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吸血鬼令嬢は男性に近寄れない
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ノックス王国のクラーク辺境伯は、大きな秘密を抱えている。
代々、国境を守護し、王の忠臣として名高い辺境伯は、強大な魔力を持つ吸血鬼一族なのである。
けれども秘密を抱えるが故に、懸命に善政を心掛けた代々の辺境伯は、秘密を知らない辺境伯領の領民から厚い支持を得てきた。
特に、当代の辺境伯ウィレムは、その穏やかな人柄と、妻と娘を溺愛しながらも、尻に敷かれているその姿が、とても親しみを持たれている。
領民に慕われる彼は、家庭での立場はともかく、領地の施政においては優れた手腕を遺憾なく発揮して、クラーク領は今日ものどかに平和である。
その平和と調和するかのように燦燦と降り注ぐ日差しが、目にも眩しい程で、外にいるだけで心まで晴れ渡る気持ちになる。
その日差しの中、足取り軽く歩いているウィレムの愛娘、クラーク辺境伯令嬢ジェシカは、零れるような笑顔を浮かべていた。
白金の髪は日差しを受けていつにもまして艶めき、鮮やかな新緑を思わせる大きな瞳は、彼女の心を素直に表し煌めいている。
彼女は昨日17歳を目前にして、ようやく血への渇望を覚えたのだ。
吸血鬼は身体が子どもから大人へ変わり始めると、最後の仕上げとして人の血を吸うことで魔力を高め、その魔力でもって完全な成体となる。
ジェシカの魔力が桁外れに大きかったためか、彼女は渇望を覚える時を迎えるのが他の吸血鬼の少女に比べて少し遅かった。
親しい友人が次々と順調に渇望を覚え、吸血を済ませていくのを祝福しながら、取り残されていく自分に、どうしても寂しい気持ちをここ数年抱えていた。
ジェシカがその寂しさを口にしたことはなかったけれども、両親には分かっていたのだろう。吸血鬼としてとうとう大人になる日を迎えたともいえる昨日は、両親は彼女以上に喜びを見せてくれた。
ジェシカの母、メアリは、しっかりと娘を抱きしめ、何度も祝福の言葉を囁き、父、ウィレムは、母ごとジェシカを抱きしめ、母に負けじとばかりに途切れる間もなく祝福を口にし続けてくれた。
――お父様ったら、感極まって涙まで浮かべていたわね。「正義はあった…」って何度も呟いていたけれど、お父様の方が気にしていたのかも。
ジェシカは家族の祝福と愛情を思い出し、頬を緩めた。
世界を温かく明るいものに感じたジェシカは、今日、生まれて初めて人から血を吸うために、騎士団へと足を運んでいる。初めての吸血は騎士からがいいと、先に大人になった友人からお勧めされ、彼女は「初めて」に騎士を選んでいた。
――「血気」盛んな騎士たちは、初めての吸血で少々加減を間違えても、相手を死なせることにはならない――
友人のその言葉に、科学的根拠は全くないにもかかわらず、ジェシカはいたく納得したのだ。飲食には雰囲気も大切なのである。
――ふふ。ここが練習場ね。
大人になれる嬉しさと誇らしさから、弾むような足取りで騎士団の練習場に着いたジェシカは、練習を見守る人間のご令嬢たちの一番後ろに座して、騎士たちの練習を熱い視線で見守った。
人間の男性をこれほど近くで長い時間見ることは、生まれて初めてのことで、すべてが物珍しかった。けれども、それを除いても、彼女の視線は、それはそれは熱いものになったはずだ。
何しろ、剣を振り、剣を交わし、何度も繰り返される鋭い動きの度に、騎士たちの鼓動が高まり、熱い血潮が駆け巡るのを感じられて、ジェシカには至福の時間だったのだ。
やがて、練習は終わり、令嬢たちが観覧席から立ち上がり、お目当ての騎士に差し入れを始めたのを見て、ジェシカも立ち上がった。友人の勧めのように、狙った獲物、いや、お目当ての騎士に魅了を使い、人気のないところまで連れ出す予定だった。
幸いジェシカのお目当ての――体格がよく、一番の熱い血潮の持ち主である騎士は、他のご令嬢から声をかけられることもなく、一人で火照った体を冷ましている。
――あんなに素敵な血をお持ちなのに、人のご令嬢からは人気がないなんて、不思議ね。
そんな異文化の発見をしつつ、彼女は初めての吸血への緊張に高まる鼓動と血への渇望を抑えて、練習場へつながる階段を降り始め――、
―――ッ!
体を強張らせた。
彼女の嗅覚に衝撃が襲う。
思わず息を止める程の衝撃だった。
今まで経験したことのない衝撃。それは――、
男性の汗の臭い、だった。
色も形も持たないにもかかわらず、恐ろしいまでの存在感を放つその臭いは、人間よりも数倍鋭敏なジェシカの嗅覚には苛烈を極め、血への渇望を軽く凌駕した。
――いやぁぁぁ!
彼女は内心で悲鳴を上げ、その場から全力で転移していた。
◇
それからというもの、ジェシカにとって世界は少々難しいものになった。
彼女の友人たちは、汗の臭いも「男らしさ」という名のスパイスで、血への渇望を高めるものだったようだが、
――無理よ。私にはあれは劇薬だわ。絶対に無理。本当に無理。
臭いを思い出しただけで身震いするジェシカは、騎士団に足を運ぶことはなかった。いや、正確にいえば、とてもできなかった。
ジェシカは騎士からの吸血は諦めた。
――男性は騎士の方以外にもいらっしゃるもの。血を頂くのをほんの少しに堪えればいいだけじゃない。
人一倍、吸血鬼として大人になることを待ち望んでいた彼女は、様々な男性から吸血を試みた。
汗とは無縁の、身だしなみとして香水を纏う貴族の男性を始めとして、常に身を清めていそうな神官、何となく男性だけでなく人間自体を辞めていそうな芸術家、音楽家、お年寄り、ついには、身体は男性でも心は女性の人間まで。
その涙ぐましい努力に、彼女の両親は本当に涙した。ウィレムが目を潤ませ「正義はきっとある…」と呟く姿は屋敷の日常になった。
そして、多様な男性に近寄ることに努力を尽くしたと自他ともに認める程になったとき、ジェシカは自分の体質に結論を出した。
男性臭アレルギー。
どうやら彼女の苦手な臭いは汗だけでなく、男性が発する様々な臭い全般が受け付けないようだった。加えて、試すごとにその臭いに敏感になり、臭いを感知し始める、つまり、それ以上近寄れない距離はどんどんと伸びている。
このままいけば、いずれ、目に見えないほど遠くに潜んだ男性を発見できるという、あまり価値のなさそうな特技を身に着ける日も訪れそうな勢いだった。
微妙な特技を身に着けることは避けたいジェシカだったが、血を吸うことは諦めなかった。
大人に成りたいという熱意と、押し寄せる血への渇望は、彼女に柔軟な発想をもたらした。
――私の身体が普通と違うのなら、「異性から吸血する」という常識もいらないのではないかしら?
彼女は新境地を開き、女性に近づくことにした。
結果は、――世界の厳しさをジェシカに教えるものだった。彼女は女性から吸うことはできなかったのだ。
女性に近づくことはできた。すんなりと。人間の友達までできるほどに。さらに言えばスイーツにこだわりができる程に。
けれども、肝心の血への渇望が彼女たちの前では、すっかりと収まってしまう。
残念ながら、ジェシカの体質は、男性臭アレルギーを持ちながら、男性からしか吸血できないようだった。
――男性もだめ、女性もだめ。一体どうしたらいいのかしら。
とうとう、ジェシカは動けなくなってしまった。
家の者には見つからないよう、こっそりと屋敷の近くの野原に行き、童心に帰り腰を下ろして、膝を抱えた。森の入り口ともいえるこの野原には、森を恐れて人は滅多に近寄らない。幼いころからのお気に入りの場所で、心憎いほどに澄み切った空を見上げた
――諦める、というのはこういうときに出てくるのかしら…。
馴染んだ場所で、ふわりと浮かんだ考えに、ジェシカは瞳を閉じた。
風にそよぐ草木の音に意識を向けて、ジェシカはそれ以上考えることを休んでいた。
懐かしい場所は、不思議なほど彼女を穏やかに包み込み、ジェシカにしばしの休みを許してくれる。
日が落ち、肌寒さを感じ始めるまで、ジェシカはずっと心地よい草木の音に耳を傾けていた。
◇
心が洗われたような清々しさで屋敷に戻ったジェシカを待ち受けていたものは、憂いも清々しさも何もかも吹き飛ばすような混乱だった。
屋敷には様々な魔力が飛び交っていた。
分かるだけでも父や母だけでなく、執事のヘンリーまでもが魔力を最大限にして、何かと闘っている。
――皆を助けないと…!
屋敷で一番魔力が強いのは、父ではなくジェシカだ。どうして、このような日に出かけてしまったのかと悔やみながら、ジェシカは瞬時に魔力を高め、新緑の瞳を白金色に光らせ、皆の魔力が飛び交う広間へ駆け込み、……立ち尽くした。
確かに皆は戦っていた。
父も母も、瞳を光らせ、牙を?き、魔力で攻撃を放ち、冷静沈着の鑑である執事のヘンリーも、牙を剥き、魔力を込めたナイフを放っている。
――ヘンリーはナイフが使えたのね…。
そんな新事実をぼんやりとジェシカが思い浮かべてしまったのは、現実離れした「敵」の姿のためだった。
「敵」は確かに強大な魔力を放って、広間の中央に浮かんでいた。
悠然と浮かぶ、神々しい銀の魔力でできた球は、両親の攻撃も、ヘンリーのナイフもあっさりと消し去っている。恐ろしいほどの強さで、広間にいる他の使用人は、牙を剥き魔力を立ち上らせながらも、畏怖を隠せず、銀の球に攻撃を向けられない。ジェシカの目標は勝つことではなく、皆を逃がすことに変わった。
けれども、彼女が呆けてしまったのは、銀の球の中身があまりにも予想外だったからだ。
銀の球の中には、神という存在を思わせる圧倒的な強さを放つ吸血鬼――ではなく、様々な大きさの箱――それもありふれた普通の、母が街で買い物から帰ってきたときに父とヘンリーが運び込むような箱と、一通の手紙が入っていたのだ。
つまり、どうしても敵とみなしにくい。いかに強大な魔力を放っていても。
呆けたジェシカの意識に切り込むように、銀の球から手紙が急に飛び出し、ジェシカの前に移動した。銀の球から出ても、手紙は銀の魔力を帯びたままで、その神々しい力にジェシカは思わず見入ってしまう。
「ジェシイ!開けてはだめよ!」
「お嬢様!触れては御身が穢れます!」
「ジェシカ!!!正義のために、無視してくれ!」
自分にかけられた様々な叫びを聞くともなく聞きながら、ジェシカはそっと手紙に手を伸ばす。
恐らく手紙を取らなければ、ずっと手紙は宙を浮かんだままである。見た目も奇異であるし、迷惑この上ない。
――それに…。
ジェシカは内心そっと首を傾げた。
自分でも不思議なほどに、どうしても、何としてでも、この手紙を取らなければいけない気持ちが沸き上がるのだ。
何かの呪いなのかしらと、警戒を抱きながら、一段と大きくなった悲鳴を黙殺して手紙を開けて、ジェシカは目を見開いた。
流麗な文字で書かれたそれは、呪いの文言ではなく、夜会への招待だった。
我らが吸血鬼の王が10年の眠りから目覚め、祝いの夜会を開くという。
これよ…!
ジェシカは天啓を得た。
人間はだめでも、同族はまだ試していないじゃない…!
代々、国境を守護し、王の忠臣として名高い辺境伯は、強大な魔力を持つ吸血鬼一族なのである。
けれども秘密を抱えるが故に、懸命に善政を心掛けた代々の辺境伯は、秘密を知らない辺境伯領の領民から厚い支持を得てきた。
特に、当代の辺境伯ウィレムは、その穏やかな人柄と、妻と娘を溺愛しながらも、尻に敷かれているその姿が、とても親しみを持たれている。
領民に慕われる彼は、家庭での立場はともかく、領地の施政においては優れた手腕を遺憾なく発揮して、クラーク領は今日ものどかに平和である。
その平和と調和するかのように燦燦と降り注ぐ日差しが、目にも眩しい程で、外にいるだけで心まで晴れ渡る気持ちになる。
その日差しの中、足取り軽く歩いているウィレムの愛娘、クラーク辺境伯令嬢ジェシカは、零れるような笑顔を浮かべていた。
白金の髪は日差しを受けていつにもまして艶めき、鮮やかな新緑を思わせる大きな瞳は、彼女の心を素直に表し煌めいている。
彼女は昨日17歳を目前にして、ようやく血への渇望を覚えたのだ。
吸血鬼は身体が子どもから大人へ変わり始めると、最後の仕上げとして人の血を吸うことで魔力を高め、その魔力でもって完全な成体となる。
ジェシカの魔力が桁外れに大きかったためか、彼女は渇望を覚える時を迎えるのが他の吸血鬼の少女に比べて少し遅かった。
親しい友人が次々と順調に渇望を覚え、吸血を済ませていくのを祝福しながら、取り残されていく自分に、どうしても寂しい気持ちをここ数年抱えていた。
ジェシカがその寂しさを口にしたことはなかったけれども、両親には分かっていたのだろう。吸血鬼としてとうとう大人になる日を迎えたともいえる昨日は、両親は彼女以上に喜びを見せてくれた。
ジェシカの母、メアリは、しっかりと娘を抱きしめ、何度も祝福の言葉を囁き、父、ウィレムは、母ごとジェシカを抱きしめ、母に負けじとばかりに途切れる間もなく祝福を口にし続けてくれた。
――お父様ったら、感極まって涙まで浮かべていたわね。「正義はあった…」って何度も呟いていたけれど、お父様の方が気にしていたのかも。
ジェシカは家族の祝福と愛情を思い出し、頬を緩めた。
世界を温かく明るいものに感じたジェシカは、今日、生まれて初めて人から血を吸うために、騎士団へと足を運んでいる。初めての吸血は騎士からがいいと、先に大人になった友人からお勧めされ、彼女は「初めて」に騎士を選んでいた。
――「血気」盛んな騎士たちは、初めての吸血で少々加減を間違えても、相手を死なせることにはならない――
友人のその言葉に、科学的根拠は全くないにもかかわらず、ジェシカはいたく納得したのだ。飲食には雰囲気も大切なのである。
――ふふ。ここが練習場ね。
大人になれる嬉しさと誇らしさから、弾むような足取りで騎士団の練習場に着いたジェシカは、練習を見守る人間のご令嬢たちの一番後ろに座して、騎士たちの練習を熱い視線で見守った。
人間の男性をこれほど近くで長い時間見ることは、生まれて初めてのことで、すべてが物珍しかった。けれども、それを除いても、彼女の視線は、それはそれは熱いものになったはずだ。
何しろ、剣を振り、剣を交わし、何度も繰り返される鋭い動きの度に、騎士たちの鼓動が高まり、熱い血潮が駆け巡るのを感じられて、ジェシカには至福の時間だったのだ。
やがて、練習は終わり、令嬢たちが観覧席から立ち上がり、お目当ての騎士に差し入れを始めたのを見て、ジェシカも立ち上がった。友人の勧めのように、狙った獲物、いや、お目当ての騎士に魅了を使い、人気のないところまで連れ出す予定だった。
幸いジェシカのお目当ての――体格がよく、一番の熱い血潮の持ち主である騎士は、他のご令嬢から声をかけられることもなく、一人で火照った体を冷ましている。
――あんなに素敵な血をお持ちなのに、人のご令嬢からは人気がないなんて、不思議ね。
そんな異文化の発見をしつつ、彼女は初めての吸血への緊張に高まる鼓動と血への渇望を抑えて、練習場へつながる階段を降り始め――、
―――ッ!
体を強張らせた。
彼女の嗅覚に衝撃が襲う。
思わず息を止める程の衝撃だった。
今まで経験したことのない衝撃。それは――、
男性の汗の臭い、だった。
色も形も持たないにもかかわらず、恐ろしいまでの存在感を放つその臭いは、人間よりも数倍鋭敏なジェシカの嗅覚には苛烈を極め、血への渇望を軽く凌駕した。
――いやぁぁぁ!
彼女は内心で悲鳴を上げ、その場から全力で転移していた。
◇
それからというもの、ジェシカにとって世界は少々難しいものになった。
彼女の友人たちは、汗の臭いも「男らしさ」という名のスパイスで、血への渇望を高めるものだったようだが、
――無理よ。私にはあれは劇薬だわ。絶対に無理。本当に無理。
臭いを思い出しただけで身震いするジェシカは、騎士団に足を運ぶことはなかった。いや、正確にいえば、とてもできなかった。
ジェシカは騎士からの吸血は諦めた。
――男性は騎士の方以外にもいらっしゃるもの。血を頂くのをほんの少しに堪えればいいだけじゃない。
人一倍、吸血鬼として大人になることを待ち望んでいた彼女は、様々な男性から吸血を試みた。
汗とは無縁の、身だしなみとして香水を纏う貴族の男性を始めとして、常に身を清めていそうな神官、何となく男性だけでなく人間自体を辞めていそうな芸術家、音楽家、お年寄り、ついには、身体は男性でも心は女性の人間まで。
その涙ぐましい努力に、彼女の両親は本当に涙した。ウィレムが目を潤ませ「正義はきっとある…」と呟く姿は屋敷の日常になった。
そして、多様な男性に近寄ることに努力を尽くしたと自他ともに認める程になったとき、ジェシカは自分の体質に結論を出した。
男性臭アレルギー。
どうやら彼女の苦手な臭いは汗だけでなく、男性が発する様々な臭い全般が受け付けないようだった。加えて、試すごとにその臭いに敏感になり、臭いを感知し始める、つまり、それ以上近寄れない距離はどんどんと伸びている。
このままいけば、いずれ、目に見えないほど遠くに潜んだ男性を発見できるという、あまり価値のなさそうな特技を身に着ける日も訪れそうな勢いだった。
微妙な特技を身に着けることは避けたいジェシカだったが、血を吸うことは諦めなかった。
大人に成りたいという熱意と、押し寄せる血への渇望は、彼女に柔軟な発想をもたらした。
――私の身体が普通と違うのなら、「異性から吸血する」という常識もいらないのではないかしら?
彼女は新境地を開き、女性に近づくことにした。
結果は、――世界の厳しさをジェシカに教えるものだった。彼女は女性から吸うことはできなかったのだ。
女性に近づくことはできた。すんなりと。人間の友達までできるほどに。さらに言えばスイーツにこだわりができる程に。
けれども、肝心の血への渇望が彼女たちの前では、すっかりと収まってしまう。
残念ながら、ジェシカの体質は、男性臭アレルギーを持ちながら、男性からしか吸血できないようだった。
――男性もだめ、女性もだめ。一体どうしたらいいのかしら。
とうとう、ジェシカは動けなくなってしまった。
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馴染んだ場所で、ふわりと浮かんだ考えに、ジェシカは瞳を閉じた。
風にそよぐ草木の音に意識を向けて、ジェシカはそれ以上考えることを休んでいた。
懐かしい場所は、不思議なほど彼女を穏やかに包み込み、ジェシカにしばしの休みを許してくれる。
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分かるだけでも父や母だけでなく、執事のヘンリーまでもが魔力を最大限にして、何かと闘っている。
――皆を助けないと…!
屋敷で一番魔力が強いのは、父ではなくジェシカだ。どうして、このような日に出かけてしまったのかと悔やみながら、ジェシカは瞬時に魔力を高め、新緑の瞳を白金色に光らせ、皆の魔力が飛び交う広間へ駆け込み、……立ち尽くした。
確かに皆は戦っていた。
父も母も、瞳を光らせ、牙を?き、魔力で攻撃を放ち、冷静沈着の鑑である執事のヘンリーも、牙を剥き、魔力を込めたナイフを放っている。
――ヘンリーはナイフが使えたのね…。
そんな新事実をぼんやりとジェシカが思い浮かべてしまったのは、現実離れした「敵」の姿のためだった。
「敵」は確かに強大な魔力を放って、広間の中央に浮かんでいた。
悠然と浮かぶ、神々しい銀の魔力でできた球は、両親の攻撃も、ヘンリーのナイフもあっさりと消し去っている。恐ろしいほどの強さで、広間にいる他の使用人は、牙を剥き魔力を立ち上らせながらも、畏怖を隠せず、銀の球に攻撃を向けられない。ジェシカの目標は勝つことではなく、皆を逃がすことに変わった。
けれども、彼女が呆けてしまったのは、銀の球の中身があまりにも予想外だったからだ。
銀の球の中には、神という存在を思わせる圧倒的な強さを放つ吸血鬼――ではなく、様々な大きさの箱――それもありふれた普通の、母が街で買い物から帰ってきたときに父とヘンリーが運び込むような箱と、一通の手紙が入っていたのだ。
つまり、どうしても敵とみなしにくい。いかに強大な魔力を放っていても。
呆けたジェシカの意識に切り込むように、銀の球から手紙が急に飛び出し、ジェシカの前に移動した。銀の球から出ても、手紙は銀の魔力を帯びたままで、その神々しい力にジェシカは思わず見入ってしまう。
「ジェシイ!開けてはだめよ!」
「お嬢様!触れては御身が穢れます!」
「ジェシカ!!!正義のために、無視してくれ!」
自分にかけられた様々な叫びを聞くともなく聞きながら、ジェシカはそっと手紙に手を伸ばす。
恐らく手紙を取らなければ、ずっと手紙は宙を浮かんだままである。見た目も奇異であるし、迷惑この上ない。
――それに…。
ジェシカは内心そっと首を傾げた。
自分でも不思議なほどに、どうしても、何としてでも、この手紙を取らなければいけない気持ちが沸き上がるのだ。
何かの呪いなのかしらと、警戒を抱きながら、一段と大きくなった悲鳴を黙殺して手紙を開けて、ジェシカは目を見開いた。
流麗な文字で書かれたそれは、呪いの文言ではなく、夜会への招待だった。
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