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第5章 箱館の土、副長の密命
1話
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明治二年、五月十日。
箱館、五稜郭。
夜気は、氷のように冷たかった。
北国の遅い春。桜はとうに散り、今はただ、湿った土と鉄の匂いが風に乗って運ばれてくる。
あす未明、新政府軍による総攻撃が開始される。
誰もがそれを知っていた。
城郭内は、死を前にした静寂と、張り詰めた殺気に包まれていた。
咳払いひとつ聞こえない。
聞こえるのは、時折風が窓を揺らす音と、己の心臓が打つ鼓動だけだ。
新選組隊長、相馬主計は、本営の長い廊下を歩いていた。
足音が、古い板張りに吸い込まれていく。
腹の底に、鉛を飲み込んだような重さがあった。
ふと、前方の部屋から一人の少年が出てきた。
市村鉄之助。
土方歳三の小姓だ。まだ十六歳。
少年は、背中に長い包みを背負っていた。布に包まれているが、その形状を見れば分かる。
刀だ。
「……市村」
相馬が声をかけると、少年はビクリと肩を震わせ、慌てて袖で顔を拭った。
「相馬さん……」
「行くのか」
「はい。……副長の命で、日野へ」
市村の声は震えていた。
彼は、背負った荷物を愛おしげに、そして壊れ物を扱うように撫でた。
あの中には、土方の写真と、辞世の句。
そして、副長の魂とも言える愛刀・和泉守兼定が入っているのだろう。
土方は、己の分身を故郷へ返し、自身はこの地で徒手空拳のまま散るつもりなのだ。
「副長は、私を……私を逃がすために、使いに出されたのです。こんな子供は、戦場では足手まといだと……」
市村が嗚咽を漏らす。
嘘だ、と相馬は思った。
足手まといなどではない。土方は、この少年に「未来」を託したのだ。
「泣くな」
相馬は、少年の肩に手を置いた。
「お前には、お前の戦いがある。……生きて、届けるんだ。それが副長への忠義だ」
「……はいッ!」
市村は深く頭を下げ、闇の中へと走り去っていった。
小さな背中が、夜霧に溶けて消える。
相馬はそれを見送り、唇を噛んだ。
いよいよだ。
副長は、身辺を整理した。
未練を断ち切り、鬼となって死ぬつもりだ。
「……入れ」
部屋の中から、低い声がした。
相馬は居住まいを正し、大きく息を吸い込んだ。
襖を開ける。
部屋には、行灯が一つだけ灯されていた。
その薄明かりの中に、土方歳三が座っていた。
黒羅紗の軍服。
乱れのない着こなし。
机の上には、一本の酒瓶と、二つの杯が置かれている。
相馬の視線は、無意識に床の間の方へ向いた。
いつもなら、そこに置かれているはずの兼定がない。
刀掛けは空っぽだった。
その空虚さが、土方の決意を何よりも雄弁に物語っていた。
「座れ」
土方が顎で示した。
相馬は土方の前に正座した。
土方の顔色は悪かった。蝋のように白い。
連戦の疲労と、長年患っている肺の病が、体を内側から蝕んでいるのだろう。
だが、その眼光だけは、研ぎ澄まされた氷の刃のように鋭く、相馬を射抜いていた。
刀を失ってもなお、この男自身が凶器そのものだった。
「飲み納めだ」
土方が手酌で酒を注ぎ、相馬に勧めた。
相馬は黙って杯を受け、一息に飲み干した。
安い酒だ。
舌を刺し、喉を焼く。その熱さが、胃の腑に落ちて広がる。
「……いい飲みっぷりだ」
土方が、微かに口元を緩めた。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「相馬。……命令がある」
土方が、空になった杯を置いた。
カツン、という音が、部屋の空気を凍らせる。
「今夜のうちに、手勢を率いて弁天台場へ入れ」
相馬は顔を上げた。
耳を疑った。
「弁天台場へ……ですか」
「そうだ。明日の総攻撃で、敵は必ず港を押さえに来る。海と陸、両面からの攻撃だ。……弁天台場は孤立するだろう」
土方は卓上の地図を指差した。
弁天台場。箱館港の入り口にある要塞。
そこが落ちれば、五稜郭への補給路は完全に断たれ、海側からの艦砲射撃が本営を直撃することになる。
「あそこには、箱館奉行の永井様や、島田魁たちがいる。……だが、指揮官が足りん。永井様を守り、島田の手綱を握れるのは、お前しかいない」
「……お断りします」
相馬は、腹の底から声を絞り出した。
「副長のお側で戦わせてください! 私は、最後まであなたの盾になりたいのです!」
「ならん」
土方の声は冷徹だった。
有無を言わせぬ響き。
「これは左遷ではない。……最も過酷な戦場への投入だ。弁天は地獄になる。島田と協力し、最後の一兵になるまで持ち堪えろ」
「ですが……!」
「相馬」
土方が、相馬の目を射抜いた。
その瞳の奥に、揺らめく鬼火のような光があった。
「俺は明日、一本木関門へ出る」
「一本木……」
最前線だ。
指揮官が立つべき場所ではない。
敵の主力部隊が押し寄せる、死の入り口だ。
「あそこで敵を食い止める。……お前たちが弁天で持ち堪えている間に、俺が敵の包囲を突き崩す。それが勝機だ」
嘘だ、と相馬は思った。
勝機などない。
そんなことは、戦術に長けたこの男が一番よく分かっているはずだ。
土方は、死に場所を探している。
あるいは、弁天台場にいる仲間たち――永井や島田、そして相馬を救うために、自ら囮になろうとしているのではないか。
「……副長。あなたは、死ぬ気ですか」
「死ぬ?」
土方は鼻で笑った。
「俺は新選組副長、土方歳三だぞ。……死神の方から逃げ出すわ」
強がりだった。
痛々しいほどの、男の痩せ我慢だった。
「行け。……時間がない」
土方が顔を背けた。
拒絶の合図だ。
これ以上、何を言っても無駄だ。この男が決めたことは、テコでも動かない。
相馬は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで涙を堪えた。
立ち上がろうとした、その時だった。
「……待て」
土方が呼び止めた。
振り返る。
土方の表情が変わっていた。
指揮官の顔ではない。一人の、疲れた男の顔だった。
「……」
土方は言い淀んだ。
視線を彷徨わせ、そして意を決したように声を潜めた。
「もし、俺が死んだら」
「……!」
「俺の死体は、敵に渡すな」
相馬は息を呑んだ。
部屋の空気が、一瞬にして真空になったような圧迫感。
土方は、相馬を見ずに続けた。
「近藤さんの首は、京の河原に晒された。……奴らはそうやって、俺たちを『逆賊』として見世物にし、自分たちの正義を完成させた」
土方の拳が、膝の上で震えていた。怒りか、無念か。
「俺の首まで渡せば、新選組は完全に『過去の汚点』として処理されるだろう。奴らに完全な勝利を与えてしまうことになる」
「ですが、副長……」
「だから、隠せ」
土方が立ち上がり、テーブル越しに相馬の肩を強く掴んだ。
革手袋越しに、力が伝わってくる。
万力のような力。
「俺の死体が見つからなければ、奴らは永遠に怯えることになる。『土方歳三はまだ生きているのではないか』とな。……俺は死してなお、明治という世の『亡霊』となって、奴らの喉元に棘を残し続ける」
相馬は、土方の目を見た。
そこには、単なる美学や羞恥心ではない、死後すらも戦い続けようとする、凄まじい執念があった。
これは、軍としての命令ではない。
土方歳三という男が、新政府軍に叩きつける、最後の挑戦状だ。
「骨一本たりとも渡すな。誰も知らぬ場所に埋めろ。……それが、お前への最後の命令だ」
「……」
相馬の目から、熱いものがこみ上げた。
止められなかった。
この人は、自分の死体さえも武器にして、まだ戦おうとしている。
その孤独の深さと、強さに、相馬の心が震えた。
「……承知、いたしました」
相馬は血を吐く思いで頷いた。
床に額を擦り付ける。
「必ず……必ず、お守りします。あなたの魂は、指一本触れさせません」
「頼んだぞ」
土方の手が離れた。
温もりが消える。
「行け。……死ぬなよ」
相馬は、顔を上げた。
土方はもう、地図に目を落としていた。
その横顔は、どこまでも美しく、そして冷たかった。
「御武運を」
相馬は部屋を出た。
襖を閉める。
その瞬間、自分の中の何かが断ち切られた気がした。
廊下を歩く。
足音が、やけに大きく響く。
涙は拭わなかった。
これが、今生の別れになることを知っていたからだ。
外に出ると、雪交じりの風が吹いていた。
五稜郭の星型の堀が、闇の中に黒々と横たわっている。
「行くぞ……」
相馬は自分に言い聞かせるように呟いた。
目指すは弁天台場。
死の包囲網の中へ。
副長は、俺たちを守るために死ぬ気だ。
ならば、俺たちは生きて、その亡骸を守らねばならない。
それが、残された者の最後の戦いだ。
相馬主計は、闇夜へと駆け出した。
五月十日の夜が更けていく。
箱館の冷たい風が、終わりの始まりを告げていた。
箱館、五稜郭。
夜気は、氷のように冷たかった。
北国の遅い春。桜はとうに散り、今はただ、湿った土と鉄の匂いが風に乗って運ばれてくる。
あす未明、新政府軍による総攻撃が開始される。
誰もがそれを知っていた。
城郭内は、死を前にした静寂と、張り詰めた殺気に包まれていた。
咳払いひとつ聞こえない。
聞こえるのは、時折風が窓を揺らす音と、己の心臓が打つ鼓動だけだ。
新選組隊長、相馬主計は、本営の長い廊下を歩いていた。
足音が、古い板張りに吸い込まれていく。
腹の底に、鉛を飲み込んだような重さがあった。
ふと、前方の部屋から一人の少年が出てきた。
市村鉄之助。
土方歳三の小姓だ。まだ十六歳。
少年は、背中に長い包みを背負っていた。布に包まれているが、その形状を見れば分かる。
刀だ。
「……市村」
相馬が声をかけると、少年はビクリと肩を震わせ、慌てて袖で顔を拭った。
「相馬さん……」
「行くのか」
「はい。……副長の命で、日野へ」
市村の声は震えていた。
彼は、背負った荷物を愛おしげに、そして壊れ物を扱うように撫でた。
あの中には、土方の写真と、辞世の句。
そして、副長の魂とも言える愛刀・和泉守兼定が入っているのだろう。
土方は、己の分身を故郷へ返し、自身はこの地で徒手空拳のまま散るつもりなのだ。
「副長は、私を……私を逃がすために、使いに出されたのです。こんな子供は、戦場では足手まといだと……」
市村が嗚咽を漏らす。
嘘だ、と相馬は思った。
足手まといなどではない。土方は、この少年に「未来」を託したのだ。
「泣くな」
相馬は、少年の肩に手を置いた。
「お前には、お前の戦いがある。……生きて、届けるんだ。それが副長への忠義だ」
「……はいッ!」
市村は深く頭を下げ、闇の中へと走り去っていった。
小さな背中が、夜霧に溶けて消える。
相馬はそれを見送り、唇を噛んだ。
いよいよだ。
副長は、身辺を整理した。
未練を断ち切り、鬼となって死ぬつもりだ。
「……入れ」
部屋の中から、低い声がした。
相馬は居住まいを正し、大きく息を吸い込んだ。
襖を開ける。
部屋には、行灯が一つだけ灯されていた。
その薄明かりの中に、土方歳三が座っていた。
黒羅紗の軍服。
乱れのない着こなし。
机の上には、一本の酒瓶と、二つの杯が置かれている。
相馬の視線は、無意識に床の間の方へ向いた。
いつもなら、そこに置かれているはずの兼定がない。
刀掛けは空っぽだった。
その空虚さが、土方の決意を何よりも雄弁に物語っていた。
「座れ」
土方が顎で示した。
相馬は土方の前に正座した。
土方の顔色は悪かった。蝋のように白い。
連戦の疲労と、長年患っている肺の病が、体を内側から蝕んでいるのだろう。
だが、その眼光だけは、研ぎ澄まされた氷の刃のように鋭く、相馬を射抜いていた。
刀を失ってもなお、この男自身が凶器そのものだった。
「飲み納めだ」
土方が手酌で酒を注ぎ、相馬に勧めた。
相馬は黙って杯を受け、一息に飲み干した。
安い酒だ。
舌を刺し、喉を焼く。その熱さが、胃の腑に落ちて広がる。
「……いい飲みっぷりだ」
土方が、微かに口元を緩めた。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「相馬。……命令がある」
土方が、空になった杯を置いた。
カツン、という音が、部屋の空気を凍らせる。
「今夜のうちに、手勢を率いて弁天台場へ入れ」
相馬は顔を上げた。
耳を疑った。
「弁天台場へ……ですか」
「そうだ。明日の総攻撃で、敵は必ず港を押さえに来る。海と陸、両面からの攻撃だ。……弁天台場は孤立するだろう」
土方は卓上の地図を指差した。
弁天台場。箱館港の入り口にある要塞。
そこが落ちれば、五稜郭への補給路は完全に断たれ、海側からの艦砲射撃が本営を直撃することになる。
「あそこには、箱館奉行の永井様や、島田魁たちがいる。……だが、指揮官が足りん。永井様を守り、島田の手綱を握れるのは、お前しかいない」
「……お断りします」
相馬は、腹の底から声を絞り出した。
「副長のお側で戦わせてください! 私は、最後まであなたの盾になりたいのです!」
「ならん」
土方の声は冷徹だった。
有無を言わせぬ響き。
「これは左遷ではない。……最も過酷な戦場への投入だ。弁天は地獄になる。島田と協力し、最後の一兵になるまで持ち堪えろ」
「ですが……!」
「相馬」
土方が、相馬の目を射抜いた。
その瞳の奥に、揺らめく鬼火のような光があった。
「俺は明日、一本木関門へ出る」
「一本木……」
最前線だ。
指揮官が立つべき場所ではない。
敵の主力部隊が押し寄せる、死の入り口だ。
「あそこで敵を食い止める。……お前たちが弁天で持ち堪えている間に、俺が敵の包囲を突き崩す。それが勝機だ」
嘘だ、と相馬は思った。
勝機などない。
そんなことは、戦術に長けたこの男が一番よく分かっているはずだ。
土方は、死に場所を探している。
あるいは、弁天台場にいる仲間たち――永井や島田、そして相馬を救うために、自ら囮になろうとしているのではないか。
「……副長。あなたは、死ぬ気ですか」
「死ぬ?」
土方は鼻で笑った。
「俺は新選組副長、土方歳三だぞ。……死神の方から逃げ出すわ」
強がりだった。
痛々しいほどの、男の痩せ我慢だった。
「行け。……時間がない」
土方が顔を背けた。
拒絶の合図だ。
これ以上、何を言っても無駄だ。この男が決めたことは、テコでも動かない。
相馬は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで涙を堪えた。
立ち上がろうとした、その時だった。
「……待て」
土方が呼び止めた。
振り返る。
土方の表情が変わっていた。
指揮官の顔ではない。一人の、疲れた男の顔だった。
「……」
土方は言い淀んだ。
視線を彷徨わせ、そして意を決したように声を潜めた。
「もし、俺が死んだら」
「……!」
「俺の死体は、敵に渡すな」
相馬は息を呑んだ。
部屋の空気が、一瞬にして真空になったような圧迫感。
土方は、相馬を見ずに続けた。
「近藤さんの首は、京の河原に晒された。……奴らはそうやって、俺たちを『逆賊』として見世物にし、自分たちの正義を完成させた」
土方の拳が、膝の上で震えていた。怒りか、無念か。
「俺の首まで渡せば、新選組は完全に『過去の汚点』として処理されるだろう。奴らに完全な勝利を与えてしまうことになる」
「ですが、副長……」
「だから、隠せ」
土方が立ち上がり、テーブル越しに相馬の肩を強く掴んだ。
革手袋越しに、力が伝わってくる。
万力のような力。
「俺の死体が見つからなければ、奴らは永遠に怯えることになる。『土方歳三はまだ生きているのではないか』とな。……俺は死してなお、明治という世の『亡霊』となって、奴らの喉元に棘を残し続ける」
相馬は、土方の目を見た。
そこには、単なる美学や羞恥心ではない、死後すらも戦い続けようとする、凄まじい執念があった。
これは、軍としての命令ではない。
土方歳三という男が、新政府軍に叩きつける、最後の挑戦状だ。
「骨一本たりとも渡すな。誰も知らぬ場所に埋めろ。……それが、お前への最後の命令だ」
「……」
相馬の目から、熱いものがこみ上げた。
止められなかった。
この人は、自分の死体さえも武器にして、まだ戦おうとしている。
その孤独の深さと、強さに、相馬の心が震えた。
「……承知、いたしました」
相馬は血を吐く思いで頷いた。
床に額を擦り付ける。
「必ず……必ず、お守りします。あなたの魂は、指一本触れさせません」
「頼んだぞ」
土方の手が離れた。
温もりが消える。
「行け。……死ぬなよ」
相馬は、顔を上げた。
土方はもう、地図に目を落としていた。
その横顔は、どこまでも美しく、そして冷たかった。
「御武運を」
相馬は部屋を出た。
襖を閉める。
その瞬間、自分の中の何かが断ち切られた気がした。
廊下を歩く。
足音が、やけに大きく響く。
涙は拭わなかった。
これが、今生の別れになることを知っていたからだ。
外に出ると、雪交じりの風が吹いていた。
五稜郭の星型の堀が、闇の中に黒々と横たわっている。
「行くぞ……」
相馬は自分に言い聞かせるように呟いた。
目指すは弁天台場。
死の包囲網の中へ。
副長は、俺たちを守るために死ぬ気だ。
ならば、俺たちは生きて、その亡骸を守らねばならない。
それが、残された者の最後の戦いだ。
相馬主計は、闇夜へと駆け出した。
五月十日の夜が更けていく。
箱館の冷たい風が、終わりの始まりを告げていた。
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