殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第1章

リズの一歩

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「今まで何度か警護のために天井裏に潜んだことはありましたが、天井を突き破るのは初めてで、破れなかったらどうしようかと不安でした。成功してよかったです。」

 殿下の護衛として公爵家にも顔なじみのポールが晴れ晴れとした表情で話している。
 無表情で視線を逸らしがちないつもの見慣れた彼との違いに、リズは驚きを隠せなかった。

 ポールは、ヴィクター殿下がリズたちを追うように広間を後にしたため、急遽、ヴィクター殿下の後を付けてくれたらしい。

「ですが、まさか殿下も付いてこられるとは思いませんでした。護衛対象が護衛するなんてとんでもないことなのですが、エリザベス嬢のことになると殿下は箍が外れてしまわれるので…」

 緊張がほぐれたためか、ポールは饒舌だった。

「一先ず、治療が先ですな」

 兄と共に現れた王宮の侍医が、ヴィクター殿下を診はじめた。
 石鹸による全身の洗浄と着替えを指示し、枝に触れたポールに対しても念のため同じことをする指示を与えている。

「王弟殿下はまだ呼吸が苦しそうだ。先に少し治癒の魔法をかけた方が良いかもしれませんね」

 巷では「白の守護師」と呼ばれる、腰まで伸ばされた煌めく純白の髪が印象深い、王宮の魔法使いがゆったりと合の手を入れている。
 そして、ヴィクター殿下に右手をかざすと、一瞬、淡い緑の光が放たれたように見えた。

「全く。二人とも僕の天使を診てもらうために来てもらったのに。リズ、本当に具合は大丈夫なの?」

 そう尋ねながらも、リズの顔を見て安心しているのだろう。兄の声から不安の色は消え去っている。
 それでも兄のために、リズはぼんやりと頷いた。
――本当にぼんやりと。
 先ほどまでの緊張した空気は欠片もなくなっていたのだが、眼前で繰り広げられる長閑な会話にリズの心はまだついて行くことができなかった。

 けれど、心がついて行かない人間はリズだけではなかった。
 リズを抱きしめたままの殿下の背に、兄は苦々しい視線を向け、はっきりと溜息を吐いた。

「本当に腹立たしいけれど、僕は広間に戻り、僕の最高の笑顔を振りまいて場を盛り上げてくるよ。
リズ。その頼りない馬鹿が自分の責務を一刻も早く思い出すように、説得しておくれ」

 紡がれる言葉は憎まれ口であるものの、意外なことにその声音は穏やかな、リズの感覚が正しければ労わりすら感じさせる、温かなものだった。
 驚きにリズが目を瞬かせている間に、侍医に付き添われたヴィクター殿下が部屋から運び出され、兄はポールの肩に手を回して広間へと向かった。

 最後に残った白の守護師は、空気まで和らげそうな柔らかな笑顔に、悪戯めいた輝きを滲ませた。

「今日のところはもう何事も起こらないと思いますが、エリザベス嬢。自ら危険に飛び込まれては、結界が作動しません。くれぐれも無茶はなさらずに」

 笑顔に促されるように、半ば無意識で頷くリズを見て、くすりと笑いながら白の守護師もしめやかに部屋から出て行ってしまった。

 そして、静まり返った部屋に、リズと殿下は取り残された。

 リズは静寂に誘われて瞳を閉じた。

穏やかな人生――

 それはリズの人生の目標であったが、どうやら道を踏み外してしまったらしい。

 王弟殿下に脅迫されたのだ。
 穏やかな相手と結婚しさえすれば、穏やかな人生が送れると思っていた。
 けれど、結婚する以前に、公爵令嬢として生まれた自分は穏やかな人生を歩むことは努力をしなければ難しいのだと、この舞踏会でリズはしみじみと悟った。

 王弟殿下への処罰がどのようなものになるのかリズには想像もできないことだが、反感を持たれることだけはリズにも容易に想像できる。
 王弟殿下だけではない。
 王弟殿下の妃の実家、プロス侯爵家からも反感をもたれるとみていいのだろう。

 ローラ嬢に対しても不安が募る。
 王弟殿下の処分に対する取引として、王太子殿下との婚姻が持ち上がりはしないだろうか。
 ほんの数刻前の、殿下の後押しに希望を抱いたローラ嬢の輝いた顔がリズの脳裏に蘇り、胸の塞がる思いがした。

 人生の目標の険しさを思い、溜息をつきたいリズであったが、今は目先の課題に取り掛かることにした。
 リズを抱きしめているのか、それとも抱き着いているのか、今となっては分からない殿下に向かって囁いた。

「殿下。私は無事です」

 殿下の身体はピクリとも反応を見せない。
 果たして自分の声は届いているのだろうかと疑問に思いながら、それでもリズは言葉を続ける。

「殿下が守って下さいました」

 またしても殿下は身じろぎ一つしない。
 リズは息を吸い込み、殿下の頬に手を伸ばした。初めて触れたその頬の冷たさに胸の疼きを覚えながら、自分の動く範囲で頭を反らして殿下の顔を覗き込んだ。

 サファイアの瞳は何の感情も見せず、まるで凍り付いた湖のようで、ゆっくりとした瞬きを繰り返している。
 いつも自分に向けられる、輝くようなあの笑顔を見たいと、リズは泣きたい思いに駆られた。

「殿下。お話したいことがあります」

 次にいう言葉を思って、一瞬、目を伏せてしまった後、リズは小さく息を吸い込み再びサファイアの瞳に視線を合わせた。

「殿下に初めてお会いしてから、6年もの間、私は殿下に不誠実な態度をとって参りました」

 サファイアの瞳が大きく見開かれた。

「私には覚えがない。貴女が生きていてくれるだけで、貴女のその紫水晶の瞳に私を映してくれるだけで、私は神に感謝したい気持ちになる」

 ふわりと殿下から立ち上った魔力は、その言葉が真実であることを伝えている。
 どうやら殿下は少しばかりいつもの調子が戻ったようだ。
 リズの口の端が微かに上がったものの、紫水晶の瞳は和らぐことはなかった。

「殿下が寄せて下さる想いを、一度も顧みたことがありませんでした」
「それは、私の力不足――」

この方は私に甘すぎる。

 リズはとうとう目元を緩めながら、殿下の言葉を遮った。

「私、殿下の婚約者候補になろうと思います」

 婚約者ではない。あくまで婚約者「候補」である。
 クロシア国の王太子の婚約者は、当事者の合意だけで決まるものではない。
 王室法、第3章第6節には王太子殿下の婚約についての定めがある。
 定めでは、宰相、内相、外相、軍の総帥からなる会議で、内定者を認めるかどうか11か月をかけて審議することになる。
 なぜ、11か月という半端な期間となっているのかは、リズも疑問に思うところであるが、ともかく、その審議で認められて、ようやく公式に婚約者となるのだ。

「殿下。私を望んで下さるのでしたら、11か月の間に私を惚れさせて下さい」

――王族に生まれた者として、婚姻が自由にできるものではないということは、殿下も娘も弁えているはずだ――

ヴィクター殿下のおっしゃったことは、恐らく真実なのだろう。
もし、今回の騒動の反発を収めるために、ローラ嬢との婚姻が持ち上がり、それしか策はないと判断すれば、殿下もローラ嬢も心を殺して婚姻を承諾するのだろう。

お二人とも、想いを寄せる相手に出会えたのに。

リズの中で、どうしても無視できないほどの強い思いが湧きあがってしまう。

ですが、足掻いてみてもよいでしょう?

「会議の間、私は殿下の生まれや容姿に囚われず、殿下に向き合う努力を致します。ですが、舞踏会にも参加して男性との出会いも求めていきます」

 審議は非公式に、そして内密に行われるため、対外的には11か月の間、リズは法律的には自由に今まで通りの生活が営めるのだ。
――もっとも、この権利を行使した候補者は、恐らく後にも先にもいないだろうけれど。

 リズは二人のために犠牲になるつもりはない。
 そのようなことは、殿下の想いに対する裏切りになるとリズには思えた。
 殿下の想いに応える理由も、殿下の想いを断る理由も、リズの真摯な想いでなければ意味がない。

 リズは扇を握りしめ、サファイアの瞳に視線を向けた。
 その瞳は凪いだ海を思わせ、リズの全ての言葉を受け止めることを伝えている。

「審議の間で、私が殿下をお慕いできないと思いましたら、私、直接に宰相へ私の趣味を、――毒草の趣味をお伝えします。そうすれば、私は婚約者とは認められないでしょう。
ですから、殿下、11か月の間で私を恋に落として下さい」

もし、殿下をお慕いしてしまったら、私は穏やかな人生を諦めるのかしら

 殿下に恋してしまった場合のその先については、リズは自分のことであっても、自分がどうするのか全く見当もつかない。

 自分の考えに沈み込んでいるリズを、深い声が現在に引き戻した。

「候補になってくれるということは、真意はどうあれ、私の求婚に応じてくれるということだね」

「求婚に応じる」という表現は、真意はどうあれ、リズとして使いたくないものがあるが、確かに求婚を受け入れなければ候補にはならないのだろう。
 リズは渋々頷いた。

 瞬間、殿下の顔に今まで目にしたことのない笑みが浮かび上がった。
「氷の王子」として社交で見せる笑顔とも違う。感情を隠すためだけに浮かべた笑顔のようで、リズは一瞬自分の襟足が逆立ったのを感じた。
 奇妙なその笑顔にリズが戸惑っていると、殿下は耳に心地より深い声で切り出した。

「私の女神。生まれに囚われない努力をしてくれるというなら、二人の時は、私をエドワードと呼んで欲しい」

――!
リズは答えに窮した。
頬に熱を持ったのが分かり、慌てて扇を広げる。

「そ、そのような畏れ多い――、」

早速、生まれに囚われていること露呈してしまい、リズは言葉を止めた。

「いえ、その、そもそも、そうおっしゃるのでしたら、殿下こそ私をリズとお呼びいただ――」

 咄嗟に口にしたことは更に頬を熱くするものとなり、リズは言いさして目を逸らしてしまう。
 部屋には沈黙が落ちた。
 リズは沈黙に耐え切れなくなり、殿下にちらりと視線を向け、そして目を瞠った。

 そこには、薄っすらと頬を染めながら、一片の曇りもない幸せに彩られた笑顔があった。

 リズはその笑顔に自分の笑顔が引き出されたのを感じた。
 将来の不安も何もかもを忘れて、胸には温かさが広がる。
 そして、そっと、まだ口には出せない思いを胸の内で囁いた。

私、あなたのその笑顔が好きです。……エドワード。

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