【完結】還俗の刃 ――能登・長連龍の復讐――

高杉 優丸

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第2話 空虚な玉座

第2話 空虚な玉座(後編)

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 広間を出る。冷え切った空気の澱みが、板張りの廊下を這うように流れていた。廊下の隅で、飯川いいかわが泣いていた。すすけた太い柱に額を押しつけ、痩せた肩を激しく震わせている。嗚咽おえつが、湿った木の匂いと共に闇に溶けていく。天正五年てんしょうごねんの落城以来、七年という年月が澱のように堆積した末の涙だ。

「戻りました……殿、若殿……」

 飯川は虚空に向かって、死んだ主君と兄の名を呼び続けている。忠義。あるいは未練。それは傍目には美しい情景かもしれない。だが、今の連龍には、その湿った感情の吐息が酷く鬱陶うっとうしかった。死人は戻らない。どれだけ畳を涙で濡らしても、柱の傷ひとつ、死んだ肉ひとつ治せはしない。

「飯川」

 声をかける。連龍の声は、乾いた風のように廊下を吹き抜けた。飯川が弾かれたように顔を上げた。涙と鼻水で、老いた顔はぐしゃぐしゃに歪んでいる。

「わ、若……いえ、殿」

「その呼び方はよせ」

 連龍は低く、言葉を遮った。視線は飯川を通さず、その背後の闇に向けられている。

「俺はちょう家の当主ではない。ただの復讐者だ。この城も、名も、俺には重すぎる」

「な、何を仰いますか。城を取り戻したのです。これからは、あなたがこの能登のとを治め、長家を再興するのです。それが亡き御屋形様の、皆様の願いにございます」

「治める気はない。ここは前田利家まえだとしいえ殿に任せる。城など、ただの木の箱だ」

 飯川が口を半開きにしたまま、言葉を失っている。理解できないのだろう。土地と城こそが武士の命であり、魂そのものであるという倫理。それを踏みにじり、放棄するなど、彼らにとっては正気の沙汰ではない。

「俺は行く。掃除は任せたぞ。過去を愛でるなら、この箱の中で朽ちればいい」

 連龍は飯川の横を通り過ぎた。背後から、「お待ちください」という老人の叫びが響いたが、一度も振り返らなかった。足音が、湿った廊下に空虚な響きを残す。

 庭に出る。雨は完全に上がっていた。雲の切れ間から差し込む光が、濡れた地面から這い上がるくさいきれを白く照らし出している。十蔵じゅうぞう磯六いそろくが、石垣の影で待っていた。彼らは何も言わない。ただ、連龍の顔を見て、ニヤリと獣のような笑みを浮かべた。

「早かったな」

 磯六が、塩気に灼けた濡れ髪を荒っぽく掻き上げた。

「殿様暮らしは、その繊細な肌に合わねえか。畳の上じゃ眠れなかったんだろう」

「玉座は板が硬すぎた。腰が落ち着かん」

「違いない。俺たちにゃ、揺れる船板か、泥の上がお似合いだ」

 十蔵が、愛用のかまを無造作に腰に差した。その傍らでは、六文ろくとむらいが低く唸り、鼻先を北に向けている。

「で、どっちだ」

「どっちとは」

「風の向きだ。獲物はどっちへ逃げた。地獄か、それともどこかの穴蔵か」

 連龍は北の空を見上げた。千切れた雲が、驚くべき速さで流れている。風は冷たく、北へ向かって吹き抜けていた。

越中えっちゅうだ。佐々成政さっさなりまさの領地。鼠共は、あの鼻持ちならぬ男の懐に滑り込んだ。獲物の臭いが、風に乗って流れてくる」

「またあの気取った野郎の庭か。面倒だが、狩り甲斐はある」

「構わん。邪魔をするなら、成政ごと喰う。それだけだ」

 連龍の冷徹な言葉に、十蔵が喉を鳴らして笑った。狂気じみた、低い響き。まともな倫理など、ここには存在しない。だが、連龍にはその響きこそが、自分の内面の飢えを埋める唯一の律動に思えた。主従ではない。血の匂いに惹かれ合う、獣の群れだ。

「行くぞ。遅れるな」

 連龍は歩き出した。大手門の威容には目もくれず、裏手の搦手からめてへと向かう。正面から入り、裏から去る。長連龍という名の武将は、この城に魂を置いて死んだことにすればいい。ここから先は、形なき魔犬としての道だ。

 城門を出る際、一度だけ足を止め、背後を振り返った。霧の中にぼんやりと浮かぶ七尾城。巨大な石垣、天を突くやぐら。かつては憧れの対象であったその威容は、今や巨大な墓標ぼひょうにしか見えなかった。

「あばよ」

 短く告げる。それは決別だった。一族との、そして人間としての自分との。連龍は、城という呪縛から自らを解き放った。

 山を下りる足取りは、羽のように軽い。背負っていた「家」という名の重い荷物を、すべて城に置いてきたからだ。残ったのは、腰に差した一振りの鉄と、焼き尽くせぬ執念だけ。

 道端の草が、強い北風に揺れている。獣道を進む連龍の背中を、見えない魔犬まけんの影が追っていた。越中への、長い放浪の旅が始まる。
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