【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

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第5章 箱館の土、副長の密命

2話

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 明治二年、五月十一日。
 早朝。

 箱館はこだて湾に、轟音ごうおんが響き渡っていた。
 新政府軍の軍艦「甲鉄こうてつ」ほか数隻による艦砲射撃が、弁天台場べんてんだいばを揺らしている。
 着弾のたびに、石垣が悲鳴を上げ、土煙が舞い上がった。
 同時に、陸側からも圧倒的な数の敵兵が、ありの群れのように押し寄せていた。

「撃てッ! 寄せるな!」

 相馬主計そうまかずえは、台場の塁壁るいへきの上で叫んだ。
 声がれている。
 小銃隊が一斉射撃を行う。乾いた破裂音。
 敵の先鋒が数人倒れるが、その背後から雲霞うんかのごとき新手が湧いてくる。
 多勢に無勢。
 こちらの弾薬も、水も、尽きかけていた。

「くそッ、きりがねえな」

 隣で、巨漢の男が舌打ちをした。
 島田魁しまだかい
 硝煙しょうえんすすで顔を真っ黒に汚し、手には刃こぼれした刀を握っている。
 銃撃戦が主体のこの戦場で、島田は斬り込み隊長として敵をなぎ倒し続けていた。
 その着物は返り血で赤黒く変色し、鬼のような形相だ。

「島田さん。五稜郭ごりょうかくからの援軍は」

「来ねえよ」

 島田は、遠くかすむ五稜郭の方角をにらんだ。

「見てみろ。一本木関門いっぽんぎかんもんのあたりも火の海だ。……本営も手一杯なんだろう」

 弁天台場は、完全に孤立していた。
 背後は海。前方は敵の大軍。
 逃げ場はない。
 ここで死ぬまで戦うか、あるいは降伏か。
 兵士たちの目には、濃い疲労と絶望の色が浮かんでいた。

「……永井ながい奉行の様子を見てきます」

 相馬は島田に場を任せ、台場の奥にある指揮所へと向かった。
 薄暗い部屋。
 外の轟音が嘘のように、そこだけ奇妙な静寂があった。

 箱館奉行・永井尚志ながいなおゆきは、文机に向かっていた。
 周囲で砲弾が炸裂し、天井から砂が落ちてきても、眉一つ動かさずに筆を走らせている。
 その姿は、戦場の指揮官というよりは、書斎の学者のようだった。

「永井様。……敵の攻勢が強まっています。ここも長くは持ちません」

 相馬が報告すると、永井は手を止めずに答えた。

「そうか。ご苦労」

 平坦な声だった。
 相馬は違和感を覚えた。この男は、死を恐れていないのか。あるいは、別の「何か」を見ているのか。

「……相馬君」

 永井がふと顔を上げ、相馬を見た。
 老獪ろうかいな瞳が、相馬の奥底を探るように光った。

「死に急ぐなよ」

「は……?」

「土方君のような『散る美学』では、国は救えんのだよ。……我々は、泥を被ってでも生き残り、後世に種を残さねばならん」

 永井は、書きかけの書状に目を落とした。
 それは、新政府軍への降伏条件の草案のように見えた。

「戻りたまえ。……無駄死にはするな」

 相馬は一礼して部屋を出た。
 背中に冷たいものが走った。
 あの男は、戦っていない。すでに「戦後」の計算をしている。
 土方歳三が命を燃やして戦っている最中に、この男は冷徹に算盤そろばんを弾いているのだ。

 相馬は塁壁へ戻った。
 戦況は、さらに悪化していた。

「相馬! 弾が切れるぞ!」

 島田が叫ぶ。
 敵の前線が、じりじりと迫ってきている。

 その時だった。
 一人の伝令兵が、泥と血にまみれて転がり込んできた。
 五稜郭からの決死の使いだ。

「ほ、報告ッ!」

 兵の声は、恐怖と絶望で裏返っていた。
 ただならぬ気配に、周囲の銃撃が止む。

「な、何だ。落ち着け」

 相馬が駆け寄る。
 兵は相馬の足にすがりつき、泣き叫ぶように言った。

「土方副長が……ッ!」

 相馬の心臓が、早鐘を打った。
 世界から音が消えた。
 風の音も、砲撃の音も、すべてが遠のいていく。

「副長が、どうした」

「一本木関門にて……戦死なされました!」

 時が、止まった。

「……馬鹿な」

 背後で、島田がうめいた。
 あの巨体が、よろめき、壁に手をついた。

「副長は……孤立した我々を……この弁天台場を救出するために、僅かな手勢で出撃され……敵の銃弾を……」

 兵士の言葉が、相馬の鼓膜を叩く。
 助けに来た。
 俺たちを。
 あの人は、無謀だと分かっていて、それでも見捨てなかったのだ。
 そして、死んだ。

「……あ、ああ……」

 相馬ののどから、獣のような嗚咽おえつが漏れた。
 俺がここにいなければ。
 俺たちがもっと強ければ。
 副長を死なせることはなかった。
 俺たちが、あの人を殺したのだ。

「相馬! しっかりしろ!」

 島田が相馬の胸ぐらをつかんで揺さぶった。
 痛いほどの力。

「泣いている場合じゃねえ! 指揮官が狼狽うろたえれば、全員死ぬぞ!」

「……戻る」

 相馬はつぶいた。
 焦点の合わない目で、島田を見る。

「戻ります。五稜郭へ」

 相馬は島田の手を振りほどき、立ち上がった。
 狂気にも似た、静かで熱い執念。

「約束したんです。……『骨は渡すな』と」

「……!」

「副長の遺体は、今、戦場にある。……俺が戻らなければ、敵の手に落ち、さらし物にされます。それだけは、絶対にさせない」

 相馬は刀のつかを握りしめた。
 自分の命など、どうでもよかった。
 ただ、土方歳三という男の最期の尊厳を守る。そのためなら、地獄の業火ごうかの中だろうと飛び込める。

「馬鹿野郎!」

 島田が怒鳴った。
 その拳が、相馬の頬を張った。

「外を見ろ! ありい出る隙間もない包囲だぞ! 今、ここを出れば蜂の巣だ! 犬死にする気か!」

「それでも、行かねばなりません」

 その時、一人の若い隊士が刀を抜いて駆け寄ってきた。
 田村銀之助たむらぎんのすけ
 まだ十五歳の、土方の小姓だ。
 不釣り合いなほど大きな刀を握りしめ、その顔は蒼白そうはくで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。

「私も行きます! 副長の後を追って、敵に突っ込みます!」

 銀之助が叫び、出口へ向かおうとする。
 死に急ぐ子供の足取りだ。

「待てッ!」

 相馬が銀之助の襟首を掴んで引き戻した。
 少年が土間に転がる。

「放してください! 相馬さん! 僕も新選組です! 副長がいない世の中なんて……」

「死ぬな!」

 相馬の怒号が、銀之助を黙らせた。
 相馬は少年の肩を掴み、真っ直ぐに見据えた。

「銀之助。……お前は生きろ」

「相馬さん……?」

「副長は、お前のような若者が作る、新しい世の中を見たがっていた。……泥を被るのは、俺たちだけでいい」

 相馬は、少年の震える手を強く握りしめた。
 それは、冷たく凍りついた手だった。

「俺たちは影の道を行く。だがお前は、日の当たる場所で生きろ。……生きて、俺たちが何のために戦ったのか、その目で確かめるんだ」

 銀之助の目から、大粒の涙が溢れ出した。
 永井の言葉が蘇る。『後世に種を残さねばならん』。
 皮肉にも、その意味が今は痛いほど分かる。この若者こそが、その種なのだ。

 相馬は手を離し、島田に向き直った。
 島田は、じっと相馬を見ていた。
 何かを噛み締めるような、複雑な表情。
 やがて、ふっと力を抜いた。

「……そうか」

 島田は、落ちていた小銃を拾い上げ、銃床で地面を叩いた。

「分かった。……行け、相馬」

「島田さん……?」

「ただし、正面から突っ込めば即死だ。……裏の海岸線へ回れ。あそこなら、干潮の今なら走れる」

「ですが、そこにも敵の監視が……」

「俺が引く」

 島田は、背負っていた野太刀のだちを抜いた。
 ギラリと光る長大な刃。

「俺が正門を開けて、派手に暴れる。敵の目を一点に引きつけてやる」

「なッ……! それこそ自殺行為です!」

「死にゃあしねえよ」

 島田はニヤリと笑った。
 凄絶せいぜつな、しかしどこか楽しげな笑みだった。

「俺は新選組一の力持ちだぞ? そう簡単にくたばるか。……それに」

 島田は、相馬の胸を拳で軽く叩いた。

「副長の骨を拾えるのは、お前しかいねえ。……行ってこい、相馬」

「……っ!」

 相馬は、言葉を失った。
 この男もまた、土方歳三を愛し、新選組に命を捧げた同志なのだ。
 自分が泥を被り、友に大役を託そうとしている。

「……恩に着ます!」

「急げ! 時間がねえ!」

 島田が叫び、正門の方へと走り出した。
 相馬は逆方向、海側の出口へと走る。

 ドォォン!
 背後で、正門が吹き飛ぶ音がした。
 続いて、島田の大音声だいおんじょうとどろく。

「新選組、島田魁! ここに通るぞォッ! かかってこい!」

 銃声。怒号。
 敵の注意が、一斉に島田へと向く気配がした。

(すまない、島田さん……!)

 相馬は裏門を蹴り破り、砂浜へと飛び出した。
 冷たい海風が頬を打つ。
 足が砂に取られる。
 だが、止まらなかった。

 五稜郭まで、およそ一里。
 敵陣の中を突っ切る、死の狂奔きょうほん

 ヒュンッ!
 銃弾が頭上をかすめる。
 相馬は泥にまみれ、這いつくばり、そしてまた走った。
 肺が焼けるように熱い。
 喉から血の味がする。
 だが、胸の奥にある「約束」だけが、凍えそうな体を動かしていた。

 待っていてください、副長。
 必ず、迎えに行きます。
 あなたの魂を、こんな場所には捨て置かない。

 相馬主計は、修羅となって北の大地を駆けた。
 背後で響く友の咆哮ほうこうを、生涯忘れぬと心に誓って。
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