が徐々に暗くなっていき音も消えていく。指先が冷えて感覚がなくなっていく。
………。
 そして気がつけば、私は一人で冷たい霧の中を歩いていた。何故か腕には白い薔薇と木香薔薇を混ぜた花束を抱いて。
 あまりに現実離れしていて、これはもしかしたら夢の中かもしれないと何度も思った。けれど吐き出す息の冷たさやしっかりと感じる花束の重みも、歩く度に伝わる靴裏の感覚も。すべてが悲しくなるぐらいそれは現実なのだと知らしめる。
墓地の入口でサトルが一緒に行くと言っていたように思えたけど、彼が止めたのだろう。じゃなければ今私は、こんな風に泣く事も叫ぶ事も何もできずに。抑えきれない感情を持て余し、出口を求めて蠢くこの激情を―――どうしたらいいのか…わからない。
 苔で覆われた墓や小さなお地蔵様のようなもの。西洋風の墓石に十字架まで。沢山の人たちがそこに眠っているというのに、誰も私にどうすればいいのか教えてくれない。けれど何故だろう。こんな日本の山奥だというのに、墓地には様々な薔薇の花が植えられていて。懐かしい学園の香りまで思い起こされてしまう。
 まるで行き先を阻むかのようにして佇む一際新しい墓石の前で私は歩みを止めた。
 そこに彫られた『一之勢』の家名。セトのファミリーネームを思い出した途端に、両足から力が抜けた。
 初めて会った時、華奢な身体つきに表情のない彼がとても異質で不気味に思えた。けれど彼を知るうちに。決して一つの印象で括れない独特の雰囲気に気がつけば、夢中になっていた。
 不気味で不思議で優しくて。誰にでも対等に接しておきながら、残酷に裏切る事もできる彼をもっと知りたいと思うようになった。迷子たちが望む最高の立場にありながら、決して幸せそうには見えなかった彼を―――解放したいと思った。
 「…こんな結末だって知っていたら…」
 掠れた声で呟くと、それまでずっと硬く凍りついていた涙が一気に溢れ出した。
 「私は…貴方に、恋なんてしなかった」
 見上げるその先にあるものは、冷たい彼の亡骸を慰める無慈悲な墓石だけだった。
 
 
 「どうして季節外れの薔薇なんて選んだんですか?」
 琳子を見送ってしばらくしてから、サトルは花束に使われた木香薔薇を思い出し尋ねた。開花時期は四月から五月とされておりこの季節に咲くものではない。おそらくわざわざ温室で育てたものを準備しておいたとしか考えられなかった。
 「……」
 ショウゲは懐から煙草を取り出しそれを吸うと、しばらく宙を揺蕩う紫煙を眺めてから答えた。
 「幼い頃の幸せな時間。貴方に相応しい人。そして白薔薇の花言葉は、純潔。私は貴方に相応しい。…だからかな。あの二人に…ぴったりだと思ったんだよ」
 とショウゲは掠れた声で呟いた。その瞬間、もしかしたら涙を堪えているのだろうかと思い、サトルは咄嗟に視線を彼方へ逸らした。
 先程ショウゲは茫然とする琳子を相手に、学長の家系図に名を連ねる者はここの墓地に埋葬されると説明していた。だから墓石を見れば琳子の想い人がそこに眠っているのかすべて判断できる。けれどショウゲにとってもセトは、同じ学園で過ごした思い出深い人物だったのかもしれない。
 サトルにとって今ほど自分が、場違いだと痛感した事はなかった。
 「…ぼくはね、サトルさん。学園を去った後、当然のように二人は幸せに暮らしていると思っていたよ。すべての物語がそうであるように」
 「……」
 何と言えばいいかわからずサトルは沈黙した。きっと学園が炎上しなければその想像通りに、すべては幸せなまま過ごせたのだろう。
 「けれど何者かが起こしたあの火事で、すべてが燃えてしまった。ぼくらの、守りたかった学園での日々は終わってしまった。既にそこから身を退いたぼくでさえ、その報せは耐えがたい苦痛だった。原因を知りたくて調べたよ。ありとあらゆる伝手と手段を使って」
 その言葉にショウゲの執念を感じ、サトルは背筋が凍るような恐怖を覚えた。
 「……火事で亡くなった女子学生と、行方不明になったとされるセトくん。事件が起きたその夜。校舎にいたのはその二人だけだった」
 「それを…琳子は、知っているんですか?」
 「…知れば、更に傷つけるだろうね」
 震える声で尋ねたサトルに対し、ショウゲはひどく冷めた態度でそう切り捨てるようにして応えた。
「……っ」
 サトルは込み上げる様々な感情を食い縛り耐えた。けれどショウゲはやはり、冷ややかな眼差しで墓地の入口を眺めた。
 「…これだけ長い時間かかっているって事は、きっと見つけたんだろうね」
 霧でしっとりと濡れたショウゲの肩を見上げながら、孤独な森の奥で涙を流している親友を思い苦しくなった。
 
 琳子がサトルたちの元に戻ったのはそれから小一時間ほど経ってからだった。涙は既に乾いていたが目元は赤く腫れていた。湿気で服が濡れてしまった所為か小さくなってしまったように錯覚してしまった。
 「…琳子…」
 名前を呼ぶのが精一杯だった。学園と言う共通点のない自分にとって、琳子の悲しみをすべて共感するのはきっと無理なのだろうという悟りもあった。
 「…ごめんなさい、待たせてしまったわね」
 琳子はサトルたちを見ると肩を竦めて苦笑した。
 「大丈夫かい?」
 ショウゲが近づくとポケットからハンカチを取り出し渡した。それを受け取ると琳子は髪や肩を拭きながら頷いた。
 「えぇ。…これが、結末だというなら納得するしかないわ」
 「……そうかい」
 穏やかな眼差しで琳子を見守るショウゲ。何故か琳子の表情も和らいだように見えた。
 「…帰りましょう」
 その一言でサトルはすべての問いかけを飲み込むしかなくなった。彼女が帰ったらどんな風に声をかけたらいいのかずっと悩んでいたが、すべて無意味な結果となった。
 道中の琳子は行きしなとはまた違う意味合いで沈黙していた。きっと様々な感情を抑えて自分の中で激情が凪ぐのを待っているのだろう。その証拠に、サトルの手を握る琳子の指にはいつまで経っても熱が戻らなかった。
 もっと自分の感情を吐き出せばいいものを。ついそう考えてしまうがサトルには彼女がそうできない理由をよく知っている。
 本人が意識する以上に周囲の関心を集めてしまい易い琳子が、自身の感情のままに行動すれば周りは様々な憶測をする。そうして彼女の真意に迫る答えなどないまま、噂はまるで真実のように渡り歩き琳子を傷つけていく。だから琳子は自分の感情をあまり出さない。それが与える影響を気に掛けるあまり、素直に泣き叫ぶ事もできなくなったのだ。
 けれど同じ学園の出身であるショウゲならサトルとは違うのかもしれないと思っていたが、彼に於いては行きしなと同様にずっと本を読んでいてほとんど喋りもしなかった。
 「………」
 窓の向こうを流れていく景色を眺めながらサトルはふと友人を思い出した。 
 もしこの場に日向がいたなら。あの真っ直ぐな性格で、琳子の硬い殻を破ろうと努力していただろうか。琳子がうまくはぐらかして終わってしまう可能性もあるが、でも、こうして達観した気分で諦めてしまう自分よりはずっといい結果になっていただろう。
 ガラスに映る自分の情けない顔を見て、内心溜息を漏らした。
 
 
 地元に近づく頃にはあたりは黄昏色に染まっていた。
 ようやく慣れた路線に乗り換えて少し心が落ち着いた。途中でサトルと路線が変わるので、私たちはホームで別れを告げた。
 「今日はありがとう。来週、また学校で」
 「サトルさん、ゆっくり休んでね」
 ショウゲは私と同じ電車に乗るので共にサトルに手を振った。
 「…琳子」
 ホームに車両があらわれたので乗り込もうとする人々が動き出した。ふと呼び止められ私の手を握ると、サトルは何故か泣きそうな顔をしていた。
 「……こんな時に、こんな事を言いたくないけど。だけど、今日はきみが生まれた日だから。きちんと伝えたい。…誕生日、おめでとう」
 掌に当たる硬い箱の感覚で私はソレを思い出した。
 「…えぇ。ありがとう、サトル」
 胸がざわめいて苦しいくらいだった。けれど優しい私の親友に涙を見せたくなかった。
 掌に納まる小さな箱を握り締めたまま、私たちは電車に乗り込んだ。サトルはずっと私たちに向かって手を振っていた。不安げな彼女の眼差しが私の罪悪感を刺激した。
 車内には人がほとんどいなかったので私たちは並んで座った。
 「開けるのかい?」
 ショウゲに問いかけられ、私はサトルから受け取った小箱を取りだした。蓋を開けると中はガラスケースが入っていた。それは小さなオルゴールだった。
 曲名は「右から二番目の星」だった。
 夜空に浮かぶ右から二番目の星が、貴方の願いを叶える…といった曲だった気がする。
 「……」
 不意に力が抜けて私はショウゲの肩に凭れ掛かった。意外に筋肉質で硬い感覚だった。
 「…不満、なのかな?」
 「……さぁ…」
 否定も肯定もできない問いかけだ。何度も頭を過った結論でもあった。だけど確信に至らなかっただけで、ずっと彼の死は心のどこかで予感していた。
 ―――事実は何も変わらない。私が泣いて喚いて運命を呪ったところで、事態は好転しない。ショックを受容する過程を一足飛びに迎えて、適応していくしかない。
 「……未だに連絡をとりあう学園の友人は何人かいると思うけど」
 しばらく沈黙した後、ショウゲは言葉を選ぶように慎重な口調でそう切り出した。きっとまたショックな告白でもあるのだろう。もうこれ以上、傷つきたくない。心に傷を増やしたくない。だけど聞かなければいけない。無知は私の弱みになってしまうから。
 「…学園炎上の犯人をセトくんではないか…とする噂も流れているようだ。だから…」
 途中からショウゲの声が聞こえなくなった。脳がこれ以上の情報は処理しきれないと判断したのだろうか。無音となった世界で私は、あぁ、だからか…と独りで納得していた。
 あれだけ交わした友人とのメールのやりとりの中で、不自然なまでに出てこないセトの情報に疑問を抱いていた。炎上事件からまだ心が癒されていないから。彼が行方不明になっているから。と尤もらしい理由を見つけて納得していたけれど、実際は何て事ない。死人に口なしだから。彼がどれだけあの学園を想っていたか知っているならば、絶対にそんな推測に至る筈がないのに。でも、信じてきた友人たちの本音を垣間見た気がして心が切り裂かれるような痛みを覚えた。
 電車を降りる頃には極度の疲労から軽い眩暈まで出てきた。
 「車を呼ぶよ。家には翠くんは?」
 「いなかったら出かけているんでしょうね」
 卑屈な気分で呟いてから後悔した。今日は私自身も遅く帰ると伝えていたので、翠もどこかへ出かけると言っていた。だから誕生日パーティは明日に繰り上げようと二人で決めたのに。
 「車はいらないわ。少し休んで帰るから」
 駅の近くにある公園に向かって歩くとショウゲもついてきた。
 そう言えば彼の家がどこにあるのか知らないが、当然のように同じ駅で降りて改札口を抜けてきている。日も暮れ始めているこの時間帯に一人で帰る危険性を無視できなかったけれど、でも、これ以上彼の好意に甘えるのも嫌だった。
 「一人になりたいの。放っておいて」
 「残念だけど喫煙所がないからね。隠れてこっそり吸いたいんだ」
 ショウゲがヘビースモーカーなのは既に知っていた。学園で時々一部の生徒たちが煙草を隠れて吸っていたけれど、もはやそれは公然に隠された事実となって扱われていた。もちろんばれてしまえば厳しい処分はあったけれど、24時間を共にする寄宿舎生活では家族以上に生徒たちの間は密になり隠し事をする方が難しくなる。
 「きちんとあの学校は卒業したいから、これでも我慢してるんだよ」
 木陰に隠れたところにあるベンチに座ると、ショウゲは私の隣で煙草を吸い始めた。
 同じくヘビースモーカーだった母が健在だった頃はいつもこの匂いを嗅いでいた。けれど家の中が煙草臭くなるのは嫌だという母の拘りで、もっぱらキッチンは喫煙所代わりにされていた。
 留学を終えて家に帰るとキッチンの壁紙が新しくなっていた。どうしても黄ばんでしまうので定期的に張り替えて綺麗にしているのは知っていたけれど、美しいブルーの壁紙に替えた時。母はこの先もあぁして煙草を吸いながら、次に替える壁紙の色について想いを馳せていたのではないかと思う。
 当然としてこの先もずっと続くと思っていた未来。私が思い描く先には、いつか再び出会えると信じていた彼の姿があった。私がきっと、諦めない限り。絶対にあの約束は守られると思っていた。
 何故こんなに胸が苦しくて、苦しくて、悲しみが溢れ出ようとするのか。彼と交わした何てことない言葉の数々が何度も頭の中で繰り返される。それどころか思い出の中の、幸せだったあの頃の自分自身にまで嫉妬してしまう。
  ―――もう一度、初めましてから始めよう。
 燃え上がる炎を背景に、そう囁いた彼の顔が―――
「……ゴホッ」
 煙を吸い込んで咳が出た。
 「あ、ごめん。風の向きが変わったみた…」
 慌てた様子で煙草を持ちかえ風下へ移動しようとしたショウゲは私を見て動きを止めた。
 「…煙が……しみたのよ」
 止まらなくなった涙をそのままに、私はショウゲの手元から煙草を奪った。
 そして一気に煙を吸い込むと、盛大に咳き込みながら紫煙を吐き出した。煙草の所為なのか、ただただ自分の感情が抑えきれないだけなのかわからない。けれど誤魔化せないほどの大量の涙が止まらない理由にくらいなら、きっとなってくれるだろう。
 「あーもう、琳子ちゃんってば慣れないのに…っ」
 咳き込む私の背中を撫でながらショウゲは何も聞かず、ずっと傍にいてくれた。
 初めて吸った煙草は、やたらと苦くて塩気の強い涙の味がした。
 
 結局車には乗らずにショウゲが自宅まで送ってくれた。道中の会話は専ら翠に関する事だった。お互いが気まずくならず交わせる数少ない話題だからだった。
 「へぇ~じゃあ、やっぱり翠くんは留学するんだね。と言うより、彼としてはもうドイツで生きていくつもりなんだろうね」
 「そうね。三年少しの留学期間で既に将来に向けた根回しもある程度済ませていたみたいよ。むしろ学園やこうして日本に帰ってしまった事の方がイレギュラーだったと思うわ」
 「でもそうしたら彼女? 恋人? と更に距離できるんじゃないのかな」
 「彼女がどうかも微妙なラインだから本人の前でその表現は控えた方がいいわよ。それに彼も…特定の人に束縛されるのを嫌うから、どうなるかわからないもの」
 「いいね♪いいね♪なんだか青春を謳歌しているって感じだよね♪翠くんが学園でも特定の恋人を作らなかったのもきっとそういう性格なんだろうなって思ってたよ」
 「でも意外ね。…翠がそこまで貴方に気を許しているとは思わなかったわ」
 「あーそれはね。最初はものすごい警戒されて、何なら視界に入るのも許さないってくらいだったけどね。ほら、ぼくって人から愛される才能が素晴らしいから? それに野生の動物を飼い慣らしていく過程って好きなんだよね。最後には骨抜きになって、無防備になるのがね。まぁ、翠くんはまだまだそこまで至っていないけど…」
 自信満々で言い出しておきながら、最後は何故か遠い眼差しで暗くなった空を仰いだ。
 月明かりが彼の顔を明るく照らし出す。背が高いのでショウゲが上を見上げるとなんだか自分がひどく小さくなってしまうような錯覚を抱いてしまう。日向も背が伸びたがそんな風に感じた事はなかった。
 「あ、そう言えばぼく。一度だけ琳子ちゃんのお母さんに会った事があるんだよ」 
 突然表情を変えて目を輝かせ、私の顔を覗き込んだ。
 「会ったと言っても見かけた程度なんだけどね。社交パーティで彼女も参加していて、ぼくもその場にいたんだ」
 まさかこんな所でも母の話を聞けると思わず私は驚いた。
 「白いマーメイドラインのドレスを着ていてね。とても綺麗で目立っていたよ。まぁ、綺麗なだけならわんさかいる場所だったんだけど…彼女は、そこにいるだけで目を惹く存在だった。しかも何だかちょっと、あまり関わらないようにしないとぼくの人生が大きく変わりそうな雰囲気だったなぁ…」
 確かに母と出会って色々な意味で変わってしまった人々は少なくない。初見でそこまで見抜いたならショウゲの勘はなかなか鋭いのだろう。
 「で、そんな彼女にあろう事か、転んでぶどうジュースを零した子どもがいたんだよ。親も蒼褪めて飛んできて、彼女の純白の美しいドレスにはデカデカとシミができてしまってね。周りもぼくもハラハラして成り行きを見守っていた。けれど琳子ちゃんのお母さんは何て言ったかわかるかい?」
 にっこりと笑い尋ねる彼に、私は少し考えてからこう答えた。
 「私に似合いの真紅の薔薇が咲いた。ただそれだけの事…とでも言ったんじゃないかしら」
 「……っ」
 ショウゲは虚を突かれたような表情を見せ、それから相好を崩し吹き出した。
 「そう、まさにそうなんだよ。アハハッ、やっぱり親子だね。よく似ているよ」 
 …そうなのかもしれない。今日会った大和田さんにも言われたように、私たち親子はよく似ている。外見も、考え方も。だからそうした見た目や思考が及ぼす影響が人生に大いにあるとしたら、私は母のような人生を送るのかもしれない。
 初恋の人。
 母の初恋の人は多分ベンバー先生だったのだろう。そして二番目がきっとジャックだ。彼との子どもを産み、ジャックは母の生涯唯一のパートナーとなった。
 そう。私はただ初恋の人が死んでいると今日知っただけで。ただそれだけの事で地球は滅びないし、私は傷心のあまり自殺になんて追いやられない。帰ってゆっくりと身体を休めたら、きっと来週から再び休まず学校へ行き淡々とした日常をただ送るだけ。
 私の初恋は終わってしまった。母のように何か実を結ぶ事もなく。
 彼は誰かに心から愛されていたと知りもせずに、あの炎の中で焼かれて死んでしまった。
 ドレスについた落ちない汚れのように。もう彼はいないのに、心に焼きついたあの面差しは決して落とせない。たかだか恋を失ったというだけで、どうしてこんなに苦しくて悲しくて。世界が滅びてしまえばいいのにと真剣に願ってしまうんだろう。
 「……琳子ちゃん」
 ずっと熱が戻らない私の手を、温かなぬくもりが包んだ。
 私はショウゲの顔を直視できなかった。
 また煙もないのに涙腺が刺激されて、涙が溢れてきたからだ。
 苦しくて苦しくて切ない。悲しくて堪らない。誰かに優しくして欲しい。抱き締めて、慰めて欲しい。誰でもいいから無性に甘えて、そして埋まらない心を満たしたい―――
 「……っ」
 息を飲み込むような気配につられ、私は思わず顔を上げてしまった。
 恋を失い傷ついた女性というものは、もしかしたら一種の他者を魅惑する力を宿すのかもしれない。ショウゲと目が合った数秒間。彼が私に見惚れているのがわかった。
 このまま何も言わず、黙って瞼でも閉ざせばきっと彼を受け入れる合図になる。
 傷ついた心を癒せないでも、埋まらない心は一時の満足感に包まれるだろう。
 「……煙草を、一本ちょうだい」
 この一言で、それまで秒読みとなっていた私たちの間に再び距離が生まれた。
 「あ、あぁ…」
 ショウゲは気まずそうに視線を逸らすと私に煙草を一本渡し、そのまま火をつけてくれた。
 普段副流煙を吸い慣れていたから耐性があるのかわからないが、二回目の煙草はそんなに抵抗を感じなかった。それに、煙草の先をジリジリとゆっくり焦がしていく小さな炎の動きがひどく愛しくて。私が吐き出す煙がゆっくりと空に向かっていく様が、まるで弔いのように感じられた。
 「…あまり吸うと匂いが残るよ?」
 「いいの」
 頭を振り否定すると、私は煙草を咥えながら応えた。
 「もう、いい子を続けるのはやめるから」
 それは単なる強がりなのかもしれない。けれどそうやって自分に言い聞かせていかなければ、私は立ち上がれないくらいに弱っている。でも、泣いてばかりじゃいけない。誰かに頼る人生ではないから。進むしか道がないのなら、私は、前だけを向いて進んでいきたい。
 
 自宅に着くと予想した通りまだ翠は帰っていなかった。私が鍵を開けて扉を開けるまでを見守るとショウゲは帰ろうと踵を返した。 
 「ショウゲ」
 呼び止めると彼は振り返り私を見た。
 「…今日は付き合ってくれて、本当にありがとう」
 「…最高とは言い難い誕生日になってしまったけど、きみがそう言ってくれるとぼくも少し気持ちが軽くなったよ」
 肩を竦めて答える彼に微笑みかけ、私は続けた。
 「貴方には本当に感謝しているわ。だって…私、決めたのよ」
 それを口にするには少し抵抗があって。私はしばらくの間、不思議そうに私の答えを待って沈黙する彼を見上げた。
 「―――もう、恋なんてしない」
 目を見開き呆然と佇む彼の姿をこれ以上見ていられなくて、私はそのまま早口に別れを告げた。
 「だからありがとう。お休みなさい」
 玄関の扉を閉めた後もしばらく。私は自分が発言した言葉の意味を思い、動悸が止まらなかった。胸が苦しくてその場に座り込むと、かつて学園で見せてくれたセトの笑顔を思い出し再び涙を流した。
 
 
「これ、三番席にお願いね」
慌ただしくなってくると接客の凛さんでは間に合わず、皿洗いは置いておいて日向も出来た料理を運ぶことになった。そろそろラストオーダーの時間なので、それも伝えなければならない。
頼まれた三番席に行くと見覚えのある姿に日向は一瞬頬を引きつらせた。
「ご注文の品です」
出来たばかりの熱々の料理を並べ、形式上必要な作り笑顔を浮かべて日向は空の皿を取った。
「……そろそろラストオーダーの時間ですが、ご注文はありますか」
「あれー? 日向くん?」
料理の熱気にやられたのかそれともアルコールを摂取したからか。ショウゲは赤い顔を崩して日向を見上げて驚いた。
「あれ、ここ。日向くんの店?」
「……はい」
仕事中に悪態をつく訳にはいかず、日向は素直に頷いた。が、その瞬間目に飛び込んできたビールを見て反射的に取り上げた。
「未成年がなんで飲んでるんですか!」
あいにく店内は活気づいていて日向の声はその喧騒に紛れることになった。
「ん? 何の事?」
しれっと返事をするとショウゲはニッコリ笑いかけた。
「あ、日本では高校生にアルコールを提供したらいけないんだね。お店も罰せられるの、この場合?」
「……っ。今すぐやめさせれば、情状酌量の余地があります。店長に事情を説明してきます」
取り上げたお酒を持って日向は店の奥へと戻った。
 
結局、店長に事情を説明した後、日向が戻ってきてみるとショウゲは既に泥酔してしまっていた。
「なっ?! おい、起きろ」
ご丁寧に食べた代金はきっちりテーブルに用意されていたが、思いっきり揺さぶっても肝心のショウゲは起きるそぶりはなかった。
「起きろ、ショウゲ!」
先輩だということも忘れて、態度も粗雑になったが、ショウゲは泥酔したままだ。
「お友達、起きない? 仕方ないね、厘君。店、閉めるから、帰って」
友達ではないのだが、店長に迷惑をかける訳にも行かず、日向が連れて帰ることになった。
「ん~♪」
フラフラしながらも日向に肩を借りてゆっくり歩いていたが、意識は朦朧としていた。が、急に口元を押さえると開眼した。
「あ、吐きそう」
「なっ。こんな場所で吐くなっ」
慌てて周囲を確認すると、暗がりの中に日本では見慣れた光景となったコンビニエンスストアを見つけた。ショウゲの状態を確認しつつも、日向はショウゲを支えてコンビニのトイレへと連れて行った。
少しして先に外に出ていた日向の元にショウゲもやってきた。少し顔色はよくなっていたが、まだ目元はトロンとしており放っておくには危険な様子だった。
「お、おい、大丈夫か?」
フラつくショウゲを日向は慌てて支えた。
「大丈夫~大丈夫~」
アハハと笑いながら手を振った。
「大丈夫じゃないだろ。……家どこだ?」
「ん~?」
「家だよ、家。今、住んでるところ」
頭が回っていないのかと、日向は分かるようにゆっくりと話した。
「んん?」
「ショウゲの家だよ。…送っていく」
「……」
返事はなく、ショウゲは静かに寝息を立てていた。
「あ、おいっ。寝るなっ」
その後はどう揺さぶっても起きることはなく、日向は頭を抱えることになった。
 
 
合鍵があるにも関わらず、珍しくインターホンが鳴るなと思いつつも、ドアを開けたディランは日向と日向に支えられて眠っている同行者を見てうんざりした表情を浮かべた。
「どうしたの、それ」
「……悪い」
結局、悩んだ末に日向は居候先の部屋へと、ショウゲを連れ帰ることにしたのだ。少し寝かせて酔いを覚ませば帰れるだろうと算段をつけて。その事情を説明するとディランは仕方ないなと言う表情を浮かべた。
「まあ、玄関先に放置する訳にいかないしね。とりあえずベッドに寝かせようか」
「んー?」
眠たげに瞼を擦りながらショウゲは目を覚ました。
「あれ、ここはー?」
「お目覚めですか、ショウゲさん。ここは僕が借りてる部屋ですよ。では、目が覚めたみたいなので、帰れますよね?」
ショウゲを見て、ディランはふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「お、おいっ」
「あ、ディランくん♪ サトルさんは無事に送り届けてくれたのかな?」
「…やだなあ、野暮な事は聞かないでくれます? そちらこそ、琳子ちゃんを送り届けてきたんじゃないですか?」
「はあ?!」
ディラン同様、さっさと帰らせようとしていた日向は二人の話の中に琳子が出てきたことで、その手が止まった。
「ちょっと待った、それはどういう話だ」
「日向君、こういうのは送っていったショウゲさんに聞かないと」
思わず掴みかかったが敢え無く躱されて、日向はショウゲに向き直ったものの、複雑そうに視線を落とした。
「………いい。付き合ってるんだろ。詳しく聞く必要はない」
「…え?」
と逆に驚きショウゲはディランに目で尋ねた。
『まさか付き合ってる云々の噂を信じているの、日向くん?』
『いや、流石にそれはないでしょ。この前話した時は噂じゃなくて、琳子ちゃんの話を信じるって言ってましたし。他の要因が何かあるんじゃないです?』
『他の? とりあえずアルコール沢山買い込んできたから、聞き出しがてら飲もうか』
『あ、いいですね、それ』
「おい、二人で何話してるんだ」
「とりあえずディランくん♪ お邪魔します♪」
「あ、どうぞどうぞ。おつまみ、ナッツとサラミならありますけど」
先ほどとは打って変わってディランはリビングへと薦めた。
「さっきコンビニで適当に買ったけど足りるかな? あ、赤ワインもあるよ♪」
「はああ?! ちょっと待て! 何、飲む気だ! 二人とも未成年だろうが!」
どう考えて酒を飲む算段を始める二人を見て、日向は大慌てで止めに入った。
「何言ってるの、ここは僕の部屋なんだから、日向君が黙ってれば、何の問題もないよ?」
「はああ?!」
「若いうちに多少やらかさないと、大人になってから苦労するよ? とりあえず日本酒も買ってきたから日向くんも飲みなよ」
懐からどんどん酒瓶を出しては並べた。
「いやぁ♪ ひとり酒ばっかだから嬉しいな♪」
「なっ?! 飲む訳ないだろ。これは没収だ。それにショウゲは既に飲み過ぎだろうが! さっきまで酔い潰れてた奴が何言ってる!」
テーブルの上に並べられた酒瓶を袋に戻した。
「あれ、日向君」
日向の反応にナッツやサラミを持ってきていたディランが目を丸くした。
「なんだ?」
「いいの? …先輩、呼び捨てになってるけど」
「おや、意外だね。礼節を弁え、年長者を尊ぶ奥ゆかしくも素晴らしい文化を学んできた子だと思っていたのに」
ニッコリ笑い残っていたビール瓶を開けた。
「さっきまでの酒はアレさ。独り身のやけ酒だよ。ぼく自身が…弁えていなかったって言うね」
「……何度注意しても規則を守れない先輩は呼び捨てで十分だ。あとやけ酒も駄目だ」
「日向君、かた~い」
既にワインボトルを空けていたディランが日向の分も注いだ。
「あ、おいっ」
「はは」
鼻で思わず笑い、ショウゲは酒を呑んだ。
「ところでディランくん。一体いつからきていたんだい? ぼくも途中まで気づかなかったよ」
「それは秘密ということで。向こうで挨拶してもよかったんですけど、あの状況じゃやめた方がいいって思いましたしね」
グラスの中身を煽り、ナッツを食べた。
「…素晴らしい実力だね♪ 色々と聞いてみたいけど、とりあえず今は最初の目的といこうか♪」
「あ、じゃあ、初めてだろうし、最初は日向君が好きそうな日本酒なんかどうです?」
「は?」
笑顔で背後から拘束してくるディランに日向は目を見開いた。
「なるほどぉ♪ なら甘いのは苦手っぽいし、辛口にしようかなぁ~♪ え~と、これにしよう♪」
ショウゲは酒を持ち上げ、日向の鼻を摘むとそのまま彼の口に瓶ごと突っ込んだ。
「えいっ!」
「……ん?!?!」
一気に酒を煽って、日向はあっという間に真っ赤になった。
「あ、日向君、あんまり強くないね」
クラクラと力が抜けた日向を見て、ディランは腕を離した。
「反応がいいね。チェイサーに水でも飲んだらいいよ♪」
と言って氷を入れた水を勧めた。
「…うるさいっ。あー…くそ、頭ガンガンするだろうがっ」
水をがぶ飲みし、少し落ち着いたようで一息ついたものの、目はトロンとしていた。
「…美味しかった?」
「……お前らは鬼か! 次やったら絶交だからな! ……まぁ、国には帰らないし、いいか……」
「あ、ねぇ? 気になったんだけど未成年の飲酒が駄目なら喫煙も? 例えば自分が好きな子が煙草吸ったら嫌いになったりしちゃう?」
言いながらショウゲも煙草を吸い始めた。
「……流石に嫌いにまではならないが、その話しぶりだと琳子が吸ったのか」
頭が痛いらしく、額を抑えた。
「…今更、琳子が僕の評価を気にするのか?」
「あ、部屋タバコ臭いの嫌いだから、タバコ吸うならそっち座って」
ディランはショウゲをヒョイと立たせると窓際の席に座らせて、窓を開けた。
「あ~ごめんごめん」
ニコニコ笑いながらショウゲは窓の向こうに煙を吐き出した。そして一本吸い終わると再びビールを飲んだ。
「何だか思っていた以上に、ぼくも酔っ払っていたみたいだ」
「…………琳子とはどうだ? 今日、一緒だったんだろう?」
少し水を飲んで酔いを醒ましつつも、日向はぼやいた。
「あ~…てか、その前に聞いていい? 琳子ちゃんとぼくが付き合ってるって思い込む原因は何だろ?」
「………」
何の話を聞かれているのかとぼんやりとしていたが、
「……あー。悪い。正直、僕のそうであって欲しいという思い込みだ。琳子のことは信じているが、ショウゲのことは信じてない。男避けに使う形ばかりの関係でも、使えるものは使う奴だろう? ………それに、具体的に何があったか知らないが、今日、朝からさっさと出て行ったディランも含めて、何かあったんだろ…」
「……はあぁ」
溜息を漏らし頭を掻くとショウゲは窓際から二人の元に戻った。
「彼女が傷ついてもいいから知りたいって言うから、手っ取り早くセトくんの一族が使う墓地を教えてあげたんだよ。そこに名前があるかなしかで生死も判断できるでしょ? 確認には琳子ちゃん一人で行ったけど、多分アレはクロでしょ」
「…………あったのか、名前が」
その時の琳子の気持ちを思うとあまりにいたたまれず、視線を落とし拳を握り締めた。いつかは探し人の手がかりを掴めると思っていた、自分も、琳子も。
琳子への想いもあって複雑だが、セトはいつか見つかると、琳子とセトが二人揃う未来があるのだろうと思っていた。琳子が幸せになるならそれでいいと思って、自分の気持ちに区切りをつけようと思っていたのに。
こんな形になるとは思っていなかった。見つからないなら、まだ生きていると思うことが出来たが、見つける前にその死を知ることになるだなんて。
日向の場合は同性の友人だが。琳子の場合は。
琳子自身はまだ自覚していないようだったが、日向が思う以上に傷ついたに違いない。
「………嘘、だよな……?」
そうは言いつつも、気づかぬ間に滲んでいた涙が頬を伝った。溢れだすと止まらなかった。
「だってあんなに……っ。琳子はずっとセトのことを……想って……たのに…っ」
それをただ、何も出来ず、こんな形でしか知ることの出来ない身だというのが歯痒く、友達にすらなれていないのだと思い知らされる。それ以上にあれほど再会を願っていたであろう琳子を想うと、会ってもいないし知りもしないセトの死が悲しくて堪らなかった。
「……あんまりじゃ、ないか………」
「……だとしても、彼女が望んだ事だよ」
沈黙の後ショウゲは静かに答えた。 
グッと涙を拭うと日向は口を開いた。
「だからって、琳子が……悲しくない訳じゃないっ。そりゃ、琳子が自分で選んだ結末だろうが、今は悲しくて一人耐えている時だろうが! なんで、お前はこんなところでやけ酒食らってるんだ! 琳子が一人にしてくれと頼んだとしても、なんでもかんでも鵜呑みにしてる場合じゃないだろうが!話なんてしなくてもいい! ただ、そばにいてやれ。学園の昔話も、お前しか付き合ってやれないだろうが!」
「……っ」
ムッとした表情を見せ、ショウゲは黙ってお酒を煽った。
「まったく外野がうるさいよ。ぼくに嫉妬するくらいなら自分が行けばいいんじゃないかい?」
一気に毒づいてから盛大に溜息を吐くと頭を抱えた。
「ディランくん。悪いけどぼくにもチェイサーをくれるかな」
「ん? 酔い覚ます? はいどうぞ。あ、このサラミ美味しいから、一つどうぞ」
ディランはチェイサーを渡して、皿に乗せたサラミを薦めた。
「……日向君もちょっとは落ち着いて。まだ、恋になってない人にその要求は高すぎでしょ」
「……………」
泣きはらした目でやや放心状態だった日向は酒瓶を取ると中身を煽った。
「………そう、だな。ただの外野なのに、余計な事言って悪かった……」
一気にチェイサーを飲み干すとショウゲは
「あ、誤解されているみたいだけど慰めようとして盛大にフラれたからね、ぼく」
と呟きサラミを食べた。
「うん、美味しいね♪」
「…………本当に、ショウゲが付き合えてればよかったのに、な……。そうすれば、この気持ちにも区切りをつけられたかも知れないのに……。今、琳子が一人自分の気持ちと戦ってるのに、何の力にも慣れない部外者じゃ、な……」
「……泣き上戸なの?」
日向の様子を見てショウゲはディランに尋ねた。
「………う~ん。日向君てお酒を飲んだのって、ご馳走してくれるってなった時に間違えて飲んだ時だけなんだよね。その時は飲んで寝ちゃっただけなんだよね。あ、内緒話を聞くなら、飲ませるのが一番だとは思うけど」
「ふ~ん…」
顎に手をやり考えると、お酒を飲みながら日向に尋ねた。
「彼女は難攻不落の存在だよ? しかも今は、誰も好きにならない宣言までしている。岩戸が開くまで、きみはいつまでも待つつもりかい? もっと似合いの素敵な女性を探したらどうだろう」
「……? 何の話をしているんだ? 待つ訳ないだろう。琳子とは次会う時には友人、なんだからな。約束は守らないと、な。……まぁ、友人にすらなれていないかも知れないが」
そこまで話して日向は残っていた酒を煽った。顔はすっかり真っ赤で焦点もややぼやけているようだった。
「……問題は、琳子の願いを何より叶えたいのに、矛盾ばかりの感情に振り回されている、ことなんだよ……」
「不憫だねぇ~」
完全に他人事とばかりにお酒を煽りながら呟いた。
「それで? ショウゲさんの場合はどうだったんです? やけ酒、付き合いますよ」
「あぁ、ぼく?」
チラッと日向の方を見てやや声を潜めた。
「傷心の琳子ちゃんに思わず手を出しそうになって、寸での所で振られたんだ」
溜息混じりに吐き出すとディランと自分のグラスにワインを注いだ。
「…何ていうかね、彼女。泣くと色っぽいんだよ」
再び溜息を漏らし残念そうに呟いた。
バリンとガラスの割れる音が聞こえて、ディランが振り返ると粉々になったグラスを握りしめている日向の姿が見えた。少し残っていた中身がポタポタと赤い血と混ざりながら、床に伝い落ちていた。
力任せに叩き割ったのではなく、握力で握り潰してしまったらしかった。
「ちょっと、日向君っ。血っ! グラス割れてるし!」
「あ……悪い……。グラス代、弁償する」
放心状態だった日向はぼんやりしたまま血だらけの破片を集めた。
「やれやれ、何やっているんだい」
日向の腕を掴み立ち上がらせると洗面所に連れて行き傷口を洗ってガラスの破片を流した。
「……人の事を言える立場ではないけど。きみも存外、余裕がないんだね」
「……悪い。迷惑をかけた。普段は…こうでもないんだが。酒はやはり控える事にする」
「いや、どこかで吐き出さないといけないんだよ。…彼女もね、吐き出せたら楽だろうに」
「……学園のことを知っているショウゲなら、その気持ち、吐き出せると思ったんだけどな…」
洗面台に流れていく水を眺めながら、日向はぼやいた。
「……そう簡単にはいかないか」
琳子も、自分自身も。
「………。学園での琳子ちゃんを知りたいかい?」
「……知り、たい」
ショウゲのまさかの発言に驚き、目を見開いた。きちんと答えを出すべきだというのに、深く考える前に言葉に出てしまっていた。
「……今の琳子を少しでも支えることが、出来るなら」
「支える、ねぇ」
含み笑いを浮かべると、流したままにしていた水をようやく止めた。
「もう少し飲みながら話そうか。恋人の親友の正体について、ディランくんも知りたいだろうから」
「……そうだな」
だいぶ落ち着いてきたらしく、静かに息を吐くとショウゲと共に部屋に戻った。
「あ、おかえり~」
ちょうど割れたグラスをすっかり片付け終えたディランが二人を見て笑みを浮かべた。
「あ、日向君はこれ」
「なんだ?」
洗面所で傷口を洗い、水を拭いて尚、血の滲む手を取ると、ディランは用意していた救急セットで消毒し、手際よく手当てを終えた。
それから再びテーブルを囲った。
「飲みメインならおつまみでも買ってくるよ」
「えと、ナッツとサラミ以外だとチーズならありますけど。日本酒とかには合わないかな。日向君、何かある?」
「もらい物だが、さきイカならある」
「サキイカ? 何だい、それは」
「?!」
まさかショウゲが知らないとは思わず目を丸くした。
「あー…これだ」
「あ、これ。この前、日向君から少しもらった奴だね。イカなんだよね。詳しくは分からないけど」
「…ヒモノ? の仲間かな。いい匂いだね」
初めて見るサキイカを手にとりながら呟いた。それから日向の表情に気づくと苦笑した。 
「これでもアジアにくるのは久しぶりで、日本は初めてなんだよ?」
「…そうなのか。ついあちこち行っているのかと思っていた。日本以外のアジアだと、他にどこに行っていたんだ?」
「中国、韓国、シンガポール、マレーシア。モルディブはバカンスで行ったな。あとはインドやタイも少し行ったよ」
「うわ、アジアに絞っても多いね」
「その歳でたくさん行っているんだな。その感じだと長期休みを海外渡航に充てるだけでなく、留学もしていそうだな」
「…二人はどうなんだい?」
さきイカをつまみ、その独特な味わいに舌鼓を打ちながら尋ねた。
「日本は長いのかな? 特に日向くんはしっかり染まっているようにも感じるけど」
「……あー。十三の誕生日を迎える前に家を出てからずっとだな。日本以外はまだ行ったことがない」
さきイカをパクリと口に入れた。
「僕はヨーロッパはあちこち回ったかな。アジアだと中国と日本くらい。あと日向君の国も行ったかな」
「あれは通り過ぎたの間違いだろ」
「意外に長い付き合いのようだね」
さきイカと日本酒の組み合わせを気に入ったのか酒を飲みながら話した。
「僕があちこち回った最後の方に行った国が日向君の国なんです。日向君とはその時に出会ってすぐ意気投合したんですよ」
日本酒を少し飲むとディランはふわりと笑みを浮かべた。
「出会ってすぐ意気投合なんてしていないが」
「だろうね。きみたちは真逆過ぎる」
笑いながら脚を崩した。
「相手に本心を悟らせたくないタイプって意味では、ディランくんはぼくや琳子ちゃんサイドだ。彼女は学園でも、いつもうまく本心を隠していたから」
「……学園だと本心を隠さないとやっていけない場所だったのか?」
不意に学園の話が出て、日向はさきイカに伸ばしていた手を止めた。
「まさか」
笑い飛ばすとショウゲは続けた。
「彼女の性質を話しただけで、学園がそうだとは言っていないよ。純粋な生徒が多かったし、琳子ちゃんは相変わらずあそこでもモテていたね。今よりも人間関係は広かったけど、まぁ寄宿生活だから人間関係も密になりやすかったんだろうね」
「……学園はどんなところだったんだ?」
「どんな…難しい質問だね。ただ…きっと琳子ちゃんだけではなく、すべての子どもたちにとって。あそこは安全な家であり、隠し続けたい秘密があった。あの学園での日々がなければ、今のぼくらはいなかった」
「……秘密?」
ショウゲの言葉に日向は目を丸くした。
「あまり学園について知られたくはないって事だよ。まぁ、ぼくらにとっては。って意味になるけど学園自体が特別な存在だったから、部外者に口出しされたり嗅ぎまわれたくないくらい…」
「……つまり、僕みたいな人間はお断りという訳か。琳子も同じように感じているんだろうか」
「思ったんだけど、琳子ちゃんの学園て、そんなわざわざ嗅ぎ回るような人間がいるの?」
ワインを飲む方に切り替えていたディランが口を挟んだ。
「琳子ちゃんの周りにいるかどうかはわからないけどね。まぁ、彼女のところに辿り着く前に…って話だろうけど。あぁ、それとね。えーと、学園での琳子ちゃんだっけ」
ワインを飲むディランにつられ、ショウゲもチーズを食べるとワインを飲んだ。
「今より楽しそうだったかもね。でもずっと周りを警戒していたから、頼れる友だちってのはいなかったかもね」
「……今より楽しそう、か。いいところだったんだろうな」
出会った当初からどこか影のある印象の琳子しか浮かばなくて日向は苦笑した。
「案外過ぎたら良いことしか思い出せないものだしね」
ワインを一気に飲み呟いた。
「ふふ、思い出って美化しちゃいますよね。嫌なことは忘れて」
思い当たる節があるのか、ディランがショウゲのグラスにワインを注いだ。 
「ショウゲさんにとっても素敵な場所だったんですか?」
「……」
しばらくグラスの中身を見つめて考えた。
「…貴重な…日々を過ごせた場所だよ」
「そうなんですね。僕も探せばよかったかな」
興味深そうな表情を浮かべるディランとは対照的に、日向は神妙な表情で口を開いた。
「……学園では琳子と普段から交流があったのか?」
「さほどなかったよ。彼女と授業が重ならなかったし、ぼくは途中転校したしね」
「そうなのか。まぁ、学年が違うしな。琳子の友人関係が分かるほどには話していたんだろう? 学年を超えた交流があったのか?」
「というか、お互い目立っていたからね。特に琳子ちゃんは学長の孫。つまりセトくんといい感じだったし、翠くんは編入していきなり生徒会長になっちゃうし、あの二人の父親が学内にいるって噂もあったし…注目の的になって当たり前だよね」
ワインを飲み干すとディランにグラスを向けて
「お代わり欲しいな♪」
とおねだりをした。
「なら、先に僕に入れてください」
自分のグラスを空にしたディランがふわりと天使のような笑みを浮かべて、グラスを向けてみせた。
「…セトって学長の孫だったのか!」
琳子が学園にいた頃を宝物のように大事にしていた理由の片鱗が見えた気がして、思わず日向は声を上げていた。
「…あ、いや、悪い。取り乱した」
「はは、日向くんは可愛いね~」
ディランのグラスにワインを注ぎながらショウゲは笑った。
「……セトも学園の生徒だったのか?」
グラスに注がれたワインを飲んだディランがショウゲのワインを注いだ。
「もちろん。琳子ちゃんと同じ学年だったよ」
「そうなのか」
「意外ですね。セト君て、なんだか話を聞いているとみんなと一緒に授業を受けているイメージがなくて」
「ほとんど受けてないよ、確か。たまに見かけたけど…彼は、誰よりも早くに単位を修得していたって話は意外に知られていないね」
「試験さえ受けていれば出席日数はいらないところなのか? 中学や高校と違って大学みたいなんだな」
「そんな感じだね。それにしても日向くんは、彼の幼馴染によく似ているね。何かにつけて自由なセトくんの世話を焼いてあげていたよ。そうそう彼が落第するんじゃないかとか、色々気にかけてあげていたなぁ」
当時の思い出が蘇ったのかショウゲは懐かしげに呟いた。
「実際にはちゃっかり卒業に必要な単位はとっているのに、その幼馴染には知らせていないあたり。セトくんも世話を焼かれるのが楽しかったのかな」
「……別に世話焼きという訳ではないんだが。現にディランの世話とかしたことないし、する気もないが」
「え~、そうだったっけ? まぁ、任されたりしたら、面倒見はいいよね」
不服そうにディランの相槌にため息を吐くと、日向は口を開いた。 
「それでその幼なじみはなんていうんだ?」
「あ、何だっけ? 日本人だよ、確か。ゲン? ジロー? ん?」
「……ゲンジロウか? 日本人だとは思わなかったが」
「あ、そんな名前! いかにも日本人みたいな顔の」
「名前からすると厳ついイメージがあるんだけど、四角い顔にキリッとした太眉、角刈りみたいな。もう少し柔らかいイメージした方がいい?」
今ひとつピンとこず、ディランは首を傾げた。
「え~短い髪だったなぁ程度の印象だね。周りの方が目立つから、彼自身の印象が薄くて」
何と言えばいいかわからない感じでワインを飲みながら苦笑した。
「薄い印象の顔か。彫りが浅めの典型的な日本人てことかな」
「……そう言えば、セトはどこの国の人間なんだ?」
「国籍は日本だけど、彼のルーツはミックスされているみたいだよ」
「ふぅん。琳子ちゃんみたいな感じかな?」
「彼女はルーツがはっきりしているけどね。セトくんは謎が多いよ」
「…そういう謎がミステリアスで魅力的だったんだろうね。生粋じゃない苦悩を分かり合えるところもあるみたいだし」
「………」
ディランの言葉に日向は複雑そうな表情を浮かべた。
「……」
日向をチラリと見るとショウゲは再び日本酒に戻った。
「彼女たちは似ているようで似ていないから惹かれ合ったのかもしれないね」
溜息混じりに呟いた。
「琳子ちゃんは器用に見えて不器用なところがあり、セトくんは不器用に見えて案外器用だ。まぁ、確かに在学中の琳子ちゃんは今よりもミステリアスで神秘的だったなぁ」
「セト君て不器用そうに見えるの? なんか意外。器用そうに見えてそのまま器用か、器用そうに見えて実は不器用とかなのかなって印象だったよ」
「不器用って言うか…指先は器用だよ。不器用なのは社交性に関してだね。彼の性格をどう例えたらいいからわからないけど、きっと彼自身が変わらないとこの世界で生きていくには不器用過ぎる子だったよ。まぁ、器用に立ち回る時もあったけど、何と言うか不思議なタイプだったね」
「聞いてると、学園という閉じられた世界だから生きていけるみたいな感じの子なのかなって印象になったよ。実際は違うかも知れないけど」
「そこまで詳しいって事はショウゲはセトやゲンジロウとも交流があったのか」
静かに話に耳を傾けていた日向が口を挟んだ。
「……いいや」
ゆっくりと首を振って微笑みながら否定した。
「学園に集う子どもたちにとって、彼は特別だったってだけさ」
「……それはセトにとっては相当な重圧だっただろうな。学園長の孫と本人の気質もあってだろうが、知り合いでもない学園の生徒にまで知られて注目の的だとは息が詰まりそうだ」
「かもね」
さきイカを食べながら相槌を打った。
「……だから、なのかも知れないな。琳子がセトに惹かれたのは」
ディランが新たに用意したものの、まだ使っていないただ空のグラスを見ながらぼやいた。
「……」
ショウゲも黙って酒を煽った。
「……生きていたら二人はこれ以上ないくらいの関係になっていたかも知れないのに、な」
「仕方ないさ。死んでしまったんだから」
残っていた酒を飲み干し答えた。
「ifを話しても無意味なものさ」
「……そうだな」
静かにため息を吐いた。
「で? ショウゲさんも日向君も二人はどうするの?」
二人の様子を見守っていたディランが興味津々な表情を浮かべた。
「は?」
「やだなあ。結局、琳子ちゃんて、フリーな訳じゃない? こんなところで諦めるの?」
「いや、お前、何言ってんだ?! さっきの話聞いてなかったのか?!」
こんな時に限って極上の天使のような笑みを浮かべるディランに日向は唖然とした。
「ちゃんと聞いてたよ。セト君が死んじゃった話。生きて渡りあえないのは残念だと思うけど、いつまでも死者に縋る訳にはいかないじゃない? 時間はかかるかも知れないけど、諦める理由にはならないよね」
「確かに今が狙い時だろうね。のんびりしていたら、すぐ他の野郎に持って行かれそうだ」
楽しげに笑いながら同調した。
「はあ?! 琳子の気持ちはどうなるんだよ! それを無視して自分の我を通そうなんておかしいだろ」
「…それは琳子ちゃんの事情であって、日向君やショウゲさんの気持ちを蔑ろにしていいなんて理由にはならないよね? 恋なんて究極のエコ贔屓、理屈じゃないでしょ。実るかどうかはともかく、その為に努力することを決めるのは他人じゃなくて、自分自身でしょ」
「そうだね。だから日向くんが支えたいと思うなら好きにすればいいし、身を退くならどうぞご自由に。ぼくに何ら遠慮なんていらないよ。あ、でも次はタイミングに気をつけて」
完全に目から鱗が落ちたようで、日向はしばらく言葉にならず、目を瞬かせた。
「………そんなこと考えたこともなかった。そんな、考えがあるんだな…」
胸の奥で必死に抑えつけていた感情が熱を持ち、抑えなくていいという想いでゆっくりと鼓動をうちはじめていた。
それでもまだ、どうすればいいか分からなくて、日向は静かに深呼吸を繰り返した。
「……少し…考えたい。酒は抜きで」
「心はいつも自由だからね。ゆっくり考えたらいいさ」
小さく息を吐き出し囁いた。
「で? 日向君はまだ時間がかかるとして、ショウゲさんはどうするんです?」
静かに見守っていたディランが興味津々でショウゲを見た。
「ぼく、かい?」
ワンテンポずれて反応するとしばらくぼんやりと考え込んだ。
「……」
ディランはショウゲが言葉にするのを静かに待った。
「…そうだね。彼女と、話をしないといけないね」
ポツリと呟いた。
「きっとまた、傷つけるんだろうけど」
「……そんなの、話してみなきゃ分からないじゃないですか」
「それはどうかな」
 と苦笑した。
 カランと軽く何かがぶつかる音がして振り返ると、日向が食べようと手にした殻入りナッツが転がって、空になった酒の瓶に衝突した音だったらしい。
 当の本人はというと、壁にもたれて静かに寝息を立てていた。
 「あ、寝ちゃったみたいだね」
 「結構飲ませたからね、無理やり」
 苦笑しながら日向の寝顔を眺めた。
 「…こうして改めて見ると、案外男前な顔立ちだよね。琳子ちゃんと並んでも見劣りしなさそうだ」
 「やだなぁ。ショウゲさんだって相当な美形じゃないですか。日向君、お似合いだって羨ましがってましたよ」
 「ぼくは、そうなるよう仕組まれて生まれたからね」
 「? 琳子ちゃんと結ばれるようにってことですか?」
 ショウゲの言葉にディランは目を丸くした。
 「あはは」
 つい吹き出すと笑いながら涙を拭いた。
 「まさか。違うよ。ぼくはデザインベビーって話さ。容姿端麗頭脳明晰になれるよう生まれたんだよ」
 「わぁ、すごいじゃないですか、生まれた時から、容姿端麗、頭脳明晰。人によっては自分の容姿にコンプレックスを持っていたり、努力してもなかなか身につかなかったりして頭脳明晰も憧れますよ」
 ショウゲの話を聞いてパンっと手を叩くと、目を輝かせた。
 「だよね。いや、ディランくんもそうなのかなって思っていたけど少し違うみたいだよね」
 言ってからしばらくディランの整った顔立ちを眺めた。
 「だから日本で再会した琳子ちゃんが幸せになれないでいるのが不思議で…あんなに美しく才能にあふれた女性なのに。幸せになろうと思えば簡単になれそうなのに…って哀れに思ったよ」
 ポツリと「同情、だね」と呟いた。
「僕の場合は母親が絶世の美女ですからね。琳子ちゃんも妃沙子さんが相当な美女で才覚のある女性なんじゃないですか。まぁ、美しく才覚を持って生まれても、幸せになるかどうかは当人次第だとは思いますけど」
苦笑すると、ショウゲの空になったグラスにワインを注いだ。
「琳子ちゃんの場合は、琳子ちゃん本人が幸せになろうとしてないみたいに見えますけどね」
「必死に前に進もうとするのに、どんどんぬかるみにはまっていくようにしか見えなくて。…彼女には、学園と縁遠い誠実な人が必要なのかもしれない」
「琳子ちゃん本人は学園との繋がりを求めているみたいですけどね」
「だいたいの生徒がそうなるさ。あの翠くんでさえ、無意識にそうなんだから」
ワインを飲みながら答えた。
「…今まで、自分が楽しいから付き合う事ばかりだったよ。相手の幸せよりも自分の幸せ優先。今探している彼女でさえ、また会えたら何か自分にとってプラスになる気がしていたから探していたけど。…琳子ちゃんに関しては、彼女の幸せを願わずにはいられないんだ。はあぁ~ナーバスだなぁ」
「なんだかショウゲさんとは思えない恋の仕方ですね。琳子ちゃんが幸せになるなら、自分は身を引いても構わないみたいな?」
珍しいものでも見たようにディランは目を丸くした。
「だよねー。自分でもそう思うし…契約があるから、卒業するまでは絶対に琳子ちゃんに手出しできないよ…。いや、出しかけたけどさ」
「つまり、それだけ本気なんじゃないです? 自分で思う以上に。とはいえ、僕ならサトル君が幸せになるなら身を引くなんて馬鹿な選択肢はまずあり得ませんけど」
ワインを飲み干すと、ディランはふわりと笑みを浮かべてみせた。
「…ショウゲさんの好きなようにやってみたらいいんじゃないですか? その方が、ショウゲさんらしいですよ。まぁ、手をこまねいているショウゲさんを見るのも楽しいですけどね」
「アハハ、他人事だからって気楽に言うねぇ。…相手がセトくんだったなら、ぼくだってチャンスがあるとは思わなかったさ」
溜息を漏らすとチラリと日向を見た。
「…琳子ちゃんは、卒業したら日本を離れるつもりだよ。うまく成就しても、彼女には遠距離恋愛は向いていなさそうだ」
「………」
まるで日向へのアドバイスであるような発言に少し眉を顰めながら、ディランは口を開いた。
「…日向君なら辛抱強く待つんでしょうけど、ショウゲさんなら追いかけていけるんじゃないですか? 日本に留まるつもりはないでしょう?」
「あ、もう一度言っておくけど。セトくん以外が相手なら、ぼくにはチャンスしかないからね。今はタイミングが悪すぎて手出しできないけど、その間に二人が付き合ったところであまり関係ないよ」
ニコニコ笑いながら答えた。
「今はタイミングを考えている最中さ。背負うものが多いとすぐには動けないしね♪」
「…なんだか、日向君に付き合って欲しいみたいに話すんですね。琳子ちゃんが好きなんじゃないんですか?」
「……」
静かに微笑みディランのグラスにワインを注いだ。
「……その答えは、まず琳子ちゃんに伝えなきゃいけない」
と呟いてから苦笑した。
「悩んでいるんだよ。こう見えて」
「でしょうね。こんなに自分に自信のないショウゲさんて見たことなかったですから。日向君みたいな自分を犠牲にするタイプじゃないのに、今のショウゲさん、なんだか似ているなって思いますよ」
「…う~ん。自分が傍にいたらずっと前を向けなさそうな彼女を強制的にでも前向きにさせる為に、いいように彼女を好いているピュアボーイを利用しちゃえ。それでこちらの準備が整った頃に奪い返せばいいかなって感じで計画しているけど…琳子ちゃんが、日向くんに本気になりそうで多少気後れしてはいるね」
頭を掻いて切なげに笑った。
「これだけ傷ついている琳子ちゃんに、素直に幸せになって欲しいと思っているだけなんだけどな」
「僕ならサトル君を慰める為に他の男を差し向けるなんてまずしないですけどね。後から差し向けた手筈がバレた時、琳子ちゃんからの信用はガタ落ちですよ。僕が女の子だったら、そんな男は願い下げです。どころか、琳子ちゃん、ただでさえその予兆があるのに、人間不審になりますよ。……単純に幸せになってもらいたいなら、ショウゲさんみたいな人間が真人間になって真摯に向き合ったら、琳子ちゃんの心に響きますよ」
「……ぼくは逆さになっても真人間になれないよ」
「ふふ、分かってますよ? だからこそ響くんじゃないですか。どう足掻いても到底なれないのに、自分の為に必死に努力する姿ってワクワクしません?」
クスッと悪戯っぽく笑ってみせた。
「……」
ふふっ笑うとワインをグラスに注ぎ飲み干した。
そして何かを考えるように黙り込んだ。
「……ショウゲさん?」
その様子をディランは不思議そうに見つめた。
「いや…面白いな、と思ってね。自分らしくやれと言ったり、意外性を狙えと言ったり。案外、ぼくの事を真剣に応援してくれているのかと思ってしまったよ」
前髪を掻き上げながら苦笑した。
「……ぼくらが同じ学校で過ごせるのも、次の春までだと思うと寂しいね」
「…ふふ。ショウゲさんのことだから、卒業を待たずにまたどこかに転校するのかと思ってましたけど、そうじゃないみたいですね。僕としてはさっさと結論出して欲しいですけど」
小さく笑ってナッツを摘んだ。
「せっかくなので、次の春までどうぞよろしくお願いします」
「はは、こちらこそ、だよ。いい加減卒業しないとね。…琳子ちゃんに関しては、気長にいくつもりだよ。あのタイプは距離を縮めると逃げていくからね」
「でしょうね。ま、泣かせない程度に頑張って下さい。僕やサトル君にまでとばっちりがくるのはやめてほしいですけどね。応援はしていますよ」
ふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「あぁ、できるだけ迷惑がいかないよう努力はするよ。まぁ…しばらくは、このややこしい三角関係は続きそうだ」
と苦笑しつつ穏やかな寝息を立てる日向を一瞥した。
「…ややこしいんで日向君は早々に撤退させますよ。保っても春まででしょうし」
「撤退させると言うと?」
「三角関係からですよ。まぁ、日向君自身、もう一度トライなんて考えてもみなかったみたいですし、特に問題ないかも知れませんが」
「……諦めさせるって意味なら、最後に彼の背中を押すような発言は不適切だったんじゃないか」
感情を押し殺した口調で呟くも、ワインを追加で注ぎ表情を和らげた。
「なんてね♪」
「そうなんですよね。つい言っちゃったんですけど、改めて考えると日向君に琳子ちゃんを支えるなんて無理でしょと思ったので」
「………」
ショウゲは黙ってワインを飲み、否定も肯定も避けた。
「まぁ、ショウゲさんを応援しているんで、頑張って下さい」
ふわりと天使のような笑みを浮かべてみせた。
「ところで今日は何のために来たんです? 日向君、焚きつけにですか?」
「何でだろね~」
ワインを飲みながら首を傾げた。
「……話をしたかったのかな」
「話してみて、どうでした?」
「最初の印象のままだよ。頑固で真面目で情に深くて琳子ちゃんにベタ惚れで、本当に頑固過ぎる。その癖自信はないときた」
溜息を吐いて続けた。
「…嫌いになれないくらいにいい子だね」
「まぁ、清々しいくらいに表裏がないですからね。僕には到底なれないタイプですよ。代わりに取り繕うことは出来ません。琳子ちゃん達の学園で一番やっていけないタイプだと思いますよ」
苦笑し、新しくワインを注いだ。
「まさにそれだね。…彼によく似たって話していたゲンジローもね、琳子ちゃんに惚れていたんだよ」
手にしたグラスを傾けワインの色を眺めながら続けた。
「だけど彼はセトくんに最も親しい立場にいたからね。惹かれ合う二人を間近で見ていたから、自分の気持ちはひた隠しにしていたよ。琳子ちゃんが気づいていたかは知らないけど…」
ゲンジローの心情に共感してしまうものがあったのか、溜息混じりに息を吐いた。
「ぼくはどうも昔のトラウマもあって、厄介で面倒で一癖も二癖もある美女に惹かれてしまうらしい。初めてその手の美女に惹かれた時も、自分が本気になる前に、自分より似合いの義弟に彼女を譲ってしまった後悔が…まだあるんだろうね」
「義弟って、ショウゲさん親の再婚か何かの関係とか? わざわざ譲るなんて美女よりも義弟の方が好きだったんですね」
「……アハハ…話し過ぎたかな」
笑いながらゆっくりとした動きでチェイサーを飲んだ。
「…きっと手に入らないと感じるから、手に入れたいと努力したくなるんだよ。ただぼくよりも、彼の方が先に彼女の心を射止めただけって話さ。あー、家族関係じゃないよ。心的距離感の表現として呼んでいるだけさ」
「なんだか手に入れると満足するタイプに聞こえちゃいますけどね。たとえ義理でもショウゲさんの心の距離感で兄弟のように思える存在がいるなんて素敵なことじゃないですか。ショウゲさんの恋愛思考のルーツが見えてきて、興味深いです」
「ならそろそろきみの話も聞こうかな」
微笑みながらディランのグラスにワインを注いだ。
「ぼくが気づかないくらい尾行に長けたディランくんが、まさか一般人だとは思い難いね。話を聞けば惚れに惚れ抜いた彼女なんだろ?」
「ええ、まぁ。手に入れにくいから選んだ訳じゃなくて、僕の場合はサトル君だから、なんですけど」
「……彼女は、何か特別な意味合いのある女性?」
しばらく考えてから尋ねるが、首を振り自ら否定した。
「いや、違うな。きみが執着している理由……本気で、サトルさんに惚れている…って事か…」
「…本気ですよ? 元々僕はあまり女性が好きじゃありませんでしたから。サトル君に会うまでは克服しようと肉体交渉ならしたんですけど、愛って理解不能だったんですよね。それがサトル君に会えてやっと愛が僕なりに理解出来たんですよ」
これ以上ないという幸せそうな笑みで浮かべてみせた。
「……妬けるね~♪」
グラスを傾けニヤニヤと笑った。
「…愛…ねぇ」
呟いてから顔にかかる前髪を掻き上げた。
「それって、何だろねぇ…」
「さぁ? 僕にも分かりませんよ。僕なりの答えがショウゲさんに当てはまるかも分からないですし。ですが、いずれ分かるんじゃないです? 琳子ちゃんを心から愛するようになったら。とはいえ、先程の話からすると、ショウゲさんは無意識のうちに今までの恋愛遍歴とは違うと認識しているみたいですし、案外近いうちに分かるかも知れませんね」
「……」
ディランの言葉にショウゲは静かに笑った。
「何にせよ、厄介な感情だよ」
「…そうですね。厄介、なんですよね。……僕もずっとそうでしたから。……ショウゲさんはサトル君が特別な意味合いの女性かと聞きましたが、特別ですよ。何者にも変え難い程に。でもそれは僕にとってであって、ショウゲさんが聞いたらなんてことないたいしたことない理由に聞こえるものもあるかもしれません」
「…いや。ディランくんがそこまで価値を見出したと言う事だけで、充分理解できる理由だと思うよ」
「…そうですか?」
不思議そうに首を傾げた。
「僕じゃあまり基準にならない気がしますけどね。これでも一般的な感覚からは外れていると自覚していますから」
苦笑した。
「恋愛に於いては当事者の基準がすべてだよ。確かにサトルさんは綺麗で可愛らしいけど、それ以上の価値を見出したのはディランくんだからだ」
ふふ、と笑った。
「あぁ、でも、確かに彼女の深い青色の瞳は幻想的だね」
「……あげませんよ?」
「ディランくんを敵に回したくはないからね♪」
「なら、いいです。琳子ちゃんに向かう分には応援しますよ」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべて見せた。
 
 
夜中にふと目を覚ましてケータイを開いた。サトルから一通の連絡があった。
簡潔に、起きていたら連絡を欲しいとだけ書かれていて。その短い文章にどれだけ彼女が私の事を気遣い、心を痛めているのかがわかってしまい居たたまれなくなった。
明日は日曜日だからまだ起きているかもしれない。日付が変わろうとしている時刻だったけれど、私はサトルに電話をかけた。
『―――はい、もしもし』
 「…サトル…?」
 何故か彼女の声を聞いた途端、肩の荷が下りたような安心感を覚えた。今日一日で私はどれだけ彼女を傷つけてしまったのだろう。何も言わない私に何も聞かないサトル。あの時はそれがありがたかった。事情をすべて説明すればいいだけだと言われてしまうかもしれないけれど、でも、あの学園で起きた事を話してしまえば。あの不思議な空間で経験した感動も、震えるような恐怖も、すべて、私だけのものではなくなってしまう。
 言葉という檻に学園のすべてを閉じ込めてしまえば何て陳腐な表現に成り下がってしまうだろうか。決して差別化をしたい訳ではないけれど。でも、あそこで起きた事。経験したすべては、共に同じ時を過ごした者にしかわからない。わかって欲しくはない。
 ―――我儘だってわかっているわ。
 『夜中にごめん。大丈夫?』
 「それは…私のセリフよ。……オルゴール…ありがとう」
 『うぅん。…結局、ぼくは何も役立てなかったよ。琳子が自分らしからぬ選択をした時に止めてと言っていたけど。もしかして…あの時、きみと一緒に墓地を歩けばよかったのかもしれない』
 「……私…セトが、好き」
 初めてだった。自分の気持ちをこうして言葉に変えて、誰かに告げるのは。
 『…うん』
 サトルは何かを噛み締めるようにゆっくりと相槌を打ってくれた。
 ただそれだけの事なのに、今日の私の涙腺は崩壊しているらしい。再び頬を熱い涙が伝って止まらなくなった。
 「彼が死んだと知って…すべてが嘘みたいで…誰でもいいから、縋って助けて欲しくなったの」
 あの時ショウゲに縋っていたらどうなっていただろう。彼は愛する彼女の情報を手に入れる為に、ジャックに協力をしているだけだ。私が幸せになれるようにと、日本で様々な面でジャックの代わりにサポートを依頼されている。だから本当に、最低な事に、私はあの時ほんの少し。彼を利用しようと思った。
「私は…貴方みたいに強くはないから。だからいつも、サトルの前で少し虚勢を張っていたの。強い貴方に相応しくなくちゃいけないって、心のどこかで思っていたわ。だからサトルに…一番に頼ればよかったのね」
『…琳子は…自分を正しく評価できていないんだよ。きみは、強いだけじゃない。ぼくにはない柔軟さがあって、自分の弱さを認められる。でもそうだね。ぼくはもう少し琳子に頼って欲しくて、でも立ち入る事ができないその境界線を前に怖気づいていた』
サトルの想いに触れた途端、抑えきれずに私は嗚咽を漏らした。
『いいんだよ、琳子。誰にも話さずに大切にしておきたい思い出なんだろ』
「…ごめん…なさい…っサトル…」
それからしばらく私は泣き続けた。サトルはただ黙って電話越しに私の泣き声を聞いてくれていた。そうして少し心が落ち着くと、私は今日起きたショウゲとの事を話した。
『……ショウゲさんは…きっと、多分。琳子に惹かれ始めていると思う』
多分そうだろうと思っていた。けれど例え何かの間違いがあって彼を受け入れたとしても、その先に、私が願う幸せな未来なんて見出せないだろう。
「…私は…もう、誰も好きにならないわ。こんなに…辛いだけの気持ちが、恋なら、いらない…っ。これ以上自分を、嫌いになりたくないの」
死んでしまったとしても、この先セト以上に誰かを好きになるなんて有り得ない。むしろ誰かを愛する事自体が、彼を忘れる―――裏切りのようにも思えてしまった。
「ねぇ、サトル…私は…まだセトが好きなの。忘れたくないの。絶対に、最後の一人になったとしても。私だけは彼を覚えていたいの。私…わた…」
胸が苦しくなって呼吸が浅くなり始めた。
『深呼吸をして、落ち着いて!』
――――っ
………。
ほんの一瞬、頭の中が真っ白になった。電話越しに聞こえるサトルの声から察するに、私が気を失ったのはほんとに数秒にも満たない短いものだったかもしれない。ベッドに横たわったまま必死に私に呼びかけているサトルの声を聞いていた。
「……大丈夫よ…」
一体何が大丈夫なのかわからない。今の私は本当に目も当てられないくらいボロボロだ。
『琳子…』
泣きそうなくらい悲痛なサトルの声に、私は再び涙を流した。
親友が何を心配しているのかよくわかる。周りが私の何を気遣っているのかよく知っている。だからもう一足飛びにこのショックの受容過程を済ませて、平気な私にならなければいけない。多少の傷を残しながら、それを少しずつ癒しているかのように見せなければいけない。
いつまでも傷ついて泣いてばかりいたら。私を取り囲む優しい人たちまで傷つけてしまうから。あぁ、まるで学園にいた頃のセトのようじゃない。彼は決して望みもしなかった後継者の座を、彼を慕い縋るように讃えた迷子たちの為に受け入れようと苦しんでいた―――誰かの為に自分が犠牲になる事が当然だと思っていた。
「…違うわ」
自分が傷ついても、それを隠して平気なフリをすればいい。周りから注がれる関心に過敏になるあまり、いつも相手から求められる自分。評価される自分を意識してきた。だけどそんな生き方はやめようと決めた筈だった。
「全然…大丈夫じゃない…の…っだめ…なの…っ」
苦しくて悲しくて、ただたた苦しかった。どんなにこの結果を受け入れるしか前に進めないと思っていても、理性で押さえつけようとしても、ダメだった。
「どうして…っどうして…よぉ…! 何で…約束、したのにぃ…っ」
後はただ、泣き続けた。枕がすっかり涙で濡れて、気がつけば窓の外は明るくなっていたけれど。サトルはずっと電話を切る事なく、一晩中泣きじゃくる私のどうしようもない叫びをただひたすら、聞いてくれていた。
 
サトルのアドバイスの通り、しっかり目元を冷やしたお蔭で昼までには腫れ上がった瞼が治ってくれた。
「食欲はあるのか?」
珍しく部屋に入ってくると横になる私の顔を見て気遣うように声をかけてくれた。
不思議なもので心と身体は思っていた以上に親密な関係らしく。徹底的に追い込まれた身体は限界を迎えて熱まで出てそのまま寝込んでしまった。
「……」
 喋ろうとしたけど喉が腫れてうまく声が出なかった。熱で朦朧とする。何か飲みたかったけど、伝えられないので諦めるしかなかった。そんな私をしばらく見詰めると、翠は踵を返し部屋を出ていった。それからすぐに戻ってくると手にはストローをさしたコップがあった。
 少し身体を起こしてそれを飲むと、冷たくてほんのり酸っぱくて甘いレモネードの味が口の中に広がった。
ベッドに戻ると枕が冷たいアイスノンに変えられていた。火照った身体にその冷たさがちょうどよかった。翠はいつもさり気なく私を気遣ってくれる。だからそれに応えなければと思っていたけれど、でも今は、何も考えずにただひたすら眠りたい。重い瞼がゆっくりと閉じるまでの間。翠はずっと何かを悩み耐えるかのように眉を寄せて私の様子を眺めていた。
 熱が完全に下がるのにまる一日も要した。これまで大きな風邪をひいた事のない私が寝込むなんて初めてだった。すっかり熱が下がり学校へ行く準備をしていると、翠がわざわざお弁当を準備してくれた。
 「大丈夫か?」
 「ウエストが少し細くなった程度で体調は問題ないわ」
 「食べずに痩せたならすぐに戻るだろ」
 軽口に辛口で返す翠に笑いかけると、彼は少し安心したように表情を崩した。
 「行ってきます」
 眩しいばかりの澄んだ青空。風がほんのりと冷たくて、秋色に染まり出した葉をゆらして乾いた音を鳴らしている。
 心が空っぽだと、身体も軽くなってしまうのだろうか。どうしても結えなかった髪を揺らしながら、私は駅に向かってゆっくりと歩いていった。
 私の長い二つのお下げ。それは長らく優等生のイメージを保つ為のアイテムだった。どこに行っても噂と偏見が先行する世界から私を守る為のささやかな道具。けれど学園に行ってからそこにもう一つ、特別な思い出が加わった。
 ―――長い毛先が揺れるのを見て、彼はそっと近づいてきては私の髪を掴んだ。
 振り向いた瞬間にいつも胸が高鳴っていた訳ではない。時に恐ろしい気持ちになり、恐怖を感じる時もあった。それでも彼が触れた毛先は、あの学園炎上の際に燃えてしまった。
 今は何一つ、彼を思い出せるものは残っていない。
 私が持つ、彼の記憶以外。私には何もない。
 ホームに立ち電車を待つ。ぼんやりと線路を眺める私の前で、何本もの電車が規則的に止まり走り去っていく。
線路の枕木の隙間から咲く名前も知らない白い花を見つけた。
 ふと、それを触ってみたくなった。
 「―――!」
 伸ばした手を突然誰かに掴まれた。同時に目の前を電車がものすごい勢いで走り抜けていく。
 「やぁ、おはよう。琳子ちゃん」
 どういう訳か普段よりも目元の隈が濃くしたショウゲが蒼褪めた表情のまま笑顔で挨拶をしてきた。
 「……飛び込みなんて、しないわ」
 勢いよく手を離すと私は彼との間に距離をとった。
 「そうかなぁ。ぼくにはあの花を摘みに行こうとしているように見えたんだけど」
 目敏い人間の相手は疲れてしまう。ただでさえ今は、何も考えずに過ごしたいのに。
 「珍しいね? 今日は下しているんだね」
 返事をするのさえ煩わしい。同じ車両に入るのが嫌で、私は彼を無視して別の車両に乗り込んだ。
 車内では時々遠くから視線を感じるだけで敢えてこちらに近づいてくる様子もなかった。私は電車に揺られる間本を読んだり、見慣れた窓の向こうを眺めて時間を潰した。ショウゲを見ると、あの日あの夜の自分の醜態を思い出してしまい気分が悪くなった。もう誰も好きにならないと決めた以上、彼とはきちんと距離をとりたい。もし話す機会があっても、あの時は精神的に弱ってしまい正常な判断ができなかったと、釈明する程度で終わればいい。
 それともう一人、もしかしたらサトルを通してディランからある程度話を聞いているかもしれない彼にも。探し人がこの世から去っていたと伝えなければいけない。きっと心優しい彼の事だから傷ついてしまうだろう。
 そうやって。セトの死を間接的にでも周りが知っていけば、本当に彼は死んでしまっているのだと、いつか私自身も受け入れられるようになるのだろうか。
 時々。ふとした瞬間に感じてしまう彼の気配はすべて―――ただの幻となってしまう。
 悲しみ―――を通り越して、今はただ疲れとしか感じない。
 色々なものが、色褪せて、虚しくて、きっとすべては絶望にしか繋がらないと思えてしまう。私は初めての恋を失っただけで、ただそれだけの事実なのに。こんなにも世界が無意味に見えてしまうものなのだと知った。
 
 学校に行き授業を受けて、友たちと談笑して。兄の手作り弁当にみんなが驚いて、あっという間に一日が終わってしまう。通勤通学の人たちで混む時間帯を避けたくて、ぼんやりと本を読んでいたらあっという間に教室から人気が消えた。
 窓辺に近づくとすべてが夕焼け色に染まっていた。
 まるで燃え盛る炎に焼きつくされるかのように。街のすべてが、あの夜の学園のように。私たちの大切なものを飲み干して―――無に帰してしまう。
 「………」
 どんなに後悔したってもう遅い。失ったものは戻らないし、王様の力を以てしても割れてしまった卵は直らない。
 Humpty Dumpty―――最後は何も残らない。
 残された私はどうやって生きていけばいいのかわからない。
 これまで恋の為に生きてきた訳でもないのに、どうして突然舵を失ったようにすべてがままならないのだろう。
 
 
 帰り際、部活中の関にうっかり会ったのが間違いだった。教室に忘れ物したから届けてほしいと、頼まれると断れない性格が災いして、教室にまで戻るはめになってしまった。
よりによって教科書の類いをすべて机の中に置きっぱなしの為、自分のカバンを一旦置いて、本格的に探すことになるとは。そうしてなんとか探し出して、部室に忘れ物を届けた後。今度は自分のカバンを教室に置いてきてしまったことに気がついた。
『まだ、抜けてないのか』
数日前の飲酒の影響かと日向は肩を落とした。ショウゲが乱入しての突然の飲酒会の翌日は二日酔いに悩まされ、散々だった。
カバンを取りに教室に戻るとついさっきまであった教室の喧騒はすっかり消えて、真っ赤な夕陽が教室中に差し込んでいた。
酒に酔って本来なら胸の奥に仕舞い込むはずだった想いを吐き出してしまったことが記憶に新しい。あの時は馬鹿なことをしたと、二日酔いと共に悩むはめになったが、大事なことをもう一度考え直す機会になった。
―――次に会う時は友人で。
琳子との約束がふっと浮かんで、日向は苦笑し、カバンを取って教室を出た。誰もいない―――まっていて、ふと見えた見慣れないシルエットに日向は思わず足を止めた。
そこには背中まである長い髪が夕焼け色にすっかり染まった女子生徒の後ろ姿が見えた。これまでは三つ編みだったはずの。
「…琳子…?」
廊下から名前を呼ばれた気がしたが、琳子は燃え上がる炎のような夕陽を眺めたまま動けなかった。
「………?」
思わず呟いたような声だったから、聞こえなかったのだろうか。それとも見間違いか。
やや躊躇った後、日向は教室の中へと入った。
琳子を間違えるはずがない。
髪を下ろした琳子は日本の文化に慣れてきた日向にとってまだ刺激的であと数歩というところで日向は歩みを止めた。
妙に意識してしまうのは文化的な背景より、日向の個人的な感情が大きい。
でも、それ以上に琳子と話がしたかった。
「琳子」
「……」
ゆっくりと振り返り日向に気づくとしばらく黙り込み、そして
「…今、帰り?」
と尋ねた。
「あ、ああ。琳子は…帰らないのか?」
久しぶりに話す感覚で、日向は少し言葉に詰まった。
「帰宅ラッシュが過ぎるまで本を読んで時間を潰していたの。…私も帰るわ」
窓辺から離れ鞄を持ち上げた。
「……話したい事があるの。すぐ済むから途中まで一緒に帰れないかしら」
「ああ、僕も琳子に話がある」
 
「…先に聞いた方がいいかしら」
帰り道、並んで歩きながら琳子から切り出した。
「………セトの話をショウゲに聞いた。学園に墓があったと」
酒を抜いてから、散々考えていたはずなのに、言葉にならず、日向は視線を外し、肩が震えた。
「…まさか、その…亡くなっているとは思わなくて、琳子はいつかセトに会えるんだと…そう信じて、無責任な事を言って……もう、なんと言っていいのか…」
「……」
歩きながら黙り込むも、琳子は日向の横で小さく息を吐いて応えた。
「私の要件も、その話だったの。だから既に知っているなら話は早いわ」
ようやく日向を見上げると、力なく微笑んだ。
「…貴方こそ、早く友人を見つけられるよう願っているわね」
「………」
こんな時にまで笑みを浮かべて見せる琳子の姿に心が傷んだ。
「……自分が一番大変な時に他の心配なんて言うなよ。今、そんな必要はない…。無理に笑う必要ないんだ」
「……」
琳子は黙り込んだ。暗く淀んだ瞳に陰りを宿すと気まずげに視線を逸らして。
「……セトの死の話を聞いた時、僕はすごく悲しかった。会ったこともないし、話した事もないのにな。琳子の話の中に出てくるセトがいつの間にか、僕の心の中でも生きてて、いつか琳子はセトと再会して二人並んで楽しんで笑う時が来るんだろうなと思っていた。それが……こんな形になるだなんて思わなかった」
小さく肩が震えて日向は拳を握った。
「セトのこと何も知らないのにな。悲しくて堪らなかった」
「……そぅ」
しばらく黙り込むも琳子は小さく息を吐き出しながら呟いた。
ほとんど返事になっていない反応を見て、日向は琳子を真っ直ぐに見つめた。
「……琳子。…あんまり無理はしないでくれ…」
「…無理も何も…」
呟くように答えながら日向を見上げた。
「…何も、残っていないじゃない」
「……琳子に、か? セトに関わる品はないのかも知れないが、これまでセトといた時の記憶を琳子が大事に持っているじゃないか…」
「……」
しばらく日向を見上げ、静かに視線を逸らした。
「…気遣いは本当にありがたいけれど、私は…今、何も考えたくないの」
「…………」
言われて見れば当然の言葉に静かに息を吐くと日向は視線を落とした。
「……悪かった」
「……」
それからしばらく二人は会話もなく歩いた。駅に着いてからおもむろに、琳子は日向を見上げ声をかけた。
「…お願いがあるの」
口にしてから躊躇うように視線を逸らした。
「貴方からしたら、何も意味のない事だけど…でも、そんな無意味な事でも、今の私には必要なのかもしれない」
「………いや、意味がないなんてことはないだろう。何かは分からないが、出来る限り、力を尽くすつもりだ」
「……彼の事」
呟き横から吹いてきた風で目にかかった髪を除けると
「セトを、忘れないで」
涙目になりそうになるのを堪えながら琳子はお願いした。それまで堪えていた様々な感情を滲ませて。
「…ああ。もちろんだ。…ただ、その為に一つ頼みがある」
ようやく初めて琳子の心のうちが見えた気がして、日向は表情を和らげた。
「セトのこと、もう少し話してくれないか? 生きていた時、セトが何で笑って、どんな風に過ごしていたのか。恥ずかしながら、僕はあまりにセトのことを知らなさすぎてだな……だからこそ、きちんと知って覚えて忘れないようにしたい」
「……」
ほっとしたように僅かに表情を崩すと小さく頷いた。
「いつか…必ず、話すわ」
ありがとう、と付け足すと琳子は改札口に向かって歩き出した。
「気をつけて、な」
これ以上引き止める訳にはいかず、日向は琳子の姿が見えなくなるまで見送っていた。
 
 
 電車に揺られている間、私はいつの間にか微睡んでいたようだった。気がつけば乗車駅に着いていて、慌てて荷物を持って飛び降りた。
 冬が近づき日中が短くなった。夕暮れ時の薄暗い雰囲気が辺りを物悲しく見せる。降りる客も少なく駅前だというのに何故か閑散としていた。
 ふとポケットに入れたままにしていたケータイが着信を告げた。そう言えば帰りが遅くなってしまったが連絡を忘れていた事を思い出し、通話ボタンを押す。
 『「琳子」』
 ケータイ越しに聞こえた声と後ろからかけられた声がリンクする。
 驚いて振り返ると翠がケータイを耳に当てながら私に向かって手を挙げていた。
 「……翠も、今、帰りなの?」
 ケータイを片づけると未だ制服を着たままの彼を見て尋ねた。普段なら徒歩圏内の高等学校へ通う彼は私服に着替えている筈だった。片手には通学鞄まで持っているので、何か居残ってやるべき課題が残っていたのだろうか。
 「学祭の準備期間に入ったからだ。しばらくはこの時間帯に帰る」
 「……そう…」
 そう言えばそんなイベントがあったと思い出しながら、鞄を持つ翠の右手を一瞥した。右利きの彼が何故か左手でケータイを持ち右手に鞄を持っている。さり気なく私の右側に並んで立つその行動も、特に意味はないかもしれないけれど。穿った見方をすればわざと右手を隠そうとしているようにも思えた。
 「………」
 小さく溜息を漏らし、気を紛らわす為に始めたその想像を切り上げた。けれど大切な提案が一つあったので、それだけは忘れずに尋ねる事にした。
 「今日は…外食で済ませない?」
 
 翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。結局二人でファミレスで夕食を摂ったけれどまったく食欲が湧かなくて、頼んだ軽食のメニューのほとんどを残してしまった。翌日になれば少しはマシになるかもと思ったけれど空腹どころか何かを欲する感情そのものがなくなってしまったような気分だった。
 頭は覚めてしまっているけど身体はまだ眠りたいと訴えていて重く怠い。その上頭痛までしているので、ゆっくり横になるのも苦痛だった。
 取り敢えず薬だけでも飲もうと思い下に降りた。母が常用していた頭痛薬を飲んでリビングのソファに身体を預ける。夜明けもまだ迎えていない暗い部屋の中。人のぬくもりが消えた冷たい空気が火照った身体に心地よかった。
 次に目覚めると、朝食の温かな匂いが部屋に充満していた。
 「…起きたか」
 いつの間にかかけられていたブランケットを畳んでいると、翠がコーンスープを持ってリビングに現れた。
 「………」
 しばらく状況の整理を要したけれど、取りあえずまだ遅刻になりそうな時間ではないと判断してホッと胸を撫で下ろした。
 「これくらいなら食べられるか?」
 目の前に置かれたスープを見て小さく頷いた。食欲なんてまったくないけれど、何かを食べなければいけないと思いスプーンをとった。
 「…右手、どうしたの?」
 手の甲に湿布を貼っている事に気づき尋ねた。すると翠もテーブルの反対側に座り朝食を摂りながら
 「昨日学祭の準備で打撲したんだ」
 と答えた。
 木材の搬入か何かでぶつけたのだろうか。翠にしては注意散漫だったのだろう。珍しく思いながらもそれ以上の追及はやめてスープに専念した。
 何とかすべて飲み込むと、翠は私の空のカップを取り上げた。
 「特にイベントがないなら今日は休んでおけ」
 「でも…」
 断ろうとして言葉に詰まった。断れるだけの理由がなにもなかった。それに自覚していないだけで、やはり身体は空腹状態にあったのだろう。温かなスープを摂ったからか、再び急激な眠気を感じ始めていた。
 「…学校にはぼくが連絡をしておく。…が…くるかもしれないから…」
 通学の準備を始める翠の声が段々と遠のいていった。
 
 どうやらまたリビングで眠ってしまっていたらしい。今度は身体の重みもとれてすっきりとした目覚めを迎えた。時計を確認したらもう正午を過ぎていた。
 改めて顔を洗いに洗面所に向かうと顔にくっきりとソファの跡がついていた。そう言えばむかしから割とどんな場所でもよく眠れる子だった私は、翠や母の部屋に勝手に入っては本を読んだりパズルをしてそのまま寝入ってしまい怒られる事が多かった。大きくなってから他人の部屋に勝手に入るような真似はやめたけれど、リビングのソファは本を読みながら寝付いてしまう私の為に常にブランケットが常備されていた。
 そんなむかしの事を思い出しながら髪を整えて着替えた。そう言えば出かける際に翠が誰かがくるかもしれないから、と言っていた。わざわざ平日にやってくると言えば結衣子さんか芹沢さんくらいしか思い浮かばない。
 サトルは今頃授業中だろう。昼休みのタイミングで連絡があったので、体調が悪いから休んだとだけ返したけれど。きっと彼も心配しているだろう。昨日は自分から誘っておきながらまともに会話もできなかった。申し訳なさと無気力さに押し潰されそうになって、私は何も考えられなかった。
 ―――会った事もないセトを、もっと知って、覚えていたいと言ってくれた。
 きっと彼は裏表なく心からそう願ってくれた。だから私も、セトについて話してもいいのかもしれないと思えた。
 だけど…本当に、すべてを話してしまっていいのか。
 あの学園で、彼が何をしてしまったのか。それが真実なのかもわからない。だからこそ私たちは彼の秘密を守らなければいけないと思っていた。事実かどうかなんてどうでもいい。セトが苦しんでいるならそれを取り除いてあげたい。
 守ってあげたい。助けてあげたい。共に、悩みたい。
 「………本当に…今更過ぎて…笑えないわ」
 何故今頃になって願ってしまったのだろう。セトを思い出した途端に、もう涸れたと思っていた涙が再び溢れてきた。それでも昨日は必死に堪えられたのだから一人きりの今くらいなら自分を許してあげよう。
 ピンポーン
 人気のない家の中にチャイムが鳴り響く。
 突然の訪問者に私は慌てて涙を拭うと玄関へ向かった。インターフォンの画面を覗くと、何故かそこにはショウゲの姿があった。
 「………っ」
 一瞬このまま居留守を決め込もうかとも思ったけれど、申し訳なさそうにカメラから目を逸らし俯く彼の頬に湿布が貼られているのが気になった。同時に翠の右手の打撲の原因に思い至り、私は門の開錠ボタンを押してショウゲを招き入れた。
 玄関を開けるとショウゲは直角に低頭したまましばらく動かなかった。
 「……何の用?」
 「…あれ? もしかして琳子ちゃん?」
 声をかけるとショウゲは驚いた様子で顔を上げて私を見た。そして慌てた様子で大袈裟なジェスチャーを交え語り出した。
 「いや、これはその…翠くんに昨日迷惑をかけたから、今日は学校は休みだと聞いていたからもう一度謝罪をと思って。ついでに予想以上にすんなり敷地に入れてくれたから、玄関を開けた瞬間また殴られるかと思って頭を下げて謝りついでに拳骨を避けていたって言う……っ」
 「………」
 その短い説明だけで頭痛が再発しそうな気がした。ともかく私はこの無駄に派手で目立ってしまう人物をこれ以上屋外に晒しておくのは危険と判断し中に招いた。
 「お邪魔します…」
 まるで借りてきた猫のように肩を縮ませてリビングまで入ると、おずおずとした態度で差し入れ出してきた。
 「焼き菓子が好きかと思ってクッキーの詰め合わせだけど」
 あの学園では生徒たちに提供するお菓子としてある程度保存が効く焼き菓子が多く用意されていた。談話室には朝一番に焼かれたクッキーやらチョコレートが沢山並んでいて、それを備え付けの紅茶やコーヒーと好きなだけ食べる事ができた。
 まるで異なる環境だけど、不意に談話室に置かれたテーブルを挟んで座っているように錯覚してしまいながら。私は自分の為にミルクティーとショウゲ用にコーヒーを用意した。
 「あれ、今日はレモンティーじゃないんだね」
 カップを並べているとショウゲは意外そうに呟いた。 
 そう言えば彼の前ではレモンティーを飲む機会が多かった。特別意識している訳でもないけれど、ストレスを感じる時や緊張を和らげたい時にはレモンの爽やかな酸味が欲しくなる。そして食事の前や空腹時などはミルクを入れて紅茶の刺激を抑えて飲む場合が多かった。
 「…気分によって変えているの」
 細かい理由なんて知らなくていい。私の事をこれ以上気にかけて欲しくない。ショウゲと私の間にはもっと明確な境界が必要だった。
 「………」
 コーヒーを飲むとショウゲはしばらく何かを考えるように集中すると、突然立ち上がり床に座り込んだ。
 「土下座でございました!」
 三つ指を突いてしっかり額を床に押し当てると、大きな声でそう叫んだ。
 私はしばらく何を言っているのかわからず呆然としてから
 「……え?」
 と思わず疑問符を浮かべながら尋ねた。
 するとショウゲは手を床につけたまま顔だけ上げて、必死の表情で私を見上げた。 
 「翠くんに教えてもらったんだよ。日本古来の最大級の謝罪方法だって。『土下座でございましたっ』て、叫ぶんでしょう?」
 …………。
 それは、翠の悪い癖だ。
 きっと私が焦燥した状態であの日帰ってきてから、彼なりにその原因にショウゲが起因していると突き止めて昨日それを問い質したのだろうと推測していた。元を辿れば私が真実を知りたいと懇願して連れて行ってもらったのだから、そこに関して彼には何も非はない。けれどその後の対応が決して清廉潔白だったかと言えばそうではない。気落ちしている私に手を出そうとしていたのだから。本当に珍しく力による鎮静化に走ってしまった翠にはただただ驚くばかりだったけれど。でも…本気で私に謝罪するつもりだった日本の文化に疎い彼に、こんなふざけた謝罪方法を教えて実行させるとは。
 ―――シニカルな悪戯を仕掛けるのは、翠のむかしからの悪い癖で。大真面目にその通り彼に踊らされている様は、微かにだけど私の笑いを誘った。
 「……馬鹿ね…」
 緩んだ口元を隠すように紅茶を飲む。ショウゲは照れ笑いをしながら再び席に着きコーヒーを飲んだ。
 「今日、琳子ちゃんがいると思わなかったよ」
 ほとんどずる休みに近い形で欠席してしまったので、彼の反応は当然だろう。だからと言って丁寧に理由まで伝える必要もない。
 カップを持ち上げたままぼんやりとする私をしばらく見詰め、ショウゲは改めて背筋を正した。同時にポケットに手を入れて何かに触れるような所作を見逃さなかった。
 「よければ、ぼくの話を聞いて欲しいんだ。ちょっと物騒な話になるかもしれないから申し訳ないけど電波妨害をさせてもらったよ」
 しれっとした態度でそう答えると、ポケットに突っこんでいた手を取り出し小さな機械をテーブルの上に置いた。
 黒い突起物がいくつもくっついた長方形の形をしたそれは、以前翠が見せてくれたオリジナルの電波妨害装置によく似ていた。
 「もし話をこれ以上聞きたくないってなったらここを押してくれたらいいよ。琳子ちゃんに危害は一切加えるつもりもないし、きみが帰れと言ったら直ちに目の前から消えると約束する」
 「………」
 真剣な彼の表情に、私は自分のケータイを取りだして圏外になっている事を確かめてから小さく頷いた。
 「…ありがとう」
 まだ話も始まっていないのに、何故か安堵した様子で肩の力を抜くとショウゲは喋り出した。彼が辿った壮絶な物語について。
 ―――彼は某国の研究者の手でつくられたデザインベビーだった。優秀なDNAを持つ彼はその潜在能力をすべて引き出す如く英才教育を受け、容姿だけではなくその知性にも保証がついた頃。幼少期に高値で養父母に引き取られた。
 「最初はトップクラスの富裕層の家で暮らしたよ。けれどそこからは何度か家族を替えている。もちろん、表向きは正式な養子手続きを経てね」
 表情も口調も穏やかで感情の起伏などなく、何てことない世間話の延長線とでも言わんばかりに彼は語った。  
 「それでちょっと実力を試してみたくなってね。とある国で仲間を集めて革命ごっこをしてみたんだ」
 軍事主義国家の政権交代を図った革命は、首謀者たちの首を以て無残な結果を迎えた。彼が集めた有能な人材のほとんどが銃殺や強制労働に課せられてその後の行方は知れない。
 「失敗しちゃってね。取りあえず今は別の国で保護を受けて父母を新しく迎え、そこでしばらく大人しくしていたんだけど。その頃にかな。学園の噂を聞いて編入をしてみたんだ」
 一歩間違えれば国際テロリストとして犯罪者扱いを受けていたであろう人物をも受け入れた学園。そう思ってからつい苦笑した。あそこではどんな非現実的な事でも現実として起きてしまう。
 「あの学園に入った理由は簡単だった。密かに作られている新薬があると。だからそれを探して手に入れてみたら、もう少し面白い事になるかと思ってね。ただどれだけ探しても見つからなかったよ。まるで実在するかのような噂はたくさんあったけれどね」
 その手の噂は事欠かなかった。きっと彼のように薬の真偽を確かめる為に学園に訪れて犠牲になった生徒も大勢いるのだろう。
 「翠くんのルームメイトだったキサメくん。彼も例の薬の所在を確かめようとして…途中でリタイアしちゃったね」
 「………そぅ」
 随分と久しぶりにその名前を聞いた気がした。キサメは表向き編入期間に学園を出て行った事になっていたけれど、ほとんど突然の失踪だった。彼が消えた事で、一人の女生徒が発狂し―――あの学園を燃やしてしまった。何も明確な証拠などないけれど、私はずっと彼女こそが真の犯人だと確信していた。
 「…同じ企みを持っていたのに、どうしてぼくは無事に逃げおおせたか疑問に思わないのかい?」
 脚を組み替え息を吐き出すと、ショウゲは喉の渇きを潤そうとコーヒーを飲み尋ねてきた。
 私はそんな彼からしばらく視線を逸らし、この短い説明の中で作られる尤もらしい理由を簡単に選んでみた。
 「薬の存在の有無は別に…貴方の支援国が学園のスポンサーの一つだったのかしらね。だから直接手を下すよりも編入と言う形で学園を追い出してしまえば波風立てずに済むわ。それにジャックと直に取引をしているように、行方知れずの貴方の恋人について学園側が情報を握っている。もしかしてその恋人と言うのも、革命に参加した重要人物なのかしら。支援国でそれなりの待遇を受けているようだから、政治的にも重要な意味合いがあるのね」
 「うーん…半分正解って言いたいところだけど、ほとんど正解だよ」
 種明かしのタイミングを失った為か困ったように苦笑しながら続けた。
 「そう。だからぼくは…次の春、今の学校を卒業したら……」
 言葉を区切ると、まるで内側から溢れてくる何かに戸惑うような表情を浮かべ私から視線を逸らした。
 「…短くて三年は…表社会から姿を消すつもりなんだ。その間に…革命でやらかした後片付けをしなくちゃいけない」
 グッと歯を食いしばる彼は、一体何を堪えているのだろう。わからないし、わかりたいとも思えない。
頭が痛くなってきて、私はこめかみを軽く抑えた。
「色々な思惑はあったけれど、あの学園での生活はぼくの人生の中で最も輝いていた日々だった。そして学園が永遠であれと、本気で願い…多くの迷子たちがそうだったように。ぼくもセトくんに、その夢を託していた。彼が学園に縛られる未来を願っていた」
彼から向けられる視線に混じったものに気づき、私は胸を掴まれるような衝撃を感じた。
これは贖罪だ。
セトを学園の頂点に据えて、永遠に、永久に迷子たちが集うあの地を守り続けて欲しいと。その為になら彼自身を犠牲にしたって構わないと傲慢な願いを抱いてきた、多くの迷子たちが背負ってきた罪。
 「琳子ちゃんにだけ…セトくんは、心を許し助けを求めていた。きみだけが、セトくんを理解できると思った。例え彼自身の幸せなんて得られなかったとしても、きみという永遠の花を手に入れられたのだから。喜んで犠牲になればいいと…対価だとさえ、思っていたのかもしれない。そうした傲慢さが―――彼を追い詰めていた」
 「…私を…っ」
 感情が抑えきれず震える手を片方の手で押さえつけ、私は込み上げる気持ちを言葉に変えた。
 「私を…まるでトロフィーのように扱うのは、もうやめてちょうだい」
 ショウゲだけではない。あの学園で、セトは特別な人だった。すべての迷子たちにとって何よりも大切な学園を未来永劫存続させる為にも必要な存在だった。
 「誰が一体…彼の心の内を知っていると言うの? 誰も、何一つ知らずにいたのよ。彼が心から望むものが何かも知らない癖に、周りが勝手に…っ適当な相手を見繕って、それを与える代わりに彼を犠牲にしようとするなんて…っ」
 あぁ、何とも滑稽な科白だろう。
 あれだけ恋い焦がれていながら。彼を失い茫然自失としておきながら、セトが一体何を望んだのか。誰を愛していたのかも知りやしない。私が必死に片想いをしていただけだ。
 「琳子ちゃん、セトくんは…」
 「―――彼女だけは…特別だったかもしれないわね…」
 不意に蘇った記憶を口走り、同時にはっきりとした失恋を自覚して再び涙腺が熱くなった。
 本当か嘘かもわからない話だった。けれど彼は、幼い頃に一人の女学生を学園の塔から突き落として殺したと自供した。大切なものだけを、美しいものだけを集めていた彼の小箱の中に入っていた長い黒髪と骨。彼女はセトに愛されていたから殺されたのだと―――
 彼の人生に多大な影響を与えた伯父は、愛する女性を失くしセトの目の前で窓から飛び降りた。
 学園を自らの意思で出て行こうとした女学生を、塔の窓から突き落としたセト。
 窓を飛び出すその行為が―――彼の歪んだ愛情を表す唯一の感情なのかとさえ思った。だからセトに、自分が好きなのかと尋ねられても答えられなかった。けれど心の中では激しい嫉妬があった。そんなにも激しい感情を抱くほど、その女学生に想いを寄せていたのかと苦しんだ。
 彼の心がどこにあるのか…誰もわからないのに、周囲は私たちがまるで両想いのカップルのように扱った。
誰もが、私たちの心を知ろうとしなかった。
「…If…I had a single flower for every time I think about you,I could walk forever in my garden(もし貴方を想う度に一輪の花を手に入れられるなら、私は花畑の上を永遠に歩いて行けるでしょう)」
「!」
 それはガドレの宴で彼が囁いた言葉だった。
 初めてのダンス。ぎこちないステップの合間にそっと耳元で囁かれた、私だけが知っているあの言葉。どうしてそれを、ショウゲが知っているのか。
 思い出を侮辱された事に対する激しい怒りを感じ、私は悔しさのあまり涙を浮かべ彼を睨んだ。
 「……傷つけてしまった事を詫びるよ」
 ショウゲは暗い表情で謝罪を口にした。
 「けれど…少なくともぼくは、きみより数年長く学園に在籍し調査という名目でセトくんの身辺を密かに嗅ぎまわっていた。セトくんの収集癖は割と有名だったから知っていると思うけど…」
 フッとまるで無駄に入っていた力を抜くように息を吐き苦笑し
 「紙ナプキンや各国の切手、ビーズに…果てには良い匂いがするからってトイレットペーパーまで収集していてね。綺麗なものが好きだから集めていると本人は言っていたけど、同室のゲンジローくんは本当に辟易していたと思うよ。そんな彼の収集品の中に、唯一決して集められる事のなかったものがある」
 「………」
 頬を濡らす涙をそのままに、一体何が集められなかったのか考えてみた。
 するとショウゲはそっとソファから立ち上がり、ハンカチを手にすると。私の目元を拭いながら答えを教えてくれた。
 「…花…だった」
 学園にはいくつか温室があり、そこで育てられた花がいつも教室や長い廊下の片隅に飾られていた。学祭であるガドレの時期にはテーマに合わせた色の薔薇が盛大に飾りつけられていて、学園中が薔薇の香りに包まれていた。
 「手に入れようと思えばいくらでも入っただろう。彼が望めば、どんな花だって集められた筈だ。それでもセトくんは、一輪の花も集めた事がなかった。…ぼくは、それが彼の望みなんだと思っていた。彼が初めて唯一望んだ花が―――琳子ちゃんだと」
 「……わた…し…?」
 ぽろぽろと、涙が留めなく落ちていく。
 セトが私を望んでいた? 本当に? だとしたら、私たちは…
 「そうだよ。きみたちの…想いは一つに繋がっていたんだ」
 まるでこちらの胸の内を見透かすような言葉に、私は耐え切れずに声を上げて泣き伏せた。
 私たちは恋をしていた。あの恐ろしくも甘く幸せな学園の片隅で。お互いに想いを寄せ合っていた。
 ――――――私の恋は、終わった…
 セトの死を知った時よりも今。私の中に芽吹いた小さな初恋が、完全に終わりを告げたのだと自覚した。
 
 
 
 
 娘のジェーンがピーターと共に空を飛んでネバーランドへ行く姿を、窓辺に立つわたしは見送りました。春の大掃除の時期になれば彼は毎年こうやって迎えにくる。そして取り残されたわたしたちは、時と共に忘れてしまった自由な空をただ見上げるばかりだった。
 
 (『旅立つピーターと残された童話』より)
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

自由を愛する妖精姫と、番にすべてを捧げた竜人王子〜すれ違いと絆の先に、恋を知る〜

来栖れいな
ファンタジー
妖精女王と精霊王の間に生まれた特別な存在――セレスティア。 自由を愛し、気ままに生きる彼女のもとに現れたのは、竜人族の王子・サイファルト。 「お前は俺の番だ」 番という名の誓いにすべてを捧げた彼は、王族の地位も未来も捨てて森に現れた。 一方のセレスティアは、まだ“番”の意味すら知らない。 執着と守護。すれ違いと絆。 ――これは、ひとりの妖精姫が“特別”に気づいていく物語。 甘さ控えめ、でも確かに溺愛。 異種族の距離を越えて紡がれる、成長と守護のファンタジー。

処理中です...