【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

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第1章 遅れてきた男

2話

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 道場に近づくにつれ、乾いた音が鼓膜を叩き始めた。

 以前、江戸の道場で聞いた竹刀がぶつかり合う軽快な音ではない。樫の棒で、生木を叩き折るような音だ。 床板を踏む震動が、足の裏から直接内臓に響いてくる。

「……やっぱり、変だ」

 野村が眉をひそめ、足を速めた。相馬もそれに続く。

 通常、稽古場といえば、「キェェェイッ!」という裂帛れっぱくの気合いや、床を踏み鳴らす音が轟いているはずだ。三百人近い隊士を擁する新選組の道場なら、なおさら活気に満ちていなければならない。 だが、ここには「声」がない。 あるのは、打撃音と、何かが床に崩れ落ちる重たい音、そして苦痛に満ちた呻き声だけだ。

 まるで、処刑場から漏れてくる音のようだった。

「どうなってるんだ」

 相馬は唾を飲み込み、廊下の角を曲がった。 道場の入り口が見える。開け放たれた扉から、夕日が長く伸びていた。

 中を覗き込んだ瞬間、相馬は息を呑み、自身の心臓が早鐘を打つのを感じた。

「な……」

 言葉が出ない。 百畳はあろうかという広い板張りの道場に、十数人の男が這いつくばっていた。 全員、屈強な隊士のはずだ。腕に覚えがあり、幾多の修羅場をくぐり抜けてきたであろう猛者たち。それが、まるで羽をもがれた虫のようにうずくまり、脂汗を流して呻いている。

 嘔吐えずいている者もいた。 肩を押さえて悶絶している者もいた。

 立っているのは、ただ一人。 道場の中央に、痩せぎすの男が佇んでいた。

 背が高い。わずかに猫背気味で、手足が異様に長い。 手には竹刀が握られているが、構えは独特だった。剣先を低く下げ、半身になり、左手を前に出している。 まるで獲物を狙うカマキリか、あるいは鎌首をもたげた毒蛇のような姿勢だ。

 一番組組長・沖田総司ではない。 町でその風貌を聞いたことがある。沖田は色白の愛想の良い青年だと聞いていたが、この男の眼は、もっとくらい。 底知れぬ井戸の底のような、光のない瞳だ。

「……!」

 隣で、野村が驚愕に目を見開いた。

「戻ってきてたのか」

「誰だ?」

 相馬が小声で問う。野村は信じられないものを見る目で、その男を凝視していた。

「斎藤一さんだ。三番組の組長だよ」

 相馬は耳を疑った。 さっき野村は、斎藤も「御陵衛士ごりょうえじ」へ行ってしまったと言っていなかったか。

「出て行ったんじゃなかったのか。伊東参謀と一緒に……」

「分からねえ。……だが、見てみろ、あの眼を」

 斎藤が、ゆらりと動いた。 何とか立ち上がろうとした隊士がいた。その男が竹刀を構え直そうとした、刹那。

 斎藤の姿がブレた。

 相馬の動体視力でも追いきれない速さだった。 踏み込みの音がしない。予備動作も、気合いの声もない。 ただ、風が吹くように間合いを詰め、左手一本で突きを放った。

 ズンッ。

 空気が破裂するような音がした。 竹刀の切っ先が、隊士の喉元に突きつけられる。寸止めではない。皮一枚で止まっている。 もし真剣なら、間違いなく喉仏を貫き、絶命していただろう。

 隊士が白目を剥き、音もなく腰から崩れ落ちた。

「死にたいなら、戦場で死ね」

 斎藤の声は、氷のように冷たかった。 怒鳴っているわけではない。だが、その静かな声は、どんな大音声だいおんじょうよりも恐ろしく響いた。

「沖田は労咳ろうがいで寝ている。一番組が機能しないからといって、代わりはお遊びで済むと思ったか?」

 誰も答えられない。 床に転がる隊士たちは、恐怖で震えているようだった。

 圧倒的な暴力。 そして、「敵地に潜り込み、生還した」という男だけがまとう、異様な死臭。

 相馬の背筋に、冷たいものが走った。

(まさか……)

 直感が告げていた。 この男は、単に気が変わって戻ってきたのではない。 伊東甲子太郎派についたと見せかけて、密偵として潜り込んでいたのだ。 かつての仲間を欺き、裏切り者の汚名を着て、敵の懐で情報を吸い上げ、平然と戻ってきた。

 この男には「情」というものがないのか。 人を騙し、裏切ることに、痛みを感じないのか。

 これが、新選組の幹部か。 沖田総司が「陽」の最強なら、この男は「陰」の最強だ。

「……おい、そこ」

 不意に、斎藤がこちらを向いた。 その細い目が、入り口に立つ相馬と野村を射抜く。

 ビクリ、と相馬の体が跳ねた。 蛇に睨まれた蛙。 ただ見られただけだ。それなのに、切っ先を眼球に突きつけられたような幻痛を感じた。

 斎藤がゆっくりと歩み寄ってくる。 竹刀をだらりと下げたまま、足音をさせずに。

 相馬は腰の刀に手が伸びそうになるのを、必死で堪えた。抜けば殺される。いや、抜こうとした瞬間に殺される。

 斎藤は相馬の目の前、鼻先数寸のところで止まった。 汗と、古い血の匂いがした。

「見ない顔だな」

 抑揚のない声。

「……本日入隊しました。相馬主計です」

 喉が張り付いて、声が出にくい。 斎藤は相馬の目をじっと覗き込んだ。値踏みですらない。解剖するような目だ。

「人を斬ったことはあるか」

 唐突な問いだった。

「い、いえ。まだ……」

「そうか」

 斎藤は興味を失ったように視線を逸らした。

「なら、よく見ておけ。剣術ごっこは終わりだ。これからは、殺し合いしか残らない」

 斎藤はきびすを返し、道場の中央へと戻っていく。 その背中には、拒絶の壁があった。誰の理解も、共感も求めない。ただ任務を遂行するだけの、冷徹な機械のような背中。

「行くぞ、相馬」

 野村が青ざめた顔で、相馬の袖を引いた。

「あれに目をつけられたら、新入りなんぞ骨も残らねえ。……どうやら、噂は本当らしいな」

「噂?」

「近いうちにデカい山がある。斎藤さんが戻ったってことは、近藤局長と土方副長は、伊東甲子太郎をやる気だ」

「やるって……暗殺か?」

「粛清だ」

 野村は吐き捨てるように言った。

「裏切り者は許さねえ。それがここの鉄の掟だ。……今夜か、明日か。京のどこかが血の海になるぜ」

 二人は逃げるように道場を離れた。 背後でまた一人、隊士が弾き飛ばされる音がした。

 長い廊下を歩きながら、相馬は自分の手が震えているのに気づいた。 武者震いではない。純粋な恐怖だ。

 侍になりたいと願った。剣で身を立てたいと思った。 だが、ここにあるのは道場剣術の延長ではない。 もっとドロドロとした、政治と暴力の掃き溜めだ。

「……とんでもないところに来ちまったな」

 野村が苦笑いする。

「ああ。だが、戻る道はない」

 相馬がそう答えた時だった。

 廊下の奥から、異質な音が聞こえてきた。

 カツ、カツ、カツ。

 硬質な足音。 草履や雪駄の音ではない。板張りの廊下を、硬い革底で叩く音だ。 その音程は一定で、一片の迷いもない。

 空気が、一瞬にして凍りついた。 さっきまでの斎藤の殺気とは違う。もっと冷たく、もっと重い「支配」の気配。

 すれ違う隊士たちが、壁際に寄り、深々と頭を下げる。 まるで神仏か、あるいは恐ろしい魔物が通る道を開けるように、波が引いていく。

 相馬は誰か知らなかった。 会ったことも、見たこともない。 だが、直感が、いや、魂が告げている。

 この男こそが、新選組ここの法そのものだと。
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