16 / 41
第5章 箱館の土、副長の密命
3話
しおりを挟む
五稜郭、本営。
相馬が辿り着いた時、そこには深い悲しみが沈殿していた。
あちこちに負傷兵が横たわり、うめき声が響いている。
その中庭に、一台の荷車があった。
側近の安富才助と、小姓の立川主税が付き添っている。二人とも、泥と血にまみれ、泣き腫らした顔をしていた。
「相馬さん……。よくぞ、戻って……」
安富が、亡霊を見るような目で相馬を見た。
弁天台場の包囲を抜けてきたことが、信じられないのだろう。
相馬は答えなかった。答えるだけの息も残っていなかった。
ただ、荷車に歩み寄る。
筵がかけられている。
その下の膨らみが、あまりにも小さく見えた。
「……見せてくれ」
相馬が筵をめくった。
膝をつく。
土方だった。
腹部を銃弾に貫かれている。軍服は鮮血で黒く染まり、あの美しい顔からは血の気が失せていた。
だが、その目は閉じていなかった。
カッと見開かれ、北の空を――いや、敵がいる方向を睨んだまま絶命していた。
鬼の形相。
最期まで戦い続けた、武人の顔だった。
「……副長」
相馬の手が、土方の冷たい頬に触れた。
間に合った。
魂までは、渡さなかった。
島田が命を賭して作ってくれた時間で、俺は約束を守れる。
「……敵が来ます! 早く弔いを!」
立川が叫んだ。
五稜郭もまた、陥落寸前だった。
「運ぶぞ」
「どこへ! 墓地へか!」
「いや、そんな場所はすぐに暴かれる。……誰も知らぬ場所だ」
相馬は立ち上がった。
五稜郭の敷地内。兵糧庫の裏手。
そこに、一本の松があった。
いつぞやの落雷で幹が裂け、黒く焦げた松だ。だが、枯れてなお、空に向かって鋭く突き刺さっている。
(あそこだ)
あの松の下なら、誰も掘り返そうとは思うまい。
そして何より、あの傷ついた松は、今の副長そのものだ。
相馬たちは、土方の遺体を担ぎ上げた。
重かった。
これが、徳川の最後を背負い続けた男の重さか。
砲撃音が近づく中、三人は闇に紛れて遺体を運び、裂けた松の根元を掘った。
道具はない。折れた枝と、素手で土を掻き出す。
爪が割れ、指から血が滲む。
だが、痛みは感じなかった。
土深く埋める。
墓標は立てない。目印も残さない。
土をかけ、その上を踏み固め、枯れ草を撒く。
ただ、その松の姿だけを、相馬は記憶に刻み込んだ。
世界でただ三人しか知らぬ、土方歳三の永遠の眠り場所。
「……おやすみなさいませ」
相馬は額を地面につけた。
涙が、乾いた土に吸い込まれていく。
新選組は、ここで死んだ。
魂を地中に隠し、永遠の眠りについたのだ。
*
五月十八日。
五稜郭、開城。
旧幕府軍は降伏した。
土方の死後、相馬主計は新選組の隊長として指名され、降伏文書に署名した。
最後の局長。
それは栄光の座ではなく、敗戦処理と責任を一身に背負う、生贄の座だった。
縄を打たれ、牢獄へと引き立てられる。
冷たい石の床で、相馬は膝を抱えていた。
外では、勝者である官軍の勝鬨が上がっている。
だが、相馬の耳には届かなかった。
心にあるのは、空虚だけだ。
野村も死んだ。原田も、近藤も、そして土方も。
島田は弁天台場で捕縛されたと聞いた。生きている保証はない。
なぜ、俺だけが生きている。
(……いや)
相馬は顔を上げた。
死ねない理由が、一つだけあった。
あの場所だ。
裂けた松の下で眠る、あの人を守らねばならない。
もし今、自分が死ねば、誰があの場所を守るのか。
時代が変われば、土地が掘り返されるかもしれない。官軍が血眼になって遺体を探し出し、晒し首にするかもしれない。
「……生きねば」
相馬は呟いた。
それは希望の言葉ではなかった。
呪詛にも似た、重い鎖のような決意だった。
生き延びて、どんな恥辱に塗れようとも、俺はこの秘密の墓守として生きる。
牢の小窓から、月が見えた。
その光は冷たく、相馬の痩せた頬を照らしていた。
相馬は目を閉じる。
まぶたの裏には、まだ「誠」の旗が翻っていた。
――こうして、激動の幕末は終わった。
箱館戦争の終結とともに、新選組という狼の群れは散り散りになった。
処刑された者。
獄死した者。
そして、相馬のように流刑地へと送られ、長い冬を耐え忍ぶ者。
だが、物語は終わらない。
種は、雪の下で眠っているだけだ。
*
時は流れ、明治十一年。
東京。
かつて江戸と呼ばれた街は、変貌していた。
銀座には煉瓦造りの建物が並び、瓦斯灯が夜を照らし、人力車が行き交う。
チョンマゲを結った男はもういない。
誰もがざんぎり頭で、洋服を着て、文明開化の音に浮かれている。
その街角の雑踏に、一人の男が紛れていた。
くたびれた法被。
手には、人力車の梶棒。
汗と埃にまみれ、客待ちをしている車屋の一人だ。
通行人たちは、誰も彼を気に留めない。ただの風景の一部として通り過ぎていく。
だが、男がふと顔を上げ、煉瓦街の空を見上げた時、その瞳の奥に、鋭い光が宿った。
飼い慣らされた犬の目ではない。
牙を隠し、息を潜め、時が来るのをじっと待つ狼の目だ。
「……まだだ」
男は低く呟いた。
その声は、雑踏の喧騒にかき消された。
相馬主計は死んだ。
ここにいるのは、新島省吾という名の、過去を持たぬ幽霊だ。
男は客を見つけ、愛想笑いを浮かべて走り出した。
その背中には、誰にも見えぬ「誠」の文字が、今も焼き付いている。
新選組最後の局長、相馬主計。
彼の本当の戦いは、歴史が「明治」と名を変えたこの街の片隅から、静かに、そして密やかに始まろうとしていた。
(第一部 完)
相馬が辿り着いた時、そこには深い悲しみが沈殿していた。
あちこちに負傷兵が横たわり、うめき声が響いている。
その中庭に、一台の荷車があった。
側近の安富才助と、小姓の立川主税が付き添っている。二人とも、泥と血にまみれ、泣き腫らした顔をしていた。
「相馬さん……。よくぞ、戻って……」
安富が、亡霊を見るような目で相馬を見た。
弁天台場の包囲を抜けてきたことが、信じられないのだろう。
相馬は答えなかった。答えるだけの息も残っていなかった。
ただ、荷車に歩み寄る。
筵がかけられている。
その下の膨らみが、あまりにも小さく見えた。
「……見せてくれ」
相馬が筵をめくった。
膝をつく。
土方だった。
腹部を銃弾に貫かれている。軍服は鮮血で黒く染まり、あの美しい顔からは血の気が失せていた。
だが、その目は閉じていなかった。
カッと見開かれ、北の空を――いや、敵がいる方向を睨んだまま絶命していた。
鬼の形相。
最期まで戦い続けた、武人の顔だった。
「……副長」
相馬の手が、土方の冷たい頬に触れた。
間に合った。
魂までは、渡さなかった。
島田が命を賭して作ってくれた時間で、俺は約束を守れる。
「……敵が来ます! 早く弔いを!」
立川が叫んだ。
五稜郭もまた、陥落寸前だった。
「運ぶぞ」
「どこへ! 墓地へか!」
「いや、そんな場所はすぐに暴かれる。……誰も知らぬ場所だ」
相馬は立ち上がった。
五稜郭の敷地内。兵糧庫の裏手。
そこに、一本の松があった。
いつぞやの落雷で幹が裂け、黒く焦げた松だ。だが、枯れてなお、空に向かって鋭く突き刺さっている。
(あそこだ)
あの松の下なら、誰も掘り返そうとは思うまい。
そして何より、あの傷ついた松は、今の副長そのものだ。
相馬たちは、土方の遺体を担ぎ上げた。
重かった。
これが、徳川の最後を背負い続けた男の重さか。
砲撃音が近づく中、三人は闇に紛れて遺体を運び、裂けた松の根元を掘った。
道具はない。折れた枝と、素手で土を掻き出す。
爪が割れ、指から血が滲む。
だが、痛みは感じなかった。
土深く埋める。
墓標は立てない。目印も残さない。
土をかけ、その上を踏み固め、枯れ草を撒く。
ただ、その松の姿だけを、相馬は記憶に刻み込んだ。
世界でただ三人しか知らぬ、土方歳三の永遠の眠り場所。
「……おやすみなさいませ」
相馬は額を地面につけた。
涙が、乾いた土に吸い込まれていく。
新選組は、ここで死んだ。
魂を地中に隠し、永遠の眠りについたのだ。
*
五月十八日。
五稜郭、開城。
旧幕府軍は降伏した。
土方の死後、相馬主計は新選組の隊長として指名され、降伏文書に署名した。
最後の局長。
それは栄光の座ではなく、敗戦処理と責任を一身に背負う、生贄の座だった。
縄を打たれ、牢獄へと引き立てられる。
冷たい石の床で、相馬は膝を抱えていた。
外では、勝者である官軍の勝鬨が上がっている。
だが、相馬の耳には届かなかった。
心にあるのは、空虚だけだ。
野村も死んだ。原田も、近藤も、そして土方も。
島田は弁天台場で捕縛されたと聞いた。生きている保証はない。
なぜ、俺だけが生きている。
(……いや)
相馬は顔を上げた。
死ねない理由が、一つだけあった。
あの場所だ。
裂けた松の下で眠る、あの人を守らねばならない。
もし今、自分が死ねば、誰があの場所を守るのか。
時代が変われば、土地が掘り返されるかもしれない。官軍が血眼になって遺体を探し出し、晒し首にするかもしれない。
「……生きねば」
相馬は呟いた。
それは希望の言葉ではなかった。
呪詛にも似た、重い鎖のような決意だった。
生き延びて、どんな恥辱に塗れようとも、俺はこの秘密の墓守として生きる。
牢の小窓から、月が見えた。
その光は冷たく、相馬の痩せた頬を照らしていた。
相馬は目を閉じる。
まぶたの裏には、まだ「誠」の旗が翻っていた。
――こうして、激動の幕末は終わった。
箱館戦争の終結とともに、新選組という狼の群れは散り散りになった。
処刑された者。
獄死した者。
そして、相馬のように流刑地へと送られ、長い冬を耐え忍ぶ者。
だが、物語は終わらない。
種は、雪の下で眠っているだけだ。
*
時は流れ、明治十一年。
東京。
かつて江戸と呼ばれた街は、変貌していた。
銀座には煉瓦造りの建物が並び、瓦斯灯が夜を照らし、人力車が行き交う。
チョンマゲを結った男はもういない。
誰もがざんぎり頭で、洋服を着て、文明開化の音に浮かれている。
その街角の雑踏に、一人の男が紛れていた。
くたびれた法被。
手には、人力車の梶棒。
汗と埃にまみれ、客待ちをしている車屋の一人だ。
通行人たちは、誰も彼を気に留めない。ただの風景の一部として通り過ぎていく。
だが、男がふと顔を上げ、煉瓦街の空を見上げた時、その瞳の奥に、鋭い光が宿った。
飼い慣らされた犬の目ではない。
牙を隠し、息を潜め、時が来るのをじっと待つ狼の目だ。
「……まだだ」
男は低く呟いた。
その声は、雑踏の喧騒にかき消された。
相馬主計は死んだ。
ここにいるのは、新島省吾という名の、過去を持たぬ幽霊だ。
男は客を見つけ、愛想笑いを浮かべて走り出した。
その背中には、誰にも見えぬ「誠」の文字が、今も焼き付いている。
新選組最後の局長、相馬主計。
彼の本当の戦いは、歴史が「明治」と名を変えたこの街の片隅から、静かに、そして密やかに始まろうとしていた。
(第一部 完)
0
あなたにおすすめの小説
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
狐侍こんこんちき
月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。
父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。
そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、
門弟なんぞはひとりもいやしない。
寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。
かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。
のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。
おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。
もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。
けれどもある日のこと。
自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。
脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。
こんこんちきちき、こんちきちん。
家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。
巻き起こる騒動の数々。
これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる