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番外編

番外編:紫水晶を胸に秘めて

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 王都にあるマーレイ公爵家の屋敷は、その日、朝早くから静かな興奮と緊張に満ちていた。
 今日、屋敷の皆から愛されていた公爵家の一人娘エリザベスが王太子妃となるのだ。
 特にこの屋敷で何か行事が行われることはなかったが、婚姻の儀式が滞りなく行われるよう、屋敷の誰もが祈り、今日の屋敷の仕事は困難を増した。
――もっとも、屋敷の主一家は王城に招かれていて、本来なら忙しさは半減していたのだが。
 
 やがて儀式が無事行われると、国中の祝いの空気に呑まれて、そして緊張からの解放感も手伝い、屋敷も明るい空気に変わっていた。使用人たちの区画の賑やかさから察するに、どうやらこの屋敷でも祝いの宴会が始まりだしたようだ。
 
 けれども、そのような朗らかな空気とは一線を画した、静かな気配で満たされた部屋があった。
 王城にいると思われているアンソニーの部屋には、ヒューの巧みな結界まで張られて護られた静けさがあった。
 部屋に張った結界を確認するや、ヒューは紫のマントをソファに放り投げながら、自身に張り巡らしていた結界を解いた。
 
「僕は、今日、王城で一番の不幸せな人間だったらしいよ」

 親しくもない人間からどう思われても気にならない逞しさを身に着けたヒューであったが、今日は自分にかけられる眼差しも哀れみも、とにかく数が多かった。
 波のように押し寄せる思念を、リズの警護のために限界まで堪えていたが、みかねた白の守護師とアンソニーが代わりを申し出てくれたので、得意の結界に逃げ込んでいたのだ。

 アンソニーは、上着をソファに置いて腰かけながら、小さく笑いを零していた。
 よほど、今日はヒューには疲れる日だったのだろう。ヒューは勝手知ったるアンソニーの部屋で、お気に入りの茶葉を選んでお茶を淹れ始めている。
 部屋にヒューの好きな柑橘系の爽やかな香りが広がり始める。
 カップに注いだお茶を一口味わい、思い出したようにヒューは呟いた。
 
「僕はそこまで幸せでないように見えるのかな」
「まぁ、見えるだろう。傍から見れば、失恋を一生抱えるのだから」

 冷たい言葉だが、アンソニーの感情は真逆であることを、ヒューは感じ取る。
 アンソニーにとって自分は弟のようなものであるらしい。温かな、包み込むような感情が
ゆっくりとヒューの心に沁み込んだ。
 ヒューは今日負った疲れが心地よく癒されていくのを感じ、瞳を閉じた。
 心地よさに全てを委ねたヒューに、そっと言葉が投げかけられた。

「僕は、エドワードよりも君の方がリズを幸せにしてくれると思っていた」

 瞳を閉じたまま、ヒューはくすりと笑った。リズの気持ちを手に入れるよりも難しいと、幼いころから思っていたアンソニーの信頼は手に入れることができたことが、おかしかった。
 ヒューの微笑に気を悪くすることもなく、温かな思念がもう一度彼を包み込んだ。

「君になら託せると思っていた」

 アンソニーが自分を最愛の妹の相手に見込んでくれていたことは、学園を卒業し、その足で公爵家を訪れたときから、アンソニーからほんの一瞬漏れる思念で知っていた。
 彼女を愛していることはもちろん、魔法で彼女を護ることができる、加えて、彼女の過去も知っている、自分はかなり条件が良かったのだろう。
 もちろん、すぐさまアンソニーの容認の思念は掻き消え、まだまだ妹を手元に置くのだという強い意志に上書きされていたけれど。

「リズは僕を選んでくれなかったけど、一生のつながりを僕はもつことができたよ」

 リズに負担をかけたくなくて、だます形となってしまったが、魔法使いの愛の証である誓いの印を贈った。
 忠誠の誓いはそもそも強力な魔法使いを従属させる意味も持つ。贈られた相手の魔力を操作するなどできるはずもなかった。

 ヒューは、リズの気持ちを得ていなくとも、彼女へ生涯にわたる愛を誓うことに躊躇いはなかった。彼女以外に誓う相手などいなかった。そのような相手など、存在しえなかった。ヒューを照らす光が変わることなどあり得なかった。

 そして、彼女の体質を知ってからは、白金の魔法石だけでなく、自分の魔力でも常に護ることができるようになるために、何としても印を贈りたかった。
 
 けれど、彼は踏みとどまっていた。彼の気持ちは、応えることのできない彼女を苦しめることは明らかだったから。

――僕は運がよかったとすら思ったのにね…

 爽やかなお茶を楽しみながら、今日浴びせられた哀れみの思念を思い出し、ヒューは苦笑を漏らした。

 殿下の命を救うために、リズは騙されたとはいえ、――たとえ、知っていたとしても――、印を受け入れるしかなかった。ヒューも印を贈るしか手段はなかった。
 あの件がなければ、ヒューが彼女に誓いを贈る機会はなかっただろう。
 結果として、ヒューは、贈ることができないと、半ば諦めていた印を贈ることができたのだ。彼女の存在を常に感じていられる、生涯のつながりを持つことができた。片思いにもかかわらず。

 素晴らしい僥倖だった。
 今の自分は満たされた心地がしている。それは印を贈ったことだけではない。
 殿下が目を覚ました時、印を通して、彼女から光のような歓喜が伝わってきた。
 彼女が遠い昔に負った闇が薙ぎ払われた、全てを照らすような歓喜だった。
 あの時、自分は確かにその歓喜に満たされた。
 今も、彼女の幸せを感じ、自分は満たされている。

 常々、殿下の思念を読んで、リズの前では全てが蕩けきっている彼に呆れを抱いていたが、自分も大差はないということを身を以て知った。彼女が幸せなら、それがすべてなのだ。

「まぁ、もし次に生まれ変わることがあれば、僕は君の為に妹に働きかけるさ」

 温かな思念が再び彼を包み込んだ。
 ヒューは目を開けて、美しいエメラルドの瞳を見つめて笑った。

――頼りにならない応援だ。君はきっと妹の気持ちを最優先するはずだ。

 投げかけた思念にアンソニーは眉を上げたが、結局、否定することはなく肩を竦めただけだった。

――それは、君も同じだろう?

 優しく返された思念にヒューは肩を竦めるだけだった。
 しばらく、部屋には心地よい穏やかな時が流れた。そして、アンソニーはお茶をもう一口味わった後、声に出して、問いかけてきた。

「ところで、一つ聞きたかったことがあるんだが」

 アンソニーに向けられた智を湛えた瞳は、問いに真摯に答えることを約束していた。
 アンソニーは小さく頷き、続きを声に出した。

「あの腹黒王子が即位したとき、君は忠誠の印を贈るのかい?」

 魔法使いが微笑と共に返した思念を、アンソニーは口の端を上げて受け止めた。
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